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2018-11-27

悪質な浅田真央オタ

事実を述べたらヘイトになる〜

羽生さん 宮原さん 紀平さん……

だってプレロテだったり回転不足だったりするんだもん……

ジャッジは認めてる!って言われるけど、もうこの議論ヤダ。

キムヨナの時からずっとやで。

こんなおかしなことを言ってスケオタ空気を悪くしている筆頭が浅田真央オタである

プレロテと言えば浅田真央ジャンプがそうだった

かなりの悪質ジャンプで点が伸び悩んだのに、驚くことに彼らは羽生選手ジャンプがプレロテだと喚き散らし

金メダルをお買い上げしたと主張する

ツィッターにはこんな頭のおかし浅田真央オタがわらわらいて

毎日観察するのに事欠かない

明日は何を言い出すんだろうかとw

2018-09-17

ポッピンQ

金丸(ポッピンQプロデューサー):東映が200館規模で公開するっと言ったら 「マジかよ」っていう。世間が混乱している(笑)

宮原(ポッピンQ監督):ざまあみろですよ。

松井(ポッピンQ企画プロデュース):いいですね。宮原監督から「ざまあみろ」って言葉。心強い。

金丸(ポッピンQプロデューサー):ありがたいことに、試写などで観ていただいたライターさんとかは「すごいですね」「よかったです」と言ってくれる方も多くて。

松井(ポッピンQ企画プロデュース):東映らしさみたいなところで言うと、”なんでもあり”感がとても大きな魅力だと思いますマーケティングやターゲッティングから入ったら絶対こんな風に振り切れないでしょう。


ポッピンQ

上映館数 221館

2016年12月23日公開 

2017年02月10日終了

初動 不明

最終 不明

興行収入 不明

2018-08-30

やっぱり録音は大切だと思う。

日本アマチュア体操不祥事宮原紗江選手へのパワハラ問題で思いついたことを書いてみようと思う。

宮原選手告発はおそらく本物だろうし、塚原夫妻のパワハラ疑惑もほぼ99パーセント割合で黒だろう。

テレビで見る塚原夫妻の風貌は「悪役」そのものだし、宮原選手を信じずに、塚原夫妻を信じろと言われる方が無理な話。

宮原選手に落ち度があったとすれば、塚原千恵子女子強化本部から電話越しに言われたパワハラ会話を録音しなかったことだよね。

まあ18歳だからそんな知恵は働かないだろうし、機転も利かなかったにしても。

協会側がパワハラ否定してしまったら、私達視聴者はどちらを信じればいいかからなくなる。

録音の威力は絶大なのは、これまでの経験則から明らかである

自民党議員豊田真由子の「このハゲ―!」発言の録音。

アマチュアボクシング山根会長パワハラ録音。

日大タックル問題における、関係者の録音。

これらの案件において録音してメディアに公開したのは、皆大人だったのが対象的。

録音が公開されてしまえば、「言った言わない論争」は一瞬に終わってしまうのだから

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

2016-12-27

北陸新幹線の残り区間ミニ新幹線でよくない?

宮原(車庫)-大阪-新大阪-(急行線)-京都-山科-(湖西線)-近江塩津-敦賀-福井までを三線軌道で、標準軌狭軌を併存。

ミニ新幹線12両で富山行。

土地の買収もいらないし、京都の地下を掘って遺跡を気にする必要もない。フリーゲージのような新技術もいらない。JR東実用化されているミニ新幹線車両がそのまま使える。

乗り換えもないし、京都も停まるし、大阪へも直通する。米原-新大阪間で東海の顔色をうかがう必要もない。

小浜新幹線は30年かけて別に作ってもらおう。

2009-07-31

ワッハ上方の闇 まとめ

ワッハ上方の闇5

http://anond.hatelabo.jp/20090731035245

の続き。

ワッハ上方が開館した平成8年以降、府議会では

吉本興業に支払う賃料の高さについて、

自民党の奴井和幸氏、梅本憲史氏、

共産党塩谷としお氏、阿部誠行氏、小林徳子氏、

民主党の西脇邦雄氏、漆原周義氏、松田英世氏、中村哲之助氏、

公明党清水義人氏

が、また赤字運営や入館者の少なさについて、

自民党の東徹氏、

共産党西原みゆき氏、

公明党山本幸男氏、

が府を問いただしている。

ところが、橋下知事府知事に就任した平成20年以降、一部会派は突然掌を返し、橋下知事が進めようとしている「賃料削減のためのワッハ上方移転」に反対したり懸念を示したりする。

例として、反対意見を述べた議員の発言を引用する。

公明党の八重樫善幸氏

 現在の賃借料は、庶民感覚からすると確かに高いとは思いますが、もし当時起債して建設していれば、府にとってもっと大変な借金として残っていたことでしょう。

 私は東北生まれですが、大阪人にとって最も大阪人たらしめている世界最強の資質、よいことも悪いことも、つらいことも難しいことも、すべて笑いで乗り越えていく、お笑いというすばらしい文化を世界のどこにもないすばらしい資料とともに残し、また誇りを持って子どもたちに引き継いでいく、ワッハ上方という遺産を残していっていただきたいとの願いを込め、改めて知事に質問をさせていただきたいと思います。

公明党清水義人氏

 それから、またワッハ上方は要らないという一部の有名タレントの方の発言があったと聞いておりますけれども、これはプロアマ問わず、大阪から劇場が次々なくなっている、そんな中で発表の場に困っている次の世代、次代の演芸演劇界を担う若者とりまして、このワッハ上方、大変重要な施設になっています。

 大阪の文化を担う人材の育成を図ることは、府文化振興条例の基本理念です。ワッハ上方は、その場であると考えますが、どうお考えでしょうか。

 それから、寄贈資料の保存、展示は必要だと、ライブラリー機能はそのまま移転すると、このようにおっしゃっておりますけれども、これら貴重な資料は、ワッハ上方理念に賛同された在阪の放送局府民プロダクションの方々から寄贈していただいている。現在指定管理者であるNPO法人ニューウェーブ大阪--在阪民法六社でつくられておりますけれども、この公益性、公共性を重く見て実は設立された。こうした経緯から移転縮小となりますと、こうして提供、寄贈していただいた資料の返還ということも起きてくるのではないかと。これでは、展示機能、ライブラリー機能を残すという府の計画は破綻いたします。ワッハ上方も、そうなるということも想定されての判断だったのか、お伺いしたいと思います。

共産党山本陽子

二条には、大阪市中央区難波千日前に設置する大阪府上方演芸資料館において、営利目的としない上映または再生に限り使用することができるとあります。学芸員を置いて、笑いという上方伝統文化を恒久的に後世に残すため、大事にすべき施設だと思っています。関係者とも十分話し合っていただいて、一方的な移転縮小は見直すことを要望しておきます。

共産党堀田文一氏

 千日前からワッハがなくなるという報道の後、全国各地の学校から、来年修学旅行のコースに組めるのかなどの問い合わせがきています。道具屋筋商店街での一日商売体験とワッハの見学が、修学旅行のコースにもなっているからです。ワッハが、道具屋筋などの商店街と協力してミナミに定着している事実は貴重です。この事実知事は御存じですか。

共産党小松久氏

 第二は、青少年府民の文化活動などへの公的支援の放棄です。国際児童文学館大阪センチュリー交響楽団ワッハ上方青少年会館、ドーンセンターなどへの知事の対応は、大阪で培われた歴史や文化などへの攻撃そのものではありませんか。

共産党宮原威氏

 問題は、委託料一億三千万円、吉本興業への賃借料に二億八千万円、計四億一千万円の大阪府の負担でした。知事は、ワッハに行ったとき、値引き交渉はと質問されました。その後、吉本興業から来年度から半額以下の一億四千万円以下にする提案があり、今後も交渉の用意があると発言されています。また、五千万円の収入をふやすことも含め、運営に当たる放送六社とNPOの要望書も出されています。

 ワッハは、千日前でこそ値打ちがあります。笑いと健康パック事業も開催され、府民も元気をもらっています。ミナミ健全な発展のためにも、大阪府の負担を大きく減らしながら、マスコミ、笑いを愛する府民吉本などの協力で現地存続に知恵を出そうではありませんか。答弁を求めます。

まとめ:吉本興業橋下知事の対立の背景には、単に橋下知事ケチをつけたいがために党の方針すら捻じ曲げる府議会議員の御都合主義があるのではないか?

ワッハ上方の闇6

【 平成20年  9月 定例会本会議-09月29日-04号 】

◆(堀田文一君)次に、ワッハ上方についてです。

 千日前からワッハがなくなるという報道の後、全国各地の学校から、来年修学旅行のコースに組めるのかなどの問い合わせがきています。道具屋筋商店街での一日商売体験とワッハの見学が、修学旅行のコースにもなっているからです。ワッハが、道具屋筋などの商店街と協力してミナミに定着している事実は貴重です。この事実知事は御存じですか。

知事橋下徹君)次に、上方演芸資料館ワッハ上方についてでありますが、地元道具屋筋商店街が受け入れている修学旅行生の体験メニューの場を提供しているほか、イベントの共催など、地元とさまざまな連携が図られているという事実そのものは承知しております。

【 平成20年  7月 臨時会本会議-07月01日-01号 】

知事橋下徹君)上方演芸資料館ワッハ上方)は、貸し主から大幅な賃料引き下げ等の御提案をいただきましたが、現地ですべての施設機能を維持していくためには多額の費用が必要となることから、展示機能と演芸ライブラリー機能を存続することとし、二十二年度末までに府有施設等へ移転いたします。

【 平成20年  7月 臨時会本会議-07月07日-04号 】

◆(宮原威君) 次に、ワッハ上方上方演芸資料館)についてです。

 一九八九年に伝説漫才師砂川捨丸氏の御遺族が鼓を、夢路いとし喜味こいしさんが秋田実の直筆台本大阪府に寄贈、岸、中川知事時代に計画が進められ、一九九六年に開館しました。関係者府民千人からの収蔵品は五万七千点、毎日放送朝日放送関西テレビ読売テレビラジオ大阪NHKなどから昭和二十六年から二千六百六十五番組映像、音声が提供され、日本で唯一の笑い文化の殿堂です。三百五席のホールは七八%、七十席のレッスンルームと五十席の小演芸場は九九%の稼働率、文字どおりミナミ都市力、文化力の拠点です。わずかとはいえ黒字です。

 問題は、委託料一億三千万円、吉本興業への賃借料に二億八千万円、計四億一千万円の大阪府の負担でした。知事は、ワッハに行ったとき、値引き交渉はと質問されました。その後、吉本興業から来年度から半額以下の一億四千万円以下にする提案があり、今後も交渉の用意があると発言されています。また、五千万円の収入をふやすことも含め、運営に当たる放送六社とNPOの要望書も出されています。

 ワッハは、千日前でこそ値打ちがあります。笑いと健康パック事業も開催され、府民も元気をもらっています。ミナミ健全な発展のためにも、大阪府の負担を大きく減らしながら、マスコミ、笑いを愛する府民吉本などの協力で現地存続に知恵を出そうではありませんか。答弁を求めます。

知事橋下徹君)

(略)

次に、上方演芸資料館ワッハ上方)につきましては、貸し主から大幅な賃料値下げ等の御提案をいただくとともに、管理運営している指定管理者からも経費節減の提案をいただきました。

 しかしながら、現地ですべての施設機能を維持していくためには、なお多額の費用が必要となることから、展示機能と演芸ライブラリー機能を存続することとし、平成二十二年度末までに府有施設等へ移転という結論に達したものであります。ホールは、吉本さんが運営されるというような御提案もいただきました。

 ですから、展示品やライブラリー機能を移設、移転することというような結論に達したわけなんですが、この移転があったからといって、大阪吉本さん、松竹さんを初めとする笑いの文化が弱まるとは私は思っていません。それほど大阪の笑いはやわなものではないというふうに思っております。

◆(宮原威君)

(略)

ところが、職員の賃金教職員や警察官の苦労や努力は、府民には余り知られていません。ましてやセンチュリー交響楽団ワッハ上方の人が、年収二百万から三百万で頑張っているということなどは知られていません。客観的事実が知らされないまま、公務員たたきが一部識者などによって行われています。知事は、職員の苦労と役割をもっと府民に知らせて意見を聞くべきです。

【 平成20年  7月 臨時会本会議-07月10日-07号 】

◆(清水義人君) 次に、ワッハ上方についてお伺いします。

 一つは、今回の移転案の大きな原因となっておりますのが運営費用、約二億八千万円の賃料が大きな負担になっていると。これはかつてからの課題ですけども、今回家主の吉本興業さんから、契約期限満了前の来年度からでも家賃を半額にします、また指定管理者からも運営委託費、収支改善を図りますと、こういう声明が寄せられていると聞いておりますが、知事はこの提案を即座にはねつけられたと。今回の財政再建プログラム案においても、この移転縮小の方針は全く変わっていないんですが、この金銭の問題ではなくて、初めから移転縮小ありきと、こういうふうに見える知事の判断基準とは何かをお伺いしたいと思います。

 それから、またワッハ上方は要らないという一部の有名タレントの方の発言があったと聞いておりますけれども、これはプロアマ問わず、大阪から劇場が次々なくなっている、そんな中で発表の場に困っている次の世代、次代の演芸演劇界を担う若者とりまして、このワッハ上方、大変重要な施設になっています。

 大阪の文化を担う人材の育成を図ることは、府文化振興条例の基本理念です。ワッハ上方は、その場であると考えますが、どうお考えでしょうか。

 それから、寄贈資料の保存、展示は必要だと、ライブラリー機能はそのまま移転すると、このようにおっしゃっておりますけれども、これら貴重な資料は、ワッハ上方理念に賛同された在阪の放送局府民プロダクションの方々から寄贈していただいている。現在指定管理者であるNPO法人ニューウェーブ大阪--在阪民法六社でつくられておりますけれども、この公益性、公共性を重く見て実は設立された。こうした経緯から移転縮小となりますと、こうして提供、寄贈していただいた資料の返還ということも起きてくるのではないかと。これでは、展示機能、ライブラリー機能を残すという府の計画は破綻いたします。ワッハ上方も、そうなるということも想定されての判断だったのか、お伺いしたいと思います。

 一方、知事は、大阪ミュージアム構想の中で、大阪の再発見、発掘を提案されている。私は、このワッハ上方をさらに磨きをかけたら、立派なすばらしい大阪文化財ではないかと、こういうふうに思っています。落語漫才だけではなくて、能、狂言文楽歌舞伎上方舞、そうしたジャンルの公演もホールで行われています。多くの府民の方々がそこに楽しみに来られている。そういう意味では、このワッハ上方大阪を輝かせ感動させる基幹施設となると私は思うのですが、そういうことも踏まえ、この四点について知事はどのようにお考えでしょうか。

○副議長(鈴木和夫君) 知事橋下徹君。

   (知事橋下徹君登壇)

知事橋下徹君) 上方演芸資料館ワッハ上方)につきましては、貸し主から大幅な賃料値下げや上方演芸振興に向けてのさらなる協力の御提案をいただくとともに、指定管理者からも経費節減の御提案をいただきました。

 また、文化振興条例の基本理念に、大阪の文化を担う人材の育成があり、ワッハ上方がその場を提供してきたことは承知しております。

 しかしながら、現地ですべての施設機能を維持していくためには、なお多額の費用が必要となることから、展示機能と演芸ライブラリー機能を存続することとし、平成二十二年度末までに府有施設等へ移転という結論に達したものであります。

 収蔵資料を大阪の誇るべき笑いの資料として残すということは、本府が果たすべき役割と認識していますので、引き続き府民の皆さんや在阪放送局プロダクションの方々に提供、寄贈していただけるよう、誠意をもってお願いしていきます。

 また、これら貴重な資料につきましては、大阪の大切な文化資源として、内外への発信に努めます。

 きのう、繁昌亭の記事が出ていまして、三十万人の来館予定者、前倒しで達成されたというような記事が載っていました。

 今は、繁昌亭、大変大阪観光名所となっていまして、地方から繁昌亭目当てにバスで乗りつけてこられると。チケットを買おうにも、今はなかなか買えないような状況になっております。

 僕は、以前、桂ざこば師匠にそのお話を伺ったときに、芸人さんは血のにじむような活動、努力をされていると。高座に上られるときに、あのいわゆる僕らが聞いている一流の落語家さんが、ええ、こんな金額でと、それこそ学生アルバイト程度のお金一生懸命になって努力をされていると。いろいろ確認したところ、公的な助成は一切入っていないということでした。私は、お笑いの文化というものは、これはもう大阪に必要不可欠だと思うんですが、その文化の根差し方ということを考えたときに、このように公的な助成が多額に入った中で、本当にその機関が、施設が血のにじむような努力をするのかどうなのか、僕はあの繁昌亭がひとつ大阪の文化を発展させていくこのムーブメントを起こしていますが、その手法というものをやはり我々はきっちりと認識勉強した上で、文化の発展というものを考えなければいけないのかなというふうに思っています。ワッハ上方がこれまで果たしてきた機能を全否定するわけではないんですが、やはりこの繁昌亭が、今成功しているこの現実というものは、民間が血のにじむような助成がない中でやっていることによって府民に根づいていっているという事実だけは、僕はこれはきちんと受けとめた上で府政を取り仕切らなければいけないなというふうに思っています。

○副議長(鈴木和夫君) 清水義人君。

   (清水義人君登壇)

◆(清水義人君) 今、お話ありました繁昌亭、確かにすばらしい取り組みです。ただ、民と私たち公と、どこで一緒に協働してやったらいいのか。ここは民に任せよう、ここは公が責任を持とうというのは、それぞれ一つ一つで点検していかなければなりません。また、そのまちの景観ということからすれば、当然その施設があることでその地域の人たちとも一緒になって協議していこうと。ワッハ上方というものをどう生かすかということについても、当然管理運営者、家主さん、その地域の方々、そしてそれをつくった大阪府が一緒の場で協議するということをぜひ知事にお願いしたいと思っています。

2009-05-09

宮崎福岡高速バス比較

※現時点での情報です。

            通称・名称→フェニックス皆割(女性)フェニックスアイあいライナーサンマリンライナー福岡シティーライナー
片道6000円3300円3000円3300円2900円
往復10000円6000円5800円6000円5400円
便数50便8便2便平日6便 週末10便2便(繁忙期は+2便)
シート3列4列4列4列4列
トイレ基本有り基本有り無し主に有り無し
休憩宮原(20分)宮原(10分)北熊本えびの
所要時間(宮崎駅博多駅)約4時間20分約4時間15分約4時間5分約4時間5分約4時間10分
回数券フェニックスきっぷ××5往復パック×

フェニックスhttp://www.rakubus.jp/rosen/fko_myz_2.html

朝早くから夜遅く(夜行便もあり)までカバー

宮崎発は午前中30分に1便、福岡発は夕方~夜にかけて30分に1便。

3列(夜行便は3列独立)シートなのでゆったり。

唯一ビデオ設備あり。

続行便の場合は4列かつトイレ無しの可能性。

皆割(女性)フェニックスhttp://www.rakubus.jp/rosen/fko_myz.html

ツアーバスに対抗するため出来た便。

ツアーバスと同じ位の値段・設備だけど、フェニックス号と同じバス事業者の運営、ってことで信頼感があるっぽい。

皆割女性女性専用。

フェニックス号共々、続行便の場合はトイレ無しの可能性。

アイあいライナー http://aiailiner.com/

8月末まで片道2500円・往復4500円という驚異のお値段で提供中。

発着が佐土原。

便数が少ない。

(未乗車)

サンマリンライナー http://www.sunmarineliner.com/

週末のみ+500円で3列シートの便も。そして週末のみトイレ無し便があるので要注意。

天神でも降車可になったらしい。天神から乗車は不可。

こちらも佐土原発着。

唯一ポイントシステム有り。

福岡シティーライナー http://www.city-liner.jp/

天神で降車可。

トイレ無し。

通常時は一番格安、だけど便数が少ない。

(未乗車)

2009-04-16

googleで見る開かずの踏み切り

だからどうというわけではないけど。

あってるかは知らない。

意外にストビューで見れない。

 
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