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はてなキーワード: 西郷とは

2017-09-16

anond:20170916230820

ガチ西郷発言をすればいい話しもあるんだけど、日本主義シンパの人はそんなのわからいから。だから微妙スルーした。

単に「下が上に従って、上の自己愛を満たす社会であれば素晴らしい」でしか無いし。

ま、日本会議的なものダメだというのが一般市民に伝わってきたからいいわ。

あと、日本会議的な人にとっては単に自分が気に入らない奴が在日というよーわかるケースだしね。

眞子様彼氏すら半島人認定した方々はさすがレベルが違う。

anond:20170916225336

西郷って政府へ反逆して死んだんだけどそういうことになってんのか

2017-07-16

https://anond.hatelabo.jp/20170716154421

真実が全てで偽りの歴史は破棄しろなんて誰も言ってないし、

そもそも、やっぱり西郷の顔はあんなんだった、やっぱり直虎は女だった、

って説が普通に盛り返してきてもおかしくないのが歴史学から

2017-06-30

マスコミ同士の忖度が凄い

匿名報道

TBS家宅捜索 社員女性危険ドラッグかけた疑い 警視庁

http://www.sankei.com/affairs/news/170621/afr1706210035-n1.html

TBSテレビの50代の男性社員女性の顔に液体をかけ、けがを負わせた疑いがあるとして、警視庁久松署が今月、傷害容疑で、TBSテレビ男性の自宅などを家宅捜索していたことが21日、捜査関係者への取材で分かった。久松署は男性任意事情を聴いており、容疑が固まり次第、書類送検する方針

 捜査関係者によると、男性社員TBSテレビ海外事業部に勤務。今年4月、東京都中央区ホテルで30代女性に無理やり液体をかがせようとして顔にかかり、約1週間の炎症を負わせたとして、女性が久松署に相談していた。

タクシー運転手暴行

NHKディレクター書類送検

https://mainichi.jp/articles/20170629/k00/00m/040/048000c

警視庁渋谷署は28日、タクシー運転手暴行したとして、NHK制作局の40代男性ディレクター傷害容疑で書類送検した。NHKによると、ディレクター来年放送大河ドラマ西郷(せご)どん」の演出担当する予定だったが、担当から外した。

 書類送検の容疑は、4月19日未明東京都渋谷区タクシーに乗ろうとした際、60代の男性運転手トラブルになり、暴行を加えて腰を骨折するけがをさせた疑い。当時、酒を飲み酔っていたという。

 NHKによると、ディレクターは「申し訳ないことをした」と話している。NHKは「運転手の方や関係者に深くおわびいたします。捜査の状況を踏まえ、厳正に対処します」とのコメントを出した。【屋代尚則、春増翔太】

これも匿名報道。別の報道ではタクシー運転手は全治3ヶ月の大怪我らしい。

マスコミ天下りを受け入れれば、重箱の隅を突くような報道はされないし、自分らの不祥事もお互いに忖度しあうんだから、素晴らしいねマスコミって

2017-05-19

原因・背景[編集]

1871年(明治4年)10月宮古島から首里年貢輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風遭難した。乗員は漂流し、台湾南部に漂着した。船には役人と船頭・乗員合計69名が乗っていた。漂着した乗員66名(3名は溺死)は先住民現在台湾先住民パイワン族)に救助を求めたが、逆に集落拉致された。

先住民とは意思疎通ができなかったらしく、12月17日遭難者たちは集落から逃走。先住民は逃げた者を敵とみなし、次々と殺害し54名を斬首した(宮古島島民遭難事件)。12名の生存者は、漢人移民により救助され台湾府の保護により、福建省の福州経由で、宮古島へ送り返された。明治政府清国に対して事件の賠償などを求めるが、清国政府は管轄外として拒否した。翌1872年明治5年琉球を管轄していた鹿児島県参事大山綱良は日本政府に対し責任追及の出兵を建議した。1873年(明治6年)には備中国浅口郡島村現在岡山県倉敷市)の船が台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件が起こった[1]。これにより、政府内外で台湾征討の声が高まっていた。

開戦準備へ[編集]

副島種臣

宮古島台湾遭難事件を知った清国アモイ駐在アメリカ合衆国総領事チャールズルジャンドル(リゼンドル、李仙得)は、駐日アメリカ公使チャールズ・デロングを通じて「野蛮人懲罰するべきだ」と日本外務省提唱した。

初代龍驤台湾出兵旗艦であり副島種臣大久保利通をそれぞれ、中国に運んだ。

孟春(砲艦)は三本マストスクーナー型鉄骨木皮の小型砲艦で、台湾出兵に参加した。

外務卿副島種臣はデロングを仲介しルジャンドル会談、内務卿大久保利通ルジャンドル意見に注目し、ルジャンドル顧問として外務省雇用されることとなった。当時の明治政府では、朝鮮出兵を巡る征韓論などで対立があり、樺山資紀や鹿児島県参事大山綱良ら薩摩閥は台湾出兵を建言していた。これらの強硬意見の背景には、廃藩置県によって失業した40万人から50万人におよぶと推定される士族の不満のはけ口を探していたことがある[2]。

1873年、特命全権大使として清国に渡った副島外務卿は随員の柳原前光を用いて宮古島台湾遭難事件などの件を問いたださせたが[注釈 1]、清朝の外務当局は、台湾先住民は「化外」であり、清国統治のおよばぬ領域での事件であると回答して責任回避した[1]。その後、日本ではこの年秋、朝鮮使節派遣をめぐって政府が分裂し(明治六年政変)、また、翌1874年1月の岩倉具視暗殺未遂事件、2月の江藤新平による反乱(佐賀の乱)が起こるなど政情不安が昂じたため、大久保利通を中心とする明治政府国内の不満を海外にふり向けるねらいもあって台湾征討を決断し、1874年明治7年)4月、参議大隈重信台湾蕃地事務局長官として、また、陸軍中将西郷従道台湾蕃地事務都督として、それぞれ任命して軍事行動の準備に入った[1]。

明治六年政変における明治天皇勅裁は、ロシアとの国境を巡る紛争を理由とした征韓の「延期」であったため、ロシアとの国境が確定した際には、征韓派の要求が再燃する可能性が高かった。政変下野した副島にかわって外交を担当することとなった大久保としては、朝鮮よりも制圧が容易に思われた台湾出兵をむしろ積極的企画したのである

台湾での戦闘[編集]

西郷従道

台湾出兵に対しては、政府内部やイギリス公使パークスやデロングの後任のアメリカ公使ジョン・ビンガム(John Bingham)などからは反対意見もあった。特に参議木戸孝允らの長州系は征韓論否定しておきながら、台湾への海外派兵をおこなうのは矛盾であるとして反対の態度をくずさず、4月18日木戸参議辞表を提出して下野してしまった。そのため、政府は一旦は派兵の中止を決定した。

台湾出兵時の日本人兵士

水門の戦 最も激しい戦いであった。当時の日本人による版画[3]

国立公文書館が所蔵している公文書によると1874年4月4日三条実美により台湾蕃地事務局が設置される。(以後の任命は当時太政大臣であった三条実美からの奉勅となっている)同年4月5日台湾蕃地事務都督に西郷従道が任命される。[4]同年4月6日谷干城赤松則良に台湾蕃地事務局参軍と西郷従道を輔翼し成功を奏する事を任命される。[5]同年4月7日海軍省から孟春艦、雲揚艦、歩兵第一小隊、海軍砲二門と陸軍省から熊本鎮台所轄歩兵大隊砲兵一小隊出兵命令が命じられる。[6]という経緯になっている。

5月6日台湾南部上陸すると台湾先住民とのあいだで小競り合いが生じた。5月22日台湾西南部の社寮港に全軍を集結し、西郷命令によって本格的な制圧を開始した[1]。6月3日には牡丹社など事件発生地域を制圧して現地の占領を続けた。戦死者は12名であった[1]。しかし、現地軍は劣悪な衛生状態のなか、亜熱帯地域風土病であるマラリアに罹患するなど被害が広がり、早急な解決が必要となった。マラリア猖獗をきわめ、561名はそれにより病死した[1]。

収拾への交渉[編集]

明治政府は、この出兵の際に清国への通達をせず、また清国内に権益を持つ列強に対しての通達・根回しを行わなかった。これは場合によっては紛争の引き金になりかねない失策であった。清国の実力者李鴻章イギリス駐日大使パークスは当初は日本軍事行動に激しく反発した。その後、イギリス公使ウェードの斡旋で和議が進められ、8月、全権弁理大臣として大久保利通北京に赴いて清国政府交渉した。大久保は、ルジャンドルフランス人法学者ボアソナード顧問として台湾問題交渉し[7]、主たる交渉相手総理衙門大臣の恭親王であった[1]。会談は難航したが、ウェードの仲介や李鴻章の宥和論もあって、10月31日、「日清両国互換条款(zh)」が調印された[1][7]。それによれば、清が日本軍出兵を保民の義挙と認め、日本は生蕃に対し法を設ける事を求め、[8]1874年12月20日までに征討軍を撤退させることに合意した。 また日清両国互換条款互換憑単によると清国遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払い、40万両[注釈 2]を台湾の諸設備費として自ら用いる事を願い出費した。[9]また、清国日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球日本帰属国際的に承認されるかたちとなった[1]。

帰結[編集]

日本清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球だったが、この事件の処理を通じて日本に有利に働き、明治政府は翌1875年明治8年)、琉球に対し清との冊封朝貢関係廃止明治年号使用などを命令した。しか琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

1879年明治12年)、明治政府のいわゆる琉球処分に際しても、それに反対する清との1880年明治13年)の北京での交渉において、日本沖縄本島日本領とし八重山諸島宮古島中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島領有は望まず、冊封関係維持のため二島琉球に返還したうえでの琉球王国再興を求めており、また、分島にたいする琉球人の反対もあり、調印に至らなかった。

また、明治政府兵員輸送英米の船会社を想定していたが拒否され、大型船を急遽購入して国有会社の日本国郵便汽船会社に運航を委託したがこれも拒否され、大隈重信はやむなく新興の民間企業である三菱を起用することに決定したが[10]、この協力により、以降、三菱政府からの恩恵を享受できることとなり、一大財閥になるきっかけとなった[11]。

台湾出兵と熱帯病[編集]

被害[編集]

日本軍の損害は戦死8名、戦傷25名と記録されるが、長期駐屯を余儀なくされたため、マラリアなどの感染症に悩まされ、出征した軍人軍属5,990余人の中の患者延べ数は1万6409人、すなわち、一人あたり、約2.7回罹病するという悲惨な状況に陥った。

軍医部の対応[編集]

1871年(明治4年)、兵部省は、陸軍省海軍省に分かれ、軍医寮は陸軍省に属し、軍医頭は松本良順(のちに順)であった。台湾出兵当時、軍医部は創立より日が浅く経験不足であったが、総力を挙げて事態にあたった。出征軍の医務責任者は桑田衡平二等軍医正(少佐相当)、隊付医長は宮本正寛軍医大尉相当)であった。他に24名の医官を従軍させた。医官は全員奮闘したが、極悪の環境と猛烈な伝染病で病臥する者が多く、西郷都督からは薬だけでも兵士にあたえてほしいと要請された。医官の多くは漢方医で、熱帯病の治療にはまったく経験がなかったという。かれらは交代の22名が到着したため、ようやく帰国できた。宮内省から外国人医師が派遣された。ドイツ出身のセンベルゲル(Dr. Gustav Schoenberg)は、東京大学医学部前身にあたる大学東校お雇い外国人医師レオポルト・ミュルレルの推挙であったが、能力がなくトラブルを起こした。しかし、彼とともに送られた6台の製氷機械は大いに役に立ったといわれている[12]。

2017-05-04

http://anond.hatelabo.jp/20170504173504

いや、巻数は初登場巻だ

正確にマッチョ系(ゴルゴ系)の歴史を書くと

星逃田17巻~

後流悟十三24巻に一度だけ登場

ボルボ西郷(54巻~

左近寺(99巻~

左近寺への切り替えなんてしなくても、

別にボルボゲームマニアって設定にすれば済む話だと思うんだが

100巻以降ではそれぞれが共演してたり後流悟が再登場したりするようだが、面白くないから読みかえす気ない

こち亀読み返してるんだが

マッチョ担当ボルボ西郷(54巻)から左近寺(99巻)に切り替わってから微妙だな

そもそも、なんで切り替えたんだろ

2017-04-17

http://anond.hatelabo.jp/20170417111305

まず西郷男色を好んでた、なんて史実存在しない

典型的腐女子作家が、いつも勝手他人ゲイだと決めつけ、性的消費と名誉毀損を同時にやってることと同じ

それと公式ではっきるBLと言った以上、その言い訳はたとえ史実であったとしても通らない

2016-11-02

何で大河って男色を無かったことにすんのかなぁ

西郷でやっと初のホモ要素が出てくるらしいけど、そもそも日本の歴史と言えばホモやん

信長が利家との関係をのろけたり、農民育ちでホモ理解できなかった秀吉が、体面を繕うために美少年を雇ったりするくらい当たり前にホモやん

何でことごとく無かったことにされてるんやろ

男女の恋愛捏造してでも中心に盛り込む熱心さなのに

2016-07-23

日本起源説(2chで見つけたコピペ)

日本起源説

石川県・・・石川県の"モーゼの墓"は税金管理されている』

青森県・・・梵天山の釈迦堂山には"釈迦の墓"がある』

広島県庁・・・広島県庁社団法人広島県観光連盟は葦嶽山を"世界最古のピラミッド"と発表している』

青森県新郷村・・・新郷村役場は"キリストの墓""キリスト遺書"の存在公式に認めている』

出口王仁三郎・・・日本人シュメール起源説』 『世界最古の文明を作ったのは日本人

日本画家鳥谷幡山】・・・ピラミッド日本起源説』 『日本ピラミッド発見

漢方医学中山忠直】・・・日本ユダヤ共同起源説

国学者大石凝真素美・・・神代文字論』

牧師勲五等酒井勝軍・・・日本ユダヤ共同起源説』『ピラミッド日本起源説』 『日本ピラミッド発見』『古代イスラエルオニックスを日本発見

アイヌ研究家小谷部全一郎・・・源義経ジンギスカン説』 『日本ユダヤ共同起源説

【皇祖皇太神宮神主竹内巨麿・・・竹内文書』 『神代文字』 『日本人類発祥の地』 『モーセキリストムハンマド釈迦来日天皇に仕えた』 『青森で"釈迦キリストの墓"を発見

政治家考古学地質学山根キク】・・・キリスト日本渡来説』『青森キリストの子孫を発見

日本探検協会事務局長幸沙代子】・・・漢字発明したのは日本人

東大経済学部探検協会会長高橋良典・・・『太古、日本の王は全世界を治めた』

【帝大(東大)卒歴史学者木村太郎・・・世界文明起源日本だとする"新史学"を提唱』 『世界中古代遺跡日本人によるもの』 『邪馬台国古代エジプトにあった』

ホメロスの「オデュッセイア」は「平家物語」や「太平記」を元に書かれた』『ムハンマド日本神話の本牟知別命であり桃太郎。この伝説英国に伝わり「ハムレット」になった』

ソクラテス日蓮プラトンは日昭』 『西郷隆盛自刃せずベトナム脱出した。"サイゴン"は"西郷"の名からつけられた』 『イタリアシシリアン江戸の町奴だった』

2016-01-22

明治政府退職しました

去る明治6年10月24日、私江藤新平明治政府を辞職し下野することになりました。

皆さんご存知の通り、私は征韓派でありまして、志を同じくする西郷氏、板垣氏、副島氏、後藤氏とともに陛下にその重要性を述べてまいりました。

しかし、こうした動きに対して、あえて隠す必要もないかと思いますが、大久保利通氏が強硬に反対しておりました。

無論大久保氏の言い分は充分に解っているつもりです。朝鮮を征伐することが国際的不安をもたらす、と。

その通りかもしれません。しかし我々は西郷氏を挑戦へ派遣することを閣議で決定していたのです。

どうして岩倉氏は両論を陛下に奏上したのでしょうか。三条さんはぶっ倒れてるし。


ええ。負け惜しみです。大久保さんの方が一枚も二枚も上手でした。

今年明治7年、私たち民撰議院設立建白書という文書政府左院に提出しました。

ええ、負け惜しみ反動です。これから政府官僚だけでなく、人民が広く政治に参加して、同じ意見の人々が政党を作り、その意見政権に反映されるべきなのです。

負け惜しみです。だからこそ、この立場政治を考えたいのです。この動きは絶対に広まっていくでしょう。何百年もかけてね。その礎にしたい。板垣君が頑張っています

最近故郷佐賀がなんだか騒がしい。士族鬱憤が溜まっていると伝え聞いています

なんだかそういうの聞いていると、故郷に帰りたくなってきます

みんな何故かめちゃくちゃ私が故郷に帰ることを止めようとしてきました。

故郷が同じ大木君なんかめっちゃやめろ! って言ってきます、笑。 退職したんだから別に良いじゃんw

板垣君も副島君も慰留します。みんなそんなに東京が好きなの? まだ東京で消耗しているの?

私は佐賀で育ちました。幕末には桂君と会ったり(今は木戸君ですね)、姉小路さんに会ったり。大隈君や大木君、副島君、島君あたりとサークル作って活動したり。

維新後は学校を整備したり、四民平等なんて訴えたり、あと民法について仕事したり。警察制度作ったり。いろんなこと中央でをやらせいただきました。

自信あるのは警察制度の中に、新しい技術である写真」を使った捜査を盛り込んだこと。写真ってすごいですよね。これを人相の手がかりにすると効果てきめんだと思います。我ながら先進的な施策だと思います。多分100年以上これ使える手段になるんじゃないかな? とにかく、いろんなことをやらせいただきました。

負け惜しみ反動で書いてます。今佐賀でこれを書いています板垣君、副島君。留めてくれてありがとう大久保氏が私の帰郷するよう権謀術数をめぐらせているということ、聞きました。

でもいいんです! 東京で消耗するより、今は佐賀です。生まれ育った佐賀はいろんなことが今起こっています。あの島君も佐賀に帰ってきているようです。昔は島君といろいろケンカしましたが、今また会ったら。この佐賀で会えたら。また違ったケミストリーを生むことができるんじゃないかと思ってます

板垣君や大木君、副島君等とは遠く離れてしまいましたが、また皆で議論したり、政治をしたりしたいなーと思ってます! まだまだ日本はこれからなんだから!! 今は・・・故郷ゆっくり考えることにしようと思いますそんじゃーね。また連絡するからね。

2015-12-06

http://anond.hatelabo.jp/20151206111329

西郷隆盛のお相手は僧月照だな。ともに入水して月照は死に西郷けが生き残っている。

それから藤原信頼を出すんだったら日記台記』を遺した藤原頼長も出そうよ。

信頼は後白河院の寵愛を得て権力絶大と言われながら権中納言までしか出世できなかったが

頼長は「悪左府」の異名通り左大臣まで上り詰めた。

2015-09-20

結局反米

戦争反対」のムーブメントが起きているわけだが(もう下火?出遅れてすいません)、なんだか重大な矛盾があるように見えるし指摘もされてる。アメリカにくっついちゃう戦争ちゃうよ(この70年でアメリカは何度か軍事同盟国を動員して戦争してる)、それはやだ、ってわけだけど、アメリカにくっつかないと中国戦争しかけられちゃうかもよ(この70年で中国自分より弱い国に何度か戦争しかけたり侵攻してる)、それいいの?ってとこがどうも無視されてる。

いや、無視してんじゃないと思う。そこ、本質じゃないと思うんだよね。

いろいろな考えを持ったいろいろな人が参加してる。それは当然だと思う。大きなムーブメントにおいてすべての人の意思統一されてる、なんてのはフィクションであり北朝鮮だ。いろいろな考えを持ってるのは当然。戦争ちゃうかもを最重要視してる人もいれば、違憲性を最重要視してる人もいるだろう(個人的には後者立場の人には共感する思いが強い)。

でも、そういう人たちを結びつける何かがないとムーブメントにはならない。それはなにか?このムーブメント本質とは?なんだか戦争反対平和主義っていうのは語感がいいからスローガン化してるように見えるが、冒頭に挙げたようにそれが本質であるように思えない。もちろん、単に騙されてる(あるいは暴走してる)人も多いだろうが、頭のいい人達もかなり動員されてるので、みんながみんなそうではない。

何が彼らを結びつけているのか?

結局、反米じゃね?

って思った。

証明手段はない。個人の感想。すまんね。しかし、過去日本ムーブメントを観察し、それで今のムーブメントについても同じ特徴をもつ蓋然性が高いだろう議論は可能だと思う。ちょっと言葉を変えると、尤度ベースで考えてみよう、みたいな感じのことだ。専門家からバカにされるだろけどね。だから増田に書いてるわけさ。

さて日本過去の大きなムーブメントを見てみる。

さてどうだろうか。戦争については、起こしたかったり起こしたくなかったりいろいろだ。護憲主義かどうかについては、冒頭の明治維新がすでに国体をひっくり返してる。しかしどれも明確に同じであるのは、反欧米姿勢じゃないですかね。過去の大きなムーブメントはどれも反欧米姿勢であって、それが過去の3つのムーブメントのどれにおいても起こっていることからベイズの定理によって反欧米姿勢があるために大きなムーブメントが起こったのだとする仮説の事後確率が高いのだと思えますね。問題点:観察したイベントが3つしかねぇ。超事前分布を置こう。めんどくさいからやんない。

他に日露戦争後の三国干渉への強い反発・日比谷焼き討ちだとか、湾岸戦争イラク戦争時のアメポチ批判とかは、強いか弱いかにかかわらずやはり反欧米姿勢に見える。太平洋戦争の本とかよむと、国際連盟脱退して帰国した時、松岡洋右は非常な非難覚悟したのに、大歓迎されて却ってとまどったとかいうのがあったが、それもこれかもだ。太平洋戦争時には他に、満州事変から日中戦争の時には日本国民はあきらかに戸惑っていたが、太平洋戦争戦時にはだれもが意気揚々として喜んだというのも読んだ。

さて、まともな議論のような皮を被った確証バイアスだらけのようにも思われる話はここまでで終わり。みんな批判的思考を持ちましょう。

あとは完全に個人の感想

逆に親欧米にはどういうのがあるかっていうと、

日英同盟とその後の日露戦争第一次世界大戦国際連盟

戦後高度経済成長

中曽根とき

小泉とき

ってとこでしょうか。

さて単純にどう思うかって話なのだ

私がどう思ったかは、もうわかっていただけたと思うけど、日本国民感情的に動かしてムーブメントを作りやすいのは反欧米姿勢だけど、日本国繁栄させてるのは常にアングロサクソンにくっついてる時じゃないのってことです。明治維新なんて説明するまでもなく、ムーブメント自体尊皇攘夷運動だったはずが、最終的に親欧米政権つくって西郷さんと大久保死んじゃったみたいな話なわけで。

さてこういう話をするとき明治維新ときから続く歴史の長いレッテル貼りがあって、それは今で言う「アメポチ」ってやつだ。言ってみれば、アメポチ初号機は井伊直弼であったともいえよう。戦時中には、鬼畜米英とか言ってる人を非難するような人は「非国民」とか言われていた。もちろん逆方面に対してはチョンとかなんとか言ってたわけで、究極的には自分最高って思ってるだけだろうけど。

で、アメポチ。アメポチ悪いの?ってこと。ていうか犬バカにしてね?まあそれはいい。

「情けない」とか帝国軍人みたいなこという人もあろう。でもさ。国家がアメポチであってそれが情けないなら、個人でアメリカいって勝負すればいいだけじゃないか。本当にアメポチにならなくて済むような有能な人は、当然アメリカで全くやっていけるし、あの国人種国籍にかかわらず、能力だけで天下を取れる、そういう国だ。ヨーロッパ人だってそうしてるよ。われわれ極東日本人が「あれはアメリカ人」と思ってる人たちの中の相当数に、元ヨーロッパ人が相当隠れてる。ドイツオーストリア系とか特にね。敗戦国ですし。日本もだよ。

それだけの能力がない人は?そうやって能力もないのにこの冷酷な世界の中で平和を望む・・・そんならアメポチになれってことなわけ。自分一人で世界の中でアメポチにならずに立ち回れる能力がないくせに、日本国家に守られてアメポチではない立場になりたい、でも日本国家は嫌いだ、とかそんな都合の良い話はあるめえよ。

この世の中はローマ帝国漢王朝時代からまったく変わっていないと僕は思うコーカソイド東アジアに2つの帝国が出現するところまで変わらない(たぶん、20世紀のある一時期には日本がそれになりうる可能性を考えられていたかもしれないが、今は誰もそう思ってないっちゃ、ライジングサン)。

戦争法案反対」論者の中には一定数、「すぐに中国世界最強になるから敵にするのはまずい」と思ってる人がいるかもしれない。こういう人とは酒は飲める。まあわたしはそんなの数十年先以降なんじゃねーのって思うけど(だって科学力が違うからね〜)。

2014-11-13

西郷隆盛維新三傑に相応しいのか?

大久保利通木戸孝允政治家として最大級評価されているのに対し、西郷隆盛評価されているのは軍人としてであるため、ちょっとチグハグさを感じる選出になっている。

イタリア三傑に範を取っているのかもしれないが、西郷はその最期もあまりにあまりであるし、功績が維新前に偏りすぎているのではないかと思うのである

維新三傑政治家に限るなら、大久保利通木戸孝允岩倉具視を加えれば、薩長公家バランスも良くなるように思える。

西郷を入れるならば、大村益次郎と合わせて「倒幕二将」のようなものを作り、三傑とは分けたほうが良いのではないか。

2013-05-07

「昔は15、16で嫁入りしていた」

昔の女は昔は15、16で嫁入りしていた…と、鬼の首をとったように言う男たちが2chtwitter界隈に多数居るが、

当時の男も12から15歳くらいで元服、つまり成人して社会の一員となり、

一人前の男として重要責任と義務を負っていたことを忘れてはいけない。

現在の男が一人前になる年齢は、22歳だろう。大人になる年齢が5~10年も遅れているんだよ、当時と比べたら。

 

結婚は、上級武士だと20代前半、下級武士だと30歳前後で行っていた。差が生まれる理由は、親の生活費

妻が内職をしてくれる町人の家と違って、武家専業主婦が基本だから

充分な俸禄をもらっている武家は、親の生活費のことなど考えずに適齢期(20代前半)のうちに妻を迎えられるが、

家計が厳しい武家は、両親が亡くなって食費と部屋に余裕が出来るまで妻を迎えられなかった。

妻子が欲しいなら両親が死ぬのを待たなきゃいけない…。貧しさとは辛いものだね。

 

当時の基準では、若いうちに結婚できる男ほど上流、結婚が遅れた男ほど下流、という認識だった。

政略結婚では1011歳での婚約も当たり前だし、生後一か月での婚約なんて話もある。

上流であるほど「家」の利のために生きなければならないのは当たり前のことだった。

家に支配されることが上流の証であるとも言える。

 

また、上流の武家の男は再婚も可能だけれど、一般の町人はなかなか再婚できなかった。

江戸は全国から次男坊三男坊が集まり、男女比が3:1だった街。

添い遂げる夫婦は4組に1組しか無く、離婚した妻にはすぐ貰い手がつくが、離婚した夫の多くは生涯一人身となった。

「男やもめに蛆が湧き、女やもめに花が咲く」と言われたのは、夫と離別した妻が「女」に復帰するのに対し、

妻と離別した夫が「男」として返り咲く機会がほぼ与えられていないことにも理由があった。

 

処女にこだわるのは日本の古くから価値観だと主張する男も居るようだが、別にそんなことはなかった。

家康側室・茶阿局は農民の未亡人だし、お亀の方は最初の夫と死別後、別の男の側室になり、その後家康側室になっている。

西郷局も、最初の夫と二番目の夫に死なれた未亡人。その後家康側室になった。

当時の女性は、若いうちにさっさと嫁ぐし、夫が死んだらさっさと次の男に嫁ぐし、よく子供を産む。

家康側室たちも、何回か結婚してそれぞれの夫の子を産んでいたりする。

なぜそうしていたのか。当時の男は戦でポンポン死んでいた。何かあったら責任を取るだのいって腹を切らされていた。

元服したらいつ死んでもおかしくないというくらい死にまくっていた。

元服前、子供の頃にも病気などで死にまくっていた。

から早く嫁ぎ、早く子をもうけないと、家が途絶えてしまう。その危機感で熱心に子づくりしていたのだろう。

現在の男はそこまでしょっちゅう死なないので、早く子を作らないと!という危機感が薄い。

 

そのことを踏まえると、少子化対策にはリミットを設けて危機感をあおるのが最も良い方策であると思う。

たとえば、40歳を過ぎての初婚を法律で禁じてみてはどうだろう。

30代のすべりこみ婚が激増するだろうし、20代も焦って婚活に励む人が増えるだろう。

江戸時代平均寿命は40前後。死というリミットが先延ばしにされた分、法律で切るのが有効なのではないだろうか。

2012-01-30

#クリミア戦争勝敗を分けたもの#

兵站看護学機雷なども重要だが、

それ以上に蒸気船と帆船の戦いにおいて、蒸気船の高い操舵力による

黒海での圧倒的有利が、難攻不落であるはずのセバストポリ要塞孤立させ、

戦略的に圧倒的不利になったロシアはついに敗れる。

→次は蒸気船の中でも外輪船VSスクリュー船、で争う。

 対日本、対中国程度であれば外輪船でもスクリュー船でも大差なく勝つが

 同じ蒸気船同志なら、圧倒的にスクリュー船が勝つ

#ヨーロッパは昨日までの敵と平気で同盟を結ぶ#

からこそ、条約重要になる。

日本だって戦国時代はそうだったのだが、スケール感が違うので少し戸惑うね。

#島津斉彬江戸遠征計画(未遂#

井伊直弼は信念を持って粛清を始めている。本人の胸中に入ってんのやましさもないのだ。それがどれほど恐ろしいことかお前にわかるか?ただの悪意や傲慢なら少し恫喝をかければおとなしくなる。我が身が可愛いだろうからな。覚悟を決めた男にそれはきかない。これからの井伊は果てしなくエスカレートするだろう。権力を持った人間はやりたいことがどこまでもかなってしまうからな。しか権力を掴んだ男は気づかぬうちに権力奴隷に成り果てるのだ。私はな、自分で言うのも何だが権力奴隷にならずにすんだ。正義権力に酔ってお由良派を粛清するために血刀を振るっていたならば、今頃薩摩全土は死屍累々、私自身どこかで非業の死に倒れ、島津は滅亡し今の近代化など微塵もなかったであろう。だからこそわかる井伊家は日本を血で染め、日本そのものを滅ぼしかねん。使いたくもない権力であったが、ひと暴れせざるを得まい」(島津斉彬

戦をせぬ戦というものがある。今回の騒ぎは糸をほぐせば簡単にとけるものだ。京の天子様をあまりにも現実から遠ざけてきたことが間違いなのだ西洋人は禽獣ではないこと、我が国は国際社会と堂々渡り合える力を秘めていること、それを伝えて孝明帝の心が休んじられれば日本平和に開国できるのだ。その自信を持てず西洋に一番怯えておるのが250年惰眠を貪り続けてきた江戸幕府である!どれほど格好をつけ、居丈高に振舞おうとも、いや水戸様のように居丈高になればなるほどその怯えは日本全土、全国民に伝わってしまう。幕府の自信のなさを朝廷は見ぬいておられる。意味不明西欧の脅威とこの国の責任押し付けられる帝は溜まったものではない。砲一つない御所にお住まいの帝が開国不承知を叫ばれるのは当然ではないか。帝に安堵していただければ御所空気は一変する。京の攘夷派も納得し一滴の血も流さず開国への道がひらけるはずだ。(この真意を知るのは西郷橋本左内など側近のみ)


#江戸時代役人2#

「この国の役人不思議ですね

 自分たちの責任自分たちの責任だって連呼してました

 どこの国の役人だって、出歩いたこっちが悪いと言いはるでしょうに

 警護の不手際だと自分から言い出すなんてありえないですよ」


#坂本龍馬#

ようわからんが、ちょっとしたきっかけや自信で

人間は大きく変わるんやないかのう。

特別な人間などだれもおりゃせんが、一人ひとりは自分がかけがえのない人間じゃ

自分を大切にする人間は、他の人間も大切だとわかる。

いつも前へ前へと突き進んでいくものには、

目の前に何が待ち受けていようと恐れることはない。

人生は楽しく生きなきゃ、もったいないわ!

そうやって生きるには、身分制度ちゅうおかしなもんが邪魔じゃあ。

なんで人間をそんなにわけるんじゃ。

わしゃあこの国を全部変えちゃる。謀反人の血を持ってすりゃあできんことはない

2012-01-29

#吉田松陰 の松下村塾講義#

「君たちは何のために学問をするのか 何のためにこの松下村塾に来ているのか?

 日本のため人々のためといいますが、具体的にはどういう人々ですか?

 分かる人はいますか?

 的を見ずに矢を放っても的には当たりません 目的のない学問はすべてが無駄になります

 宛先のない手紙はどこにも届かないのです 学問も同じです

 何のために学問をするのか、それは学問をしたくてもできない人のためにするのです!

 人々のためとはそういうことです 諸君が松下村塾に来るのは 松下村塾にも来れない人々のために来ているのです

 それがわかれば一分一秒もおろそかにはできないはずです みんな私の代わりに力のかぎり戦ってください」

吉田松陰講義は平地にありながら最新の情報に溢れており、藩校である明倫館をしのいでいたとされる。

松陰京都で知り合った勤皇思想家梅田雲浜安政の大獄第一の逮捕者もこの頃松下村塾を訪れ各藩の政治状況を伝えたりしている)

はいえ罪人の開いた私塾であるから白い目で見られ、上士の子である高杉晋作や久坂義助などは親の目を盗んで通ってくることになる。

(その他の生徒は貧農の子伊藤俊助、足軽の子品川弥二郎、中間の子山県小助など。)

松陰は一方的に教えるのみではなく、様々なテーマを与えて生徒に調べさせ、

順番に教えあい、その時は松陰も生徒となって学ぶ。これは野山獄時代と同じ。

学問といっても磁極を論じたりしているのであるからしょっちゅう凄まじい議論となり、

先生も生徒も一緒になって朝まで大激論を戦わせたりするのであった。

したがって、松下村塾には遅刻も早退もない。各自の都合で来れる時間に来て、時にはその場で働きながら学ぶといった様子であった。

働きながら学び、学びながら働く。松下村塾は常に熱気にあふれていた。

物置を改造した松下村塾はあまりにせまく、毎日入りきれない生徒が庭にあふれていた。

桂小五郎はこの時江戸にいて、吉田松陰とは往復書簡による師弟関係)


#薩摩 精忠組#

斉彬復帰後も、改革が第一優先であり

お家争いを防ぐため、「高崎崩れ」の犠牲者救済は、政治バランス考慮して後回しにされ、

結局流罪にされた者は2年以上放置されることになる。

この当時は、お家の安定が個々人の身分より優先されるのは、むしろ武士であれば当たり前、という時代だった。

斉彬は参勤交代から帰国し、洋式の事業も見通しがつき、斉興・久光派も落ち着きを取り戻してから

ようやく高崎崩れの流罪者が赦免され流罪からかえってくることに。

#西郷隆盛の建白書に見る 田舎武士知的水準#

斉彬に直訴状を書いた。

最初農政改革を訴えるおとなしいものであったが、

書いているうちに、まず百姓の上に胡坐をかき、私服を肥やす役人どもへの怒りにうつ

さらに元凶たるお由羅派をなぜ処罰しないのか、という批判に及び、

勢いはどんどんエスカレートしてついには蛮学に湯水のごとく金を使う斉彬への彈劾となった。

(基本的にこの当時の武士というのは全員無知である。何も知らされていないから当たり前だが。

 特に薩摩武士は武芸や忠誠がやかましく、下級武士である西郷は狭い学問でも実力は下の下であった。

 だから、目についた農村の貧しさについて、その歴史も理解できず、目の前のことがすべてになってしまう。

 西郷はこのあとも、斉彬の意図を全く理解できず、そのくせ忠義と称して暴走を繰り返している

 しかしこれでも農村の痛みに気づいただけまだましな方というから、どれだけ当時の武士

 ものを知らされず、また忠義と称して暴走しやすい困った気質の持ち主であったかよくわかる。

 江戸時代に行われていた偏った儒学や忠孝の教えでは、基本的にこういう愚か者を作ることしかできない)

しかし、島津斉彬は彼を用いた。そのくらい「手駒としては仕える」人物だった

 「考えは180度違っているが、それは今後の教育でなんとでも変えられる

  おいそれと変わらぬのが、そちが持って生まれた無私無欲の心 そこを見込んだ。今日からわしの片腕となってもらいたい」

 水戸斉昭さえ制御しようとしていた斉彬は、自分が死んだ時や、動きを制御しきれなかった時の危険については一切考えていなかっただろう。

→私はこの頃の西郷のような直情径行ガ忠義という概念とセットに成った、視野が狭くすぐに他人に攻撃的になる人間が嫌いだ。

 西郷に関しては当時のことだから納得はできるわけで、現代でもたまにこういう奴がいるのを見ると吐き気がする。


#隠居以外に散歩という概念がなかった江戸時代#

「これといった目的もなく、落ちているものを探すのでもなくただなんとなく歩いているのですか?

 我が国でも風流人はそういうことをしますが、それは楽隠居道楽です。

 ハリス殿は日本に遊びに来ているのですか?

 あるいは無法者、ゴロツキ、怠け者のたぐいです。

 江戸で何もせずに歩いているだけの人間など、挙動不審とみなされしょっぴかれても文句は言えませんな

#ハリス日本評#

 「日本役人世界最悪と言える 犬が何も考えられないのと同じ」

まぁこはいいけど、やれ風呂はだめだの山菜は食えないだの、ヤンキーはほんとにwww

 

 「この1年は何だったんだ…国際社会常識を知らぬ無知な国が相手だ。

  彼らには経緯を持った対話を重ねて教えていくしかない。そう思い私は之までずっと耐えてきた。

  しかし彼らは頑として心を開かなかった それがどうだ たった一艘の軍艦を見た途端

  あなた国賓としてお招きしたいときたもんだ

  向こうは大砲に動揺した 私も相手が怯えるように話した

  誠意ある百万の言葉が、1門の大砲に負けるのか………

  ハリスよりペリーが正しいのなら、言葉はなんのためにあるのだーーーー!」


#攘夷志士の怖い習慣#

西洋かぶれと目をつけた町人などを数人で寄ってたかって辻切り・試し切り

水戸から江戸に上洛しようとしてとうせんぼされたらいきなり切腹とかする

2009-12-14

http://anond.hatelabo.jp/20091214231741

それにしては西郷はんや竜馬はんのような時代のヒーロー的な人間はまだ現れていないな。

いや、こういうのは後付けだから起こってから誰かが英雄として祀り上げられるもんなんだけど。

誰がヒーローになる? 昔は侍自ら倒幕だったわけだが、今回もそうだとすれば、それは民主党内部(あるいは宮内庁内部)の誰かということになる。

誰だろうな? AIR KINGみたいなマスコットを作れればあるいは。

2009-10-19

http://anond.hatelabo.jp/20091019103358

待て、それは現在進行形で現れうる人物じゃない。

西郷どんとか竜馬はんとか、歴史を紐解いて初めてわかる偉人のすごさとかそういったもんだ。

2009-08-03

http://anond.hatelabo.jp/20090802224938

で、この講義もちょっと面白くて覚えていたのだが、「警察は元々軍隊であった」という話。

あれ?西南戦争日本陸軍西郷軍に勝てなくて、恥をしのんで(って、言葉の使い方、合ってるか?)警察抜刀隊(旧会津藩主体)を投入したんじゃなかったっけ?

2009-04-15

http://anond.hatelabo.jp/20090414170911

おお、珠玉のラインナップですね。完璧ですな。

確かに芥川には、ブログ書いて欲しいですね。彼は何故かネットに合ってる気が。ただ、裏で2ちゃんメンヘル板とかに常駐してたりもするのかもなあ。ああ、老いてからの作品読みたかったです。どんなん書いてたんだろう。

豆wwwww 徂徠、大喜びですね。

そういえば絵の人にも戻ってきてもらわないとねえ。西郷孤月にリクエストかけたいです。

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