はてなキーワード: 不良少年とは
社会主義体制下のチェコ。深い霧。重い空気。曇天。街ゆく人の目に映るのは自らのつま先と石畳だけ。
私たちの目に映る彼らの日常は、空虚で不条理でグロテスク。しかし体制下で生きる市民にとってそれは笑いあり、涙あり、退屈ありのまさにかけがえのない日常。
真実を教えてくれる新聞はないが、体制の網目をくぐり抜けた物語がある。コカコーラはないがブドヴァイゼルがある。ハリウッド映画はないが滑稽劇がある。信頼できる役人や警官はいないが自分を必要としてくれる友人たちがいる。生きる上で、他に何が必要だと言うのだろうか?
冒険する作家アーネスト・ヘミングウェイ。ロスト・ジェネレーションから生まれたアメリカの父。誰もが認める大作家となったものの、晩年の彼は自らの老いを自覚し、苦悩し、そして闘っていた。広い海の中、たった1人で無数のサメと戦う老漁師のように。
そんな彼の心に蘇るのは、記者として赴き作家としての歩みを始めた若き日のパリでの生活。そして最初の妻ハドリーであった。
「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ.」
不良少年、官立大学の学生、大学院生、そして教授の婿。紆余曲折を経ながらも順風満帆に見えたバードの明るい人生はアルコールによって閉ざされた。義父や妻、かつての学友たちの憐れみの視線から目を背けながら予備校講師で食いつなぐ日々。しかし若きバードはアフリカ冒険を夢見ていた。広大なジャングル。壮大な夕焼け。見たことのない動物たち。それらは想像するだけで彼の目を輝かせた。そんな中、彼は妻の出産により現実に引き戻される。
脳ヘルニアを抱えた新生児、妻、義父、職場。苦悩するバードが向かった先はアルコールと女。青年は現実を受け入れられるのか。それともさらなる深い闇に落ちていくのか。
大江健三郎の長男は脳に障害を抱えて生まれており、その時の心境を基にして執筆された作品。
中産階級の青年ロビンソンは大海原に駆り立てられ、父の忠告を無視して旅に出る。案の定、彼の船は嵐に遭遇し、無人島に漂着する。たった一人で無人島に投げ出されたロビンソンを襲う疲労、病気、空腹そして孤独と後悔。
しかしロビンソンは自分を奮い立てる。この島は私の国だ。私を邪魔する者は誰もいない。ロビンソンは今やこの島の君主であり法である。トンネルを掘り、家を建て、家畜を飼い慣らし、その生活を豊かなものにしていく。
そんなある日、ロビンソンが浜辺を探索していると自分以外の足跡があることに気付く。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」と共に読んでほしい。なぜ世界の辺境である西欧諸国が地球上のほとんどの土地を支配することができたのか。ロビンソン・クルーソーにはその問いに対するヒントがロビンソンの行動の随所に散りばめられている。
芝居で人気を博し江戸でお馴染みの美しき不良少年となった「お若えの」こと白井権八ですが、そのモデルとなった平井権八も大変興味深い人物であり、恋人の小紫とともに江戸の人々の興味関心の対象であったようですのでひとつご紹介いたします。
平井権八は、延宝3年(1675)11月3日に鈴ヶ森の刑場で磔刑に処せられた人物です。
もとは剣術自慢の因幡鳥取藩士であった権八は、どういうわけか父の同僚である本庄助太夫なる人物を斬り殺してしまい、鳥取を出て江戸へやってきました。
そして吉原三浦屋の小紫(こむらさき)という遊女と馴染みになってお金に困り、権八は揚げ代のために辻斬りによる強盗殺人を繰り返してしまいます。
実録小説『幡随院長兵衛』によれば、権八が江戸へ出て5年間のあいだに「刀にかけたる人の数、手帳に留めたる分のみにても百三十二人」ということで、数字はおそらく誇張されているとは思われますが恐ろしい辻斬り犯であったことが伺えます。
指名手配犯となってしまった権八は自首しますが、小紫に会うために手鎖を外して脱走などを試み、ついに処刑されてしまいます。
権八の処刑後、権八が自分のために重ねた罪を知った小紫は、悲しいことに目黒東昌寺におかれた権八の墓の前で自ら命を絶ってしまったのでした。
東昌寺のお坊さんは、この地に「比翼塚」を建立して二人を弔いました。比翼塚というのは心中したりして命を落としたカップルの遺体を一緒に葬った塚ことです。権八小紫の比翼塚は現在も下目黒に残されており、役者さんが参拝に訪れることもあるようですよ。
ちなみに、舞台の上の「南無妙法蓮華経」と書かれた巨大な石は、平井権八が処刑された時の鈴ヶ森にはまだ建立されていなかったものだそうです。さらに、年代的に幡随院長兵衛と出会っていたはずがないこともわかっています。
しかし美少年の大量殺人犯というモチーフの魅力から、男気溢れる侠客の幡随院長兵衛との男色めいた芝居づくりがなされるなどして現在に至ります。
人によってはそう感じる人もいるということだな。
朝夕の通勤・通学ラッシュ時間帯に登場した「婦人専用電車」が最初とされている。
乃木将軍もかつて学習院女学部の生徒が電車に乗ると男子が女生徒の体に触れたがって困ると電気局員に語られたと記憶するが、
近来不良学生が山手線沿線より市内各女学校に通う女学生の乗車するを機とし
混雑に紛れて、或いは巧妙なる手段を以て誘惑し、逸らすとも女生徒の体に触れて、其の美しき姿を見るを楽しみとする風がある。
彼らは此の女学生の満載せる電車を称して「花電車」と呼んで居るが、今回中野昌平橋間に各駅から
婦人専用電車を朝の八時半前後と午後の三時半前後の数回運転せしむることに決定し、
此の電車を女学生が利用する様にお茶の水附属女学校、女子学院、千代田女子学校、雙葉女学校、三輪田女学校、精華女学校等に対し通知し、
来る三十一日より実施することになった。
数が多くて切りが無いし、私も知識が無いのと途中で疲れてきたのでごく一部しか挙げられません。こんなのもあるよって方は教えてくれるとありがたいです。今はこんな感じですが、気が向いたら付け足します
フランス革命期における山岳派による独裁政治。王侯貴族のみならず、農民、革命家すら処刑され合計4万人以上の命が失われた。
革命政府に監禁されたルイ17世は激しい虐待に晒されわずか10才で死去した。
ボリシェビキの秘密警察チェーカーによる弾圧。反革命派・貴族・聖職者など最大130万人が殺害された。
皇帝・皇后とその5人の子どもが虐殺された。末っ子のアレクセイはわずか13才であった。
赤軍パルチザンが尼港を襲撃、6000人以上の住人を虐殺した。
スターリンの命令によりウクライナ人から家畜・土地が奪われ1000万人が餓死した。
スターリンの命令により反体制派と疑われた国民が多数処刑された。犠牲者は1000万人にも上るとされる。
ソ連がポーランドに侵攻したにも関わらず、西側諸国はそれを黙認した。ソ連の占領下で50万人が投獄され、10万人が強姦され、15万人が死亡した。
樺太の郵便電信局職員がソ連軍接近の方を知り、9人が自殺した。加えてソ連軍の虐殺により10人が死亡した。
ソ連兵に強姦され続けた日満パルプの女性職員とその家族23人が自殺。さらにソ連軍に物資が奪われたため、冬になると87人が死亡した。
ソ連軍の攻撃で緊急疎開船3隻が爆破され、1700人以上が死亡した。
ポツダム宣言受諾後、ソ連軍が樺太に侵攻。民間人も犠牲になり3500人以上が死亡した。
日本軍の捕虜57万人がシベリアに連行され、過酷な強制労働に従事させられ、5万人が死亡した。
連合国によるドイツの戦争裁判。事後法によりドイツの政治家や軍人を裁き、連合国の残虐行為を無視したリンチ
ハンガリーが非スターリン化を進めると、ソ連軍は武力でこれを弾圧。1万人以上が死亡し、首相のナジ・イムレは処刑された。
ソ連がアフガンに侵攻したが、戦局は泥沼化し、アフガンの政治情勢を混乱に陥れた。
ソ連がアゼルバイジャンの首都バグーへ侵攻し、1満員以上の死者が出た
大躍進政策により失脚した毛沢東が大衆を動員して、政権を転覆させた。全国で1000万人以上が犠牲となった。
共産党がチベットを武力で制圧。その後現代に至るまで文化的・政治的弾圧を加えている
共産党がウイグル人に対して行っている虐殺、洗脳、不妊などの弾圧。死者は100万人も上る。現在も行われている。
共産党が党大会を強行したため、世界各地にコロナウイルスの感染が拡大。死者は400万人にも上る
共産主義者難波大助による裕仁親王(後の昭和天皇)暗殺未遂事件。侍従長が負傷
朝鮮学校閉鎖に反発した共産党と在日朝鮮人が各地で暴動を起こした
共産党が平警察署を襲撃。職員に暴行を働き、留置所に監禁した。
日本共産党が山や農村を拠点とした武力活動を企むも、支持が得られず、警察の取り締まりにとり挫折。
共産党軍事組織中核自衛隊のメンバーが警部を射殺。その後共産党の幇助により国外逃亡した。
共産党員及び在日朝鮮人が無関係の一般市民の家を襲撃、放火した
吹田駅・吹田操車場で学生・朝鮮人らが暴動を起こし、一般の乗客にも負傷者が出た。
共産党員および在日朝鮮人が警察署を襲撃、警官70人、消防士1人、一般人4人が負傷した
共産党員が地主と妻・家政婦・小学生3人を暴行、重傷を負わせ、金品を強奪した。
共産主義者が日本航空のよど号をハイジャックし、北朝鮮に亡命した。
沖縄でゼノストの警備に当たっていた警官が新左翼による暴行の末火炎瓶を投げつけられ死亡した
連合赤軍が山中のアジトで同志に対してリンチを行い、12人が死亡した内ゲバ事件
大阪城公園内で起きた新左翼の内ゲバによるリンチ殺人。1人が死亡した
東アジア反日武装戦線による爆破事件8人が死亡、376人が負傷した
岡山大学北津寮を拠点にしよと目論む新左翼が寮を襲撃、1人が死亡、多数の負傷者が出た
新左翼が大坂第二合同法務庁舎に大量の火炎瓶を投擲したが、幸運にも1本しか着火せず人的被害はなかった。
不良少年のグループが女子高生を誘拐、1ヶ月以上にわたり監禁と暴行を加えた末に殺害。主犯者の両親は共産党員であり、自宅で事件が行われていたにもかかわらず見逃していた。
新左翼が新しい歴史教科書を作る会の事務所があるビルに放火した。発見が遅れていれば大惨事に繋がっていた。
共産党支持者がマンションに侵入し、共産党のビラを配布、住居侵入罪で逮捕された。
厚生労働省職員が新聞あかはたを配布し、国家公務員法違反に問われた
男組組長が反差別ワークショップを開催した際、初対面の助成に執拗な痴漢・セクハラを行った
カンボジア国内でクメール=ルージュにより200万人近い知識人らが虐殺された
沖縄でやんちゃな少年たちの一般社会への再接続をサポートをする仕事をしているのだけれど、沖縄の若者文化というか何と言うか、端的に言えば不良少年たちは沖縄の独立を望んでいない場合が大半だ。
現在沖縄の若者は米軍基地が非常に身近なためかファッションから音楽までアメリカ由来のHIPHOPスタイルを非常に好み、沖縄の米軍関係者を親に持つアメリカ籍少年たちとコミュニケーションを取って生活をしている(ここで言うコミュニケーションは血を伴うものも含む)。
つまり、アメリカのバッドボーイズ/バッドガールズスタイルを日本の不良スタイルへと集合させた本土とはちょっと違う不良スタイルへと昇華させている。
アメリカのスクールカーストが稀に話題となるけれども、バッド少年たちはスクールカーストへ組み込まれていない例外層であり、何故かと言えばバッド少年層と喧嘩になれば拳銃が出てきたりして子供同士の喧嘩とはまったく言えなくなってしまうからである。
だから最上位であるジョッグやクイーンであってもバッド少年層とは距離を起く。ジョッグやクイーンが最終的に求め憧れるパワーとはヒーローのパワーであり、バッド少年が求める文字通り何にも縛られない自由になるためのパワーなので求めるパワーの質が違うのだ。
そうアメリカ籍の少年から聞いた。
はてなで話題になる沖縄の話と言えば、米軍基地と沖縄独立を絡めたものであるが、はてなで取り上げられスターが付くブコメにはかなりの偏りがあるし、おそらく・・・というよりはほぼ確信的に沖縄の大部分の若者から支持が得られないものだったりする。
少なくとも沖縄の若者からすると米軍基地へ直接雇用されれば安定職だし、出入り業者へ就職してもそこそこ良い待遇を得られることが確定する。
それ以外の就職口の大半が沖縄は3次産業ばかりが発展してしまった土地柄なので観光のための施設店舗を作り整備する土建業か、観光飲食そのものを扱うサービス業なので低賃金なのだ。
つまり、沖縄の若者からすると割の良い就職口である米軍関係を沖縄の外へ出すなんてのは害悪以外なにものでもなく、口々にその手の話にはほぼ間違いなく一笑に付してしまう。
はてなの一部の人には微妙な感情を持つことになるだろうが現代の沖縄で「少年から大人になる≒就職口として米軍関係を検討する」ということを意味する。
それでも米軍関係者による暴力事件がという考えが巡ってしまう人も居るだろうけど忘れないで欲しい。沖縄のやんちゃな少年たちの存在を。
今さら沖縄在住の人に説明するまでもないことだが、知らない人へ説明するならば「不良というものへどういうイメージを持っているか?」をまず考えて頂きたい。
私は不良のイメージの一部に「不良は大人に迷惑を掛けるもの」というのがあるし、多くの人もそうだろう。そして「沖縄では迷惑を掛ける大人の対象に米軍関係者すら含まれている」としたら察しはじめる人も出てくるのではないか。
沖縄発の犯罪事件の報道には偏りがあるのはご存知だと思うし、米軍関係者による無意識なアジアへの差別思想ももちろんあるだろうが、あれだけ成人式で騒ぐ沖縄のやんちゃな少年たちがなぜ普段から報道されず、警察により行き過ぎた取り締まりなどセンセーショナルなことがないと取り上げられないのは不自然だと思わないだろうか?そう偏っているのである。
一部の沖縄県警や一部の米軍関係者が沖縄の若者へ当たりが強いのは、そういったやんちゃな少年たちの存在が少なからず関係していると言って良いし、米軍関係者が暴力事件を起こしたとき何故か喧嘩相手の詳細がわからないのはその喧嘩相手は実はそういうことなのだ(少年法の絡みや報道慣習・自主規制もあるだろうけど)。
ほかにも米軍の治外法権の絡みから、何らかの事件を沖縄内で米軍関係者が起こしたとき捜査権は事実上早い者勝ちになっちゃってるというのもある。
本土の人からすると意味がわからないだろうが、米軍関係車両が交通事故を起こしたとき捜査するのは先に事故現場へ到着した警察もしくは米軍関係者がするという運用が事実上されているのだ。
まぁだからこそ責任割合で1:9みたいな感じで米軍関係車両が悪いとなってしまっても米軍関係者が先に事故現場へ到着してしまうと責任割合の概念が吹き飛んでしまい損してしまった経験のある沖縄県民が少なからず居るのだ。
逆パターンももちろんあるわけで米軍関係者からすると治外法権はなんとしてでも手放すわけにはいかないってのが現状だろう。
そんな様な状態であっても沖縄の若者、特にやんちゃな少年たちにとって米軍基地は大事な存在だ。
やんちゃな少年たちの沖縄流HIPHOP文化の根拠は米軍基地にあるわけで彼らの青春そのものだし、何よりも大人になると大事なパートナーとなるからである。
そして、その文脈と同じ様に沖縄独立は沖縄の若者、やんちゃな少年たちにとってありえないのだ。
HIPHOPと言えばやはり立身出世なストーリーだ。地元の多くの人たちからそのスタイルが独自のものと認められ評価され人気になって行き、都会で全世界で成功者として大金を稼ぐ。
沖縄のやんちゃな若者にとってのニューヨークとは本土の東京であり、決して那覇市ではない。
本土で沖縄芸能人が過去に人気となったことがあるけれども、沖縄の若者からすると沖縄芸能人はシイジャア(先輩)である。
その当時のスタイルはHIPHOPではなかったけれども、沖縄の若者、特にやんちゃな少年たちはシイジャアに憧れて東京を目指している。自分のリリック・フロウが世の中を席巻することを夢見ている。
それをすることが難しくなる沖縄独立を沖縄の若者が支持するか?と言えば支持するわけがない。
なので沖縄の若者は「沖縄独立は老害の世迷いごと」「アイツら中国から金貰ってる」「共産主義はダサい」と口々に言って意見がほぼ一致している。
ちなみに沖縄の多くの若者は学術的に沖縄独立や共産主義を理解していないがスタイルとして沖縄独立や共産主義をダサいと言っている。
生活へ密着する文化がアメリカ志向、大人になっての就職もアメリカ志向なのが今の沖縄の若者であり、そんな沖縄の若者の事情を無視して今の大人たちの思想信条や都合によって沖縄独立論を語ると、今の大人が引退した数十年後は逆に取り返しの付かないことになっているだろうと私は予測している。
補足情報として今の日本の音楽シーンでは徐々にHIPHOPが興隆しているけれども、本場アメリカの影響を強く受けた沖縄流HIPHOPの東京進出志向もあると思っている。
それがどういうことかと言えばHIPHOPの派生系「TRAPスタイル」の流入も東京で起きているということを意味している。
TRAPスタイルについては「TRAP 歴史」などでググって貰えればわかるだろうけど、ググるのが面倒な人へ端的にイメージだけ伝えると「違法薬物がかなり強く影響しているHIPHOP」だ。
このように端的なイメージだけ伝えると悪い印象しか与えないだろうが実際に悪い。どれくらい悪いかと言えばトランスやサイケデリックなどと肩を並べられる、もしかしたらそれよりも悪いほど悪い。
このような音楽を聴くなと言っているわけではないが、その文化へ濃密に自身の子供たちが浸かっているような気配があれば親は警戒したほうが良いとは思う。
違法薬物がなくともトランスやサイケデリックのスタイルは踏めるようにトラップもまた踏めるはずなのでトラップやドリルに傾倒する若い子たちは今すぐに違法薬物が伴っているコミュニティと縁を切るように強く言おう。
キミのスタイルは魂の選りすぐりのスタイル キミの魂よりクスリ クスリのスタイル 騙しのスタイル クスリより魂 楽しいスタイル キミのスタイル 騙しのクスリより楽しい選りすぐりの魂のスタイル
タコピーがまりなを殺す前のしずかは、「どうせ何も変わらない」ばかり言っていた
何も変わらない、逃げ出せない、しかし、タコピーはまりなを殺してそれを変えられた
人は殺せる、殺したら変わる、という発見
最悪なんだけどこれはひとつの救済だろう
しずかの母さえいなくなれば、パパはママとまた仲良くなって幸せな家に戻れるはず
現実は、不倫をやめたからってすぐ元に戻れるほど、家族は簡単ではない
結局何も変えられずまりなは死んだ
そう考えると、初期しずかの死だって救済だった
このような、歪んだ救済を進めていくのが物語のパターンと読んだ
彼は、母の期待通りに能力を発揮できず、母の愛を感じられないのを問題と感じている
1. 彼が兄をしのぐほどの能力をつけ、母を満足させる
死は救済。これはしずかもまりなもそうだった。
これは兄がグレたり、犯罪者となるパターン。具体的にはまりな殺しの罪を引き受ける、もしくは犯人に陥れられる
兄さえいなくなれば母は自分だけを愛するはず、という考えはあり得るだろう
実際は、兄が潰れたって母の愛が東君に移ることはないのは自明だが、東君はそれを期待する、というのはこの物語ではありえる
でもさすがに死に過ぎなので潤也は死なないと考える
4. 母が死ぬ、もしくは母が壊れる、または完全に母に見限られる
愛して欲しい人がいなくなったら、もう母の愛なんか求めなくてもいい。母の死の線は薄いとすると、具体的には、母の病院の信頼の失墜、もしくは病院の全焼などが想定
東君が殺人犯と評判になることでも満たせるので、さくっと警察に行けば母への当てつけになるので、それでもOK
ただ、兄が割って入ったのを見るとストレートに自首はないから、証拠品の病院保管、それをしずかが密告、などもあり得る
実際は母がいなくなっても何にも満たされないんだけどね
母さんなんか嫌いだ、と思い込んで自ら母を捨てればもう母を求めなくて済む
しずかのキスと抱擁は。東にとっては十分すぎるほど母の代わりとなる事象だった
要は母や兄、家から逃げ、しずかの元に行くことが救済となるので、しずかが救いの女神である
つまり、東君は非行、まあ、殺人したというならそれは十分な非行なんだが、それに留まらず母や家族を避けるほうに動き、不良少年になっていくのではないか
もちろんこれは全てから目をそらした逃避でしかなく、負け戦の碁盤ひっくり返しみたいなもんで、もちろん解決じゃない
知人に 『シュタインズ・ゲート』が好きだと言ったら 薦められた。
暴力だからよくないとか騒がれてるけど、それは流石に今更すぎないか?
しかし、賢しらぶった人たちが「暴力と格闘技は違うんだ、わかっていないのは不勉強だからだ」という表面上だけの話をして留飲を下げているのは、ピントはずれもいいところだと思う。
だいたい、格闘技に限らず興行なんて裏も含めりゃ大概ヤクザみたいなもんだろ。
「少年の夢」みたいに健全ぶってるプロ野球とか、裏は言うに及ばず表の部分だけでもどれだけ暴力的でコワモテなんだよ。
ガッツポーズしただけで打者への報復死球が当たり前の暴力世界だぞ。
よく奇麗事だけいって満足できるなと思う。
そもそも朝倉は、「喧嘩」が好きで暴走族や少年院にも入るような暴力の世界で生きてきて、「格闘技」相手に手も足も出ずボコボコにされたことから総合格闘技に目覚めた人間だ。
自分と同じように暴力に明け暮れる、どうしようもない不良の方を気にかけている。
かつて自分がデビューした不良たちの格闘場「アウトサイダー」のように、次世代の格闘家のプロデュースもしている。
「喧嘩の楽しさ」の延長が格闘技にある、そこには時間をかけて人生を変えるだけの価値がある、だから不良は喧嘩なんかしないで格闘技をしよう、その方が人生が豊かになるよというのが朝倉の理屈だ。
この朝倉のスタンスは、不良たちに絶妙にいい影響を与えたと思う。
朝倉のyoutubeで、地元愛知に帰った際に煽り運転をされたことがった。
相手が朝倉未来だとわかった瞬間に一目散に逃げ去る不良の姿を流し(もちろんモザイクつきで)、ダサいし危ないし何より迷惑だからそんなことやめろと動画上で説教をしている。
自分たちだったからよかったけど、他の人がされたら堪らないと。
こういう部分にこそ朝倉の意義がある。
煽り運転をやめろなんて誰でも言えることだが、不良にとって、「外部の」大人に言われるより、自分たち「不良側」の先輩に説教されることほど効くものはないのだ。
だからことあるごとに不良アピールをし、同時に喧嘩や迷惑行為はダメとも発言する。
この動画を見た、年を重ねた元不良も「後輩にちょっといいこと言いてえ」と思って、「朝倉未来もやめろって言ってたぞ」と後輩に説教をする。
これは普段から品行方正な人間では決してなしえない、朝倉だからこそできた小さな社会貢献だと思う。
だから少年院にいって講演もして、院では異例の格闘技大会の特別上映(!)も叶えている。
「暴力と格闘技は違いまーす」「僕たち健全な格闘技界は不良なんかとは違いまーす」と奇麗事だけを都合よくいう人間ではないのだ。
そして、その長年不良だった朝倉でさえも、総合格闘技に出会ったのは成人する前後だった。
だから朝倉はyoutubeでも繰り返し「格闘技の周知」「認知の向上」の話をしている。
「格闘技好きに向けたアピールをしても、格闘技の人気は出ない」と繰り返し話している。
人気の「街の喧嘩自慢とスパーリングをする企画」も積極的にやり、この企画をどんどんパクってくれと言っている。
はっきり言って、朝倉のyoutube活動が今の格闘技界にもたらした影響はすさまじい。
格闘技界のカリスマ・堀口恭司なんて正真正銘のスーパースターすらも、一般人は誰も知らない時代だ。
だが格下の朝倉は、彼よりも圧倒的に有名になった。
一躍不良少年の憧れの的となり、格闘技の布教活動をして、大会の視聴率をあげている。
そして朝倉は、不良や総合格闘技だけではなく、空手や合気や剣道などの伝統武道、ボクシングやキックなど様々な格闘家、さらにはバドミントンなどほかのスポーツ選手ともコラボし続けて、武道や格闘技、スポーツの魅力を伝える活動をしている。
格闘家のyoutubeブームは朝倉の影響と言っても過言ではない。
本人のプロ戦績がしょぼくても、それだけでは計り知れないほどの貢献を業界内外にしているのだ。
仮にも「格闘技が好き」なんだったら、その功績を知らないとは言わせない。
どんなに朝倉が嫌いな人間でもそれだけは認めざるを得ない、それぐらいの活躍をしている。
(あと、興行主から体重上げて試合に出ろ金を稼げと何度言われても断わり続けたのも、昔のPRIDEで酷使された選手のことを思うと本当に偉かった)
だから恩師の前田日明に「スパーリングを公開するなんてあり得ない、絶対対策されるからやめろ」と言われても、格闘家と公開スパーをして、それを研究されてボコボコに負けても、それでもやめなかったのだ。
(そもそも朝倉本人が対戦相手の動画を入念に分析する人間なので、リスクは最初から分かっていたはずだ)
今回のabemaの件はもちろん問題があって、本人も謝罪しているしそこを糾弾するのは本当に正しいし、健全な行為だと思う。
色々な問題点は他の人が指摘している。
しかし、朝倉と彼の活動を一概に「格闘技と暴力を勘違いしているだけのお馬鹿さん」と知った風な口でひとまとめに切り捨てるのはあまりも、あまりにも浅すぎやしませんかと思う。
しかし、「格闘技と暴力を延長線上のもの」として捉えて活動しているからこそ、格闘技界や不良たちに「いい影響」を与えたことも事実なのだ。
「影響されて格闘技始めました」とか「未来さんが止めろって言ってたから」と不良が憧れるようなロールモデルを、(一時的かも知れないが)こなすことができたのは、とても貴重なことだと思う。
何にでも反対するためにプラカードを掲げたりデモ行進する方が目的になってる人達と考え方が非常に似ている
デモ活動があれば、当然何かに反対するために参加している人達がいるわけだが、
プロ市民のようなプロ左翼も、反対に位置するプロ右翼も、社会問題がなくなってほしくないと思っている
日頃の鬱憤を晴らすために喚き散らすことを正当化できる言い訳がなくなってしまうからである
これは酒鬼薔薇とも非常に似ている
校門の前に切断した首を置いたのは操作撹乱のためだと彼は供述しているが、
私はそれは嘘であるか、もしくは彼本人が自分の本音に無自覚なように思っている
論理的に考えてそんなはずはなく、だからといって彼が論理的思考ができない、
知恵遅れとかそういうタイプではないことは誰しも分かるはずである
彼が切断した首を校門前に置いたのは、過剰な承認欲求を抑えられない、
そういった幼稚さが彼の中に並行して存在しているのではないかと考える
彼の、存在が透明なことに耐えられない、といった主張は決して事件後の話だけではなく、
俺を見ろ!という過剰な承認欲求、
俺に屈服しろ!逆らうとこうだ!という支配欲求のようなものが発露した結果に思う
どれだけ法律を犯したことができるか、みたいな度胸試しが横行するのもそうである
彼等のコミュニティ内での順列を争うため、
そして、彼等のコミュニティ外でも自分の存在感を認めさせるため、
誰かの心に残らないぐらいなら、悪印象でもいいから残りたい、
同じことを「てんちむ」という女性がYouTubeで語ってるのを観たとき、
こういった見捨てられ不安のようなものは、幼少期に形成されたのか、
少なくとも両親、もしくは片親にそういう思考の傾向がやはりあり、
そういう環境下で育ったことが一番大きく影響しているのは否めないと思われる
話を最初に戻すと、
ヤンキーにとって校則は寧ろ自分の存在を証明するために必要不可欠な存在であり、
校則がなければ、寧ろ彼等は学校に完全に来なくなるとさえ思っている
わざわざときどき学校に来る、もしくは学校に来ている知人と接触しては、
小林よしのりが漫画の中で、自分の高校時代に分かったこととして、
ヤンキーは学校の教師側の人間だと描いていたが、個人的経験からも非常に同感である
学校の校則を変えたい、もっと自由な校則にしたいと息巻いていたが、
そして、小林氏がヤンキーに、おまえらも校則が変わった方がいいと思うだろ?
と問いかけると、ヤンキー達は明確に反対し、小林市に制裁を加えるようになるのである
中国の暴力団である三合会の人員を政府が投入したことにも似ている
本来、三合会のような、いわゆる暴力団と呼ばれるべき反社会的組織、
しかし、香港デモでは政府は一変し、三合会に賄賂を渡して民主化デモに投入し、
理由として、表向きは中国政府はデモ活動の鎮圧に非人道的な暴力行為を行えないというのがある
よって、自分達の代行をしてくれる者達として三合会のような暴力団員を投入したのである
本来、もちろん今でもだが、中国は犯罪行為に非常に厳しいところがある
例えばインターネットカジノの業者のような人達も厳しく取り締まられたため、
要は、国に見えないところでいい思いをしている反社会活動は許せない、ということである
反社会的な人達が結託することが非常に都合が良いことが意外と多いように思われる
教師とヤンキーが意外と仲が良い、卒業してからも学校に出入りするなど関係を保っているヤンキーも多い
しかし、ヤンキーに暴力をふるわれ怪我をした、場合によっては障害を負った、
レイプ未遂の被害を受けた等、実害があった生徒たちにとっては溜まったものではない
教師もどことなく、生徒を屈服させる、服従させることに自分の存在意義を見出している人がいる
そういった教師にとっても、ヤンキーはいわゆる「手の掛かった」生徒ということで、
そういった教師にとっても、校則が緩くなり、学校が自由になり、普通の生徒が自由になることが許せないのだろう
なぜなら、教師という職業自体が自由ではなく、その不満が蓄積する職業だからである
家庭などで鬱屈し反社会的な行動に走るヤンキーというか不良少年少女と、
職場等で鬱屈し、自分達が不幸なのに生徒が幸せになるのは許せない、という鬱屈した教師たちが、
互いに共感を抱き、傷を舐めあい、普通の生徒たちに刃を向けるのは不思議なことではない
寧ろ、自然な流れだとさえ私は思っている
ちなみに、これは校則だけでなく、普通の法律でも同じように思う
マリファナを規制しすぎれば、マリファナのルートや使用者が地下に潜ってしまい、警察の管理下から外れてしまう
マリファナのような軽い話ではなく、反社会的な組織や犯罪者であっても同じであり、
法律を厳しくしすぎると、公安や国家が市民を却って管理できなくなってしまうことがある
適度な締め付けが重要であることはマキャベリズムにさえ書いてある
普段から恐怖政治や粛清を繰り返すと、市民は逆に粛清になれてしまう
公開処刑が当たり前のような状況にするよりは、
ときどき、不意打ちのように、見せしめにズバッと公開処刑をするべきである
そうすることで市民に恐怖をときどき植え付けることが、国家へ反逆する意欲を失わせる
普段から頻繁に恐怖を植え付けられると、却って市民はキレるように反逆に転じる
なんだかんだ政府は国家は、市民が反逆し、暴動し、コントロールできなくなることを恐れている
いつも怒っている、怒鳴る人は怖くない
https://mobile.twitter.com/hiranok/status/1456466860715634699
ジョーカーの事件に関する話題で上記のようなものを多く見かけて、前回の内容とかなり重複する部分があるのだが少し補足したい。
前回の内容というのは「池田小事件から今年で20年経つが、学校安全以外の影響・変化はあまり語られていない」「宅間を死刑執行して以降あらゆる形で模倣犯が出ている」という感じの趣旨の投稿をちょっと前にして、それが結構大きな反響だったのだが、その中で「それならさっさと死刑にした方がいい」だとか「死刑廃止しても変わらない」だとか、要するに自分が死刑制度反対に持って行くためにこの話をしているのだと一部の人から誤解されてしまった(ちなみに自分は死刑反対派ですらない)ようだが、別にそういう話がしたかった訳じゃない。むしろ死刑制度反対に利用するために、死刑制度を設置しておくと死刑になるために人を殺す犯罪者が現れるというのがあたかも一般論であるかのように語られて、池田小事件以降変わってしまったものの大きさがあまり認知されていないように思える。事実、この死刑制度反対論は日本では一番最初かその次くらいに出る一般的なものだが、最近の海外で起きた殺人事件を調べても、日本よりなりふり構わず速攻で死刑を執行する中国や死刑の代わりに射殺を積極的に行っている欧米の方が頻発してもおかしくないはずなのにそういう話や死刑反対論はあまり出てこない。(スーサイド・バイ・コップという言葉は昔からあったが)
それで上記の事件一覧を確認すると、宅間が異例の早さで死刑執行されたのが2004年の9月。そして死刑になりたいと供述した事件の中で最も古いのは2004年の11月で、それ以降ずっと根付いている。これ因果関係としては、一般に死刑制度に犯罪を誘発する効果があるというよりは、宅間に死刑執行までの犯罪のプロセスとして上手く行かれてしまって以降、そういう流れの犯罪が日本においてのみ作られてしまったという方が正しいのではないか?
次に死刑になりたいという意思で引き起こされた犯罪は死刑制度反対の例としてさらっと引き合いに出されるくらいで、その具体的な実情はあまり出ないので説明しようと思う。
「死にたくても自殺できないなら人を殺して死刑になればいい」という思考回路は広まりすぎて日本の犯罪者に定着しつつあるため、自殺願望からそういう悪魔の囁きに突き動かされて衝動的にやってしまった犯罪者もいるのだが、そういう節のある人は基本死刑執行されるところまでは行かない。突発的な要素が考慮されて、心神耗弱で減刑されることも少なくない。茨木市ひき逃げ事件や心斎橋・イオンでの通り魔事件、さらに仙台のアーケードトラック事件がこれに該当するだろう。まあ人を殺傷するところまで行ってしまっているので無視して良い訳ではないのだが。
もちろん死刑になりたいと確信的に事件を起こした犯人もいる。自殺サイト殺人事件の前上博は窒息と白いルーズソックスに性的興奮を感じる異常性癖の持ち主で、過去100人近くに性的暴行を繰り返していたのだが、一方で犯罪を止められない自分に罪悪感を感じでおり、最後に強制的に自分が死ぬために自殺サイトで繋がった自殺志願者を絞殺するという形で自分の人生を終わりにした。
そして土浦連続殺傷事件や上記に書かれていないが、奈良小1女児殺害事件、大阪姉妹殺害事件、京都・神奈川親族連続殺人事件の特に犯人の事件後の供述や心理、その後の顛末等をwikipediaなんかから一つずつ確認した後で下記の記事を読んで貰いたい。
"怪物"にはしない
2007(平成19)年1月 『方法としての親鸞』(「親鸞」研究会編 永田文昌堂刊) 所収
2004年9月14日、池田小児童殺傷事件という惨劇を起こした、宅間守被告の死刑が執行された。ついに遺族への謝罪の言葉を一言も発することなく。事件発生から三年余り、判決確定からわずか一年足らずの異例の早さだった。大量殺人に飛躍する理由を、彼は「人生の幕引きをする時の道連れが欲しかったから」と語ったそうだが、その人生の幕引きを国が手助けすることになったとは、何とも皮肉なものである。まさに彼の思惑通りになってしまった。
しかし、これで終わったのだろうか。本当にこの事件は終わりなのだろうか。このことに関して、『群像』2004年12月号に、作家雨宮処凛と佐木隆三の興味深い対談が掲載されている。
(中略)
最後まで世の中を呪って、呪い尽くして死んでくれることによって、さらにカリスマ性みたいなものが出た。あれで途中で謝ったり反省したら、一気に宅間嫌いになりますね、宅間信者は。だから、あれは一つの物語としては、信者にとっては完璧であったような。
※参考資料
https://www.google.co.jp/amp/s/w.atwiki.jp/takumamamoru/pages/15.amp
・・・僕たちは、とんでもないことをしてしまったのかもしれない。宅間を怪物のままに、死刑を執行してしまった。それは同時に彼を神聖化する儀式でもあり、新たな怪物を生み出す儀式であったのかもしれないのだ。事実、2004年11月、奈良市内で有山楓ちゃんを誘拐・殺害した罪に問われた小林薫被告は、「早く死刑判決を受け、第二の宮崎勤か宅間守として世間に名を残したい」と語ったという。
この雨宮の言葉に対し、佐木隆三は『汚れた顔の天使』というアメリカ映画を紹介した。この映画は、1938年の作品。マイケル・カーティス監督、ジェームス・ギャグニーが主演のギャング映画だ。
出所したギャングのロッキーは、町の不良少年のヒーローとなる。牧師として不良少年たちの更生に力を注いでいた彼の幼なじみのジェリーは、少年たちを危ぶんでいた。そんな時、裏切り者の悪徳弁護士を殺したロッキーは、逮捕され死刑宣告を受ける。嘲笑うかのように平然としている彼の姿に少年たちは一層感化されてしまうが、そんな彼等の未来を案じたジェリーはロッキーの元へ行き、ある頼みをする。
いよいよ死刑当日。電気椅子に進んだロッキーは、それまでの態度とはうって変わって「おれは死にたくない」と泣き声を上げ始めた。ロッキーの最後を新聞記事で読んだ少年達は、落胆しロッキーを軽蔑しはじめる。本当のことを知っているのは、ジェリーとロッキーの2人だけだった。この作品、実話が元だともいわれている。
あれで途中で謝ったり反省したら、一気に宅間嫌いになりますね、宅間信者は。
雨宮の指摘した通り、私たちは、宅間を人間にしなくてはならなかったのだ。怪物のまま死なせてはならなかった。ANOTHER MONSTERを生み出さぬためにも。
怪物・・・?怪物なんておらんよ。ヨハンは人間だった・・・・。特にミュンヘン大学図書館を炎上させて以降は、彼は人間になるために生きていた・・・そう思うよ。少なくとも人を殺すことを何とも思わない人間を、総称して?怪物?と呼んでいる間は、われわれは殺人という行為をなくすことはできない。彼らを同じ人間と思い、見つめることだ。怪物と呼ばず、われわれと同じ、名前を持つ人間だと考えること・・・・。それが、ヨハンが何であったかを理解する鍵なんです。(『ANOTHER MONSTER』)
過ぎた時を引き戻すことはできない。たとえ過去に返ることができたとしても、宅間の心がそう簡単に変わるとも思えない。しかし、しかし・・・彼を怪物ではなく、一人の人間として見つめていくことは出来る。なぜ人間である彼が、そんなことをしてしまったのか。どんな環境が彼をそんな生き方に向かわせたのかと。それが私たちにできる、たったひとつの怪物退治の方法なのではないだろうか。
前回貼ったものと全く同じコピペで申し訳ないのだが、事件の本質を一番よく表しているものだと思うのでもう一度。この件の死刑執行でそれまで万全だったはずの日本の死刑制度の意味を懐疑的にさせられてしまった訳だが、「反省もなく関係者に暴言を吐き続け」「死にたいと宣言した失う物のない犯人を」「特例措置を認めて異例の早さで死刑執行した」ことで、犯人の希死念慮や思想・主張も含めたメッセージが届いてしまったのではないか。だから日本に突如として現れた彼らのような犯罪者には単に自殺願望だけでなく、ある種の復讐心や抗議の意志のようなものも含まれているのではないかと考える。その意味で、こういう議題でアンチテーゼとして出されるようになった新幹線殺傷事件の小島(無期懲役になるために人を殺した)も同質のメンタリティを持つ犯罪者だと思う。(彼がこれまでの犯罪の慣例を覆して取った選択が今後吉と出るか凶と出るかはまだ分からないが)
最近はこの手の犯罪は下火になってくれているように思うが、こういう犯罪の歴史がある以上また再燃するかもしれないし、その一連の経緯は多くの人が知っておいて損はないはず。(植松の控訴取り下げ死刑確定等もあるし)
最後に、池田小事件に衝撃を受けた自分の個人的感情として「学校の安全管理のあり方が変わった」ということでしか重大性を広めようとしないメディアの方針がどうしても納得できない部分はあった。他の人の記事やコメントから察するに、(他の重大事件と比べて)加害者に焦点を当てた話に中々なってくれないのは、犯人の事件前までの境遇が特殊・異常すぎて典型的な犯罪形成論に落とし込めずに敬遠されているということなのだろう。その一方でコロンバイン高校銃乱射事件と双璧で、「テロ組織・過激派勢力やそれに属するローンウルフですらない、ただのバラバラの犯罪者のままでありながら、社会に影響を与える脅威となりうるレベルで、犯罪の意味や模倣性を与えてしまった事件」だったとも思っている。そういう啓示を与えてしまったこの事件こそ、犯罪者の観点から語り継がれるべきだというのは、くどいようではあるが強調したい。
私立文系大学を中退してバンド活動に身を投じた私であってもわからないところがたくさんあるドラマだった。
ドラマー志望の主人公伊藤かずえは、ドラムスティックでよく喧嘩をする。
今では30年落ちのシーマを大事にレストアして乗っている伊藤かずえだが、この頃は喧嘩っ早かったのである。
長さは40cmほど。重さは材質によって差があり、ヒッコリー材よりオーク材のほうが少し重いものの、いずれにしてもせいぜい数十gである。
まともにしばかれればたしかに痛いが、怪我をするほどではない。
殺傷能力的にはたぶん「ひのきのぼう」より弱いだろう。先端が多少細くなっているので的確に相手の眼を突くことができればそれなりのダメージが期待できるが…(なお、ヒノキは東アジア原産の樹種であり、なぜドラクエでメジャーな素材として扱われているかは謎である)
なお、そんな武器で街の不良少年たちを相手に毎回大立ち回りを演じていた伊藤かずえの愛車シーマのレストアの様子は日産自動車の公式サイトで紹介されています。
https://www3.nissan.co.jp/first-contact-technology/restore-cima.html
経緯としては、デイリーメールによって、2019年にバルサが来日した際に以下の様な動画が撮影され、その内容が問題であることを報じられた事に始まった問題だけど
デンベレ選手やグリーズマン選手らを処罰して個人の意識の問題にすることに違和感を感じている、と言う話。
個人的には、両選手が日本人を特別に嘲笑って差別しているという風には感じなかったけど、問題の根はもっと深くてエグイなとも感じた。
https://www.youtube.com/watch?v=xgZJC6QAZgA
フランス語の以下の英訳が差別的な発言であるという印象を強めている。
スラング入りなので意訳してみると
「この連中は何だ?お前がPESを遊べるようにするためにいるのか?そんなことの為に、こんな連中呼んではずかしくねぇのかよ?」、この連中を直訳して醜い顔の連中と置き換えるとセンセーションではある。
「は?何言ってんだか分からねぇよ」、どんな遅れた言葉だよ、って直訳するとヤバさは際立ちますね。
「お前らはこの国じゃ技術のある人間じゃないのかよ?」、これは直訳も糞もなく字義通りでしょう。
俺の最初の印象としては、「なんだ?このガキは。癇癪起こしてんじゃねぇよ」って感じだったけど、世論は一気に吹き上がった感があって不思議ではあった。
辻氏だけではなく複数のフランス語話者が、意図的な誤訳が含まれるという点を指摘しているけれど、俺は英語は使えてもフランス語は全く分からんので真偽の判定は難しい。DeelL翻訳で英語にしてみる。
フランス語の抜出を辻氏が嘘をついてる可能性も考えないではないが、公開されている映像で、辻仁成ほど名の知れた人がそれをやる意味が見いだせないので内容は信じたい。
Toutes ces sales gueules pour jouer un PES bordel! Ils n’ont pas honte?
All these ugly faces to play a PES damn! Don't they have any shame?
「この醜い連中はPESを遊ぶ為にいる、恥ずかしくないのか?」醜い顔が恥ずかしいと言ってる様な文脈にはとても思えない。
https://www.designstoriesinc.com/jinsei/daily-1980/
これは日本で起こったことですが、世界のどこで起こってもおかしくないことであり、場所に関係なく同じ言葉を使っていたと思います。特定のコミュニティに向けたものではありません
https://news.yahoo.co.jp/articles/b2ec34c371d23a3bc97547d6028d4d728f48906e
と言っているけれど、俺はこの発言は言い逃れやいい訳ではなくて、本当にそうなのだろうと思った。
理由は、経緯をおいつつ発言の内容を英語で理解しようとした時に、デンベレ選手は「作業がスムーズに進まないで、要求が満たされない事にキレ散らかしてる」としか思えなかったからだ。
あの場面で、作業をしている人にフランス語話者がいれば酷い罵倒に取られる訳で、いかに職業意識が高い日本人でも、要求にスマートに答えられない申し訳なさよりも怒りが勝つかもしれない。
それくらいリスペクトに欠けた言葉遣いだったことは疑いないけど、差別のつもりではなかったってのは、そうなのだろうと理解はした。
今分かる事は、日本人に対して差別の意識があるかどうかはともかくとして、デンベレ選手自身は、汚いスラングを使って日常的に会話する人であるという事だろう。
サッカー選手はジネディーヌ・ジダン氏からして、デンベレ選手同様に移民の子であり、犯罪率も高いスラムの様な場所で育ちサッカー選手としての才能と努力でのし上がって来た成功者が多い。
ブラジル人だと、毎日誰かが殺されるようなスラムから抜け出す事が出来て嬉しい、と言うようなことを来日した選手がいっていることはよくある。そして、彼らは家族や仲間への愛情がひときわ強い。
欧州に今もなお健在の階級の壁を才能によって超えたとはいっても、彼らの育ったバックグラウンドが消える訳じゃない。地元に戻って友達と話せば、上品な言葉ではなく、スラング交じりのカッコつけた言葉で話するだろう。
日本でも、ほとんど耳にすることもないけれど、ヤンキーが、サツカンとか、ポリとか警察を呼ぶような俗語があった。今も不良少年の間で、俗語が使われてるかは知らんけど、世界中のどこにでもあるだろう。
日本の不良少年は大人になり社会に出るとそういう俗語は捨てる(だけの教養は自然と備わる)が、同じような立場の選手も多いサッカー選手同士だと、そんな話し方が常態化してるのかもしれない。
フランスの中で放置され、隔絶され、隠されてる貧困層の文化を持った青年が、選手として成功する事で、地元の仲間内では普通の文化を表社会に見せてしまう事があるという事なんだろう。
フランス人も含めて世界中で、これは差別だと一斉に叩いているけれど、欧米人お得意のポリコレこん棒の過剰な振り回しの側面は否めないと思う。
同時に、フランスの恥部に向き合う事なく、選手個人の問題にして切り離そうとしてるのが更に酷い問題に思えた。
社会に存在する階級の差を放置したまま、ポリコレこん棒で叩いて表立った問題は起こさない様にしたところで、本当の差別は消えないだろう。
貧しいものは、自分たちの仕事を奪う移民を嫌うのは、昨今の欧米の時事を追えば誰にでもわかることだ。そこから差別が生まれ続ける。
デンベレ選手の問題を個人の恥ずべき行動だと切り離して、階級の差から目を背けている間は、フランスの社会が差別をなくすことなんて200%出来ないなと強く思う。
スラングが表に出てくるのが嫌なら、階級の差をなくして、移民差別黒人差別も無くして、きちんと教育して社会に送り出せ。これは、ただのフランスの恥でしかないし、日本人が付き合って怒ってやるのも馬鹿らしい話だ。
https://twitter.com/DabadieTV/status/1412191937495388160
フローラン・ダバディ氏が、本質的なところでは同意見だということで、ほらなと言う感じだ。
フランスが目を背けて逃げてる移民・黒人との階級の差が、成功によって日の目を見てるだけなのだ。十分な教育が行き届いてない事実が見えるだけだ。
今の本屋で売れてるのはネトウヨ本ばっかり!地獄!みたいな言説特にはてなだとよく見るけど実際そんな感じします?
コロナ以降は本屋自体あまりいけてなくて、近所の本屋はどんどん消えていってる始末だけどちょっと大きな本屋行っても一番売れてるのは鬼滅関連でそれを除外していっても売れてるノンフィクションとかだと「ケーキが切れない不良少年」とかだし、フィクションだと映画化原作とか村上春樹とかそんなじゃない?
日本国紀とかもう二年前の本で棚ざしだし。ああいうのが一時期でも平積みで展開されてたのが許せない!みたいな気持ちあるかもしれないけど創価学会本とか基本誰も買わないのに平積みされてたりしたよ。
「これ以上負担をかけないでくれ。このままだと、父さんも母さんも過労死してしまう」
愚痴る相手もいないので、せめてこの場を借り発散させてほしい。
私の両親は学校の先生だった。常に多忙で、食事や看病など日々の世話は、祖父母にみてもらっていた。
冒頭の言葉を投げかけられたのは確か中学生の頃だ。父からの説教は珍しいことではなかったが、〈過労死〉のインパクトは強かった。
私は日頃から親に負担をかけないよう、手のかからない良い子でいるよう努めていたつもりだった。部活で悩んでいた時も、学校でいじめられた時も、愚痴だって全部我慢した。親に反抗するなんて以ての外だった。
その時の父はきっと大層イライラしていて、つい口走ってしまったのだろう。(母の名前も出たが、父が説教する時の主語は基本「父と母」である。母本人の意向を無視していることも多い)
それでも私は真面目に考えた。何か気に障ることをしてしまったのか?家の手伝いが足りなかった?成績が少し下がったから?外出の誘いを断ったから?そんなちいさな不満の積み重ねが父の負担になった?
私の存在そのものが負担なら、いっそ消えてしまったほうがいいのではないか?と、この頃から漠然と思うようになった。
ここでタイトルの話に入る。
父は授業や部活顧問のほか、生徒指導の担当として、非行に走る生徒や素行不良、不登校の子のサポートを行っていた。
そういう仕事なので熱血も何もないが、イメージが伝わりやすいと思い、少し大袈裟だが〈熱血教師〉という言葉を使わせてもらう。
父はよく生徒指導の話を私にしてくれた。
例えば、暴走族が学校に入ってきたと思ったら、かつて指導した子が笑顔で挨拶しにきたこと。
不登校生徒が夜になると、父とお喋りをしに職員室にやってくること。
大人になった元不良少年が、先生のおかげで更生できたと感謝の手紙をくれたこと。
そんなことをいつも誇らしげに語っていた。
家庭に問題があったり、居場所がなくて道を外した子供たちの親代わりになって導いた、教育者として立派な仕事だと私も褒めそやした。
が、胸の内は複雑だった。
実の子供である私は、手を煩わせないようにいつも良い子でいるのに。甘えたくても「今疲れてるから」で後回しにされるのに。私が父の帰りを待っている間も、彼は問題児たちの世話をしているのだ。
他所の子供の面倒を見るのが教師の仕事。それは理解している。家庭を優先的すると保護者からクレームがくる。だから仕方ない。学校行事に親が来ないことは当たり前だったが、それは気にならなかった。
でも、〈手のかかる子〉の話はどうしても耐えられなかった。
私の父親が、顔も知らない子供に取られてしまったようで、嫉妬のような恐怖のような感情を抱いた。父の仕事は立派だとは思う。けれど私の前ではその話はしないで欲しかった。
そんなに手のかかる子が好きなら、いっそ私も家出して消えてしまおうか。親はとても不安になり、血眼になって探してくれるだろうと、ふと魔が差したこともあったが、できなかった。
その後も良い子を続けた私はそれなりの大学に入学できたものの、今までストレスを堰き止めていたダムが決壊したことにより、現在は鬱の寛解と再発を繰り返しながら社会の底を這いつくばっている。
私はとうとう〈手のかかる子〉になり、両親の不安の種となってしまった。
こうして文章を書きながら自分の弱さを省みる。厳しくも根気よく育て上げてくれた家族に対し、本当に申し訳ない限りだ。
未だに実家に寄生を続ける私に、定年近くなった父はこう言った。
「我が子も満足に育てられなかった自分が、他の子供をちゃんと教育できているか、もう自信がない」
私は何も答えられなかった。
最大の特徴としてあげられるのは気軽にアクセスしやすいという点だろう。アカウント登録、パスワード設定などの必要が一切無く、名前だけ設定すれば入室できる。
そしてこれが唯一の長所である。垢BAN機能が備わっていない上、サーバーの機能が貧弱であるため荒らしの巣窟と化している。唯一の対抗策と言えば、部屋主権限で荒らしをキックすることだけ。しかし、ipアドレスで認識してキックしているため、ipさえ変えれば不死鳥の如くキックされても何度も復活できてしまう。また、plを認識するためにトリップが自動で設定されるのだが、これはcookie削除で何度でも変えられる。つまり、一度荒らしてトリップを覚えられても全くの別人になりすますことが出来るのである。その結果、onlineは無法地帯と化し、一度完走するだけでもめでたいと言われることが多い。
更に問題なのは荒らしでないplの民度が低いことである。そのため、「荒らしの方がまとも」などとよく言われるのだが、その表現があながち間違いではないのが悲しいところだ。onlineのplは日本語通じてるのか怪しかったり、会話のキャッチボールができない者が非常に多く、人として問題を抱えてる。彼らがまっとうな社会生活を送れるのか怪しいところである。そこでonline民達の特徴を挙げてみよう。
・弱い
まずとにかく弱い。基本的な進行、セオリーすらろくに把握できてないplばかりである。2016年頃は一部強力なplも居たのだが、onlineの民度に耐えかねたのか引退してしまった。弱いだけなら成長の余地もある。そもそも誰もが最初は初心者なのだからこれ自体は問題ないだろう。しかし、後述の特徴のせいで彼らはいつまでたっても弱いままなのである。
・イキる
とにかくイキリが多い。強くてイキるならまだしも彼らは弱いくせにイキるのだからなんとも滑稽である。
彼らは会話のキャッチボールができない。岩間好一と同等かそれより少しマシといったレベルである。そんな彼らは自分に都合の悪いplをすぐ荒らし認定することによって、一方的に自分の正当性を主張するのだ。
・身内ノリが多い
身内村ならば身内ノリがあっても何の問題は無い。しかし、彼らは野良村でも身内ノリを連呼するのだ。その様子はまるでブサイクなのに人前でいちゃつくバカップル、若しくは教室内で大声で唾を飛ばしながら二次元のノリで話すキモオタである。彼らにはマナーという概念が存在しないのだろう。
・人の話を聞けない
繰り返しになるが、彼らは会話のキャッチボールができない。比較的まともなplから適切なアドバイスをもらったり、訂正した方がいいポイントなどを指摘されても一切聞く耳を持たない。感想戦でも他人の意見を聞くそぶりすら見せない。現実世界でもそんな風なのだろうか。だとしたら周囲の人間に相当嫌われているはずだ。それとも現実では人との関わりが無いから最低限のコミュニケーションすらとれなくても問題ないのだろうか。
・プライドが高い
プライドが高いこと自体は何の問題も無いだろう。しかし、無能でプライドの高い連中ほど厄介な者はいないということは皆さんもよくご存知であろう。前述の話の聞けなさと相まって、自省が一切出来ないというonlineの気持ち悪い特徴を作り上げている。彼らは自分に誤りがあるかもしれないなどと考えることは一切無く、無惨様の如く常に自分が全て正しいと思いながら行動している。
・信者が多い
現実世界でコミュ症な彼らは身内同士でのなれ合いに勤しんでいる。それが高じてやがて特定のplを偶像の如くあがめ奉るのである。崇拝されるplも皆キチガイばかりである。しかし、そんなキチガイと常にネットで触れあう事を望み、その全てを肯定する。その偶像に少しでも楯突こうものならたちまり煽ったり、罵ったりと激しい攻撃を食らわせる。たで食う虫も好き好きとはいうが彼らは糞に群がるハエである。
onlineの連中はメンヘラである。 しょっちゅう引退詐欺を繰り返して他のplを引こうとする。無論、周囲の連中はそれを必死で慰め、心の中で「○○ちゃんにかまってあげる私優しい~」等と自分に酔っているのである。
・偽善者
onlineにはステ、利敵などのマナー違反、ルール違反に走る者が多い。無論、周囲に迷惑をかけたのだから非難されるのは当然だ。しかし、onlineでは事情が違う。迷惑者を非難すると何と非難した側が他のplに叩かれ、挙げ句の果てに荒らし認定されるのである。「初心者なんだから可哀想だよ」等と意味不明な理屈でリア狂を庇い出す。その様子は迷惑行為に及ぶ知的障害者や凶悪犯罪に走る不良少年を謎の理屈で庇い、被害者のことなど見向きもしない怪しい人権団体を彷彿とさせる。彼らは「初心者に優しい私最高~」と自己満に浸っているに違いない
一般に「リーゼント」とは、ポマードなどを使って前髪を盛り上げ、側面の髪を後ろに流して固めた髪型のことを指す。
英語圏では、前髪を盛り上げる髪型をポンパドール、側面の髪を後ろに流す髪型をダックテイルと言う。
特に近年では「3」が正当で「1」や「2」は誤用だとされることが多い。
事実は奈辺にあるのだろうか。
以下のブログで引用されている1964年の新聞記事には、理容師の増田英吉によるリーゼントの誕生秘話が書かれている。
http://mudamuda.hatenablog.com/entry/regent
むかし、リーゼント・スタイルというのがあった。戦後も一世を風びした、流線型のあれ。これを二十代で考案したのが増田さん。
(中略)
ヨーロッパ人にくらべ、日本人は髪がかたいこと。もう一つは「ひたいから頭のうしろまでの距離が短いこと。まあ顔面角のせいなんでしょうかねえ」。あとの方のハンデを克服しようと考案したのが、リーゼント・スタイル。前面をいったんふくらまして、うしろになでれば、髪が落ち着く距離が長くなる――これがそのヒントだった。
リーゼントについて詳しく調査された以下の英語記事でもほぼ同じ説が採用されている。
https://neojaponisme.com/2014/10/09/history-of-the-regent/
1920年代後半、東京のモダンな街・銀座には、スタイリッシュな若者たちが集まっていた。モボ(モダンボーイ)はワイドパンツにかっちりとしたスーツを着こなし、モガ(モダンガール)は洋装と和装をミックスしたスタイルだった。彼らの髪型として、モボはポマードで髪を後ろに流しており、その見た目から「オールバック」と呼ばれていた。
1933年、東京のモダンな理髪店は、現代の紳士のための次のスタイルを求めていた。銀座のとある気鋭の美容師が、サイドを後頭部に流し、高島田の花嫁のように前髪を押し上げるスタイルを考案した。エキサイティングな外国語の名前を探していた理髪師は、それを「リーゼント」と名付けた。
これらの説明によれば、この時点ですでに「リーゼント」は単なる「ダックテイル」ではなく、「膨らませた前髪」と一体になった髪型を指している。
ただし、ここでの「膨らませた前髪」はポンパドールと言えるほど大きなものではなかっただろう。
ちなみに「オールバック」も和製英語で、英語ではスリックバックなどと言う。
一方、Google Booksで検索すると「ポール・グラウス」という人物が浮かび上がってくる。
1934 (昭和7 )年ごろ、日本にリーゼントが紹介された。正しくはその前年1933年6月のこと。当時発行されていた専門誌『美髪』の口絵写真に掲載された。これをもってリーゼントの流行は'33年に遡る、とするむきもあるが、それは正しくない。リーゼント型、という名前とその写真がのっただけで、はやったわけではない。いや、はやらそうにも誰もその仕上げ方を知らなかったのだ。再びリーゼントが紹介されるのは1936年3月。同じく『美髪』誌上で、イギリスの理髪師ポール・グラウスなる人物が技術解説を試みた。
グラウスは1932年ごろにイギリスの理容雑誌で「リーゼント・スタイル」を発表しているらしい。
つまり、このグラウスが「リーゼント」の生みの親であるという。
命名者がイギリス人なら「撫で付けた横髪がリーゼント・ストリートのようにカーブしているから」という日本人離れした命名センスにつじつまが合う気もする。
このグラウスのリーゼントは「前髪を横分けにして、横髪は長く伸ばして後頭部へ撫で付ける」というものだったようだ。
「ダックテイル」に近いが、やはり「前髪」の形とワンセットで説明されている。
いずれの人物が考案したにせよ、二十世紀初頭に世界的に流行したオールバックのバリエーションとして、日本では1930年代に「リーゼント」が登場したということになる。
さらに言えば「ダックテイル」が発明されたのは1940年のアメリカだというので、むしろ誕生はリーゼントのほうが先である。
まあ、元となったオールバック自体がシンプルな髪型だから、当時似たようなアレンジは多かったのだろう。
当時の日本で、リーゼントで有名だった人物としては榎本健一や灰田勝彦、岡晴夫あたりが挙げられるが、いま見れば「前髪を横分けにしたオールバック」といった感じである。
ただ、前髪をぺったりと撫で付けたオールバックと比べると、この「リーゼント」の前髪はボリュームがあると言えるのかもしれない。
https://www.amazon.co.jp/dp/B001BBXG4Y
https://www.amazon.co.jp/dp/B01M5DHEU9
さて、リーゼントはポマードを大量に使うので戦時中の日本では禁止されて退潮したが、戦後すぐにアメリカ兵のファッションを真似るかたちで復活した。
https://danshi-senka.com/archives/191
リーゼントヘアで頭を固め、サングラスにアロハシャツ姿で第2次大戦後の街中を闊歩するアンチャンたち。無軌道な行動をとるこのような若者たちを、当時のマスコミはフランス語のアプレゲール(戦後という意味)からこのように呼んだ。(中略)彼らのファッションのお手本となったのは、日本に進駐してきたアメリカの兵隊たちのカジュアルな服装で、つまりは戦後まもなくのアメリカンスタイルの真似をしたに過ぎない。
リーゼントとアロハシャツは岡晴夫の影響だともいうが、要するにアメリカかぶれの不良少年といったところである。
どちらかと言えば紳士向けの髪型だった「リーゼント」が、この時期から不良文化と結びつけられるようになったのだと思われる。
ちなみに欧米でも「戦争でポマードが統制され短髪が奨励される」→「髪を伸ばしてポマードを大量に使う俺ってワルだろ?」という流れで、ポンパドールやダックテイルが不良の象徴となったという面はあるらしい。
イギリスではテディ・ボーイ、アメリカではエルヴィス・プレスリーやジェームズ・ディーンと言ったように、欧米で流行していた「ポンパドール+ダックテイル」というスタイルが日本に輸入されてきたのである。
特にエルヴィスの影響力は凄まじく、日本でも1958年にデビューした「ロカビリー三人男」などがエルヴィスを真似たスタイルで人気を得た。
このときに「ポマードで固めた前髪と後ろに撫で付けた横髪」という共通点で括られて、エルヴィス的な「ポンパドール+ダックテイル」のことを、日本では「リーゼント」と呼ぶようになったのだろう。
まとめてみよう。
「バイデン支持者はみんなまとも」だとは全く思わないけど、残念ながら「まともな人はみんなバイデンを支持してる」よ。(まあ「消去法で、仕方なく」という人の方が多そうだが。)
「共和党支持なので、選択肢がひとつしかない」という人は可哀想だと思うけど。
個人的にもインテリ、リベラルの鼻につく感じには色々と言いたいことあるけど、「だからトランプを支持する」っていうのはまともな神経してたら逆立ちしても有り得ないんだわ。
散々弱いものいじめしてきた不良少年が、「俺がこうなってしまったのも環境が悪いんだー!」って被害者ヅラしてるようにしか見えないんだわ。
まあ、インテリ、リベラルも所詮はおまえらと同レベルだとは思うけどな。あくまで「同レベル」であって、おまえらが上になることは有り得ないと肝に銘じて欲しい。