はてなキーワード: 戦後とは
🤔なるほどなー
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%BD%90%E9%87%8E%E8%B3%A2%E6%B2%BB
「実際、戦後最大の疑獄事件であるロッキード事件でも関係者として国会に召喚されたが、この証人喚問で小佐野が繰り返した答弁「記憶にございません」は当時の流行語となった[2]。ただし、実際には「記憶『に』ございません」と答弁した記録はなく、正確な答弁内容は「記憶『は』ございません」「記憶『が』ありません」などの繰り返しである。」
娘の通う小学校が150周年だということで、記念のクリアファイルを持って帰ってきた。
ふと印刷されてる校歌の歌詞が目に止まり、自分も同じ学校に通ってたので「懐かしな」と眺めてたら、記憶に無い四番の歌詞があることに気が付いた。
「そうそう、四番はなんか歌わないことになってんだよね」と娘。
そういや体育館に校歌のプレートが掲げてあるけど四番の歌詞もあった気がする。でも歌った記憶は無くて、存在すら認知してなかった。
改めて歌詞を見ると『郷里とお国のために尽くせ』という内容で、あーこれは…となった。
なぜか家にあった郷土史を引っ張り出して調べると、前身となった学校から現在の名前になったのが120年前。
校歌の成立がいつかは不明だが、戦後になって「流石にこの歌詞を子供に歌わせるのは不味い」となったのは想像に難く無い。
ただ歌詞の変更や抹消までしなかったのは、歴史を忘れず考えるきっかけを得られるという点において慧眼だったと思う。歌詞としては存在するし特に隠しもしないが、歌わない。
恐らく消極的な落とし所として「歌わない」となっただけと思うし、なんなら「長いし、昔から歌うのは3番まで」という可能性まであるが。
およそ90年前と何も変わっていません。何も変わりません。
そして誰も責任を取りません。楽しく工作員やっていた連中とその意見を鵜呑みにする連中は誰も責任を取りません。その大多数は戦後の人口ボーナスでぬくぬく過ごしてきた連中と、その後の氷河期を管巻いてまごまご過ごしてきた連中です。
Swing state Trumpの有権者からの何百時間ものインタビュー映像を調べた後、他の要因が選挙の結果に影響を与えたのと同じくらい、民主主義に亀裂を引き起こした私たちの崩壊しつつあるメディアの風景が最も責任があると確信しています。
戦後、ニュースは三つの主要なチャネルによって支配され、公平性の教義のために、各局は同じ話を報告し、各問題の複数の側面をカバーしました。 視聴者は、主にニュースアンカーの性格に対する好みに基づいて、どのチャンネルを視聴したかを選択しました。 もちろん、このモデルには問題がありましたが、結局のところ、アメリカ人は共有された一連の事実を扱っていたことを意味しました。
共有された一連の事実は、私たちが今日住んでいる世界ではありません。
私のインタビューを通して、陰謀説は横行していました、そして別々の州全体で少なくとも5つの別々の機会に、私はビルゲイツが私たちの食べ物を改ざんし、彼の医療投資をより収益性の高いものにするために私たちの果物と野菜にプラスチックを加えていると言われました。
有権者との会話では、どちらの側も彼らが気にしていた多くの特定の政策問題に名前を付けることができなかったようでした。
この行動は有害ですが、私は毎日のアメリカ人を責めません。 非難は、彼らを追放し、幻滅させ、そして誤った情報を伝えたメディアに落ちます。
私はこの夏、アメリカの46の州に旅行しました。 トランプが勝った理由はここにあります。
フランク-S-周著
エゼキエル-A-ウェルズ著
エゼキエルA.ウェルズ'27環境科学のダブルコンセントレイターです&アンプ;エリオットハウスの工学と経済学. 彼は昨年の夏、彼のYouTubeシリーズ「Crossroads America」のインタビューを行ってアメリカの46州に旅行しました。”
3日前
民主党の選挙の損失の後の週、告発は党内のあらゆる方向で飛んだ。 一部の人は、ジョー・バイデン大統領が以前にレースから脱落することを利己的に拒否したことを非難しています。 いくつかは、主要な人口統計を提供し、国のための明確なビジョンを伝えるために失敗したためにハリスキャンペーンを非難します。 そして、人種差別と性差別が有権者をトランプに向かわせたと主張して、アメリカ人を非難する人もいます。
これらの要因は確かに存在しますが、私たちは絵の大きな部分を逃しています。
夏の間、私は米国の46の州に旅行し、全国の人生のスライスを強調するYouTubeシリーズを作成しました。 私の3ヶ月近くの遠征からの会話の中で、私はインフレが完全にバイデンのせいであると確信していた共和党員と、企業利益と普遍的な医療への欲求に不満を抱いているにもかかわらず、より穏健な候補者を望んでいた民主党と話しました。 すべての候補者の支持者から、私は衝撃的な量の誤報を聞きました。
Swing state Trumpの有権者からの何百時間ものインタビュー映像を調べた後、他の要因が選挙の結果に影響を与えたのと同じくらい、民主主義に亀裂を引き起こした私たちの崩壊しつつあるメディアの風景が最も責任があると確信しています。
戦後、ニュースは三つの主要なチャネルによって支配され、公平性の教義のために、各局は同じ話を報告し、各問題の複数の側面をカバーしました。 視聴者は、主にニュースアンカーの性格に対する好みに基づいて、どのチャンネルを視聴したかを選択しました。 もちろん、このモデルには問題がありましたが、一日の終わりには、アメリカ人が共有セットで働いていたことを意味しました
マンガやアニメ見てて、「あれ、このキャラ日本人じゃなくね?」って思ったことない?
金髪碧眼、鼻高くて彫り深い顔。おいおい、俺ら日本人が作ったはずの作品だよな?でも見た目はどう見ても欧米系。これ、どの作品でも結構ありがちなんだよな。
たとえばさ、ナルトとか進撃の巨人、BLEACH、ジョジョ、超人気作品だよね。でも、登場人物の見た目を冷静に見ると、これ日本人?ってなること多いよな。ナルトなんて忍者の話なのに金髪で青い目だぞ。進撃の巨人のミカサも「アジア系」設定なのに顔立ち欧米風すぎて笑えるわ。リアル日本人なら黒髪にアジアっぽい顔立ちでも十分カッコいいと思うんだけどさ。
で、気づいたんだけど、これ日本人だけじゃなく、海外の人も同じこと言ってんだよな。「なんで日本のアニメキャラは白人みたいなんだ?」って。それってもう、日本人自身が「白人らしい見た目=美しい」って無意識に思い込んでるんじゃね?
ここで一つ考えてみようぜ。なんで俺ら日本人、こんなに「白人っぽさ」に憧れるんだ?
戦後からずっとアメリカ文化に触れてきたってのがでかいと思う。映画、音楽、ファッション、全部が西洋風だったし、それが「オシャレ」とか「カッコいい」って刷り込まれてきたんだよな。
さらに、マンガやアニメも「欧米でウケること」を狙ってる節がある。結局、欧米市場で売れるためには、「彼らに親しみのある見た目」に寄せた方がウケがいい。だから、キャラデザインも必然的に白人っぽくなっちゃうんだろうな。
でもさ、これって日本人らしさを削ってまでやることか?俺らの文化を発信するはずのマンガやアニメが、結局は欧米の影響を受けた「白人っぽい作品」になっちゃったら、それもう日本の作品って言えるのかな。
俺らが求めてるのって、本当に「白人っぽいキャラ」だけなのかな?
たとえば黒髪で切れ長の目、ちょっと控えめな見た目でも、内面がめっちゃ熱いキャラとか出てきたら、それってすごく共感できると思うんだよな。だって、日本人としてのリアルな感覚に近いからさ。
それに、海外の人も意外とそういうキャラ好きだったりするんだよ。「日本らしいキャラ」に憧れる海外ファンも多いし、むしろそういうキャラを見たいと思ってる人もいるんじゃない?だから、もっと日本独自の美意識を取り入れたデザインが増えてもいいと思うんだよな。
最近は多様性が注目される時代だから、マンガやアニメのキャラクターももっといろんな見た目があっていいと思う。もちろん、白人っぽいキャラがいてもいいけど、そこに日本人らしいキャラや他の文化を反映したキャラが加わると、もっと魅力的になるんじゃないか?
結局のところ、日本のマンガやアニメって、日本人が作ってるからこその「特別さ」があるはずだよな。その特別さを活かして、日本人らしいキャラクターやストーリーをもっと大事にしていけば、世界中のファンも「これが日本の作品だ!」って感動してくれると思うんだよ。
どうだ、俺らもそういう未来を期待しようぜ!
まず、歴史的に言えば、外交政策においてはしばしば「親中派」「親米派」といったレッテルが貼られるけど、そんな単純な話ではないんだよ。例えば、戦国時代の「三顧の礼」の話を思い出してみなよ。劉備が諸葛亮を迎え入れるために三回も足を運んだわけだが、その時の目的は単に一方の力を借りることではなく、全体のバランスを取ることだったんだよ。石破茂だって、単に中国と会うからといって「中国寄り」だって断定するのは浅はかだと思うよ。
歴史的に言えば、例えば昭和の外交でも、日本はアメリカとも中国とも関係を持ちつつ、自国の利益を追求してきた。戦後、吉田茂や池田勇人が行ったような外交は、特定の国に偏ることなく、日本の位置を確立するための調整の連続だったんだよ。だから、単に習近平と会うという事実だけで石破を評価するのは、歴史の流れを見誤っている。
それに、石破茂が中国と会うことに対してそんなに疑問を感じるなら、あなた自身が「強い国際関係」をどう築くつもりなのかも見直してみたほうがいい。中国とは経済的なつながりが深く、無視するわけにはいかないからね。近代化の歴史を見ても、諸国は互いに協力し合いながら成長してきたわけで、「どちらか一方に寄る」というのは、むしろ賢明な選択とは言えない。
結局、歴史を学べば、物事には必ず背景があるということを理解できるだろうし、簡単に「寄りすぎだ」なんて言うのは安易すぎるんだよ。
当たり前だけど全て主観です。
戦後から現代に至る女性向けのハイファッションのベースを作ったと言っても過言ではないと思う。
ココ・シャネル以降、ハイファッションが多様化しドレス服に限らない仕事や遊びにも使える自由でモダンな服が広がっていった。
彼女がいなかったらモードの世界も欧州に閉じたローカルで予定調和な文化に留まっていたかもしれない。
シャネルのショーウィンドウ見るたびに思うけど分かりやすい流行を取り入れようとしない。
一見するとコンサバに見えるんだけど一方でちゃんと新しさを感じる。
ハイファッションというか上流階級のファッション。ドレスの再定義をした人かな。
実際現役時代の写真を見ると素材使いと仕立てのバランスがめちゃくちゃいい。男目線でもドレスの膨らみと丈のバランスとか神がかったセンスだと思う。
と思ったがサンローランがデザインしてた時代かもしれん。古すぎてよく分からん。
のちにエディ・スリマンのディオール・オムで再ブレイクしたのはもう別物と思ったほうがいい。
あれは元のクリスチャン・ディオールとはほとんど連続するものがない。
80年代から90年代にいたるモード不毛の時代に数々のレガシーブランドを若返らせることに成功したらしいがあんまり知らない。
初代デザイナー引退後にブランドを畳まず再構築するために外部からデザイナーを雇うことは今では当たり前だがこの人がそのテンプレートを作ったんだと思う。
彼がいなかったら業界全体がオワコンになり昨今のラグジュアリーブランド全盛時代(最近中国の不況でまた陰ってきてるみたいけど)はなかったかもしれない。
素っ気ない服でも素材や仕立てによってラグジュアリー足りうることを示した。
「アンコン(ストラクテッド)ジャケット」といって肩パッドが入ってないジャケットを作ったのもこの人。
一度ジャケットを試着したことがあるが軽くて仕立てがきれいで買おうかと思ったけど想像の2倍近い値段で諦めた。
ボロファッション、左右非対称、切り替え、脱色、縮絨、製品染め、ジェンダーレスなどあらゆる手法を使って既存のファッションを脱構築してきた。
パリコレデビューから40年以上経つのに未だ健在。コムデギャルソンのフォロワーも出身デザイナーも多い。
一時期ハマったがジェンダーレス風味が強くなってきて手を出さなくなった。
ハイファッション史上ということでアントワープ勢から一人は選ばないといけないんだけど自分はマルタン・マルジェラでもラフ・シモンズでもなくドリス・ヴァン・ノッテン。
革新性という意味では他の5人と比べると穏やかで分かりにくいが、彼も伝統服やワークウェアの様式を持ち込んでハイファッションとして昇華するという重要な役割を担ってきた。
少しひねりがあるがいわゆる「着れる服」でハイファッションのリアルクローズ化を進めた。
グッチの起用で大ブレイク。80年代完全に死んでいたグッチを蘇らせた。
本人の見た目通り男性向けにはマッチョな服、女性向けにはセクシーな服で現在のジェンダーレスな世界とは一線を画すが、ハイファッションらしく仕立てがよく品が漂うのはやはりセンスの賜物だろうと思う。
日本人の平板な体型には最も似合わないであろうデカいピークトラペルのジャケットには憧れた。
あのラペル見ただけでトム・フォードって分かる。
ハイファッション史上というとちょっと役不足な感もあるが、2000年代のタイトファッションの潮流を作った人で当時抜群の人気を誇ったので挙げざるを得ないか。
オーバーサイズ全盛の今では信じられないが、当時スキニーじゃないジーンズなんてアメカジ好きなコンサバおじさん以外は見かけなかった。
それくらい人気が高くハイファッション内外への影響力が絶大で、セレクトショップオリジナルでコピー商品をよく見かけた。
ディオール評でも触れたがブランド再構築というよりブランドクラッシャーだと思う。
今はセリーヌでフィービー・ファイロ後の後始末をやってて残念な感じ。
ここ10年のモードとストリートファッションのクロスオーバーはキム・ジョーンズがきっかけだったと思う。
単にストリートの形式を流し込むだけのパイプ役に留まらず、非常に有能なデザイナーでもあり固有の世界観とセンスを持っている。
ブランドイメージを壊さないギリギリのところで着地させるセンスはとても現代的でブランドからも使い勝手が良いのだと思う。
マーク・ジェイコブスと似てる。というかルイ・ヴィトンがそういうデザイナーをうまく見つけてるのかな。
今はディオールをリブランディング中でちょっと落ち着いてしまった印象。
もう1人誰だろう?
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%8B%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%8B/
じゃか‐じゃか の解説
[副]
「楽器を乱暴にかき鳴らす」ような音が「じゃかじゃか」という擬音になるのは自然だが、おそらくそれが比喩的に「乱暴に書き散らす」ような行為にも適用されるようになったのだろう。
「細かくコントロールされない大きな動作」というのがコアイメージか。
「じゃんじゃん」「じゃぶじゃぶ」なども近い音・意味であり影響があるかもしれない。
じゃかじゃか 鳴物を喧しく鳴らす音にいふ語
などと載っているが、二番目の意味はない。
といった用例が見られる。
じゃかじゃか。ぬかるんだ道や水溜りの道を歩く際の様子。擬態語。
じゃがじゃが、それでいいとよ(そうだよそうだよ、それでいいんだよ)
じゃかじゃか 絶対違う(重複強調)
といったものは散見されるが、先述の「じゃかじゃか」の意味からはいずれも遠い。
いまのところは「物事が勢いよくたてつづけに行われるさま」という意味での「じゃかじゃか」が方言だという話はなさそうである。
勇猛果敢な雄弁も使いつつ裏があると
2016年にムサ・アル・ガルビがニューヨークに初めて来たとき、彼が最も気づいたのは「人種化されたカースト制度」の存在でした。その制度のもとでは、「使い捨ての召使い」が「あなたの家を掃除し、あなたの子供の世話をし、あなたの犬を散歩させ、調理済みの食事を配達する」のです。
この「使い捨ての召使い」は、その仕事に対して「わずかな報酬しか得られず」、ほとんどが黒人やヒスパニックで構成されており、サービスを受ける側はほぼ白人ばかりでした。しかし、誰もこのことに言及せず、「これが普通の社会のあり方だ」と考えられていました。
アル・ガルビが描写しているのは、超富裕層の集まるアッパー・イーストサイドや、億万長者たちのたまり場であるスカーズデールではありません。彼が在籍していたのはコロンビア大学であり、「人種カースト制度」で利益を得ていたのは同級生たちでした。その多くは社会正義について声高に語っていましたが、自分たちの生活を支えている社会階層の底辺の人々のニーズにはほとんど無関心でした。
4年後、同じ学生たちの多くがBlack Lives Matterの抗議に参加しました。アル・ガルビは、彼らがニューヨークのアッパー・ウェスト・サイドのブロードウェイで、同じ場所を共有している「靴も持っていないホームレスの黒人男性たち」に気づかないままデモをしているのを見ました。抗議者たちは「Black Lives Matter」と主張しながら、ホームレスの人々が使っていたベンチを占拠していて、どうやら目の前の「黒人男性たち」には関心がないようでした。
このように、社会正義を求めて活動するリベラルな学生たちの信念と、周囲にある現実の不正義への無関心を示す行動との間にある絶え間ない不一致により、アル・ガルビはその矛盾を理解するために本を書くことを決意しました。『We Have Never Been Woke』はアメリカで出版されたばかりで、間もなくイギリスでも出版される予定です。アメリカの選挙の背景を理解するための有用な出発点の一つとして、この本が挙げられます。なぜなら、選挙の物語は、アル・ガルビが感じた不一致に気づく人々と、それに気づかないか、気づこうとしない人々の分裂という観点からも見ることができるからです。
コロンビア大学の活動家たちが周囲の目に見える不正義を無視している中で、なぜ彼らは社会正義の言葉を採用したのでしょうか?言い換えれば、現実の不正義や不平等が無視される世界で、その言葉はどのような役割を果たしているのでしょうか?これらは、学生時代のアル・ガルビが悩んだ疑問であり、その本の核心をなしています。
彼の答えは、社会正義の言葉、すなわち「ウォークネス」は、実際には社会正義を目的としたものではなく、むしろ特権の階段を上り続けたいが、自分たちがエリートであるとは見られたくないエリート層を結びつけるイデオロギー的な接着剤の役割を果たしているというものです。
「ウォーク」という言葉自体は、あまり有用な言葉ではなく、分析よりも軽蔑の意味で使われることが多いものです。アル・ガルビはこの点を認識しており、侮辱として使われることを避け、定義することさえ拒んでいます。彼にとって重要なのは、この概念が実際に支持者や批判者によってどのように利用されるかです。
アル・ガルビは、「象徴的資本家」の闘争こそがウォークネスを理解する鍵だと主張しています。「象徴的資本家」とは、シンボルやレトリック、イメージやナラティブ、データや分析、アイデアや抽象概念を扱う専門家、つまり作家や学者、芸術家や弁護士、美術館のキュレーターや技術専門家を指します。この社会階層は、エリートの中で自身の地位を固め、すでにそこにいる他者を押しのけるために、社会正義の言葉を利用して地位と「文化資本」を蓄積しようとしています。彼らの闘争は、貧しい人々や弱者のためにエリートと戦っているように見せかけながら、実際にはエリートの内部での闘争なのです。
これは単なる皮肉や偽善ではないとアル・ガルビは主張しています。象徴的資本家たちは、自分たちの社会的役割についての神話を構築し、それによって不平等や不正義を助長しながらも、公正や平等を信じていると本気で思い込んでいます。この神話は多くの社会機関や権力者によって受け入れられています。その結果、社会正義の言葉は「不平等を正当化し、覆い隠す」ことに役立ち、エリート層がそのエリートとしての地位を強化し続けるのを可能にし、それはしばしば本当に脆弱で、疎外され、貧困に苦しむ人々の犠牲の上に成り立っているのです。
この議論の多くの側面は、例えば文化理論家のキャサリン・リウや哲学者のオルフェミ・タイウォによって以前から表現されてきました。リウは、プロフェッショナル・マネジャー階級が自らの自尊心を高めるため、そして「普通の労働者階級の人々に対する揺るぎない優越感」を正当化するために、「美徳を貯め込んでいる」と主張しています。また、タイウォは『Elite Capture』の中で、異なる視点からではありますが、エリートが急進的な政治を自分たちの目的のために取り込んでいると述べています。
これらの作品は現代政治の不条理を理解するのに重要です。例えば、アメリカの民主党(および多くのヨーロッパの社会民主主義政党)が次第に富裕層と高学歴者のクラブと化している理由、そして多くの労働者階級の有権者がそれらを見限るようになった理由を説明しています。また、象徴的な表現や言葉の取り締まりには熱中しつつ、現実の物質的な不平等には関心を持たない私たちの文化の執着も浮き彫りにしています。
しかし、これらの議論には、注意しなければならない落とし穴も存在します。社会正義の活動家が物質的改善のための闘争を放棄し、文化的エンパワーメントを目指すようになったのと同様に、多くの批評家もまた、新たな「文化的エリート」を主要な問題とみなし、私たちの社会における真の物質的な権力の根源を無視するようになっているのです。
今日の社会活動の質が低下した背景には、歴史的な変化があることを見失う危険もあります。アル・ガルビは、現代の「ウォーク」政治の盛り上がりは、一連の「覚醒」の最新の段階に過ぎないと主張しています。これらの「覚醒」は、1930年代に学生たちが共産党や他の急進的組織を支持したことから始まりました。
しかし、それでは変化の現実を見逃してしまいます。例えばアメリカの共産党は、1930年代のアメリカにおいて、彼らは反人種差別運動や労働者の権利擁護に重要な役割を果たし、他の急進派、社会主義者、労働組合員、黒人活動家と共に、戦後の公民権運動の基盤を築く助けとなりました。
特に、ジム・クロウ法が支配する南部のアメリカでは、彼らはシェアクロッパーや製粉工場労働者、ホームレスや失業者の組織化を支援しました。これらの活動家たちは、ブロードウェイで抗議していた人々のようにコスプレをしていたわけではありませんでした。彼らは自警団によるテロや警察の暴力に直面し、命を落とした者もいれば、多くが投獄されました。しかし、彼らは人種を超えた階級連帯の可能性を示したのです。
こうした連帯運動が崩壊したことが、社会正義運動の質の低下と労働者階級の利益の放棄を招いたのです。そのことを理解することは、「象徴的資本家」の役割を理解するのと同じくらい重要であり、変革のための運動を再構築するためには不可欠です。
砂糖の過剰摂取は人々の健康に悪影響を及ぼすといわれていますが、実際に人々が幼少期に摂取した砂糖の量を測定し、その後の健康状態を知ることは困難です。そこでアメリカやカナダの研究チームは、第二次世界大戦中から1953年まで砂糖が配給制だったイギリスの人々を対象に研究を行いました。
イギリスでは第二次世界大戦中の経済的困難により、政府が食料の配給制を導入せざるを得ませんでした。肉や砂糖といった一部の食品は戦後もしばらく配給制が続けられ、砂糖の配給量は成人でも1日40g未満に抑えられ、2歳未満の子どもは0gでした。もちろん、親は自分が配給を受けた砂糖の一部を子どもに分け与えていた可能性が高いですが、自由に砂糖が手に入る時期と比べると子どもの砂糖摂取量は大幅に少なかったと考えられます。
配給制が終わると、イギリスにおける砂糖の消費量は一気に増加し、1日平均で約80gに達しました。この劇的な環境変化により、研究チームが「砂糖が配給制であり幼少期にあまり砂糖を摂取できなかった人々」と、「幼少期から砂糖を比較的自由に摂取できた人々」を比較することが可能になったとのこと。
研究チームはイギリスの大規模バイオバンクであるUKバイオバンクから、砂糖の配給制が廃止される前後にまたがる1951~1956年に生まれた6万183人のデータを抽出し、胎児期から幼少期にかけた配給制の有無と成人後の健康状態の関係を調べました。
分析の結果、妊娠から生後2年間の約1000日間にわたって砂糖が配給制だった子どもたちは、成人になってから2型糖尿病を発症するリスクが平均35%低く、高血圧の発症リスクも約20%低いことがわかりました。
赤ちゃんが母親の胎内にいる時点で配給制が解除され、生後は砂糖が自由に手に入る状況だった場合でも、成人後の慢性疾患の発症リスクは低下しました。また、たとえ成人後に2型糖尿病や高血圧になったとしても、胎児期から幼児期にかけて砂糖の摂取が制限されていた人々は2型糖尿病の発症時期が約4年、高血圧の発症時期が約2年遅くなる傾向がありました。
文字数稼いでるの?
それとも大綱に「訓示等では事あるごとに『戦後最も厳しく複雑な安全保障環境』を使用することで防衛費予算増額の必要性を日夜アピールしていくことを目指す」とか書かれているんか?
正確に言えば(米国版)ド・ゴール主義者であり、ド・ゴール主義者(ゴーリスト)が「フランスの存続のためにフランスは外国に依存すべきではなく、フランスはいかなる外国の圧力に対しても従属すべきではない」と言う文脈と同じくして「米国の存続のために米国は外国に依存すべきではなく、米国はいかなる外国の圧力に対しても従属すべきではない」とトランプ次期米大統領は言っている。
WW2後の欧州は米ソ超大国に挟まれ経済的にも軍事的にも外交的にも主導権を失った。
欧州主義の中でも更に、ロシアを含む大欧州か含まない広域欧州かという区分もあった。
そのために対米自立が必要であり、手段としての独自核武装と独自外交だった。
というわけでド・ゴールと現代のアメリカは全くというほど関係がない。
アメリカ大陸には欧州のように国家がひしめき合っていない。そもそもアメリカは合衆国だ、欧州の国が州になったような存在だ。
採点 0点
電脳の世界にダイブとか言ったって飯を食わないと死ぬし身体を動かさないと死ぬ
なので:どれだけデジタルで稼ごうがどこかの段階で物質に交換しないと意味がない。現実世界で食品や衣類など物質を入手する手段がないと死ぬし、肉体健康維持のための住環境や社会環境がないと死ぬ。農場や工場がないと死ぬし、そこで働く労働者がいなくても死ぬ。戦後の闇市までいかずとも資産の現物化の手段確保は考えておく必要がある
どれだけ論理的な発言を言おうと殴られて人は死ぬし、殴られ続ける痛みの中で発言し続けることもできないし思考もできない
なので:体の大きさは絶対的なアドバンテージであり殴る蹴るの筋肉量が価値。社会の構築に暴力のコントロールは必須、できなければ死ぬ。暴力行使に抜け道を作った時点で暴力を行使する奴以外は死ぬので全員が暴力を行使する以外の道はない。暴力は場所も時も選ばないので暴力行使の可能性が示唆された時点で他のコミュニケーション手段はない。ぶつかりおじさんや強盗がはびこる現状では武装はやむをえない
一人より二人がいいさ。人間の頭数は多ければ多いほどいい。実際に多人数を方向定めて動員するための仕組みを機能させればなおいい。実験は回数。再現性ないとは実験回数がないつまり数が足りないことの意。狙い撃ちより数が大事。データは圧倒的に数。粗データを語学や史料読解を通してフォーマット揃えて数を確保するの大事。全て「戦いは数だよ」。ドズルは常に正しい
なので:人口多い方がいい。ロシアウクライナ戦争を経てそれを認識できないやつは無能。さらに実際に動員できる人口が多い方がいい。教育がないと実稼働要因を増やせない現実を無視する今だけ効率厨資本家は無能。動員する仕組みを機能させられない管理職は屑。せっかく作った労働者の自発的動員を最大限促す仕組みである国民国家を機能させられない管理者階級はいるだけ無駄。多数派を見極めろ