はてなキーワード: 大本山とは
天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学は中国に発祥し、入唐した最澄(伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。
目次 [非表示]
1.2 四宗兼学
1.3 止観行
1.4 所依
1.5.1.1 総本山
1.5.1.2 門跡寺院
1.5.1.3 大本山
1.5.1.4 別格本山
1.5.1.5 その他の寺院
1.5.2 天台寺門宗
1.5.3 天台真盛宗
1.6 その他天台系宗派
1.7 教育機関
1.7.1 大学
1.7.3 養成機関
4 社会運動
5 脚注・出典
6 関連項目
7 外部リンク
正式名称は天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後の呼び名は日蓮教学の法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。
初め、律宗と天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍が日本に入った。次いで、伝教大師最澄(767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本に帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである。最澄は特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。
この時代、すでに日本には法相宗や華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄は日本へ帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生は成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇を設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗の僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問・修行を修めるという革新的な最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇の勅許が下り、名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。
真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。
当初、中国の天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。
しかし日本天台宗の宗祖・最澄(伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しかし最澄が帰国して一年後に空海(弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき、空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。
とはいえ、最澄自身が法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身の意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教の系譜は、円仁・円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。
なお真言密教(東密)と天台密教(台密)の違いは、東密は大日如来を本尊とする教義を展開しているのに対し、台密はあくまで法華一乗の立場を取り、法華経の本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである。
四宗兼学[編集]
また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国の天台宗とは違い、最澄が開いた日本の天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。
止観行[編集]
天台宗の修行は法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在の日本の天台宗の修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経の読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏を本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教(台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在に仏性が宿るという天台本覚思想を確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。
所依[編集]
福王寺(熊本県山都町、宮司兼豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である)
その他天台系宗派[編集]
孝道教団
叡山学院
壬生寺(みぶでら)は、京都市中京区壬生にある律宗大本山の寺院である。本尊は地蔵菩薩、開基は園城寺(三井寺)の僧快賢である。中世に寺を再興した融通念仏の円覚上人が創始したとされる「大念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。古くは地蔵院、宝幢三昧寺[1]、心浄光院と号した。
目次 [非表示]
1 歴史
2 境内
3 文化財
3.1 重要文化財
3.2 焼失した重要文化財
3.3 重要無形民俗文化財
4 行事
5 関連項目
6 アクセス
7 脚注
8 外部リンク
園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年(正暦2年)に自身の母のために建立したとされる。京都では珍しい律宗(総本山は奈良・唐招提寺)寺院である。
中世に融通念仏の円覚上人が中興。大念仏会の際に上演される重要無形民俗文化財の「壬生大念仏狂言」(壬生狂言)は円覚上人が始めたものと伝えられる[2]。
江戸時代後期の幕末には京都の治安維持を目的に活動した新選組(当初は壬生浪士組といった)の本拠が壬生村の八木家に置かれた。当寺境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われたという。その縁で境内には局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある(近藤勇の墓とされるものは、当所以外にも会津若松市、三鷹市などに存在する)。
当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年(昭和37年)7月25日、放火により本堂とともに焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたものである。
現在の本堂は1970年(昭和45年)の再建である。境内には他に大念仏堂(狂言舞台、重要文化財)、近藤勇銅像、壬生塚、千体仏塔(パゴダ様式の仏塔に1000体の石仏を円錐形に安置したもの)などがある。
錫杖(しゃくじょう)
紙本墨画淡彩列仙図 長谷川等伯筆 六曲一双(左隻の一扇を欠く)
壬生寺大念仏堂(狂言舞台)(附 道具蔵、脇門、土塀2棟、棟札2枚)
典拠:2000年(平成12年)までに指定の国宝・重要文化財については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000)による。
金鼓 正嘉元年(1257年)銘 - 「金鼓」は仏堂の軒先に吊るす「鰐口」のこと
毎年節分と春秋に演じられる無言劇。大念仏狂言(だいねんぶつきょうげん)とも呼ばれる。重要無形民俗文化財に指定されている。公開は2月の節分の当日と前日、4月29日から5月5日まで、及び10月の体育の日を含む3日間(年間12日間)[4]。詳細は「壬生狂言」を参照
壬生六斎念仏踊り
年中行事として、かつては毎年8月9日の精霊迎え火、16日の精霊送り火、23日の地蔵盆に壬生寺で上演されていたが、現在は9日にのみ実施されている。重要無形民俗文化財。詳細は「壬生六斎念仏踊り」を参照
地蔵盆時の出開帳
壬生寺は、地蔵菩薩を本尊とする寺として、地蔵盆の際に地蔵の石仏を貸し出す、俗称「レンタル地蔵」を行っていることでも知られる。
京都でも新興住宅地などでは地域の地蔵がなく、地蔵盆が行えないことがある。この場合は宗教色を薄めた「夏祭り」とする所もあるが、地蔵を借りてきて地蔵盆を行うところもある。壬生寺の場合は、明治時代から京都各地の区画整理などに伴って祀れなくなった石仏が多数引き取られており、これを出開帳の形式をとって希望する各町に貸し出しているのである。