はてなキーワード: 対義語とは
18話の豊先生の扱いは少し気の毒だったな。決定的にギルティと断じれるほどのことはやってないし、むしろ見方によっては善良な言動しかしていないようにも思えるけれども、作中での評価は「だるい」、「うざい」、「キショい」などと散々だった。挙句に「近寄らんで~きしょ~」と生徒に面と向かって言われる始末である。
人情の機微を繊細に描く本作において、豊先生に対する生徒たちの態度は多少ゾンザイにみえる。過剰な言葉を投げかける生徒が諫められることもなく朗らかに去っていく構成は、爽やかな描写に反して後味の悪さを感じた。“豊先生はそんな扱われ方するのも仕方ない”という“含意”がなければ成立しないほど雑な扱われ方だ。その“含意”が何かを考察するなら、これは豊先生が“本作におけるevil”に抵触したからだと思う。
本作における“good”の象徴が伏見さんであることは明らかだろう。けれども作中での伏見さんの活躍は実質的には微妙なものが多い。各エピソードの主役たちは何らかの課題や悩みを抱えているけれども、伏見さんは何か直接的にそれらを解決してくれるわけではない。いや、間接的に貢献しているかすら微妙なときもある。
しかし、それでも伏見さんが“good”の象徴たりえるのは、本作の作品紹介を読めば輪郭が見えてくる。
伏見(ふしみ)さんは、とある高校の用務員。背は高め。仕事熱心。缶コーヒーが好き。そして、丁度いい距離感で私たちと話をしてくれる。 今、“自分は大人だ”と思い込んでいる人に苦しめられている。今、自分がどんな大人になったらいいのか迷っている。 ちょっとでもそう思っていたら、ぜひ伏見さんに会いに来てください。ホッとしたり、気づきがあるかもしれませんよ。
引用の「丁度いい距離感」という所がミソだろう。つまり本作における“good”とは「丁度いい距離感」のこと。逆に言えば「丁度いい距離感ではない」こと、それに類する言動をする者がevilというわけだ。
以上を踏まえると、本作の1話なんて典型的に思える。本エピソードの生徒は中盤、痴漢被害に遭う。これは犯罪という時点で勿論evilではあるのだけれども、「丁度いい距離感ではない」という点においても本作のevilに抵触している。そして被害にあった子に対して、両親たちはデリカシーに欠けた言葉を投げかける。身内関係であるからこその近さ、そこからくる両親なりの慰めの言葉ではあっても、それは当人が求める「丁度いい距離感」からくるものではなかった。
そして遠すぎる場合はevilとまでいわないがgoodともいえないよね、ということも提示する。被害に遭った生徒は自ら犯人を捕まえたため、その勇気を褒めたたえる人もいた。しかし、それは表面上の言動と態度から逆算したもので、行為そのものに対する上澄みの評価だ。痴漢被害者への丁寧な気遣いをする者もいたが、これも紋切型であり寄り添ったものとはいえない。
じゃあ、何て言えばいいの?と思うのだが、当人自身よく分かっていない。当人が本当に悩んでいる核たる部分は、是非善悪とは別のレイヤーにある。しかも極めてプライベートでミクロ的であるため、明確で普遍的な回答がない。だからこそ苦悩の袋小路に入る。
そんな苦悩に対して本作(伏見さん)は「何とも言えない」という選択をした。「何とも言えないこと」に対しての答えが「何とも言えない」というのは逃げというか、そもそも答えになっていない。けれども、その時の生徒にとっては“個”と向き合い「丁度いい距離感」で接してくれた結果、と受け取られた。
豊先生は常にニコニコとしながら、誰にでも分け隔てなく好意的な対応をする善良な教師のようにみえる。けれども、これは誰にでも“いい顔”をしつつ、“個”と向き合わない不誠実な人物……という解釈もできる。つまり「丁度いい距離感」に対して無頓着であるため、“本作におけるevil”に抵触しているわけだ。
作中でのやりとりを挙げるならば、豊先生に好意を持っている生徒が「(背が高い人が豊先生の好みだったら)牛乳を大量に飲まないとなあ」などといった軽口に対して、豊先生は「今のサイズ感が可愛いから、今のままでいいと思うよ」と返す。「(牛乳を飲みすぎて)お腹こわさないようにね」という気遣いも忘れない。その生徒が自身に好意を持っていることを踏まえたうえで軽口に軽口で返した形だ。こんな調子で、豊先生は八方美人の節がある。婚約者がいる立場でありながら、自身に好意を持っている女生徒への対応は軽薄にみえる。知り合いの異性にも当然のようにプレゼントを贈ったりする。
けれども客観的にみて、それらをギルティとするのは決定打にかける。他人の好意に対して毅然とした態度をとらないというのも実際には一長一短で、豊先生個人でどうにかできない範囲も含まれている。豊先生の振る舞いは節々に粘度を感じるよう描写こそされているものの、それでもって悪徳と断じるべきかは疑問が残る。けれども、何度もいうように“本作におけるevil”とは「丁度いい距離感ではない」こと。その点において豊先生が無頓着であることは否定できない。なので生徒に「近寄らんで~きしょ~」と言われ、続けて「大人なんやから ちゃんとしいや~」などといわれる。
面と向かって「きしょ~」とか言ってくる若輩に大人としての在り方を説かれる筋合いはないとは思う。ただ、一応これも先ほど引用した作品紹介文から読解できる。
伏見(ふしみ)さんは、とある高校の用務員。背は高め。仕事熱心。缶コーヒーが好き。そして、丁度いい距離感で私たちと話をしてくれる。今、 “自分は大人だ”と思い込んでいる人に苦しめられている。今、自分がどんな大人になったらいいのか迷っている。 ちょっとでもそう思っていたら、ぜひ伏見さんに会いに来てください。ホッとしたり、気づきがあるかもしれませんよ。
「“自分は大人だ”と思い込んでいる人」とは、つまり「理想的ではない大人」と言い換えられる。
本作における「理想的な大人」の象徴が伏見さんとするならば、その逆のような存在が「理想的ではない大人」といえるだろう。つまり「丁度いい距離感」で私たちと話をしてくれないのはevilだから豊先生はキショいし、「“自分は大人だ”と思い込んでいる人」 だから「ちゃんとしいや~」ってわけである。
最終的に「彼女がいるのに生徒や伏見さんに色目使ってた男」と評された豊先生は「エエ~……」と困惑するしかなかったが、仕方ない。豊先生の扱いは、本作の通底するテーマや価値観からみれば筋は一応通っている。それにしたってどうなんだと思わなくもないけれども、それは私の咀嚼と消化の問題でもあるから片隅に置いとく。
伏見さんが“good”の象徴、理想の大人、メンター的存在でいることができる理由ってなんだろうか。メタ的な推測になるが、まず「学校の用務員」という立場がある。
学生たちにとって、自身の抱える課題や悩みを打ち明けられる大人は少ない。主に両親や教師になってくるが、両親は身内であり近しい存在だからこそ、かえって言えないことや言いにくいこともある。教師はあくまで仕事の一環として生徒と接するというフィルターがあるし、それも一人や二人ではなく数多ある生徒に対応しなければならない。他にもやらなければいけない仕事だって多いから常に全力で応えてくれるかは難しい。
いや、そもそも本作において学生の抱える葛藤は、是非善悪だけでは語りきれないものが多い。そんなことで白黒ハッキリついて解決するのなら悩んでいない。そんな悩みに対して親身になってくれないのは嫌だが、がっぷり四つでも困るのだ。そんな悩みを抱える学生たちにとって丁度いい距離感で接してくれる大人がいたとすれば、それは酷く理想的にうつることだろう。そのために学校の用務員という設定にしたのが絶妙だ。学校にいながら、親や教師が取りこぼしがちな生徒の機微を個別に拾うことができる。心のケアをする必要のない立場だからこそ、それをわざわざやる伏見さんの善性が際立つ。
本作の描き方からくるデメリットとしては「一概にいえない事柄なのに、メンターの言動がベストになってしまいがち問題」はある。まあ、これは学園もの・教師もの共通のデメリットではあるけれども(典型的なのだと『GTO』の主人公とかは解決方法がほとんど破天荒だったり非合法だったりするが、少なくともその作品世界においてはベストとなってしまいがち)。あと伏見さんを理想の大人として描写しようとするあまり、それ以外の大人が犠牲になってるというか、簡便に描写されている感はある。豊先生もその一人だなって印象。
virtualのニュアンスを正確に和訳するのは難しいんだけど、
原義としては、増田の言う通り「事実上の」と訳すのが一番近い、それは正しい
ただ、現在よく使われる「仮想」という訳が 完全誤訳 と言い切ってしまうのは、それこそ誤り。
「事実上の○○」=「厳密には○○ではないけど、もうほぼ○○と見なせる」という意図を含んでいて、
そこから「疑似的な」というような使い方がされるようになり、
それが今日の「実体の存在しない」という使い方に発展するようになった
ややこしいのは、その意味を表す日本語の単語が「仮想」なので、