はてなキーワード: 1935年とは
たこ焼きの聖地は大阪梅田と言われています。大阪にはたこ焼きの有名店が数多くあり、地元の庶民食文化として育ってきました。
初代当主の遠藤留吉は福島県の会津出身で、1933年に大阪で屋台を始めました。
当初は「ラヂオ焼き」という屋台を営んでおり、明石でタコが入っていると聞き、ラヂオ焼きの具をタコに変えてたこ焼きを開発しました。
昭和10年(1935年)にたこ焼きが誕生し、赤い幕に白文字で染めた「たこ焼き」ののれんが完成したのは昭和11年(1936年)です。
大阪梅田には「OSAKAたこ焼きマーケット」があり、日本を代表する5大たこ焼きブランドや4大ブランドビールが揃っています。たこ焼きの食べ比べやドリンクの飲み比べが楽しめるスポットです。
□住所:大阪市此花区島屋6-2-61 ユニバーサル・シティウォーク大阪4F
□料金:入場無料
1個あたりの重量が20gから30gに増加し、食べ応えのあるサイズになった。また、直径3~5cmの球形に加えて、ジャンボサイズと呼ばれる大型のたこ焼きも登場している。
釣り鐘状の冷凍たこ焼きがほとんどだったが、球体状のたこ焼きも登場した。
たこ焼きは、手軽に食べられる、食感がよい、たこ焼きパーティーができるなどといった理由で人気があります。また、コロナ禍の影響もあって人気が高まったと言われています。
〇この増田褒め称えてたブックマーカーが哀れすぎるわね。学者崩れをメディアに出して世論操作に使う理由を納得。 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231019135239
というわけで当該増田とその追記(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231020183410)を書いた増田です。呼ばれたようなので出てきました。
前のニュースから進展があり、「受刑者のホタテ殻むき「困難」と判断 米などに輸出できず 」と記事になり、そのブコメとして「格安で受刑者使うとか人権感覚が」という趣旨のものが多数あった(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20231027/k00/00m/010/047000c)ので改めて書いてみようと思う。
結論としては前の2つで書いたものと基本的には変わらない(理由は前掲記事で記載したとおり)。
①受刑者を使って利益を得ようとしても、国庫的には負担の方が大きい。
⇒受刑者を刑事施設に収容することに要する国庫負担の方がはるかに大きく、国庫的また国民経済的には受刑者が再犯せず、社会に出て仕事をして貰う方がはるかにメリットが大きい。
⇒今でも格安の労賃で刑務所に作業を発注できるのに必ずしも受注量は潤沢とは言えない。作業によっては採算が取れないものがないわけではないが、少なくとも大々的に展開できるようなものではない(できるのであればやってみればいい。法務省が大喜びするはずだ。)
③格安の労働力のために受刑者を増やそうなんて端緒も見られない。
⇒半官半民の刑務所が出来てからも日本の受刑者数は右肩下がりが続いており、また、制度的にも、近年可能な限り刑務所に収容するのではなく社会内処遇を充実させる方向で動いており、そこに変化は見られない。
④受刑者を社会に近い内容で処遇することの効果は法務省も、それ以上に研究者も肯定的であるものの、取り組みは大きくは進んでいないし大きく広がりそうもない。
⇒受刑者はいずれ社会に戻っていくので、必要以上に施設慣れ(施設内適応)されると困る。しかし、脱獄のリスクを嫌がる法務省側、受刑者を受け入れることに積極的ではない民間企業側とハードルが高く、外部通勤作業は広くは進んでいない現状である。
これを前提として今回の件少々付言していく。(この前提から納得いかないという方は申し訳ないが刑事政策をご自身で紐解た上で、データと突き合わせてもらう他ない。穏当な参考書としては「刑事政策学」(武内・本庄)や「刑事政策概論」(藤本)なんかが良いと思う。これ以外にも参考書はあるが刑事施設についてはあまり触れられていないことが多いので。)
ではまず記事を見ていこう。
宮下農相は「刑務所外での派遣作業などの仕組みが活用可能か検討していたが、輸出先の転換を推進する観点からは困難であるという結論に至った。受け入れ事業者、周辺地域の理解といった課題もあり、作業環境の整備などの課題も多い」と説明した。農林水産省によると、少なくとも米国、英国、カナダ、ニュージーランドでは、受刑者の労働による産品について輸入できない規定がそれぞれの国の法律にあることが分かったという。
はっきり言って完全に前回の記事で勘違いしていた。海外輸出用だったものを、今回の事案で国内流通用の工場で受刑者が作業する話だと思っていた。
何故かというと、そもそも法務省は刑務作業がかかわった製品について、アメリカを始めとした数か国に対して輸出ができないのを理解しているはずからだ。根拠はある。法務省は局長名の文書において
「GATT(ガットというやつだ)加盟国は、刑務作業製品に対して輸入規制を設けることができ、イギリス・アメリカ・カナダ・ニュージーランドは実際に輸入規制を行っている。」
「刑務作業の契約にあたっては、民間企業に対して、輸入規制が行われている国があること、その他の国もそうなる可能性があることをよく説明すること。」
と規定しているからだ。(確かリンク先の「刑務作業製品の輸入規制の対応について(通達)(平一八矯成三三三四)」てやつ。(https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/029326246.html))
それが何で前回報道のような形になったのか、正直言って外部からは全く分からない。官僚の劣化とかリサーチ不足などというブコメもついており一理あるなぁと思いつつも、法務省側は元々この要件を知っているはずなので、農水省と法務省のコミュニケーション不足で条件が正確に法務省に伝わっていなかったように感じる。
刑罰論まで踏み込むとキリがないので、刑務作業(強制労働)の捉え方に限定して説明しておこうと思う。
(前提1)1930年のILO条約では強制労働は禁止しているものの、刑罰による労働は条約上の強制労働には当たらないとされている。(懲役刑自体は国際法上違法ではない)
(前提2)アメリカでは1935年前後に刑務作業製品の一般販売を禁止した(輸入禁止もこの流れからと思われる)
(前提3)2015年の国連被拘禁者処遇最低基準規則でも作業があることを否定していない(苦痛を与える目的の作業が否定されている)
(前提4)1957年のILO条約では「経済的発展の目的のための労働力の動員」が禁止されており、日本は近年までこれに批准してこなかった。
ここから、「日本の懲役刑は経済的発展を行うための奴隷労働だ」などとの批判もあり、ブコメの批判も当たってそうに思えるが、結局懲役刑が残ったまま日本はこれに批准した(去年)。つまり懲役刑について、経済的な意味での強制労働ではないとされたわけだ。では何が問題だったかというと、この条約には「政治的な・・・見解を抱き、もしくは発表することに対する制裁」に対して強制労働を行わせることも禁止している。日本の場合、法令上一部公務員がスト等を行った場合懲役刑(強制労働あり)になりうるため、ここがネックだったというわけだ。結論として、公務員のスト等を懲役から禁錮(捕まっておくだけ)に法改正し、条約に批准している。
〇別の所でも書いたけど日本人は人権を理解していないという実例でしたね案件。ちょうどタイムリー。廃業の自由がない労務は奴隷制だからね。
このあたりは全く違うことが分かる。前提1と前提3に照らした場合、国際法上全く合法で、ただ、それにより出来上がった製品を国内法で流通を拒否している国がある(条約上拒否することも認めている)という話だ。
これは日本とアメリカ(というか特に英米系)の国で刑務作業に対する捉え方が全く違うことに端を発している。
ざっくりというと、そもそも規則正しく生活させ、労働させることは社会復帰に有用であると考える日本と、自由刑は拘禁さえしておけばよく、その他は受刑者の自由意志に任せれば良いとする国々との差異になる。
これは人権感覚の問題というよりも(それを言うなら自由を剥奪することも十分すぎるくらいに人権侵害だ)、勤労が美徳なのか罰則なのかという宗教観の話になってしまうので結論を出すのは容易ではない。
また、刑務作業の他にも、日本では性犯罪者には性犯罪者向けに、薬物事犯者には薬物事犯者向けになど再犯防止のための指導を行えるが、これも拘禁するだけが刑罰の国だと、刑罰の内容は拘禁までであり再犯防止に向けた取り組みへの参加は受刑者の自由意志に任されるということになる。個人的にはどっちが上とか下とか人権感覚が優れているとかの問題ではないように感じている。(ちなみにアメリカと比べて日本の方が再犯率は圧倒的に下でそこを評価する人もいるだろうし、"教化"に強制的に参加させるなんてありえない、とする人もいるだろう。)
これは懲役刑がなくなって拘禁刑に変わっても同様で、これまでは「作業が義務」とされていたところ、「社会復帰のために必要な働きかけを行う」(つまり作業が社会復帰に有用と思われる者には作業をさせる)ということなので、今後も変わらない。
※作業の捉え方の変遷(古典的な低廉な労働力の確保や労働自体に苦痛を伴わせることから現代までの変遷はここでは記しきれないので興味ある人はぜひ)
前のブコメでも受刑者にもっと金が出ればなぁというものが結構あった。それに対して前の記事でこう書いた。
受刑者に給料はでないよ。法律上の賃金ではないので。企業⇒法務省⇒国庫とお金が流れる。受刑者にはこの流れと完全に別枠でお気持ち程度のお金が国から出る。この額が少なすぎるとする研究者は多いが、「受刑者に月10万円出します!衣食住保証!」なんてのが国民感情として認められるはずもなく。
増額することに反対する研究者は多分ほとんどいない。ネックは完全に国庫からの持ち出しになることと、国民の理解だろうか。
法務省によると現在、民間から刑務作業で受け取っている労賃がおおよそ28億円だ。受刑者数は約4万人だが、民間との契約に従事している受刑者をざっくりその半分の2万人として考えた場合、受刑者1人当たりで受け取っている労賃は年間14万円程度になる。(民間からの刑務作業に従事せず、刑務所内で給食を作ったりしている受刑者も多数いるためざっくり半分とした。この割合は根拠はない。)
この労賃でさえ刑務作業を埋めることに四苦八苦している現状で労賃をあげると、今以上に刑務作業の確保に苦慮することになるためそれは難しいだろう。とするとその余は国庫から補填することになる(ざっくりとした試算で、全員に刑務作業を行わせる前提800億円くらいだろうか)。また、アメリカのように仮にこれを民間との契約で得た金銭を基にした賃金と整理するのであれば、それに見合う人能力の高い人だけがまともな刑務作業を行い、その他の大部分の受刑者はそもそも刑務所の中で何もしない、させないという環境に置かれる可能性がある。(作業が本人の希望制という違いはあるが)
日本においては、刑務作業は単なる罰則だけではなく社会復帰のための積極的な意義を認めつつ、報酬についてはもう少し何とかならんか、という論者が一般的であるように思う。
〇この増田褒め称えてたブックマーカーが哀れすぎるわね。学者崩れをメディアに出して世論操作に使う理由を納得。 https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231019135239
というわけで当該増田とその追記(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231020183410)を書いた増田です。呼ばれたようなので出てきました。
前のニュースから進展があり、「受刑者のホタテ殻むき「困難」と判断 米などに輸出できず 」と記事になり、そのブコメとして「格安で受刑者使うとか人権感覚が」という趣旨のものが多数あった(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20231027/k00/00m/010/047000c)ので改めて書いてみようと思う。
結論としては前の2つで書いたものと基本的には変わらない(理由は前掲記事で記載したとおり)。
①受刑者を使って利益を得ようとしても、国庫的には負担の方が大きい。
⇒受刑者を刑事施設に収容することに要する国庫負担の方がはるかに大きく、国庫的また国民経済的には受刑者が再犯せず、社会に出て仕事をして貰う方がはるかにメリットが大きい。
⇒今でも格安の労賃で刑務所に作業を発注できるのに必ずしも受注量は潤沢とは言えない。作業によっては採算が取れないものがないわけではないが、少なくとも大々的に展開できるようなものではない(できるのであればやってみればいい。法務省が大喜びするはずだ。)
③格安の労働力のために受刑者を増やそうなんて端緒も見られない。
⇒半官半民の刑務所が出来てからも日本の受刑者数は右肩下がりが続いており、また、制度的にも、近年可能な限り刑務所に収容するのではなく社会内処遇を充実させる方向で動いており、そこに変化は見られない。
④受刑者を社会に近い内容で処遇することの効果は法務省も、それ以上に研究者も肯定的であるものの、取り組みは大きくは進んでいないし大きく広がりそうもない。
⇒受刑者はいずれ社会に戻っていくので、必要以上に施設慣れ(施設内適応)されると困る。しかし、脱獄のリスクを嫌がる法務省側、受刑者を受け入れることに積極的ではない民間企業側とハードルが高く、外部通勤作業は広くは進んでいない現状である。
これを前提として今回の件少々付言していく。(この前提から納得いかないという方は申し訳ないが刑事政策をご自身で紐解た上で、データと突き合わせてもらう他ない。穏当な参考書としては「刑事政策学」(武内・本庄)や「刑事政策概論」(藤本)なんかが良いと思う。これ以外にも参考書はあるが刑事施設についてはあまり触れられていないことが多いので。)
ではまず記事を見ていこう。
宮下農相は「刑務所外での派遣作業などの仕組みが活用可能か検討していたが、輸出先の転換を推進する観点からは困難であるという結論に至った。受け入れ事業者、周辺地域の理解といった課題もあり、作業環境の整備などの課題も多い」と説明した。農林水産省によると、少なくとも米国、英国、カナダ、ニュージーランドでは、受刑者の労働による産品について輸入できない規定がそれぞれの国の法律にあることが分かったという。
はっきり言って完全に前回の記事で勘違いしていた。海外輸出用だったものを、今回の事案で国内流通用の工場で受刑者が作業する話だと思っていた。
何故かというと、そもそも法務省は刑務作業がかかわった製品について、アメリカを始めとした数か国に対して輸出ができないのを理解しているはずからだ。根拠はある。法務省は局長名の文書において
「GATT(ガットというやつだ)加盟国は、刑務作業製品に対して輸入規制を設けることができ、イギリス・アメリカ・カナダ・ニュージーランドは実際に輸入規制を行っている。」
「刑務作業の契約にあたっては、民間企業に対して、輸入規制が行われている国があること、その他の国もそうなる可能性があることをよく説明すること。」
と規定しているからだ。(確かリンク先の「刑務作業製品の輸入規制の対応について(通達)(平一八矯成三三三四)」てやつ。(https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/029326246.html))
それが何で前回報道のような形になったのか、正直言って外部からは全く分からない。官僚の劣化とかリサーチ不足などというブコメもついており一理あるなぁと思いつつも、法務省側は元々この要件を知っているはずなので、農水省と法務省のコミュニケーション不足で条件が正確に法務省に伝わっていなかったように感じる。
刑罰論まで踏み込むとキリがないので、刑務作業(強制労働)の捉え方に限定して説明しておこうと思う。
(前提1)1930年のILO条約では強制労働は禁止しているものの、刑罰による労働は条約上の強制労働には当たらないとされている。(懲役刑自体は国際法上違法ではない)
(前提2)アメリカでは1935年前後に刑務作業製品の一般販売を禁止した(輸入禁止もこの流れからと思われる)
(前提3)2015年の国連被拘禁者処遇最低基準規則でも作業があることを否定していない(苦痛を与える目的の作業が否定されている)
(前提4)1957年のILO条約では「経済的発展の目的のための労働力の動員」が禁止されており、日本は近年までこれに批准してこなかった。
ここから、「日本の懲役刑は経済的発展を行うための奴隷労働だ」などとの批判もあり、ブコメの批判も当たってそうに思えるが、結局懲役刑が残ったまま日本はこれに批准した(去年)。つまり懲役刑について、経済的な意味での強制労働ではないとされたわけだ。では何が問題だったかというと、この条約には「政治的な・・・見解を抱き、もしくは発表することに対する制裁」に対して強制労働を行わせることも禁止している。日本の場合、法令上一部公務員がスト等を行った場合懲役刑(強制労働あり)になりうるため、ここがネックだったというわけだ。結論として、公務員のスト等を懲役から禁錮(捕まっておくだけ)に法改正し、条約に批准している。
〇別の所でも書いたけど日本人は人権を理解していないという実例でしたね案件。ちょうどタイムリー。廃業の自由がない労務は奴隷制だからね。
このあたりは全く違うことが分かる。前提1と前提3に照らした場合、国際法上全く合法で、ただ、それにより出来上がった製品を国内法で流通を拒否している国がある(条約上拒否することも認めている)という話だ。
これは日本とアメリカ(というか特に英米系)の国で刑務作業に対する捉え方が全く違うことに端を発している。
ざっくりというと、そもそも規則正しく生活させ、労働させることは社会復帰に有用であると考える日本と、自由刑は拘禁さえしておけばよく、その他は受刑者の自由意志に任せれば良いとする国々との差異になる。
これは人権感覚の問題というよりも(それを言うなら自由を剥奪することも十分すぎるくらいに人権侵害だ)、勤労が美徳なのか罰則なのかという宗教観の話になってしまうので結論を出すのは容易ではない。
また、刑務作業の他にも、日本では性犯罪者には性犯罪者向けに、薬物事犯者には薬物事犯者向けになど再犯防止のための指導を行えるが、これも拘禁するだけが刑罰の国だと、刑罰の内容は拘禁までであり再犯防止に向けた取り組みへの参加は受刑者の自由意志に任されるということになる。個人的にはどっちが上とか下とか人権感覚が優れているとかの問題ではないように感じている。(ちなみにアメリカと比べて日本の方が再犯率は圧倒的に下でそこを評価する人もいるだろうし、"教化"に強制的に参加させるなんてありえない、とする人もいるだろう。)
これは懲役刑がなくなって拘禁刑に変わっても同様で、これまでは「作業が義務」とされていたところ、「社会復帰のために必要な働きかけを行う」(つまり作業が社会復帰に有用と思われる者には作業をさせる)ということなので、今後も変わらない。
※作業の捉え方の変遷(古典的な低廉な労働力の確保や労働自体に苦痛を伴わせることから現代までの変遷はここでは記しきれないので興味ある人はぜひ)
前のブコメでも受刑者にもっと金が出ればなぁというものが結構あった。それに対して前の記事でこう書いた。
受刑者に給料はでないよ。法律上の賃金ではないので。企業⇒法務省⇒国庫とお金が流れる。受刑者にはこの流れと完全に別枠でお気持ち程度のお金が国から出る。この額が少なすぎるとする研究者は多いが、「受刑者に月10万円出します!衣食住保証!」なんてのが国民感情として認められるはずもなく。
増額することに反対する研究者は多分ほとんどいない。ネックは完全に国庫からの持ち出しになることと、国民の理解だろうか。
法務省によると現在、民間から刑務作業で受け取っている労賃がおおよそ28億円だ。
受刑者数は約4万人だが、民間との契約に従事している受刑者をざっくりその半分の2万人として考えた場合、受刑者1人当たりで受け取っている労賃は年間14万円程度になる。
(民間からの刑務作業に従事せず、刑務所内で給食を作ったりしている受刑者も多数いるためざっくり半分とした。この割合は根拠はない。)
この労賃でさえ刑務作業を埋めることに四苦八苦している現状で労賃をあげると、今以上に刑務作業の確保に苦慮することになるためそれは難しいだろう。とするとその余は国庫から補填することになる(ざっくりとした試算で、全員に刑務作業を行わせる前提で最低賃金を支払うとして800億円くらいだろうか)。
また、アメリカのように仮にこれを民間との契約で得た金銭を基にした賃金と整理するのであれば、それに見合う人能力の高い人だけがまともな刑務作業を行い、その他の大部分の受刑者はそもそも刑務所の中で何もしない、させないという環境に置かれる可能性がある。(そもそも日本の受刑者の2~4割(研究者によって違う)はIQが70に満たない人たちだ。そういった人たちに賃金が払えないからと何ら働きかけをしないというのが正しいとは個人的には思っていない。)
日本においては、刑務作業は単なる罰則だけではなく社会復帰のための積極的な意義を認めつつ、報酬についてはもう少し何とかならんか、という論者が一般的であるように思う。
ウィスコンシン大学で20年間にわたり、餌のカロリーを70%に制限したサルのグループとカロリー100%のグループを比較したリサーチによれば、70%に制限したグループのサルは毛のツヤがよく、肌も若々しくて、活発に動き回り、1.6倍も長い生きしたのに対し、カロリー100%のグループのサルは一様に老け、毛もパサパサだったそうです。
さらに1935年にコーネル大学のマッケイ教授が発表した調査によれば、カロリー60%に制限したマウスのグループは、カロリー100%のマウスに比べて2倍長生きすることが分かりました。
インド国立栄養研究所のマッカリソン博士が行った実験でも、白パン、マーガリン、白砂糖入り紅茶、そして缶詰の肉などイギリスの通常の食事を与えたマウスは脳に精神異常が見られ、最終的にはお腹は満たされているのにもかかわらず「共食い」を始めてしまいました。
「夏目漱石は「月が綺麗ですね」となんか訳していない」という話から、「初出であるとされる70年代以前がどうだったのか知りたい」という話が出ていたので、Googleブックスを検索していたのだが、1962年刊行の『日本人の知恵』にこのような話があるらしい。
「私はあなたを愛しています(I love you)」
などとはけっしていわない。
「いいお月さんですね」
そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。
この『日本人の知恵』という本は、
ということらしいので、つまり1961年に朝日新聞に掲載されたのだろう。
それならば世間に広く知られたとしてもおかしくないと思われる。
もうひとつ、さらに遡って戦前の1935年刊行、笠間杲雄『沙漠の国 ペルシア アラビア トルコ遍歴』にもよく似た表現があるようだ。
第一、欧米人にとつては一生の浮沈を定める宿命的な宣言『アイ・ラヴ・ユウ』の同意語すら、日本語には無い。(中略)斯ういう意味を外国人に答へると、然らばあなた方日本人は、初めて男なり女なりを愛する場合に、どんな言葉で意志を通ずるのかと、必ず二の矢の質問が飛ぶ。私は答へる。我々は「いい月ですね」と言つても、「海が静かね」といつても、時としては「アイ・ラブ・ユウ」の翻訳になるのだと。
こちらは「いい月ですね」と「海が静かですね」が並列されており、あくまで「無数の表現のうちの2例」といった趣きではある。
さらに「I love youは日本語にうまく訳せない」という話に限っては、
「漱石文庫」に残された漱石のメモ書きの中に、ジョージ・メレディスというイギリスの小説家の作品を取り上げて、
"I love you,Signora Laura."―Vittoria p.113.
此 I love you ハ日本ニナキformulaナリ
と記した一節がある
これは漱石の英国留学時代のメモ書きだそうなので、1901〜1902年ごろに書かれたものか。
同様の主張が1922年に刊行されて当時のベストセラーになったという厨川白村『近代の恋愛観』に書かれている。
日本語には英語の『ラヴ』に相當する言葉が全く無い。『戀』とか『愛』とか云ふ字では感じがひどくちがう。" I love you "や" Je t'aime "に至つては、何としても之を日本語に譯すことが出來ない。
この厨川白村は夏目漱石の教え子で、深い付き合いがあったというから、これは夏目漱石の受け売りだった可能性が高い。
というわけでグルグルまわっているうちに夏目漱石に戻ってきてしまった。
夏目漱石が「I love youは日本語に訳せない」と言う
→その話が厨川白村を通じてよく知られるようになる
→「いい月ですね」とか「海が静かですね」とかそういうことを言うんじゃね?
→日本人は「愛しています」とは言わず「いい月ですね」と言うんだ!
→その話が朝日新聞を通じてよく知られるようになる
→なんかいろいろ混線して「夏目漱石がI love youを月が綺麗ですねと訳した」という話になる
みたいな流れが朧気ながら見えてくるような見えてこないような。
追記。
国立国会図書館デジタルコレクションで調べてみたところ、1908年の『明治学報』に掲載された上田敏「予の観たる欧米各国」という講演の書き起こしにこういう記述があった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1890371/1/24
日本では「我汝を愛す」と云ふことは言へない、日本では何と云ふかと云ふと、「私アナタに惣れました」と云ふ、それでは「アイ、ラブ、ユー」と云ふことに当らない、「我汝を愛する俯仰天地に愧ず」それはどう云ふたら宜いか、(笑声起る)、所が「私はアナタに惣れました」といふことは日本語ではない、さういふ日本語は昔からないです、だから日本ではそれをパラフレーズするか、或はペリプラスチック、言廻はして、「誠にアナタはよい人だ」とか何とか云ふ工合に云ふより外言ひ方はない、「私はアナタが好です」と云ふと何だか芝居が好きだとか、御鮨が好だとか云ふやうになつて悪いです、
上田敏は高名な英文学者で「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ」や「秋の日のヴィオロンのためいきの」などの詩訳で知られる。夏目漱石よりは年下だが、同時期に東京帝国大学で教鞭をとっていたこともあり、文学論を語り合う仲だったという。夏目漱石か上田敏かいずれが最初なのかはさておき、どうも「I love youは日本語に訳せない」というようなことは当時の教養人の共通認識だったようだ。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2348792/1/6
西洋デハ人ノ表情ガ露骨デアツテ 例ヘバ恋ヲ囁クニモ 真正面カラ アイラヴユー ト斬込ムガ 日本デハ 良イお月デスネー ト言フ調子デ 後ハ眼ト素振リニ物ヲ言ハス
いまのところ「月が綺麗ですね」系統の話についてはこれが最も古いか。これも今回の検索でわかったことだが、前述の笠間杲雄『沙漠の国』の該当箇所は1930年ごろには雑誌に掲載されていたようなので、それほど時期的に離れていない。共通の元ネタなどがあってもおかしくはないか。
最初にブルマーについて調査した記事で、ポーランドのブルマーの映っている動画を紹介した(3:55頃から)。そのことから、自分はポーランドにおけるブルマーの存在を証明したと満足し、それ以上の調査をやめた。しかし、先日のドイツのブルマーにまつわる記事で、ドイツ語のブルマーの名称を知ったことから、そもそもポーランドでブルマーを何と呼んでいるかを調べた。
結果として、今回は具体的な名称を見つけることはできなかったが、ポーランドにおけるブルマーの年代をもう少し細かく絞り込むことができた。
ポーランドの体育の歴史は1805年にさかのぼる。医師であり化学者でもあるJędrzej Śniadeckiが、身体の訓練がなおざりにされ、精神だけの訓練が行われていることを嘆き、体育を創始した。彼の目指した水準は高く、「レスリング、さまざまな武器の使用、ダンス、ジャンプ、高い木に登る、溝をジャンプする、水泳、乗馬、走りながら馬に乗る」などが教科に含まれていた。また、どうやらそこの学校では、ポーランド語も教えられていたようである。ポーランドが分割されていた時代のことと考えれば、驚きである。
ソコルはチェコのブルマーについて記載した記事でも書いた通り、チェコの民族的体育運動協会である。ポーランドのソコウはそこから派生した団体である。1863年蜂起の失敗後、同年2月に設立された。同時期のスカウト運動とは逆に、右翼的傾向があった。それに危機を覚えた当局による迫害が続いた。プロイセン占領下のポーランドでもそうであったし、独立後、再びナチスに占領されても迫害を受けた。
にもかかわらず、ソコウはポーランドの独立運動の一翼を担ったのである。
しかし、共産主義政権が成立するとソコウは違法化され、これにまつわる情報はすべて検閲された。1989年に合法化され、1990年にソコルポーランド体育協会連盟(とでも訳せるか)
へ名称を変更、現在は80のグループに8000人を擁し、若者に愛国心や市民の義務を教える団体となっている。
なお、余談だがサッカーを庶民のスポーツとして嫌ったため、20世紀に何人かのメンバーが離脱、独自のサッカークラブができるが、これがポーランド最初のサッカーチームの起源である。
(英語版では1935年の提灯ブルマーが確認できる。ポーランド語版では1937年、提灯ブルマーでのマスゲームが確認できる)
上記の「ファクト」というサイトによれば、当時はズボンとゆったりとしたシャツを着て、女の子はドレスを着て運動した、と書かれている。またソコウ(自動翻訳では「ファルコン」と出てくる)では軍服のようなものを身に着けた、とある。ブルマーに関する記載がないことに、僕は困惑した。証拠となる映像も画像もそろっているのに、文章が見つからないのである。
ポーランド語は一言もわからないので、以下の語を翻訳し、組み合わせて検索してみた。「体操着」「紺色」「ブルマ」「短パン」「共産主義」「1960年」「歴史」「恥ずかしい」など。ここで思いがけなかったのが、中東欧の多くの言語で「体操着」で画像検索すると、女性用のレオタードばかりヒットすることだった。
Wikipediaのポーランド語版Mundurek szkolny(学校の制服)で検索したが、それらしいものはヒットしなかった。イギリスの制服に関する項で、
とあり、これは
を意味するので、検索のヒントになるかと思ったが、結局見つからなかった。
pamietam obowiazkowy stroj na wf szorty granatowe bialy podkoszulek.
これを日本語にするとこうなる。
これが数少ない、ポーランドのブルマーにまつわる証言である。名も知らない誰かのコメントで、ポーランドのブルマーはあったのだと、映像だけでなく、言語でも納得できた。
こちらは過去のポーランドを撮影した写真のアーカイブだ。検索ワードをgimnastykaに変えても同じような写真が出てくる。
幸いなことに、写真の下には年代が記載されている。1930年代、1948年と書かれた写真は提灯ブルマーだが、1960年代を映している写真は、間違いなくショーツ型ブルマーだ。
また、こちらでは、少しダボダボしているが1950年代のブルマーを確認できる。
他にもブルマーで運動する女性の写真は何枚か見つけたが結論は同じであり、リンクをいたずらに増やしても意味がないので、割愛する。
陸上のブルマーやバレーボールのブルマーについてもある程度調べようと思った。一つには、日本のブルマーがバレーボールに影響されたという説があるからであり、もう一つにはブルマーのポーランド語での名称を探すヒントになるかと思ったからだ。
こちらでは1972年の陸上ブルマーの普及の様子を確認できる。
また、こちらでは陸上ブルマーの是非について論じているが、タイトルが「Majtki dla biegaczek」、和訳すると「陸上のパンティー」である。これがブルマーの正式名称かと思ったが、どうやら違うようである。
これ以上探しても見つからないので、調査は一段落とした。元々は体育のブルマーの調査だ。プロスポーツのブルマーとは少し違う。日本でも競技用ブルマーの浸透した年代と、学校制服のブルマーの普及した年代には、かなりのずれがある。名称の調査はともかく、この画像検索ではずれが出てくる。いずれ、競技用ブルマーの普及した年代を調査することがあれば、そのときに改めてまとめなおす。
もしかしたら、グーグルもDeepLも、単語レベルでの正確なニュアンスに関してはまだ改良の余地があるのかもしれない。また、日本語からか英語からかでも、訳語がぶれた。
それと、今回は自分の落ち度だが、系統的に単語を調べず、頭に浮かんだまま検索したので、何度も同じ単語で検索してしまった。また、サイトによっても訳語のブレがあった。気晴らしの調査であるとはいえ、ドキュメントファイルかなにかで記録を取りながら調査すべきであった。
もしかしたら、画像検索ではなく、文章で検索すべきかもしれない。たとえば、「体操着 共産主義」ではこちらの質問サイトが見つかり、ブルマーが黒っぽかったことを示唆する内容もある。
Wątek "Strój gimnastyczny " - wielkiezarcie.com
できることなら、なんとかポーランドのブルマーの名称を確認したい。
また、ブルマーの普及状況について、国ごとに調査を継続したい。
ちなみに、今回自分は並行してハンガリーのブルマー事情について調べていたのだが、思いがけないことが明らかになった。それに関してはできたら一週間以内に記事をアップロードし、共有したい。
遅れたら失礼。
今年、数学と小説に関することで「やっておけばよかった」と思ったことがふたつあった。
1つ目。
『年刊SF傑作選 超弦領域』に収録されている円城塔の短編「ムーンシャイン」に
とあるのだけど、これを読んだ時に
ここの「可換」って「可解」の間違いだよな出版社に知らせておいた方がいいかな
と考えたのだけど、ストーリーには何の影響もないディテールだしすぐ知らせる必要もないなと放おって忘れていたら、
今年出た伴名練 編『日本SFの臨界点[恋愛篇] 死んだ恋人からの手紙』に
「ムーンシャイン」が収録されていてこの部分がそのままだった。
2つ目。
奥泉光の長編小説『雪の階』で、数学を愛好する主人公笹宮惟佐子に関して
微積分の初歩を終えたばかりの惟佐子には手が出せそうになかった。
と描写されるところ(一章 七)があるのだけど、その直後に
初歩の参考書からはじめて高木貞治『代数学講義』、ミハエル・グラッスス『高等数学入門』、竹内端三『函数論』と云った著作を惟佐子は独習し、いまは山畑氏から借りた解説書で解析学も少しずつ勉強をはじめていた。
竹内端三『函数論』は上巻(函数論. 上巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)だけでも関数論(=複素関数論)のかなり詳しい部類の本で、
下巻(函数論. 下巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション)までいくと楕円関数論について詳しく扱っているような本なので、
それを「独習し」というのは「微積分の初歩を終えたばかり」という描写と齟齬をきたしていると思う。
竹内端三『函数論』は現在でもわりと読まれていて数年前に復刊もされている本なので、誰も気にしないにしても記述を修正した方がいいじゃないかな、
と思うだけ思いながら特に何もしていなかったら、
つい先日『雪の階』が文庫化されて上にあげた部分はそのままだった。
変更されていたかは分からないけど、一応どこかに言っておけばよかったとちょっと後悔した。
そもそも、本のミスや誤字脱字を見つけた時どのくらいの人が指摘・報告をしているのだろう?と思った。おわり。
現在発売中の数学セミナー2021年1月号の特集が「SFと数理科学」で、
円城塔による総論で数学との絡みのある小説をいろいろあげていて、
https://anond.hatelabo.jp/20201219095651
(出来事)
1856 日米修好通商条約締結
1860 横浜の外国人居留地において、競馬が行われる(居留地競馬)
1869 戊辰戦争終了
1870 東京招魂社(現・靖国神社)において、初めて洋式競馬が行われる(招魂社競馬。1898年まで)
1874 台湾出兵
1877 西南戦争開始~終了
1894 日清戦争開始
1905 日露戦争終了
桂太郎内閣による馬券発売の公認(黙許)(公認競馬。中央競馬のルーツ)
馬政第一次計画の制定(第一期:1906年~1923年、第二期:1924年~1935年)
帝室御賞典(東京)創設
1907 小岩井農場が種牡馬インタグリオーと20頭の繁殖牝馬(小岩井農場の基礎輸入牝馬)をイギリスより輸入する
1910 韓国併合
改正競馬規程(閣令)を根拠として、産牛馬組合による競馬が開催されるようになる(地方競馬のルーツ)
主要競走に騸馬(せん馬)が出走不可に。芦毛、月毛、河原毛が出走不可に(毛色の制限は1928年まで)
帝室御賞典(阪神)創設
1911 優勝内国産馬連合競走(連合二哩)創設(ラングトンが第1回の勝馬となる)
宮崎競馬場において、商品券付き勝馬投票が実施される(事実上の馬券)。1914年までに全ての競馬倶楽部が実施するようになる
1914 第一次世界大戦開始
1918 第一次世界大戦終了/シベリア出兵(1922年まで)
1922 帝室御賞典(札幌)創設(1937年秋まで。1922年~1924年は春のみ。1925年~1937年は秋のみ)
帝室御賞典(福島)創設(春のみ。1922年春~1937年春)。帝室御賞典(函館)創設(秋のみ。1922年秋~1936年秋)
1923 関東大震災/旧競馬法制定(馬券発売再開)/馬政局廃止
帝室御賞典(函館)創設(春のみ。1923年春~1937年春)。特殊ハンデキャップ競走創設
1925 濠抽混合創設(当初の名称は各内国抽籤濠州産馬混合競走。1932年より目黒記念)
下総御料牧場が2頭の繁殖牝馬(種正・稙道)をアメリカより輸入する
1928 横浜特別創設(1943年秋まで)/連合二哩(牝馬)創設(1928春~1941秋)
1931 満州事変
下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星旗・星若・星友)をアメリカより輸入する
1932 東京優駿創設(1950年より「日本ダービー」の副称が付く。ワカタカが第1回の勝馬となる)
下総御料牧場が3頭の繁殖牝馬(星濱・星谷・星富)をアメリカより輸入する
1934 中山大障害創設
1936 二・二六事件
1937 日中戦争開始
天皇賞(帝室御賞典)創設(連合二哩並びに各競馬倶楽部で行われていた帝室御賞典を統合。当初秋2600m、春2700mで施行され、第3回からは春秋共に3200mで施行。ハツピーマイト(ハッピーマイト)が第1回(1937年秋・東京)、ハセパークが第2回(1938年春・阪神)の勝馬となる)
連合二哩はこの年限りで廃止。各地の帝室御賞典はこの年春限りで廃止
菊花賞(京都農林省賞典四歳呼馬)、優駿牝馬(オークス)(阪神優駿牝馬)創設
1939 皐月賞(横浜農林省賞典四歳呼馬)、桜花賞(中山四歳牝馬特別)創設(五大クラシック競走が成立)
1941 太平洋戦争開始/セントライトが初のクラシック三冠を達成
1944 競馬開催の一時停止。この年の競馬は能力検定競走として施行される(戦前の競馬はこの年限りで終了)
2歳(旧3歳)競走が競走体系に加わる
1949 朝日杯3歳ステークス(1991年から牡馬及び騸馬(せん馬)限定のレースとなる。現・朝日杯フューチュリティステークス)創設
阪神3歳ステークス(1991年から阪神3歳牝馬ステークスとして牝馬限定のレースとなる。現・阪神ジュベナイルフィリーズ)創設
1951 中央競馬における重勝式馬券の発売(1961年廃止)
トキノミノルが無敗で二冠を達成
日本中央競馬会(略称は1986年までNCK。1987年からJRA)発足(国営競馬時代の終了)
啓衆社(競馬予想紙を発行)が啓衆賞を設け、各年に活躍した競走馬を表彰することを始める(1972年から『優駿』(日本中央競馬会の機関紙)の主催による優駿賞、1987年から日本中央競馬会の主催によるJRA賞となる。最初の年度代表馬はハクリヨウ(ハクリョウ))
1955 日本中央競馬会が英国ジョッキークラブとの間に騎手に対する制裁の相互実施協定を締結する(国際交流の始まり)
東京大賞典(秋の鞍)創設
1958 ハクチカラが戦後の日本調教馬として、初めて海外に遠征する
1956 有馬記念(中山グランプリ)創設(メイヂヒカリが第1回の勝馬となる。八大競走成立)
1963 中央競馬において8枠制が導入される
メイズイとリユウフオーレル(リュウフォーレル)の2頭が年度代表馬に選出される
1965 シンザンが天皇賞秋・有馬記念を制覇し、五冠を達成(当時牡馬が出走できる大レースを全て制覇)
1967 栗東トレーニングセンター開場
1968 中央競馬における繋駕速歩競走はこの年限りで廃止される
1970 大阪万博
スピードシンボリが初めて有馬記念を連覇し、1967年以来2度目の年度代表馬に選出される
1971 ニクソン・ショック
貿易自由化に伴い国内生産者への保護政策が実施されたことにより、持込馬が有馬記念を除く八大競走への出走権を失う
トウメイが天皇賞秋・有馬記念と連勝し、牝馬として初の年度代表馬に選出される
1972 沖縄返還
地方競馬における騎乗速歩競走はこの年限りで廃止される(中央競馬では戦前限り廃止)
ハイセイコーが中央競馬に移籍し、好成績を挙げ、国民的人気を集める(1974年の有馬記念2着(勝馬はタニノチカラ)を最後に引退)
1974 単枠指定制度の導入(1991年10月5日廃止。最初の指定馬は同年の皐月賞におけるキタノカチドキ。最後の指定馬は1991年のセントライト記念におけるレオダーバン)
1977 テンポイントが有馬記念でトウショウボーイとのマッチレースを制し、年度代表馬に選出される(3着はグリーングラス)
1978 美浦トレーニングセンター開場
ドラマ版ゆるキャン△2期の制作が決定したので、記念に大垣城の思い出を書く。ドラマ版の大垣があまりにもアニメの大垣そのままだったことに感動して、大垣に関係するものを何かしてみようと思い、大垣を観光しようと大垣城へ行った。今年の3月のことだった。
岐阜県大垣市のJR大垣駅から歩いて10分で大垣城に到着した。当時は児童・生徒の入場はコロナ禍により制限されていたが、そうでない私は特に問題なく入場できた。大垣城は関ヶ原古戦場に近く、最上階の天守閣から西の方を眺めると、南北を山地で囲まれた関ヶ原が琵琶湖方面への通り道のように見える。もちろん大垣城内の展示では関ヶ原の戦いを売りにしており、戦いの様子を表現したジオラマの展示、当時用いられていた当世具足の展示、武器を手に取って体験できるコーナー、ビデオコーナーがあった。
私がその中でも気に入ったのはビデオコーナーであった。入口の立て札には「SEKIGAHARA」というタイトルと劇画調の石田三成と徳川家康の精悍な顔が描かれており、「関ヶ原の戦いはただの権力争いではなく、後世の武士の価値観を決定するイデオロギーの闘争であった」みたいな感じ(注:正確な文章は忘れた)の煽り文が異彩を放っていた。中を見ると、公立図書館の様な一人再生用の視聴ブースが5つほどあり、映像は全部で2時間と説明文にあった。大垣城以外にも「奥の細道むすびの地記念館」など市内をいくつか観光するつもりだったので、10分ほど軽く見るつもりでヘッドホンを装着してDVDの再生ボタンを押した。結論から言うととても面白くて、1時間ほど見てもまだ続きが見たかったけど、泣く泣く中断したほどだった。
私は高校で日本史を履修しておらず大河ドラマの類も見たことが無く、石田三成を見ても「誰だっけ?」と思ったほどである。関ヶ原の戦いは豊臣と徳川の争いであるとは漠然とは知っていたが、関ヶ原の戦いの時には豊臣秀吉がすでに故人だったことも知らなかった。そんな私でもDVDに夢中になった。
映像は豊臣秀吉の死から始まる。秀吉を豊臣財閥の筆頭株主兼社長に例えて、五大老は秀吉にM&Aで吸収合併された競合他社の社長としていた。五大老は自社の株式の全てを秀吉に売り、代わりに秀吉の会社から株式を譲り受けて豊臣財閥の取締役になったという設定である。五奉行は執行役員部長で秀吉生え抜きの社員だという。それぞれの大名の石高数は、豊臣財閥の持ち株数で表していた。
秀吉の跡を息子秀頼が継いだものの未成年で実権がないので、成人するまでは取締役である五大老が秀頼を補佐するようにというのが秀吉の遺言である。遺言に反して株式保有数第二位で副社長の徳川家康がクーデターを企て、それを社長室長兼企画部長の石田三成が阻止するというのが「SEKIGAHARA」の大きな流れだ。250万石もの大資本を持つ取締役副社長の家康に対して、わずか18万石の部長に過ぎない三成がどのように対抗するのか。この会社組織で例えた設定がナレーションや図表でわかりやすく解説されたので、歴史に詳しくない私でも現代ドラマを見るように楽しむことができた。
時間がなかったので飛ばしながら見たが、それでも全部見終わることはできなかった。この「SEKIGAHARA」は「原作:堺屋太一」とあったので、帰宅後に原作を読んで関ヶ原の戦いを調べることにした。原作小説の「大いなる企て」でも、五大老や五奉行を会社組織で例えており秀吉の死から物語が始まる。しかし、映像版と原作小説ではストーリー構成が大きく異なっていた。映像版では秀吉の死後に関ヶ原の戦いが始まり、合戦の様子を三成と家康のそれぞれの視点で描くのがメインであった。それに対して上下巻構成になっている原作小説では、朝鮮出兵の和平交渉と撤退に三成が中間管理職として苦労する描写に長尺が割かれている。朝鮮出兵から帰還した大名に対して三成が秀吉の葬儀を取り仕切り、それがようやく一段落ついたころには上巻が終わるという具合だった。関ヶ原の戦いはいつ始まるんだと思っていたが、残念ながら原作小説は関ヶ原の戦いが始まる前に完結してしまう。
原作小説は私の期待に反して関ヶ原の戦いは描かれなかったけれども面白かった。それにしても、原作では三成が中間管理職として苦労する地味なサラリーマン小説であるのに対して、映像ではドラマのようなエンタメに仕上がっているのはどういうことだろうか。気になって原作者を調べてみたが、堺屋太一がただの小説家ではないことが分かった。
堺屋太一は元通産省の官僚であり、大きな業績として大阪万博の企画立案に携わったことがある。通産省を退官後は、小説家・博覧会のプロデュース・ドラマなどテレビ番組のプロデュース・大臣・学者・政治運動とマルチに活躍しており、どれをとっても大きな功績といえるだろう。「SEKIGAHARA」のプロデュースも堺屋太一の活動の一つだ。「SEKIGAHARA」では単に原作のストーリーをなぞることにこだわらず、大垣城の展示作品としても、エンタメとしても楽しめる物を意識してプロデュースしてきたことだろう。
堺屋太一を知らない人でも、「団塊の世代」という言葉は知っているだろう。「団塊の世代」は元々堺屋太一の小説のタイトルで、当時「戦後っ子」と呼ばれた戦後生まれの世代が、将来社会でどのような役割を担わされるのかを予想した近未来小説である。この小説も私は最近読了したので感想を述べてみる。
1970年代中頃に連載した当作は80年代90年代のバブル景気とその崩壊を予測できなかったものの、団塊世代の出世が頭打ちになること、無駄に役職者が高い人ばかりになり組織のピラミッドが歪になること、人余りの団塊世代が関連企業へ出向されるなど、年功序列型の賃金上昇や終身雇用が維持できなくなる現在を予測している。
団塊世代は今でこそ巨悪と描かれることが多い。昨今話題になったドラマ半沢直樹もその一つだ。ドラマでは銀行マン無双というタイトルが似つかわしいほどの勧善懲悪痛快劇であるが、原作小説では「オレたちバブル入行組」のタイトルの通り、バブル世代である半沢直樹らが団塊世代に復讐をする世代間対立の物語である。ただ、原作でも世代間対立の色合いは作品を経る毎に薄くなり、三作目で「ロスジェネの逆襲」というタイトルで半沢らより下のロスジェネ世代の人物を多く登場させながら、ロスジェネ世代がバブル世代や団塊世代に逆襲をするというわけでもなくタイトルに反して半沢直樹無双となっている。四作目ではとうとう世代間対立は関係なく、その時話題になっていたJAL再生タスクフォースや民主党の事業仕分けをネタにして半沢直樹無双をやるだけになってしまった。ドラマ2期で過剰な演技や顔芸ばかりが取りざたされることに批判もあるが、原作もこの様なものである。
閑話休題。しかし、「団塊の世代」を連載した1970年代中頃では、団塊世代はまだ二十代の若造である。その頃から戦後っ子が老害へと変貌する未来を予測したのは流石としかいえない。「団塊の世代」の4話では1999年が舞台になっており作中では、団塊世代が既得権益をむさぼりレジャーにうつつを抜かして経済や技術の発展を妨げた、と批判がなされている。大阪万博など一大レジャーを築いた堺屋太一自らがこのように評するのは痛快にして皮肉でもある。
ちなみに、堺屋太一は1935年生まれで2019年に故人となっている。多くの業績を残したすごい人を亡くなって1年も経ってから私が知ることになるとは何て残念なことだろうと思ったが、それで堺屋太一の小説の面白さが色あせることもないので今も読んでいる。
ゆるキャン△ドラマ2期決定を機に大垣城の思い出を述べてきたが、関係ない話が長くなってしまったので、この辺で筆を折ることにする。
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オバケのQ太郎 、ジャングル大帝、スヌーピー、宇宙少年ソラン
、未来からきた少年 スーパージェッター、少年シンドバッドの冒険、手 、オバケのQ太郎(1965年版) 、W3、戦え!オスパー
トムとジェリー、ビッグX、0戦はやと、少年忍者風のフジ丸 、王様の剣
エイトマン 、狼少年ケン 、鉄腕アトム 、わんぱく王子の大蛇退治 、鉄人28号 、わんわん忠臣蔵、宇宙家族ジェットソン 、ドラ猫大将 、仙人部落
ある街角の物語、101匹わんちゃん、アラビアンナイト・シンドバッドの冒険
ルーニー・テューンズ、安寿と厨子王丸 、ウッディー・ウッドペッカー(1940年版)
すて猫トラちゃん
桃太郎 海の神兵
くもとちゅうりっぷ 、ドルーピー
スーパーマン、アリチャン
べんけい対ウシワカ
新説カチカチ山
動絵狐狸達引
茶目子の1日、黒ニャゴ
なまくら刀
一般的な旭日旗の光線が十六条なのは、菊の御紋(十六葉八重表菊)に由来する。
戦後、軍の解体に伴って「軍旗としての旭日旗」の歴史は途切れたが、
1954年、自衛隊が発足するにあたり、帝国軍旗を受け継ぐ形で自衛隊旗として採用された。
近年、「韓国の旭日旗批判は2011年以降に作られた新しいもの」との風説があるが、
韓国や中国の過去のニュースを見ても、それ以前から「日本の軍国主義を思い起こすもの」として、
ただし韓国における「戦犯旗」という蔑称は2012年頃につけられたものである。
鉤十字。
ヒンズー教や仏教など、古くからさまざまな宗教や民間信仰で「幸運の印」などとして用いられてきた。
1900年頃から、「アーリア人」がヨーロッパ人の共通の祖先であるという思想(アーリアン学説)のもと、
ドイツ国内でハーケンクロイツは「最も優秀なアーリア人であるドイツ人の象徴」とみなされるようになり、
1919年に設立されたナチスもそれを踏まえて1920年に党旗をハーケンクロイツとした。
1933年にナチスが政権を掌握するとハーケンクロイツは国旗に準ずるものとされ、
終戦後、ハーケンクロイツはナチズムの象徴とみなされ、ドイツでは公の場での使用を禁止された。
1990年の東西ドイツ統一以降、ネオナチの活動が顕在化するにつれて、
ハーケンクロイツへの警戒も強まっている。
イギリスのヘンリー王子がナチス風の軍服を着ていたという2005年の問題をきっかけに、
ハーケンクロイツの使用をEU全域で禁止する法案が提出されたが、
これはヒンズー教徒の反対などにより阻止されている。
こうして見ると旭日旗とハーケンクロイツに大きな差はないように思われる。
特に「元は平和的な図案だったが悪質な政治に利用された」といった話は双方に共通する。
ただ、ハーケンクロイツが直接的に「(悪である)ナチスのシンボル」とみなされるのに対し、
旭日旗は「(悪である)大日本帝国の軍隊のシンボル」であるため、やや間接的な関係に思われる。
このあたりの印象の差があり、ハーケンクロイツほどには規制されなかったのだろう。
また近年のインターネットの普及によって、各国のナショナリズム的行動が可視化されたことで、
より大きく反発が起きるようになった面もあるのではないかと思われる。
旭日旗について言えば、
明治になってから軍旗として採用され、菊の御紋と重ね合わされる「十六条旭日旗」が、
皇国史観や軍国主義と結び付けて見られるのは仕方ないのではないか。
仮に旭日旗の使用を擁護するならば、「元は平和的な〜」や「奇誠庸が〜」などではなく、
「十六条旭日旗のみ」に問題を限定したり(この場合は海上自衛隊の自衛艦旗は変更することになる)、
「思想的なシンボルではなく軍旗にすぎない」ことを強調する(この場合は自衛艦旗としての利用は擁護するが平和的な場では使用を控える)、
といった点を前面に出したほうが良いのではないかと考える。
作家のマーク・トゥエインは、禁煙について書いてはいるが、このジョークを言ったというたしかな証拠はない。
コメディアンのW. C.フィールズは、1938年に「禁酒講義」というラジオ番組で、「禁煙」ではなく、「禁酒」バージョンのギャグを言っている。だが、禁酒バージョンのギャグは、これよりも前にすでに広まっていた。
最も早い事例は、1907年に、ハリス・ディクソンによって書かれた“Duke of Devil-May-Care”というタイトルの小説である。その小説には「ポーカーをやめるなんて簡単なことさ。俺はゲームが終わるたびに、1000回以上もやめているぜ」みたいなセリフがあるという。
マーク・トウェインと禁煙ジョークの関連を調べてみると、1914年に、友人のエリザベス・ウォレスという人に、禁煙をしたいという手紙を書いたらしく、そのときの手紙が「マーク・トウェインと幸せの島」というタイトルの短い伝記に書かれているが、ここで書かれているユーモアは、例の「名言」とは異なるものである。
禁酒法がまだ行われている間の1929年に、ネブラスカのオマハ・ワールド・ヘラルドという人が書いている。「ハリーは酒をやめると言うが、笑わせるぜ。酒をやめられないことなんてないぜ。なぜなら俺自身、もう100回以上も禁酒しているからな。酒をやめられるかやめられないか、これでわかるだろう」
1932年に、鉄道が刊行している“Norfolk and Western Magazine”という雑誌には、禁煙についてのジョークがある。
「車掌のキャンベルは、たばこをやめたと言った。スチュワートは言った。「たばこをやめるのは簡単だよ。私は少なくとも100回はやめているからね」」
1935年の“The American Legion Monthly”の中に、酒でトラブルを起こす製材所の従業員を、主任が解雇させようとしたという、やや長いジョークがある。
「じゃあ何で私が解雇されなきゃならないんです?」
「仕事中に酒ばかり飲んでるじゃないか。そんなことでは、人も殺しかねないぞ」
「それならわかりました。なに、お酒をやめるなんて簡単なことです。実際私は、この10年で1000回以上もやめてきましたから」
1936年の“The Southwestern Sheep & Goat Raiser”という雑誌に、いま知られているジョークと非常に近いバージョンのジョークがある。
先日、友人の一人が私たちに、禁酒なんて簡単なことだと言った。「私はもう1000回もしているからね」
1938年、W. C.フィールドは、「禁酒講義」というラジオの中で、こんなジョークを言っている。
禁酒できないなんて言わないで。簡単なことさ。俺はもう1000回もしている。
1938年10月に発行された“Scribner's Magazine”では、「私、たばこやめます」という記事を発表した。
ある若者が、医者から禁煙するよう命じられたが、それができないと不平を言ったところ、年をとったテキサス州民がパイプを一服しながら答えた。「禁煙なんて世界で最も簡単なことさ。俺はもう1000回もしている」
マーク・トゥエインと禁煙ジョークとの関係が最も早く表れるのが、1938年12月の“Journal of the American Medical Association”.である。彼が1910年になくなってからだいぶ後のものだが、この中に「マーク・トウェインは、これまでしてきた中で禁煙が最も簡単なことだ、なぜなら1000回もしてきたからだと言った」とある。つまり、マーク・トゥエインと禁煙ジョークは、彼の死後になって結びつけられたのである。
1941年に、カリフォルニアの新聞のコラムニストに、酒飲みが理由で解雇された人のギャグがある。
「あなた、酒飲んでるでしょう。仕事中に飲酒すれば、人を傷つけたり殺したりしかねません」
「わかりました。ではお酒をやめます。お酒をやめるなんて簡単ですよ。実際私は、この2,3年で少なくとも1000回はやめましたから」
これは、先の1935年の製材所の従業員が解雇されたときの話とまったく同じである。
1945年のリーダース・ダイジェストで、マーク・トゥエインの名言として、「禁煙は、私がこれまでしてきた中で最も簡単なことだ。なぜなら1000回もしてきたからである」が掲載されている。
公開が古くてフィルムが現存しない映画でも、映画サイトでは点(星)が付けられているものがいくつもあります。
殆どはイタズラ投稿だと思いますが、中には公開当時実際に鑑賞した人による評価もあるのかもしれません。
あったとしても見抜くことは出来ませんが。
※はてなにリンク数制限があるため直リンクを行っていません。「h__ttps」「h_ttp」の「__」を削除してください。。
h__ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80
4.1
h__ttps://filmarks.com/movies/18734
h__ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%82%88%E3%81%84%E3%81%A8%E3%81%93
3.8
h__ttps://filmarks.com/movies/20802
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3.6
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2.50 点 / 評価:2件
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本作の上映用プリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず[6]、マツダ映画社も同様である[7]。大阪藝術大学の玩具映画プロジェクトもフィルム断片を所蔵していない[8]。現状では、いずれも鑑賞の不可能な作品である。
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本作の上映用プリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず[9]、マツダ映画社も所蔵していない[10]。現状、観賞することの不可能な作品である。
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本作の上映用プリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず[5]、マツダ映画社も所蔵していない[6]。現状、観賞することの不可能な作品である。
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シナリオは現存しており、1993年(平成5年)刊行の『小津安二郎作品集 1』(井上和男編、立風書房)および、2003年(平成15年)刊行の『小津安二郎全集 上』(井上和男編、新書館)に収録されている[3][4]が、ネガ原版・上映用フィルムは現存されていない。
h__ttps://filmarks.com/movies/38460
3.6
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h__ttps://filmarks.com/movies/17416
3.6
h__ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BA%E6%82%94%E3%81%AE%E5%88%83
h__ttps://filmarks.com/movies/15024
3.9
h__ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E7%A4%BE%E5%93%A1%E7%94%9F%E6%B4%BB
h__ttps://filmarks.com/movies/29206
3.8
h__ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A4%A2
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3.7
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