はてなキーワード: チアとは
マチアプのメッセージって、そこで仲良くなるためにするってよりは会う約束を取り付けるためのものだと思うよ。
だからそんなたくさん距離を縮めるようなキャッチボールはしなくてもいいんじゃない?
【追記】「十二国記ってアンチ女性向けファンタジーなんだな」ってタイトルが良くないって言われて、その通りだって思ったから消す。
どう言えばいいんだろうな? 甘やかされる系ファンタジーに厳しいっていうか、自分が書いていることに自覚的って言うか。
男女問わず、思春期に空想しがちな「ここからどこか素敵なところに連れていってくれ」という願望やそれに基づいた創作に厳しいってことなんかなあ?
ブクマカの「登場人物すべてに潔癖で厳しい」って趣旨の指摘を見て、私が一番言いたかったのってこれだったんだって気づいた。
フェミニズム小説ではって指摘についてはその通りで、前のエントリではそれについて触れたんだけど、やっぱりリンク張るだけじゃ分かりづらいよね。
十代のころに背伸びしてラノベとか少年少女小説から遠ざかってたから偏見です、これについてもごめんなさい。
ファンタジー小説と自分に都合がいいファンタジー・空想って言葉もいい加減に使ってた。
ー以下追記前ー
ここでいうアンチってのは否定的とか叩いているとかそういう意味じゃなくて、対案とか批評的なとかそんなニュアンスね。
なんでそんなこと思ったのかっていうと、異世界に行って素敵な男性と出会ってお姫様として幸せに暮らすっていう女性向けファンタジーのシチュエーション(正確にはいかにもありそうだなーって偏見なんだけど)を話をひねった設定が多いって気づいたんだ。
例えばシリーズ最初の「月の影 影の海」ってのは、内気な女子高生である陽子が景麒ってイケメン男性に異世界に連れて行かれる場面から話が始まるんだけど、よくある異世界ものと違って、向こうの世界については何の説明もされずにほぼ身一つで放り出されるんだよね。で、最終的には彼女が新しい王だってわかるんだけれども、彼女が武器を持って立ちあがり、囚われのお姫様みたいに鎖につながれた景麒を救い出すところでお話が終わってる。
で、この世界の王様ってのは忙しくて、反乱が起きたら自ら戦場に立つし、妖魔と剣で切ったはったやるし、官僚のトップと口でやりあわなきゃいけないし、美しいだけの世界じゃないんだ。
なんというか、「覚悟」を決める話なんだよ。
異世界で他人に裏切られ続けて荒み切った果てに、「他人を信じるな」と嘲笑する謎の存在蒼猿(実は彼女自身の内なる声)と決別し、裏切られてもいいから他者を信じる道を選ぶシーンは超かっこいい。それに、陽子の元の世界の父親は「女は女らしくしろ」という何かのカリカチュアみたいなキャラクターで、フェミニンなものがこの話ではそこまで肯定的に扱われていないんだよね。女性として扱われたのは、売春宿に売られそうになったときくらいか。これ以降のストーリーでも彼女は女王としての服装を窮屈だと感じ、街に出るときは男装を好むし、この世界の女性は妊娠・出産をしない。
他に批評的だなって感じたのは「風の万里 黎明の空」のふたりの副主人公、祥瓊と鈴だ。祥瓊は反乱軍に父王が処刑され、命こそ救われるのだが村では無能な下働きとして虐待され、しかも正体が露見して危うくリンチされかける。安全のため隣国の女王の下働きになるも、そこの女王にも冷遇される。
一方、日本出身の鈴は言葉の通じない異世界で仙人の奴隷同然の暮らしをさせられ、ついに意を決して出奔する。二人とも、女王となった陽子に憧れたり憎悪を抱いたりして、陽子の治める国に向かって旅をする。
これだけ見ると、いじめられたかわいそうなヒロインが返り咲く話の序盤のように見える。読者はこう予想するだろう。いずれも二人とも陽子によって救われるだろうと。だが、中盤で二人はそれぞれ別の人物によって己の落ち度を諭される。祥瓊は長い華やかな王宮暮らしの中で、四十年も父の暴政を止めようともせず、自分の国のありようを知ろうともしなかったことを淡々と告げられる。外国人のほうが自分の国の歴史に詳しいのがどれだけ恥ずかしいことかわかるかと。
鈴は、自分だけが不幸を我慢すればやり過ごせると思い込み、百年間何もしなかっただけであり、彼女の不遇の嘆きはただの不幸自慢であるのだと責められる(この世界では特定の条件を満たすと寿命がなくなる)。
このあたり、小野不由美が読者層の中高生に説教をかましている側面も感じる。
そして祥瓊と鈴が救われるのは陽子によってでもないし、イケメンによってでもない。自分の落ち度に気づき、目覚め、やはり剣を持って立ち上がる。
(ところで、祥瓊を冷遇した女王は気が強く悪役令嬢っぽさを持ちながら筋が一本通った倫理観の持ち主で「図南の翼」では主役を張っている。というか悪役令嬢ものの起源の一つなんじゃないか?)
つまるところ、十二国記のシリーズ前半は幻想に逃げる少女に対して戦うよう促しているのだ。そしてサポートキャラの最高の内面イケメン楽俊とは恋愛関係になっているわけではなく、対等な友人だ。「男性に過度に頼るな、対等たれ」と言っているように見える(あと、シリーズ後半になると時代小説や政治小説っぽくなって、中高年の男性にウケる要素がどんどん増えていく感じだ。きらびやかな幻想とたもとを分かったせいか、少女向けレーベルからははみ出てしまっている。最新作「白銀の墟 玄の月」は講談社X文庫ホワイトハートから出てないよね?)。
似ているなって思ったのがミヒャエル・エンデの「はてしない物語」だ。これは物語後半で主人公バスチアンが崩壊したファンタジー世界の救い主となって本の中に入り込み、高性能イケメンのチート野郎になるんだけれど、チートを使うたびに元の世界のダメな自分のことをどんどん忘れていき、記憶喪失のまま永遠に物語世界に閉じ込められる危機に陥るんだよね。同じ末路を迎えた人間の描写はぞっとする。児童文学の中でここまでいわゆる恐ろしい末路を描いたのも珍しい。
これってまさにやっていることが同じで、小野不由美が少女小説のフォーマットを使って女性向けフィクションに対して批評的な作品を書いたように、エンデはファンタジーの形式を使いながら現実逃避するポルノ的ファンタジーを批判しているのがすごい。アンチファンタジーだ。しかも、それがめっぽう面白いんだ。
私はポルノ的ファンタジーがダメだとは思わない。エッチなものも含めてポルノってのは、なんでも願いが叶う世界の中で遊ぶことで、願いが叶わないことが多い現実と戦うためのパワーを充電する遊び場だ。ここが虚構だってわかって遊んでいる限り、心の健康を保つのにはプラスだ。
でも、ときどき自分に「これは嘘だぞ」って言い聞かせないと危ない。幸せイチャイチャラブラブなアブノーマルプレイなしのポルノでも、これも本当のセックスと間違えたらいけない。相手の気持ちいいところが全部わかって、自分の気持ちいいところ全部責めてもらえるセックスなんてこの世にはなくて、「あれやってみたい」 「こうしてほしい」 「今のは良かった」 「ありがとう」ってちゃんと言わなきゃ伝わらない。
ああいうイチャラブエロ漫画はインスタグラムみたいにいいところだけ繋いで作った虚像なんだよ。小野不由美も十二国記外伝「魔性の子」で「異世界に逃げるな、お前の生きる世界はここだ」という話をしている(「帰山」の中の難民支援でも「自立する気概を失うレベルまで支援してはならない」って趣旨のことを言ってる)。
つまるところ、自分で欲しいものを能動的につかまなきゃダメなんだよな。
なんてことを日曜日にファミレスで友人にぶちまけてしまった。あー楽しかった。
ハイスペックイケメンを素朴女子が救う話の起源について話題になったから書いたわけじゃないんだけど、「ジェイン・エア」は一つのオリジンよね。この話を裏面から見たジーン・リース「サルガッソーの広い海」や批評「ジェイン・エアは幸せになれるか? 名作小説のさらなる謎」も面白いよ。
陽子が異世界に入るときに剣を授けられるので、これって男性原理の象徴じゃないかと冗談半分で書こうとしたんだけれども、実際に剣とは別に回復アイテムの玉(二つではないけれど)も授けられるし、鞘は失くしてしまう。鞘を女性原理と見るか包皮と見るかはともかく、フロイト的な解釈が全くのデタラメではない気がしてしまった。
鞘を女性原理と見るならば、作中でそれを無くす(機能を失う)ことは女性原理が弱まることを意味するし、包皮と見るならば、その喪失は男子割礼・成人の儀礼を意味していると読めなくもない。
ほら、作中でも過酷な旅でげっそり痩せて、身体から丸みが失われたともあるし。
こんなことを書いて申し訳ない気持ちもあるのだが、剣と同時に球も授けられるなんて話として出来過ぎているし、そうした作品を他に私は知らない。あったら教えてください。
以上だ! いつか男性向けハーレムものと女子向けの後宮ものの差異について書きたいぜ!
→ 追記! 昔書いたやつ
https://anond.hatelabo.jp/20200609075504
生理妊娠出産がないとか逆に女性向けっぽいと感じた要素はここです
読み返して思ったけど、アンチ「一昔前の」とかアンチ「世間的に女性受けしそうと思われがちな」ファンタジー、アンチ「童話から想像される」ファンタジーって気がしてきた。
齢三十を迎えてからというもの「人生こんなもんか」という感覚が頭の中をついて離れない。
かといって希死念慮はなく、どうにか人生を前に進めたいのだが、どうにもこうにもこの思念に阻まれている気がする上に、具体的なビジョンもない。
諸先輩方にこの年代で同じような感覚を経験し、払拭できた人がいれば助言をいただきたい所存。
年齢は30、性別は男。
それなりに良い大学を出て、就職と同時に一人暮らしを始めて以来東京在住。
経済的な苦しさはない。
加えて、恥ずかしいことにセックス依存気味で、週末はマチアプ等で知り合った女を家にあげていることが多い。
このため、完全に自分が原因なのだが、あまりに身体を許してくれる女が多いため若干女不信気味。
就職から9年余、新卒の頃のような不器用さはなくなり、仕事も卒なくこなせる。
ただ、新鮮な刺激や、何かを切り開いていくような高揚感は既にない。
友人との交友、目も眩むような恋愛や同棲生活、ワンナイトの愛、美味しい料理に高い酒、海外旅行、転職活動、感動するような音楽・映画、真夏の音楽フェスティバル、大切な友人の結婚式、身近な人間の死etc
一人の人間が人生で経験するライブイベントや摂取するコンテンツは結婚と子育て以外、あらかた済ませた。
一人3〜4万のフレンチ、海外旅行で行く欧州の世界遺産、仕事の新規プロジェクト、初めて会った女とのセックス、どれをとってももはや「こんなもんか」。
俺の感受性が死んだだけのか、なにか精神的な病なのか、環境を変えることで何かが変わるのか、結婚も子育てもない人生は現代人にとって長すぎるのか。
俺がコミュ障なので、どちらかというとコミュ障の人のほうがシンパシー感じるんだけど、実際にメッセージのやり取りすると、全然続かない。
それは、「男」という概念全体に対しての巣を守る昆虫のような連帯意識・帰属意識が、女よりもだんぜん薄いことにあると思うんだけどどうだろうか?
女は自分が所属するグループとかのサイズではなく女というデカい概念に対しての所属・相互承認意識がかなり強くあって、ゆえに
自閉症スペクトラムなどで女社会への適合がうまくいかないと自分は女というより女体持ちと称したほうが適切といった自意識を持ったり、
トランスジェンダーに対しての紛糾などがあるのだと思う
女体があるだけでは女ではない、女社会による審査と相互承認を通過してないヤツを女として扱うなという強烈なホモソーシャルが存在していて
男にも同様のものが当然あると前提したうえでホモソーシャルという言葉を用いるから、なんか違和感があるのではないか?
俺は平成生まれだけど、◯◯しないやつは男じゃねえ!みたいな風潮や同調圧力を感じてきた記憶は特にない
「俺達男だろ!」というニュアンスのことをレトリックではなく本気で言ってくるヤツにも出会った覚えはない
「男なんだから△△やれよ」の形式ならある。自分はたまたま体が男であり、ゆえに時たま義務が課せられることがあり、ただそれだけという感じ
「男」という概念全体への憧れや帰属意識はあんまりない。これが昭和や自衛隊やハードな体育会系とかに生きた人だと感覚が違ってくるのかもしれないがそれはわからん
あと書いてて途中で追加で思ったが、男が思う抽象概念としての「女」、女が思う抽象概念としての「男」、そして現実の男と女全体、それぞれギャップがあるよね
マチアプで女はまんべんなくいいねを得られるが男は上位数%が独占する、みたいな話があったとはずだけど
女が思う抽象概念としての男は上澄み数%の存在で、それは男が思う女のイメージが若くて化粧後のかわいい顔をしているのと似たようなものなのだと思う