はてなキーワード: 傲慢とは
先日、大阪府の吉村洋文知事が0歳児に選挙権を認めるべきという考えを示し、コレに対して愚策であるとするブコメが散見するという事態になったけれども「そもそも民主主義とはどういうシステムなのか?」を考慮すると、直感的に愚策と判断するのもわからなくはないが、実際のところ愚策とも言い難い「決して釈然とはしないが案外悪くはない・・・」「いやでも意思決定に関して能力の低い0歳児に選挙権を与えるのは大人としてどうなんだ・・・」「でも認知症の人も選挙権持ってるしな・・・」と困惑する程度には真面目に考えたい案であるのは間違いないのだ。正直に言って困惑するくらいがバランスの取れた姿勢なんじゃないかと思うが民主主義とはどういうシステムなのか改めて認識してみよう。
民主主義とは人口を背景とした意志の多様性により意志権力の分散を発生させ意志権力の一極集中を防ぐシステムである。
まぁそもそもより新しい形が出てこない限り、現在の形の民主主義とは人口に依存したシステム体系を持っていて、現在の形の民主主義ベースの政治体制を持つ国家が民主主義の保全保護をはかるという意味では人口の源泉足る家族集団へ対してより多くの票を与えるという考えは愚策と断言できるほど頭の悪いものではないんだ(何度も繰り返しているが"現在の形の"である。将来はわからん)。
もう少し具体的に言わないと理解できない人も居るかも知れないから具体的に言うが、我々の国は民主主義を取ることによって天賦人権説が国と有権者によって肯定されており、即ち我々の国の天賦人権説は人口に依存した形で運用されているのだ。
我々の国は神のための国でなければ王侯貴族のための国ではなく人民のための国であるが、それは民主主義システムを背景として運用されており、天賦人権説み言論の自由も表現の自由も信教の自由も性愛の自由も、あらゆる自由が人口を背景として運用されているのだ。0歳児選挙権はこれを心の底からマジで認識してから考えなきゃいけない。
更に付け加えると、あまりにも傲慢でかつ悪逆非道の物言いだが、LGBTQ+の性愛がなぜ違法でないのか?それはLGBTQ+の方々の懸命な活動によって我が国の民主主義を突き動かし民主主義を背景とする我が国の法がLGBTQ+の性愛の自由を認めたからだ。我が国の法は人口を背景として運用されているのだ。LGBTQ+の性愛の自由は人口に守られている。民主主義とはそういうシステムなのだ。
民主主義とは人口を背景とした意志の多様性により意志権力の分散を発生させ意志権力の一極集中を防ぐシステムであることを考えれば、事実上の権力者である政治家が0歳児選挙権を訴えることは自身に集中する現在の意志権力を削ぐことを意味し、民主主義国家の政治家の考えとしては不合格ではなく少なくとも合格ラインには触れる及第点以上は与えなきゃいけない考えなのだよ。
確かに「家族集団という意志権力へ対して意志権力の一極集中をもたらすのはどうなのか?」というのは真っ当な批判であり、前述したLGBTQ+の方々や子供を持たない人たちが苦しい思いをするのではないか?という懸念はもっともである。0歳児選挙権の大きな問題の1つであることは間違いないだろう。
このエントリの目的は「民主主義とはどういうものなのか?」と多くの人々が「0歳児選挙権へ対して直感的に愚策であると判断して思考停止に陥ることを防ぐ」ことにある。
どうかご一考いただきたい。
昨日から、NewJeansのプロデューサーであるミン・ヒジンと、元締めであるHYBEがこれでもかと揉めている。詳細は適当に調べてくれればいい。
そのとばっちりで改めて「NewJeansおじさん」がきもがられているわけだが、というのも、このニュースに注目して物知り顔で物申しているのがもれなくこの層だからだ。そもそも、ミン・ヒジンという裏方にやたら関心があるのもNewJeansおじさんたちの特徴であって、「にゅじたちが心配😭」とかつぶやいているようなティーンたちは、ミン・ヒジンが誰なのかもろくにわかっちゃいないだろう。
念のため、きもがられているNewJeansおじさんが中年男性である必要はない。ある特定の性質を持った人は誰であれ「NewJeansおじさん」なのであり、非おじさんにきもがられる立場にある。
この性質がなんなのかといろいろ考えてみたのだが、一言で言ってしまえば、「NewJeansを作品として鑑賞しようとしている」ということになるのかもしれない。NewJeansおじさんたちはもれなく鑑賞者であり、非おじさんたちはそうではない。
要は、おじさんたちはよくできた作品を求めているのであり、その価値を堪能したいのであり、それをもたらした作者や文脈について知りたいのだ。なんなら言葉を尽くして批評したい。
残念ながら、ティーンたちからすればおじさんたちのこのようなふるまいはかなりきもい。非おじさんたちからすれば、肝心なのはまずもってメンバーたちであり、そのかわいさであり、人生である。推しの幸せが一番なのであって、彼女たちをひとつの作品の一部としてモノ化する視線をそもそも持っていないのだ。
ここには、決してわかり合えないふたつの態度がある。おじさんたちはNewJeansメンバーたちのVlogなんて見ないし、非おじさんたちはミン・ヒジンのインタビューなんて読まない。
いま、NewJeansはミン・ヒジンを追ってHYBEを去るか、ミン・ヒジンと手を切ってHYBEに残るかという選択を実質的に迫られている。言うまでもなく、おじさんたちがより望んでいるのは前者であるが、おそらくティーンたちにとってより好ましい帰結をもたらすのは後者だ。ミン・ヒジンの世界観、おじさんたちを引き寄せていたあの芸術性を失うことは、芸術作品としてのNewJeansの終わりを意味するが、「推す」側はそもそも芸術性なんて気にしていない。非おじさんたちはなんであれ愛を注ぐのだから、GODSみたいなクソしょうもない曲を連発して人気が停滞したところで、愛がより加速するだけだ。
おじさんばかりがきもがられるのであえて言うが、対象のクオリティを度外視してひたすら「推す」というのは、それはそれで無責任だし傲慢なふるまいだ。
「かわいい」「頑張ってる」ぐらいしか評価軸を持たないファンたちは、今回の件がこじれてNewJeansがいよいよ落ち目になったとしても推し続けるのだろうが、それにだって限度がある。そのうちどうせ、ILLITなんかに乗り換えるのだろう。
そして本当にひどいことに、HYBEに代表される大手企業は、このような乗り換えを推奨するかのごとく次から次へと新人グループを量産しては既存のグループを切り捨てていっている。良い作品を良い作品としてじっくり長く嗜む、という鑑賞的態度が廃れているばかりか、「推し」に対立する態度としてけなされている現状が、このようなビジネスモデルを助長していることは言うまでもない。
いくらかわいくて頑張っていても、作品として劣っていては意味がないだろうと、そう思う私はNewJeansおじさんである。多少なりともそう思うのであれば、あなたも多少はNewJeansおじさんである。
自分の言いたいことが伝わればいいという発想で言葉をとらえ、相手が期待しているキャッチボールを理解しないと、
英語で話しかけていようが現地語で話しかけていようが、それは日本語で話しかけているも同然だ。
日本では、お客様は神様という文化だから、お店の人が挨拶してきても黙ってればいいし、何か応答したいときも表情だけで伝えればいいことが多い。
「またのご利用お待ちしております。」に慣れていると、よその国のスーパーのレジでエンジョイユアディナーなんて言われてレシートを渡されるとなんて答えていいかわからない。
エレベーターに乗り込んだ時に、すでに見知らぬ人が中にいたときに、目が合えばお互いに「どうも」という習慣がある国だってたくさんある。
日本人はウチとソトの使い分けがあって、組織内部や取引先などの目上の人に対してはバカ丁寧なあいさつをし、目下にはガキ扱いなコミュニケーションをしがち。
そのくせに、外では無礼でも乱暴でも気にしない。お店や公共サービスへの度を越したクレームとか、自動車同士のいざこざとか煽り運転とか、そういうのはソトでのコミュニケーションスキルの欠如なんだよ。
見知らぬ人とのコミュニケーションは苦手。だから海外にいっても、その国では見知らぬ人同士で普通はするだろう挨拶や習慣をガン無視しがちなんだよね。
相手からすると、挨拶もできないくせに、自分の聞きたいことだけ英語できいてくる、みたいな失礼な態度にみえてしまう。
日本人は横柄で傲慢、なんか壁があるけどだけど外国人だからしょうがないか、なんだよね。
特に日本の組織文化の内輪のコミュニケーションに慣れ切った中年以降の日本人にそういう傾向が強いと感じる。
こういう傾向が自分たちのなかにあるって知ることは言葉を学ぶ上で、文法やボキャブラリー以上に重要なことだと思う。
このAI時代、見知らぬ土地で翻訳に苦労することはかつてほどなくなった。その意味ではユニバーサル言語として英語を勉強する必要すらない時代になってきた。
スーパーでスマホをかざせばアラビア語やベンガル語の商品名がわかる、みたいなボキャブラリーを身に着けなくとも、言葉がわかるようになってきた時代。
元増田は
とかドヤ顔でいってるけど、いまやポケトークがあれば、たいていの言語が対応していて、もはやオール日本語で通してOKだよ。
見知らぬ国で交通事故に巻き込まれ病院で何か聞かれたとしても、翻訳機とグーグルレンズで乗り切れるだろう。
でも、そこまで便利な時代になってなお、言葉を学ぶ意味があると思うのは、例えば
「ごきげんよう」に対して、「あなたもね」と返す文脈がその国にあると知ることができるからだ。
しかし、日本人は内輪の空気には敏感で、仲間内で自分がどうみられるかには気を遣うけど、ソトのひとからどうみられるかにあまり関心がない。
そのうちAiもさらに進化して、こういうときにはこういう返事をしなさい、と教えてくれるかもしれないけど、
もうそうなったら人として終わりだと思う。
ちょっと誤解させちゃってる。すまん。
私はそもそも店主の態度はよくないと思ってる。
別増田(20240420191507)にも書いたけど、日本語しか対応しないのは自由なんだけど、私が思い描く理想的な店主なら、ニコニコしながら「ごめんなさいねぇ、うちは海外のお客さんだと難しいんですよねぇ」と伝えてほしい。
これはちょいと尊大な表現だけど、仮に相手が傲慢カップルだったとしたらなおのこと、むしろ太陽のような日本人の柔和で温厚な品位を見せつけて、なんなら相手が自分たちの傲慢さを恥じ入るレベルにまで感化してほしいとさえ思ってる。
私は脳天気なので、登場人物が全員温厚で平和な理想の世界が大好きで、店主もお客さんも善良であってほしい。
でもあいにく、店主のツイートの、特に後半の「日本語で答えてやった。ここは日本だ。俺も英語の国に行ったら英語を喋る。日本では日本語を喋る努力をしろ。無理なら通訳を連れて来い。」からは、善良な人物像は描けなかったんだよ。
でも、あなたの言う「さんざん迷惑外国人に苦労させられた挙げ句の可能性」は、店主に対する思いやりを持ったあなたの立派な解釈だと思う。
それでも、「ひどい仕打ちを受けてきたから、それを他の外国人にもぶつけてしまう」ストーリーより、「ひどい仕打ちを受けてきたのに、それでも外国人に親切に接しようとする日本人のホスピタリティってなんてすばらしいんだ」みたいなストーリーのほうが、みんな大好きだよねぇ?(それはそれで卑屈な奴隷根性だと批判するのかもしれないし、その気持ちもわかるけど…)
設定というか、善意の解釈のひとつね。真実は傲慢カップルだった可能性もぜんぜんあるよ。でもわたしは、善意の解釈が大好きだって言うだけ。
で、先制攻撃と解釈しているのは、私ね。カップルにとっては単に「自分たちにはわからない日本語」だったんじゃないかな。
ただし、元ツイートの雰囲気から察するに、店主が温厚な雰囲気で発言したとは思いにくい。善意の解釈が大好きな私でさえ、店主のことを善意には解釈しにくい。残念だけど。
なので、カップルも「入店したらいきなり日本語でまくし立てられた」と感じたんじゃないかなあと言うのが、私の解釈。「ポカン」というのも、「びっくり面食らった」という解釈ね。
そして、「ええと、日本語がわかんなくて申し訳ないんですけど、"nihongo"だけはなんとか聞き取れたし、ひょっとして(日本語メニューしか置いてない=)英語メニューがないという意味でしたか…?」ということを言いたくて、でもそんな高度な日本語表現はできなくて、でもでも今までの日本での経験から、「no english menu?」くらいは通じるんじゃないかと期待して、おそるおそる尋ねてみた…という解釈。
私は一度30万円の借金を親に肩代わりしてもらったことがある。競馬で溶かし、首が回らなくなったから。もうやらない。そう決めたはずなのに。また資金が底をついた。今日だけで6万円負けた。来月のクレカの支払いは35万。バイト代では賄えない。大学も4回生になって私は何をしているのか。もう死にたい。人間は変わらない。カフェインに依存し、ギャンブルに依存し。コンサータでも抑えきれない衝動と、コンコルド効果で破滅する。死にたい。死んだほうがいい。助かりたい。そんな罪悪感で死にたい。頭が回って眩暈がして現実感がどんどん薄れていく。こんな繰り返しばっか。人間は変わらない。変われない。変わるのは環境だけ。自意識過剰な私がまた親に告白する。怖くて耐えられない。そうして助かろうとする自分が許せない。変われない自分が憎い。こんな気質の私自身が憎い。死にたい。死にたい。楽になりたい。助かりたい。自分に責任を持ちたくない。怠惰で傲慢。生まれた時から欠陥品。ごめんなさい。私みたいな人間と血縁関係があるなんて。そんなことないよ、じゃなくて。社会的に終わってるんだもん私。今までありがとう。ごめんなさい、また今度。
英語話者の傲慢さという、大正義の巨大テーマの存在感が大きすぎるのはわかる。わたしもそういう傲慢な英語話者は嫌いだ。
でも、今回のケースが、「こんにちは」「ありがとう」「ごめんなさい」くらいの初歩日本語をちゃんと覚えてきた善良な観光客カップルが、最初に店主からの先制攻撃を食らって萎縮しまくった上での、「Sososo, sorry... (you mean,) nnn no English menu...(´;ω;`)?」だったという解釈の余地とか、は、1ミリもないものかな?
いや、あなた自身が「そんな解釈はできない!傲慢観光客だ!」という解釈をするのもまた、ありだとは思うんだけど、それがはてなーの多数派だったことに、私は悲しくも驚愕しているよ…。
マイノリティー・障害者がマジョリティー、健常者の社会に交じってるから軋轢があるんであって。
マジョリティー・健常者様が生み出した余裕をお情けで使わせてもらって、マイノリティー・障害者の社会を構築すればいいんじゃないですかね。
やっぱ現地語覚えなきゃ失礼だとか、迷惑をかけちゃいけないとかすごいマナーに厳しくていい人たちなんだな。
むかしは海外行っても現地の人のことなんか何も気にしてなかったもんな。
横柄で傲慢で。
俺はたまご大好き!
割ってシュート!
割ってシュート!
割ってシュート!
割ってシュート!
割ってシュート!
喰う!
俺はなんら恥じることなくたまごを食しているが、このゴミはすこし恥ずかしかった!
それにゴミ袋のスペースもあまり有効活用できていないようでもったいない!
割ってシュート!
割ってシュート!
割ってシュート!
割ってシュート!
割ってシュート!
喰う!
落ち着いたら殻用袋をパンパンと挟み潰す!
さすが生命のゆりかご、硬てぇぜ!手のひらにグサグサ感じるぜ!
しかし目算通りスペースすっきり、粒が粗い粉状に近づいた!
袋が破けた!
…負けたぜ!
これは手を汚さずに殻を潰したいという俺の傲慢さへのバベル・ストライクと受け取った!
あぁ~あわかったよ神さンよ!
握りつぶせばいいんだろ!
俺にこの手を汚せと言うんだろ!
潰す!手のひらから血が流れようとも!
俺は!たまごを!食し続ける!
言うまでもなく、あらゆる芸術作品は先人が築いた選考作品の上に立っている。
作者本人の自覚の有無に関わらず、オリジナルのイラストを描くという行為は先人たちの築いた作品から要素をパクるということに他ならない。
どうも、無断学習禁止を訴える反AI絵師たちには先人のイラストレーターたちへの敬意が欠けているように思われるし、そういう傲慢さがここまでの反感に繋がっているように思われる。
反AIの絵師たちは、自分の絵柄を自分の独力で作り上げたと盲信している。
日本と交流のないアフリカの未開の部族に「人間のイラストを描いてください!」と言ったとする。
彼らは絶対に「顔を平面的にして目は通常の1.5倍〜2倍程度の大きさに強調、鼻を省略し、口は上下の唇の厚みを省略して辛うじて口元の表情だけがわかるようにして髪の毛は毛束を組み合わせたパーツとして描写する」なんてことをしない。
人間のイラストを描くときに上記に挙げたような表現をしてしまう人は、既存の漫画イラストを無断で学習しているからである。
「無断学習禁止!」などと声を上げる絵師たちは自信らの無断学習とAIによる機械学習をどう切り分けて考えているのか。
「無断学習禁止!」と声高に言えば言うほど「結局反AIって自分より上手い絵を出力できる人間が何万人単位で増えるのが気に入らないってだけでしょw」という反感ばかりが募るのがわからないのだろうか。
AIに賛成しようが反対しようが構わないが、AIイラストの仕組みを理解せず村ルールに固執して論理の通らない幼稚な意見ばかりを言い続けていては、結局世間的な理解は得られないと思うのだが。
「一方的な愛情を向ける」というのが何を指しているのかというと、まあ端的に「自分と今後一切関わりを持つことがないであろう有名人」とか「2次元のキャラクター」だとか、そのあたりのことだ。
人から愛情を向けられるというのはとにかく恐ろしい。私は、自分というものを正しく認識することができるのは他の誰でもない「自分自身のみである」と思っていて、そこにひとを介入させること、それどころか私を解釈する余地を人に与えること自体がとにかく末恐ろしい行為だと思っている。
近日、「蛙化現象」という言葉があたかもミームのように流行った。流行ったそれ自体は誤用ではあったが、いっとき社会現象にまでなった。
あるとき自分を分析してみたら、単に自己肯定感がすこぶる低いだけという訳ではなく、その自己肯定感の低さの中に同じくらいの「自身の持つ気高さへの陶酔」を抱えていることに気づいた。
これが、適当な意味で使われた時の「蛙化現象」を自身が引き起こすときの根底にあるんだろう。
己のことを、何よりも愚かでおぞましくて汚いゴミみたいな人間だと本気で思っていて、だけどそれと同時に「そんな自分のことを理解し寄り添ってくれるのは自分だけ」だとも思っている。改めて文章に起こしてみるととんでもない自慰行為である。
だから、「自分のいちばん近くで自分を理解し寄り添ってくれる」、所謂恋人のような存在を作ることが怖い。
ここまで話した上で怖い、という言い方を今更しても自己保身でしかないので、言い換えると 「嫌」 なのである。紛れもなく。
だから、「私を瞳に映すことがない」「私の本性に介入することがない」「こちらもあなたを知ったような顔で語るつもりもなければ知るつもりもない」ような存在に陶酔することがいちばん心地よくなる。前述した「一方的な愛情を向ける」ということを長々と噛み砕いてみると、恐らくこんな感じ。
本題。
私は、ひとりの人間のことがすごく好きだ。 仮にAと置く。
特定されることは意図していないので、この記事を書く上で必要な最低限の要素だけ取り出して、尚且つ暈しを加えながらAのことを説明すると、主に言葉を書いているアーティストである。
ただ、私は自分のことをちゃんちゃら性善の擬人化のような人間であると思っていて、そうなるとここで既に矛盾が生じている。
「自分がされて嫌なことを人にしてはいけない」、凡その人が義務教育中には会得するだろう一般論である。性善の擬人化なので、勿論日頃からこれを踏まえた行いを心がけている、のに。
私は、なんの関わりも無ければ何も知らない他人に、Aに、心底惚れている。
世に出ているAの書いた言葉は辿れる限り辿った。特に好きなフレーズを自分の中に書き留めて、反芻してをひたすら繰り返していた。
そもそも私は頭のいい人が好きなのだが、それだとアバウトすぎるので最近は「素敵な言葉を紡げる人が好き」と形容している。
要は、私はAのことをきわめて頭のいい人間だと思っている。
だから凄く辛い。
「自身の尺度で他人の持つポテンシャルや性格を測る」ことって、きっと凄く馬鹿馬鹿しいことなのに。
なのに、私はAの持つ性格上の性質や口調、趣味、その趣味を持つにあたっての根本の考え方、友達への接し方とファンへの接し方の違い、それを産んでいるであろう根底の考え方、その全てが好きで、そんな自分の盲目さと当人への申し訳なさが、果てしなく苦しい。
Aが紡いでいる「言葉」というものをもう少し詳しく話すと、架空の人物の言葉の代弁だったり、まあカテゴライズするのであれば「詩」だろうな、というものが多数。
ただ、その中に、さながら自伝のようなものがチラホラと存在する。
とどのつまり、どうしてもその言葉を紡ぐに至った、その考え方に至った思考回路やバックグラウンドを空想してしまう。
まあ、ただ考察するくらいなら至って個人の自由だとも思う。ただそれを「Aのことが好きな理由」として自分の中でつらつらと並べている自分自身が恥ずかしくて苦しいのだ。
どの角度から見ても考えすぎである。これを書きながら自分自身でも「素直に好きって言えばいいじゃん」と思っている、が、プライドと自分の性質がそれを許してくれない。
薄々感じている方も居るだろうけれど、これだって「厄介ファン」だ。紛れもなく。
私がAの言葉を好きなことは事実で、それを産んだA自身のことが好きなのも事実だ。
だけど、「自分と関わりのない人に心酔することで得られる心地良さと安心感」を求めている節が、間違いなく存在している。
私は、自分が仮に有名な活動者だとして、自分の全く知らない人が水面下で自分に対してこんな感情を膨らませてつらつらと文章を書き連ねていたら、そりゃまあめちゃくちゃに恐ろしいなと思う。
拗らせ具合に対してもだが、やっぱり「例えその考察が事実であろうと、他人が私の秘めたる感情を時間をかけて推察している事実」に不快感を抱く。
自分を測られることへの不満や知った口を聞かれる不快感、「特定の誰かに宛てた言葉では無い」ということを全面に押し出すような書き方。
そんな書き方をしているのに、分かり易く示してくれているのに、その言葉を自分の中で大事に大事に仕舞っていることが極めて愚かであると感じる。
あくまでも自伝であるのに、その言葉に共感したり感銘を受けている私が。
だけど、好きなのである。どうしても。
人に測られたくないから、きっと私と同じような考え方を持っているAの言葉と性格に惹かれる。
けど、この「きっと」こそが人を測っているに他ならない。
だから、絶対にAに近寄りたくない。 答え合わせをしたくもない。 これはほんとうに仮の話だが、何かの縁でAと知り合いになり、友人になり、推察が上手いこといって、同じような考え方なんだね!なんてことになってしまったら。
私はこんなにも好きなAのことを好きなままでいられるのか、わからない。
乱雑でこんがらがったままだけれど、自分の感情を推察する余地を他人に与えられるようになるまで、きっと今後とも手の届くことの無い誰かにひたむきな好意を向け続けるのだろうなと思う。
最初の方に綴った通り、自身を高尚な人間だと奥底の方で謳っていることがこの現象の原因だと考えられるので、まずはその傲慢さを取り払わないことには私は一生ひとりぼっちである。
「他人に一方的にひたむきな愛情を向ける」ことは、すごく明瞭だ。ただ、そろそろ成長したい。ひとからの好意を受け入れたい。自身の根本を推察されることを拒絶したくない。
とにかく、この半ば依存のような好意をとやかく向ける行いはそのうち卒業する予定だ。
このジレンマから抜け出せて、しがらみが解けきったときに、私が至って健全な「好き」をAに向けることが出来ていたらすごく嬉しいなあ、と思います。