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2023-07-23

GHQ押し付けられた少年法の真の目的は、若者犯罪傾向を助長して日本治安悪化させるため

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/encount.press/archives/488977/

 

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/k_mu2000/status/1681981357248122881

 

https://w.wiki/76Tb

相模原市立田中学校(さがみはらしりつ たなちゅうがっこう)は、神奈川県相模原市中央区田名にある公立中学校。

生徒数・学級数

本校の生徒数は全学年合計で732人。学級数は全学年合計で24学級となっている。(2022年(令和4年)5月1日現在

 

https://w.wiki/3VjL

少年法(しょうねんほう)は、少年保護手続に関する刑事訴訟法の特則を規定した日本法律である

法令番号は昭和23年法律第168号、1948年昭和23年7月15日公布された。

所管官庁法務省である

 

概要

非行少年に対する行政機関による保護処分について定めた1922年大正11年)に制定された旧少年法大正11年法律42号)を、戦後GHQ指導のもとに全部改正し、米国イリノイ州シカゴ少年犯罪法に倣い成立した。

 

中学生でも不良は少年法欠点理解しており、そのため平気で犯罪行為を行うのですよ。

関東連合とかも裁判で分かる通り、集団で袋叩きにすれば致命傷を負わせた犯人が誰か特定できないので、罪を軽減できることを知っているので、バットマン事件が起こりましたよね。(関東連合クラス半グレなら、顧問弁護士を雇っていて、刑法盲点を熟知してます。)

当然先輩OBから入れ知恵されている後輩の現役中学生も、刑法少年法欠点を熟知しています

 

ヤンキーよりも法曹関係者の方がバカだと法整備ができないということですね。

2023-06-10

anond:20230610141334

まず第一ベビーブームの後に急激な出生率の低下がある、これは1948年優生保護法施行中絶実質的合法化がされたため

世界に先駆けて実施しちゃったようなのでこれを第二次ベビーブームあたりまで止める

遅らせての施行団塊ジュニア世代あたりの人口の多い山を消し、戦後一貫した出生数現象カーブとする

次に、2019年以前、コロナウィルス世間で騒がれる前に日本の全老人に感染させて数を減らす

これで穏やかな人口減少カーブとなるので、社会保険費の負担が減って

今の第二次ベビーブーマー寿命で死に始めるまで回復の見込みなし状態解決

2023-05-26

いろいろな「三大欲求

プラトン法律』(紀元前350年ごろ)

I see that among men all things depend upon three wants and desires, of which the end is virtue, if they are rightly led by them, or the opposite if wrongly. Now these are eating and drinking, which begin at birth—every animal has a natural desire for them, and is violently excited, and rebels against him who says that he must not satisfy all his pleasures and appetites, and get rid of all the corresponding pains—and the third and greatest and sharpest want and desire breaks out last, and is the fire of sexual lust, which kindles in men every species of wantonness and madness.

私は、人間あいだではすべてのことが三つの欲望依拠していると見ています。それらは、正しく導かれれば徳であり、誤って導かれればその反対となります。まずは「食欲」と「飲欲」であり、これらは生まれときからまります。あらゆる動物自然とその二つの欲望を備え、激しく興奮させられ、己の快楽や食欲を満たしてはいけないと言う者に逆らい、付随する苦痛からは逃れようとします。そして第三の、最も強く鋭い欲望が、最後に噴き出します。それは人々のあらゆる種類の淫気と狂気燃え上がらせる「性欲」の炎です。

今のところこれが最古である。さすが西洋哲学の祖。「食」と「飲」が分かれているのが特徴。プラトン著作明治時代翻訳されていて日本人にも知られていたと思われる。

法雲『翻訳名義集』1134年

欲界三欲

(一)飲食欲,即凡夫於種種美味之飲食,多生貪愛之心。(二)睡眠欲,即凡夫之心多暗塞,耽著於睡眠不能修道業。(三)淫欲,即一切男女由互相之貪染,而起造諸種欲事。

欲界三欲

1. 飲食欲、すなわち凡夫はさまざまな美味の飲食において、多くは貪愛な心を生む。2. 睡眠欲、すなわち凡夫の心は暗く塞がり、惰眠に耽って修業に励むことができない。3. 淫欲、すなわちすべての男女は互いに貪欲に染まり、それがさまざまな欲事の原因となる。

翻訳名義集』は中国南宋時代編纂された仏教系の書物。もちろん日本にも伝わっている。というかこの組み合わせが現在スタンダードである

貝原益軒養生訓』(1713年)

いにしへの人三慾を忍ぶ事をいへり。三慾とは、飲食の欲、色の欲、睡の欲なり。

養生訓』は江戸時代の大ベストセラー貝原益軒儒学者だが、この組み合わせは仏教の「三欲」と同じなので、「いにしへの人」というのは僧侶ことなのか。三欲を「抑えるべきもの」と捉えているのも仏教である。「睡眠を減らすと健康になる」みたいなことも言っている。

内山真弓『歌学提要』(1843年)

そもそも飲食男女と、言語とは、天下の三大事なり。

歌学提要』は幕末歌人香川景樹理論をその弟子内山真弓がまとめたものだという。

山本友一『私の短歌入門』(1977年)によれば、

人間の根源の欲望を、食欲・性欲・表現欲に三大別して言うそのことは、江戸末期の巨匠香川景樹以来、歌界ではならいとなっている。

ということで「食欲」「性欲」「表現欲」を表しているらしい。

官報』(1885年

人生の三大欲望すなわち黄金健康・不死

これはイギリス科学振興協会の当時の会長であったライアンプレイフェアのスピーチ翻訳されたもののようだ。原文を当たると「かつての錬金術師黄金健康・不死のために賢者の石研究していた」…みたいな内容だったらしい。

they hoped to attain the three sensuous conditions of human enjoyment -- gold, health, and immortality.

直訳すると「人類享楽感覚的な三条件」か。

村上専精『宗教観』(1906年

思ふに人生の三大慾望たる知識慾、資財慾、生存慾は直ちに人生の三大不可能と云ふを得べし

村上専精は僧侶だが仏教の「三欲」とは異なるのか。「生存欲」は戦時中文章で「日本人は三大欲求生存欲を抑えて国家に殉じるからすごい!」というふうに使われているのを見かけて面白かった。

滝沢秋暁『愛の解剖』(1907年

人間の三大慾望たる衣食住

個人的に「衣食住」は欲望というより「基本的もの」「必要もの」というニュアンスで捉えていたのだが、井原西鶴の『世間胸算用』でも「分際相応に人間衣食住の三つの楽の外なし」と書かれているそうなので、あながち欲望」的な捉え方でも間違いではないのか。似たようなパターンだと三大欲求を「福・禄・寿」に割り当てることもある。

黒田鵬心『美学芸術学概論』(1917年

美慾は字に示す如く美を求める慾で食慾、色慾と共に人間の三大慾の一つである

美術評論家が三大欲求に「美欲」を入れるのは、歌人が「言語表現欲」を入れるのと似通っているか

依田今朝蔵『日本風土を主としたる保健衛生論』(1920年

人生の三大慾とも稱すべき食慾と性慾と名誉

明治以降経済発展もあってか「金銭欲(利欲・財欲)」や「名誉欲(出世欲)」を挙げることがかなり多い気がする。

ロス・ロックリッジ『愛情花咲く樹』(1958年

そうすれば一日にして人間の三大慾望を果たすことになる、性慾と食慾と戦争――つまり殺傷慾だな

もとはアメリカ1948年刊行された小説だが、原文だと「three main pastimes」なので「三大娯楽」かな。

小松武樹『囲碁将棋の泉』(1959年)にも、

また囲碁将棋は、人間の三大欲望、つまり、食欲、性欲に次ぐ、闘争欲の中和剤の役目をしてくれます

といった記述がある。

鍵谷幸信『食欲と性欲の谷間に顔を埋めてしまったフェリーニ』(1974年

食欲、性欲、排泄欲の根源的意味に比べたら、人間の他の欲望である出世欲とか名誉欲とか権力欲とか支配欲とか金欲とか知識欲など、それこそ屁以下の価値しかない。

いわゆる「生理的欲求」のひとつとして食欲や睡眠欲と並べて語られる「排泄欲」だが、「三大欲求」として挙げられていることは少ない印象を受ける。ただ「性欲(射精欲)」を排泄欲の一種とみなすこともあるようだ。

梶矢文昭『読者を想定した教材解釈と授業展開』(1978年

本来、仲間と一緒にいたい、集団の中で自分の安定した位置を占めたいという欲求――集団欲は、食欲、性欲と並んで三大欲と言われる程のものである

この「集団欲」を三大欲求とみなすのは戦後にかなり広まった感じがする。近年の書籍でも睡眠欲に代えて集団欲が挙がることがあるようだ。

吉田聖『誘惑に負けない勇気、強い意志』(1979年

貞潔清貧従順修道誓願人間共通の三大欲求(肉欲・所有欲・支配欲)にかかわるものとして、生涯の一大試練と誘惑になりうる。

これはつまりカトリック修道士が守る三誓願対義語となるような欲望貞潔↔肉欲 清貧↔所有欲 従順支配欲)を「三大欲求」と見なしているらしい。カトリックあいだでポピュラー解釈なのかは知らないが、三誓願のもの3世紀末くらいまで遡るらしいので、当時からそうした発想があったとしたら面白い。

実用日本表現辞典『三大欲』(2015年

一般的には、生存にかかる根源的な欲求とされている食欲、睡眠欲、性欲を総称した言い方。

現在一般的認識。「金銭欲」「名誉欲」「集団欲」あたりを含めて「諸説あり」と言われていてもおかしくなかったと思うが、最終的にほとんど「食欲・睡眠欲・性欲」で固定されてしまったのは面白現象である

2023-05-18

続・「リーゼント」は誤用されているのか?

前回の記事こちら。

anond:20201124190429

テーマ

リーゼントというのは前頭部の髪型(ポンパドール)ではなく後頭部の髪型(ダックテイル)のことだ」って本当なの?

だいたいの前回のまとめ。


さて、今回の記事の主眼は、前回の記事でも書いた「ポールグラウス」という人物は何者か、というところにあるのだが、そのまえに増田英吉が戦前からリーゼント」を施術していたという証拠提示しておきたい。というのも国立国会図書館デジタルコレクション検索したところ1936年広告を見つけたのである

スタア 4(21)(82) - 国立国会図書館デジタルコレクション

ゲーブル・トーンに英國風カッティングを加へた銀座ユタカ調髪所創案のリーゼントスタイルお薦めしま

この「ユタカ調髪所」というのが増田英吉の店である

「ゲーブル」というのは俳優クラーク・ゲーブルのことだろう。

などがこれでわかる。

なおインターネット上で「リーゼント命名者」とされるもう一人に尾道理容師小田原俊幸がいるが、彼が「リーゼント」を発表したのは昭和24年1949年だというので遅すぎる。おそらくは既にあったリーゼント独自アレンジしたとかそういう話なのだろう。

さて、では増田英吉や小田原俊幸とは違って、ググっても検索結果に引っかかりすらしない「ポールグラウス」とは何者なのか。あらためて調べてみると、1931年イギリス刊行された『The Art And Craft Of Hairdressing』という書籍にその名が掲載されていることがわかった。

The Art And Craft Of Hairdressing : Gilbert A Foan Ed : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

7ページ(16 of 700)より。

PAUL GLAUS, Past President, Academy of Gentlemen’s Hairdressing (London), a former Chief Examiner in Gentlemen’s Hairdressing, City and Guilds of London Institute.

ポールグラウスは、ロンドンの「Academy of Gentlemen’s Hairdressing」の前会長であり、かつては「City and Guilds of London Institute」の紳士向け理髪の主任試験官でした。

同姓同名同職の別人の可能性もなくはないが、おそらくはこの人が「ポールグラウスなのだろう。ただし、この書籍の著者はGilbert Foanという人物で、ポールグラウスは「Special Contributor」としていくつかの記事寄稿しているだけである

そして驚くべきことに、この『The Art And Craft Of Hairdressing』では「リーゼント(Regent)」についても解説されているのである。「リーゼント」は和製英語であると思われていたが、やはり由来はイギリスにあったのだ。

118ページ(146 of 700)より。

One of the most artistic and distinguished of haircuts, the Regent has been worn by elderly society gentlemen for many years. Then it was always associated with long hair, in most instances nice natural wavy white or grey hair. Since the present writer first decided to cut this style shorter, but in exactly the same shape, the style has been in great demand.

リーゼントは、最も芸術的で格調高いヘアスタイルひとつで、長年にわたり、年配の社交界紳士たちに愛されてきました。当時、リーゼントは長い髪、それも自然ウェーブのかかった白髪白髪の髪によく似合う髪型でした。筆者がこのスタイルをより短く、しかし全く同じ形にカットすることに決めて以来、このスタイルには大きな需要があります

Rub the fixative well into the hair, spreading it evenly, but do not make the mistake of using so much that it runs on to the face and neck. Then, when the hair is saturated, draw the parting and comb the hair in the position required, sideways, going towards the back of the ears.

整髪料を髪によく揉み込んで均一に広げます。顔や首に流れるほど使いすぎないよう注意してください。髪に馴染んだら、分け目を作り、耳の後ろに向かって横向きに髪をとかします。

リーゼント」の解説を読むかぎり、そしてイラストを見るかぎり、その前髪には分け目があり、側面の髪を横向きに撫でつけて、襟足はバリカンでV字に刈り上げていたようだ。どうやら前髪を膨らませるわけではなさそうである。また、この書き方だと、もともと「髪の長いリーゼント」が存在しており、それから「筆者」によって「髪の短いリーゼント」が生み出されたらしくはある。具体的なところは不明だが。

ちなみに、この書籍の281ページ(316 of 700)では「Duck-Tailed Pompadour」という髪型も紹介されている。おおっ、と思ったがこれは女性向けの髪型で、いわゆる「エルビス・プレスリー髪型」とは異なるように見える。しかし、後頭部をアヒルのお尻に見立てる発想や、それとポンパドールを組み合わせる発想は、まず女性向けに存在していて、それが1950年代アレンジされて男性にも適用されるようになった、ということなのかもしれない。

ただし、ややこしいことに、このスキャンされた『The Art And Craft Of Hairdressing』は1958年に発行された第四版なので、どこまでが改訂の際に追加された内容かわからない。1936年ポールグラウス日本リーゼントを紹介した、という話があるからには、少なくともリーゼント1931年から存在していたと思うのだが…。

『The Art And Craft Of Hairdressing』はイギリスで30年以上にわたって改訂されつつ出版されていた名著らしいので、当時のイギリス理容師あいだでは「リーゼント」はそれなりに広まっていたのではないかと思うのだが、現在では「リーゼント」という言い方はぜんぜん残っていないようだし、それどころか英語圏でさえ「リーゼント」は和製英語だと書かれていたりするのも謎ではある。

ともあれ推測するに、まず1930年代初頭かそれ以前にイギリスで「リーゼント」という髪型が生まれ1936年ごろにイギリス人ポールグラウス日本に「リーゼント」を紹介し、その「リーゼント」を見た増田英吉が日本人に合うように「前髪を膨らませるかたち」にアレンジして広告を打った、という流れなのではないかと思われる。

というわけで大枠の結論としては前回の記事と変わらないが、いくつかのディテールが明らかになったことで状況の理解度は上がったと思う。こちからは以上です。

2023-05-12

魔法』と少し残念な誤植

 つい最近購入した平凡社ライブラリーの『魔法』(カートセリグマン著)を、読み返している。ほぼ西洋限定しているし、原著出版1948年と古いし、文章も読みにくいが、全体的に見れば楽しいであることは間違いない。間違い無いのだが…。

 この『魔法』の巻末には、参考文献リストが列挙されている。その中に

『ナカルト

という書名がある。著者の名前は、コリン・ウィルソンとなっている。そう、あのコリン・ウィルソンである

 もちろん、これが『オカルト』の間違いであることは明らかである文字の形状が似ているために「オ」と「ナ」を取り違えたのであろう。しかし、活字を組んで活版印刷をしていた旧い時代ならばいざ知らず、今どきこんな間違いが起こり得るものなのだろうか? 現代日本出版物の印刷技術に詳しいハテナーがいたら、ぜひ教えて欲しい。

 それにしても、万が一、コリン・ウィルソン名前も有名な著作オカルト』のことも知らなかったとして、そもそも魔術・呪術錬金術オカルトについて書かれた本なのだから、その参考文献リストとして挙げられていれば「これは『ナカルト』じゃなくて『オカルト』のことなのではないか?」と、出版に携わった編集者その他の人間は、疑問に思わなかったものなのだろうか。長大な本文の中に埋もれている誤植じゃなくて、パッと目につく参考文献リストなのである。あまりにも凡ミス過ぎないだろうか。

 なお、参考文献リストの中で挙げられている他の書籍にしても、例えばリチャード・マシスンの有名な小説地球最後の男』が、1958年に初翻訳された時の古い情報のままで「リチャード・マティスン『吸血鬼』」となっている。セリグマンの『魔法』が最初翻訳された時に作成した参考文献リストを、チェックせずに右から左に流用したのだろうか。

 こういう興醒めさせられる誤植、他にもある?

2023-01-19

anond:20230119202739

直木賞は、日本推理小説短編小説に対して授与される賞です。1948年に創設され、毎年授与されています。この賞は、日本小説家によって書かれた推理小説短編小説の中から最も優れたものを選ぶことで、日本推理小説短編小説支援することを目的としています

2022-09-21

簡単ホロコースト否定論とその反論の紹介

アウシュヴィッツガス室で600万人も殺して遺体は全部骨まで残さず焼却して証拠隠滅した?そんなのあり得ないから嘘である

そもそもの問いの立て方が間違い(酷いストローマン)。ホロコーストでのユダヤ人犠牲者は、大雑把に言えば、アウシュヴィッツで100万、その他の約四箇所(マイダネクは少ないので計算から除外)の絶滅収容所200万、ソ連等のその他の地域での虐殺で150万、ゲットー強制収容所などで100万、その他50万、合計で600万人と言ったところ(繰り返し言うがかなり大雑把)。つまりホロコースト象徴になっているアウシュヴィッツでは約100万人なので、それを6倍もストローマンした虚言・戯言である

また、アウシュヴィッツでさえ「骨まで残さず焼却した」だなんてことはない。むしろ、非常に荒っぽい不完全火葬で、細かい話だが炉の中の死体を載せる格子から下の灰皿に落ちた残骸は、掃き出してランマーで細かく砕いて、集めて近くの川に捨ててしまったのである司令官を含む複数証言)。他のヘウムノなどの絶滅収容所では焼却後、粉砕機を用いて骨類は砕き、周辺の土地へばら撒いた。また、犠牲者数こそ数万と少ないものの、マイダネク収容所には大量の遺骨が残っていた。「Majdanek bone」とすればその画像が得られる。

アウシュヴィッツ火葬炉の焼却能力はせいぜい1日あたり二百体以下であり、百万体なんて処理できず、嘘である

もしそうならば、確かに、大雑把に絶滅期間を500日とすると、十万体しか処理できないことになる。しかし、それは明らかにである。何故ならば、別の収容所であるマウトハウゼン強制収容所衛星収容所であるグーゼン収容所では、一基の火葬炉あたり、1日あたり20体以上の火葬をしていた記録が残っているかであるアウシュヴィッツには絶滅現場であるビルケナウだけで46基の火葬炉(マッフル数)があり、1日あたり少なくとも900体処理できたことになって、500日なら45万体である。それでもまだ半分以下だが、アウシュヴィッツでは実は一体ごとに火葬するなどと言う丁寧な火葬などせず、複数遺体を同時に火葬していたので、能力自体もっと増える。それに、ビルケナウの火葬炉はトリプルマッフル炉や八連マッフル炉になっていて、遺体を入れて火葬する場所が内部で繋がっており、高温を維持しやす構造となっていて、連続焼却を前提とした構造だった。民生火葬場とは全く違い、遺骨を遺族に返却する必要はなかったのだ。(あっても、適当に遺族に誤魔化して骨壷に入れて渡した)さらに、犠牲者が多かった時期は、野外焼却を実施し、司令官のヘスは自叙伝で「ほとんどの火葬は野外焼却となった」と書いている。以上、百万体程度は十分可能だった。

 

火葬炉はコークス炉であり、記録から百万体もの遺体火葬するためのコークス供給されてなどいなかった。

実は、アウシュヴィッツ火葬炉は、最初の二日間程度、炉内を高温化するためにコークス必要だっただけで、遺体火葬自体にはコークスほとんど必要なかった。何故ならば、複数遺体を同時に連続的に火葬していくので、それらの遺体自身が燃料化したかである燃えにくい痩せてガリガリ遺体場合にはコークスは追加されただろうが、太った新鮮な遺体(つまり収容所収容されずに即日ガス室で殺された人)ならば燃料替わりにさえ使われた。これらについての細かい技術的な話は、遺体処理を担当したゾンダーコマンドだったヘンリク・タウバーの証言を読むといい。

アウシュヴィッツの様々な議論(9):証人の宣誓供述書1:ヘンリク・タウバー|蜻蛉|note

 

青酸ガスは引火の危険性があり、火葬場の隣がガス室だなんて危険すぎてあり得ない。

青酸ガスの爆発濃度下限値は56000ppmであり、人間の致死濃度はせいぜい2000ppm程度(一般には300ppmとされるが諸説ある)である。いずれにしても、ガス室内だけの話であり、ガス室外に漏れ出したとしても、濃度は低下してしまうため、引火の危険があるとは考え難い。否定派は、シアン化ガスの「濃度」を無視する傾向がある。実際には例えば、10ppm程度だと致死に至る可能性は極めて低い。そもそも青酸ガスの元であるチクロンB害虫(及び害獣駆除剤であり、害虫駆除作業で使える程度の安全性がなければ使えなくなってしまって全く意味がない。なお、詳細な話をすると、この火葬場の隣のガス室は、アウシュヴィッツのメイン収容所にある、現在でも観光用に公開されているガス室(第1ガス室)のことであり、ユダヤ人絶滅現場であるビルケナウのガス室のことではない。流石に第1ガス室処刑最中には、隣で火葬作業をしていたとは思えない。そこでは毎日稼働させるような大量の処刑はしていなかったかであるビルケナウのガス室では、火葬場はガス室から離れていたので、引火の危険性を考えること自体おかしい。

 

青酸ガスは毒性が強く危険であり、ディゲシュ社の説明書には20時間の換気が必要とあるチクロンBも青酸ガスがなくなるまで放出し続けるので、2日以上も遺体搬出できないことになる。これではあまり時間がかかりすぎてユダヤ人大量虐殺など不可能である

遺体搬送の働き手は、いつ死んでもいいユダヤ人のゾンダーコマンドである。また、20時間の換気は、ディゲシュ社が想定した害虫駆除作業箇所でのものであり、様々な場所を想定した上での安全性配慮しただけのことであり、必要十分な時間よりかなり長いマージンをとっている。しかアウシュヴィッツガス室は、室内はガランとしたただの空間であり、致死濃度でさえなければ、あるいはガスマスク使用していれば、少なくとも死ぬ危険はなかったのである。実際、何人かのゾンダーコマンド証言ではガスマスクをつけていたとの証言がある。十分な換気能力の換気装置のあったガス室と、自然換気で行ったガス室があったが、生存証言によるとわずかに体調を崩した程度の証言があるのみで、死者があったと言う証言はない。また、非常に細かい話としては、地下型のガス室になっていたクレマトリウム2や3では、金網投下装置なる特殊チクロン投入装置があり、これを利用してユダヤ人殺害確認したのち、ガスを放出し続けるチクロンBを容器ごと天井から引き抜いたため、「ガスを放出し続けるチクロンB」の問題はなかったのである

 

チクロンBが使われた証拠が全くない。ロイヒターやゲルマー・ルドルフの調査では、同じチクロンBが使われた害虫駆除室でのシアン化物検出濃度は、ガス室とされた場所の少なくとも1000倍以上の濃度差があり、これでは殺人ガス室であったとは到底言えない。

それは、ロイヒターやルドルフは、殺人ガス室とされた場所には存在していない、(シアン成分が鉄分と結合して化学変化した長期的に安定的な)プルシアンブルー害虫駆除室で試料採取し検量したかである。プルシアンブルーが、青酸ガスが使われたら必ず発生するという証明は一切されていない。その上、害虫駆除室の壁面をよく見ると、プルシアンブルーのある場所とない場所がはっきり分かれており、これは青酸ガスが存在してもプルシアンブルーが発生しない場合があるという証明になっている。プルシアンブルー以外のシアン物質成分は、非常に水に流出やすいことがわかっている(ビルケナウのガス室のあった火葬場は全てダイナマイト破壊されており長年に渡って雨曝しだった)。さらに、害虫駆除室と殺人ガス室におけるチクロンの使い方は、その残置時間全然異なる。害虫駆除ではシラミはなかなか死なないので、通常は丸一日の燻蒸を行ったのに対し、殺人ガス室では証言によるところ、せいぜい三十分以内であった。死体火葬処理の方に時間がかかるため、一箇所のガス室での集団処刑はせいぜい1日に一回、多くても2回が限度だった。したがって、殺人ガス室の後とされる場所にプルシアンブルーが生成されていなくても、何ら不思議はない。以上のことから、プルシアンブルーを含めない検査方法でなければインチキである。それをやったのが、ポーランド公的機関であるクラクフ法医学研究所であり、結論として殺人ガス室があったとみなして良い結果を得たのである

ロイヒター&ルドルフレポートに対抗したクラクフ報告とは。|蜻蛉|note

 

野外焼却をやったというが、戦時下の燃料不足だったから、死体焼却に貴重な燃料を使うわけがない。

野外焼却の証拠は、まず司令官ルドルフ・ヘス自叙伝記載されているものがある。他にも複数人の証言がある。また、1944年中の米軍による航空写真にそれら証言が伝える場所での煙が写っている、さらにはユダヤ人ゾンダーコマンドによる極秘に取られた焼却中の写真もある。さらには1960年代に行われた民間会社による野外火葬場所の発掘調査で遺灰などが発見されている。否定派は、「アウシュビッツに焼却用の燃料がなかったこと」「どのくらいの燃料が必要だったか客観的根拠」など、否定すべき内容についての証明を一切行っていない。なお、アウシュビッツビルケナウ収容所は、十万人規模の囚人と二千人規模の親衛隊員を有する巨大施設であり、燃料不足で燃料を使わず活動生活していたなど信じ難い。ユダヤ人絶滅は「総統命令」として実施されており、極秘作戦だったから、遺体証拠隠滅必須であり、戦争遂行と同じであって、何が何でも実施したであろうことは想像に難しくない。彼らは命令で動いていたのである否定派は、何故ユダヤ人絶滅をやっていたのかを全く考慮していない。戦況が敗戦必至になって、絶滅作戦が中止されたが、それもまた親衛隊トップヒムラー命令であった。

 

アンネの日記捏造だ!

今更何を……。[しかしいまだにアンネの日記デマツイッターなどでしばしば流れる

Twitterホロコースト否定論への反論(18):アンネ・フランクの日記|蜻蛉|note

 

1947年ワールドアルマナックによると、1939年当時、世界ユダヤ人人口は15,688,259人だった。この数字米国ユダヤ人委員会提供したものである。次に、1948年2月22日付のユダヤ系新聞ニューヨーク・タイムズ」によると、この年の世界ユダヤ人人口は「パレスチナに住む60~70万人に加えて、1,560~1,870万人に達する」と書かれている。600万人もの人々を失ったのに、戦時中ユダヤ人人口がこれほど急増したのはなぜだろうか。

からあるアルマナックデマと呼ばれる既に何度も論破された愚論。戦後センサスがアルマナックに反映されるのは1949年まで待たなければならない。それまでは、単に1939年の値からの推計値を記載していたのである。また、ニューヨークタイムズは後日、その数字を1200万人に訂正している。

 

戦後ダッハウガス室大量虐殺があったと言われていたのに、今ではダッハウガス室では処刑は行われなかった、と言っていることが変わっている。おかしいではないか

ダッハウ米軍が入った時、大量の囚人死体があったのは周知の事実であるガス室のあった建物であるバラックX周辺にも遺体が山積みとなっていた。そして「浴場へ」と書かれた看板のある、ダミーシャワーのついた謎の部屋……、戦時中からドイツ軍ユダヤ人のガス処刑をしていることは広く連合国側に伝わっており、これらの状況からダッハウガス室大量虐殺をしていたと誤解しても致し方のない状況であった。米軍は当初勇足で「ダッハウガス室での大量虐殺」を報告してしまった。しかし、直接的な目撃証言裏付けのある証拠が当初は見当たらず、ガス室でのガス処刑があったとは言えないとわかるのは1960年代まで待たなければならなかった。のちに僅かな目撃証言文書資料が見つかったが、裏付け能力に乏しく、「実験的なガス処刑があった可能性がある」くらいしか言えない。いずれにしても、歴史的事実がさまざまな調査研究により、後々になってより詳しく判明していくのは当たり前のことである。とくにおかしいところはない。

 

今ではベルゲン・ベルゼン収容所大量死体は餓死病死によるものと判明しているのに、今だに「大量虐殺の動かぬ証拠!」のようにテレビなどで用いられている。これらは嘘っぱちである

知らんがな。確かにNHK番組ですら誤ったホロコーストの内容を伝えていることはある。実は著名な研究者ですら、非常に細かいところで誤った記述をしていることもある。しかし、日々のニュースでさえも、「先ほどのニュースの中に誤りがありました。訂正してお詫びします」を聞かない日はない。人は誤りを犯す生き物である。それが何か? 

  

……ほんとにネット界隈(特にTwitterYoutubeあたり)は修正主義支持者が多いので、誰か手伝って欲しいくらいなんだ……

2022-09-11

anond:20220911225755

長崎市新中川町[4]で、海洋学者の父・石黒鎮雄(英:Shizuo Ishiguro)(1920年 - 2007年)[5]と母・静子の間に生まれる[6]。祖父石黒昌明は滋賀県大津市出身実業家で、東亜同文書院(第5期生[7]、1908年卒)で学び、卒業後は伊藤忠商事天津支社に籍を置き、後に上海設立された豊田紡織廠の取締役になる[8][9]。父の石黒鎮雄は1920年4月20日上海で生まれ明治専門学校電気工学を学び[10]、1958年エレクトロニクスを用いた波の変動の解析に関する論文[11]で東京大学より理学博士号を授与された海洋学者であり、高円寺気象研究所勤務の後、1948年長崎海洋気象台に転勤となり、1960年まで長崎に住んでいた。長崎海洋気象台では副振動研究などに携わったほか、海洋気象台の歌を作曲するなど音楽の才能にも恵まれていた[12]。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カズオ・イシグロ

Wikipedia出自を見てみたらこんなん出たわ。こんなのただの貴族じゃんね。マジで完全に「パンが無ければ〜」でしかない。お貴族様は優雅でよろしいことですね以外に言うことがない。

2022-08-08

ヤクルト山田柳田より凄いな!!

別当 薫(べっとう かおる、1920年8月23日 - 1999年4月16日)は、兵庫県西宮市出身プロ野球選手外野手)・コーチ監督解説者。

セ・パ両リーグ分立前後に走れる長距離砲として活躍した外野手で、

1948年から1953年まで6年連続ベストナイン外野手に選ばれた。

1948年阪神入団し、藤村富美男ダイナマイト打線の中核をなす

1950年パ・リーグ毎日移籍すると、43本塁打、105打点で二冠王を獲得して毎日日本一に大きく貢献し、

最高殊勲選手に選ばれる。

また、同年は打率.335、34盗塁日本プロ野球初のトリプルスリーを達成した。

1952年1954年から選手監督を務めると、以降近鉄大洋広島20年に亘って指揮を執り、監督としても1237勝を挙げた。

2022-07-16

anond:20220716130842

1948年チェコクーデターで親ソビエト政権誕生した」という事実は、「冷戦時代西側指導者革命の輸出を恐れて社民政策を実行した」という主張の根拠にはならないことは、分かりますね?

次にあなたがすべきことは、チェコスロヴァキアのクーデターに怯えて社民政策を行った西側指導者は例えば誰で、行った社民政策はどのようなものであったのかを示すことですよ。

2022-06-17

升田幸三GHQに行ってのどうのこうのの話

個人的には全部升田のホラ話ではないかと思っているのだが、将棋非民主的ではないかという空気はあったようだ。

1948年10月24日朝日新聞1面天声人語に「将棋は碁と比べて非民主的ではないかという説に升田八段が反論」という文がある。

内容はまあ、チェスとの比較と同じく、ああいえばこういうみたいな話で面白くはなかったが。

2022-06-06

anond:20220606144955

戦後

占領直後の性的暴行強姦件数については確定していないが、藤目ゆきによれば上陸後一ヶ月だけでも最低3,500人以上の女性連合軍兵士によって被害をうけ、その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の被害けが確認されているがこれらは氷山の一角であり、藤目は占領とは「日本人女性に対する米軍性的蹂躙の始まり」でもあったと述べている[8]。

その後も在日米軍による犯罪は続き、1952年5月から1953年6月警察資料でも殺人8、過失致死435、強姦51、暴行704など合計4476件の犯罪が報告されており、1954年2月には宇治市大久保小学校4年生の女子児童強姦されたあとに陰部から肛門まで刃物で引き裂かれる事件が発生し、ほかにも4歳の幼児強姦され、危篤状態になった事件や、突然狙撃されて死亡した事件などが多発した[9]。

占領の恐怖と特殊慰安施設協会

日本占領後、多くの市民連合国軍上陸によって日本女性強姦されることを恐れていた。こうした懸念から内務省警保局をはじめ各省庁および都道府県庁は、女性らに自宅待機、避難日本男性から離れずいるようにとの注意喚起、また米兵との接触回避するよう勧告をしている。

米軍最初上陸するものと推測された神奈川県では、県警は若い女性や少女避難勧告をしている[10]。内務省警保局の情報にも「神奈川県ハソノ特質上敵ノ最初上陸地点タルベシトノ想像モアリ「敵ハ十八日ニ神奈川上陸スル」ノ流言多シ」とあり、戦争関連の諸文書が一斉に焼却廃棄されるなか、行政機関当局にも相当の混乱があったことが窺える。主要港湾を擁する横浜市では、幹部職員の全員逮捕処刑を前提として、緊急措置として市民のうちの婦女子の疎開避難女子職員の全員解雇などを決定し、これをきっかけとして丹沢方面への疎開騒ぎが広まっていた。

これに呼応し、政府内務省警保局長名で特殊慰安施設協会RAA)の設立について全国都道府県に打診し、東京都下の料理飲食業組合、芸子置屋同盟、待合業組合連合会など7団体代表者により、特殊慰安施設協会が急きょ設立され、協会を通し「性の防波堤」となる志願女性募集した[11]。これにより、各所に「進駐軍将兵慰安施設」が設置され、一例として横浜大阪商船ビル日本造船大丸谷寮、箱根江ノ島の新設施設などがこれに利用された。GHQ当局1946年1月に、「非民主的であり、女性への人権侵害である」との理由から施設の閉鎖と公娼禁止宣言したが、占領兵士相手とする「私的売春継続され、兵士たちの間で性病蔓延した[12]。

米軍による強姦

ジョン・ダワーによれば、特殊慰安施設協会設置の効果もあり、占領軍の規模と比較すると日本政府の想定よりは強姦の発生率は低かったが、同時に性病集団感染引き起こした。一例としては、検査の結果1個師団の70%が梅毒、50%が淋病の陽性反応を示したため、これを主因として売春施設は閉鎖されることとなった[12]。

公娼施設廃止後、強姦の発生率は約8倍に増加し、ダワーの調査によるとRAA活動終了した1946年以降、日本人女性に対する占領将兵による強姦件数は一日平均40件から一日平均330件に急増した[13]。これに対してブルマは、「毎日40件以上の強姦が行われた可能性があるが、ほとんどの日本人は、アメリカ人は恐れていたよりも規律的だと認識していただろう」と述べている[14]。

テレーズ・スヴォボダは、慰安施設閉鎖後に強姦の報告件数が急増した事から兵士に対する慰安婦の提供強姦事件抑制一定の効果があった事を認めている。スヴォボダはまた、一例として慰安施設営業開始前に、待ちきれなくなった数百人の米軍兵士が二棟の施設乱入し、そこにいたすべての女性強姦した事件についても言及している[15]。 また、スヴォボダによると特殊慰安施設協会廃止後少なくとも二件の大規模な集団強姦事件が発生している。

記録に残っている集団強姦事件

東京都の事例

スヴォボダおよび田中調査によれば、1946年4月4日の深夜、3台の軍用トラックに便乗した米兵50人が東京都大森区(現・大田区)の中村病院侵入し、号令の笛とともに約一時間の間に女性患者40人、女性職員37人を回姦凌辱した[16]。被害者のうち、2歳の幼女は事後床にたたきつけられ死亡したほか、止めに入った男性職員一名が殺害された[16]。

名古屋市の事例

また、田中によると、同1946年4月11日名古屋市住宅街侵入した30人から60人の米軍兵士地域内の電話回線を切断後、各家屋に同時に侵入し、10から55歳の女性強姦している[17]。

占領上陸直後の事件件数

マイケル・S・モラスキー日本文学、日本語学研究者)によると、日本警察の報告を読むかぎり、強姦やその他の重大犯罪海軍を中心に広まっており、横須賀基地横浜周辺における占領最初の数週間の犯罪件数が突出しているが、日本本土全体では一般的ではなかった[18][19]。

上述のように、駐留米軍兵士による拉致強姦殺人日本全体には波及していないものの、警察記録と報道記録が示している通り、凶悪犯罪を犯す兵士の多くが、1945年日本上陸し、最初の数週間の間に記録的件数犯罪行為をおこなっており、占領最初10日間だけで1336件の強姦事件が報告され、その後も9月一か月間の横浜市内での強姦事件119件にのぼっている[20]。ダワーによれば、被害者が数人以内の場合には警察に報告すらされなかった。[21]

北海道の事例

歴史家の竹前栄治、ロバート・リケッツらは、米空挺部隊上陸後、札幌市内において略奪、強姦、酔ったうえでの日本人への暴行などを働くことはまれではなく、強姦被害者の中には自殺した者も少なからずいたと述べている[22]。

ロバートアイケルバーガー第8軍司令官は、非番兵士から女性保護するために日本人が自警団組織した際、第8軍の装甲車に協力を命じ、事件の首謀者を逮捕したことを記録している。しかしダワーによれば、一方で強姦事件の中には警察に報告されないものもあった。

イギリス連邦占領軍による強姦

竹前とリケッツらによると、オーストラリア英国インドニュージーランド軍の一部によって構成され、中国及び四国の9県を占領していたイギリス連邦占領軍 (BCOF)も、また多くの強姦に関与していた。

オーストラリア軍は1946年広島県呉市上陸するとすぐジープ若い女性を拉致強姦していた。被害者がほぼ毎晩助けを求めて泣き叫ぶのを聞いていたが、占領軍による犯罪行為の報道封殺されていた[22]。中には、一人の少女20人以上の兵士に回姦される事件もあった[23]。

イギリス連邦占領軍の公式報告では軍所属将兵1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さら23件の強姦を犯し、有罪判決を受けたされる。しかしながら、1946年2月から4月にかけての英連邦占領軍による占領当初の重大な犯罪公式統計存在しない[24]。オーストラリア歴史家ロビンゲルスターによれば、イギリス連邦占領軍の重犯罪公式統計米国と同様に過小評価されているが、これには日本警察被害報告を占領軍に提出していない場合があり、これにより英憲兵隊調査を行わなかった事も少なからず影響していると述べている[25]。

日本被害報道への検閲

ジョン・ダワーによれば、GHQ当局1945年9月から1952年占領終了までの間、幅広い検閲プレスコード)を日本メディアに対して実施しており、開始当初には左翼活動軍国主義超国家主義的な思想といった思想分野が差し止め対象となっていたが、占領開始から数か月後にはこの範囲を大きく逸脱し、占領軍による強姦などの重大犯罪社会問題も幅広く検閲対象となっていた[26]。

竹前栄治とロバート・リケッツによると、占領軍は、1945年9月10日付連合国軍最高司令官総司令部令「占領活動敵対的な全ての報告・統計発行物の違法化にむけた報道発表と事前検閲に係る規則」を定め、強姦などの重大犯罪に関する報道を統制していた。占領終了後、一部の日本雑誌アメリカ軍人が犯した強姦件数を発表している[22]。

2022-05-11

[]メットガラ

メトロポリタン美術館の服飾研究所活動資金調達するために1948年から開催しているファッションイベント

世界的なスターセレブたちが毎年のテーマに合わせた豪華な服装で参加する。

「メット」はメトロポリタン美術館略称、「ガラ」はフランス語で「祭典」を意味する。

2022-03-27

シベリア抑留

祖父の指は先っちょが少し潰れて爪が半分くらいに変形してた

怪我事故かしらないけど)このおかげでで早く帰ってくることができたんだと言っていた

帰国結婚して母が1948年に生まれてるのでほんとに早く帰ってこれた方なんだなと

割と最近になって知りました

2022-03-17

anond:20220317124806

国民政府日本に代わり台湾支配した1945年在台米軍戦略情報班は同年10月情報報告書を発表し、国民革命軍兵士による無秩序と略奪の事例を数多く挙げている。例えば、基隆では第75師第222連隊兵士30人が数軒の家に押し入り、衣類や宝石類を盗んだ。そして、現場に駆けつけた日本警察官8人と複数憲兵からさえも、時計や財布などを盗んだという。翌年4月米軍情報将校が街頭抗議の情報収集した際にも、40歳自動車運転手が「この中国傭兵役人を追い返せ」と言っていることを報告している。彼は日本政府を「吠えたり噛んだりしながらも、平和と秩序を保つ犬」と表現し、国民政府は寝食だけで誰の役にも立たない豚のようなものだとしていた[3]。

連合国救済復興機関駐台職員であるアラン・J・シャクルトンは、台湾での勤務を通して、国民党政権下の台湾人の窮状を直に目の当たりにした。シャクルトン1947年12月故郷ニュージーランドのギスボーンに戻った後、1948年に『Formosa Calling台湾人の叫び)』を出版し、その中で「状況があまりにもひどくなったので、台湾人は「犬がいなくなって、豚が来た」と言い始めた。(So bad did the situation become that the Formosans began to say, "The dogs go and the pigs come".)」と述べている[4][5]。

1947年2月5日月刊誌台湾文化』第2巻2号の32ページの「新理論議論」というタイトル記事には、「日本人は本省人に対して猛烈な弾圧をしていたため、本省人日本人を『犬』と呼んでいる...。本省人最初外省人尊敬していたが、後になって一部の外省人の行動を見抜いて、豚のようだと思うようになってしまった。"豚は『すべて食べ尽くして仕事をしない』『不潔で不浄な』動物であり、『不潔で不浄』とはすなわち汚職意味するのだ....」と書かれていた[6][7]。

2022-02-24

ハプスブルク家王子様が、第一次世界大戦後にウクライナ建国しようとしてナチスに接近したという話めっちゃ面白い

ウクライナ歴史について語っている「赤い大公」という名前の本を読んだ。

てっきりスターリンの話かと思ったら全然違って、本書の主人公の名はヴィルヘルム・フォン・ハプスブルクという。

彼はウクライナ王になろうとして策謀を巡らしたり、ナチスへの接近と寝返り、そしてソ連に捕らえられ獄死するという壮絶な人生をたどった。

彼は中欧に長らく存在したハプスブルク君主国皇族の一人にして、ヒトラースターリンのはざまでウクライナ国家建設を目指した数奇な生涯を送った人物である

民族主義が活発化した19世紀後半から20世紀ヨーロッパ、そこにはハプスブルク君主国という多民族帝国中欧存在していた。

ハプスブルク家の皇族の中には帝国諸民族民族自決を進めつつ、そこをハプスブルク皇族をおくりこんで君主として支配するという事を考えている者もいた。

その流れの中でヴィルヘルムは帝国領内最貧民族とされていたウクライナ人の自由独立支援することを選ぶ。

彼はやがて自らの名もウクライナ語で「ヴァシル・ヴィシヴァニ」と名乗り、ウクライナ民族国家を作らせ自らをウクライナ王とする国家建設を目指していく。

そして、第一次世界大戦ではハプスブルク君主国陸軍将校として参戦し、その時にウクライナ陸軍兵士国家建設のための指導を行っていく。

一度目の挫折

WWⅠ後はウクライナ独立させようとして策謀を巡らせるも失敗し、パリへと逃亡。

その後パリでも色々と陰謀を巡らせる。

しかし野望は大きくとも実務能力に乏しいヴィルヘルムはパリで自堕落生活を送り続けたあげく、詐欺事件連座してパリから逃亡するという体たらく

ナチスドイツへの接近

そんなヴィルヘルムはソ連排除してウクライナ独立国家を打ち立てようと考え、ナチスへ急接近していく。

しかし結局ナチスからも離反していき、今度はイギリス情報部でスパイ活動をするようになり

第二次世界大戦期にはドイツ戦後にはソ連情報提供するようになっていく。

スパイとなったヴィルヘルムはソ連から逃れることはできず、戦後ウィーンソ連軍に逮捕された。

ここでネット民なら「なるほど、シベリア送りだ」となると思うかもしれないがスターリンはより残虐だった。

1948年、ヴィルヘルムは彼が王となろうとしたウクライナキエフの獄舎で結核のために死去するという数奇な生涯を送った。

ハプスブルク家がウクライナ建国のために奔走するというのがすごく面白い

民族自決君主政を同居させるというアイデアを抱き、独立したウクライナ国家建設を目指しつつ

民族主義全体主義が高揚するヨーロッパの中で右往左往し続け、ファシズムにまで接近したり

その過程で突如反ユダヤ主義になってみたりしたヴィルヘルムの生涯はかなり面白い

ヴィルヘルムがかつて進めていこうとした「ウクライナ化」は

その後のソ連苛烈ウクライナへの制裁もつながっている一方で

民族自決精神ウクライナ人に植え付けたという意味重要であり現代ウクライナの動きに対して何らかのつながりがある。

というような話を掘り下げてゆっくり解説動画にしてみようと思うんだが需要ある?

2022-01-28

anond:20220128141940

井出智香恵(いで・ちかえ)

1948年2月長野県まれ1966年少女漫画家としてデビュー

 

18歳でデビューして73歳まで漫画家ってしゅごい

それでも貯蓄は1億いってないもんなんだな

2021-12-28

死刑制度について思うこと

日本刑法刑罰として死刑が課されているのは以下だ(刑法以外での死刑も少しあるが割愛)。

罪名刑法保護法益
内乱77条国家対内的存立
外患誘致81条国家対外的存立
外患援助82条国家対外的存立
現住建造物放火(致死の結果を生じた場合108条不特定又は多数の者の生命身体及び財産
激発物破裂(致死の結果を生じた場合117条公共安全、人の生命
現住建造物等浸害(致死の結果を生じた場合119条公共安全、人の生命
汽車転覆等致死126条交通安全、人の生命
水道毒物等混入致死146条公共安全、人の生命
殺人199条人の生命
強盗致死・強盗殺人故意殺の場合240条人の生命身体
強盗強制性行等及び同致死241条人の生命身体


人の生命は、刑法における個人的保護法益のうち最重要法益で、国家法益国家の存立)と同じぐらい重視されている。しかし、死刑はその「人の生命」を奪う刑罰である。「人を殺したら、その犯人を殺す」という報復原理(同害復讐原理)は一見わかりやすいが、そもそも刑法が「人の生命」を至上の保護法益としていることとは矛盾した関係にある。死刑は、すでに有罪判決を受け、拘置所収監され、これ以上他者生命危険さら懸念がなくなっている人間から刑法自体が最大限に尊重保護しようとしているはずの人の生命を奪う刑だからだ。

これは憲法36条(公務員による拷問や残虐刑禁止)に反しており違憲であるという観点から1948年死刑制度合憲判決事件において最高裁法廷違憲審査がなされたこともある。当時の判決文は次の通りだ。

生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。…憲法十三条においては、すべて国民個人として尊重せられ、生命に対する国民権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重必要とする旨を規定している。しかし、同時に…もし、公共の福祉という基本的原則に反する場合には、生命に対する国民権利といえども、立法制限ないし剥奪されることを当然予想しているといわねばならぬ。そしてさら憲法第三十一条によれば、国民個人生命の尊貴といえども、法律の定める適理の手続によって、これを奪う刑罰を科せられることが、明らかに定められている。すなわち憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである社会公共の福祉のために死刑制度の存続の必要性は承認されている。



「全地球より重い価値がある、尊貴なもの」を奪う刑罰が、「社会公共の福祉のために」正当化される。こういうインチキくさいレトリックは、この後も死刑肯定論の随所に顔を覗かせる。こういうインチキで辻褄を合わせざるを得なくなってしまうのは、結局は「人の生命」が個人的法益として最大限に尊重保護されるべき尊い権利なのか、国家従属する劣位の法益なのかが、刑法条文の自己矛盾によって曖昧になってしまっているからだ。

(いっそ死刑を存続する国家は「国家には生殺与奪権がある。国家の円滑な運営社会秩序の維持のために、国家施政権の及ぶ範囲に住む国民住民生命を恣(ほしいまま)にしてよい」と明言したほうがいいと思う。そのほうがずっとわかりやすいし、現実に即してると思う)

死刑制度を存置する国家では、「個人他者生命を奪うこと」と「国家他者生命を奪うこと」の倫理的な違いはぼんやりしたものになり、逆に両者の権力執行力の違いが決定的な差として立ち上がってくる。国家というシステムは、国民住民に対して法的な権力執行力を持っているから、人を殺すことができる。個々の国民住民は、国家権力執行力に従属しているから、人を殺して捕まったら国家に殺される(こともある)。このような制度は、「人を殺すこと」の意味と是非を、価値ではなく制度問題倫理ではなく力の問題還元する。

死刑制度を存置する国家では、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いにきちんと答えることができない。「国が『人を殺すな、殺したらお前を殺すぞ』と決めているからだよ」「人を殺して捕まったら自分死ぬから損だよ」という風に権力関係因果関係を説くことはできても、それは「人を殺してはいけない」というモラル根拠にはならないし、むしろ一定の条件では人を殺すことが許される」ことを追認してしまうからだ。

死刑制度廃止(または執行停止)しない国家に住み、その現状を受け入れている自分は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という子どもの問いかけに「人を殺すと殺されるから」という損得勘定以外の答を返すことができない。それが嫌なこともあって、自分死刑廃止すべきだと思ってる。

2021-11-03

🙋‍♀️「文化の日って何の日ですか?」

🙋‍♀️「はーい、質問でーす!文化の日って何の日ですか?」

👨‍🦳「それはのう、明治時代に、文明開花を記念して作られた祝日なんじゃよ」

🙅‍♀️「ブーッ!違いまーす!」

👨‍🦳「えっ!?違うのかい?」

🙆‍♀️「正解は、明治天皇誕生日でーす!」

👨‍🦳「そうなんだ!知らなかった。ワシ、物知り博士じゃなくてただのおじさんだから適当ぶっこいちまったよ」

🙍‍♀️「いいんですよ。文化の日明治時代天長節昭和初期では明治節といって祝日だったの。

その後、1946年11月3日日本国憲法公布され、日本国憲法文化平和を重視してるとして、1948年祝日として定められたの」

👨‍🦳「へぇ〜。ということは、明治天皇誕生日日本国憲法公布されたってことかい?」

🙎‍♀️「そうなの!まあ色々あったみたいだけど、今まで11月3日祝日だったから、それを続けたかったのかもしれないわね」

👨‍🦳「そうなんだ〜。教えてくれてありがとう

💁‍♀️「また何でも聞いてくださいね!」

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