はてなキーワード: サングラスとは
住み始めておおよそ3年が経った。
「港区」と言っても、白金高輪は港区の南に位置する、閑静な住宅街だ。家賃も言うほど高くはない。
そのため、いわゆる「港区」のキラキラでギラギラなイメージを醸成する六本木や赤坂とは、趣も異なる。
そんな白金高輪に、私は3年ほど前に、新潟県から引っ越してきた。
実を言うと、それまでは白金高輪という地名さえ知らず、恥ずかしいことに「しろがねたかわ」と読んでいた。※正しくは「しろかねたかなわ」
そもそも港区であるということに気づいたのも、契約書にサインする直前だったりする。
そんな地方の田舎者には、この地の生活に驚きがいくつかあった。
私はあまり車には詳しくないが、やはり高級車をよく見かける気がする。
大抵、一軒家の車庫には、素人にも少なくともエンブレムから国産車ではないことは分かる、ピカピカの外車が並んでいる。
暖かくなるこの行楽シーズンには、キラキラのオープンカーにサングラスのイキりMaxフル装備ドライバーも、日常的だ。
少し前の話になるが、高輪ゲートウェイ駅のお披露目の時には、ガルウィングのランボルギーニが停まっていた。
見せびらかすために、わざわざ遠くから来た人だったのかもしれないが。
クイーンズ伊勢丹やリンコス、肉のハナマサといったスーパーが近くになる。
当然、いずれもごく普通のリーズナブルな商品も一応売っている。
しかし、同じぐらい、妙に高い商品も、「え、みなさんこれぐらいのやつは買いますよね?」といった雰囲気、さも当然のように並んでいる。
1,000円のレトルトカレー、3,000円のオリーブオイル、帝国ホテルのバターやピーナッツクリーム、外国のお菓子や豊富な調味料などを見ていると、お土産屋に迷い込んだかと錯覚する。
5,000円ぐらいするブランド和牛のステーキ肉も年がら年中置いているが、こんなものは年末年始や誕生日ぐらいにしか買わないだろ、という新潟県民の感性は、白金高輪から外れているようだ。
白金高輪は、近くの広尾や麻布と比べると、まだ開発され切った街ではないように見える。
高輪ゲートウェイ駅の開業が2020年だったため、これからなのだろう。
坂や道うねりの一角には、昔から住んでいるのであろう古ぼけた一軒家、謎の古本屋や良く分からぬ葬儀屋などが残されている。
一口に「港区」と言っても、地域ごとの風情にはやはり、いくらかの差があるのかもしれない。
おかげさまで家賃は抑えることができるため、とりあえず「港区に住んでいる」とイキりたい諸氏には、悪くない選択肢だと思う。
しかし、いうまでもなく、そびえたつタワーマンションは、価格もべらぼうに高い。
億越えのマンションは当たり前のようにある。そういった世相には疎いのだが、有名人も住んでいるらしい。
私は見上げ、そのふもとの日陰に涼むことしかできない。
他にもいくつかあるが、おおよそこのあたりが、自分にとっては驚きだった。
それほど生活費がかさむわけでもなく、中心地に対するアクセスの良さと喧騒からの距離を兼ね備えている。
しばらくしたら、もう少し広い部屋に住みたい。
もちろんここ、白金高輪で。
@MORI_Natsuko
16分
面白い風刺漫画ですね。意識高い系(woke)の地域では、露出魔でも「私はトランス」と言えば(2こま目)、悲鳴をあげた女性のほうがヘイトスピーチで逮捕されるという。露出魔が肩にかけている水色・ピンク・白はトランス旗ですね。
@MORI_Natsuko
実際、アメリカの高校では、女子トイレで女子生徒が「自称トランス女性」の男子生徒にレイプされても、学校も警察も動かず。激怒した女子生徒の父親が学校に怒鳴り込み、逮捕されてしまいましたね。このままでは、いずれ日本もそうなる。だから私は声をあげ、LGBT活動家を批判しているのです。
https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/1652562534921281536?s=20
@MORI_Natsuko
21時間
「性自認による差別を禁止」とは、医師の診断も必要なく、「私の性自認は女性」と主張した男性は女性と扱わないと差別だということ。埼玉県のLGBT関連条例が、まさにこれ。なので、埼玉の公立校では、更衣室やトイレが男女共用になる恐れがある。どちらも性犯罪や性的いじめに適した場所になりますね。
https://twitter.com/ILvJpW311/status/1652550003603431424?s=20
@MORI_Natsuko
あのとき、顔写真をネットで晒されたトランスの女の子は「サングラスとマスク、両方していてよかった」と言ってましたよ。藤倉善郎さん、遠藤まめたさん、あなたたちはトランス女性を人間不信にさせるおつもりですか? 議論ができないから、いやがらせや脅迫に走る……情けないと思わないのですか?
@MORI_Natsuko
私も登壇する記者会見です。一年前の院内集会では取材写真は顔出し不可の人もいるとアナウンスがあったにもかかわらず、「やや日刊カルト新聞」の藤倉善郎氏が写真を修正せずツイート、LGBT活動家・遠藤まめた氏が「ナイス取材!」と拡散していましたが、そういう恫喝めいたことはご遠慮くださいね。😊 twitter.com/savewomensspac…
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https://twitter.com/MORI_Natsuko/status/1651911155793932288?s=20
くろ〄💮
@Kuron_cho
こんな感じでもTだと主張すれば、弱者扱いされて可哀想可哀想ってなるんだな😑
怖いもん (๑•́ω•̀๑)
@MORI_Natsuko
9時間
経済産業省の身体男性(性自認は女性)が職場で共用トイレではなく女子トイレを使いたいと起こした裁判。最高裁では女子トイレ使用OKの判決が出る可能性。
この人物、異様に性的なツイートをすることで知られている。それでも、心は女性と主張すれば、女性になれる日本がすぐ目前に……いいのですか? twitter.com/asahi/status/1…
https://twitter.com/Kuron_cho/status/1652542980602093569?s=20
Blah
@yousayblah
·
6時間
松浦大悟氏と共に米国民主党のLGBTQ研修に参加したのが松中権氏。
松浦氏いわく研修で3つ教わったと。そのうちの2つが「アライを増やせ」と「法廷闘争」。味方を増やし、判例を作り、法整備を整える。
>アライを増やす
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
·
6時間
「おたくの企業は〇〇の運動に賛同しないのか?〇〇を支援しないなんて差別的だなぁ。メディアも飛びつくだろうなぁ」とばかりに世界中の大企業から寄付金をせしめたのがBLM。
2020年以来、BLMは実に829億ドル以上を企業から受け取っている。アフリカ46カ国のGDPを上回る額。「運動」はカネになる。
🇺🇸 🇯🇵Blah
@yousayblah
7時間
東急歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレ、誰も頼んでないのに企業や自治体の「LGBTQ+への取り組み」を評価する松中権氏の団体work with Prideの影響が指摘されてるね。
サイト見てるけど有名企業や都市がずらり。こんなにも侵食してたのかと。
たった0~5%のために社会が大奮闘してる感すごい。
何かと話題の歌舞伎町の新名所、東急歌舞伎町タワーに出来た109シネマズプレミアム新宿。全席がプレミアムシートで価格も4500円からとお高めだが、109シネマズには変わらないのでいくつかお得な方法はある。
年会費無料のシネマポイント会員になっていれば4000円から楽しめる。他の109シネマズでもエグゼクティブシートが通常料金で座れたり火曜日に安く映画を観れたりお得な会員制度だ。ちなみに水曜は非会員でも安くなる
入会金は1000円と高めだがポイントを2ポイントくれるので総合的には良心的。500円取ってクーポンしかくれないイオンやユナイテッドはともかく何もくれないTOHOはマジで考え直せ。
通常では6ポイントで無料鑑賞なのだが109シネマズプレミアム新宿では料金がかかる。IMAXとかの追加料金と同じだ。109シネマズプレミアム新宿の場合ウェルカムコンセッションの料金が1600円と明記されているのでプレミアムシート代1000円と合わせた料金と言う感じだろう。ちなみにウェルカムコンセッションはポップコーンとソフトドリンクは食べ飲み放題だ。
https://109cinemas.net/premiumshinjuku/refreshments.html
と言う流れになる。ここまでするのは二子玉、川崎、木場を利用している会員くらいだと思うがもしかすると観光ついでにと言うことで港北や横浜の人もやるかも。埼玉群馬の人はしないよね。
ちなみにポイント貯める映画を入場者特典がある映画にするとフリマアプリに出品して入場料をペイすると言うのもある。
109シネマズプレミアム新宿のコンセプトが富裕層の取り込みなのかたまの贅沢なのかは分からないが、もし色黒半袖Tシャツで金のネックレスとサングラスかけたたぶんポケモンカードとかの転売で納税して無さそうな中国人富裕層みたいな人をターゲットにしているならポイント特典対象から外した方が良いと思う。リッチな大人の社交場に元取んなきゃって考えるような人が来れるルートは作らない方が良い。
あと新宿ピカデリーにも言えるがプレミアムシートに来る客≠ルール守れる客なのでちゃんと客のチェックとか最悪退出させるくらいの対応はしてほしい。スマホとかの光はプレミアムシートの方が断然多いし上で言ったようなほぼ反社みたいな成金に道徳なんて意識は全くない。
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
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中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。