はてなキーワード: 養子とは
父は私が小学校の時に単身赴任してから今までずっと各地を転々としてるので人生の3分の1程度しか一緒に暮らしたことがない。(現在も別居)
中2の時に父がイギリスに赴任することになったので周りから行った方が絶対いいよ、将来役に立つよと推されて行って1年だけ父と二人暮らしだったけど現地の学校には全く馴染めないし、意識高い系の努力家の父とはソリが合わず鬱を発症して、それからというもの年に数回顔を合わせてもほぼ喋らないような関係が続いてた。
不仲だとは思っていたけどまだ世の中にありふれた程度の不仲だと思ってたからこんなこと言い出すと思ってなかった、こういう所がダメだったのかもしれない
ショックと言われればショックな気もするけど自分のせいだしショックを受ける権利はあるんだろうか?
金を積まれた割に何にも芽が出ず、受験期もずっと鬱だったのでずっと塾に通わせてもらってたのに大した高校にも行けなかったし結局中退するし、親へずっと申し訳ないと感じてたのでやり直したいならそれでもいいかなと思ってる。現実的じゃなさすぎるので本当にやるかどうかは分からないけど、、、
それはそれとしてどういう心境で言い出したのかだけ気になるなあ
「昔はオッサンもおったしアバもおったし、夫婦も三すがいもおったし家族はたくさんだった」と語られるが、オッサン・アバというのは、親族呼称上の区分として、長男・長女をアニ・アネと呼ぶのに対し、次三男以下、次女以下の呼称であるオジ・オバである者が、結婚適齢期である二十歳過ぎても、未婚のまま生家に継続してとどまっているような状態を指す。オバは嫁として他家の正規な一員となる可能性が高かったが、オジは「二十四まで家に奉公して、シンゲ(自立)しろよ」といわれ、二十五歳からは家業以外の仕事で得た収入はシンガイ(個人の自由になる私財)にして良いとされ、独立することが望まれた。明治になって転居の自由が認められてからは、松前イカの盛況で、北海道へ行ったオッサンも多かったといわれている。
しかし「オジゴンボウ(牛蒡の分かれ根は余計なもの)」とか「アバ見りゃ荷が重い」といった言い回しが残っているように、かつては独立できず生家にとどまっていた傍系親族も多かった。生家にとどまっている間は、以前は結婚が認められず、独身生活を強いられたわけであるが、明治の末年頃まではオッサン・アバのまま一生を終える者もみられたという。オッサン・アバのまま死ぬと、縁付かずに死んだということで、夭折した子供と同様、「先祖」にはなれず、「無縁さんになる」といった。
明治になれば少なくとも結婚の自由は保障されたわけであるが、明治末年の頃のオッサン・アバの暮らしは聞書きで、ある程度は捉えられる。明治三十年生まれの宇川ハルさんによれぽ、オッサンのなかには仮の住まいを作ってアバと一緒になって暮らす者もあったが、ただし「寝床は下にコンクリー固めてムロみたいの作ってのぉ、そこに馬の糞の乾燥したのをそこに入れておくとホカホカとしてくる。その上で寝ていた」という。それぞれ生家の仕事を手伝って、その日暮しの生活を送っていたが、よくしたものでそのうちに潰れた家や立退く者の跡を継いだり、両養子やナカモチ(中継相続)に入って何とかなるものだったという。
ざっくり大雑把に考えてみるとだけど。
本当にたまたま、男性の人が女性を(あるいはその逆)好きになれて結婚できた場合と。
男性の人が男性を(あるいは女性の人が女性を)異性の人同士と同じような情熱で好きになった場合とで。
法的にもらえるメリットとか権利とか責任とかが異性愛の人とはあまりにも釣り合ってないよ、って話ではあるんだよね。
子どもがいないばあいでも男女婚姻のカップルなら色々もらえる法的な補償とか責任ある立場みたいなモノを、同性カップルの時はもらえないのは、やっぱりおかしいのでは?
っていう、単純な疑問なんだよね。
同性カップルの場合でも子育てしている人は居るだろうし。ほら、養子をもらったりとか、なんかそういう里親的なやつもあるし?
結婚している人は考えてみて欲しいなぁ。たまたまパートナーが異性だったし自分が異性の人を好きになるタイプだったから今のカタチがあるわけだろうけど、そのあたりが同性の人だった場合、今まで当たり前にもらえていたいろんな権利とか、結婚権みたいなモノとかが、いっさいがっさいぜーんぶ最初から無かったことになるんだよね。
人間生活の基本、衣食住のうちの、家を借りるという基本的なことでさえも、難しくなるってハナシだし。
国としての法律は今はないんだけどさ、同性カップルの人も幸せになりたいんだよ。たまたま同性を好きになった人は、人として認められないのかな?
日本国憲法24条は文化的に未発達な国家が定めた野蛮な憲法なので注意が必要。
家庭をつくることと性愛や性癖をまぜこぜに語るのは混乱のもとである。
そもそも、性愛や性癖をしっかり議論できていなかったのが大問題。
両親の性愛や性癖などよりも重要なのが子供の権利のはず。昭和20年代なら家制度の残滓があったのでそれがそこそこ機能していたのだが、令和の現在にはそれはまったくない。両親の性愛性癖に基づく家庭に大事な子供を預けるのは危険。
性愛や性癖の実現のために婚姻を利用するとか。不純なんだよ。家をつくる覚悟がないものは婚姻するな。ぼけ。パートナーとの権利関係のためには別の制度を用意すればよろしい。養子制度を発展する形で。
まあ可愛がるのは良いことなのだが、やっぱ人生として分かれちゃう感じがあるなぁ
幸せそうなのは良いことだし、しばらく距離は置いて遠目に見守るとするか
身勝手な要望としては、子なしに対しては子がいないかのように振る舞って欲しいが、まあそんな面倒なことをするより、似た属性同士で群れて愚痴りあう方が合理的なんだろうな、日常の範囲では
政治的再分配の話としてはアレだけども
養子とか検討したことがないわけじゃないんだけど、たぶん継続的に愛し続けられるほどの愛情はないからねぇ
少なくとも数年間、自分と子を区別しないような錯覚を獲得する必要はあるのだろうし、それは多分、不幸な事故のない限りは幸せなことなのだろうとは思う