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はてなキーワード: 1940年とは

2022-05-21

anond:20220521095347

・時期的には1940年まれ大人たちが子どもをそんなに産まなくなった(この世代生涯未婚率悪化していない平和世代)

二次ベビーブーム「おっそうだな」

日本少子化どこから始まってるのか調べてみたら

バブル世代の前から少子化の動きが始まってた

新人類と言われている世代

1960年頃生まれ世代現在60歳あたり

バブル世代1965年からなので日本においての少子化というのは給料問題で始まった訳ではないようだ(現代少子化給料問題は絡んでいる)

であれば、生涯未婚率に注目した方がいいだろうと調べた

生涯未婚率少子化の動きは始まりが連動していることが分かった

1960年女性生涯未婚率が上昇し始めている(生涯未婚率定義1960年段階で50歳時に未婚かどうかの指標だ)

結婚できない女性が増えて1970年に一旦横ばいとなる

派遣法が改悪された90年あたりから再び女性生涯未婚率悪化していく

男は1990年から急激に生涯未婚率が上昇していく

男が結婚できなくなってきたのはバブル崩壊とのタイミングと一致しており、給料問題リンクしていると考えられる

したがって

日本少子化

少子化がはじまったのは1960年から

・時期的には1940年まれ大人たちが子どもをそんなに産まなくなった(この世代生涯未婚率悪化していない平和世代

・はじめは給料問題少子化が起きたわけではないようだ

バブル崩壊派遣法の改悪給料問題が起きるようになってから生涯未婚率少子化も急激に悪化している

現代日本少子化は、収入が低い人が増え結婚できる人が減り、結婚してもそこから子どもを持てる人はさらに減ったという悪循環がもたらしている

2022-05-20

1940年まれ高齢者が貰える年金額は、払った額に対して+3000万円の得。

それに対して2010年まれの子供達は、-3000万の払い損だそうだ。

その差額は6000万で、その辺の若者が4630万円使い込むよりもずっとタチが悪い問題だが、

しか国民にとってはそんなゴシップの方が重要だという。それは計算上の問題というよりは、感情的ものだ。

日本国家予算は107兆5964億円で、4630万はその中の230億分の1ぐらいか

残りはとても優秀な役場政治家が上手く使っていてくれるだろうか?

矛盾だらけだ。しか庶民にとっては、認識できない107兆よりも4630万の方が重要だ。

2022-05-19

1年ごとに漫画の発表量がどんな感じに増えていったかグラフってないかな?

1940年あたりから折れ線グラフ作ると今の増え方に比べると初期のころはほぼ水平で、全部読もうと思えば読むことも不可能ではなかったんだろうなとはおもう

2022-04-27

表現の自由」のため遺体写真無修正報道少年誘拐ホルマリン漬け事件

少年誘拐ホルマリン漬け事件は、中学1年生の少年誘拐殺害され、

遺体バラバラにされて、ホルマリン漬けにされた事件です。

当時は「死者の尊厳」「遺族心情等」よりも、「報道の自由」「表現の自由」が優先されていたため、

被害少年ホルマリン漬けバラバラ遺体新聞無修正掲載されました。

 

・発生日時:1957年4月2日

・発生場所東京都中野区犯人の自宅

被害者:プロレスラー清美川梅之の息子(当時12歳)、犯人12匹の飼い猫など

犯人囲碁棋士(七段)である林有太郎長男、林邦太郎(当時26歳)

 

1957年4月2日午後7時過ぎ、東京都中野区に住む当時12歳の中学生だった少年は、

近所の銭湯の「若松湯」に行きましたが、そのまま自宅に帰ることはなく、行方不明になりました。

警察銭湯からの足取りを追ったところ、行方不明になった4月2日に「若松湯」から

25歳前後の男と一緒に出ていったという目撃情報が出てきました。

銭湯から男と一緒に出ていったという目撃情報以外は手掛かりはなく、

その後も犯人から接触がなかったため、捜査は手づまりとなっていましたが、

4月9日の1本の電話で急展開します。

電話の主は都立桜ヶ丘保養院(精神病院)の精神科医でした。

その精神科医は、患者の1人の言動不審に思い、患者の自宅を訪ねたところ、

患者の自室からホルマリン漬けになった遺体発見したのです。

この患者とは、林邦太郎(当時26歳)でした。

精神科医から電話の後、警察は林邦太郎の自宅に急行し、遺体発見しました。

そして、林邦太郎緊急逮捕されることになったのです。

 

被害者の遺体は、部屋の畳の下から発見されています

遺体バラバラにされていて、2つの金魚鉢にはそれぞれ頭部と両脚、

2つの水槽に胴体と両腕がホルマリン漬けになって入れられて密封されていました。

警察調査で、このバラバラ遺体行方不明になっていた被害者の少年であることが判明します。

当時の新聞遺体写真掲載制限を設けていなかったため、

バラバラにされた少年ホルマリン漬け遺体写真がそのまま新聞掲載されました。

近年の日本では「死者の尊厳」「遺族心情等」を尊重するため、遺体写真掲載はされていません。

しかし当時は一切の配慮なく、バラバラにされた12少年の胴体が修正無しで掲載されました。

報道の自由」「表現の自由」を支持する勢力と、「死者の尊厳」「遺族心情等」を支持する勢力が戦い、

現在は「死者の尊厳」「遺族心情等」を支持する勢力が勝ったために、遺体写真掲載されなくなった歴史があります

 

犯人の林邦太郎少年愛者でした。

事件が発生した4月2日の数日前に、犯人被害者の少年に目をつけ、接触していたことがわかっています

被害少年事件数日前に「さっき、僕の背中を流してくれたあの人(犯人)に、

僕は殺されるかもしれない」と同級生に打ち明けていて、事件から身の危険を感じていたようです。

被害者は既に身の危険を感じていたのに、林邦太郎の家についていってしまったのは、脅されたのかもしれません。

午後9時ごろ、被害者と2人で帰宅した犯人被害者と2人きりになるために、

自分の両親を「銭湯に行け」と言って、自宅から追い出します。

少年と2人きりになった犯人は、少年の服を脱がせていたずらしようとしますが、

少年拒否したため、少年を殴り意識を失わせ、その後首を絞めて殺害しました。

犯人被害者を殺害後に、2日間かけてノコギリや出刃包丁小刀などで遺体バラバラします。

そして、金魚鉢や水槽を買ってきて、その中に少年遺体ホルマリン漬けにして密閉し、鑑賞していたのです。

 

犯人の林邦太郎4月1日から日記をつけていました。

「ついに捜し求めていた理想少年を見つけた。住所・氏名を聞いた。必ず連れ出そう。必ず。」

金魚鉢に入ったあの子は、見ても見ても飽きるということがない。

 ホルマリン漬けになったあの子は生きているときより、

 いっそうかわいい。親父たちがいるから、もったいないけど昼間は床下に隠す。

 でも隠す前には必ずサヨナラを言うんだ。でも、別れのたびに、つらい・・・

少年愛者で歪んだ性愛を持つ林邦太郎に、被害者の少年は「理想少年」として映ったようです。

実際に、被害者の少年美少年として有名だったという情報もあります

 

少年誘拐ホルマリン漬け事件は、被害者・犯人の双方の親が有名人だったことも、

事件が大きく報道された1つの要因と言えます

 

被害者の少年父親は、元力士プロレスラー清美川梅之さんです。

伊勢ケ浜部屋に入門し、1934年1月場所初土俵を踏んだ後は、1940年に新入幕、

1942年には横綱双葉山に土をつけて金星を挙げています1943年には幕内優勝も果たしました。

美男力士として人気でしたが、1946年には廃業しています

被害者の年齢から計算すると、現役時代に息子(被害者)が生まれています

結婚後は1953年プロレスラー転向し、全日本プロレス旗揚げして、国際プロレス移籍しています

国際プロレス1956年消滅しますが、その後は世界を転戦しました。

この世界転戦中に、少年誘拐ホルマリン漬け事件が起こります

 

犯人の林邦太郎父親は、囲碁棋士の林有太郎です。

1956年には第1期囲碁選手権決勝に進出し、1962年には首相争奪戦で優勝するなど、トップ囲碁棋士として長く活躍しています

1969年九段に昇格し、羊羹誤嚥して亡くなる当日まで現役最年長棋士として活動していました。

少年誘拐ホルマリン漬け事件犯人の林邦太郎は、1931年に生まれます。そして、1953年明治大学商学部卒業しています

林邦太郎少年誘拐ホルマリン漬け事件の前から少年に目をつけていたずらをしていました。

道を歩いている男の子をいきなり抱きしめたり、自宅に300冊以上ある少年雑誌や漫画などを餌にして

言葉巧みに家に誘って連れ込んだりしていたようです。

図書館でいきなり少年に抱きついたこともあるという情報もあります

また、猫を12匹飼っていて、その猫たちを殺してしまい食べたことが判明しています

林邦太郎は、上記のような異常性を見せていて、極度の精神障害が認められたため、

少年誘拐ホルマリン漬け事件を起こす前には精神病院入院していました。

林邦太郎の姉も精神障害を抱えていたようです。

 

林邦太郎1958年7月懲役10年の実刑判決を受けました。1968年出所しているはずです。

2022-03-08

anond:20220308150638

はい増田君に宿題です。

以下のリスト全てに、「先に仕掛けたほうが負けた」かどうか回答しなさい。

1904年1905年 - 日露戦争

1911年1912年 - 伊土戦争

1912年 - 第一バルカン戦争

1913年 - 第二次バルカン戦争

1914年1918年 - 第一次世界大戦

1917年1922年 - ロシア内戦

1917年1921年 - ウクライナソビエト戦争

1918年1919年 - ウクライナポーランド戦争

1918年1919年 - ハンガリールーマニア戦争

1919年1921年 - アイルランド独立戦争

1919年1921年 - ポーランドソビエト戦争

1919年 - 第三次アフガン戦争

1919年1922年 - 希土戦争

1921年 - コト戦争

1922年1923年 - アイルランド内戦

1926年1949年 - 国共内戦

1931年1933年 - 満州事変

1932年1938年 - チャコ戦争

1934年 - サウジイエメン戦争

1935年1936年 - 第二次エチオピア戦争

1936年1939年 - スペイン内戦

1937年1945年 - 日中戦争

1938年 - 張鼓峰事件

1939年 - ノモンハン事件

1939年1945年 - 第二次世界大戦

1939年1940年 - 冬戦争

1941年1944年 - 継続戦争

1941年1945年 - 独ソ戦

1941年1945年 - 太平洋戦争

1945年1949年 - インドネシア独立戦争

1945年1954年 - 第一次インドシナ戦争

1946年1949年 - ギリシャ内戦

1948年1971年 - 印パ戦争

1947年1949年 - 第一次印パ戦争

1965年1966年 - 第二次印パ戦争

1971年 - 第三次印パ戦争

1948年 - 第一次中東戦争

1956年 - 第二次中東戦争

1967年 - 第三次中東戦争

1973年 - 第四次中東戦争

1948年~(継続) - パレスチナ紛争

1948年~(継続) - ミャンマー紛争

1949年~(継続) - 東トルキスタン紛争

1950年1951年 - チベット紛争

1950年~(継続[1])- 朝鮮戦争

1954年1962年 - アルジェリア戦争

1955年1972年 - 第一スーダン内戦

1956年 - ハンガリー動乱

1959年 - チベット動乱

1959年1962年 - 中印国境紛争

1959年1975年 - ラオス内戦

1960年1965年 - コンゴ動乱

1960年1996年 - グアテマラ内戦

1960年1975年 - ベトナム戦争

1961年 - ピッグス湾事件

1961年 - ゴア併合

1961年1962年 - 西イリア紛争

1962年1969年 - 北イエメン内戦

1962年1963年 - ベネズエラの反乱

1963年1968年 - アルジェリアモロッコ国境紛争

1963年1964年 - キプロス内戦

1963年1966年 - インドネシアマレーシア紛争

1964年~(継続) - コロンビア紛争

1965年 - ドミニカ内戦

1965年1979年 - ローデシア紛争

1965年1984年 - チャド内戦

1967年1970年 - ビアフラ戦争

1968年 - プラハの春チェコ事件

1969年 - 中ソ国境紛争

1969年 - サッカー戦争

1969年1998年 - 北アイルランド紛争

1969年~(継続) - フィリピン紛争

1970年 - ヨルダン内戦

1971年1992年 - カンボジア内戦

1971年~(継続) - カシミール紛争

1973年 第四次中東戦争

1974年 - キプロス紛争

1975年1989年 - ナミビア独立戦争

1975年1990年 - レバノン内戦

1975年 - インドネシア東ティモール侵攻

1975年2002年 - アンゴラ内戦

1976年~(継続) - 西サハラ紛争

1977年1979年 - ウガンダタンザニア戦争

1978年1988年 - オガデン戦争

1979年 - 中越戦争

1979年1989年 - ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻

1979年1990年 - ニカラグア内戦

1980年1992年 - エルサルバドル内戦

1980年1988年 - イランイラク戦争

1980年~(継続) - ペルー紛争

1982年 - フォークランド紛争

1983年2004年 - 第二次スーダン内戦

1983年 - グレナダ侵攻

1983年2009年 - スリランカ内戦

1979年1990年 - 中越国境紛争

1986年1987年 - トヨタ戦争

1987年~(継続) - ブルンジ内戦

1988年1994年 - ナゴルノ・カラバフ戦争

1989年2001年 - アフガニスタン内戦

1989年1992年 - 第一南オセチア紛争

1989年 - パナマ侵攻

1989年1990年 - エチオピア内戦

1989年1996年 - リベリア内戦

1990年1994年 - ルワンダ紛争

1990年1991年 - 湾岸戦争

1991年2001年 - シエラレオネ紛争

1991年2000年 - ユーゴスラビア紛争

1991年 - 十日間戦争

1991年1995年 - クロアチア戦

1992年1995年 - ボスニア紛争

1999年2000年 - コソボ紛争

2001年 - マケドニア紛争

1991年2001年 - ジブチ内戦

1991年2002年 - アルジェリア内戦

1991年~(継続) - ソマリア内戦

1991年~(継続) - カザマン紛争

1992年 - オセチアイングーシ紛争

1992年1994年 - アブハジア紛争

1994年 - イエメン内戦

1994年1996年 - 第一次チェチェン紛争

1995年1998年 - ハニーシュ群島紛争

1996年1998年 - 第一コンゴ戦争

1998年2000年 - エチオピア・エリトリア国境紛争

1998年2002年 - 第二次コンゴ戦争

1998年2001年 - ポソ宗教戦争

1999年2009年 - 第二次チェチェン紛争

1999年 - 東ティモール紛争

1999年 - カルギル紛争

2000年~(継続) - インドネシア紛争

2001年~(継続) - パキスタン紛争

2002年2003年 - コートジボワール内戦

2003年 - リベリア内戦

2003年2011年 - イラク戦争・Category:イラク戦争

2003年~(継続) - ダルフール紛争

2004年~(継続) - サリン紛争

2004年~(継続) - タイ紛争

2004年~(継続) - ワジリスタン紛争

2006年 - 東ティモール内乱

2006年 - イスラエルガザ侵攻・レバノン侵攻

2006年 - エチオピアソマリア侵攻

2006年2009年 - スリランカ内戦

2008年 - 第二次南オセチア紛争グルジア紛争

2008年2009年 - イスラエルガザ紛争

2011年 - シナ紛争

2011年 - リビア内戦

2011年~(継続) - シリア内戦

2012年~(継続) - マリ北部紛争

2013年 - スールー王国軍によるラハダトゥ侵攻

2014年 - ISISによるイラク内戦

2014年 - イスラエルガザ侵攻

2014年〜(継続) - クリミア危機ウクライナ東部紛争

2014年2020年 -2014年リビア内戦

2015年〜(継続) - 2015年イエメン内戦

2017年 - マラウィの戦い

2020年 - 2020年ナゴルノ・カラバフ紛争

2021年 - パンシール紛争

2022年 - 2022年ロシアウクライナ侵攻

2022-03-04

anond:20220301134149


大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年昭和15年5月29日 - 2013年平成25年1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町(出生地樺太敷香郡敷香町、第48代横綱本名は納谷 幸喜(なや こうき)であるが、出生名はイヴァーン・ボリシコ(Иван Маркиянович Борышко)で、ウクライナ人の父の血を引いている。一時期は母親再婚によって住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていたこともあった。

父のマルキャン1885年1888年ウクライナ東部ハリコフ県ザチピーロフカ地区ルノフシナ村に生まれた。ロシア帝国による極東移住の呼びかけに応じた農民の両親とともに、樺太に入植した。1917年ロシア革命が起こると、北樺太アレクサンドル・クラスノシチョーコフの極東共和国に組み込まれた。1918年北部州都アレクサンドロフスク市のロシア移民未亡人結婚して一女をもうけた。その後、極東共和国が消滅北樺太社会主義化が進むと、

革命政権を嫌って1925年にマルキャンは単身で日本治政下の南樺太の大泊(現:コルサコフ)へ亡命した。

2022-02-28

TBSエストニアポリコレと俺

TBS

TBS燃えている。4日前の2月24日駐日エストニア大使館TBS NEWSツイートに「TBSさん,またですか..いいかげんエストニアラトビアリトアニアを“旧ソビエトの国“と呼ぶのはやめてもらえます歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国ソビエト継承国家ではないです。2月24日エストニア104回目の独立記念日本日から、もうこの呼び方はやめていただきたいです」とリプライたからだ。

https://twitter.com/estembassyjp/status/1496798387856834561

エストニアと言えば把瑠都仮想通貨しか知らない俺も、うっかりエストニアを「旧ソ連」と呼んで国際問題召喚しかねない。保身のために「エストニア旧ソ連じゃない問題」について検索してみた。

エストニア

「まとも検索」で「エストニア 旧ソ連」を検索すると、政府国立機関のページが見つかる。バルト三国は「旧ソ連」と呼ばれているのか?

外務省 わかる!国際情勢(2011年) 「現在エストニアは,バルト三国もっと経済状況が良好で, 2011年1月旧ソ連の国として初めてユーロを導入しました。」

https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/wakaru/topics/vol80/index.html

国立国会図書館 リサーチナビ(2022年2月更新)「旧ソビエト連邦構成国(ロシアエストニアラトビアリトアニア以下略)の鉄道地図掲載されています

https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/post-371.php

日本政府公認旧ソ連である専門家が書いた本なら如何と志摩園子氏の「物語バルト三国歴史」(2004年)を手に取れば、「旧ソ連邦に属していた三国は、新たな国家建設に当たって(以下略)」と開幕即旧ソ連判定である

では逆に何故、「旧ソ連」と呼ぶのが「不正確」なのか?この本に沿って俺なりにまとめると、今のエストニアにあたる地域は、18世紀くらいかロシア帝国に支配されていたのだが、ロシア革命後の1918年独立宣言した(※国際的承認は1920~21年)。しか1939年ナチスソ連秘密協定勝手ソ連勢力圏と決められてしまい、1940年6月にはソ連軍に占領された。そして逆らう奴らは逮捕追放され、占領下で選挙実施して人民議会を開き、この議会ソ連編入を決めた、ということらしい。要はエストニアソ連軍に占領されながら「ソ連に加盟します」と言わされたわけで、ぐうの音も出ない茶番であるリトアニアラトビアも同様の茶番ソ連に「編入」している。

エストニアに言わせれば、こんなふざけた経緯の「ソ連編入」が無効違法なのは明々白々、俺たちバルト三国は半世紀間「占領」されていただけなので旧ソ連呼びは「歴史的にも法律的にも不正確な呼び方です。バルト諸国ソビエト継承国家ではないです。」ってツイートにつながるんだろう。

けど実際1991年までは政治行政経済ソ連の一部として回ってたんで、日本外務省専門家が「旧ソ連」と呼ぶのも当然と言えば当然。無茶苦茶なやり口で併合されたとはいえ、実際ソ連だったんだもん。

ポリコレ

なぜ駐日エストニア大使館は「行き過ぎ」とまで思えるほどブチギレたのか?「アジア経済研究所」というJETRO付属研究所が出している雑誌アジア経済」に、ロシア政治研究者バルト諸国政治研究者中央アジア政治研究者座談会2021年7月30日収録)が載っている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajiakeizai/62/4/62_79/_html/-char/ja

バルト諸国政治研究者中井遼氏が「旧ソ連問題を語っている:

中井「それと,最近やりにくいなと思うことがあって,「旧ソ連」というとすごく怒る方がいるんです。日本だと目立たちませんが,英語圏だと議員外務省メディアが一緒にキャンペーンをはって,former Soviet Union とか ex-Soviet states といった呼称を使った記事表現に対してものすごい勢いで抗議運動をやるんです。まだアカデミックなところではそこまで来ていませんけど,私ですら多少の圧力は感じますし,現地の研究者と話していると大変そうだなと思います。」

岡(※中央アジア政治研究者)「なるほど,これは地域名称の難しさですね。」

中井バルト 3 国のなかで,とくにエストニアラトビアは,そもそも国家理念としてソ連だったことはないという建前なんですよ。」

要はエストニア大使館の怒りのツイートは、エストニア外務省の「キャンペーン」の日本編なのであるこれはまさに政治的に正しいか否かという問題——いわゆる「ポリコレ」なのでは?と雑に納得すると専門家に叱られるだろうか。「歴史戦」チックな問題なのかもしれない。

どっちにしても、駐日エストニア大使館の言い分はあまりにも強気だ。「エストニアソ連だったことはない」という歴史認識は別に世界アカデミック常識って訳でもなさそうなのに、「旧ソ連」呼びを「不快からヤメテ」ではなく「歴史的にも法律的にも不正確」とまで断じているんだからグルジアジョージアになったのとは根本的に質が違う要求だし、「呼ばれたくない呼び方はやめようね!」程度の問題だと考えてるなら、エストニア歴史認識を実のところ解っていないままってことになる。

俺としては、日本外務省日本バルト三国専門家バルト三国を「旧ソ連」と呼んでいるわけで、TBSがここまで炎上したのは可哀想な気がする。エストニア政府歴史認識を尊重すれば「旧ソ連」と呼ばないのが親切かつポリティカリーにコレクトだけど、無茶苦茶併合とはいえバルト三国旧ソ連の一部だったことは確かだし、オウムの件のように明らかにTBSが悪い事件まで持ち出してぶっ叩くほどのことかというと疑問。けど炎上のおかげで俺のような無関心人(むかんしんちゅ)までバルト三国歴史にちょっぴり詳しくなったんだし、エストニア外務省の「旧ソ連と呼ぶな」キャンペーンは今のところ成功していそうだ。

それにエストニアキャンペーンを抜きにしても、「旧ソ連」という枕詞はそろそろお役御免かも。TBSは「バルト三国」の知名度が低いと感じて「旧ソ連」を加えたんだろうが、専門家をもってして今や「普通民主主義経済的に安定した国」(座談会中井氏)と言わしめる国々をいつまでも旧ソ連」と呼び続けるのは、間違いじゃなくとも何か変な感じだ。

...ここまで書いてから気付いたんだが、「エストニア政治歴史認識」(著者小森宏美氏)というどうやらそのものズバリの専門書が発売されているらしい。

http://www.sangensha.co.jp/allbooks/index/240.htm

結論、皆は把瑠都仮想通貨しか知らない増田怪文書なんかより信頼のおける専門家先生方の本を読もう!!!

2022-02-26

anond:20220226204250

中華民国盧溝橋事件1937年から8年耐えきって独立維持と日本軍追放と、満州国つぶしに成功しましたな。

まあ、日本太平洋でボロ負けしたからだけど。

ちなみに、フランスシャルル・ド・ゴールパルチザン1940年ドイツ侵攻から5年耐えきったな。

anond:20220226162533

1940年日本人は、アメリカ占領されたら大変なことになる!って思ってたんだから別にこの先中国占領されても大したことないようにも思える。

2022-02-06

anond:20220206010731

まぁ敗戦したらほとんどの人は中国につくでしょ。

1940年日本人に、5年後にはアメリカ支配を受け入れてるっすよ、って言っても誰にも信じられないだろうけど、実際はそうなってるわけで。

2022-02-01

囲碁用語概念たち名鑑(追記更新あり)

追記追記編と初手編、日常用語編、国際編、人物編、二眼の説明を加えた。

anond:20220131231934インスパイアされてやってみた。

省力のために一部wikipediaから引用も交えながら独自解説を記した。

基本編

  • 追記】 目(もく) 盤面の交点のこと。一目、二目と数える。この目を囲った多さを競うゲーム囲碁である
  • 追記】 呼吸点 石から出ている線のこと。盤上にある石は呼吸点を全て塞がれると取られてしまう。囲碁説明でよくある「囲むと取れる」という表現を詳らかにすると呼吸点を塞ぐと取れる、と表現できる。
  • アタリ あと一手で石が取られてしま状態のこと。あの超有名なゲームメーカーアタリの由来である
  • 着手禁止点 打った瞬間に取られてしまう地点
  • 捨て石 敢えて石を相手に取らせることで取られた損失以上の成果を得ること。損失のほうが大きい場合は捨て石とは言わない。
  • 凝り形 効率が悪く、働きの悪い形のこと
  • 眼 石に囲まれ空間のこと。石が盤上に生存するためにはこの空間が2つ必要になる。
  • 欠け目 眼っぽく見えるが眼としての要件を満たしていない眼のこと

追記】 初手、隅の名称

三々(さんさん)

盤の端から数えて横からも縦からも3・3の地点。

一手で隅をほぼ専有できてしまう反面、中央から遠く発展力やスピードに欠ける。

小目(こもく)

ヒカルの碁で「右上隅小目」というセリフが有名。

江戸時代以前の古くから打たれている手であり三々よりは中央に近く、星よりは地に近いバランスの取れた手。

隅を占めるのに二手かかるのが欠点

4・4の地点で碁盤の目印のある部分のこと。

後述の昭和の新布石時代からよく打たれるようになった手。それ以前は置碁くらいでしかまり見られなかった。

隅を一手で済ませられ、地には甘いが中央スピード重視の手。

地に甘いというのは、相手に三々に入られるとほとんど地を奪われてしまうためである

高目(たかもく)

マニア向け。あまり打たれない

目外し(もくはずし)

マニア向け。あまり打たれない

天元

碁盤の中央の星のこと。あまり打たれない

碁盤において、この地点がもっとも高い地点であり、端は地面という概念となっている。

概念

実利

後述の厚みが確定地ではない未来への投資であるのに対し、序盤から陣地になる可能性が高い場所を実利という。

実利をとれば厚みを作られ、厚みを作ると実利をとられるという表裏一体な関係にある。

厚み

盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である

「厚み」は「薄み」に対する対義語である囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手攻撃される可能性を持っている状態を指す。

これに対して強力な「厚み」は相手から攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。

模様

大きな地になりうる可能性のある勢力圏のことを指す。多くの場合、隅から辺、中央へ広がるものを呼ぶ。

手割り

手の善悪を測るために本因坊道策が編み出した手法

手の順番や形を変え、定石等と比べることで本来の形に対して余計な石があることなどを評価し、効かし効かされを判断する。

布石

布石

1933年昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁布石スタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。

またAlphaGoの台頭以後、新布石時代に負けるとも劣らない布石の変化が囲碁界を席巻している。

例えば星への三々入りを序盤に行うの「ダイレクト三々」は相手に厚みを与えるため不利と言われていたがそれが平然と行われるようになった。

連星

隣り合った隅・辺・隅の星を占める布石である。辺を打たず、隣り合った隅の星を占めるのは二連星と呼ばれる。中央に大きな模様を張ることを主眼としたスタイルで、武宮正樹が有名な使い手である

中国

安永流ともよばれる。星・小目・辺の星脇を組み合わせた配置である

小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。

本格的な中国流の開祖安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本逆輸入された。

ミニ中国

中国流の狭いバージョン

右上空き隅、小目、相手の星へのカカから星脇へのヒラキまでの一連の配置を指す。下図下辺の黒の配置がミニ中国である。右上隅の着点は必ずしも決まってはいないが、星との組み合わせが最もよく打たれる。平成期に流行した構えだが、すでに400年ほど前に本因坊道策が試みていた。このため道策流とも呼ばれる。

追記ダイレクト三々

序盤早々、周囲にまだ石がない段階で、相手の星に対して直接に三々に打ち込んでいく手段を指す。かつては全く考えられていなかった戦法だが、AlphaGoなどの人工知能がこの手を打つことから注目され、人間棋士の間でも広く採用されるようになった。ダイレクト三々の名称は、2018年5月から河野臨によって週刊碁の連載のタイトルに使われ、定着した。

手筋編

シチョウ

囲碁基本的な手筋のひとつであるアタリ連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしま状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。

ゲタ

ゲタは、囲碁において相手の石を取る手筋の一つ

シチョウの追いかける先に相手の味方の石がある場合シチョウが成立しないので、この手を選ぶことが多い。

相手の石にフタをするように斜めに置き動きを封じる。

ウッテガエシ

一旦相手のふところに石を打ち、一度は取られてしまうが取った後の姿がアタリになっていてすぐに相手の石を取り返すことができる。

「捨て石」の最も基本的かつミニマルな活用である

イオトシ

漢字表記では「追い落とし」となる。 ツグ手を打っても引き続きアタリになり、取られてしま状態をいう。別名をトントン、ツギオトシバタバタとも。

オキ

相手の石にも自分の石にも触れないような位置に、文字通り「置く」ように打つ手のこと。動詞では「置く」となる。多くの場合一線や二線など辺の低い位置の、敵陣の急所に打つケースを指す。

オシツブシ

相手の二団以上の石を同時にアタリにし、二眼を確保する手段文字通り相手を押しつぶすイメージであることからつけられた。着手禁止点を利用して生きる手筋である

シボリ

相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手アタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。

ダメマリ

ある石のダメが詰まることで、各種の不都合が生じる状態を指す。「ダメの詰まりは身の詰まり」という囲碁格言があるように、不必要ダメを詰めてしまうことは身の破滅につながり、碁において戒められる事柄ひとつである

駄目については後述。追記編を参照。

サルスベリ

ヨセ(終盤のこと)において相手の陣地を侵食するための鮮やかな手筋。

一見繋がってないようなところに打つのだが、見事に繋がっていて相手の地をかなり減らすことができる。

英語ではMonkey jumpという。

死活編

追記】 二眼(にがん)、石の生き死に

盤上にある石の一団は二眼(空間が2つ)ないとゆくゆくは駄目(呼吸点)が詰まり必ず取られてしま運命にある。

これはルールとして定められているというよりは、石は呼吸点を有してないと取られる、着手禁止点には打てないという2つのルールから導かれる定理のようなものである

2つ眼があると、駄目が最低でも2つある状態と着手禁止点が2つある状態存在するため、着手禁止点を同時に2つ塞ぐことはルール上できないので必ず取られない最強の存在となるのである

この取られない石の状態のことを「生きている」と言い、この「生きている石」の内側の領域が陣地となる。

この石の生き死にさえ理解できれば、初心者の、どっちがどっちを囲んでるのか、これは内側も外側も囲んでると言えるのではないか、という疑問は消えるだろう。

ウチカキ

相手にそこを継がれると眼となる部分に先行して打って欠け目にすること。

「打って欠く」(打ち欠く、あるいは内欠く)の意

中手

相手にそこに打たれると完全な二眼ができてしまう部分に先行して打てなくする、相手の石の一団を殺す必殺の手。

自分の石から関係

シマ

隅に打った既存の石から陣地を確保するためにもう一手かけて領域の守りを固める手

カカ

相手シマリを妨害する位置に置くこと

一間トビ

ひとつ隙間を空けて打つ手

二間トビ

ふたつ隙間を空けて打つ手

ウマの顔

一間トビに置いてある形から、直角方向にふたつ空けて打つ手

●┼┼┼

┼┼┼★

●┼┼┼

ケイ

将棋桂馬の動きのような位置に打つこと

ゲイ

将棋桂馬の動きからさらに1歩進めて打つこと

コス

既存の石の斜めに置くこと。「秀策のコスミ」が有名。

ハザマ

自分の石の斜めひとつ空けた場所に置くこと。●から見て★の手のこと。

●┼┼

┼┼┼

┼┼★

相手の石への関係

ツケ

相手の石の隣にくっつけて置くこと

ハサミ

相手の石を挟むように置くこと

タツ

相手の石の斜めに置くこと

キリ

相手の石のつながりを断つように斜めに打つこと

ノゾキ

相手の石のつながりを、次の手で断つぞという位置に置くこと

ハネ

相手の石を跳ねるような位置に斜めに置かれる石

オサエ

相手の石がそれ以上侵入してこないようにせき止める位置に置く石

オシ

相手の石を押すように平行に打たれる石

定石編

ツケヒキ定石

小目にカカられた石へツケてひく、簡明かつ最も基本的な定石

大斜定石

目外しへのカカから発生する定石を指す。派生する変化型が多く、複雑な戦いになることから、大斜百変、大斜千変とも呼ばれる、難解定石の代表的もの天保頃より特に研究が進み、現代でも多くの変化が生まれ続けている。

ナダレ

小目への一間高ガカリに下ツケする形から発生する定石を指す。最初から接触戦となり、また変化型が多い難解定石の代表の一つ。石が接触しながら戦いになっていく様を「ナダレ」と形容された

村正妖刀

小目への一間高ガカリに二間高バサミして生ずる一連の変化を指す。難解で未解明部分も多く、また変化型が多いために誤ると自らも傷を負うところから村正にちなんでこの名が付いた。大斜、大ナダレとともに三大難解定石とされる。

追記編(忘れてた編)

タケフ

竹の節のような並び。

一間空けて2:2で平行に並んだ形で、その間をどちらかを相手に打たれたらもう片方で繋がれるので絶対に切られることがない。

コウ

本来仏教用語未来永劫の劫。

仏教用語ではひとつ宇宙が始まって終わるまでの途方も無い長い時間のこと。

囲碁においては、どちらかが譲らない限り永遠に循環してしま特別な形があり、その形をコウと呼ぶ。

コウの形で石を取られた側はコウをすぐに取り返してはならず、一手別の場所へ打つ必要がある。

アゲハマ(揚げ浜、揚げ蛤)

取った相手の石のこと、またはその石を置いている場所

通常、白石ハマグリのくり抜きによってできているがそれが語源か。しらんけど

追記日常用語慣用句に使われてる編

捨て石

冒頭で説明

定石(じょうせき)

限られた局面特に序盤においてある程度決まった一連の手の応酬のこと。

定石は手練の碁打ちの長い研鑽研究により成り立つもので、お互いに必然の手を打ち、双方ほぼ互角のワカレとなるのが定石の前提である

駄目(ダメ

日常でも使われている「ダメ」の語源

どちらの陣地にもならないどうでもいい地点の事を指すことから日常用語に転じた。

または、石から出ている呼吸点(全部塞がれると相手に取られてしまう)のこと。

ダメマリはこのダメが詰まる、呼吸ができなくなる事を言う。

死活問題

囲碁において死活問題とは、相手の石を殺す、あるいは自分の石を活かすための問題クイズ)のことである

玄人素人(くろうと・しろうと)

現代では上手(うわて)が白を持つが平安時代期には強いほうが黒を持っていた。

そのため

黒人(くろうと)→玄人(つよい人)

白人しろうと)→素人へぼい人)

と転じたと言われている。

岡目八目(傍目八目)

自分第三者となった視点で戦いを見ると手がよく見える、あるいはそう錯覚すること。

岡目は高い場所あるいは傍目の意味

八目の八は八百屋と同じで具体的な数字ではなく多さを表す。

一目置く

一目は一子(石ひとつ)の意。

囲碁においては強さに差がある場合相手より多く先に石を置いた状態で始めることから相手の実力を認め敬意を示す意味に使われるようになった。

手抜き

手を省くこと。

力を抜くことではなく、相手の打った手に付き合わず、その場所よりも価値の高い場所へ向かうことを言う。

追記】 国際編

日本ルール中国ルール

囲碁はいくつかルールがあり、基本的には江戸期~昭和期まで囲碁第一人者であり、世界囲碁を広めた日本ルールが用いられている。

日本ルールは盤上の囲った陣地(目)のみをポイントとするのに対し、中国ルールではそれを含め置いた石の数もポイントになる。

この2つの大きな違いは、日本ルール自分の陣地に自分の石を置くことがマイナスとなるのに対し、中国ルールではマイナスにならない点である

このことが死活に関わる局面や終盤の局面での手入れ、手抜きにおいて大きな違いを生む。

日本ルールでは曲がり四目と呼ばれる形が出現した場合、手を入れるのがマイナスになるためそれが死であることの証明を用いないと議論が生じる。

そのため中国ルールのほうが初心者に優しく、コンピューターにも優しい。

他には日本ルールでも中国ルールでも禁止されている自殺手がOK!というルールもある。

追記人物

徳川家康

碁打衆を保護、「御城碁」の基盤を築く。近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。(日本棋院表彰ページより引用

とし、2004年囲碁殿堂入り

本因坊算砂

永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日

江戸幕府は囲碁ならびに将棋庇護役職俸禄を与えていた。

江戸幕府における囲碁の最高位だけにとどまらず、将棋の最高位も得た二刀流

大橋宗桂との将棋対局は将棋現存する最古の棋譜でもあり将棋界においても重要人物の一人。

本因坊道策

正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日

手割りや布石など、数々の発明を生んだ天才棋士史上最強という呼び声も高い。

本因坊秀策

文政125月5日〈1829年6月6日〉 - 文久2年8月10日1862年9月3日

ヒカルの碁で著名。

黒番なら負けなしと当時最強の棋士である

本因坊秀哉

1874年明治7年6月24日- 1940年昭和15年)1月18日

家元制においての最後本因坊

またタイトルとなる前の、「名人一世に一人」の終身名人時代最後名人でもある。

引退後に本因坊名跡日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。2008年囲碁殿堂入り

藤沢秀行

1925年6月14日 - 2009年5月8日

藤沢一就八段の父であり、藤沢里菜五段の祖父

「オマ●コ」発言など、昭和棋士らしい数々の破天荒エピソードが有名。

数々のタイトルを獲得したレジェンドである

棋聖 6期 (1977-82)

名人 2期 (1962・70)

王座 5期 (1967-69・91-92)

天元 1期 (1975)

ぷよ

ここまでの読了お疲れ様でした。

ぷよ碁という初心者にもわかりやすアプリが出来ていたので興味が湧いた人はぜひやりましょう

https://puyogo.app/

2022-01-18

ブラックジャックは連載当時30代後半

ってことは1940年まれくらいだから、いま80歳くらいか

2021-11-02

anond:20211102135518

bogus-simotukare 菅直人1946年まれ)より年上である自民幹部の二階(1939年まれ)や麻生1940年まれ)の名前が出ない時点で「自民信者ネガキャン乙」としか何だかなあ

テレビ菅直人がそう言ってたんで菅直人だけ名前を出したが他の候補者は知らん

言ってたなら代わりに批判してくれ

俺は聞いてない以上決めつけて名前は出せん

(まあ立候補してるんだから当然言ってるとは思うが万が一のこともあるんで)

 

あとちゃんと読めばわかると思うが各党若い奴より高齢者を優先すんなって趣旨で書いてるが読解力がないなら知らん

2021-08-21

アウシュヴィッツプールと『パサジェルカ』

ホロコーストは嘘」って主張自体が嘘である、と言うことは日本ではあまり知られていない。せいぜいが「ホロコースト否定してはいけない」程度の認識であるようだ。私ほどの物好きでもない限り、そのファクトチェックを行うという面倒なことをする人は滅多にいないから仕方ない。欧米否認論の本場なので、否認論に対抗する人もそれなりにいて「ホロコーストは嘘」自体が嘘であることはそこそこは知られているようであるTwitterなどで状況が意外と簡単にわかる。

 

だが「嘘」と言っても、その実態はややこしい。そのほとんどは事実を用いた印象操作のようなものであり、細かな具体的主張それ自体が嘘そのものであることは少ないかである。いわばホロコースト否定論はその主張をする人が意図的無自覚であるかは別として「詐術」なのであるしかし、あなたの知性が正しく働いているのならその詐術に騙されることはない。例をあげよう。

 

アウシュヴィッツプール

アウシュヴィッツには遊泳プール存在し、親衛隊員や囚人水球で楽しく遊んでいたという事実まで存在する。アウシュヴィッツ収容所地獄のような過酷収容所ではなかったのか?」というものである。後段の疑惑はともかく、これは事実であり、確かにアウシュヴィッツには遊泳プール存在し、元囚人の手記によると親衛隊囚人水球などで楽しんでいたようである

 

先に結論を言うと、遊泳プールがあったからと言って、アウシュヴィッツ収容所地獄のような過酷収容所であった事実は変わらない。登録囚人限定しても(登録されずに殺されたユダヤ人が圧倒的に多いが)、毎月数千人単位で死者が出る収容所だったのである。だけど、そう説明されたところで、遊泳プール存在は思っていたアウシュヴィッツイメージ全然違い、かなり違和感があると思う人もいると思う。実は肝心なことは「思っていたアウシュヴィッツ収容所イメージ」なのである。そしてこのプールの話は、実際、相当色々とよく知っていないと納得しづらい人もいて当然だと私も思う。

 

まりに何もかもをここで説明するのは無理なので、アウシュビッツ収容所のみに限定して簡単解説する。アウシュヴィッツ収容所ポーランドにあり、1940年5月ごろから実質的スタートした強制収容所である最初は、ユダヤ人のためではなく、政治犯主体として収容するための強制収容所であり、ドイツ人ポーランド人などが収容されていた。翌年1941年6月を過ぎると独ソ戦によって発生した赤軍捕虜が大量に収容されるようになっていく。が、この赤軍捕虜に対する扱いはあまりにも非道であり、特に政治将校はその大半が銃殺刑で処分された。いわゆる国際法ガン無視のコミッサール司令である。また、アウシュヴィッツで行われた最初ガス室での殺害犠牲者はこのソ連捕虜だった。そして、元のアウシュヴィッツ強制収容所からキロ離れたところにあるビルケナウ捕虜収容所建設が始まると、そのソ連捕虜建設労働に駆り出され、一万人くらいいたはずのソ連捕虜の大半は一年も経たずに大半が過労・餓死などで死んでしまったのである

 

ユダヤ人については、当初からユダヤ人も含めて政治犯として収容はされていたものの、囚人登録もせず収容もしないで収容所到着時にそのままガス室送りにしてしまう、いわゆる「ユダヤ人絶滅」がアウシュヴィッツで始まるのは1942年3月からであり、ビルケナウの敷地外にある農家を改造したガス室(ブンカーと呼ばれる)で最初一年くらいは実施されており、1943年3月にクレマトリウムと呼ばれる火葬場が完成すると、その後はビルケナウのクレマトリウムで行われるようになっていく。アウシュヴィッツの基幹収容所ガス室は併設された火葬場の火葬能力が低いこともあり、実は絶滅にはほとんど使われておらず、1942年末でガス室使用を終了している。ともかく、ビルケナウ収容所でのユダヤ人ガス室での大量殺害は、ヒムラーが中止命令を出す1944年10月末ごろまで続いた。ガス室ではトータルで100万人程度虐殺されたと言われている。

 

もちろんだが、ガス室での殺害は何も囚人にさえしてもらえなかった非登録ユダヤ人だけではない。最初の選別では老人や14歳以下の子供、子持ちの女性などが労働不適格としてガス室送りにされたが(概ね到着したユダヤ人の75%、ただし選別条件に当てはまるのに例外的囚人登録された人もいた)、囚人登録されたところでその大半は3ヶ月程度で役立たずになりガス室送りになるか病棟バラック注射で殺されたりもした。こうした収容所内での「選別」は常時行われており、その選別方法親衛隊の選別の担当長が適当恣意的に選んでいるだけなのが実態だった。親衛隊員による囚人への暴行日常茶飯事であり、殴り殺すことさえ珍しくなかった。些細なことでも見せしめ的に処刑されたし、収容所内での配給食料だけに頼っていたらすぐに死んでしまうほど食料の質も劣悪だったりもした。

 

……とまぁ、これだけ酷い話を聞いていたら、「プールで遊ぶなど考えられない」と思う人がいても全く不思議ではないと思う。プール存在に対する疑念はこのアウシュヴィッツ悲惨イメージとあまりにかけ離れているから生ずるのだ。だが……。

 

遊泳プール存在アウシュヴィッツ残酷場所だったことを示す

このプール詐術に引っかかる人は、人間が斯様にも残酷になれるということを理解出来ていないのである。ここで一つ解説を加えておくと、このプール絶滅の行われていた現場であるビルケナウではなく、アウシュヴィッツ基幹収容所の方にあったが、元々の目的防火用であり、完成したのは1944年8月ごろである推定される(フランクフルトアウシュビッツ裁判証言にある)。収容所親衛隊員は、ユダヤ人囚人に命じて飛び込み台を作らせ、遊泳プールとしても使えるようにした。で、このプールを利用して遊んでいたのは親衛隊員と、上級囚人だけだったのである上級囚人とはユダヤ人でない囚人のことであり、おそらくは過酷労働をしていなかった囚人であるカポなどであろう。つまりは、大半の囚人毎日酷い目にあっているそのすぐ側で、収容所生活を存分に謳歌している人たちがいたというのが事実なのであるビルケナウの方ではサッカーでさえ楽しんでいたそうだし、有名なアウシュヴィッツオーケストラ演奏会をさせたり、囚人劇団まで作らせて劇場で公演させたりもしていた。また親衛隊員は当然として上級囚人も、ユダヤ人ら下等囚人食事量・質とも全く違ったし、親衛隊員は恣意的食品などを横流しさえしていた。さらに、ユダヤ人が持ってきた私物(「再定住させられる」と言って騙されて連れてこられているのだから、それらはユダヤ人の全財産と言っていい)を全部収容所の方で掻っ攫うのであるけれど、そこから横領しない親衛隊員などいなかったと言われるほどである(ただし横領は発覚すると厳罰処分が下される)。

 

もちろん、囚人たちの多くはそうした私腹を肥やす親衛隊員たちの行動や、プールなどを楽しんで収容所生活謳歌している姿も知っていた。だから戦後地元法廷で、少ないとはいえ裁かれた親衛隊について証言者となった元囚人たちのほとんどは、それら親衛隊被告非道ぶりを存分に告発したのである

 

「単なる印象」にあまりに弱すぎるネット否定派達。

ほんとに否定論の細かい具体的な主張ってこの手の話があまりに多い。例えば「ガス室の扉が木製だなんておかしいじゃないかアメリカ死刑ガス室は鉄製の部屋でありドアだって厳重なハンドルまでついていて非常に厳しい毒ガス管理をしているくらいだ。あんな木製の簡易な扉だったらガス漏れして外にいる人まで死んでしまうに違いないから、あれがガス室だったなんてあり得ない」ってのがある。んでこの話、たくさんの米国死刑専用ガス室写真とともに出回っている。

 

えー、青酸ガス発生用に使っていたチクロンB害虫駆除用として当時一般に広く使われており、それなりに密閉処理さえすれば「どこでも」使えた。それなりの密閉処理とは空気漏れ起こしそうなドアの隙間などにダクトテープを貼る程度のものであるアウシュヴィッツ収容所にも、殺人ガス室以外に衣服などのシラミ駆除のための専用ガス室複数存在し、現在現存しているが、それらのガス室の扉も殺人ガス室と同じ木製扉であり、気密には隙間にフェルトが貼られているだけであるチクロンB製造であるディケシュ社の文書にも別に木製扉がダメだとは書いてない。専用の頑丈な鉄製のガス室しか青酸ガスを発生させられないような害虫駆除剤だったとしたら、当時一般的に広く使われたはずがないだなんて、少し考えればわかることなのに。

 

「じゃぁ何故米国処刑ガス室あんなに頑丈そうに出来ているのか?」と聞かれたって答えは知らないが、それなりの要求仕様があるとか昔からの慣習であるとか、何か理由があるからであろう。でもそーういうことは否定派さんは全く調べない。いずれにしても、実際にチクロンは当時広く使われていたのだから米国処刑ガス室構造は、アウシュヴィッツガス室に関しては何の参考にもならないのである。どうしてそんな見た目の単なる印象に過ぎないことが、アウシュヴィッツガス室否定する理由になるのか?

 

『パサジェルカ』

今年はホロコースト映画公開が少し多いようだけど、一つとして見に行こうとは思わなかった。あんまり興味が湧かなかったからだけど、しか最近、古い映画にすごいホロコースト映画があるのを発見した。YouTube全編上がっているのだけど、惜しいのはポーランド映画であり全編ポーランド語でさっぱり言語がわからなかったりすることだ。日本でもDVDは発売されてるけど、買ってまで見ようとは思ってない。しかし何が凄いって、何気に再現度が凄い。興味がなければ何のことはないシーンだけど、ガス室にガスを投入する作業のシーンが思ってた通りの再現だった。ガス室というかクレマトリウムはすでに破壊されてなかったからわざわざセットで作ったのかと思うと尚更すごい。何気にあのチクロン投入煙突位置が正確なのも素晴らしい。未完成監督が死んでしまい、友人達で残っていた映像繋ぎ合わせただけらしいけど、唐沢寿明の『白い巨塔』よりもずっと前にアウシュビッツ収容所ロケ地に使っていた映画存在したというのも発見だった。

PASAŻERKA - POLSKI FILM PSYCHOLOGICZNY HD, WYSTĘPUJĄ: ALEKSANDRA ŚLĄSKA (SOUS-TITRES FRANÇAIS)

2021-08-11

anond:20210810233938

不勉強すぎて草

このあたり読め

ワイみたいな底辺KKOでも知ってるレベルだぞ

仏印進駐

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

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1941年サイゴン市内の日本軍

仏印進駐(ふついんしんちゅう、仏: Invasion japonaise de l'Indochine)とは、第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ仏領印度支那)への日本軍の進駐のことを指す。1940年北部仏印進駐と、1941年南部仏印進駐に分けられる。1907年に締結された日仏協約が事実上無効化し、さら南部仏印進駐日米関係の決定的な決裂をもたらした、太平洋戦争への回帰不能であると評されている

2021-08-10

まだ生きていてもおかしくない歴史上の人物

三島由紀夫1925年生)

ポルポト1928年生)

手塚治虫1928年生)

ブルースリー1940年生)


このへんはまだ生きててもおかしくないと知って驚いた記憶がある。三島由紀夫現代政治コメントしたり、手塚治虫がこないだの『ルックバック』読んだりしててもおかしくないと思うとちょっと現実味がないんだよな。

他にこういう人いたら教えて欲しいです

2021-07-20

呪われてるっていうけど

組織委員会の話ね

 

https://mainichi.jp/articles/20210719/k00/00m/050/325000c

呪われてるってからには、組織委員会を呪う人がいるはずなんだけど、だれ?

 

平将門東京呪いって言えばこの人

    ただ五輪関係の開発で首塚荒らしたという話は聞かない

②周期…麻生さんの説 1940年東京五輪1980年モスクワ五輪ボイコットを「40年ごとに問題が起きた、呪われたオリンピック」と発言 当たり過ぎて怖い

    40年周期を1年ずらした程度では呪いから逃げられなかった(2年ずらしが正解?)

ザハ・ハディッド競技場コンペ案でお馴染み 呪う資格がある

    インポッシブルアーキテクチャー展 https://bijutsutecho.com/exhibitions/5030 で展示された競技実施設計図集には、設計チームの巨大な情熱(もしくは呪い)がたしかに込められていた

    ただ御本人は香港ピー時代からボツには慣れてる模様

 

よって、呪いを鎮めるため、くまっちの便座競技場は即取り壊し、ザハ案を40年ごとに建て替えて首塚を祭るしかない

2021-07-15

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い3

https://anond.hatelabo.jp/20210708183653字数制限に達したので書ききれなかった分はここに付け足しま

ISILに関する記述もありますが、テロを賛美する意図は一切ありません。あくま事実として記載しただけです。無論、ISIL惨敗した戦闘もあります。決してISILを格好いいと思わないでください。

古代

・ペルシス門の戦い

 B.C330 アレクサンドロス大王東方遠征 ペルシア軍700vs★マケドニア軍1万7000

 マケドニア軍の大軍に対し、ペルシス門を少数の守備隊が1か月守り抜いた。マケドニア軍は現地の住民から得た情報を元に挟撃することでようやく勝利を収めた。

中世

マリツァの戦い

 1371年 オスマンセルビア戦争 ★オスマン軍800vsセルビア軍2万~7万

 セルビア軍は大軍を率いて、オスマン帝国の首都エディルネへの奇襲を試みた。しかし、オスマン軍の夜襲に遭い敗退した。

近世

ペンコの戦い

 1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチ連合軍500vsマプーチェ族1万5000~2万

 スペイン軍はペンコに砦を築いた。マプーチェ族は大軍で包囲するが、攻城兵器もなく砦を突破できなかったため、兵を引いたところをスペイン軍に追撃される。マプーチェ族は4000人が戦死し、捕らえられた200人は鼻と耳をそがれた。

・チャカンの戦い

 1660年 マラータ王国800vs★ムガル帝国2万

 ムガル軍がマラータ軍を包囲。1ヶ月の攻防戦の末にマラータ軍は包囲した。マラター軍の死傷は300人、ムガル軍の死傷者は3000~5000であった。

・スラトの戦い

 1664年 ムガル帝国1000vs★マラータ王国8000~1万

 スラト市をマラータ軍が襲撃、3日間の攻撃の末、同市は6日間略奪の対象となった。ムガル軍の死傷者は28人、マラータ軍の死傷者820人であった。

・サラタの戦い

 1699~1700年 マラター王国300vs★ムガル帝国1万 

 サラタ市をムガル軍が包囲、数ヶ月にも及ぶ包囲戦の末に陥落させ、守備隊も玉砕したが、ムガル軍は3500人が死傷した。

・トルナの戦い

 1704年 マラータ王国700~800vs★ムガル帝国1万5000

 ムガル軍がマラータ軍を包囲、トルナ市を陥落させた。マラータ軍の死傷者は170~180、ムガルの死傷者は300であった。

近代

・コーレーガオンの戦い

 1818年 第三次ラー戦争 ★東インド会社750vsマラータ王国2万8000

ラータ軍とイギリス軍交戦、丸一日の激戦の末にマラータ軍が撤退した。イギリス軍の死傷者175人に対し、マラータ軍の死傷者は500~600人であった。

ブラッド・リバーの戦い

 1838年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ664(200人が非戦闘員)vsズールー軍1万5000~3万

 フォールトレッカーズ(英領ケープ植民地から南ア北部へのブーア人移民)がズールー族の大軍交戦撃退した。ズールー族3000人以上の戦死に対し、ブーア人はわずか3人が負傷したのみであった。

・ヴェコプの戦い

 1836年 グレート・トレック ★フォールトレッカーズ35vsマタベレ軍5000

 マタベレ軍がフォールトレッカーズを襲撃するも、撃退された。マタベレ184名の戦死に対し、ブーア人は2名が戦死した。マタベレは戦闘には5万500頭の家畜強奪することに成功した。

・チンハットの戦い

 1857年 インド大反乱 東インド会社700vs★反乱軍7000

 イギリス軍反乱軍鉢合わせし、敗退するが、全滅は免れた。イギリス軍の死傷者は200人ほどで、反乱軍の死傷者は589名であった。

・トゥエンクアン包囲戦

 1884~1885年 清仏戦争 ★フランス軍630vs清・阮朝1万2000

 フランス軍が清軍に包囲されるが、4ヶ月持ちこたえた末に撃退した。フランス軍の死傷者274名に対し、清軍の死傷者は3000名以上であった。

ドガリの戦い

 1887年  エリトリア戦争 イタリア軍550vs★エチオピア軍1万5000

 エチオピア軍の大軍イタリア軍大隊を襲撃。イタリア軍はほぼ全滅したが、エチオピア軍も1071名が戦死した。

現代

・サポティラルの戦い

 1927年 サンディー戦争アメリカニカラグア占領)・バナナ戦争 アメリカ軍・ニカラグア政府軍20vs★サンディニスタ400人以上 

 アメリカ軍・ニカラグア政府軍撃墜された米軍パイロット2名の救出に20派遣する。救出隊は途中でゲリラ待ち伏せに遭い、奮戦するも撤退し、作戦は失敗した。救出隊は4人が死亡したが、ゲリラは40~60名が死亡し、1人捕虜となった。

・フォルネブの戦い

 1940年 ノルウェーの戦い 第二次世界大戦 ノルウェー軍7vs★ドイツ軍70~80

 ノルウェー航空部隊ドイツ空軍交戦ノルウェー軍は戦闘機1機、ドイツ軍は4機撃墜されたが、ノルウェー軍の燃料が尽きたため、戦闘ドイツ軍勝利に終わった。

ビルハケイムの戦い

 1942年 北アフリカ戦線 第二次世界大戦 自由フランス軍3703vs★ドイツイタリア軍4万5000

 ロンメル将軍指揮下の枢軸軍自由フランス軍の籠城する砦を包囲、16日間の激戦を経て、砦を占領した。フランス軍の死傷者369名に対し、枢軸軍の死傷者は3300名に及んだ。この戦いはイギリス第8軍の撤退と再建のための時間を稼ぎ、エル・アライメンの戦いでの連合軍勝利につながった。チャーチルド・ゴールは勿論のこと、ヒトラーですらフランス兵の勇気を称えた。

・ヴェロニク作戦

 1955年 アルジェリア戦争 FLN359vsフランス軍5000+航空支援

 フランス軍FLN活動鎮圧するため爆撃を伴った大規模な掃討作戦実施する。FLNゲリラ戦で1か月以上抵抗した後に撤退した。ゲリラ側の死者は9名で、鎮圧の失敗はFLNの影響力を大いに高め、アルジェリア独立につながった。

・ヴェラノ作戦

 1958年  キューバ革命 ★7月26日運動300vsキューバ軍1万2000

 バティスタ政権反乱軍鎮圧のために軍を差し向ける。しかし、カストロチェ・ゲバラ指揮下の反乱軍返り討ちに遭った。この戦いで反乱軍の指揮は大いに上がり、バティスタ打倒に繋がった。

サンタクララの戦い

 1958~1959年 キューバ革命 ★7月26日運動340vsキューバ軍3900

 反乱軍はヒジャ・クララ州の首都サンタクララ攻撃、4日で占領した。その直後バティスタドミニカ亡命し、キューバ革命成功した。 

・ドゥヴロブニク包囲戦

 1991年から1992年 クロアチア紛争 ★クロアチア軍480~1000vsユーゴスラヴィア軍7000

 ユーゴスラヴィア軍はクロアチア軍を7ヶ月に渡って包囲するが、陥落できず撤退した。この戦いで1万5000人以上の難民が出た。

サパティスタの反乱

 1994年 サパティスタ民族解放軍3000vsメキシコ軍3万~4万

 メキシコ最貧州チアパス先住民たちが北米自由貿易協定NAFTAによる貿易関税撤廃に反対、一斉蜂起した。政府ゲリラを包囲し、徹底的な鎮圧を試みるが、反乱が世間の注目を浴びると、一転、停戦を呼び掛けた。両者の間で先住民権利文化尊重するサンアドレア協定が結ばれた。

ファルージャ陥落

2013年 ★ISIL200~300vsイラク軍1万人以上

 ファルージャ市をISILが襲撃。1週間足らずでイラク軍を撃退し、同市を占領した。

モスル陥落

2014年 ★ISIL800~1500vsイラク軍1万2000

 ISILモスル市を襲撃。1週間足らずで陥落させた。イラク軍は6万人で防衛に当たったと主張しているが、実際にはその2割ほどの兵力しか無かったと推定される。

バイジ奪還

 2014~2015年 ISIL1500以上vs★多国籍軍1万5000+米英加の航空支援

 イラク軍は1年弱にも及ぶ激戦の末にバイジ市をISILから奪還した。ISIL2000人以上が戦死したが、イラク軍も2500人以上が死傷した。

・ラマディ陥落

 2014~2015年 ★ISIL150~600vsイラク軍6000

 ISILがラマディ市を襲撃。5ヶ月の激戦の末に同市を占領した。

2021-07-08

圧倒的な戦力差にも関わらず勝利善戦した戦い 2

前回のリストhttps://anond.hatelabo.jp/20210707223409字数制限に達したようなので、書ききれなかった分はここに付け足します。前回はたくさんのブックマークコメントありがとうございました。https://anond.hatelabo.jp/20210715114737も参照ください

古代

・第二次合肥の戦い

 214年 三国時代 曹操軍★7000vs孫権10

 孫権は自ら軍を率いて曹操軍の籠城する合肥城を攻める。しかし、張陵の奮戦に苦しめられた挙げ句、疫病の発生により撤退余儀なくされた。更に張陵に追討ちをかけられ、命からがら逃亡した。

中世

・沙苑の戦い

 537年 南北朝時代 ★西魏1万vs東魏20

 西魏軍は葦原に身を隠し、東魏軍の列が乱れたところを一斉攻撃する戦法で勝利した。東魏軍は6000名が捕らえられ、7万人が捕虜となった。

パリ包囲戦

 885~886年 ★西フランク王国200vsヴァイキング3万~4万

 西フランク王国首都パリヴァイキング大軍が包囲。フランク人達は1年にもわたる激しい抵抗を繰り広げ、やがてカール3世率いる援軍が到着したため、ヴァイキング撤退した

多々良浜の戦い

 1336年 南北朝建武の乱 ★足利1000vs菊池軍1万

 博多へ侵攻する菊池軍と足利尊氏が遭遇。菊池軍に離反者が相次ぎ、敗北した。

ベオグラード包囲戦

 1440年 ★ハンガリー軍3500vsオスマン軍3万~5万

 オスマン帝国はハンガリー王位を巡る内戦に乗じてセルビアへ侵攻、ベオグラードを包囲した。ハンガリー軍は5ヶ月に渡って抵抗し、これを退けた。

・クルヤ包囲戦

 1450年 オスマンアルバニア戦争 ★アルバニア8000vsオスマン10

 スカンデリベグ率いるアルバニア軍がオスマン帝国に包囲された。アルバニア軍は敵軍の補給を断ち、士気の低下と病気流行に苦しめられたトルコ軍撤退した。

近世

ベオグラード包囲戦

 1456年 ★ハンガリー軍4000vsオスマン軍3万~40万

 コンスタンティノープルを陥落させたトルコ軍は勢いに乗じて、ハンガリーへ侵攻するが、ベオグラード英雄フニャディ・ヤノーシュの活躍の前に敗れ去る。

・ヘミングステットの戦い

 1500年 ★ディットマルシェーン500~1000vsデンマーク軍1万2000

 ディットマルシェーンの農民達がカルマ同盟に対して反乱を起こす。農民達はバリケードを築き、土地を氾濫させたため、デンマーク軍は数的優位を活かせなかった上、大勢溺死したため、撤退した。

・ロドス包囲戦

 1522年 聖ヨハネ騎士団6700vs★オスマン帝国8万~12

 ロドス島支配する聖ヨハネ騎士団オスマン帝国が包囲。半年にも及ぶ激戦の末に騎士団降伏シチリア島へ移った。トルコ軍にも2000~5万の死傷者が出た

・クーセグ包囲戦

 1532年 ハンガリー軍700~800vsオスマン12万~20

 ウィーン遠征へ向かうトルコ軍ハンガリーの小さな町クーセグを包囲。貧弱な装備ながらも守備隊は25日間抵抗し続け、ハプスブルクの援軍を恐れたスレイマン1世撤退した。ハンガリー軍最後まで降伏しなかったという説と降伏を受け入れたが少数のトルコ人しか砦に入れなかったという説がある。

カステルヌーヴォ包囲戦

 1539年 スペイン軍3500vs★オスマン軍5万

 現モンテネグロの町カステルヌーヴォをバルバロス率いるトルコ軍が完全包囲。スペイン軍降伏勧告無視し、1ヶ月にも及ぶ激戦の末に100名を除いて全滅したが、トルコ軍8000から2万人が戦死した。

・アンドリエンの戦い

 1550年 アラウコ戦争 ★スペイン・ピウンチ連合軍500vsマプーチェ族2万人

 マプーチェ族はスペイン軍に夜襲を仕掛けるが、スペイン軍は警戒を怠らなかったため、返り討ちにされ、3000人が戦死した。

・エゲル包囲戦

 1552年 ★ハンガリー軍2000vsオスマン軍3万5000~4万

 イシドヴァーン・ドヴォ率いるハンガリー軍トルコ軍に包囲されるも、厚い防壁、イシドヴァーンのリーダーシップトルコ軍の内部対立に助けられ、防衛成功した。

マラッカ包囲戦

 1568年 ★ポルトガル軍数百vsアチェ軍1万5000

 アチェ王国ポルトガルからマラッカを奪還しようと大軍派遣し包囲するが、3000人以上の犠牲者を出して敗北した。

・ファマグスタの戦い

 1570年~1571年 オスマンヴェネツィア戦争 ヴェネツィア8500vs★オスマン10万~12

 キプロスクリスチャン最後の砦ファマグスタが1年近く激しい抵抗を繰り広げた後に降伏した。ヴェネツィア軍は7600人が戦死し、トルコ軍は1万~2万人が死傷した。当初トルコ軍は砦内のクリスチャン安全保証するもその約束反故にし、ヴェネツィア人たちを虐殺し、指揮官ブラガディンは耳と鼻を削がれた上、皮剥の刑に処された。

・英賀合戦 

 1577年 戦国時代中国攻め ★小寺軍500vs毛利軍5000

 織田寄りの小寺氏を討伐するため、毛利大軍派遣する。しかし、小寺軍は敵が上陸した直後を奇襲した。更に農民達に旗を挙げさせ、それを敵の援軍と勘違いした毛利は兵を引いた。

・クヴォダンスコの戦い

 1577年~1578年 クロアチア軍300vs★オスマン軍5000~1万 

 クロアチア都市クヴォダンスコをトルコ軍が包囲した。防衛軍は3ヶ月に渡って籠城し、3度の大規模な攻撃を退けた。守備隊が全員餓死若しくは凍死した後にトルコ軍は砦を占拠し、敵兵の遺体を手厚く葬った

・石城合戦7月) 

 1578年 ★伊東軍600vs島津軍7000

 伊東軍が建設した石城を島津軍が包囲する。しかし、石城は三方を急流、背後を険しい崖に覆われた天然の要塞であったため、島津は一度撤退した。伊東軍の死者10人に対し、島津軍は500人が死亡し、大将島津忠長も重傷を負った。2ヶ月後島津軍は1万人の大軍派遣して城を堕とした。

・ナジカニジャ包囲戦

 1601年 ★オスマン軍9000vsハプスブルク6万5000~10

 現ハンガリー都市ナジカニジャをハプスブルク大軍が包囲。オスマン軍は潤沢な物資があるように見せかけながら防衛戦を繰り広げ、73日目に奇襲攻撃を仕掛けた。これを敵の援軍と勘違いしたハプスブルクは軍を撤退させた。

・パバンカインドの戦い

 1660年 マラータ軍600vs★ビジャープル軍1万

 マラータ王国の台頭を警戒したビジャープル王国は討伐のために軍を派遣する。マラター軍はビジャープル軍の追撃から国王シヴァジーを逃がすため、狭い砦で命がけの戦いに挑んだ。この戦いで両軍とも兵力の半分を失ったが、シヴァジーは逃亡に成功した。

・ハドウの戦い

 1694年 ポーランドオスマン戦争 ★ポーランド軍400vsクリミア・ハン軍4万

 ポーランドポジーリャに侵入したタタール軍とポーランド軍が激突した。ポーランド軍は木製の柵で守りを固め、弾薬が尽きれば、モンゴル軍の矢を打ち返すなど奮戦し、撃退した。ポーランド軍の損害は100名足らずに対して、タタール軍は1万人以上であった。

アナントプルの戦い

 1700年 ★シク教1000vsムガル軍1万

 シク教の台頭を恐れたムガル帝国は討伐軍を派遣する。しかし、グル・ゴービンド率いるシク教徒たちに敗れる。

・ナフプリオ包囲戦

 1715年 ヴェネツィア軍4500vs★オスマン軍7万人

 現ギリシアの町ナフプリオをヴェネツィアトルコから奪還することに成功し、更にパラミディ要塞建設し、防衛強化に努めた。しかし、トルコ大軍に包囲され、1週間ほどで陥落し、住民達は虐殺されるか囚人として連行された。しかし、この戦いでトルコ軍8000人以上が戦死した。

・ガングワナの戦い

 1741年 マールワール軍1000vs★アンベールムガルバラプールなど連合軍1万~4万

 マルワール王国はアンベール王国戦争に敗れ賠償金土地要求されるが、国民が怒ったため、報復戦争を開始する。マールワール軍の騎兵ははアンベール軍を強襲し、蹴散らすものの、ムガル軍の砲撃によって敗北した。マールワール軍は全員が戦死するか負傷したが、連合軍12000人が負傷した。

近代

レイバー橋の戦い

 1855年 第二次フランス・トラルザ戦争 ★フランス軍14vsトラルザ軍1000人

 セネガルセントルイスを繋ぐレイバー橋をトラルザ軍が襲撃するも、14名の守備隊に撃退された。フランス軍は3名が負傷しただけであったが、トラルザ軍は127名が死傷した。

・第二次長州征伐

 1866年 ★長州軍3500vs江戸幕府10万5000

 江戸幕府将軍徳川家茂自ら軍を率いて長州討伐に出征する。しかし、西洋化が進められた長州の装備に苦しめられた挙げ句、家茂が病死したため、撤退した。

カブール英国居住地の包囲

 1879年 第二次アフガン戦争 イギリス軍75vs★アフガン2000

 カブール英国居住地に居たピエールカヴァナリ郷をアフガン人が襲撃した。護衛達は奮戦し、600人死傷させたが、2名を除いて戦死した。

・マイワンドの戦い

 1880年 第二次アフガン戦争 イギリス軍2500vs★アフガン軍2万5000

 アフガン人とイギリス軍が激突、数で勝るアフガン人が勝利を収めた。しかし、イギリス軍の死者1000人に対し、アフガン軍の死傷者は1万人以上と勝者の払った犠牲も大きかった。

・シャンガニ・パトロール

 1893年 第一次マタベレ戦争  イギリス南アフリカ会社37vs★マタベレ軍3000

 イギリス南アフリカ会社は現ジンバブエのマタベレ王ロベングラの逮捕のために軍を派遣するが、待ち伏せに遭い3名を除いて全滅した。しかし、マタベレも400~500名が戦死した。

サンファンデルモンテの戦い

 1896年 フィリピン革命 ★スペイン軍100vsカティナン800~1000

 マニラの東サンフアンフィリピン独立を求める秘密結社ティナン武装蜂起を起こすが、スペイン軍に敗れ撤退した。この戦いがフィリピン独立戦争の始まりとなった。

カカロン・デ・シリの戦い

 1897年 フィリピン革命 ★スペイン軍600vsフィリピン6000

 ブラカンフィリピン人がカカロン共和国設立宣言し、砦を築いた。スペイン軍は討伐軍を派遣し、砦を攻略した。反乱軍の残党達はスペインに対してゲリラ抵抗を続けることとなる。

・サラガリの戦い

 1897年 ティ作戦 イギリス領インド帝国軍21vs★パシトゥーン人1万人

 ティ地方アフガン人がイギリスに対して反乱を起こし、サラガリ駐在していたイギリス軍を襲った。イギリス軍は全滅したものの、アフガン人も450名が死傷した。

サンタ・クルス包囲戦 

 1898年 フィリピン革命 スペイン軍700vs★フィリピン軍1万

 ラグナスペイン軍最後拠点サンタ・クルスホセリサールの兄パシアノ・リサールが包囲した。スペイン軍は2ヶ月に及ぶ抵抗フィリピン軍に大損害を与えたが、降伏した。

・ベーラー包囲戦

 1898~1899年 フィリピン革命 スペイン軍50vs★フィリピン軍800

 教会に立て籠もったスペイン軍フィリピン人達が1年にわたって包囲する。スペイン軍フィリピン軍が700名の兵力を失う程激しく抵抗し続けたが、スペイン本国が敗れたことを知り投降した

現代

・ウェンギエルスカグルカの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド1200vs★ドイツ軍1万7000

 ドイツ軍ポーランド軍の防衛するウェンギエルスカグルカ村を通過する際にポーランド軍と2日間交戦する。ドイツ軍勝利したものの、多大な犠牲を強いられ、ポーランド軍の戦死者は7~20名、7名が処刑された。

・ヴェステルプラッッテの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド205vs★ドイツ軍2600

 ドイツ軍自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテ半島攻撃ポーランド軍は1週間に及ぶ激戦の末に降伏ポーランド軍の死傷者67名に対し、ドイツ軍の死傷者は300~400名であった。

ウィズナの戦い

 1939年 第二次世界大戦ポーランド侵攻 ポーランド軍350~700vs★ドイツ軍4万2000

 ドイツ軍ウィズナ村を通過した際にポーランド軍の激しい抵抗に苦しめられた。3日間の死闘ポーランド軍は壊滅したが、ドイツ軍も1400名の死傷者を出した。

ミルの戦い

 1940年 第二次世界大戦 オランダ侵攻 オランダ2000vs★ドイツ軍3万

 ドイツ軍ミル村を通過する際にオランダ軍の激しい抵抗に遭った。ドイツ軍勝利したが、500人以上が死傷し、オランダ軍は80人が死傷した。

・ソーミュールの戦い

 1940年 第二次世界大戦 フランス侵攻 フランス軍2500vs★ドイツ軍4万

 フランス軍の訓練生達がドイツ軍攻略に2日間抵抗した。フランス軍の死傷者250に対し、ドイツ軍の死傷者は400名で戦車も7両破壊された。訓練生達の勇気ドイツ軍指揮官クルト・フェルトですら賞賛した。この戦いはペタン元帥停戦呼びかけの後に行われたため、最初レジスタンスであるとされる。

・ニリムの戦い 

 1948年 パレスチナ戦争 ★イスラエル軍39~45(内12女性)vsエジプト軍500~800

 イスラエルキブツ共同体)ニリムエジプト軍が包囲した。エジプト軍装甲車航空機などの支援を受けて攻撃したが、イスラエル軍の防御を突破できず撤退した。

・3234高地の戦い

 1988年 ソ連アフガン侵攻 ★ソ連軍39vsムジャヒディーン、パキスタン軍450~650

 3234高地配備されたソ連空挺隊がムジャヒディーンの襲撃を受けた。ソ連軍は34名の死傷者を出しながらも200名以上を殺害し、撃退した。

・ヴコヴァルの戦い

 1991年 クロアチア紛争ユーゴスラヴィア紛争 クロアチア軍1800vs★ユーゴスラヴィア・SAO36000

 クロアチア東部都市コヴァルをユーゴスラヴィア軍が87日間にわたって包囲した。クロアチア軍は大半が死傷し、多くの民間人虐殺追放されたが、ユーゴスラヴィア軍も3600人が死傷し、戦車武装車両1100両以上と航空機3機が破壊された。

2021-06-19

anond:20210619185659

エヴァとかff7とか90年代流行ったコンテンツ再放送とかリメイクでずっと繰り返し続けてる。なんか日本の衰退と重なってると思わなくもない。

アメリカのが衰退してそう


アメリカ2019年映画年間興行収入ランキングコンテンツ(またはキャラクター)のデビュー

  1. アベンジャーズ/エンドゲーム1963年
  2. ライオン・キング1994年
  3. トイ・ストーリー4(1995年
  4. アナと雪の女王2(2013年アンデルセン童話雪の女王』 1844年)
  5. キャプテン・マーベル1940年
  6. スター・ウォーズ/スカイウォーカー夜明け(1977年
  7. スパイダーマン:ファー・フロムホーム1962年
  8. アラジン1992年、『アラジン魔法のランプ』 成立時期不明
  9. ジョーカー1940年
  10. IT/イット THE END “それ”が見えたら、終わり。(1990年

アメリカ2020年映画年間興行収入ランキングコンテンツ(またはキャラクター)のデビュー

  1. バッドボーイズ フォーライフ1995年
  2. 1917 命をかけた伝令(2019年
  3. ソニック・ザ・ムービー1991年
  4. ジュマンジ/ネクストレベル1995年
  5. スター・ウォーズ/スカイウォーカー夜明け(1977年
  6. ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY(1992年
  7. ドクタードリトル1920年
  8. ストーリー・オブ・マイライフ/わたし若草物語1868年
  9. 透明人間1897年
  10. 野性の呼び声(1903年

2021-05-25

1940年返上から80年経って、五輪日本がどう変わったかアピールするなら、「引き返す勇気を持てた」ということだと思うんだけどなぁ。あの頃は暴走した、そして今は止まることができる。国家としての成熟を見せつける機会じゃないのかなぁ。その意味で、右寄りの人ほど反対して然るべきだと思うんだけど。

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