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はてなキーワード: スペクターとは

2024-01-03

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邪神ちゃんみてウィンスペクターopみたら確かにあああ~がすげー長かったです

2023-07-20

今日モーニングショーハリウッドストライキ-特集有意義であった

特にスペクターのところに来たメールの内容

ストライキ中にしてはいけないことを箇条書きしてるのがなるほどだった

ストライキ中に裏切り者を出さないようにしているのかと

個々にメールすることで俺は聞いてないが通用しなくなるわけだ、そして裏切ったら組合から追放され仕事が出来なくなるわけだ

こうやって労働者の結束させていくのか

2023-02-09

スペクターサウンドを256倍楽しむ方法

 日本では'76年に、フィレス・レーベル作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかCDボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者インタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証します。

 では、時代を追って解説していきます

テディー・ベアーズ

 1958年17才にして彼は”スター”でした。この後ポップス歴史を彩ることになるクリスタルズロネッツキャロル・キングバリーマンビーチ・ボーイズビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思いますポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージマーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサー仕事だ、という常識的意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点ヒッチコックを捉えるとおもしろ解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります黒沢さんもそうですね。)

 デビューアルバムTEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオバージョン>はナントリードボーカル女の子の声が左で、真ん中がフィルコーラスしかも、ところどころリードボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。

 デビューからしてこうなのですから自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。

SCHOOLもの

 のちにブラックミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリストギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分デビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]

 また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者キーワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラスバイクというスタイル流行しました。

 彼のでデビューソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生お気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至若者フィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事ことなのです。

ガレージサウンド

 ある程度、あるいはそれ以上の音楽素養がなければミュージシャン作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロック時代でした。子供技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽単純化拍車をかけました。ジャズ豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズ大人音楽で、背景はナイトクラブ女性お酒が似合いましたが、子供音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。

 麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角ストリート・コーナーが似合ったわけです。

 それにくらべて土地の広大な中西部西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本ロックサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽素養必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギターインストゥルメンタル>でした。これは、楽器感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズ単純化ロックとすれば、これはさらに、ロック単純化で、その極致であったわけです。

 これが<ガレージサウンド>の正体でしたが、この時代呼応するかのように、新しく生まれ現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージ居間などでの<ホームレコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモテープのような、ある意味では乱暴

チャートに登場するようになり、まさに音楽大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスバディ・ホリーデビュー曲地方の、オヤジさんが社長、オカミさん専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。

 それまでの録音は、演奏者と録音技師ガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホームレコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンド母体となるのです。

 スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時からスタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウルミュージックの追求というのは、スターありがちな<後付け>である、と私は考えています)。

 このホームレコーディングが、実は<スペクターサウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハルブレインドラム>、整理は<J・ニッチェアレンジ>、単純化は<L・レビンミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクターサウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。

インストマニア

 この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターギター少年でした。本名フィル・ハーヴェイとしてインストレコードも発表しています。また'58、'59年はインストロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンクレイ、そしてジョニーハリケーンズサント&ジョニーサンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムデビュー前の彼です)、そして極め付きはギターインスト王者、デュアン・エディーの登場でした。

 日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バットマン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇インストテーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージマーチン楽団の「リンゴテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャープロデューサーレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオ仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクターサウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。

 シルはこの時すでにスペクタープロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルナント「BE MY GIRL!」。

 スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。

 例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます

 シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッション見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナントベースドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベースドラムイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。

 エディーのスタジオは1トラックテープレコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンド秘密であった水道管やドラム缶をエコー使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいますスペクターが興味を持たなかったはずはありません。

 そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンド製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初評価された人なのです。

中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています

憧れのリーバー&ストラー

 その後シルは、スペクタープロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代代表的なコンビレノンマッカートニーとすれば、’50年代リーバー&ストラー時代で、ロックビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクター学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供プロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位確立したのがこの二人なのです。

 スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....

 ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクターサウンド>への引金になったと、私は思います。その手法プロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクターサウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルド出版社代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルドラマーゲイリーチェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。

 この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクターサウンドを作ったのはやはり彼なのです。

 この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクター時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。

 また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。

ガールグループ

 '60年代初めにシュレルズがキャロル・キングの名作<WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW

....きっかけに、ガール Permalink | 記事への反応(0) | 09:24

2023-01-05

暴走族車両デザインの源流を説明する(2/2)

https://anond.hatelabo.jp/20230105180645 の続き

 

60年代カフェレーサー

カフェレーサーというのは1960年代イギリス流行ったロッカーズという街道レーサー達の乗っていた改造バイクで、ハンドルを下げて前傾姿勢にしてロケットカウルを付ける。因みに当時の英国ではモッズという改造VESPAやランブレッタスクーター乗りのもいて、両者は反目して喧嘩ばかりしていた。モッズとはmodern+sである

カフェレーサーで使われるロケットカウルはセパレートハンドル通称セパハンとの組み合わせが前提だ。フロントフォークの上に付く一本バーハンドルを取っ払って両方のフロントフォークに直接短いハンドルを付けて高さを下げるのがセパハンだ。

このロケットカウルを族車ではプレスライダー由来の上向き絞りハンドルと組み合わせてしまう。

すると、カウルハンドルの逃げの切り欠き位置が合わないのでハンドルが切れない。

そこでハンドルの逃げの位置が合うようにカウル高さを上げる→族車の珍奇なデザインの完成だ。

珍奇とは他と違うという事だから所属を表す象徴作用が出てきて、要するに「カウルがより高い方が暴走族である」という文脈が出来てくるんである。「過剰」の意味付加である

これはバックミラー鬼のように付けたモッズベスパも同じだな。歌舞伎のすみとりとか戦前祭り山車の高さとか豪華なのに耐火性が消えたうだつとかもそうだ。実用や元の文脈から切り離されると非実用であることが意味を持つので「過剰」が持て囃され時には粋の評価がされる。

 

一方で上り龍のようにとんでもない高さにカウルを上げる族車バイクもあるが、これは実は実用問題が絡んでいる。

カウルの真ん中にはヘッドライトがあるので、ある程度の高さまでカウルが上がると前が見えなくなるんである。当たり前だ。

から更に上げたい場合は前が見えるように目の位置より上にヘッドライトが来る高さまで上げるって事である

あんな高い所にカウルヘッドライトがあったら、スラロームしたら慣性が凄そうなんだが、スラローム中に取れちゃったりしないんですかね?ハリボテエレジーの悲哀再びである

 

コルク帽(ヘルメット

車両からは離れるんだが、google:image:コルク帽とかコルク半と呼ばれるヘルメットについて。被ってると暴走族に狩られるってやつ。

これは確か昔、増田かどっかで詳しい説明エントリがあったはずだが忘れてしまった。

ここで説明したいのはコルク帽の由来だ。

もともとレースでの保護帽というのは革帽子だった。保安性は余りなく、頭を強打すれば脳がやられて死んでしまう。

次に出来たのが半帽で、半球型のプラスティック保護帽に革の耳当てと顎ひもが付いたもので、1950年代60年代バイクレースで使われた。クロムウェル(Cromwell)というメーカーが有名だ。ヤマハSRなどに乗る人らに好まれている(危ないから使うべきではない)。

これは内装材がコルクだった。発泡スチロールが普及する前の製品だ。

次に保護面積が大きくなったジェットヘル→フルフェイス進化してきて、内装材は発泡スチロールと発砲ウレタンになった。

まりコルクとは半帽ヘルの事を指していた。

現在ヤンキーの間でコルクと呼ばれているのは、半帽にツバ(前バイザー)がついて端をビニールテープで巻いてあるという簡素製品(但し端部の始末はクロムウェルなども同じ)で、元々主婦向けである

1968年富士重工ラビットスクーターディスコンにし、イタリアのランブレッタも1971年ディスコンになるとスクーターベスパ以外製造されない時期が続いた。

ホンダはここにバイクと無縁な主婦市場があると見抜き、1976年ラッタッタでお馴染みのソフトバイクロードパルを開発した。因みにラッタッタというのはエンジンスタート用のゼンマイを足でキックして巻く動作の事で、軽量化低価格化の為にバッテリーを搭載せず、キックスタータより楽な始動方法としてゼンマイスタータを採用したのだな。足でゼンマイを巻いてハンドル部のボタンリリースする。

この当時、原付にはヘルメット装着義務はなかったが、広告などでは安全の為にヘルメットを被る写真が使われた。当時はすでにジェットヘルが一般的だったがそれだと軽快感がない。気軽に乗れますバイクとは違うものですってイメージにならない。

そこで採用されたのが「70年代の半帽」だったのだ。50~60年代の半帽と違うのはポップでツバ付きになってる事。更に旧型品なので安価。どういうのかについては1972年発売のカワサキマッハⅢの広告を見てもらった方が早い。

http://captain-alfred.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-6b6e.html

歴史上のバイク広告で一番カッコいいんじゃないかこれ。モデル小川ローザだ。

それで主婦層が乗るソフトバイクの激安ヘルメット=このタイプの半帽というイメージが出来た。主な販売場所スーパー自転車屋であってバイク屋ではない。内装ナイロンベルトやプラスティックと布、発泡スチロールなど。

ヤンキー層はその頃はノーヘルやフルフェイスを使っていてこのタイプのは使われていなかった。

1986年原付ヘルメット義務化されるとノーヘルだったヤンキー層は一番安くてノーヘルに近い効果のこの半帽を被らずに首の後ろにぶら下げて走るというスタイルになった。

こんな安全性が無くて昔の主婦向けのダサいヘルメットを被るのなんて暴走族ヤンキーしかいない。なのでまた所属象徴である。それで90年代にはヤンキー暴走族象徴するアイテムになった。

 

からロードパルが発売されて主婦向けマーケアイテムとして流行した頃から10年以上経っている。「ダサい」が一回りして肯定的意味が出る現象の一つなのだ

更にこのヘルメット内装にはコルクは使われていない。使われていたのは60年代だ。呼称60年代を借用して実体オリジナル70年代にある、という錯綜した現象なんである

 

族ヘル

ついでなんだが、マッドマックス1の暴走族が被ってるようなフルフェイスヘルメットgoogle:image:族ヘルという。今のものと違って下側の首回りが丸くすぼまっていなくて寸胴になってるのが特徴だ。

70年代末~80年代前半の暴走族もフルフェイスを被っていたので、バイク免許実技試験参考書(大型は教習所では免許が取れなかった)などには「フルフェイス暴走族的なのでジェットヘルにしましょう」などと書かれていた。安全性より暴走族的でない事の方が重要だったのだ。

このタイプデザインは今でもレトロアイテムとして人気があるが、危ない代物である。下側がすぼまっていないので、高速で下や後ろを確認すると風圧でヘルメットが浮き上がり、顎ひもで引っかかって脱げ掛かった状態になってしまう。デザインが変更されたのには理由があるのだな。

 

「○○レーシング」「スペクター」のようなチーム名

暴走族が振り回す旗やステッカー見ると、○○レーシングみたいな峠ドリフト小僧的チーム名と○○聯合のような画数が多い漢字名前と分かれている。

これは前述の通りに街道レーサーチームから変化してきた名残で、別にレースしなくてもレーシングという名前や峠小僧的なカタカナ名前を使う。

一方、時代が下るにしたがって硬派=学ランや右翼に傾倒してきて、軍国主義モチーフ漢籍的な名称が好まれるようになる。夜露死苦とか漢籍じゃない訳なんだがそこは偏差値問題である

 

街道レーサーから右翼標榜へと変化した為に、時代が下るに従ってメカ音痴になっていったという面もある。初めは自分エンジンも改造してその技術も先輩から後輩へと受け継がれていたが、やがて改造は外見に留まり工具も持っていない、という風になっていく。

 

世界に広がる暴走族の輪

こういう風に族車デザインは当初はスピード象徴であったもの文脈から切り離されて過剰になり、「過剰」それ自体価値を持つという現象である

特に大きい影響を残したのがバイク便の前身で「PRESS」や新聞社旗をはためかせてすり抜け爆走していたプレスライダーだった。

カウル昇竜拳みたいなデザインも組み合わせ不可のプレスライダーロケットカウル組合わせ、その珍妙さがそれ自体意味を持つようになった為である

 

こんな珍奇な族車だが、実は日本キッチュを好む人々というのは世界中に居て暴走族もその一つとして愛好されているのだ。

試しに「google:image:bosozoku」で画像検索してみて欲しい。多数がヒットするばかりか、自国でBosozokuカスタムをしている変態愛好者もいる。しかもその竹槍出っ歯の車がランボルギーニだったりするのはいかがなことなのか?

日本でも一時流行った巨大フルエアロパーツフェイクファー敷き詰め、巨大スピーカー搭載で浜崎あゆみを流すハイエースもBosozoku Vanとしてカスタムカーの一ジャンルになってる上に、タイでは社会現象に近いくらいのブームになっている。バンコクのあちこち大黒パーキング状態なんである。というかタイ人は日本キッチュ大好き国民なんじゃないかな?

更にebayで探せばBosozoku刺繍特攻服もわんさか出てくる。 https://www.ebay.com/sch/i.html?_nkw=bosozoku

結構な人気ジャンルなのだ

出品&発送元が中国企業のケースが多い。日本暴走族ファッション中国で作って発売して世界中に出荷しているというビジネスだ。色々とおかしい。レディース特攻服着物特に人気のようだ。

 

そういう訳で、英語が出来る人らは是非海外でBosozoku愛好してるトンチキ変態さんらに、デザインの源流が報道の爆走バイクである事やシルエットフォーミュラの事などを教えてあげて欲しいと思う。

2022-09-13

anond:20220913131408

007スペクターのブロフェルドとか超絶舐めプしてやられとるやんけ!

2022-08-12

ウイーンスペクターーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

2022-03-28

彼氏のためにカードゲームを始めた

始めたと言っても去年のことだが、こんな感じだったなあという備忘録みたいなものだ。

長いので要約するとMTGが難しかったのでデュエマに乗り換えたという話である

去年の秋頃、彼氏MTGアリーナにハマっているのを横目で見ていたら対戦相手に飢え始めたのか、ちょっと始めてみない?と持ち掛けてくるようになってきた。

そもそもオンラインゲームで対戦相手に飢えるってどういうことだよと思うかもしれないが、どうもオンラインでは使えるカードの中で一番強いものとそれに対応できるカード以外の居場所がないようで、せっかく考えたカードのセットでもそのどちらかに当てはまらなければ瞬く間に負けてしまうらしい(今なら多少わかる)。

そのうえ顔も知らない人間カードのパワーだけで殴り倒されるのは精神衛生上よろしくないようで、カードゲームやるくらいで喜ぶならいいかと思い軽く初めてみることにした。

じゃあはい、と60枚の紙の束が手渡される。これは言わずもがなデッキである

余談だがこの60枚の紙の束に、カードゲームプレイヤーは持ちうる全ての矜持を注ぎ込むため、負けた時の怒りや屈辱は計り知れないものになるらしい。カードショップで叫んでいる人がいても、あの人は自身プライドを傷つけられてどうしたらよいのかわからないのだと思うとつい同情してしまう。

さて、私が矜持を託すことになるこのデッキだが名を「シルバークイル(白黒)」というらしい。その名の通り、「シルバークイルの学舎」なるカードが入っており、そこへ集う「優秀な学徒」や「戦闘学の教授」たちが戦ってくれるらしかった。

だがそんなことは正直どうでもいい。何故なら私はこのデッキで負けて以来二度と彼らに矜持を託すことは無かったからだ。

ざっとルールを聞いてあとは流れでデッキを机の左隅に置いて、そこから7枚引く。これが自身の手札で自分の使ってよいカードになる。うきうきでカードを7枚引き、さてどうしようかと思っている私の目に驚愕光景が飛び込んできた。

沼、沼、沼、平地、学舎……あとは覚えていないが、とにかく手札のほとんどが人ではなかった。なんなら3枚は白骨化していた。

上記のように沼や平地といった環境、学舎といった建築物を指すカード土地カードという。これがなければ学生教授相手攻撃するどころか立つことすらままならない。

しかし、土地けがあっても使う者がいなければ持ち腐れである。私はその後3、4ターンほどひたすら手札の土地を自慢し続けた挙句敗北した。

このように手札に使える人材が来ないことを俗に手札事故という。シャッフルは十分にしたはずだがさすがに60枚となると厳しかったのか、はたまた純粋に運がなかったのか。

手札事故が起こってしまった場合引き直しをすることができたのだが、当時は若く、まあこれでもなんとかなるだろうと思い黙って進めてしまったのだ。土地不本意に所持している場合はすぐ専門家相談すべきである。これは現実MTGも変わらない。

そんなしょうもない初心者あるあるで負けたわけだが、私の心にふっと湧いたものがあった。悔しさだ。かなりあけすけに言うと「運勝ちのくせに喜んでんじゃねえぞボケ」と思った。何も知らないのに心だけはすっかりカードゲーマーである

どんな初心者だろうと負けるとわかっているゲームはやりたくない。特にデッキが同じレベルであればあるほど経験の差が勝敗を大きく分けることになる(まあ今回は運負けだが)。加えて、少なくともMTGは私のようなカードゲーム素養ひとつもない人間最初に触れるには少し難しすぎたように思う。

もういいかな……と若干引き気味でお開きとなったのだが、これ以降彼氏目的が徐々に「良い感じにデッキを回す」から初心者と楽しめるカードゲームを探す」ことにシフトしていった。

そんなある日私に40枚1組のデッキが渡されることになる。デュエルマスターズ主人公が使うデッキ、「ジョースター進化」だ。

ジョースター進化」には「ヘットルとフエートル」とか「ツタンカーネン」とか「ドツキ万次郎」とかいうトンチキな名前モンスターが多く入っている。そんなトンチキ共が力を合わせてトンチキ総大将ボルシャック・大和モモキング」を出して勝つのがこのデッキしかった。すべて個人見解である

ちょっと難しくてもやっぱりMTG続ければ良かったかな~などと思いつつちょこちょこ触っていくと、これが結構面白いということに気がつく。

まず、デュエルマスターズ通称デュエマには土地という概念存在しない。それは土地のようなカード出すための下地的な概念が無いわけでは無く、全てのカード土地からである。ただ、モンスターたちがいきなり土地になったらびっくりなのでマナという言い方をする。

生産者消費者は別人でなければいけない、みたいな固定概念があったおかげで余計に感動した。土地モンスター性質を併せ持ってもいいのか……。

なので何ターンもこれは出せないなーとか土地しか出せないなーなどとやることはまずなく、大体もう一度自分の番が回ってくる頃には何かしら出せるのだ。やってる感があって楽しいし、一枚出ただけなのに相手が何やら考え出すのも面白い

彼氏主人公ライバルポジション的なキャラクターの「ジェンドルのディスペクター」を使い、1勝2敗。まあまあいい戦績ではないだろうか。すくなくとも何が起こったかからないうちに殺された時よりかはずっと良かった。

とはいえトンチキ共に矜持を預けるわけにもいかないのでその足でカードショップに向かい2人で30円カードをガサついてデッキを作った。というか、私はチュリスが使いたいと言っただけなので作ってもらったと言った方が正しい。2000円くらいだった。

そんなこんなで去年の冬にできたデッキだが、未だにカードを入れ替えたりして遊んでいる。この間はバラモルドが3体出てきてチュリスを消し炭にされて負けたが、絵面が面白かったからオッケーである

最近ハンデスデッキを作るぞと息巻いてジェニーを集めていたのだが、次のパックで新しいジェニーが出るようなのでそれもまた楽しみだ。

これからもぼちぼちやっていこうと思う。

2021-04-17

anond:20210416214758

QアノンとかJアノン精神障害者どもが勝手に作り上げたスペクターのブロフェルドみたいな悪の秘密結社首領みたいに喧伝してただけで

冷静に言ってることや政治主張を見れば別に今やってることと全く矛盾しないし普通ってだけ

投薬治療いるレベルで頭のおかしキチガイネットさせんなよって思うわ

10年くらい前なんて頭おかし底辺イスラム聖戦士化して圧力鍋爆弾作ってアメリカ国内テロ事件起きまくって大問題になってたくらいだしな

2020-10-27

anond:20201027152623

検索結果。

デーブ・スペクター:約640,000件

イブスペクター:約30,800件

本名はDave Spector

ジャズギタリストにDave Specterがいる。

昔、本人はどっちでもいいと言っていた記憶がある。デーブ(デブ)でもないけどね、って。

ホロコースト否定で有名なN医師について。

かつてマルコポーロ事件というものがあった。

マルコポーロ事件 - Wikipedia

この記事を読めばN医師とは誰のことかたちどころにわかるのだが、それはさておき、色々調べてみると、この事件文藝春秋社が一方的に悪いことがわかる。結局、スポンサーへのSWCから圧力という事実存在せず、勝手に慌てふためいただけの文藝春秋者が雑誌廃刊し、社長が辞任し、そして勝手花田編集長(当時)が辞めたのだけだったのであるしかしこれは最悪だった。ホロコースト否定的なことを言うのはタブーだ、という誤った認識世間に与えてしまたかであるSWCは単にホロコースト否定論を監視する団体であり、それまで世界中でずっと抗議してきたのである。なぜなら、欧米では日本など比べ物にならないくらホロコースト否定論は昔から大きな問題だったかである

 

事件の中心人物だった、N医師のその当該記事噴飯物記事だった。何せこのN医師普通ならあの有名なAuschwitz強制収容所は「アウシュビッツ」或いは「アウシュヴィッツ」と日本語表記される筈なのに、「アウシュウィッツ」と呼んでいたくらいのレベルだったのである。今でもAmazon古本で『アウシュウィッツ真実』という初版本は売っているので、その表紙をWeb上で見てみるといい。これが別の出版社からのちにペーパーバック版として出された時に、こっそり「アウシュヴィッツ」に直しているのが笑える。ちなみに、この指摘をしたのは、N医師ネットで散々苔にするほどに論駁していた山崎カヲル氏である

 

N医師は、デイブスペクターによれば、それまでは英字新聞への投稿マニアに過ぎなかったらしい。おそらくは、そうした趣味1995年当時、そこそこ盛り上がりを見せていた欧米ホロコースト否定論に接する機会を与えたのであろう。N医師にしてみれば単に当時の流行り物に飛びついただけだったに違いない。ともかく、N医師別にホロコーストに詳しいわけでもなんでもなく、その程度のレベルであったから、文芸春秋社はきっちり反論記事でも載せるべきだったし、或いはN医師記事など最初から突っぱねるべきだったのである。どれだけ噴飯物の内容だったかは、これでも読んでみるといい。

『アウシュウィッツ「ガス室」の真理』の虚偽

 

だが、たった一度のその記事は、N医師人生を大きく変えてしまった。未だにN医師日本ホロコースト否定論者の第一人者としてたくさんの信者存在する人物になってしまったのである知名度を生かして講演料まで稼いでいるらしい。前置きが長くなったが。

 

アウシュヴィッツのクレマトリウムⅠの捏造疑惑に関する経緯

この問題は、結構事情が複雑である簡単説明英語だがこちらで読むことはできる。一体この煙突問題を誰が言い出したのかはよくわからないが、クレマトリウムⅠの捏造疑惑自体は、1980年代ごろにフランスの有名なホロコースト否定論者だったロベルトフォーリソンが言い出したのである。大概の細かいホロコースト否認論はこのフォーリソンが発祥であるフォーリソンはホロコースト否定を公に行ったことで当局逮捕され、裁判になり、実はこの裁判でクレマトリウムⅠの捏造疑惑は形上は一旦決着しているのだ。だが、フォーリソンはそんなことで諦めるような人ではない。

続いてホロコースト否認問題では欠かせない話題であるツンデル裁判というのがカナダで起きる。欧米では当時かなり大騒ぎになった事件である。そして、このカナダ事件フォーリソンは深く関与した。有名なロイターレポートの発案者も実はフォーリソンなのである。それはともかく、クレマⅠの捏造疑惑ネタがまたこ裁判内で取り沙汰される。この時はフェルデラーという超悪質なホロコースト否認論者が証人となって裁判で取り上げたようである。間違いなく暗躍したのはフォーリソンであろう。この裁判の決着はさておき、最も目立ってこのクレマⅠの捏造疑惑を取り上げたのは1990年代に入ってデヴィッド・コールというユダヤ系アメリカ人だった。ユダヤ人だってホロコースト否認はする人はするのであるが、彼はアウシュヴィッツ博物館に出向いて、アウシュビッツ 担当者まで登場させるビデオを撮ったのである。このビデオは今でもネットで視聴可能であるコール自身はこのビデオ販売に抗議したらしいが、出回ってしまったものしょうがない。しかし、このデビッドコールネタ元は間違いなくフォーリソンであるコールの裏で暗躍していたかどうかまでは知らないが、フォーリソンが1980年ごろに指摘しなければ誰も気づかなかったのは間違いない。2000年代以降はオーストラリア否定論者フレデリックトーベンという人物がこのクレマ1捏造疑惑喧伝していたようであるが、この人物も何度か逮捕されてるということくらいしか私は知らない(正直どーでもいい)。

 

ガス室捏造疑惑って簡単にいうとどういうこと?

簡単には説明がなかなか難しい。全体を把握しようとすると、ホロコーストの全体的な細かな問題まで把握しないといけなくなる。ただ、こう説明することはできる、ホロコースト否定派はどんなことがあっても絶対断じてガス室」だけは認めることはない、のである。他の虐殺方法程度なら認めるホロコースト否定論者はいるけれど、ガス室だきゃあ絶対に認めてはならぬものなのである。そのガス室現在アウシュヴィッツという最も有名なホロコーストにおける強制収容所内にあったものとして公開されているのだから否定論者にとってはまず最初に疑いの目を向けるものになってしまったのだのだろう、それ故に、否定論者にとってはクレマトリウムⅠと呼ばれるその場所は「戦後捏造された」ものでなければならない。

ところがこのクレマトリウムⅠ、実に否定論者にとって都合がいいことに、実際に戦後に「再現工事がなされているのだ。前述したリンク先を読めば書いてあるように、戦時中にいったん防空壕になっていたものを、ガス室として公開するために、もっかい戻したのが、昔は共産圏だったポーランドだったのだ。そして、この再現工事に実際に携わった当時の職人が、前述したフォーリソン裁判に出廷し、「再現工事をこんな感じでやりました」ときっちり証言していたのである。当然、捏造だなんて話にはなっていない。しかし、フォーリソンら否定派は「そんなに都合よく裁判証人が出てくること自体怪しい」と引き下がらない。何せ、1980年代当時は、相手東側であり、西側にとっては怪しすぎる共産圏国だ。背後にはソ連がいて、疑うにはもってこいの状況だった。

 

だが、ほんとはどうでもいい煙突問題に未だにこだわるN医師

前述した海外サイトへのリンク記事にもあるが、煙突問題とは、戦時中にクレマトリウムⅠにあった煙突が、そこが防空壕に改築されるとき解体されたのである。そして、その煙突アウシュヴィッツ博物館1948年オープンするのに合わせて、当時の再現という意味でもう一度作り直されたのだ(煙突だけではなく他も色々工事しているが、結構杜撰再現工事であることは頭に入れておく必要がある。図面をよく見ればわかる)。だから、一時期煙突はなかったのであるが、戦後にそのなかったときのクレマトリウムⅠの写真が残っていて、それを現在写真比較して「戦後すぐにはなかったじゃないか!どうして今あるんだ? 捏造しだろ?」と仰るのである。……アホかと。

実際、煙突ガス室にはほとんど全く関係がない。火葬場があれば、煙突必要だった筈で、クレマトリウムⅠのガス室否定しても、そこが「死体置き場」だったことを否定する否定論者はゼロだって死体置き場」自体バッチリ図面にそう書いてあるのだからである。むしろ煙突がもし戦後に再建されていなかったら、図面を見た人間は気づく筈である、どうして煙突がないのだ? と。結局、防空壕だった時もその前の時も、図面が残っているので、問題根本があるとするならば、ガス室としてほんとに「死体置き場」を使用したのかどうかだけが問題の筈なのである。これが、N医師にはどうしても理解できないらしい。そもそも悪いのはフォーリソンなのであるが(図面をきっちり1980年ごろに既に取得しているのであるが、フォーリソンには図面を正しくみる能力はなかったようである)、そもそも論としてそこがガス室とされるのは、図面にも文書にも残ってないのだからアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスやその他の証言者の証言しかないのである。こんなの否定論者が一番よく知っている事実の筈である。つまり、最も怪しむべきはその「証言証言者」であるわけだ。だから、私はそのことを直接本人に言ってやったのだが……。

 

実際話してみると、実にくだらない低レベル陰謀論であるに過ぎなかった。

N医師最初アウシュヴィッツ司令官のルドルフヘスの話がガス室根本である」のようなことを言ったので、私はそれはおかしいと指摘した。何故ならば、ルドルフ・ヘス逮捕されたのは1946年3月であり、実はその約1年も前に、問題にしているクレマトリウムⅠのガス室に関する証言をした人物いるかであるポーランドは、ドイツ撤退すると、さっさと戦後処理に取り掛かり、ドイツ終戦を待たずに戦犯裁判に動き出していたのだ。だから1945年4月16日アウシュビッツ囚人だった人物がクレマトリウム1のガス室についてポーランドクラコウというアウシュヴィッツ収容所のある地元法廷で宣誓証言をしているのである。これは時系列として全くN医師の言っていることに矛盾する。

すると、N医師はこう言ってのけたのである

「肝心だったのは、連合国としてはアウシュヴィッツ司令官だったルドルフ・ヘスに中心人物として証言させることだったのであり、誰が証言をし始めようと構わなかったのである」と。

まぁ、そんなことだろうなとは予想はしていたが、N医師自身脳内ストーリーさえ辻褄あわせができればそれでいい低レベル陰謀論者に過ぎなかったのである。彼はこうも言っている(昔からである)、「ヘスはイギリス人拷問を受けて嘘を言わされている」と。拷問を受けたというのは拷問した人物が手記にそう書いているので、事実であるだろうが、拷問受けてなくても当然信用してなかったわけだし、それよりももっと矛盾しているのは、これ拷問したのは「イギリスである。N医師は別のところでは、「ポーランド」が怪しいと言ったり、「ソ連」が怪しいと言ったり、単にめちゃくちゃな脳内理論披露しているだけなのである陰謀論者の一般的な主張通り、陰謀それ自体証明は一切ない。陰謀は巧妙にできているかである

だったら何故、「煙突問題」のように疑われるような事実を残すんだよ? と突っ込んでやりたいところだが、奴らは脳内論理の辻褄さえ合えばそれでいいので、どんなにツッコミを入れても無駄である

 

そんな下らない低レベル陰謀論者を指示する信者たち。

当然私など、N医師に比べりゃ微塵子のような存在しかいから、支持はN医師に集まる。N医師自体ネットに腐るほどいる低レベル陰謀論者に過ぎないことは実際どうでもいい話なのだけど、N医師を支持する人が実際に結構いるという事態を目にしてしまうと、こっちが頭が変になりそうだった。SNSはそうした言わば人気者をあたかも「教祖」のようにしてクラスター形成する仕組みだから、それ自体現象としてしょうがないのだけど、頭では分かっていても実際に見てしまうとねぇ……。

 

というわけでさ、ホロコースト否定論なんざ、そんな下らない低レベル世界なんだ。あなたは、「ガス室」はそれでも疑わしいと思いますか? つーか、なんでそんな低レベル陰謀論が支持者を集めるのか、私にはちっとも理解できません。 

 

追記すると、N医師にはクレマトリウムⅠは一回防空壕に改築させていることだけはなんとか認めさせた。それすら認めていなかったのだから、呆れるけど。

2020-10-16

anond:20201012224344

ゼロワンについてはまあ内容見て実際に抱いた感想自由から置いとくとして

ツイッターゼロワン叩いてた特撮アルファが「平成」とか「土管社長」とかのフレーズを使って近年の作品ネタにして面白がって消化してきたネタアカウントが多かったことを考えると

自分の考えは特になくて界隈の雰囲気だけで良作駄作判断する風見鶏が多いんじゃないかなってのが一つ

あとはゼロワンスタッフを大っぴらに叩くと今まで彼らが持ち上げてきたエグゼイドにブーメランが刺さるとか、来週から番組セイバーが始まるってのもある(ガンダム遊戯王だとそうはいかなかった)

ゴーストは夏の劇場版とOVのスペクター以降は高評価で、ビルドジオウの頃には普通に評価されてた記憶

2020-05-02

anond:20200502012153

うちの軍レイスとかスペクターかいるよ いつも浮いてるし触れないから話しかけにくいわ

2019-07-10

ポリコレマジョリティも守ってくれる例

映画トイ・ストーリー2』、いつの間にかセクハラシーンを削除

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.elle.com/jp/culture/celebgossip/a28309607/toy-story-sexual-harrasment-190708/

社会的望ましさを追求するなら、過去作品だとしてもやむをえない措置だった。

今回問題となっているセクハラシーンだが、そのセクハラを行っているのはプロスペクターというキャラクターだ。

彼は年配の白人男性を模したキャラクターであり、しか西部劇象徴であるカウボーイハットも被っている。

これは何を意味するか。

このシーンを放置することにより、「年配の白人男性特にカウボーイ文化を担っている地域男性は、影に隠れてセクハラも平気でやらかす人間なんだ」という偏見に満ちたメッセージを、ディズニー社会に対して発信し続けることになる。

実際の白人男性ほとんどはそのような犯罪とは無縁の人々であるにも関わらず、これをフィクションからといって放置することは難しいと判断されたのだ。

特にトイストーリーのような子ども向けの作品の中で、白人男性の誤ったイメージ幼児に刷り込んでしまうと、彼女の成長後の対人関係に取り返しのつかない影響を及ぼすことになる。

近年、ディズニー作品ポリティカルコレクトネス恣意的適用し、女性有色人種ばかり優遇しているとの誹謗が溢れかえっている。

しかし、そうでない人々に対しても偏見を生まないよう、ディ社が細心の注意を払っていることが今回証明された。

いわれなき攻撃に対しては、今後は今回の事例が有力な反論根拠となる。

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