はてなキーワード: バッティングとは
その点、今回の決勝はよかった。ほどよい打撃戦になった。なぜ投手戦は存在しないかというと、高校野球は攻撃側が主体となっている競技だからだ。守る側は淡々と行う以上のことはする必要がないし注目もされるべきではない。
何より、投球そのもので人を魅せられるほど絶対的な投手というのは高校までではまず育たない。良いピッチングというのも殆どが打撃側のミスによるものであって、そんなものを称えることは相手のミスを喜ぶに等しい。これがたとえばプロの試合であれば投手戦というものがあり得る。相手がミスのない適切なバッティングをした上で、それをねじ伏せるピッチングがあり得るからだ。
昔はみんなそのことを理解していた。過去の甲子園の映像を見てみればこれが分かる。観客は、攻撃側にある時には全力で声援を送り、1打席1打席に一喜一憂しているが、守備側にある時には静かにしている。何故なら、それは攻撃をしている相手チームの時間だからだ。そこで守備側の観客が大きな声で歓声を上げてしまうと、相手チームの時間を邪魔することになる。守備側の時に観客がはしゃぐなんてことは見られなかったのだ。
以下を読んで思ったこと。
https://news.yahoo.co.jp/articles/670ae849c5740bea4ac1cebe40389bbb11f516b5
自分が通っていた中学校の体育館に入ると、すでに催しは始まっていた。20人ほどの参加者、PA業者、参加者を世話するスタッフなど。中でも、色とりどりの浴衣を着込み踊りの準備をする女性たちが、無彩色な体育館でひときわ目立っていた。
うろ覚えだが、この催しは難病などで将来を悲観した人びとが集団で安楽死を行うものだったと思う。公的サービスの一環なので、このように公立中学校の施設が使われる。安楽死の手段がどのようなものなのかは分からない。
自分はケーブルテレビの撮影スタッフとしてここに来た筈なのだが、現時点でカメラも三脚も無い。機材バッグは片隅にあるが、その中は空っぽで私のカメラは見当たらない。誰かがすでに持ち出したのだろうか。
会場では参加者が朝礼のような横長3列に並び、スタッフの説明を聞いている。内容は「大丈夫」とか「スケジュール通りに」といった事務的なもので、宗教的なニュアンスは感じられない。聞いている参加者の表情も平静で、これから死という大事を迎えるように見えない。
浴衣の女性たちが会場の端で金魚のように踊っている。これから死ぬ参加者たちの気持ちをせめて安らかにしようとしているのだな、と感じた。
一旦説明が終わり休憩となった。参加者の一部は外の空気を吸うために体育館出口に向かう。私の居る場所はその出口付近なので、彼らとバッティングしないよう、左右に避けようとするのだが、向こうもこちらと同方向に避けるのでぶつかりそうになってしまう。私はこのような不吉な人たちとは接触したくないので、靴を履かないまま出口から校庭に出た。靴下の足裏に濡れた砂の水分がしみて不愉快だ。
近くを歩いている役場職場と話す。この催しは担当する職員の心理的負担が大きいそうで「俺も、これやった後に入ってる会議とか全然集中できなくてさあ」などという。私は内心このような集団自殺が、その程度の負担感で済むとは役場職員は凄いな、と思う。
体育館と校舎をつなぐ渡り廊下に自分の靴を見つけ、ああここに置いたんだな、と安心し会場に戻る。
参加者は俯いてシクシク泣いていたり手で顔を覆ったりと、悲観的な様相だ。自ら死を選び覚悟を決めていても、やはり直前になると動揺するようだ。私の三脚は傍らにあるが、乗せるカメラは無い。そもそもこんなものを撮影しても使えないだろう、と思ったし、人が大量に死ぬ場面を見る勇気もないので、ここを退散することにした。
さっきとは別の小さい扉から出て、両開きの引き戸を閉める。体育館なのに、すりガラスがはまった木製の扉であった。
横のおばさんに「どうして撮影しないの?」と聞かれ「カメラが無いし気味が悪いから」とこたえるが、おばさんはなにやらしつこく話しかけてくる。
おばさんと連れ立って体育館脇の緩い坂道を下っていると、中からたくさんの人間が嘔吐する音が聞こえてきた。音だけではなく、扉の下の隙間から飛沫が私の首に飛んだ。手ぬぐいで拭うと、人参や肉など食物の破片が混じった粘液状の吐瀉物だった。
直前に迫った死の恐怖で参加者が嘔吐したのだ。やはり、誰でも死が怖いのだ。
私はその後、行きつけのバイク屋に行ったがいつのまにか夜になっていたようで、店は既に閉まっていた。
バイク屋が一階に入っているビルから自転車で誰かが出てきた。顔見知りの女性だがなぜ?と声をかけると、「私ここでホステスやってるの」という。確かにバイク屋の二階は「キャバレーロンドン」だ。彼女のバニーガール姿を見たい、と強く思った。
野球自体は8歳からずっと好きだけど、少年野球の経験すらない。
でも15年も見る側であったから「トップスピンがどうたら」とか「肘抜きは故障する」とか「捻転差がどうたら」とか高いレベルでやってた人が言う技術論を聞きかじって多少知ってはいた。
そんな頭でっかちな自分が中学~高校くらいまで野球ちゃんとやってた人の集まりの草野球チーム入って、基本から教えて貰える機会に恵まれたんだけどまあ知らないことだらけで驚いた。
経験者からしたら常識レベルの基礎なのに自分は全然聞いたこともないの。
基本の基本すぎてもはや技術論系で有名な野球YouTuberやツィッタラーやそういうnote書いてる人ですら全然言及しないけど、知ってないと怪我する、上手くならないみたいな知識のようなのでメモ替わりにここに書き記しておく。
あと経験者ならではの面白い「あるある」も知ったのでそれも併せて書く。
・ボールを投げる時に肘は顔より前に出てはいけない。そうならないために上半身を倒したり、「ボールを上から叩く」意識で背中をかぶせたりしてボールを投げるのが基本。
・投球のステップ幅は広ければいいというものではないけど、軽ーい感じで立ち投げしてもよっぽど背が低いとかじゃなければ5歩分くらいは勝手にいく。マウンドからちゃんと投げれば傾斜も手伝って5.5歩~7歩はいく。
このステップ幅を遥かに下回る人はフォームがなんらかおかしい。
・バッティングで振り始めてグリップを出すときにヘッドが捕手側の肩より下に潜ってはいけない
・ボールを投げる時、トップに入って以降なら上半身が開き始めても問題ない。それは「開きが早い」に当てはまらない。
・内野ゴロを捕る時、ボテボテのゴロでもない限りは、途中で足の運びを緩めたり足を止めたりして「待って捕る」局面が生じるのが普通。
・捕球の際、ノーバウンド以外で一番合わせやすいのはショートバウンド。球が地面に当たるのと同時にグローブを出せば勝手に入ってくる。
・投球の時、踏み出す足は軸足の幅から外れた場所に着いてはいけない。
・捕手も内野手も、人差し指中指薬指の3本で握って送球することは全然ある
・地元で名の知れた上手い子なら身長150cm台の小学生でも110km/hの直球が投げられる
・どんなに凄まじい球を投げる奴でも酷いノーコンなら平気で投手をクビになる。試合で半分もストライク入らない投手は論外レベルの「酷いノーコン」
・バッターボックスに打者が立つ状態で投げると別人のようにダメダメな球しか投げられなくなる投手はよくいる
・捕手が座った状態で投げると別人のようにダメダメな球しか投げられなくなる投手もよくいる
・時速110キロ以上で投げられる軟球は回転音がする
「子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった」
そんなニュースを聞いてあなたはどう思う?
――そいつは何て心の狭いやつなんだ!せっかくの遊び場を、どうせ使いもしない奴が文句言いやがって!
――死にゆく老人がこれからを担う子供の遊び場を奪うな!
そう感じるだろう?俺も同感だ
子供はしっかり外で走り回り、きゃっきゃと声を上げ、草や土を掴み、全力で遊ぶのが何よりだ。本当に心からそう思う。
だが、そんな俺も公園を管理する市に対してクレームを入れたことのある1人なんだ。勿論、騒音について。
つまり傍から見れば、俺は「公園で大きな声を上げて遊ぶ子供を愛しながら許容しない」不思議な存在だということになる。
日本各地にあるこの問題、まず確実に言えることがある。
「公園クレーマーと非公園クレーマーが見ている公園の姿は違う」。
そして、「現状、公園クレーマーたちはクレームを上手に世間に伝えられていない」。
次に、これを読んでいるあなたが「公園クレーマーってちょっとオカシイよね」と思っていることを前提に、以下の事実を列挙したい。
・公園クレーマーは必ずしも子供の声が無条件に嫌いな偏屈ジジイではない。
・非公園クレーマーが公園クレーマー化するのは、一部の非常識な利用者のせいである。
・非常識な利用者だけを除外する仕組みを、行政は持ち合わせていない。よって、公園クレーマーは全ての利用者を敵視するしかなくなる。
・公園クレーマーは、クレームをつける行為に負い目がある。
さて、じゃあ早速冒頭の文章をニュース原稿だとして、続きを想像してみよう。
――子供や家族連れで賑わう公園が突然の閉鎖。そのきっかけは、子供の声がうるさいという近隣住民からのクレームだった。
とすれば、次に来るのは男性ナレーションの低音ボイスであえて野暮ったく読み上げられる次の語句だ。
――「子供の声が、うるさい」
その次は行政の記者会見のシーン。
――「近隣の方との話し合いを続けてまいりましたが、双方の納得には至らず、やむを得ず閉鎖の判断を致しました」
で、そこからが問題だ。恐らくここで、普段の公園の様子か、或いはイメージ映像などで、元気よく遊ぶ小さな子供たちが映し出されることになる。
――「家族連れで賑わう平和な公園で、何が?」
これが大問題なんだ。
少なくとも俺は、こうした元気よく遊ぶ小学生、保育園児、幼稚園児は、好きなんだ!癒される!
きゃっきゃきゃっきゃと楽しそうにおいかけっこをして、たまにミ゛ャー!と寄声を発して、あーあーと泣き出して、しばらくすれば何でもなかったかのようにまたギャーギャーと走り回って…
心から平和を感じるんだ。
精一杯走りたまえ。あーあー、転んじゃって。大丈夫?
俺はこれを、うるさいとは思ってはいないんだ。
じゃあ、「子供の声がうるさい」と言ったクレーマーの気持ちはなんなんだ?
俺はそのクレーマーの気持ちを理解しようと努めることができる。恐らくその人も、最初からそれがダメだったわけではないんだ。「ダメになった」んだ。
(一応補足しておくが、この日記では「俺」と「公園クレーマー」という主語をほぼ同一として扱う。いわゆる「主語がでかい」状態だが、便宜上許して欲しい)
俺が公園クレーマーになった原初のきっかけは、とある夜のことだった。
当然すぎて端折っていたが、俺の家の目の前には公園がある。住所はとりあえず北関東ということでボカさせてほしい。
大きくはないが、追いかけっこは勿論、キャッチボールやフットサルくらいなら十分できる広さがある。
2階の窓からすぐ見下ろせるところにベンチがある。そこに、夜な夜な中学生か高校生くらいの男子連中がたむろし、談笑しながらボール遊びをするようになった。
変声期を終えた男子の声は、かなり通る。そして、ボール遊びの中でもとりわけサッカーボールを蹴る音というのも、実はかなーり、通る。
少なくとも俺の家の窓は全く防音性という面で貢献しなかった。
ボン、ボン。ギャハハ。ボン。ボス。ギャハハ。ボン。
不規則なリズムで、しかし短い間隔でリビングに響くその音を聞いていると、30分も経たないうちにまるで面白半分に自分の頭を蹴られているような気分になり、怒りが湧いてくる。
ここで、自明の事実を書く。
こうしたたむろ連中は、必ずしも「迷惑をかけるつもりで」やってはいない。
彼らは、「自分達の発している音が、目の前の家の中にまで達していることを想像できない」のである。
壁を隔てた向こうに、自分たちの存在が察知されていることを知らないのである。
これは誰しもが陥りがちなことであるが、どうも人間と言うのは「見えていないならば聞こえていない」と認識しがちである。
自分から見て、近くの家の中など当然透視はできない。ならば聴覚も届かぬ場所であると錯覚するのだ。
要は、「想像できないことは認知できない」のである。
結局その日は警察を呼び、お帰り願った。(夜9時台だったので世間一般的にも迷惑案件だと判断した)
翌朝、その場所にはペットボトルやカップ麺などの大量のゴミが散乱していた。
夜の騒音はその日で終わらなかった。
ここでのポイントは、「同じ連中が毎晩たむろしに来るわけではない」ことである。
とにかく色んな人が来る。
金もなく公園に行くしかないカップル。
夜しか時間が取れないのであろう、子供を引き連れてバッティング指南をするおっさん。
花火をしに来た家族連れ。
先程の件と別の男子学生グループは幾つもいた。
中には缶チューハイで酒盛りする中学生男女グループというのもいた。世の中的に見れば全く珍しくもない、可愛い非行の一種だが、目の前で見せつけられるのはさすがに弱った。
そしていずれの人達も、当人らが思っている以上にその声や動作音は聞こえてきた。
中にはTikTokの流行りの動画を大音量で流す奴もいた。
ただ、それですら、彼らはこちらのことを認識していないのである。
単に「流行りの音楽を好きな音量で鳴らす俺」という環境を欲しているのであり、それが他者に聞こえているとは思っていないか、考えたこともない。
彼らにとって俺の家は書き割りの背景と同じなのである。
そのうち、夜に公園に来るすべての人間がバカに思えてくるようになった。
先ほど書いた通り、「自分の出した音がどのくらい遠くまで聞こえているか」「それが思いもよらぬ誰かの耳に届いているか」というのは「想像力」の話である。
なので、彼らは「想像力の無いバカ達」だということになる。
一方こちらは常に公園の音が耳に入ってくる。
自分の感知エリアの中に公共の場があるのだ。自分の感知エリアの中にバカが入り込んでくる可能性が常時あるのだ!
これは結構大変なことで、つまり自分自身が「公園の24時間警備システム化」してしまったのである。
これは良くないと思い、市に電話を入れた。
クレームではない。「夜間の大声やボール遊びを禁じる看板を立てられないか」という要望としてだ。
「あくまで自分は要望のつもりだったんですがねえ」と言い訳したいのではなく、あらゆる体裁において実際要望として伝えた。
いわゆる公園クレーマーとしての立場になりたいわけではないし、日中の利用のマナーは良く感じているというようなこともできるだけ言った。
結果、1週間内には夜間早朝のボール遊びや集会、騒音を立てる行為はご遠慮ください、といった旨の即席看板が立った。
この看板にはある程度の効果があった。
ありがたいことに地域の全体的な民度は低くなく、夜の利用者がこの看板を見て「もう1個の広い公園行こうか」などと発言する様子も見られた。
だが、それでも無視する者も少なくなかった。
そして、俺ももう手遅れだった。
警備システム化した神経は、最早日中の音ですら気になるようになってしまったのだ。
常時テレワークであるため、在宅せざるを得ない中、ボールを蹴る音や子供の騒ぎ立てる音が聞こえる。
いや、それでもやはり冒頭書いたような、「小さな、天使のように朗らかな子供たちの駆ける音」は何の問題もなかった。
中高生男子の声とサッカーボールの音が、いかにもたむろ連中を想起してしまい、聞くだけで頭痛がするようになった。
大半の少年たちは育ちが良く、騒ぎ立てはするものの、辺りが暗くなればささっと帰ってくれる。
だが恐ろしいことに、「そもそもいること」が許せなくなった。夕陽が沈みかけ、薄暗くなったあたりで「早く帰れ早く帰れ」と念じるようになった。
そして――どうにかベンチを撤去出来ないか?一部の区画だけでも閉鎖できないか?
いつしか「クレーム」を入れるようになったのだ。
ここで、非公園クレーマーであろうあなた方に問いたい。
あなたが想像する公園クレーマーが「子供の声がうるさい」と言った時、あなたが想像する声の主はどんな姿だろうか?
小学生や、幼児たちを想像していないだろうか?
そのうえで「まさかこんな子供たちを排除するなんて!」と憤っていないだろうか?
また、「勝手に昼間で想像している」のではないだろうか?
違うのだ。
もう少し上の年齢の、「自我が目覚め、夜遊びもしたい、生意気盛りの子供たち」なのだ。
そして、俺には今自宅の目の前にいる利用者が「良い利用者」なのか「悪い利用者」なのか判別がつかない。
全ての音を拾うしかないのだ。
そうなれば俺が言うことはただひとつ、「子供の声がうるさいんだ」である。
しかしその言葉から逆引きされる「子供」とこちらのいう「子供」には隔たりがあるし、経緯はいっさい伝わらない。
さて、そろそろあなたには幾つかの疑問、というより「ツッコミ」が生じていることだろう。
――引っ越せばいいのでは?
――家の防音性能を上げればいいのでは?
――イヤホンとか耳栓でなんとかならない?
――他の住民が気にしてないなら気にし過ぎなのでは?
引っ越しはそう簡単にできるものではない。膨大なローンが残っているし、自分ひとりの問題ではなく家族を巻き込んだ話になる。
窓を増設するという手がある。しかしこれも公園に面した各窓に処置するだけで100万円はカタい。マインクラフトみたいに素材があればポンと設置できるものではない。
イヤホンや耳栓というのは応急処置として有効である。しかし「自分の家で行動を制限される」ストレスの方が強い。なぜ自分の家で、家族との会話もシャットアウトし外界の音に我慢させられているのか、ということになる。
それに、これはまた派生的な「症状」なのだが、俺のようになると音だけでなく「窓を開けたら人がいる」という状況ですら悩みの対象になるのだ。目の前のバカがいつバカをやり出すかわからない恐怖が発生してしまうのだ。
大体、「夜間の集会はご遠慮ください」という看板がある状況で集まっている時点でそいつはルールを自己都合で無視できる人間なのは確定しているのである。
そんな奴が自宅から10m強先にいること自体がストレスになってくるのだ。
そして最後。
ここがまた、公園クレーマーと非公園クレーマーの隔たりの原因である。
公園クレーマーとは、恥ずかしいものなのだ。
だって、公園は良いものである、という世間の認識があるのだから。
そして既に、公園にクレームを入れるのは「わからずやの偏屈ジジイ」だとする一般通念があるのだから。
俺だって、もし街を歩いていてテレビの取材にあたり、「公園にクレームを入れるのってどう思いますか?」と聞かれたら、
「ウフ、うん、まあその、公園って子供たちがねえ、元気よく遊び回る場所だからねえ、その、それをねえ…」
などと口ごもるだろう。
「アッ、こいつ公園クレーマーの仲間だぞ!」と思われたくないので。
恐らくだが、インタビューで公園の騒音を肯定的に捉えている人の中にも、「実は参ってるんだけどね…」という人がいる可能性はゼロではないと思う。
こうして、公園クレーマーの印象は「誰にも理解できないキチ○イ」へとどんどん先鋭化されていく。
とはいえ、この日記では解決策を示して欲しいわけではない。
あくまで公園クレーマーとは何なのかを公園クレーマーの立場から書いているだけである。
ということで長くなったが、それでも、俺のような公園クレーマーに対して「偏屈」「気にし過ぎ」と感じる人は多いだろう。
それはそれで問題ない。何せ事実、神経過敏になっている。
最早俺は、バカが来て騒音を出すのがダメなのではなく「常にバカが来て騒音を出す可能性がある」ことがダメになっている。
もしかすると、今はまだ俺が愛おしく思っている小さな子供たちすら、今後は煩わしくなっていくのかもしれない。
そうなれば、次にニュースに登場し、世間から罵られるのは俺ということになるだろう。
だが、非クレーマーたる皆さんには、少しだけ想像をしてもらえないだろうか。
あなたがイメージする「公園」「公園の騒音」は、クレーマーの思うそれとは時間帯も対象人物も在り方も違っていないだろうか。
また、あなたは公園の目の前には住んでいないのではないだろうか。
ならば、「自分が自宅に居ながら公共の場の音を感知する警備システム化する」という感覚を知らないはずである。
何も公園クレーマーを理解しろとは言わない。
ご推察の通り、精神疾患的な症状は少なからずあるので、そこを含めて理解しろというのは傲慢であろう。
ただ、公園の騒音という社会問題について何か語ろうと言う時、少しだけ、想像をしてほしいのである。
最後に余談として。
あなた方が考えるツッコミにはもう一例あると思う。
――自分が若い時もやんちゃしたのに、今の若い子のそれは許せないの?
これはこれでデカいテーマなので書くなら別の日記として書くべきだろうことだが、正直に言えば「許せない」が「心の慰めにはなっている」という程度だろうか。
俺も学生のころ、男子連中で友人の家に寝泊まりし、近くの公園でバカ騒ぎした記憶がある。
下校時に彼女を連れ立って、公園の木の陰でいい思いをしたこともある。
迷惑をかけたし、その近隣の住民に我慢を強いたうえで「仕方なく許された」のが今の俺であることは解る。
実際それらは個人的には「いい思い出」として処理されているし、懐かしく思うこともある。
だが、「ならば自分も許そう」はそもそも道理でない。単に個人の思想の一種でしかない。
あえて極端な例を言えば、過去にゲーム感覚で万引きをした経験のあるヤンチャ坊主が成長して小売店の店長になったとして、自分の店の万引き犯に対して「でも自分もやったことだしなあ」と許せるかという話である。
学生の頃イジメを働いた人間が社会人になって会社でイジメられて「でも俺もイジメっ子だったしなあ」となるかという話である。
そういう因果律で人生を捉える人がいてもいいが、それがイコール正しい考え方ではない。
厳密には「性格が良いのがむしろ損になってないか」という仮説。
例えば、素直で礼儀正しくて、可愛げがあるようなピッチャー。そんなのが一生懸命投げてたら援護したくなっていつも以上に打ちたくなるだろう。守りにも力が入るだろう。
で、余計な力が入っていつものバッティングができなくてなかなか援護できないと言う状況に陥るのだ。変な球を送球してエラーしてしまうのだ。
「性格が悪いやつの時なんてチームメイトは尚更適当にプレーするのでは?」と思うかもしれないが、適当なプレーをすると全て自分の年俸に跳ね返ってくる。ピッチャーが気に食わないからといって、怠慢プレーをする動機にはならないのだ。
メンタル弱者に寄り添う生暖かいメッセージや誰も得しない死にたがり電話センターが乱立しているが、
実際問題メンタルヘルスの問題を抱えていると、人並みの社会生活を送ることは厳しい。
まず、生命保険の加入、および住宅ローン(団体信用生命保険の加入)が組めない。上記2つをやろうとすると、それぞれの既往歴チェックに引っかかる。
既往歴の申告期間は、生命保険がだいたい5年、住宅ローン(団信)が3年。つまり何らかの診断をもらうと、上記期間中は保険にも加入できないし、ローンを組んで家を買うこともできない。
厳密には引受基準緩和型の保険や、フラット35なら団信が任意だったりするのだが、健常者よりはコストがかかったり、資産価値が下がり続けるマイホームに35年かけてローンを払い続けるのは正直勘弁してほしい。
加えて、転職活動が非常に難しい。厳密には転職活動に際し、既往歴を開示する必要はないのだが、だいたいの職業の面接では病歴について面接官に質問されることがデフォルトである。
これに答えないこともできるが、普通に考えれば病歴を開示しない人は採用されないだろう。かといって、健常者である と嘘をついても、どこかしらのタイミングでバレることになる。(入社時に前職の源泉を渡すなど)
また、メンタルが不調なまま新しい職場で健常者を装いながら仕事を覚えるのはかなり酷なものである。
勝手にメンタルを潰しておいて態度がでかい、何様だと憤りを覚えるモーレツサラリーマン様もいらっしゃると思うが、こんなクズでも養わなければならない家族がいたりと、クズなりの正義や義務が存在するのだ。そんなクズが社会におけるハンディキャップを回避しながら鬱を治療する方法の一つが、個人輸入による投薬治療である。
これは必ずしも人に薦められる手段ではないし、私が責任を取れることは何もないが、現状 自分が服用するために個人で抗うつ剤を輸入して使用することは、法律上はセーフ(のはず)
ただし、薬品の種類によってはアウトだったり、一度に輸入できる量に制限があったりするので、そのあたりはきちんと調べる必要がある。
私は今年の3月初旬、現職からIT業界への転職を目指してプログラミングの学習をしていた。しかし、当時ChatGPTがもてはやされ、プログラマという職業がなくなるのでは、と喧伝されていたこと(今考えると馬っ鹿馬鹿しい)や、現職が非常に忙しくなってきたこと、加えて元々体が弱く季節の変わり目でガタがきていたこともあり、精神状態が非常によろしくなかった。
具体的には家中の物に当たり散らかす、職場の同僚と話している時に突然キレる、妻とまともに会話できなくなる(私の荒れた様子をみて怖がっていた)、外に出る事を避けるようになるなど。ただのやばい奴なのだが、自分をコントロールできない自分自身への絶望も相まって、精神状態は加速度的に悪くなっていた。
私が在職中にメンタルをやってしまったのは2度目で、前職では家庭事情(実家)のストレスで抑鬱状態が悪化し、めまいで体を起こすことができず、壁などの支えがないとまともに歩くことができない時期が1年以上続いた。その時はきちんと休職して通院し、抗うつ剤を処方されていたが、飲み初めのセロトニン症候群でめまい症状が劇的に悪化し、結局飲まずに時間の経過だけで症状をある程度改善させた。しかし、実際は(めまいが発生したり、抑うつ症状が発生した場合でも健常者のふりをして社会生活を行う)というスキルがついただけで、自身のメンタルヘルス自体が良くなったわけではない(と思っている。)
働き始めて2度目のメンタル不調がきたことで、根本的な治療を行わなければならないと思い立ち、前回はできなかった投薬治療をもう一度挑戦しようと考えた。ただし前回の休職、転職時に、メンタル関連の診断が降りるといわゆる「まともな人」が送れる社会活動が一部阻害されるとわかったので、個人輸入で抗うつ剤を仕入れ、休職と通院なしで薬と気合いで何とかする手段を思い立った。
私が購入したのは、トルコの製薬会社が製造している、とある抗うつ剤のジェネリック薬品。主に不安症状への効果が高いとネットに書かれており、もともと人嫌いな性格の自分に合うのではないか、と思い、軽い気持ちで1ヶ月分の錠剤を購入した。注文してから日本に到着するまで約3週間かかった。香港の倉庫から出庫されるまでは早かったが、トラッキングサイトを見るとフライトへの搭載と通関で時間を食っていたようだ。
ボロボロの状態で3週間を耐え抜き、ようやく手に入れた直後に規定量を服薬する。やはりセロトニン症候群によりめまい、吐き気が起こるが、今回は初期症状がおさまるまで我慢して飲み続ける。服薬してから5日ほどで、めまいや吐き気はなくなった。
そうすると、今度は薬による本来の作用を感じるようになった。私が飲んでいたのはSSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)という、セロトニンの血中濃度が上がるタイプの薬なのだが、この効果なのか常に「お風呂上がり」のような感覚が体に染みついて離れないようになった。
お風呂上がりの時に、昔の辛い思い出が蘇ったり、将来に悲観したりすることはあまりないだろう。つまりは、通常の思考を妨げるマイナス要因が差し込まれなくなった という表現が近い気がする。脳みそにあたたかいバリアが張られているような?
飲み始めて1〜2週間はその感覚が強かったが、3週目以降はそれが当たり前のようになり、日常生活を送る中でトラウマのフラッシュバックや衝動的な不安に襲われることがほとんどなくなった。とんでもないものである。
しかし、良いのか悪いのか、現状の生活に満足ができるようになったので、IT業界への転職活動と学習は全くやらなくなってしまった。
ところが、GW中に運悪くコロナに感染してしまい、それなりに症状が重かったため1週間ほど薬をガバガバ飲みながら寝込むことになってしまった。コロナの諸症状を抑えるための薬が抗うつ剤とバッティングしないか不安だったため、一時的に抗うつ剤の服薬を止めたのである。
これにともない、不安、抑うつ症状が復活するかと思いきや、高熱と咳と呼吸困難でてんやわんやのためメンタルどころではない。生命の危機にメンタルもクソもないのである。結局、コロナの症状が治まった後も抗うつ剤の服用は再開していない。
3月に服用を始めた時は、自分の中の不調の波がピークだった時なので、今後も波がきた時に飲み始めればいいやと思っている。
服薬をやめて、また人嫌いや外に出たくない欲求が少しづつ復活してきている(程度はしれているので、元の性格に戻った、が正しい)。加えて、IT業界への転職欲求が復活してきている。
これは、現状維持では満足できず、慢性的に何らかの焦燥感に苛まれていることが原因だと思う。自分が抱える不安症状が、現状を脱するためのプラスの力になることもあるのだな、と、自分の性格を前向きに捉える事ができる良い機会となった。
文章として書いていて気づいたが、やはり自分はクズである。ちゃんとしている人たちから見れば、人並みのことができない人間が人並みの幸せを得ようとするな!信用もねえやつがローン組んで家買おうとしてんじゃねえ!と思うだろう。
現職の同僚や、休職してしまった前の会社の同僚にも迷惑をかけている。それを責め立てようとする自分もいる。
しかし結局、自分の身を立て直すこと以外で、迷惑をかけた方々へ報いる手段はないのだ。そう開き直ることで今日もなんとか働いている。今日もわたしは人並みの幸せを追い求め、ゴキブリのように生きていく。
栗山とおかわりがいるベンチがなぜ明るいままでいられるか。二人が手本こそ見せ、威圧感など出していないからに他ならない。
かたやチームバッティングもできない四番様は周囲に気を使わせ、ご機嫌取りをしてもらわないと笑顔でもいられない。それでもって雰囲気を引き換えにしてお釣りがくるほど打つわけでもない。
だから彼がいないチームはいい雰囲気で笑顔で野球をしていたのに、帰ってきたら雰囲気が一変して負けまくったじゃないか。
キャプテン源田がいたらまだ違ったのかもしれないが、副キャプテンの外崎はY川の大学の後輩だから基本的に逆らえないから抑止力になれない。
今までご機嫌を取ってくれていた森もいない(これは地味にでかい)。チームの雰囲気が悪くなるのは必然だったんだよ。
俺は自転車が好きだ
ゴリゴリのロードバイクに乗ってたこともあるし、最近は古いクロモリのマウンテンバイクをカスタムして遊んでる
今で言うバイクパッキングで荷物を満載してキャンプしたりするのが好きだ
最近はそういう趣味がだいぶ一般的になってきたが、10年前から続けてる筋金入りだ
一時期ブロンプトンをはじめ折りたたみ自転車にもハマって数台所持している
でもできない、家庭があるから
休みの日は子供の相手しなきゃいけないし、旅行となると自転車じゃなくて
レンタカー借りたり息子の好きな特急列車に乗って出かけるのが常だ
子供はキャンプには興味を示してくれてるけど、正直俺はキャンプがそこまで好きじゃない
とにかく大好きな自転車で何かしたくて、その目標地点としてキャンプ場を設定しているに過ぎない
折りたたみ自転車を積んで林道の近くのキャンプ場とかにでかけても、
子供も、足が悪い妻も長距離は走れないし興味もないみたいだから(それはしょうがないけど)
「ごめんね、ちょっと走ってこさせて」って1人で抜け出して走りに行くことになる
それも長時間は無理だし、家族の不満が貯まるだけでこっちもいい気はしない
車が好きになれたらな、と思う
家族を車に乗せてどこかに出かけるのが好きになれるかも知れないのに
家族サービスとバッティングしない趣味を愛好できたらもっと良い夫・良い父になれるのに
でも俺は自転車が好きだ
一瞬の達成感のために100km走ってくたくたになって切れ痔になったり膝を傷めたりするような
車より遅くて人も荷物も乗らなくてそのくせ金はかかって家がパーツだらけになり妻に睨まれるような
そういう乗り物が好きだ
これが車だったらよかったのにな
散々に語られ尽くしていたように思ってたけど、まだまだ似たような議論が絶えない雰囲気なので、論点整理をしてみたいと思って失敗しました。
ちなみに私は左翼とか右翼とかよくわかんないので特に意見はないです。自由研究みたいなものと思ってください。
まず、今回の意見を分割するとそれぞれの極がきれいに分割できる。
もちろん両方とも極端な例であるし、時には「そもそもテロに該当するものではない」とか「救済されるべき被害は存在しない」とかいった意見もあり得るので、あくまで捨象された極であることは見ての通り。
ここでAとBの意見において、一般に(あくまで自分の私的な視界の範疇ですが)前文については一般に肯定されており、後文においては一般に否定されている。これはおそらく、世間の道徳的直観と一致しているように思う。しかし、その因果(?)関係からは、お互いの前文を肯定することは、相手の前文を否定せざるを得ない側面がある。
(ツイッターやはてブもそうだが、短文でのコミュニケーションでは得てして後文に触れず正しい前文だけで意見を発表できるので、どこまでも正しいままそれ以上の踏み込みをする必要がないのは、脱構築的な気がする。デリダエアプだけど)
特にA→Bの観点からは、被害者救済という観点を取り上げることは、加害者の要求を満たしたという点で、テロリズムを許容することと見なされるものとして反駁されている。
今回このあたりがすごい揉めているように見えたので、一回この論点を詰めてみたい。
まず、テロリズムの要求を肯定することが、テロリズムを有効な手段として世間に認知させることとなる、という点については特段の疑義のないところと考えるので、問題は「テロリズムという不正な手段で、被害者救済という公正な対応を求める」というところにあるように思う(厳密には暗殺事件が被害者救済を求めていたのかとかそういうのは置いておく。世間での認識によって議論を継続する)。
こういうときは、一旦他の例から問題を比較して考えてみたいが、公正な手段で公正な対応を求めるとか、不正な手段で不正な対応を求めるなんてのはもう特に言及する意味もないので、今回は「公正な手段で不正な対応を用いる」ケースというのが何があるかを考えてみたい。
今回は自分の趣味の範囲から引っ張り出すことになるので、不適切な側面があることは否めないが、端的に言えば「ナチス法」の問題が散々に語り尽くされた例として挙げやすい。戦後において「法とは何か」を法実証主義に散々に突きつけ続けた大問題であり、これでもかと議論され続けたから。
例えば、「悪法もまた法なり」としてナチス法に従い、敗戦後には当然罰されることとなったが、裁判例(密告者事件判決とか)からは結構特殊な意見が出た。
例えばラートブルフが「制定法による不法」を克服するために「制定法を超えた法」なんてものを提示することになったり、フラーが法には8つの道徳的原理を含める必要があるといったりといった具合に。
そもそも公正な手段というものは単に物理的法律によって規定されるラインを上回る、なんて言い方をすると、おそらく過言であって適切な読解に基づくものではないと思うが、そういう考え方もあるだろう。テロリズムを許容する、という片方の極の意見には、そうしたものもあるかもしれない。というか革命ってそういうのじゃないの?
もちろん、(新)自然法的な考え方が現行において主要な説ではないことなどもあるが、まあいいや。これ以上進みそうにないから別の話をしよう。
一般に、不正な手段によって被害が生じた者を救済するというのは国家の責務の一つと言って良いと思う(少なくとも被害を防ぐ必要があるということについてくらいは、リバタリアニズムのレベルでも肯定されるように思う)。
その一種の根幹的利益とも呼ぶべき法益の侵害について、それがテロリズムによって判明した場合、その法益侵害に対して触れるべきではない、ということは、なぜ必要となるのか?
まぁ、それは単純で今回のような「不正な手段」によって与えられた課題が「不正な対応」ではなく、「公正な対応(と一般に受け取られているように見える)」であったからだろう。でも、これは実は順序が少しだけおかしい。テロリズムという「不正な手段」で与えられる課題というのは、因果としては常に「不正な対応」になるのではないか? 今までの議論は大概がそこをスルーできてきた(もちろんきちんと対処述べてきたものもあり、その上で議論を重ねている者もいるように見える)、今回の議論はそこが他の価値とバッティングしてしまって、バグが起きているせいで余計にこんがらがっている。
逆に、敢えて今までの議論を全てごちゃまぜにしてしまうなら、おそらく世間一般の意見というのは、先程のA、Bにおける前者を肯定しながらも、双方の後者を否定するというロジックになる。無論、それは矛盾を必然的に孕んでいるが、おそらくそれが一番良く見る意見だった。
まず単純に、道徳的直観から。目的として、双方前文が正しいという直観から、双方を推進すべきであるという素朴な意見。当然ながら前文を進めれば後文を毀損する。それを、時には毀損したままであれ、進めるべきであるということ。所詮理屈なんてものは道徳的直観による結論を推し進めるための道具なんだからと。開き直りと言ってもいい。とはいえこれは、単に世間が「正しい」と「わかってる」ことをを推し進めたいという素朴な意見の衝突による勢いだけの(あるいはリベラルな恣意的妥協による)ものであって、問題解決につながるかは知らない。つまるところ、結論が先にあって、理由があとにあるんだから(クリーレの視線の往復的な、あるいはダンカンケネディの「基準」による法執行的な?)。
まあいいや。
全く関係ない個人的な意見なんだけど、何で他人の意見を否定する時に人格否定をすべきでないってみんな言ってるのにみんな人格否定してるの? やっぱ何か効果があるの?