はてなキーワード: 折り紙とは
わたくしはなんか相当昔ですが、 Youtubeで、慶応大の折り紙の問題を解いてアップしたら、 平成27年のことか、この世で一番クソな動画と言われたんですね
それでも、平成27年8月になんかYoutubeから収益で4万円が入ってきたので。
それが事由なのかものなのか分かりませんが、なんか、そういうコメントがある時点で、もう学習参考書で勉強している人がいないような気がするが。
それと次に、以下の通り、 finalventから、 平成28年3月12日にコメントがあったんですが、このときにですね、私は別件でセンター試験の変な模範解答を書いて
つっこみが入ったんですが、そこの意見には2つあって
@meijiseihu
周り見てりゃそれ体感的にも分かるだろうに
追記:
「知能については後天的要因の影響の割合が大きい」とか断言調に嘘ばら撒くブコメとか
知能の定義がとかろくに調べもせずに言うブコメが多いので追記したい。
日本だと
慶應安藤寿康教室の慶應義塾双生児研究プロジェクト、首都圏ふたごプロジェクトが有名だけど
18年間総数1万組の双生児ペアに関して知能・学力や性格、精神疾患や発達障害などを調査して
神経質、外向性、開拓性、同調性、勤勉性といった性格については30〜50%が遺伝要因
知能については70%以上、学力は50〜60%程度が遺伝要因であるとしている。
知能を構成している因子を知識・技能・思考・判断・意欲・関心・態度等の基礎能力として
・文章完成
・符号交換
・図形分割
・乱文構成
・ソシオグラム
・単語完成
・重合板
・類似反対語
上記項目を測定し算出している。
また、総計1455万8903人の双生児を対象とした1958年から2012年までの各国多施設での2748件の研究をメタ分析した報告でも、「パーソナリティ(性格)」「能力」「社会行動」「精神疾患」における遺伝率は49%以上とされている。
Tinca J C Polderman, Beben Benyamin, Christiaan A de Leeuw, Patrick F Sullivan et.al (2015) Meta-analysis of the heritability of human traits based on fifty years of twin studies, Nature Genetics
養子になった子と養い親、産みの両親のそれぞれのIQの相関関係を比較した養子研究法という調査も行われている。
この結果も養子が幼いうちは、ある程度の養い親とのIQの関係性が見られるが
中学生~高校生になると、養い親とのIQの関係はまったくなくなり
逆に養子と本当の親の相関関係は、養子が幼少の頃こそ関係性は低いが、成長するに伴って関係性が高くなる。
という幼少期は子どもの環境によってIQは変化するが、成長していくにつれて遺伝による影響が大きくなってくるという再現性のある結果が得られている。
ここでいう『バカ』とは知的な困難は無いけど、極端に浅はかな判断・行動をする人たちのことね
結論を先に書くと、粒が揃っていない状態(バカがいる状態)でミッションをこなすためには、見た目の威圧感やカルト的な能力を活用してチームを指導し、ミッションの成功に向けて前進させる必要がある。その後、予算や状況が許す限り、プロを招き入れて組織を再編成し、エンゲージメントを調整して、持続的なチームを構築する必要がある。
自分用に書いてるので説明は要らない気もするが、時間が経ったらなんのことかわからなくならるかもなので、いちおう端折らず下記に書き連ねておく。
『知的困難は無いのに、どうしてその判断・行動になったの?』とよく疑問に思うことあるが、その原因はだいたいは"場"にある。
例えば、園児たちが保護者とペアになって紙飛行機を折って飛ばす競争をしている場面を思い浮かべてみよう。
流体力学や航空力学のバックグラウンドと紙飛行機コンテストの経験があるおっさんおばさんがその場に居たとしても、他の参加者たちは通常、『自分の紙飛行機を折る』というタスク以外には興味を示さない。
おそらくは『折り紙を取って貰う』というお願い以外はしない。親切な誰かが紙飛行機のプロのおっさんやおばさんたちに教えようとすることさえあるかもしれない。
もしもその"場"にいる全員がおっさんおばさんが紙飛行機の技術を持っていることを認識していたとしても、それでも『折り紙を取って貰う』以外の頼みごとをするかどうかは"場"による。
子どもたちにとっての学習機会と考えたり、話のネタとして教わる人もいれば、主役は園児なので大人はしゃしゃり出るべきでは無いと考える人もいるし、お遊戯会でマジになってる大人に対して白けた気分になる人もいる。
園児のお遊戯会だけでなく、社会人が報酬を得る場面でも、技術を持つ人に頼らない人がいることがある。これはさまざまな理由が考えられる。たとえば、自分のポジションを気にして拒否する人や、"場"の主役意識が強い人、出来るだけ働かずプライベートを優先したい人など、無限に理由は存在する。
知的な困難がなくとも、"場"が整っていないと、浅はかな判断・行動は無限に行われるのだ。
ちなみに、"場"を整えて、紙飛行機コンテストで優勝するをチームの唯一のミッションにすれば、技術や優勝の戦略の話に集中できるようになるが、それでもすべてがうまくいくわけではない。
資金調達担当者が技術者に対して紙飛行機の折り方を教えること(河童に水練)や、プライベートを優先したい人がさっさと帰ることはなくなるだろうが、優勝が自分にとってどれだけ重要かは人それぞれだ。メンバーに尋ねれば言葉を尽くして最重要ミッションと答えるだろうが、本心では次の仕事のアピールにつながればいいとしか思ってないかも知れないし、ペットの体調が心配で期待されたパフォーマンスを発揮できていない可能性だって考えられる。
知的な困難がなくとも、場を整えても、バックグラウンドが異なれば、浅はかな判断・行動は無限に行われる。
多くの人と何かをすること、あるいは複数の専門家と一緒に仕事をすることは非常に面倒くさい。
それを無難に解決するのは、法治国家であってもだいたいの場合は腕力だ。まぁガチで殴ったら刑務所行きなので、正確には見た目の強さ、ガタイの良さ、圧のある無しだ。
その代替え手段はカルト的な熱狂を煽る(詐欺師になる)くらいしか今のところ思い浮かばない。
強権を発動してガンガン首にする職場ではチームプレイなんかできやしないし、吊し上げを行う職場では隠蔽や犯罪行為が日常になるだけなので、見た目で威圧するのが最も穏当で現実的な手段だ。
じゃあ、見た目が厳つい人を伝達役として採用すれば問題が解決するのか?と言えば、そう単純にはいかない。
美人と同じように、見た目が厳つい人も自分の外見に自覚的で、それを生かして生きていることが多い。素性や性格をしっかりと確認しないと、半グレ的な人物を組織に招き入れてしまい、手のつけられない事態になる可能性がある。
なら素性がある程度しっかりした体育会系の大卒を伝達役として採用すれば、今度こそすべて解決!!!となるかと言えば、ご存知の通り、それもそうはならない。
体育会系の人々も一人一人が独立した人間であり、伝達やコミュニケーションに自分なりのアプローチを持ち、自己判断を行うからだ。
『キミは見た目で採ってるから自己判断しなくてもいいよ』とは出来ないので、結局は自分自身がマッチョマンになって締めるべところは圧を掛けて締める他ないのである。
メンバーの粒を揃える予算も限られている状況で、リーダーである自分自身が圧力をかけることが難しく、宗教的熱狂を煽ることも難しい状況では、以下の手段が考えられる。
紙に悪口を言わせて、一つ言うたびに紙をちょっとずつクシャにしていって
最終的に紙は小さく丸まってしまう。
次に紙に謝らせる。一つ謝るたびに紙を少しずつ広げていって最終的にちゃんと広がるんだけど
クシャクシャになってしまった紙は元の状態には戻りませんよっていう。
この話をうちの5歳の娘にしたんだけど一言「アイロンかければ?」って言われた。
「アイロンかけても元通りの綺麗な折り紙には戻らないよ」って言ったら「新しい折り紙買えばいいじゃん」だって。
我が娘ながら正直ドン引きですわ。
近所の高級芋菓子屋が潰れた
高級食パンを名乗る店も減っている
どちらも立地が悪いとか、ブームが去ったとか、店が潰れる理由は他にもあると思うが、
個人的には高級〇〇というネーミングから受けるイメージがあまりよくないことも理由にあるように思う。自分から名乗っている場合はとくに。
という感じで、割とさびついたイメージで、かつせいぜい普通~ちょい上くらいのランクに感じる。
かつて標準的な品の品質が悪かった頃においては、高級と冠するものの品質や庶民からの憧れに断然差があったのかもしれない。
では現代、商品のレベルが高いことを自称するためにどういう単語を使うかと言うと、
など、英語にしたり形容詞にしたりいいイメージの別の名詞に言い換えたり、表現が多彩である。
79Pに小さな折り紙みたいな紙が斜めにくっついているのを見つけてぎょっとしてしまった
その紙には頭に水玉模様の布を被ったお化けみたいなキャラクターが巨大なブドウを食べている絵が描かれている
最初から読む前にパラパラとめくって発見したので、何だこの変な落丁みたいなの?となった
そのページの短歌の内容とも関係なさそうだし、意味不明で、何かどこかに意味が書いてあるのかと探したら、
この歌集が31年前に出たときに美しい本にしたかった著者は、集めていたかわいいお菓子の包み紙を編集者やデザイナーに見せたらしい
この新装版を作る際にその話を聞いた方のアイデアで、本当にオリジナルデザインのキャンデーの包み紙を本の中に入れているとのこと
グレープ味、レモン味、ストロベリー味の三種があって、僕が買ったのはグレープ味だったようだ
時間が食われるとかお金がかかるとかを超えた超メリットがある。
俺の身体によじ登り、背中に抱きつき、全力で俺を遊具化しようとするエネルギーとポヨポヨの餅のような肌を感じる。
どこに行くにもずっと手を繋いでくれる。
泣きながら全力でハグしてくれる。
俺は友達も少ないし、寂しく孤独に生きる人生だと思っていたけれど、前とは打って変わって存在を求められるようになった。
家に帰ると覚えたての文字で書かれた手紙や絵、工作や折り紙を毎日のようにプレゼントしてくれる。
なんなんこれは、、
休日にふと思いつきで、近所散歩してお菓子買って公園で遊んでマックでも行くってのを提案しただけで大興奮し、気兼ねなく大喜びでやってくれる小さい友達ができるようなもの。
身寄りのない高齢者 https://anond.hatelabo.jp/20230329152826 を書いた者です。ここ数日は朝晩先生のところに行き、おむつを替えたり水筒にお湯を汲んだりそうめんを茹でて届けたり恨み節を聞いたりしておりました。
コメントで、築50年、1970年代に作られたマンションの様相についてイメージしずらい(しづらい)方がいるようなので書いてみようと思いました。
このマンションは1970年ごろ、23区内の都心ではない地域に建てられた。8階建て、64戸。間取りは3LDK。私鉄の駅から続く商店街を徒歩五分といった立地だ。私は昭和55年、1980年くらいから住み始めた。幼稚園生だった。
小学校に入学するとなったとき、この地域には集団登校というものがあり、そこに参加することになった。マンションの一階のたまりに50メートル半径くらいに住む小学生が集まり、6年生の班長を先頭に行列して登校していた。下駄屋のせがれが班長、レストランのせがれが副班長。スーパーのむすめにはよくからかわれていた。この集団が30人ほどで、うち15人ほどがこのマンションの子供だった。統計を見るとこの区の当時の小学生の数は今の倍で、同級生が5人いた。幼稚園のころ、鉢合わせるといつもいじわるをしてくる「とおせんぼうのおねえちゃん」と私が呼んでいた子が、入学式で同い年だと判明した時の驚きは今も覚えている。親同士も入学式を機に急激に関係を深めていった。それぞれ多様なルーツと職をもつ家庭同士が「同級生の子育て」という繋がりで協力関係を築きはじめた。地元の零細土建屋の社長、理工系の技術者、保育士、共産党員、福祉従事者、学者など様々な職種の親たちだった。仕事の忙しい時は子供をあずけたり、おかずを分け合ったり、土建屋のおやじが釣ってきた魚をさばいて集まってみんなで宴会したり、うちの母が子供たちに勉強を教えたり、醤油や砂糖がないときは借りに行ったりというつきあいがはじまった。そういう関係性は同級生以外の世帯にも波及し、私が成人するまでは本当に長屋のような雰囲気があった。おばさまたちはたくましいコミュニケーション網で、マンションだけでなく地域の情報を過剰に共有していた。マンションが商店街に面していたこともあり、町内で起こったことはすぐに衆人の知るところになるような状態だった。救急車が来ればすぐに誰がどうなったかの情報が回り、火事が起きたら皆が集まり、私が近隣で悪さしようものなら、すぐに母の耳に入るような、そんな街だった。
おそらく80年代はほぼ全世帯が持ち家だった。新築で購入した住人ばかりだった。私の両親も、新築で買った父の弟が海外に赴任になり、譲り受けたものだった。なので高齢者はほとんどいなかった。近所にワンルームマンションというものができたという話が広まり、住民がいぶかしがるような時代だった。独身者はアパートに住み、地元民は一軒家に住み、新興の移民がマンションに住むという構造だったのだと思う。商店街にコンビニやレンタルビデオ店が出現したのは80年代後半だったか。街が進化しているという雰囲気があった。(しかし資料をみるとこの街の全盛期は遥か昔にあり、戦前から駅前には映画館や集会場があり、商店街はその枝葉の脇道にまで飲食店や遊興施設にあふれていたらしい。私が知る商店街はメイン通りだけだ。映画館なんて想像もつかない)90年代後半に私が実家を出るまでは、商店街には勢いがあったように思う。オリジン弁当のはしりのような店で私はバイトしていたし、中規模の本屋ができたり、中古ゲーム屋ができたり、インディーズのコンビニができたり、まあたらしい店舗が次々に出現した。外国人も増えていった。皆が東京の未来を信じていた時代だったのだと思う。
その後私は実家からそれほど遠くない、もうすこし大きな駅で自立する。歴史も規模も地元とは一味違った。そこではじめて都市生活者としての暮らしがはじまったように感じた。近隣に知り合いなどおらず、非常に個人的で閉鎖的な生活がはじまった。恋人と同棲していたのでそんな環境でも寂しさはなく、気楽で自由な暮らしを謳歌していた。文化的な地域だったのでアーティストやら文人やらといった有象無象とのつながりもでき、地元とは違うコミュニティでの生活は心地よかった。新興サッカークラブのファンの繋がりなどもあり、自立して新たな人生をこの地域で歩んでいるという満足感もあった。今思うとJR沿線と私鉄沿線では街の成り立ちが違っていた。どちらがいいのかはわからない。
そんな2000年代。わが地元のマンションは活気を失っていく。子供たちが出て行って高齢化したからだ。私が実家を見切った大きな動機の一つに衛星放送問題があった。マンションの世帯は四方にあり、衛星放送のアンテナを南西だか南南西に向けられる世帯は限られていて、我が実家はどうしても衛星放送が受信できなかった。90年代後半に普及したCS放送を見るためにどうすればよいのかと苦心していたとき、マンションの理事会が開かれるという。私は屋上に衛星アンテナを設置し、各戸に配線することによってどの向きに位置する住人でも衛星放送を視聴できる環境を実現するべきとの議案を提起した。私は住人のおじさまおばさまへ向けてプレゼンしたのだが、投票の結果は否決だった。そのとき、長老のひとりのおばさまの「わたし意味がよくわからなかったけど、反対にしちゃった」というつぶやきが耳に入り、ああもうここに住んでいてはいけないと思った。ここは朽ち果てるのだと本気で思った。この街には何の魅力も感じなかった。若い方には意味が分からない話かもしれない。固定電話でインターネットに繋いでいた時代の話だ。
「マンションの向かいの部屋」という記述がわからないというコメントがあったので、マンションの構造について記す。我がマンションはいわゆる「内廊下」である。エレベーターはマンション中央部にあり、廊下も完全に屋内にある。外から各戸のドアは見えない。ホテルのような構造だ。階段も内部にあり、非常階段だけが外部に設置されている。一階のロビー(といってもたまりと集合ポストがあるだけなの空間)に受付のようにガラス窓の事務室のような管理人室があり、そこは居住空間にもなっている。管理人は住み込みで管理会社が雇っている。部屋の所有者は管理会社だった。初代の管理人は私が物心ついたころにはおじいちゃんだった。気のいいおじいちゃんで、前述した「先生」もこの管理人とは懇意にしていたそうだ。彼が引退した後、何人か後任が変わり、今の管理人は勤続20年くらいか。気さくな夫婦で住民とは打ち解けている。数年前、管理会社の方針で住み込みでの雇用は打ち切るとなったとき、マンションの自治会が自治会費で管理人室を買い取り、管理人を雇用することになったとのことだ。そのときの声明文で「高齢者が多くなっているこのマンションにおいて住み込みの管理人は不可欠」といった文言があったそうで、先生はそれを根拠に管理人に介護を強いろうとしているところもある。管理人はそれを個人の裁量で判断する領域だと主張しており、それに対しては他の住民も管理人に同情的な態度でいる。介護するほどの給料は払っていない。
マンションのふもとには公園がある。サッカーコートくらいの広さに、20メートルほどの高さの木々がぽつぽつとたっている。子供の頃は木々をよけながら野球やサッカーをよくした。さして広くない公園なので、子供の打球でもしばしばボールは柵を超える。超えた先は民家や我がマンションの一階世帯だ。植木や窓や壁を破壊することもある。住人としてはたまらない。子供たちをどなりつけにくる。われわれ悪ガキはそんなこと関係なしだ。ホームランを打つと出てくるモンスターとしか思っていないので、どうやって攻略してやろうかという遊びの延長としてとらえ、慣れてくるとからかったりする。怒り心頭の大人は行政に働きかけ、公園には「サッカー野球等の球技は禁止です」の看板が立つ。そんなものも我々にはなんの効力もなかった。そんな折、被害にあっていた一階の住人である医師の夫人が、先生の師範学校の先輩だったそうで、先生に「あなた現役の教員なんだからここらの悪ガキに説教して頂戴」という指令が下った。先生はしかたなしにひきうけ、我が家に集められた子供たち親たちを前に話をすることになった。先生はそのとき、野球だサッカーだ窓を割るなとかいう話は一切せず、私が教えている学校には、いろいろな子供がいて、それぞれ固有の好奇心があり、自由時間には絵を描いている子もいれば、本を読んでいる子もいる、おしゃべりをしてる子もいるし、折り紙をしている子もいる。子供というのは自由な環境があってこそ成長するものであるという話をしたらしい。私は覚えていないのだが、聴いていた父はいたく感心したらしい。先生にはそういう一面もあったようだ。
たまに実家に帰るたびに衰退し活気を失っていったわがマンションも、2020年代から変化が訪れた。年寄りが死んで子育て世代が移り住んでくるようになった。私の幼少期とは数が違うが、小さい子供をよく見かけるようになった。外国人も増えた。賃貸の住人も増えた。私は離婚しひとり身になっていたところに、父の介護が必要になり再びこのマンションに戻ってきた。父を自宅で看取り、そのまま母との二人暮らしがはじまった。職場も近いし、近隣にはなじみの人々がいて、それなりに快適に暮らしている。スーパーのむすめも今となってはわたしをいじめないし、買い物に行けば談笑くらいはする。先生は最近どうなのという話題は常にあがる。先生はスーパーや下駄屋の軒先で店主をつかまえて延々と話し込むのが日常だったし、出歩けなくなってからは困るとスーパーにも電話してきて助けを請うので、みな戦々恐々としているのだ。なぜ先生のことをそんなに詳細に知っているのかというコメントもありましたが、こんな地域では先生の詳細なくらしぶりなど、個人情報というより災害情報のように扱われているのです。ケアマネもすぐにその輪の中に取り込まれる。そんな地域なのです。
今「高齢者の集団自決」とか「colabo問題」などあるが、この頃炎上させる気持ちも分からんでもないけど、その力を少しだけ救う方向に転換してみてはどうだろうと思っている
じゃぁその中にいる高齢者達をどう救うのか
「成田さんはよく『老人は自害』と言ってるじゃないですか?老人は実際日本から退散した方が良いと思うんですよ。老人が自動でいなくなるシステムはどうやって作ります?」
みたいなことを考えて、その答えにのっかるような発言をされた小学生とどう接していいのか
他の方向へ考えることの方が必要だとは思った。
ちなみにウィリアム・マッカスキルの『〈効果的な利他的主義〉宣言!善意活動への科学的アプローチ』は持っていて、物凄くさらっと読んで、日本赤十字社のトルコ・シリア地震救援金に5000円払い初めて自ら寄付というものをした。
しかしその後、このお金でビックマックいくつ食べれたんだろう…とかいう『シンドラーのリスト』の中のシンドラーが、私の心の中では反シンドラーという現象(誰かこの現象を上手く名付けてほしい)が起こっていた。
まぁ今はどんどん現状がひどくなっているようなので多分良かったんだろうと思っている。
他には献血とかも行った方がいいのかなとか考えてたりする。ただ針が怖いのでちょっと躊躇しているが。
やっぱ、グラフとかデータとかで貧困国の状況とか比較であらわせられても、自分に時間とお金に少し余裕がないとなかなか、行動するのは難しそうだし、まずやっぱり国内から救った方がいい思ってしまった。
多分分かってない部分がかなり多いので、あとでじっくり読んでみようとはしている。
この後の文章は
安楽死に対する考え
私の現在状況が書かれている。
興味のある方は読んで欲しい。
T4作戦を実行したナチスドイツの総統のヒトラーが現代にタイムスリップして世論を動かしていく『帰ってきたヒトラー』とか
実際歴史はあってるのかよく分からないけど、物語の中では軍の命令で、戦って手や足がなくなったり動けなくなったりした重症の人達に毒を飲ませたり、刃物で自決したりする、『激動の昭和史 沖縄決戦』
を見てたのでさすがに怖くなって、あなたに安楽死について考えてほしいなんて言われたくないし、どうせメディアも視聴率や再生回数のためにTVやネットで出してんだろうとは思う。
「colabo問題」はいろんなのが絡んでて実際よく分からんが、不正に税金使ったり、叩き合ってるイメージしかない。名誉棄損的なものが互いにあって、怖いし苛立ってるんだろうなとは時々思う。訴えたりするのも仕方がないのだろうが、その集めたお金で一体何人救えるのだろうとは思った。
安楽死については
カルト問題にちょっと興味をしめし始めた頃、『世界』の2022年の12月号を買ったのだが、ちょうど『安楽死を遂げるまで』や『安楽死を遂げた日本人』を執筆した宮下洋一氏のルポが載っていた。フランスの巨匠ゴダール監督の安楽死について書かれている。
安楽死容認国では今、「死にたいと」思わせる社会に潜む問題の解決よりも、その意図に反映に重点を置く傾向にある。それが「死ぬ権利」というものなのか。私の理解が彼らに追い付くには、まだ時間が足りないのかもしれない。
『PLAN75』とはちょっと違った目線から見る、もし現代自分の家族が安楽死を願ったら?というのがテーマで、主人公の父親が脳卒中で回復を少しずつしているのにも関わらず、死を願う。というのがあらすじ
終末期でなく、まだ生きる望みがあるならば?
「尊厳ある命」とは一体何なのか…。
とコメントしている
見た感想としては、まずこの親子関係複雑だし、抗うつ薬みたいなの飲んでるし、その精神的なものを回復できることはできなかったんだろうかと思った。何がどう回復なのかは分かってないのかもしれないが。やっぱ価値観が違うんだろう。
まだ自分の親は認知症でも脳卒中でもないし、今聞く勇気もない。
主人公の父親のようにあそこまで頑固でもないと思うし、病気になって回復してきたら少し気持ちが変わるかもしれない。
いろいろ考えると答えは出ない。
私の場合、おそらく個人の尊重を優先してと思いながら親の安楽死を願ったとしても、必ずどこかでは自分の介護の負担が出てきて楽になりたいとう気持ちがどこかには少なからずあると考える。
もし今、日本の政府が安楽死法案を出すとしたら、本当に苦しんでいる人には悪いとは思うけど、私は反対する。
今回の問題発言もそうだし、それに賛同する人達や、笑っている人達、や政治家たちの失言を見ると優生思想が強すぎると感じる。
私の現在状況
その時のB型事業所は、月曜日から金曜日10時~16時(昼休憩45分)で給料は平均して月1万5千円くらい。
今の給料は平均して月7万円くらい。
家賃は3万ほど出している。
今、年金は払っていない。
まだ私は親がいる分、生活は楽な方だとは思っている。
貯金は300万ほどある。
もう遅いのか、NISAとか考えた方がいいのだろうかと最近思う。
発症原因はあまり教えたくないので、ここには書かないことにする
普段、母親の部屋で洗濯物を取り入れて畳んでいるのだが机の上に、一冊の本がカバーを裏側にして置いてあった。
なんだろうと思い、カバーを取ったら『老いの品格』という本だった。
中の目次さっと見たら、良い老人であろう的な感じがした。
まぁ品格って書いてあるし、そうなんだろう。
これを見て思い出したのが、テレビでやっていた『月曜から夜ふかし』の"通りすぎる人全員に会釈するおばあちゃん”の回である。
ある女性がその行為を不思議がって調べてほしいと投稿した話なのだが、そのおばあちゃんの理由が感動というよりも、そこまでさせないといけない社会なんだなと思ったし、私たちもそういう風になるのかもしれないと少し怖くなってしまった。その理由は興味があれば調べてほしい。
私は母親とうまくいっておらず、会話はほとんどない。なので何を考えているのかよく分かっていないのだが、そんな感じでとりあえずこの本をkindleで買うことにした。そして最優先にこれを読もうと思う。
ついでに、映画『生きる LIVING』のパンフレットも置いてあった。
まぁ母親と話せば済む話なのだが。それができないのが私のダメなところである。
どこで働いているか判明されるかもしれないので、分かりにくく書くが、清掃作業をするととある消耗品が毎回なくなるのだが、それを注文するたびに一枚の絵ハガキが入っている。
その絵は私にとっては上手くはない。おそらく障害者が描いたであろうと思われる。
初めはその絵ハガキを清掃道具入れにためていた。捨てると罪悪感がある気がしたのもあったし、以前ここで障害者雇用として働いていた人がずっとそうしていたのもある。
その後一旦その清掃道具入れを整理してほしいと補助役の人に言われたので、このたまった絵ハガキはどうしようか相談し、申し訳ない感じもするが捨てようということになった。
それから少し経って、相変わらずその新しく入ってきたその消耗品の中には、絵ハガキが入っている。ふとなぜこの絵ハガキは入っているのだろうと疑問に思い、その意図は分かってはいないが、私としては「絵は描けます」というメッセージみたいなのを受け取った。
もしこれが、障害者でなく高齢者だったらどうなんだろうとか、通院している精神病院に、病にかかっている人が作った、よく分からないパズルとか、ちょっと凝った折り紙だったりとか展示されているのを見るとあれは一体何なんだろうと不思議だったが、これも実際意図は分からないが、この社会にいる存在を表しているのではないのかと思うようになった。
その後、私はこの上手くはない絵ハガキをなんとなく家に持って帰っていて、本当に何かの緊急事態が起こった場合以外は捨てずにためることにしている。
その消耗品の会社が分かった人は、変な人が絡むと嫌なので黙っていてほしい。
終わり
「正方形に内接した円に外接した正方形の面積を求めよ」っていう問題とかよくあるじゃん。
答を先にいうと「折り紙でパクパク嘴を作るときみたいに正方形□を四隅から折りたたんで菱型◇にしたときの面積って、半分ずつに折りたたんでるから半分だよな」を難しくしただけの問題なんだけど。
これの問題文の解説に「正方形に内接する円」とか「円に外接する正方形」とか言われるとめっちゃ難しく感じるんだよね。
実際図を描いて小学生に説明してもなかなか理解してくれないんだよ。
だけどこれって「積み木を穴に落とす玩具で遊んだことがある」「マンホールはなんで四角じゃ駄目なのかの丁寧な説明を聞いたことがある」って経験があるとあっという間に理解できるわけ。
でもこれってさ、親が教育にお金か時間を掛けてくれないと出来ないわけ。
まあテレビが代用してくれることもあるけど、親が頭脳系番組を好むとか、子供が見たいチャンネルを譲ってくれるって土壌が必要なわけ。
中学受験の問題ってこういう親側の「文化的な資本に理解がある」「経済的に余裕がある」「知的な情報収集を娯楽として楽しめる」「子供の疑問にちゃんと向き合える」みたいな部分を試すようなものが次々やってくるわけ。
地頭とかって結局は親の教育方針に依存してるところがあって、馬が水飲みたくなったらすぐ飲める空間に住んでたかが最重要ファクターだったりする。
こういうの考えてくと、この社会ってとことん再生産なんだなって思うんだよな。
ケーブルテレビSTBでは見られない場合が多いようなのでBSパススルーとか
地域によってはSTBで見られるようになったかもしれないので最新情報要確認
・02 鐘が鳴るなり)法隆寺
・03 スプラトゥーン
・05 ボクシング
・06 [すべて]千と千尋の神隠し 崖の上のポニョ ハウルの動く城 風立ちぬ
・07 [3択]胃
・08 溶けた)絵の具(みたいな
・09 [近似値]547
・13 『放浪記』
・16 [2択]南 島
・19 大林素子 おおばやしもとこ
・21 劇団ひとり
・22 [3択]折り紙
・26 ツイッギー
・27 サンエックス
・29 ミー(ゴレン
・31e 3(つ
この記事ね。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6308472de4b0dc23bbe73ce8
読むのめんどい人のために雑にまとめると、とある大学教授が生徒相手に男女差別を体験させる授業をしたって話。
そんで、その中で「『リボンあり』が作った折り紙を100円、『リボンなし』のそれは50円で買い取る」、てくだりがあるのよ。「リボンあり」は男性、「リボンなし」は女性で、両者の賃金格差の差別を体験させよう、てことよね。それは別にいいんだけどさ、
いや、こんなこと言う奴いる?
俺もクソみたいな差別発言いっぱい見たことあるけどさ。「女が倍働けば男と給料一緒じゃん」「女だけ品質上げれば〜」みたいな方向性はさ、見たことないんだわ。
明らかに、授業の方針に合わせてロールプレイしました(しかも滑ってる)、て発言じゃん。
「そう思うのはお前の感想だろ」って思った?
そうなんだけどさ、じゃあ記事本文に「この種のリアクションをした人は何%」とかのエビデンスはない。ていうか手法の解説もフワッとしてるし、再現性もあるのかないのか分かんない。つまり、この記事自体が感想の羅列に過ぎない。
それもそのはずで、この記事は論文でないだけでなく、そもそも「体験授業」を紹介してるに過ぎない。もちろん実験ではない。
それを、あたかも科学的正しさが「あるかのように」「さももっともらしく」記事を作ってるのがハフポストとかいうクソ媒体なわけ。
確かにさ、記事内では「実験」とは言ってないし、科学的な正しさがあるかのようには書かれてない。ただ「それっぽい」だけ。でも、現実には、反知性的で科学的な思考ができない可哀想な人たちが科学的な正しさがあるかのように勘違いしている。
こんな風に→https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6308472de4b0dc23bbe73ce8
「印象的だったのは、内海﨑さんとのやりとりを続けるうち、教室内では徐々に「正しい答え」に合わせることが諦めとともに受け入れられていったことだ。」
地方紙に載ってる「●●小学校で豆まきが行われ、児童の一人は『鬼もかわいそう』と語っていたのが印象的でした」とかのほのぼの記事レベルの話やねんぞ。
この教授さんはさ、ただ「差別を体験させよう」て意図で、別に社会実験のフリをしようとしたわけじゃないのかもしれない。ハフポスが勝手にやっただけかもしれないーーーーて、そんなわけあるかーい!
明らかに内容チェックしとるやろ。チェックした上で、ただの体験授業を社会実験っぽく糊塗(捏造ではないので嘘はついてないところがポイント)したこの原稿にOK出してるやろ。それ、学問に携わる人としてどうなんですかね?ちなみにチェックしてなかったらもっとやばい。本人の実名、役職、顔出しはともあれ、生徒の実名まで出てるんだからさ、これハフポスに勝手にやられましたはヤバ過ぎでしょ。
ちなみに「2004年からこの授業を続けている」そうだけど、18年もやってきて、なんのデータも蓄積されてないとしたらヤバいし、蓄積されてるのに直近の授業に対する「記者の印象」だけで記事を作らせるのもわりとヤバい。
要点をまとめるとだね。
・この体験授業にあるような男女差別は存在すると思う。少なくとも自分の実感では存在する。詳しくないから分からないけど、ちゃんと論文とかもあると思う。
・この記事はクソ。この体験授業では男女差別の存在も、種類も、何も明らかになってない。
ここから先は余談。
フェミニストたちがしばしば見せる、この「科学的でも何でもない自分達の感情あるいは願望を、あたかも科学的であるかのように塗り固める(でも科学的であるとは言ってないので嘘ではない)」ムーブは本当にクソだ。
「たわわ」の件もそうだった。
フェミニストたちはいかにも「科学的正しさを重視します」「教授です」「公的メディアです」「国連です」て顔しながら、科学と全く関連しない嘘八百をもっともらしい雰囲気で垂れ流す。卑怯としか言いようがない。
この記事ね。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6308472de4b0dc23bbe73ce8
読むのめんどい人のために雑にまとめると、とある大学教授が生徒相手に男女差別を体験させる授業をしたって話。
そんで、その中で「『リボンあり』が作った折り紙を100円、『リボンなし』のそれは50円で買い取る」、てくだりがあるのよ。「リボンあり」は男性、「リボンなし」は女性で、両者の賃金格差の差別を体験させよう、てことよね。それは別にいいんだけどさ、
いや、こんなこと言う奴いる?
俺もクソみたいな差別発言いっぱい見たことあるけどさ。「女が倍働けば男と給料一緒じゃん」「女だけ品質上げれば〜」みたいな方向性はさ、見たことないんだわ。
明らかに、授業の方針に合わせてロールプレイしました(しかも滑ってる)、て発言じゃん。
「そう思うのはお前の感想だろ」って思った?
そうなんだけどさ、じゃあ記事本文に「この種のリアクションをした人は何%」とかのエビデンスはない。ていうか手法の解説もフワッとしてるし、再現性もあるのかないのか分かんない。つまり、この記事自体が感想の羅列に過ぎない。
それもそのはずで、この記事は論文でないだけでなく、そもそも「体験授業」を紹介してるに過ぎない。もちろん実験ではない。
それを、あたかも科学的正しさが「あるかのように」「さももっともらしく」記事を作ってるのがハフポストとかいうクソ媒体なわけ。
確かにさ、記事内では「実験」とは言ってないし、科学的な正しさがあるかのようには書かれてない。ただ「それっぽい」だけ。でも、現実には、反知性的で科学的な思考ができない可哀想な人たちが科学的な正しさがあるかのように勘違いしている。
こんな風に→https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6308472de4b0dc23bbe73ce8
「印象的だったのは、内海﨑さんとのやりとりを続けるうち、教室内では徐々に「正しい答え」に合わせることが諦めとともに受け入れられていったことだ。」
地方紙に載ってる「●●小学校で豆まきが行われ、児童の一人は『鬼もかわいそう』と語っていたのが印象的でした」とかのほのぼの記事レベルの話やねんぞ。
この教授さんはさ、ただ「差別を体験させよう」て意図で、別に社会実験のフリをしようとしたわけじゃないのかもしれない。ハフポスが勝手にやっただけかもしれないーーーーて、そんなわけあるかーい!
明らかに内容チェックしとるやろ。チェックした上で、ただの体験授業を社会実験っぽく糊塗(捏造ではないので嘘はついてないところがポイント)したこの原稿にOK出してるやろ。それ、学問に携わる人としてどうなんですかね?ちなみにチェックしてなかったらもっとやばい。本人の実名、役職、顔出しはともあれ、生徒の実名まで出てるんだからさ、これハフポスに勝手にやられましたはヤバ過ぎでしょ。
ちなみに「2004年からこの授業を続けている」そうだけど、18年もやってきて、なんのデータも蓄積されてないとしたらヤバいし、蓄積されてるのに直近の授業に対する「記者の印象」だけで記事を作らせるのもわりとヤバい。
要点をまとめるとだね。
・この体験授業にあるような男女差別は存在すると思う。少なくとも自分の実感では存在する。詳しくないから分からないけど、ちゃんと論文とかもあると思う。
・この記事はクソ。この体験授業では男女差別の存在も、種類も、何も明らかになってない。
ここから先は余談。
フェミニストたちがしばしば見せる、この「科学的でも何でもない自分達の感情あるいは願望を、あたかも科学的であるかのように塗り固める(でも科学的であるとは言ってないので嘘ではない)」ムーブは本当にクソだ。
「たわわ」の件もそうだった。
フェミニストたちはいかにも「科学的正しさを重視します」「教授です」「公的メディアです」「国連です」て顔しながら、科学と全く関連しない嘘八百をもっともらしい雰囲気で垂れ流す。卑怯としか言いようがない。
この記事ね。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6308472de4b0dc23bbe73ce8
読むのめんどい人のために雑にまとめると、とある大学教授が生徒相手に男女差別を体験させる授業をしたって話。
そんで、その中で「『リボンあり』が作った折り紙を100円、『リボンなし』のそれは50円で買い取る」、てくだりがあるのよ。「リボンあり」は男性、「リボンなし」は女性で、両者の賃金格差の差別を体験させよう、てことよね。それは別にいいんだけどさ、
いや、こんなこと言う奴いる?
俺もクソみたいな差別発言いっぱい見たことあるけどさ。「女が倍働けば男と給料一緒じゃん」「女だけ品質上げれば〜」みたいな方向性はさ、見たことないんだわ。
明らかに、授業の方針に合わせてロールプレイしました(しかも滑ってる)、て発言じゃん。
「そう思うのはお前の感想だろ」って思った?
そうなんだけどさ、じゃあ記事本文に「この種のリアクションをした人は何%」とかのエビデンスはない。ていうか手法の解説もフワッとしてるし、再現性もあるのかないのか分かんない。つまり、この記事自体が感想の羅列に過ぎない。
それもそのはずで、この記事は論文でないだけでなく、そもそも「体験授業」を紹介してるに過ぎない。もちろん実験ではない。
それを、あたかも科学的正しさが「あるかのように」「さももっともらしく」記事を作ってるのがハフポストとかいうクソ媒体なわけ。
確かにさ、記事内では「実験」とは言ってないし、科学的な正しさがあるかのようには書かれてない。ただ「それっぽい」だけ。でも、現実には、反知性的で科学的な思考ができない可哀想な人たちが科学的な正しさがあるかのように勘違いしている。
こんな風に→https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6308472de4b0dc23bbe73ce8
「印象的だったのは、内海﨑さんとのやりとりを続けるうち、教室内では徐々に「正しい答え」に合わせることが諦めとともに受け入れられていったことだ。」
地方紙に載ってる「●●小学校で豆まきが行われ、児童の一人は『鬼もかわいそう』と語っていたのが印象的でした」とかのほのぼの記事レベルの話やねんぞ。
この教授さんはさ、ただ「差別を体験させよう」て意図で、別に社会実験のフリをしようとしたわけじゃないのかもしれない。ハフポスが勝手にやっただけかもしれないーーーーて、そんなわけあるかーい!
明らかに内容チェックしとるやろ。チェックした上で、ただの体験授業を社会実験っぽく糊塗(捏造ではないので嘘はついてないところがポイント)したこの原稿にOK出してるやろ。それ、学問に携わる人としてどうなんですかね?ちなみにチェックしてなかったらもっとやばい。本人の実名、役職、顔出しはともあれ、生徒の実名まで出てるんだからさ、これハフポスに勝手にやられましたはヤバ過ぎでしょ。
ちなみに「2004年からこの授業を続けている」そうだけど、18年もやってきて、なんのデータも蓄積されてないとしたらヤバいし、蓄積されてるのに直近の授業に対する「記者の印象」だけで記事を作らせるのもわりとヤバい。
要点をまとめるとだね。
・この体験授業にあるような男女差別は存在すると思う。少なくとも自分の実感では存在する。詳しくないから分からないけど、ちゃんと論文とかもあると思う。
・この記事はクソ。この体験授業では男女差別の存在も、種類も、何も明らかになってない。
ここから先は余談。
フェミニストたちがしばしば見せる、この「科学的でも何でもない自分達の感情あるいは願望を、あたかも科学的であるかのように塗り固める(でも科学的であるとは言ってないので嘘ではない)」ムーブは本当にクソだ。
「たわわ」の件もそうだった。
フェミニストたちはいかにも「科学的正しさを重視します」「教授です」「公的メディアです」「国連です」て顔しながら、科学と全く関連しない嘘八百をもっともらしい雰囲気で垂れ流す。卑怯としか言いようがない。