はてなキーワード: 外野とは
俺は何か騒いでるなあと外野から見てたんだけど途中から関心持つようになった
何か今ではウヨサヨ対立みたいになってるけど最初からそうだったのだろうか?
ネトウヨ参戦してネトウヨ嫌いのサヨがネトウヨ叩きのために参戦して
結果ネトウヨがサヨ叩きを…ってウヨサヨ双方が相手を叩くための材料と化したような
だが俺が関心を持つようになったのはそこではない
彼らが騒ぎ始めたから関心を持ったのだ
最初から関わってた歴クラもいたかもしれないが、一気に広がったのは先週末くらいからか
きっかけは何だったかといえば、岡美穂子という学者がこの騒動に介入したからだと思われる
岡氏に対する批判が始まった。これが歴クラの癇に障った
歴クラはそういう人達ばかりではないが、こういったことが気にくわない人達がかなりいる
有名なのは「呉座勇一vs井沢元彦」あるいは「呉座勇一vs八幡和郎」などだ
一般には井沢・八幡氏は右派にカテゴライズされる。当時の呉座氏は現在のイメージを一般には持たれてなかった。
トンデモ素人と戦う「人斬り呉座抜刀斎」などと称賛されていた。
ただし呉座氏の鍵垢に集う「御伽衆」とも呼ばれる人達は呉座氏の政治的立ち位置を知ってたかもしれない
とにかく一部の歴クラにとっては、相手が右だろうが左だろうが専門家に盾突く素人は敵である
そして先週末に呉座氏と同じ日本中世史の研究者である平山優氏が参戦した
平山優氏は去年の大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を担当したのだが、
時代考証が甘い、おかしいといった批判を素人から浴びることになった
平山優氏は言われたら百倍返しくらい言い返す人で、それが一部歴クラから絶賛された(批判する人もいたが)
そういう経緯があったので、今回も素人一般人が批判するといつものバトルが始まった
御伽衆は当然、平山氏が「弥助は侍」というのだから侍なんだ、素人は黙ってろと主張。素人のくせにといういつもの見下し。
全然わかってない素人ももちろんいたが、かなりの知識を持っている素人もいた。
実際のところ侍の定義はそれほど明確なものではない。素人一般人もそれで黙っちゃいない。
一方、その頃岡美穂子氏の発言がいかにも「サヨク(リベラル)」だったので、当然ネトウヨが食いつく
さらに平山優氏も元共産党員の過去からサヨクとしてネトウヨに叩かれることに
歴クラは学者がサヨクだろうがウヨクだろうが、そんなことは気にしない(平山氏と呉座氏を同時に崇められる)ので
だがウヨサヨの対立構図になったことで、数の上では少ない歴クラの声は埋没
今に至っているように俺には見える
※なお岡美穂子氏に関しては歴クラもあまり馴染みが無いので最初はともかくあまり言及なし。さすがにあのグダグダでは擁護も難しいのかもしれない。素人批判者の誤読があればそれを叩く方針で「日本が黒人奴隷を生んだ」など数点に的を絞って「素人批判者全体」を馬鹿にする方向で。
うーん、イスラエル支持してても民間人巻き添えにして悪びれもしない今のネタニヤフ政権を支持してる人の割合そんなに多いかね?
9.11をTVなりネットなりで見た人は沢山居るから「テロ撲滅のためなら民間人巻き添えにして当然」って考えの人多いのかな?
州毎に集計だから偏りがあって影響大きい州があるかもってのは確かにあるけど、最近はアメリカのユダヤ系社会のほぼ全体が脳死でイスラエル支持って訳でもなくなってるみたいだから悪影響の方が大きそうな気がするけどね。
「告白してないのに勝手にジャッジされる状況が嫌」ってことなら少なくとも女らしくない部分のある女性からは共感できる内容のはずですわ
着たい服ややりたい趣味や行きたい進学先や就きたい職に対していちいち外野から「そんなんじゃお嫁に行けない」とか「本当の女じゃない」とか言われる状況はやっぱり不公平だと思いますしストレスがかかりますわ
でも最後の行で「その上で、ニュートラルな価値観で自由に選んでほしい」ってあるから元増田はやっぱり恋人が欲しいところまで込みの話かもわからんわ
まあ文章として書いてる最中でどっちも混ざって来ちゃったけど主張としては「告白もしてない外野から恋愛対象かどうかをジャッジされて男性試験結果落第を共有される状況が嫌」って所がメインなんやないかな、知らんけど
行為の是非も言わない
体操の日本代表については年齢を問わず、役員についても、喫煙と飲酒が禁止されている
当然に、役員も飲酒がバレたのなら、規約に則り即退場してもらうべきだろう
で、だ
これについて、重すぎるだの、この程度だのと言う人が多い
これが役員側だったのなら、金返せ位言ってるだろう輩が
WAKAMONOとなると突然大甘になる
その時に決められている規約を守れないなら参加すんなよって思うんだよ
行為の是非じゃないぞ
喫煙はダメとか、着崩しはダメだという規約があるならそれを守るべきで
それが不服なら参加すべきじゃない
選手側に自由意思があるんだから、そんなクソ団体に参加するなよ
着崩しで参加したいなら規約を変えるなりすりゃいい
問題になった選手達はクソ下らん規約を定めてる日本代表になんぞ選抜されんでも
全然やっていけたでしょ
・本人がメンヘラすぎてマネージャーに迷惑をかけ続けとっかえひっかえでついに担当する人間がいなくなった
・もっとクリエイター方面(本人曰く漫画家らしい)に手を伸ばしたかったが事務所の方針がストリーマー意向で食い違っており話し合って決裂
かなぁ
もしマネージャーや所属メンバーにパワハラや迷惑をかけていたらそういう文言が入るはずだがそれもないしまぁ外野からはよくわからないよね
原告 暇空茜
被告は原告に40万及びこれに対する令和5年1月8日から支払い済みまで、年3分の割合による金員を支払え
訴訟費用は、これを33分しその29原告の負担とし、その余を被告とする。
http://blog.livedoor.jp/advantagehigai/archives/66239702.html
Colaboさんにはボロ負けするが外野には強い暇
横から失礼
俺は予算取ってる側だから嫉妬で書くわけではないことを承知してほしいんだけど、選択と集中の問題は大きく2つだと思っていて、
1つは選択のための申請書や面接などが膨大にあって明らかにそれに見合わない人件費が投入されてることだね。
特に予算が必要な研究とかをする場合は年中ずっといろんなところへ申請書を書くことになり、研究をする暇がなく成果がどんどん出にくくなる負のループがある。明らかに無駄。
もう1つは一部の研究者に予算が過剰に集中してしまって明らかに無駄な使われ方をしていることなんだよね。
目立つ研究者は巨大予算を3つも4つも掛け持ちしているのが普通なんだけど、それこそ3つも4つもあっても研究をこなす時間もなければスタッフも足りなくて、
余ったお金を使い切らないといけない制限も含めると国の年度末の公共事業よろしく無駄なものを買うことになり、完全におかしなことになってるんだよね。
そりゃ予算は増額してほしいけど、このまま増額しても上記の2つの問題が加速するだけで根本的な問題解決にはならない気がする。
予算の多寡によらず多くの問題が選択と集中によって引き起こされてるみたいなのはたぶん外野からは想像しにくいんんじゃないだろうか
少し前に女子アスリートの盗撮が問題になっていたけど、正直めちゃくちゃ難しい問題だと思う。
正直、どんな物でもそれに興奮する人はいる。ユニフォームの露出度が高くないスポーツでも興奮する人はいるし、股間をアップしたり赤外線で透かした写真でなくても興奮する人はいる。
体操競技では布面積の大きいユニフォームを着用する動きがあるけど、体型さえ分かれば良いという人もいるだろうし、効果は限定的な気がする。
もっと言えば男性の肉体美に興奮する人も多いと思うし、女性に限った話じゃなくなっている。
しかし、誰でも股間とかをアップされるのは嫌だろうけど、それで撮影自体を禁止するべきなのか疑問がある。カメラを向けられるだけで嫌だと感じる人もいれば、肉体美に自信を持っていて筋肉や体格を見せつけるアスリートもいる。ビーチバレーでは自信からあえて布面積の小さいユニフォームを選ぶ選手もいると聞く。
いま「私は肉体を見てほしい」と主張したら、規制の動きに冷や水を浴びせるものとして批判も受けるかもしれない。
陸上や体操がなぜ布面積が小さいかというと、筋肉や関節の動き、体型に合わせて進化した結果としか言えない。となると、布面積を大きくしてしまうと、代わりに記録が損なわれて興行としての魅力が小さくなる恐れがある。正直、女子競技は男子競技と比べて迫力に欠ける面があり、記録が後退するのはかなり痛い問題となる気がする。
そもそも体型や肉体美も重要な要素となる競技では特に競技自体の魅力に影響する。例えば体操やフィギュアスケートは手足の長さを見せられるユニフォームの方が動きが美しく感じられる、審査上も有利となる。ビーチバレーは男女問わず躍動する健康的な肉体も競技の魅力の一つに思う。
また、ビーチバレーで撮影を禁止したら人気が落ちたから一部解禁した、なんて話もあるらしい。カメラ撮影が全て性的な動機によるわけではない。海外では観客に撮影する権利が当然にあるとされているから、同じ日本国内の大会であっても国内大会は撮影禁止で国際大会は撮影OKだったりする。
アスリートを守るための規制によりスポーツの価値が損なわれたり、観客だけでなくアスリート自身も魅力を感じなくなったり、競技自体が喪失したら元も子もない。しかし当然ながら過激な盗撮魔を放置するべきではないから、絶妙な規制のあり方を検討していかないといけない。外野ではなく、競技に取り組むアスリート自身で考えていかないといけない気がする。
自分ではやめたくてもやめられないヤク中みたいなものだと本当に彼らは自認してるのか?
その人たちが実は自分の価値観・経済観で後悔しない課金をしてるなら、ろくに理解のない外野の他人が「廃課金!中毒!」と責めることに意味はないどころか、有害だろ
独裁者が敷く計画経済でもない限り、モノやサービスの価値はそれに関わっている当事者同士が決める、そうだろ?
俺は経験者目線でこれら作品群が、人によってはそれだけの価値を認めうるほどの、後悔の生まれづらい優れたサービスを展開してることを言語化できる範囲で示した
それをまったく考慮に入れず、他人を勝手に愚かさ故にゴミにボられて自滅した被害者扱いし、ひとの金遣いに難癖つける、そんな傲慢発言をしている心当たりはないのか?
本当にそれほど悪質なものなら、ゲームメディアがこぞって取り上げライターまで夢中になっていたりはしないし、各種のアワードを受賞したりもしないんだよ
ガチャゲーを害悪視したい人が思っている以上に、ほとんどの評価されてるゲームはそれぞれの「ライン」を守ってユーザーに愛される作品を、ユーザーが納得して決済の指を動かすだけの価値や体験を提供しているんだよ
この分野がまだまだ未熟で消費者に選択肢があまりなかった時代ならともかく、これだけ成熟した市場でヒット作がそれほど悪辣だと思えるのは病的だ
その病的な被害妄想が自分自身の受けた体験に関するものならいいが、他人が加害されてる妄想を事実かのように語るのは失礼にも程があるし、ましてそれを正義かのように語るのはいかに醜悪か
逆説的だけど、恵まれた環境に置かれた人間のしんどさってあるなって思う。社会制度がどうのとかじゃなく個々人の姿勢の話ね。内的にも対外的にも逃げられる言い訳の無さと言うか。
恵まれなかった人間なら多少弱音を吐いても「かわいそう、仕方なかった」で、頑張れば「あんな境遇からとても偉い」になる。
恵まれた人間が同じ事を言えば「贅沢な悩み」とでも言われて矮小化されがち。例え本人の感じている苦痛が本物だったとしても、まやかしや甘えの扱いを受ける。
全ては自分の意志次第、の自己責任マンは知らん。自分の思想を客観視した上で環境に不平を垂れる人間を見なくてもいいようにしていない、そういう人間を排除する社会へと変えられないお前の自己責任。まあ自分も構造主義より実存主義の方が好きだしあまり強くは言えない。
基準がなければ不満は際限なく増大するから目安として他人の水準を考える、というのも分からんでもないけど。にしても上はいるし。
もっと辛い境遇の人がいるから相対的に幸福、が通るならもっと恵まれた人もいるから相対的に不幸も通るのにね。そもそも自分の話になんでお前がしゃしゃり出てくる訳?下手すりゃ自分ですらなくどこかの恵まれない誰かを引き合いに出して。
いやまあ客観的というか一般的な基準で恵まれてると言えるような環境への文句に苦言を呈するのは分からんでもないけど。ガキの頃月3万の小遣い貰ってたけど足りなくて不満だった。もっと楽しいティーンエイジを送れたはずなのに損した、とか。
でもそういう外との関係がある問題とは違った内的な悩みについてまで、環境を持ち出して矮小化するのは違うんじゃないんですか。下手に恵まれてるからいらん事ばっかり考える、だとか。
もっと言えば世間の基準や外野の感想がどうだろうが、小遣いが足りないと思ったのならその人にとっての不満は本物なんだろうし。
でも何かこう、「客観的には恵まれてるけどそんなの関係なく自分は辛いからこうしてくれ」と、「妥当」であれそうでないんであれ不満が不満で終わらずに待遇改善を求めて、求められた側が「甘えるな、そんな悩みは贅沢だ」と突っぱねるなら全然分かるんだけど。
そんな要求が罷り通るほど世の中は云々、とかそういう事じゃなくてね。共感出来もしない悩みに対して助ける道理なんかないだろうし。そもそも共感出来ようが出来まいが助ける義務なんかないと思ってるけど。助けたれば助ければいいし、強いられる道理もない。協力ゲームの理屈は置いといて、道徳の話としては。
そういう場面でなく、別に助けを求める訳じゃないけどポロッとこぼした言葉を責め立てられるのは鬱陶しいよねって思う。
こぼすな鬱陶しいって話なのかもしれんけど。生き辛ない?そういう「意味のある」会話しか求めないの。
あとなんかジョジョでも幸福は絶対的なものじゃなく、スタート地点をゼロとする相対的なものだ、的な話があった。
環境の幸福度なんか逓減していくもんだろうから、このスタンスで言えばただでさえ恵まれる環境に生まれればそこから更に上に行くのはしんどくなる。
わざわざ自分が不利に置かれる価値観に与するのもマヌケっぽいけど、この考え方が特段変わったものだとも思えない。
そりゃ全くの一人で生きてる訳じゃないから、多少は他人の人生と比べて家庭の経済状況や親との相性とかを客観的に相対化するものだとは思うけど。
でも基本的には環境なんて所与のものであって、自分にとっては少なからず当たり前だと思ってる部分がある。
マジで辛い環境にいる人は、こんなんが当たり前でたまるか!って思ってんのかもしれんけど。
幸せになれない価値観なんか捨てて思考を矯正すればいいんだけど、それをやるならもう何でもアリじゃんって気もする。
新興宗教にハマり新しい価値観を得て、本人は幸せだと言っている。これは哀れ。
いつまでも仕事か辛いとばかり言って、価値観を変えて少しでも楽しもうという姿勢を持たない。これはワガママで子供じみてる。
これってダブルスタンダードだよね。どちらも幸せを求めた適応の話なのに。結局自分が信じてる価値規範を共有したいだけじゃんっていう。
おれは客観的に恵まれた環境にあって不満だらけの人間なので、態度次第では世間からの当たりが強くなる。
内面化された「環境に感謝」の規範をこそぎ落とし、「いやおれが辛いと思ってんならおれにとって間違いなく辛い事だし、他人の感想や、他の境遇を持ち出した相対化なんて関係ない」と開き直る事でせめて自分の中では居心地の良さを確保する。
その上で、「だからといって別に他人がおれを助ける道理はない。生まれ育った普通か恵まれてるくらいの環境を恨むこともない」とも思うことで社会との関係を維持する。そもそもおれの抱える悩みの大半が他人の助けでどうこうなるもんじゃないし。
自分なりに整合性を取った態度のつもりなんだけど、おれの言葉から言ってもいないスタンスを勝手に一義的に導き出す人もいるし、歪なのかもしれない。
まあこんなのも恵まれた人間の思考回路が前提になってるもので、そうでない実際の人間はまるで別の世界観を持ってるのかも分からんけど。分かった所で悩みが消える訳でもないし、どうでもいいや。