はてなキーワード: ミクロとは
「何かを学び、知見を深めるのは良い事である」というのは勘違いだ。
端的に言って、一般人が著作権に詳しくなるというのは世の中にとって良い状態ではない。
というかマイナスなんだよね。ミクロの話ではなくマクロの話な。
人間は自分に都合のいい情報だけを集める。これはもうどうあっても逆らえない。
一般人は例えば弁護士Aと弁護士Bが「この場合はこうです」と言って、その内容が食い違っていた場合、必ず自分にとって都合のいい意見を採用する。
実はこれは良い状態なんだ。
一番良い状態=「なんとなく犯罪っぽいことは知識がないのでやらない状態」なんだよね。
実は法律って結構ガバガバというか、あえて恣意的な運用が出来るように、良く言うならば自由度が高く柔軟に作ってあるのよ。
構造上、ファジーな部分がある。だから、結構網目をすり抜けようと思えばすり抜けられるんだよね。
で、ぶっちゃけ法律の知識ってのは要は「ここまでは罪になりません」ってことを知ることになるわけよ。
著作権ってのはかなり、この悪影響を受けている分野だと言われている。まあ、大体同人誌周りのせいなんだが。(その手の法律の勉強してる人達は「実態と法律が噛み合ってねえ~」って一度は頭を悩ませたことだろ)
スピード違反だって厳密には違法行為だけど、ぶっちゃけほとんどの人は守ってないわけじゃん。
それって知識のせいなんだよね。「この程度なら捕まらない」「あの辺はネズミ捕りがあるから避ければいい」とかね。
仮にそういう知識が全くなければ、多分世の中からスピード違反は随分減ると思うよ。
何で日本は暴動が起きないんだと思う?それは実は「暴動のノウハウがない」からなんだよ。決して民度が高いからじゃない。「この程度の犯罪をどの場所でどの程度の人数でやれば捕まりにくいな」っていう経験値が足りないだけ。
逆に、同人誌とかは、かなりノウハウあるのわかるっしょ?「この程度のことをここで公開する分には捕まらねえよ、まず」って知識がやたらと共有されている。
だからある種のグレーな状況が維持できてるわけだ。
で、冒頭の話に戻るんだけれど。
ゆっくり茶番劇の件って、要するに『商標登録ってこんな簡単に人の褌で相撲取れるんや!』ってみんなで拡散しあってるんだよね。
ニュース番組で空き巣の手口や車泥棒の手口を事細かに解説すんなよ、とかそういうレベルの話なんだ。
「こうこうこういう理由で、ゆっくり茶番劇の件、あいつは違法行為をしている!」って、裏を返すと「その部分以外は違法じゃない」ってみんなで採点をしているに等しいんだよね。
何が怖いって、今回の件で一番得してるのって多分当事者以外の商標ゴロ(新規)なんだよ。だってすげえ人数で今回の商業登録案件のクロスレビューをしてくれてんだもん。ほとぼり冷めたらその知識と経験でもっとあくどいことができるわけじゃん。
集合知って素晴らしいね。ホントに。(本当のゴロはもう理論武装してるから法改正だのされそうなことすんなよ馬鹿、と思ってるけどね)
実は、悪い事だけど捕まらないだとか、捕まっても大したことないとか、そういう例っていっぱいあるんだよね。だからヤクザとか半グレの上の方はちゃんと法律を学んでるわけよ。
学ぶとね、「これって悪い事だったんだ!やめよう!」なんてことにはならないよ。
「ああなんだ、これってやっても大丈夫なんだ」って事の方が多いから。法律って。一般人がみんな法律の専門家になってみろ。大変なことになる。「大衆の無知こそがモラルを守ってたんだ」とアメリカの某弁護士ドラマでも言ってただろ。
みんなが、自分にどういう権利が与えられているかなんて理解すると、必ず運用でめんどくさいことになるんだ。
で、そのめんどくささはサービスの受け手であるみんなに逆に降りかかってくるよ。絶対。単純にコストが増大するからね。
だからみんな、今すぐ法律を学ぶのをやめよう。全体のことを考えると、マジで迷惑。
今回の件は手遅れだけどね。
いわゆるOA分野とか、コンピューターを主に使用する作業の、自動化が流行っている。
製品で言えば、RPAとか、ノーコード、あるいはSaaSやパッケージソフトとか。
OfficeについてるVBAを使うとか、Pythonでスクレイピングとか、そういうのも併せて。
いわゆるマクロ的な何かで、タスクを自動化する、という考え方だ。これは昔からあったとも言えるし、製品や方法論がここ数年、急激に増えて、環境が激変したとも言える。
さて、個人が、その責任の範囲で、自己のタスクを自動化するのは、組織が禁止しているやり方でなければ、それについてとやかく言うつもりはない。
問題は、組織内部での自動化の推進や、それを補助するコンサル、あるいはソフトウェアのメーカーやベンダーだ。
すべてが駄目というわけではない。
「自動化で単純な作業から解放されて、クリエイティブな作業をすれば良い」
言い換えよう。今挙げたようなことを言う(書く)メーカーやベンダー、あるいはコンサルから個人まで。それらは皆、地雷だ。関わってはいけない人だ。
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何故か。それは彼らが現実を見ていないからだ。そして、その現実を見ていないことが、軋轢を生むからだ。もしかしたら現実を見た上で、しらばっくれてる人も居るかもしれないが、タチの悪さは変わらない。
困ったことに、彼らの言う「単純作業から解放されてクリエイティブな仕事を」は、一見、理想的な環境に見えるのだ。
いや、実際、理想的ではあるのだ。現実的でないという問題さえ目をつむれば。
「世の中には2種類の人間がいる」という、使い古されたレトリックを、労働分野に応用してみよう。
すなわち、言われたことを淡々とやり続けることを好む人と、抽象的な指示や課題に対して、具体的な対応を行うことを好む人だ。
もう少し具体的に書けば、「言われた作業を淡々とやる人」と「創意工夫して結果を出そうとする人」になる。
さて、前者の、言われた作業を淡々とする人にとって。自動化は、己の存在意義と競合する。つまり、自動化されてしまったら、仕事がなくなる。
意識の高い社員や、コンサル、ソフトウェアのメーカーやベンダーの言うような「クリエイティブな仕事」なんて興味がない。
そういう人を「意識が低い」「生産性が低い」と卑下するのは簡単だ。だが、それは何も事態の解決にはつながらない。
単純作業の自動化がなされた時、その人たちに襲いかかるのは、「クリエイティブな仕事」という、安定した手順も方法論もなく、それでいて成否は存在する、という苦痛のような仕事への移行なのだ。
そして少なからぬケースで、単純作業を淡々と行うことこそ仕事、と捉え、そう働いてきた人は、クリエイティブな仕事とやらでは成果が出せない。ただ苦しむだけになる。
おそらく組織としての生産性は上がるだろう。それをもって成果とするなら、それはそれで矛盾はない。
ただし「働き方改革」のような題目を掲げて、自動化を進めていたのであれば。それは善人面をして、人を地獄に蹴り落とす所業だ。本稿のタイトルで「信じるな」と書いたのは、まさにここにある。
この話には、日本の雇用に関する、法律、行政の態度や、判例なども影響してくる。
前述したような、単純作業を奪われ、苦痛に満ちた苦手な仕事にたたき落とされた人は、どうなるか。
第一に、会社を去るという選択肢はある。だが、このご時世だ。今と同等の条件すら見つかるかどうかは怪しい。
それを自業自得と嘲笑するのは簡単だ。改善を肯定し、生産性の向上を是とし、発展を求める価値観からすれば、矛盾はないのだ。それが倫理的に正しいことなのかは、私にはわからないが。
第二に、苦しみながら会社にしがみつくという選択肢もある。正規雇用の場合、これが簡単に成立してしまう。「クリエイティブな仕事」をさせた成果がボロクソに悪くても、本人の意図的な手抜きなどがない限り、会社は簡単には社員を解雇できない。
はて、本人も苦しんでいることが多い、機能不全の社員を雇用し続けることが、生産性の向上や、働き方改革、ワークライフバランスなどにつながるのか、私は甚だ疑問だ。
つまり、業務の自動化、省力化を目的にするのは、それ自体が破綻を招きやすいのだ。それで浮いた人的コストを、どのようにするか。適材適所で別の仕事をあてがえるのか、あるいは解雇して雇用コストを削減するのか。
どうあれ、簡単なことではない。配置転換の教育コストを見積もるのは簡単ではないし、非正規だからと大量に解雇すれば、それだけで負の風評が生まれたりもするのだから。
人は、自分と異質な人に対して、理解が及ばないことがある。これ自体は仕方が無いことと言える。誰しもがわかり合う、なんてのは現実的ではないからこそ、フィクションで度々取り上げられる題材なのだ。
しかしながら、業務の自動化を改善と捉え、自身が単純作業を嫌う人の中には、少なからぬ割合で、単純作業を延々と行い、その労働時間を以て成果となす考え方の人を、理解していない、あるいは想定していないケースが多い。
その不理解や想定不足は何を生むのか。自動化の導入失敗や、同僚からの強い反発だ。決してプラスの結果ではない。その現実から目を背けてはいけない。
だからね。
「単純作業から人を解放したい」とか「空いた時間でクリエイティブな仕事ができるようになる」なんて、手放しで言っていたら。
その人たちを、信じちゃあいけないよ。
蛇足。
筆者は、別に、「単純作業を淡々とやることで鬻ぎたい人」を肯定するつもりはない。
少なくともデスクワーク、パソコンでの仕事等であれば、そういった人は滅びるべくして滅びるだろうと考えている。
だが、彼らに引導を渡すのは、個人や、少人数程度による「カイゼン」的な何かではない。個人や少人数による「カイゼン」が引き起こすのは、せいぜいが内部分裂や、一部の人に苦痛を与えるだけなのは、前述した通りで。
引導を渡す、という次元の話で言うと、おそらくは、そういった非効率的な人員を抱え込んだ組織の崩壊(企業で言えば倒産など)のような、圧倒的かつ、個人で抗うことに意味がない流れになると考えている。
もちろんその場合、多くの社員が路頭に迷うだろう。クリエイティブな仕事がどうとか言っていられる状況ではなくなるのは明白だ。
そういう未来が見えているからこそ、ミクロな視点でしかモノを見ずに、「自動化で業務を改善して~」「クリエイティブな仕事を~」というおためごかしを唱える人には、関わってはいけないと考えているのだ。
撃ち合いの強さだね。ミクロ面での強さと言ってもいい。1対1や1対多数で相手を倒せる個人技の強さって感じ。
マクロ面は全体的な攻め方、守り方。チーム全体での連携力や対応力がどうかって話になる。
5人対5人のゲームなので、チームとして対応できずに有利を作られた場面でも、1人が3人4人と倒してしまえば一気に形勢が逆転する可能性がある。敵5人全滅でそのラウンドは勝ちなので。
基本的にアサルトライフルならヘッドショット1発で敵を倒せるゲームなので、行動予想の正確さ(いわば勝負勘のようなもの。ピークのうまさやプリエイムの正確性に関わってくる)、銃の扱いのうまさ(エイムやリコイルコントロールの正確性、あとはフリックエイムの速さと精度)この辺りが重要になってくる。
文脈がよく分からないので、他での指摘と重複していると思うが、個人的に思ったこと。
文章がMECEでないので「まあそういうことね」という話は措いておいて。
a. 日本語ウェブサイトの記事本数で比較することはフェアではない
新しめの技術を活用している人の情報収集の順番としては、エディタでライブラリの当該部分のソースコードを読む、GitHubにリポジトリがあるのであれば、そこのissuesで検索をかける、Googleで英語(エラー文言等なので必然的に英語になる)で検索する、Stack Overflowで質問するという感じだと思うので、Qiitaでの出現数が減ることは仕方ないと思う。
ミクロで見ると、フロントエンド系の主要な論客がQiitaから離脱していることもある。
SSGの登場によってSPAのネガな部分のほとんどは潰されていると思う。
SPA的な手法を使うのであれば、SSGにしろという指摘であれば、的を射ていると思う。
他にも色々と言いたいことはあるが「SPAのことを言ったら一斉に突っ込まれた」という事象を観測できないので、とりあえず以上。
フェミニズムやポリティカリーコレクトネスな視点からの不快感の表明は、発言者本人は抗議のつもりじゃじゃなくとも、他の人間が祭り上げて抗議運動になる可能性が高いという現代の世界的風潮のまずさを理解していない。
しかも抗議や炎上に繋がったとしても、発言者にせよ祭り上げた奴らにせよ、責任を追及されない。
それに対して、抗議された側が無視や反論をするのは悪人扱いされやすくリスクが大きすぎるので、フェミ的な物言いがついたら諾々と従うことになりやすい。
このように、フェミニズム/ジェンダークレーマー/ポリコレなどに属するネガティブな物言いは発言者の意図に関わらず炎上の火種として利用されるし、主張が不条理でも社会正義だからよいことと扱われる。つまりまともな討論ができないほどポリコレが力を持つ時代なので、その不公正に気付ける人はポリコレ的な発言を他よりも厳しく早く批判するべきである。
歴史に学ぶ、というのはそんな簡単ではないと思う。そもそも、現在が本当にその歴史と同じ状況なのか?ということをまず考えなくちゃいけない。
かつてヨーロッパがヒトラーのズデーテン地方併合を黙認したのも、「歴史に学んだ」(そっちの方がうまく収まると考えた)からであり、結果的にそれは悪手だった(と政治学の教科書に書いてあった気もするが詳細はよく覚えとらん)
卑近な例で恐縮だが「歴史に学ぶ」といえるのは、次のようなミクロなレベルのものくらいしかないのではないか。
例えば、夏目漱石の時代は「小説なんて読んだらバカになる」と言われ、彼の小説も蔑まれていたと聞く。
今は「なろう小説」や「異世界転生もの」が盛んにバカにされているけども、それははたして正当な評価なのだろうか?自分も人間のよくある「新しいものをバカにする」習性にハマっているだけという可能性を考えると、簡単にバカにはできないように思える。
ここ最近で言いたかったことを吐き出したいです。自分は「白饅頭」氏のマシュマロに投稿した国立大学の医学部生です。詐称を疑われるといけないので特定されない範囲で所属を明かせば、東医体の参加校だけど北医体の参加校ではない国立大学の学生です。
昨日は悲しいことがありました。公衆衛生(講義名は公衆衛生ではないが、実質そういう講義で、講義名を明かすと身バレするのでそういうことにしてください)の講義で喋っていた先生が質疑応答の際、生活のために営業を継続することと感染対策に協力することを天秤にかけた上で前者を選んだ人々のことをどう思うのか,どう対処するのかという説明に対して「そういう人たちは小さい頃勉強しなかったからねえ〜」と発言しました。その後に続いた言葉と合わせて推測するに、明らかに「受験勉強で学歴を得てコロナの影響を受けない職業につかなかったことが悪い」旨を含意していました。自分の実家は決して大きくはない観光関連の会社をやっていることもあり、意図的ではないにしろ向けられた悪意に感じるところがありました。
留保なく「コロナはただの風邪」とは言いません。しかし、自分はすでに3回目のワクチンを接種していますし、日本では8割近くがコロナワクチンを必要回数接種しています。コロナによる死亡者の平均年齢は79歳で、一方で国立社会保障・人口問題研究所が公開してる22/2/7時点のデータによれば10代の死者は4人、20年代の死者は27人です(出典1)。基礎疾患があった人や事故で亡くなった人にPCR検査を施したら陽性だったようなケースを除いて、「基礎疾患のない市中の若者が感染し死にいたる確率」は取るに足らないほど小さいでしょう。特にオミクロン株については感染状況で先行した沖縄県の専門家会議の座長ですら「致死率0.006%」「入院は必ずしも必要ない」と言っています。中高の同期と医学科の同期を合わせて6,7人ほど今年に入ってオミクロン感染した直接の知り合いがいますが例外なく鼻水のみか37.5度程度の熱で収まっています。翻って2回目のワクチン接種の副反応では自分を含めて体感で2/3程度が40度近い熱と悪寒を体験しています。同年代の若者は無知ゆえにコロナを恐れていないのではなく「ワクチンの副反応>オミクロン」を経験則的に知り、先述のデータもこれを裏付けています。こうした背景がある中で、飲食や観光、イベント業に従事する人たちが自分と家族を養う義務とコロナの(ワクチンによって小さくなった)リスクを天秤にかけ、また若者が今この時にしか楽しめないことと天秤にかけ、感染対策に協力しないことを選ぶことは全く責められるべきではないし、少なくともミクロの領域では合理的でしょう。
ツイッターで「医クラ」という医師の集団をフォローしています。最初は志望科に迷っていた中で生の先生の様子が垣間見えることでフォローしていましたが、彼(女)らの言動に対する違和感が拭えなくなってしまいました。「東京で10代が亡くなった」と彼らが大騒ぎしているのを見たら事故で亡くなった人にPCR検査を施したら陽性だったケースだったり、基礎疾患があったケースをなんら健康に問題がない若者が死亡/重症化したかのように言い彼らも当初言っていた「正しく恐れる」態度からかけ離れた発信を度々行っていました。仮に基礎疾患のない市中の若者が感染し亡くなるケースだったとしても、レアケース中のレアケースを取り立てて発信することは彼らが蛇蝎の如く嫌う「反ワク」と全く同じように思えます。それ以上に目立ったのが他業種に対する蔑視です。先ほど述べた弊学の先生みたいな先生はマイノリティーだと信じたいですが、「商売人にはモラルがないので規制は緩めるな」「不要不急じゃない居酒屋なんてあるの?w」「成人式は不要不急」みたいな発言をしょっちゅう見かけます。コロナ禍で縮小する景気の中で額面収入の20パーセント近い社会保険料を医療の原資として納める市井の人たちや自分達にとって限りなく低いリスクながら利他心で感染対策に協力する若者にあまりにも礼を欠いていると考えます。
こうした医師の多くは「日本経済は鎖国のダメージはない、未来永劫鎖国して内需で食っていこう」「若者にとってもコロナは死の病」みたいなことをどうやら本気で考えているらしく、少しでも疑義を挟む人間は反ワクと同じカテゴリーに見えてしまうようです。しかし、はっきり言えばこのようなバランス感覚が欠如した人間の訴えは全く若者には響きません。厚労省の「医療給付実態調査」からライフネット生命が計算したデータによれば若者が年に病院に行く回数は5回に満たない程度です(出典2)。自分のような慢性鼻炎持ちが通院回数を押し上げているので中央値はもっと低いでしょう。若者にとっては病床よりもバイト先の飲食店のシフトが自粛で削られることの方が切実な問題なんです。鎖国したまま日本経済は回りませんし、自粛で失った若者の青春は戻ってきません。医師の先生方も中高での行事や医学部での部活・東医体での経験で人格を涵養されたと思うのでわかっていただけると思います。
若者を感染対策の取り組みに動員したいなら何がなされるべきでしょうか? それは僅かなリスクを針小棒大に煽り立てて脅したり、事情があって十全に感染対策に協力できない人々を蔑視し劣情に駆り立てることではありません。少なくとも「ワクチンを2or3回打った基礎疾患のない若者にはコロナは風邪に近い」ことを認め、それでも協力してくれる利他の心に感謝してお願いすることです。それと共にハイリスク層へのブースターや経口薬の流通を進めることです。兎にも角にも、ワクチンを打った若者にとって「未接種の高齢者が重症化するから自粛しろ」は効かなくなりつつあることを認識すべきです。
出典1:https://www.ipss.go.jp/projects/j/Choju/covid19/index.asp
じゃあプロットの03話から評価したものを。03話もう一回見て。
※とても丁寧なプロットを持つ回。くくるは冒頭で家族を失う代わりにチョコと知り合うというイベントに遭遇し、やがてチョコも老齢で足の病気となってゆく。この年老いたペンギンと水族館を過剰に守る姿勢は櫂よって「家族のようなものだ」という台詞を補完されている。つまりペンギンも水族館もくくるにとって現状では同義である。一匹の老いたペンギンは一人の男の子をのせた母体を運び、母体は水族館の羊水に入って男の子の夢を見る。幾多もの生命の重層的な営みが一人男の子を見守る、という優しいエピソードである。一つのペンギンが物語全体を貫く構造になっている。ペンギンはこの際古びたものと新しいものへの循環構造の一端を担っている。
構造としては、水族館→(キジムナー)→(チョコ)→水族館のメンバー→竹下→男の子、という順番で包むように内包されている。
端的には水族館とチョコを守りたいくくる、くくるのがんばりを応援したい夏凛、竹下を見守る水族館メンバー、竹下が見守る赤子、それらを見守るキジムナーという構造もミクロとして存在する。このプロットはまるで五十嵐大介の『海獣の子供』にも似たインスピレーションを有している。
ちなみに全アニメにこんなことやってるわけじゃありません。
よく見もせずに浅薄な意見を、それも世間的な高評価を無視してまで断行するのはなぜなの?
こっちから言わせれば何も見てないように見えるけど。