はてなキーワード: 居間とは
以前は片付け魔入ってるくらいキチンとした部屋で暮らしていた家族だが、鬱病を発症したくらいだっただろうか。
段々と物が増え、新たに購入した物は既にある物の上に積まれるか、床に直置きだ。
もちろん通り道にも物があるから、いちいち跨ぎ越さないと行き来はできない。
故に私はもう家族の部屋にはめったなことがなければ立ち入らない。
なにが嫌って、家の中で歩き回るのに、物を跨ぎ越すことほど私をいらだたせることはない。
なにもなければただまっすぐに歩けるものを、いちいちその一瞬に足を取られる。
なんなら、物がひっかかって崩れる、飛ぶ。
その度にイライラして細い血管とか神経とかがぶちぶち切れる気がする。
そしてその雑多に積みあがった物は自然とお互いを支え合い、お互いがなければ成立しないゴミの山となるのだ。
そこらじゅうに積みあがってるし、なんなら物も入ってる。
メルカリの発送に使うの?ふうん。
不用品はあっても、メルカリの商品紹介文を考えるのが面倒なの。ふうん。
それができりゃいいけど。
まあ物量に負けますよね。
テーブルにもアホほど物あって、こんなスペースじゃ鍋もできないし、ホットプレートも出せない。
なんでこんなにテーブル狭いのって言ってくるから、なんて返答したらいいのかわからなくなる。
いや、主にあなたのせいじゃないんですかね?
そのくせ気軽にガシャポンとか回してくる。
いや、それどこ置くんだよ、マジで。
ねぇよ、余分な置き場所とか。
飾られもしない投げっぱなしのガシャポン、何体あると思ってんだよ。
なんかああいう形のあるものに、ほこりが細かいところにまで入り込んで忘れられた感じになってるのを見るのが嫌だ。
てゆーか、人の好きなアニメのキャラとかゲットしてこないでよ、頼んでないし。
私がそういうの飾らないって気づいてないの?
あなたが寄越したメイド服の綾波とか、とっくに買取に出してますからね?
5年分のテレビライフ、スクラップしてから処分したいって言って積み場所かえてから一年半がたちました。
寒気がするね。
まあ、最悪見る見ないは置いといてもいいんだけど。
どんだけスクラップする手間かかる?
5年分のテレビライフ(正確には1年半分追加されている)、まあ70センチ以上はありますよね。
この一年半まるっきりの手つかずですよね。
一応ときどき声掛けしてますけど、なんか半笑いの対応ですよね。
なんで私が半笑いであしらわれなければならないのか?
一昨年の11月ごろに積んで、年内に片付けると言ったのあなたですよ、自分で期限切ってたんですけど?
この間ようやく整理した親関係の書類、ファイリングしたけどしまう場所なくて結局つみっぱじゃないですか。
買った雑誌も未読でつみっぱだもんね。
うん、体調不良とかもあるんだよね、知ってるよ、ずっと見てるわけだから。
持病を複数抱えて、治る見込みなくて大変なんだよね。
そういう人になにか要求することの方が酷なのかもね、私は酷い人ですね。
でももう酷い人でいいですよ。
私は心の平穏が欲しいです。
居間でうたた寝しても体が痛いと思いながら目覚めたくないです。(物が邪魔で足が伸ばせない)
憂鬱です。
キッチンとか他の場所掃除しても、驚くぐらいすぐ汚れるんですよ。
なぜか。
居間を掃除してないせいで、ここからゴミが持ち出されるんですよ。
この間、私の居場所に猫がいたので家族が居場所にしてる方に座ったんだけど、汚すぎて寒気がした。
もう全部捨てたい。
部屋にある物全部捨てたい。
目に入る物全部捨てたい。
去年は食事中にこのゴミの山からゴキブリ出てきたんだよな。(初めてではない)
あー、全部捨てたいな~。
以前はもっと怒りとか苛立ちとかでテンション上がる感じだったけど、もうさー、そういう感じでもないんだよね。
怒り疲れちゃったのかな。
でも部屋が片付いて欲しいっていう望みはまだ捨てられないでいる。
むしろこの望みが捨てられたら、楽になれるのかな。
捨てたい、捨てたい、なにもかも。
父が死んでちょうど一年になる。
この一年は家族と宗教について、父について考えざるを得なかった。
考え出すと、寝れなかったり不安定になることがあるので、節目に吐き出したい。
というのも、元首相の殺害や、菊池真理子氏の「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~ を読み、
私自身、宗教2世として記録と想いを書き残しておこうと思った次第である。
【創価学会と私】
私は幼少期に早い段階で、「あれ、家の家族は周りと違う」と気づき、
思春期には、親への反抗と同時に学会への不信感を募らせていった。
小学生の頃から月に何度か、知らない大人が集まる場所で連れていかれ勤行をしたり、
意味の分からないビデオを見せられたり。胸糞悪い記憶が残っている。
「新聞取ってもらえませんか」
と言いに来る。
”お母さん恥ずかしいからやめて”
田舎の小学生にとって、周りの友達との関係が崩れていく事がどれだけしんどかったことか。
普通の家ではないということを、表に出さず、隠しつつ、とはいえ田舎だったので周知の事実だったと思うが。
幸い友人に恵まれ、勉強も少しはできたので、いじめも無く、表向きは周りの子供と変わらない様に過ごせたと思う。
同じ中学から進学した同級生で親友になった子も、私の家族について良く知っていたが、一度も嫌な顔をせず私に付き合ってくれた。
なるべく親の世話にならず一人で生きていきたいという気持ちが学会のせいで強くなり、
部活をせずバイトをフルでいれて(貧乏というのもあったが)、奨学金とバイト代で授業料を支払っていた。
そしてここから成人して、就職、都会へ引っ越し、出来るだけ家族と離れることで、学会と距離を取ることができた。
【父と家族】
私の父は、生まれつき心臓の病を持っていた。学会とは関係無し。
忘れもしない小学低学年、夜中に居間が少し騒がしく、トイレに起きた私は母に慰められながら号泣する父を見た。
バブル崩壊後の不況の中、持病持ちの父は会社から要らない人間扱いされたらしい。
そこからの我が家は、どん底だったとのこと。父は病気のせいで再就職もままならない。
子供が4人(兄、姉、私、弟)。今思えば、生きて大人になっているだけで儲けもんではあるが、
母は強かった。
朝から晩まで、仕事を掛け持ちして皆を食べさせて、学会の活動も、勤行も欠かさずやっていた。
朝は清掃のアルバイトで、私が朝起きて登校するまで家にいることは稀で、
母が夜にアルバイトしていた工場の冷凍肉まんをチンして弟と食べて学校に行っていた。
昼間は保険の営業をしていたらしいが、学校に行っている間なので詳しくは知らない。
たまに学校から帰って家にいるときは、内職や家事の合間に勤行をしていた覚えがある。
父は弱かった。
私が幼い頃は絶対的な存在として、一家の主として君臨していた。
家族を養えなくなり、酒に溺れ徐々に精神的にも肉体的にも弱っていった。
私が思春期の時には、何度もぶつかり合った
「なぜ仕事をしない」
「酒をやめろ」
私は父が病気だと知っていてもなお、問い詰められずにいられなかった。
そのある夜に、父が紫色の顔で鼻血を垂れ流し、シャツを真っ赤にして救急車に運ばれた。
兄は優秀だったが。
私とは別の私立高校を特待生で通っていたが、すぐに不登校になり、ここから10年近く表に出なかった。
これは原因も私には分からない。ただ精神的に不安定な人間だった。やはり家庭が関係するのだろうか。
そしてその間、私と弟は良く兄と仲違いした。
姉は男を追って遠くへ消えていた。家族の中で私と弟はこの兄が大嫌いだった。
そして私が都会に出た数年後、弟から兄が創価学会に入信したと聞いた。
私は信条の自由だとその場は笑い飛ばしたが、笑い事ではなくなった。
「いつかお前にもわかる」
「幸せとは何か」
私は本当に何度も実家に帰りたくなくなったが、それでも会いたいという父や母の為に顔だけ出していた。
それだけで息子として顔を見せるくらいは何も苦痛ではなかったが。
【父の死】
そしてちょうど一年前、父が亡くなった。
数年前に心臓病とは別にガンを発症、末期になり3月から緩和ケアに入る。
コロナで面会が難しく、5月中旬になら会えるとのことで、連休をずらして規制予定だった矢先に。
墓も遠方の学会の墓に建てるそうだ。もう兄を止める者はいない、
【最後に】
私が見てきた限り、一度も勤行をしたこともない。
けれど父は、もっと言えば母も学会にのめりこんでいたが宗教というフィルターを通さず、
兄はそんな父をなぜそのような扱いにしたのだろう。
本当に父が思っていることを聞けなかったことを後悔しているのかもしれない。
私は宗教で苦しみました。
兄は宗教で救われました。
おそらく私は一生この問題と付き合わなければいけないとも思います。
あなたがそうしたように。
【】
吐き出したいことをだっーと書いていったら、ある程度言いたいこと言えたっぽいのですっきりしました。
すぐ近くにうるさい場所はあるけど、切り取られたように静まり返った場所、とても大好き。
なんだか安心する。
小中学生の頃は実家で居間にいずに、よく仏壇のある部屋や、階段に座っていた
なにをするわけでもなくボーッとしていたり、図鑑を読んでたりした。
そう考えると、ぽくは小さい頃からインキャの才能があったんだな、と思う。
高校に入ってから部活に入らなかったが、その分とても長い間教室にいた。
中でも一番好きな時間は、みんなが教室に集まる前の朝早くの時間だった。
高校までは90分ぐらいの割と遠いところに住んでいたが、よく先生が正門を朝に開けてくれるのを待機していた。
誰もいない教室に一番乗り。
なんだか、いつも賑やかな場所なのに朝イチで来た時はとても特別な空間に感じた
二番目に来る同じクラスの女の子と、いい感じになったりもした(何事もなく終わった)。
大学に入ってからは同じように、図書館に入り浸ったり、深夜の徘徊に勤しんだり相変わらずのインキャぶりを発揮していた。
やはり、普段はうるさかったり、すぐ外に出ればにぎやかになったりと、ワイワイしたところに時間、空間的にアクセスしやすくて静かなところが大好きなのである。
それ以前は単に静かなところが好きなのだと思っていた。
社会人になってから、コロナが蔓延し、フルリモートワークとなった。
東京にいる意味もなくなり、少し郊外の田舎の方に引っ越してみた。なんというか、リトルフォレストみたいな生活に憧れていた。
最初の頃は自然に触れ合うのが幸せで、菜園を始めたり山菜とりをしたりとても満喫していた。
が、やっていて虚しさを感じた。
なぞに丁寧な生活に憧れていたが、結局やりたかったことはこれだったのか?と思い始めた。
そこでやっと気づいた。そう、自分は寂しがり屋だったのである。
なんとも都合の良い人間だ。
自分的には、外に出たらうるさくて少しイラッとくるぐらいの環境が丁度よかったのである。
そんな空間だからこそ、家や図書館、教会みたいな静かな場所が輝く。
賑やかだからこそ、家にいる時間が愛おしい。今ぐらいがなんだかんだ丁度いい。
センサーライトにしたよ。あと便座の蓋が勝手に閉じるのは今標準装備だろうけど実家が来たときよろこんで真似してた
・食洗機の音
リビングの隣の部屋で妻と娘が寝てない。別の階で寝てるから、その意味ではいつでもまわせるけど。
食器たまってると勝手にまわされてテレビ音とかさなって不愉快なことにきづき、
たまったら自分で食洗器を回す知恵を付けたのでありがたい。
・ロールスクリーン
奥まったとこにある北向きの和室だけ合成和紙の屏風みたいな折り目のロールスクリーンにした。いい雰囲気。
はかどるー。
・駐車場の目地
表面の砂は固定されてなかったようでだいぶながれたけどそれでも1キロくらいじゃないかな。
なおパナです。でも電動雨戸はかなり高いよ。
当時高校生だった私は、とある理由で全校生徒が体育館に集まっていました。
ある時、携帯電話から聞いたことのない音が鳴り響きました。校内持ち歩き不可のはずの携帯電話は男子生徒の制服の内ポケットから、スマートフォンは女子生徒のカーディガンのポケットから、そして渡り廊下の奥の教室から、けたたましく鳴る不快な音。
そしてズズズというこれまた聞いたことのない大きな低い地響きの後に、突き上げるような揺れが起こりました。体育館という建物はバネが効いているので、観測された震度の何倍もの揺れを身体に感じていました。
女子生徒の悲鳴、頭を覆えという教師の怒号、ギシギシと動く体育館の壁、そして見たこともないくらい左右にぶらんぶらんと揺れる天井の照明、何が起こったか分からないと口を開けたままの友人の顔。
大きな揺れは収まりましたが、集会は中止になり即座に帰宅の指導がありました。地元が同じ人間は一緒に帰って欲しいと先生が言っていました。電車は動いていなかったので、電車で通っている人たちは親の車を待つことになり、しばらく校内に残っていたといいます。
この時、電波はなく、また不幸なことにこの地域だけ停電と断水が起こっていました。私たちは大きな地震が近くで起こったのだということしかわかりませんでした。
私は比較的学校の近所だったので、歩いて帰りました。雪が残る道を必死に帰りました。家に帰ると、祖母が外で近所の人たちと話をしていました。咄嗟に外に出たと言います。着の身着のままで、寒さからなのか、揺れの怖さなのか、身体が少し震えていました。それは私も同じでした。あの体育館で感じた恐怖がまだ残っていました。
家の中はぐちゃぐちゃでした。食器棚が全て開き、割れた皿はなかったものの、倒れたものが床に散乱していました。
祖母は病気の後遺症で目が悪く、なにも触らなかったと言います。私はそれを片付け、両親が帰るのを待ちました。父も母も小学校教諭でしたので、我が家にすぐ帰ることは出来ませんでした。2人とも、自分の学校の生徒をすべて家に帰し、家まで送り、その後に家に帰ってきました。
私の住んでいた県は断水が少なかったと、後から言われましたが、私の家のある地域は断水しました。そして停電も続きました。
雪国の3月上旬、オール電化だった我が家は非常に冷たく、静かで、怖かったことを覚えています。家がこんなに寒かったのだと、靴下を履いて眠ったことは初めてでした。
それまで肌が乾燥することはありませんでしたが、寒さにより乾燥し、頬が粉を吹きました。クリームを塗りなさいと親に言われたのは人生で初めてで、そこで寒いと肌は乾燥するのだと知りました。
全く暖房がないわけではありませんでした。石油ストーブがありましたが、この後どうなるかが分からないので、居間でひとつだけ点火し、大事に使おうと決めました。
父が帰宅して、仏壇用の蝋燭の火を囲み、家族4人でスープを飲みました。
その時に、宮城県が揺れたらしいと教えてくれました。父も母も私も、携帯電話の電池が惜しくてネットを見ていませんでした。電波はかろうじて復活していたようでした。
明日になれば電気は戻るだろうと、その日は早くに寝ました。何もすることができず、寝るしかなかったのです。
眠る前、ストーブの灯油を入れるために外に出ました。その時、見上げた空を一生忘れないでしょう。私の住んでいた土地は田舎で、普段でも晴れた夜は星が綺麗に見えていました。何度か旅行に行った東京の何倍も星が綺麗だなと思ったものでしたが、その日だけは違いました。星しか見えないのです。大きな星が爛々と瞬き、小さな星たちが埋め尽くし、いつもの星空とは全く違うものでした。
あんなに暗い田舎でも、明るかったのです。真に光がない夜はこんなにも星空を輝かせるのだと、心が震えました。そして、とても怖くなりました。知りたくなかったのです。こんなに星が美しいことを、災害で知りたくなかった。冷えた空気が鼻腔を凍てつかせたので、早く家に戻りました。
家に戻ると、父と母が携帯電話を見つめていました。母は手で目を覆っていました。ほら見ろ、と見せられたのはワンセグ放送でした。そこに映し出された映像を見て、足がすくみました。津波の映像でした。仙台空港が波に飲まれていく、その映像でした。私は仙台空港自体には行ったことはありませんでしたし、仙台市にもあまり行ったことはありませんでしたが、石巻や名取市閖上地区、気仙沼には何度も行っていました。仙台空港がこのような状況なら、私たちが旅行に行っていたあの場所はどうなっているのか、これはどんな被害なのか、何が起こったのか、全ては分かりませんでした。父の充電はギリギリで、それ以上は見ることができず、その日は諦めて横になりました。私はしばらく寝られませんでした。
閖上のサイクルセンターのどでかい合宿所みたいな部屋に家族4人で泊まり、その施設の飲食店で晩ご飯を食べたことが昨日のことのように思い出され、その建物は、そこの人たちは、どうなってしまったのか、怖くて怖くて堪りませんでした。
人が死んでしまうような災害だったのだろうかと、それすら曖昧でした。
情報がないというのがこんなにも不自由なのだと思ったのもこの日でした。
翌日電気が復活し、テレビの報道で津波の被害を目の当たりにしました。
あとはもう、ご存知の通りです。
断水復活までは少し時間がかかりましたが、私の地域はそんなに被害がありませんでした。建物に大きなヒビが入ったり、道路が割れたり、といったところでした。余震は続きました。
ただ、普段明るくおちゃらけた雰囲気の友人が、宮城県に単身赴任をしている父親と連絡が取れないと瞳と口の端をぶるぶる震わせて話す姿が目に焼き付いています。彼女の父親は津波で亡くなったと聞きました。
私は大学生を経て、社会人になり仙台に転勤してきました。もっと生々しい震災の話を聞くことが多くなりました。
南三陸や女川出身の子達は皆、口を揃えて言います。家は流されて実家はないのだと。仕事がなくなって仙台の街中に出てきたのだと。避難中に津波に巻き込まれて、電柱にしがみついて生きながらえたという人もいました。
私の仕事もスーパーゼネコンの施工管理でしたので、震災復興事業が主の時期でした。真新しいコンクリートの壁が海を阻みます。防波堤は高く高く、そびえ立っていました。ひび割れだらけの建物が、そこらかしこらにありました。そして、本丸と呼ばれたあの地にも行きました。人の住まなくなった家は、あんなにも朽ちるのが早いのかと今も恐ろしく思います。
なにより、この地域はよく写真展を開きます。震災前の写真、直後の写真、今の写真、それらを並べて展示するのです。私はその写真を見て泣いてしまいます。イオンの一角で、震災を知らない子供たちが走り回るイオンの中で行われていた写真展を見て、泣いていました。
今でも、その地に行くと、津波最高到達点という線が刻まれた建物があります。ここまで津波が来たぞという標識があります。
どうか忘れないで。風化しないで。思い出して。
今日だけでいいです。
お願いです。
忘れないでください。
Twitterで度々炎上する「妻が勝手にものを捨てた」問題。
勝手にものを捨てるのはダメだとも思う、ものというのは人それぞれの思い入れがあるだろうから。
表面上だけ見て夫婦間の問題というのは見えないから捨てた側だけが責められる感じがとてもモヤモヤする。
というのもワタシの家でも夫が自分の部屋に入りきらないフィギュアや本などを居間に積み重ねていくからだ。
居間の人の通る場所の横に積み重ねており、それに誤ってぶつかる事もある。
それが崩れれば怒られるし、しばらく機嫌が悪くなり空気が最悪だ。
なんどか我慢の限界で片づけて欲しいとお願いしたがハイハイとスルーされたり、また不機嫌になる。
勝手に捨ててはならないとは思っていてもいつか我慢の限界が来たらワタシも「勝手にものを捨てる妻」になってしまうんだろう。
でも触れるだけで怒るくらい大事なものならば自分の部屋で、ちゃんと管理してほしい。
きっとTwitterに上がった全てのそのような話題全てがそういうわけでは無いとは思う。
本当に価値観の違いにより捨てもいるんだろう。
ガキの頃藤崎マーケットや小島よしおが流行った。今や何が面白いのかはさっぱり分からないが、ゲラゲラ笑っていた。小学校ではラララライだのそんなの関係ねーだのが流行りまくっていた。ハードゲイは今でもちょっと面白いと思う。
中学の気難しい頃は居間でテレビを見る事も減り、キャッチーなギャグで笑う年でもなかった。友達同士でお笑いが話題になる事もなく、漫画の話が多かったと思う。銀魂とかギャグ漫画日和のユーモアは新鮮で、一周回ってとかではなく逆張らず、順張りのノリで素直に面白いと思っていた。
オタクじみたのが多い男子校だったからか、グループ内ではニコ動を観てネットスラングで会話する事がクールな風潮があった。くだらないMADだかやらないかだかの話をして、PSPに落とした動画を観て盛り上がっていた。
スマホを持ってから家でまとめサイトを見るようにもなった。テレビでは見られないようなブラックでエッジが効いている「尖った」おもしろコピペを読み漁った。友達にネットの受け売りで話したおもしろトークはウケが良かったが、自分の言葉で喋るのが下手になったし、今でも尾を引いている気がする。
総じてテレビやお笑い芸人の「浅い」笑いから、「ディープ」でマニアックな笑いを好むようになった頃だと思う。まあ誰しもムキムキのアンパンマンやドラえもんのような「シュール」さを好むような感性の年頃でしょう。
一度姉に連れられて新宿ルミネの劇場へ行った事もあった。既に芸人への不信感(?)があったので、嫌々。当時の感覚で、退屈というほどではなかったが、フフッと笑える程度の面白さだった。ずっとムスッとしてるのも感じ悪いかなと思いそうはしなかったが、まあ我慢しようと全然耐えられる感じだ。一切笑えないコンビも少なからずいた。偉そうに素人素人言ってプロ面する癖にこんなもんか、というのが感想だった。
高校の頃にはすっかりネットに毒され捻くれまくったガキになったので、順当にテレビのお笑いが嫌いだった。「マスゴミ」が大嫌いで、バラエティ番組を観てるいような人間が低俗に思えた。捻くれた性格がインターネットへ導いたのか、本当にネットに毒されたのか、あるいは相乗効果なのかは分からない。
この表現は嫌いだけれど、高校にもなるとクラスで「陽キャ」と「陰キャ」とがかなりはっきりと分かれる。それについて色々と気にかける事も多い年頃だ。無論自分は後者で、それが「捻くれた自分」をアイデンティティにしようと思わせた部分もあるのかもしれない。
昔よくあったネタ見せ番組は消え、芸人を名乗りながらネタも見せない(劇場での興行が基本という感覚がなく、ネタはテレビで見せるものだと思っていた)。ロケで飯を食ったりスタジオでトークするだけ。こちらは芸人の先輩後輩など知りもしないのに、内輪ノリでくだらないギャグに愛想笑いする彼らに嫌悪感すらも覚えていた。
思春期の焦燥に強く駆られる時期で、「低俗」である笑いを求める事自体が減った気がする。などと言いつつ、学年中で淫夢が流行り、とにかく会話に語録を挟むのがクールだった(最悪)。最初は「は?野獣先輩?114514って何?おもんな……」と心の底から思ったたものだが、無事イキスギィでゲラゲラ笑う身体になった。今思えば凡庸なオタク高校生だが、当時はゲイポルノで笑うヤベー俺ら、みたいな意識があった気がする。
大学生になり、流石に対外的な社会性の大切さに気が付き、斜に構えた態度は内面とSNSで大切に留めておくようになった。
「普通」になりたいとは特に思わなかったが、普通の何たるかは知っておいた方が良いと思い立った。その一環として、人気バラエティの「相席食堂」を観てみた。面白いと言われている回を選んで観たところ、これが中々面白かった。いつしか素直に楽しむようになり、シリーズの最初から通して観ていた。その最中、かまいたちの山内が出た回が強烈につまらず、不快感すら覚えた。つまらない癖にsupremeを着ていたのに余計腹が立った。消えかけていた芸人への嫌悪感が急激に吹き出した。
あまりに不快で、逆に興味が湧き色々と調べてみた。M-1なるお笑い(漫才)界最大の大会の存在と、かまいたちがそこでかなりの結果を残している事を知った。
自分は漫才が特に嫌いだった。コントを面白いと思った事はあるが、漫才で笑った事はそれまで人生で一度も無かった。これはよく言われるエンタの罪なのかもしれない。ジャリの頃好きでよく観てたので。
こんなにつまらない芸人が最大の大会で良い結果を残せるなんてどれだけお笑い界はレベルが低いんだと思い、ネタを観てやろうと思った。2018だか19だかのM-1を観た。
かまいたちのネタを見て、初めて漫才で声を出して笑った。面白かった。優勝したミルクボーイよりも面白かった。この時完全に芸人への嫌悪感が吹き飛んだ。内輪ネタや共有されたミームに頼らない、最大公約数的なお笑いでここまで面白くできるのかと。毎年M-1を観るようになった。良いと思う芸人のバラエティも。
その後数年経ち、やや熱は冷めてきた。テレビ的お笑いをつまみ食いして、自分は芸人やテレビ的笑いが好きというよりは、単にかまいたち他数コンビが好きなだけだったのだろうなと思った。
ただ、得られた事がある。フン、つまんね。これでプロなのか。などと思いながら品定めをするように観るのが間違いだった。笑いを求める人間が、「我慢しようと思えばできる」などと喧嘩腰になるのがおかしい。
あと、内輪感に入り込むという事を知った。確かに大して知りもしない芸人の内輪ノリは、見ていて不快さを覚える事も少なくないだろう。でも、前提となるミームや空気感を知り、彼らのノリに慣れてしまえば中々面白いものだ。たまにくどいなと思う事もあるけれど。ネットのユーモアとて、所見で笑えるようなキレのあるものもあるが、前提となる感覚や風潮を要するものも多いだろう。
漫才コントが下ネタや内輪ネタより高尚な笑いだとは別に思わない。テレビではとても出せないような下品でエッジの効いた笑いも未だ大好きだ。しかし最近、(多分ほぼインターネットだけで)流行っているオモコロ的なユーモアが苦手に感じるようになってきた。マイナーだけど特定層に深く刺さるようなあるあるや、気の利いたシュールさは、つい上手いなあと思ってしまう事もあるものだ。これも今までずっと愛してきた捻くれたユーモアの類だろうに。結局逆張りじみた感性そのものは変わっていないのだろうか。
逆張りがいけないとは思わない。自覚的な逆張りを貫ける人は好きだ。でも自分の価値観や信念に基づくというより、単にミーハーなものへの嫌悪感がそうさせているのなら、少なくともそれに自覚的であった方が良いと思う。芸人がよく言う「批評家気取りの素人」は、そういう素直さの大切さを言っているのではないかと思った。もちろんポジショントーク的なマウンティングもあるのだろうけれど。一度素直に受け止めて、それでも合わないなと思ったらその気持ちは大切にして良いと思う。嫌いは好きと同じくらい大切だ。
画一さや没個性を嫌う気持ちは誰にでもあると思う。その気持ちは大切にして良いものだとも。ただ、単にメジャーの逆張りをした所で、それはメジャーの裏返しでしかない。マイリノティにはなれるかもしれないけれど、それもまた没個性的なものだ。ありきたりだが、個性とは自分の好き嫌いを大切に重んじた先にあるのだと思う。
笑う時くらい小難しい事は考えない方が良いですよ絶対。
日本では'76年に、フィレス・レーベルの作品がまとめて再発売されたことがありましたが、ボックス形式としては本邦初で、しかもCDのボックスとしては今回が世界初ということになります。また同時に、<ヒーズ・ア・レベル>という、関係者のインタビューを中心にした本が白夜書房から発売されます。それを読みながらこのBOXを聞きますと512倍楽しく聞けることを保証致します。
1958年、17才にして彼は”スター”でした。この後ポップスの歴史を彩ることになるクリスタルズやロネッツ、キャロル・キングやバリー・マン、ビーチ・ボーイズやビートルズの誰よりも先に<NO.1ヒット>を持っていた!、このことが良くも悪くもスペクターのその後の人生を決定づけたと思います。ポップス史上、#1ヒットを星の数ほど作り続けたリーバー&ストラーや、ジョージ・マーチンも、自らの#1ヒットはなく、このことが彼を単に<プロデューサー>の範疇では捉えられない最大の理由です。<彼を知ることは、彼を愛することだ>というデビュー曲の<彼>は、もちろんスペクター本人の意味で、そこには強引さ、傲慢さも感じられますが、実はそれが力強くもあり、<スターの要素>そのものだともいえます。彼の仕事ぶりを評して、全てを自分一色に染めてしまう、という批判をよく聞きますが、これはことの本質を理解してい居ない人の発言です。かれは<裏方>ではなく<スター>なのです!それを、アーティストの持ち味を引き出すのがプロデューサーの仕事だ、という常識的な意味で彼を捉えようとするから批判的になるのです。彼こそが<スター>で、誰が歌おうか演奏しようが、他の人は全て脇役なのです。単に映画監督と言う視点でヒッチコックを捉えるとおもしろい解釈は生まれない、というのにも似ています。(誰が主演でもヒッチの映画になります。黒沢さんもそうですね。)
デビュー・アルバム「TEDDY BEARS SING」のB-1「I DON'T NEED YOU ANYMORE」の<ステレオ・バージョン>はナント、リード・ボーカルの女の子の声が左で、真ん中がフィルのコーラス、しかも、ところどころリード・ボーカルの3倍くらいの大きさでコーラスが<邪魔をする>といってもいいほどの前代未聞のバランス!です。
デビュー前からしてこうなのですから、自己主張とかワガママなどという、なまやさしいことではないのです。
SCHOOLもの
のちにブラック・ミュージックにのめり込んでいった彼ですが、スタートは白人ポップスでした。まずは自らのヴォーカリスト、ギターリスト、および作曲家としての才能を試すところからはじめた、というところでしょうか。'50年代後半は、まだ黒人音楽は一般的ではありませんでしたが、若者の間では熱狂的な指示を得ていました。スペクターもいろいろな黒人アーティストを聞いていたようですが、こと自分のデビューに関しては、世間的に穏便な方法をとったところなど<奇[...]
また'50年代中期には「暴力教室」をはじめ「HIGHSCHOOL CONFIDENTIAL」など<怒れる若者>をテーマにした映画が続々と作られ、その代表としてJ・ディーンが登場し、代表作が「理由なき反抗」-REBEL WITHOUT A CAUSE -でした。このように、当時の若者のキー・ワードの一つは<REBEL>であり、「乱暴者」のマーロン・ブランドのような皮ジャン、サングラス、バイクというスタイルが流行しました。
彼のでデビュー・ソングはたしかに<学園もの>でしたが、それまでの、例えばドリス・デイの「先生のお気に入り」調のホンワカしたものではなく、女の子が自分の想いを直接的、また積極的に<ナゼわかってくれないの?>と切々と歌い上げるというのは冬至の若者のフィーリングにピッタシきたようです。実はこの手法、スペクター特有の<ソフィスティケーションの中の直接性>というもので、彼を理会する上で大事なことなのです。
ある程度、あるいはそれ以上の音楽の素養がなければミュージシャンや作曲家になれなかったジャズと違って、ギター1本あればだれでもロックンローラーになれる、というのがロックの時代でした。子供が技術を会得して成長し、大人の仲間入りをするのがジャズだとすると、ロックは、子供が子供のままで音楽ができるというのが特徴でした。ヒョットしたらオレにもなれるかもしれないと、多くのシロウトがわれもわれもと参加したことが、音楽の単純化に拍車をかけました。ジャズが豊満でふくよか、とすると、R&Rは骨と皮だけといえましょう。ジャズが大人の音楽で、背景はナイトクラブと女性とお酒が似合いましたが、子供の音楽として誕生したR&Rの背景に一番ピッタリだったのはナント、<ガレージ>でした。
麻雀同様4人(あるいは3人)いればすぐにできたのがR&Rの特徴でしたが、ニュー・ヨークのようにせまいところで大声を上げれば、お母さんに怒鳴られるだけですからストリートへ出るわけです。50'sのDoo Wapブームの背景は街角-ストリート・コーナーが似合ったわけです。
それにくらべて土地の広大な中西部や西海岸は車がなければ不便なので、当選、どこの家にもガレージがあり、ここが若者の格好の練習場所となりました(蛇足ですが、今の日本のロックのサウンドの背景は<貸しスタジオ>--密室--ではないでしょうか?)。さて、楽器は感覚でどうにか弾けますが、作曲というのは簡単そうでもやはり多少の音楽の素養は必要です。しかし、若者の、なんでもいいからR&Rをやりたい!という想いはこんなことではくじけません。骨と皮だけのロックを、さらに皮も捨てて骨だけにしたのです。それが<ギター・インストゥルメンタル>でした。これは、楽器を感覚的にかき鳴らすだけですから、とりあえずだれにでもできました。ジャズの単純化がロックとすれば、これはさらに、ロックの単純化で、その極致であったわけです。
これが<ガレージ・サウンド>の正体でしたが、この時代に呼応するかのように、新しく生まれた現象がありました。それは、録音機が少しずつ普及し始め、ガレージや居間などでの<ホーム・レコーディング>が行われるようになったことです。そして、デモ・テープのような、ある意味では乱暴
チャートに登場するようになり、まさに音楽の大衆化が、内容だけではなく、音質までにも及んだのです(エルビスもバディ・ホリーもデビュー曲は地方の、オヤジさんが社長、オカミさんが専務、というような町工場風のスタジオで録音したものです)。
それまでの録音は、演奏者と録音技師はガラスを隔てて別々の仕事場でした。技師が演奏者にマイクの使い方を指導することはあっても、演奏者の方が技師に注文をつけるというケースはめったにありませんでした。しかし、ホーム・レコーディング特有の、機械いじりの好きな少年の思い付きや、また機材不足からひねりだした斬新な工夫は、新しいサウンドの母体となるのです。
スペクターは、テディー・ベアーズの録音の時から、スタジオ内と調整室を行ったり来たりして、録音技師を困らせていたようですから、コダワリの姿勢は最初からのようです(口述しますが、後年よくいわれるワグナー好きやソウル・ミュージックの追求というのは、スターにありがちな<後付け>である、と私は考えています)。
このホーム・レコーディングが、実は<スペクター・サウンド>の根幹なのです!<BACK TO MONO>の意味もこのことなので、一つのかたまり、大人数、熱気、乱雑の中の整理、複雑の単純化、そして<ホーム>、これが彼の求めたものでした。かたまりは<MONO>、大人数はミュージシャンの数、熱は<ハル・ブレインのドラム>、整理は<J・ニッチェのアレンジ>、単純化は<L・レビンのミックス>、そしてホームは<西海岸>、これがスペクター・サウンドの中味の分析ですが、詳しくはこれも後述します。
この当時のロックンロール少年と同じく、スペクターもギター少年でした。本名のフィル・ハーヴェイとしてインスト・レコードも発表しています。また'58、'59年はインスト・ロックの当たり年で、チャンプ栖の「TEQUILA!」が#1になったり、B・ホリーのインスト版ともいえるファイヤーボールズ、リンク・レイ、そしてジョニーとハリケーンズ、サント&ジョニー、サンディー・ネルソン(「TO KNOW HIM~」のドラムはデビュー前の彼です)、そして極め付きはギター・インストの王者、デュアン・エディーの登場でした。
日本ではなぜか、ほとんど評価されませんでしたが、ギターリストとして一番の人気とヒットのあった人で、そのサウンドのユニークさとポップ・シーンへの影響は大きいものがありました。またイギリスでの人気は特に異常で、'60年の人気投票では1位でした(すごい!)。近年リバイバル・ヒットした「PETER GUN」などは後の<007シリーズ>や<バット・マン>のもとになったともいえますし、日本では未公開の映画「BECAUSE THEY'RE YOUNG」のテーマは、彼の"トワンギー・ギター"と流麗なストリングスとのコンビネーションは、すぐアル・カイオラが取り入れて「荒野の7人」となって登場、西部劇のインスト・テーマの基本形となりました。また「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のジョージ・マーチン楽団の「リンゴのテーマ」も、まさにD・エディーのマネジャー兼プロデューサーがレスター・シルで、テディー・ベアーズの録音の際、隣のスタジオで仕事をしていて知り合ったといわれ、この人と出会ってなければ<スペクター・サウンド>はこの世に存在しなかったといえるほど重大な出会いでした。
シルはこの時すでにスペクターがプロデューサー向きであることを見抜き、早速契約を結び、最初に買った曲のタイトルがナント「BE MY GIRL!」。
スペクターについては、まわりにいた人に才能があったので、本人にそう才能があったわけではない、という人もいますが、これは間違いです。確かにまわりにいた人々は有能でした。しかし、彼はプロデューサーとして一番重要な要素である<何をやりたいのか>ということが明確にありました。それは前にも述べましたがいろいろな意味での<直接性>というテーマを持っていたことです。これはもちろんR&Rのイディオム(佐野元春調)ですが、荒々しいサウンドの中の直接性より、スペクターがポップスに折り込んだ直接性の方がより<暴力的>ですらありました。
例えば、R&Rの時代になって<BE>という動詞で始まるビッグ・ヒットは「BE MY BABY」が第1号です(BE CAREFUL~などの慣用句を除く)。簡単なようですが、作る側にまわってみると、これが簡単に言い切れるものではないのです。まさにこれをスパッと言い切れるのが<スター>なのです。「TO KNOW HIM~」の断定と「BE」の命令。このシェイクスピア調の、時代がかったともいえる口調が、逆に新味を呼んだのではないでしょうか。この大時代的で、且つ直接的な手法は「I WANT TO HOLD YOUR HAND」(ユーモアの点ではJ&Pの方が数段上ですネ!)に共通したものを感じます。
シルと契約直後、スペクターはD・エディのセッションを見学しています。さっそく実地訓練をさせようというシルの計らいで、時は'59年の4月の後半でした。この年のエディーの最大のヒットは6月に発売された「FORTY MILES OF BAD ROAD」(9位)で、この曲はナント<ベース・ドラムだけをイントロでフィーチャーした、ポップス史上初のヒット曲>なのです。さて、ベース・ドラムのイントロといえば「BE MY BABY」ですが、この2曲の因果関係についての疑問を、10年ほど前の<ニュー・ミュージック・マガジン>で発表したことがありましたが、時期的にはこの推論が成り立つようです。が、モチロン、その因果については全く憶測の域は出ておりません。
エディーのスタジオは1トラックのテープ・レコーダーが1台しかないという粗末な設備ながら、そのエコーを駆使してのサウンド作りは、特に録音にはうるさかった若き日のスペクターには刺激的な体験だったと思われます。トワンギー・サウンドの秘密であった水道管やドラム缶をエコーに使用するという一風変わった手法は(そのためシルは何10個もドラム缶を買い、しかも一番響きのいい缶を探したといいます)スペクターが興味を持たなかったはずはありません。
そのような多彩な録音技術を駆使していた人は、D・エディー・サウンドの製作者<リー・ヘイズルウッド>でした(エンジニアはエディー・ブラケット)。ヘイズルウッドといえばナンシー・シナトラとのデュエットやアストロノーツの「太陽の彼方に」の作者として日本ではおなじみですが、エディーのプロデューサーとして最初に評価された人なのです。
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中したスペクターは、一瞬たりともヘイズルウッドの背後から離れなかった>と発言しています。
その後シルは、スペクターをプロデューサーにすべく、今度はニュー・ヨークのリーバー&ストラーのもとへ送り込みました。’60年代の代表的なコンビがレノン&マッカートニーとすれば、’50年代はリーバー&ストラーの時代で、ロック・ビジネスを目指す人々にとっての目標でした。スペクターの学校の先輩でもあった彼らのデビューに一役買っていたのが、これまたレスター・シルでした。シルがマネージャーをしていたコースターズをきっかけに、ドリフターズ、そしてエルビスへの曲提供やプロデュースを行い、初のR&Rにおける独立プロデューサーとしての地位を確立したのがこの二人なのです。
スペクターにとって、このニュー・ヨークでの修行時代の最大の収穫はベン・E・キングのヒット曲「SPANISH HARLEM」をJ・リーバーと共作できたことでしょう。これはR&Rビジネスへの切符を手に入れた、つまり、お墨付をもらったということ......って、最大の自信となったことは疑う余地はあり.....
ま.... ドリフターズの「THERE GOES MY BABY」...にストリングスをフィーチャーする手法を....ことも<スペクター・サウンド>への引金になったと、私は思います。その手法でプロデュースしたジーン・ピットニーの「EVERY BREATH I TAKE」は、全くドリフターズ調でしたが、すでに<スペクター・サウンド>は出来上がっていた、ともいえる、本家を凌ぐ作品でした。<ゴフィン&キング>との最初の作品でしたが、この日のセッションにはリーバー&ストラーをはじめ、B・バカラック、B・マン&C・ウェイル、アルドン出版社の代表のD・カーシュナーら、そうそうたる顔ぶれが集まったといいます。そしてこの作品が、ここに集まった全ての人にスペクターの印象を強く与えることとなり、一緒の仕事が始まるわけです。特にこの曲で印象深いのはドラムのフレーズですが、G・ゴフィンの証言によれば、フィルはドラマーのゲイリー・チェスターに指示をして、それが実に的確だった、ということです。
この修行時代にすでに、J・ニッチェやH・ブレインがいなくても、これだけのものを作っていたことは見落とせません。スペクター・サウンドを作ったのはやはり彼なのです。
この曲は残念ながら大ヒットにはなりませんでしたが、来たるべき<スペクターの時代>の幕開けを飾るにふさわしい素晴らしい曲でした。
また、この頃、レスター・シルとリー・ヘイズルウッドは共同活動を解消、スペクターは新たなパートナー、いわば後釜としてシルと関係を結び、それが二人の頭文字を合わせた<PHIL+LES>の誕生となりました(シルとヘイズルウッドのレーベル名は二人の息子の頭文字から<GREG+MARK>というものでした)。
タイトル通り。
加えて私ら親はオッサンとオバハン。
唯一の救いは、お互いに安定した収入がある事。
だが、その額は決して高くは無い…。
残るのは微々たる物しか無い。
給料日当日、払うものを分けて薄っぺらくなった自分の給与封筒を持った夫が言った。
「…俺は支払いの為に働いているのかもしれない…」
それでも、楽しみながら節約レシピを参考にしては、新しい物に挑戦してみたりする。
作ったげようか?!もやしは安いし!」
そんな私に長女は穏やかに
「いいね、美味しそうだね」と答えてくれる。
そこに縦にも横にも急成長している男子が返答する。
「んじゃ、オレは肉」
だが、確かにもやしだけでは栄養がと考えさせられ、仕方なく肉を自分以外の家族全員分を買いにスーパーへ走るのである。
そんな毎日に、金を貯めるなんて余裕は本当に無かった。
この十数年の間に受験やら入学、卒業、そんなイベントの度に幾ばくかの貯金も底をつくことを繰り返して来た。
だから、タイトルにある家を買うなんて事は、夢のまた夢であり、憧れでしか無かったのだ。
それに、オンボロ貸家で暮らすこの日々は、不便もあったがそんなに悪く無かった。
近所の人に恵まれた事や、小さいながらも庭がある事。
薄すぎる壁のおかげで外の音もよく聞こえる。
夫の車の音もしっかりと聞こえたし、子供達の登校時の笑い声や、帰宅途中の元気な足音、すずめの鳴き声、行き交う人々の何気ない雑談。
私の住む地域は降雪量がそれなりにある場所で、冬はどうしたって厳しい。
何よりもしんどいのは夜、眠りにつこうとする時だ。
家族全員が眠りについてから、家事を終えた私は下の子の布団に入る。
この時点で寒過ぎる。
ストーブはついているのに、冷気がものすごい勢いで入ってくる。
そっと下の子の頬に手を当てると、もう冷え冷えになっている。
生きてるよね?!のレベルで、腹の動きを見て呼吸を確かめてしまうほどだ。
今でこんなに冷たくなっていては、夜中はどうなるのか。低体温になってしまうのでは無いかと不安になり、居ても立っても居られず冷気の入る場所を探り出す。
ここだ!と思ったのは、やはりドアの隙間。
一応クッション性のあるテープは貼られているものの、年数が経って冷風が吹き出しているでは無いか。
パッと部屋を見渡したら、使ってなかったマフラーが落ちていた。
我が家の2歳になる女児は、物色職人として日々働いている為、色々な所に色々な物が引っ張り出されている。
いつもであればヒステリックグラマーと化して片付けておくのだが、何度閉まっても出てくるマフラーを諦めていたのが幸いだった。
挟めてやった。
ものすごい発明だ、冷気には長い布だと自己満足し、さて寝るか…と思ったのも束の間、布団に入ろうとした私を吹き付ける更なる冷気を感じる。
確認。
ああ、もうダメだ。
ドアの四方全てから冷気が出てやがるとがっかりした。が、そんな事で諦める私では無かった。
外気温とほぼ変わらなくなった居間に行き、工具箱からマスキングテープを取り出す。
そしてドアの隙間という隙間にマステを貼りまくり、冷気・シャットアウト!!
何この達成感。
diyってこういう事なんだ、癖になりそう(後に違う事を確認)
自信を持って布団に入る。
後は安眠するだけでは無いか、冬に圧勝したと思ったその時だった。
………鼻が寒い…
下の子もやはり温まって来ない。
なぜ…?
せっかく入った布団から上半身を出し、ティッシュの切れ端を片手に冷気を探る。
「ヒュ〜〜………」
微かに冷気の音がする。
どこだ…どこなんだ…まさか…
そう、ドア横にあるコンセントの穴から、冷気どころか寒風が流れ出ている!!!
けれど、コンセント自体劣化していて、そこにテープを直張りする勇気など無かった私は、おもちゃ箱や授乳クッションを積み重ね、言うなればブルーメン音楽隊工法で冷気を横に逃す事にしたのだ。
寒い事は変わらないが、直接当たるより良いだろう…。
眠さも寒さも限界だった…。
もう布団に入るのは何度目だろうか、
二度と朝まで布団から出るまい。
「テーレーレーレーレーーレレーーー♪」
手は届かないだろうと確信していたが、今、上下逆になって足で延長を押すのはきっと無理だよなと色々悩んだ末、布団から出て行った。
ただの厄日だったかもしれない。
だが、私は決意した。
家買うと。
手を加えるにしても、また小金が掛かる。
潮時だ…。
きっかけはそんなこんなで、家を買いました。
今月とうとう引越しです。
嬉しいのと、寂しいのと、冷気への苛立ちと…
この気持ちを残しておこうと思い立って、書いてみた次第です。
今朝起きたらうちの居間は1.8℃だった
ボクサーを撲殺したのは僕さ
これから満で数つけるわ
ナンを何枚も食べるのなんて、なんでもないよ
新患の新幹線に関する新刊に新館を立てて震撼し信管が作動する。
ケニアに行ったら生贄や
柑橘類の香りに歓喜し、換気を喚起したが乾季が訪れたので、寒気がした。
塗装を落とそうか。
観光客がフイルムに感光させた写真を刊行することが慣行になった。
サボってサボタージュ
景気が良くなりケーキを食べる契機を伺う徳川慶喜(とくがわけいき)
夫を成敗するオットセイ
つまらない妻の話
竹の丈は高ぇなー
餅を用いて持ち上げる
ロストしたローストビーフ
サボテンの植え替えサボってんな
過度な稼働は可動範囲を狭める
伯爵が博士の拍手に拍車をかけて迫真の爆死をし白寿の白人を白紙にもどす。
紅葉を見て高揚する
甲子園で講師をする公私混同した孔子の実力行使には格子窓も耐えられない。
死んでんのか?「心電図を取ってみよう!」
夜祭で野菜を食べる。
信玄餅を食べながら震源を特定するように進言する新元素を発見した人。
蜂の巣(honeycomb)を見てはにかむ
五反田で地団駄を踏む
ようやく要約が終わった
海溝で邂逅
豪華な業
甲板で甲板をかじる
甲板で乾パンをかじる
店頭で転倒
大枚をはたいてタイ米を買う
醤油をかける人「えっっ?」
神田でした噛んだ
少食な小職
牛の胆嚢の味を堪能する
あの娘にはどう告っても(どうこくっても)慟哭する結果に終わるだろう。
キーンという高音の起因が掴めない。
こんな誤謬は秒でわかるだろ
壊疽した箇所が治るというのは絵空事だ
経口補酔液
痴的好奇心
セントーサ島に行くのは正恩が先頭さ
軽微な警備
冬眠する島民
ベットは別途用意してください
The deserted desert in desert desert.
九尾のキュービズム
罹災者へのリサイタル
画家の画架
不納が富農になるのは不能だ
理工がRICOHに利口な履行
I sensed tha it is in a sense sense.
私はそれをある面では扇子だと感じた。
鯖を食べている人と、それを見ている人の会話
鯖 ça va?
ça va 鯖
ça va
ゆめゆめゆめをみるわけにはいけない
早漏で候
凪に難儀
東上線に搭乗した東條が登場
高校を後攻で煌々と口腔で孝行
蝉が転んでセミコロン
道徳をどう説く
写真はフォトんど撮りません
ダリ「絵ぇかくのだりぃなあ」
華美な花瓶のカビに過敏に反応
檻に入っておりいった話をする
夏のおサマー
夜は寝ナイト
渦中のカチューム
渦中のカチューシャ
リスボンでリスがborn
どうないはどないなってんねん
苫小牧でてんてこ舞い
市内を復旧しないと
石狩の石を借りる
おが置いてあるのを見た人「おはおっかねぇーから置かねぇ方がいいぞ」
砂がどしゃーw
東上線に登場した東條が登場
飽きない商い
おなか吹田市
観劇で感激する
側転に挑戦し即、転倒
別件を瞥見
凹地のお家
魚を初めてみた人「うぉー」
カラヤンの頭の空やーんw
豚をぶった仏陀
只見線をタダ見w
菊名でそんなこと聞くなよ
五秒で死んで御廟に埋葬
がらんとした伽藍
有給を使いすぎて悠久の時が流れた
長谷に想いを馳せる
Thinkerの真価
不具の河豚
暗記のanxious
半世紀にわたる半生での藩政を反省
タンチョウが単調増加
ショック死内親王w
カルカッタの石軽かった
天皇のこと知ってんのー
蒋介石を紹介した商会を照会した商會の船で哨戒する
其方のソナタ
先王に洗脳される
防潮堤で膨張した傍聴人
砂漠で鯖食う鯖を裁く
筒に入った膵島
サイコロを使った心理テスト(psychological test)
カラシニコフが辛子個踏んだ
皇帝の高弟が公邸の校庭の高低差を肯定する工程に拘泥した記録を校訂
にようかで酔うか?
うるさい人が売るサイ
どんなもんだい、を、どんなムンバイ、と言い間違える人
透徹した饕餮の眼球
チャカで茶菓を破壊
slimyなすり身
ゆうほど広くない遊歩道
いにしえのイニシエーション
コーランをご高覧ください
K殻の傾角を測定する計画
協賛した共産党員に強酸をかける
負けたのは聖者の静寂のせいじゃ
裏地見るウラジミール
カミオカンデの上に紙置かんでw
県大会がおわり倦怠感を感じる
夕暮れのユーグレナ
ストライキをする公務員に呼びかける人「 Stay calm(公務)」
エド・はるみの穢
祭壇を裁断
腐卵ダースの犬
全然人が集まらないクラブの人「参加数人は我々の十八番ですから。だけに。」
四苦fuck
都バスが人を跳ね飛ばす
怒るカロテン「なにカロテンねん」
嫌がる慰安婦「いやんっ」
かえるがえる帰る蛙
沈厳な青梗菜
トリコロールの虜
布陣を組む夫人
栗けっとばすクリケット🦗
婉容と遠洋漁業
アマルガムで余るガム
ハラスメントの疑いを晴らす
滋賀を書けない人を歯牙にも掛けない
他意はないタイ人の鯛の態度
鯛が蛇足
ダジャレではない↑
割と面白い
ハラッパーの原っぱ
紫に関して思案を巡らす
Huluが夏の風物詩だと思っている人「Huluですなぁ」(風流)
下調べのムニエル
わからないので
意味ない諱
よく分からんリポーター「うわぁ〜美味しそうですね!少なくとも不味そうには全く見えません!」
どうしても下がりたくない人「黄色い線の内側は、境界を含みますか??」
計算ができない人
着ていく服を決めた高橋是清「これ着よ」
enough、enoughは工夫がenough
負け負け山(カチカチ山)
薬師丸せま子
トーマス・マンの書いたふるさと「うさぎ〜おーいし、魔の山〜♫」
その心は
焼結が猖獗を極める
これはstaleだから捨てるか
衒学的な弦楽を減額
完全な勧善懲悪
イボ人の疣痔
イブに慰撫
(訳 ぬるぬるしてるありふれた魚)
盲いるのに飯いるの?
アーヘンで阿片を吸った人「あー変」
毒吐く独白
明借りるアスカリ(車)
丁寧な砂浜「Could you九里浜」
ゴーンと奉公
その心は
サンクチュアリに山窟あり
熟れたウレタンは売れたんか?
清澄な声調を静聴し成長
プエルトリコで増える虜
象さんを増産
兄弟が今die
Dose heで始まる疑問文に答える京都人、Yea, he どす
ソフィカルのソロカル
美人局に筒持たせる
十把一絡あげ
篤信な特進が涜神を得心
これは何という植物かな?ムユウジュでは?あそっか、なるほど。
クートゥを食うとぅいいよ
マイソールで昧爽に埋葬
ドクサは毒さ
暗殺で朝死んだ
クラシックについて語る人をそしる人「弦楽なんてペダンチックだなあ」
凛々しいリリシズム
衛生的な俳人
御髪も亂とはオクシモロンだ
コロナ後の世界を分析する学問→postcoronialism
影響が色濃いイロコイ諸族
あてのあてないアテナイ
原作小説は読了済みで面白かったしドラマ向きだと思ったのでドラマも見た
まだ2話の段階だけど、主人公の男に嫌悪感しか覚えない。見ててイライラする
ズボラで杜撰な男で服は脱ぎ散らかし食べこぼしを気にしないテレビはつけっぱなし
ネタとして「伊賀忍者たるもの座って小便などできるかよ!」みたいな事は帯にも書かれてて、そういう描写も原作にもちゃんとあったが、映像で見るとキツイな
芸能人使ってるから見た目は良いが、人間性が欠片も感じられない
妻側に怒られて「歩み寄ろうとした」とか言い訳するけど、結婚してから2年半少しも改善されないし、小学生だってもう少しキレイに生活できるぞってレベルのだらしなさ
極めつけは妻の帰りが遅いからって居間でゲームしながらお菓子食ってジュース飲んでるシーンがあるんだけど、ジュースの水滴がテーブルに付くからって妻の大事な本をコースター替わりにしてふにゃふにゃにしちゃうんだが……お菓子を食べこぼす油付いた手でコントローラー触る。でも水滴は気になる。って特殊性癖かよ!
とにかく男のだらしなさをとことんまで前面に出してるドラマだった
あんなので結婚できるのがそもそもおかしいし、忍者だから忍びながら生活が難しいというよりあそこまでだらしない男はそもそも結婚に向いてないぞとしか思えない
でも逆の見方すると忍者の修行を乗り越えた女ですら男は顔で選ぶし顔に慣れたら文句しか言わなくなるという女の馬鹿さを描いてるという事でもある