はてなキーワード: へぇとは
ここは匿名なので何でも書けるはずで、そして未成年よりは大人の方が多いと思うんだ。
で、大人なら毎日8時間労働をするとして、週に40時間も仕事をしていれば思うことの一つや二つあって然るべきなのに全然話題に出さないのは何故なんだ。単に注目を集めていないだけかもしれないけど、こっちとしてはその業種で実際に働かないと分からないような専門的な愚痴を「へぇ~」って聞いていたいのに、そういうエントリが全然なくてなんだか拍子抜けしちゃったよ。
話題に上るのは妻がどうとか、夫がどうとか、そんなんは個人の家庭でやってくれ。
こっちはもっと広い世の中についてを知りたいんだよ!!
歌舞伎揚げは敢えて少し物足りない味にしてある。そうする事でもう少し、もう少しだけといつまでも次の手が伸びる。
っていうのを昔テレビで観て、それを今でも妙によく覚えてる。
欲を満たすのは人生たった一つの目的であり楽しみだけれど、それに振り回されるのも疲れる。その気分の波を乗りこなすのが人生を楽しむコツなのだろうけど、おれは自制心が超弱いので振り回されてばかりだ。
例えば一度アレを食いたいな、と思ったら四六時中その事ばかりに頭を支配される。
ガキの頃は今に輪をかけてそうだった。
トーマスのチューイングキャンディが好きだったけれど、一本じゃ満足出来ない。しかし聞き分けのないガキに徹する事も出来ないからねだれない。食べる度に満足よりもむしろフラストレーションの方が募る。
チューイングキャンディの事など忘れたまま高校の頃になって、ふと今ならいくらでも買える事に気が付いた。それに限らず、色んな憧れの駄菓子が買い放題だ。
しかしスーパーで高校生一人が大量に買うのになんだか異常な気恥ずかしさがあった。店員は気にしないだろうが、おれは気にする。
「いや差し入れですけど?」とか「弟に頼まれただけですけど?」的な顔つきで自分を騙そうとしても無理だった。方々で少数を買い集めるにしても、単品で買うのは気恥ずかしい。さりとて月5000円の小遣いじゃダミーの品を買う金も惜しい。
通販で買うにしても、あの手のものは大体マケプレ出品なのでコンビニ受け取りも出来なかった。
駄菓子ドカ食いは大学入学に持ち越され、一人暮らしを始めて真っ先にした事はそれだった。
とにかく食いまくった。毎日食った。
今や貼りたい場所もない転写シールの処遇に迷いながら、ハイチュウグレープ味と寸分違わぬ味である事に気付いたりしながら食いまくった。
食材を買うのが億劫な時はチューイングキャンディで餓えを凌いだりもした。腹持ちは非常に悪かった。
他の駄菓子も同じく食いまくった。
一切の妥協なく欲を満たすという体験は人生でこれが初めてだったかもしれない。
ゲームもしまくった。一月で500時間くらいMGSVTPPをやってた。今までは指を咥えてプレイ動画観るだけだったり、コソコソと携帯機で古い作品をやってばかりだっのが、今は自分の手でシリーズ最新作をプレイしている。まあ当時は発売からもう結構経ってたけど。
憧れてたマーチンも買った。靴擦れすらも喜ばしかった。嘘。でも絆創膏だらけの足をブーツで包んで涼しい顔しながらほっつき歩くのは気分が良かった。
ギターも買った。デカくて部屋に置いとけば目立つギターを。黙って買えばグチグチ言われるのが明白だし、かと言ってなんで小遣いでモノ買うのに一報入れなアカンねんという悔しさもあって買えなかったギターを。
バイト代もあるし、今まで誤魔化し続けてきた欲望とがっぷり四つで向き合った。
そんな生活の中で、自分の欲望はやはりドクダミのようにガンコである事に気が付いた。
十分食べたな、もうこれ以上はいいかな。というラインで止めてしまったらダメだ。
それは短期的に言えば「満足」のようにも思えるが、より大きなスパンで言えば到底満足とは言えない。また何かの拍子に同じ欲望が再来して自分を苦しめてくる。
これ以上食べたくない、もう嫌だ、二度と見たくない、というレベルまで行く。欲を食べ尽くさなければ満足とは言えない。
それまでは本当に欲望に悩まされてきた。
ふとした拍子に湧いてくる欲望は、最初は楽しげな期待をもたらしてくれる。しかし満たされなければ次第に苛立ちへと変わっていく。
適宜満たしてやっても良いが、そんな欲を抱え過ぎていては疲れる。時々「飽き」て殲滅した方が良い。
満足な生き方という観点において欲望、即ち「好き」を減らしていくのは持続可能性において問題があるのではないか。なんて懸念もあったけれど、情報過多の社会では杞憂だったみたいだ。割と定期的に新たな欲は芽生える。適度に「飽き」て剪定してやれば良い。
シンプルに欲との付き合い方が下手なのかもしれない。でもこういう生き方があったっていい。ファッキンブッダ。
こんなに苦しい思いをするのなら恋しなければ良かった、的なJ-POPに近い。
いやそれよりも浮気症の人間が悔いの残らないほどに激しい恋をして、また別の出会いを求めるという恋愛依存症めいた話かもしれない。
でも鶏皮だけはいくらもう飽きたと思うまで食っても、また食べたいという思いが不死鳥のように蘇ってくる。心の底から好きなんだと思う。
そりゃワイドショーとかでは「なぜ流行っているか」みたいな真面目な取り扱い方するだろうけど、道行く人がそれで感想言いあったりしないでしょ?
鬼滅なら「炭治郎がかっこよかった~」みたいな感じでしょ?
元来オタクっていうのはそういう作品に対してアカデミックな感じで向き合うのが主流で、高齢オタクなんて今もそう。ヨxistにもかなり若い人がいるけどもそういう方向性が好きなんだよ。
また鬼滅で例えると、「輝かしい未来が想像できないから幻の中に逃亡していく、幻を見るために列車に乗るというのは、極めて現代的な描き方である~」とか「禰豆子は『白い女』か『赤い女』か~」みたいな一般人にはよくわからんアカデミック対談よ。
これ俺が適当に書いたわけじゃなくて、noteでこういう対談あるのよ。(出典は自分で探してくれ。下手にリンク張って変なことに巻き込まれたくない。)
もう一度聞くけど、道行く一般人こんなことしてる?
テレビ番組で例えると、
一般人の場合はゴールデンタイムの番組で、観覧のお客さんもいて、数十人の芸能人がライトなところを楽しくワイワイ感想を言い合う感じだけど
オールドオタクの場合はCS放送で、観客無しで、2,3人の専門家がディープなところをじっくり静かに討論しあう感じ。
時々バラエティでも深夜にディープなことを語り合う番組あるけど、そういう比較的ライトなノリじゃなくて、ガチの大学の授業。学会の研究発表。超お堅い。
こう考えると、ブルアカで「過酷なオ〇ニー」っていってるのはどちらかというと一般人的な態度になるのよ。
大概の人間がAVやグラビアで「エッッ!!」ってやってるのを、一部の人間がアニメやゲームで「エッッ!!」ってやってるだけ。それがあなたが言ってる「オタク」。
別にブルアカもエロだけじゃないしね。ストーリーもちゃんとしてるし、そこで出てくる感想も「このストーリー良かった」みたいなよくよく一般人がやるようなものばっかり。
時々「このキャラって〇〇をもじってますよー」みたいな豆知識っぽいものがツイートに上がってきて、みんな「へぇーそうなんだー!」で終わる。
ここから実際の歴史と絡めてあーだこーだなんて行われてるの見たことない。
「一般人だから真面目に討論して、オタクだからエロネタにしてる」は大間違い。
「一般人だから娯楽として緩く楽しむけど、オタクだから真面目にガチで深く向き合う」が正しい。
今年の春までSLAM DUNKど素人だったが図書館に全巻あったので数冊ずつ借りて読破した私だけど、THE FIRST SLAM DUNK復活上映を観に行った。面白かった。
主人公が桜木花道から宮城リョータに変更されている事は気にならない。そもそも原作の主人公が桜木花道というよりバスケそのものという感じがしたので。
OPで線画から描き起こされて歩き出し色がついていく湘北メンバーにおおっ! ってなった。みんなバスケットマンらしい体型になってる〜! 原作は時代柄か登場人物の体型がシュッとしてるけど、今時はリアル路線でも全然OKな感じだよなぁ。特にリョータは首の太さがだいぶ違う。小さい頃からめちゃめちゃバスケしてた設定だからかなあ。花道は運動神経がすごく良い人が筋肉つけた感じだし、流川はバランスが良くて動きが敏捷そう。三井はスタミナなさそうw ある意味一番普通の高校生っぽい。普通じゃないけど。赤木は原作とそんなに違わないというか、ゴリという渾名をつけられているものの下半身はシュッとして細いというのは、やっぱり作者の拘りポイントなのかな。めちゃめちゃ筋トレ頑張らないと筋肉つかない人が無理矢理鍛えたらこうなった、という印象は動画になっても変わらない。
筋肉といえば河田(兄)がすごくて、あの硬いゴム毬の集合体みたいな肉体をこんなリアルに表現してしまうのかあ! 丸ゴリまじ丸ゴリ。殴ったら殴った方が怪我しそう、見るからに。河田(兄)が立ちはだかると圧の強さが半端ないけど、見ててゴムゴムの壁ってワードを思いついたがすぐにそれは何か違うと思い直した。
河田(兄)だけでなく山王は全国No.1チームらしく全員体格に恵まれていて、雰囲気だけでも圧倒的。
山王陣営は選手以外も見た目全員没個性的で同じ人がいっぱいいるみたいで不気味なんだが、それが動画になることで気持ち悪さが増し増しになっていていい。クローンみたいなのに、スタメンの選手たちは体格から性格から超絶個性的。元から個性的な面々が個性的に育っている湘北その他のチームとは違って、個性的な筈の人たちが無理やり定型に押し込まれていて、本人たちも何故かそれを良しとしている、気味の悪さ。
スタジアムの中のかなりの席数を占めている、没個性山王応援団と、書き割りみたいなぺらぺらな観客たちの様子が、デキレース感・湘北のアウェイ感を演出。という背景の前で野生動物のようにワイルドに駆け回りぶつかり合う両チームを大画面で観るのは最高。映像だけで100点満点だなあ。
ストーリーの方は、たぶん原作と同じでヒューマンドラマの方があくまでオマケでメインはバスケなんだろうなと、あまり期待していなかったので、ソータがバリバリに死亡フラグを立てて逝きなさる所とかは、あぁ解りやすくていいっすね、親切設計! と思ったんだけど。でもバスケとともにある兄弟愛が思わぬ良さで。
というか!
ところで、この映画はメインが宮城なので、宮城とあまり絡みのない流川の出番がそうとう削られてしまっている。私は特段流川のファンではないのでそれ自体をそんなに悲しまないのだが、流川の存在感が薄まると当然の如くに私の推しの仙道の存在感は塵芥以下に落ちるのだが。まあ、いってもそもそも山王戦には陵南の仙道は何の関係もないのでそこに居ないのは当たり前だからいいのだが、しかし私は流川が仙道のとこに凸って散々1on1の相手させるエピソードが殊の外好きなので、「北沢……」のシーンが全カットはちょっと寂しい。一方的に突っかかって行く流川を一々相手する仙道というのは、疑似兄弟みがあって趣き深いのだがなぁ。
だがしかし宮城ソータとリョータというリアル兄弟による1on1ですよ!! はなから摂取できないと思っていた滋養がそこにはあった。あー幸せだぁー。ソータすぐに死んじゃうけど。
思わぬ所で心が潤って得した気分になったが、あとはもうリョータの過去話にさらっとへぇーっと思って山王戦に集中するのみよなあと思ったらまた棚からぼたもちのように滋養が降ってきた!
中1の(ちいさい)リョータと栄光の時代のミッチーの1on1とは!? 最高じゃんこんなの。ありがとう、ありがとう! これだけであとは霞食うだけで半年生きれそう。映画終わったあとすぐにマックに寄ってダブルチーズバーガーセット食べたけど。
なんかもっと色々語りたいと思った気がするのだが、リョータとソータ、リョータとミッチーの1on1を思い出したら心が満ち足りたので終わる。
へぇ、こんなに長い文章を読んでくれる人がいはるなんて、それはそれで貴重おすなぁ。そやけど、まぁ、読解力に問題あるんやろか、それとも単にお茶目さんなんやろかねぇ。匿名じゃないのに、それっぽいコメントをわざわざ残してくれるなんて、それも一種の愛情表現かもしれしまへんね。
なんや、中学高校の論説文の授業で習ったこと、みんな忘れてしまはったんやろか。しかしまぁ、メディアでもそんな切り抜き報道が多いんやったら、逆にそういうコメントに慣れてきたおかげで、その賑やかしを楽しむ心の余裕ができたんやないやろか。
「長くて分かりづらい文章を書く方が悪い」って言う方もいはるんやろね。それに対して「3行でまとめろ」って言う方もあれば、それに噛み付いてくる方もおるし、ほんまに賑やかやこと。でもまぁ、それもおかげで色んな意見が見れて面白おすなぁ。
ほんま、ちゃんと要旨を把握して無いコメントもあれば、参考になるコメントもあって…そんな中で書き続けてるあんさんは、なかなかの忍耐力お持ちやと思いますわ。それこそ京都の人なら、こういうカラフルな人間模様を楽しみながらやっていくのもよろしいんちゃいます?
虎に翼、どうにも主人公とその恋人の恋愛が全然ドキドキしない。何が悪いのか?なんだっけ、あのアイドルの男性だったり、今度大河の主役やるまぁ普通っぽい俳優だったり、今は岡田将生だけどどの人も全然。サブの轟(異性愛者じゃないらしい)とよねの方がまだどうなるのかなってどきどきがある。その前の前の植物学者のやつ、神木隆之介と浜辺美波はすごいよかった。でもあれだって、ゴジラの映画で共演してそれまでも何度も共演してるほど相性が良い、観ててすごくどきどきさせてくれる組み合わせだからこそだったのかもしれない。植物学者は妻たったひとりだが虎に翼は3人も相手の男がいるのにどれもなんか…へぇ…みたいな感じになる。大河ドラマも観てて、主演の吉高由里子と柄本佑の組み合わせは、民法ドラマの時に初めてみてやべーすごいどきどきするーって感じで、大河ドラマでみてもやっぱり素敵だなと思う。舞台平安時代だし髪も格好も違和感あるはずなのに引き込まれる。虎に翼の伊藤紗莉にも、こんなしっくりくる素敵な組み合わせが!?みたいな相手役がいるんだろうけど、いまのところなんか違ったみたい。
キークロンを買った、打鍵感を試している。キンドルを買った。あんまり読めていない。奥歯を抜いた。違和感がある。
明日、日付が変わって今日、エアコンの取り替えがある。業者が来るからと、R18を含むタペストリーをすべて外した。
白い壁紙がヤニで汚れていた。思えば自分は、この部屋に15年以上住んでいる。親を無視して自室でタバコを吸い始めてからは、多分四年経った。父親も、俺が母親に言われなくなったのを境に、自室でタバコを吸うようになった。
狭い部屋だなと思った。小学の頃には、自分を含むちびっこ4人が集まってゲームをしていたのに、ヤニのせいか、そんなのよくできていたなと思う。
思えば弟が泣かなくなった。声もだいぶ低くなって、俺とは逆な濃いめの、しぶとい顔つきだ。メガネもよく似合っている。
数日ぶりに、シャワーを浴びた。坂本龍一のインタビューを見ながら、6個くらいのオナホを洗った。さんまと話しているものと、当時新製品だったシンセのインタビューだった。
数週間前に、坂本龍一の本を立ち読みした。30代でもバリバリ夜遊びして、2徹とか普通だったと書いてあって、すごいなと思った。
坂本龍一も、そんなにわかりやすい作風ではないのに、誰でも知っているんだよな、と思った。
YMOというより、ひょうきん族とか、ごっつええ感じとか、バラエティ番組にも露出が多かっただろうから、それにヒットした曲は、世俗的であるよりも、高雅な感じもするし、インパクトが強いよな、って
自分が聞いていた頃は、みんな聞いていなかった。今では、みんなが聞いている。嫌なことではなくて、自分がつくった今の環境が、そういう環境なだけ。
逆にいうと、YMOも聞いていない人と仲良くするのをやめた、とも言える。
そんなのいちいち、選んだわけじゃない。連絡を取らなくなった人にも、YMOを聴いているやつだっていたはずだ。
ツイッターって、なんかガジェオタがやるようなインターフェースだったなと思い出した。PCは使いにくくて、アプリでも自分のホームにすぐアクセスできたり。
それでも当時も、使いにくかった。クライアントアプリを使っていた。
インスタもガジェオタっぽかった。
というか、ios7まで、ずっとガジェオタっぽかった。スタイリッシュな鈍臭さがあった。
ここ数年、自分がよく仲良くしている人は、年下がいっぱいいる。
いつの間にか昔話ばかりしている。
へぇ〜と言ってほしい訳でも、教えたいわけでもない。思い出したから話すけれど、振り返ることばかりだなと思う。
流行に追いつけなくなっているのは、いつもそうだ。だって追いつこうとしていないから。
知らないことが多すぎても、困ることはない。
Youtubeで流れてくる動画を見ても、その再生数からどれだけの知名度があるか分からない。UUUMのホームページを見ても、若めの人たちはほとんど知らない。
ニコニコ復活記念のレッツゴー陰陽師も、知らない人が多かった。むしろ、自分の好きな投稿者とコラボしていた人はここに出るくらい、有名だったんだなと思った。
自分は、反発心から何かを無理に好きになったりはしない。継続して好きでいられない。
好きなものの反対が、メジャーである、メインストリームである、ということも、マイナー、アンダーグラウンドである、というくくりもできない。
何かを貶して揚げると悲しくなる。けどそう言いたくもなる。邦ロックが好きなカスどもには分からんだろうなとか。
けれど、振り返ってみると、自分はそもそも邦ロックに出会ってすらいない。あれがダメ、これがダメとかいう前に、好きだと思う人と同程度の知りかたをしていない。
どれだけ他のジャンルに詳しくても、それを比較するような仕方でしか語れない。
父親はパンクが好きだ。日本のハードコアについてだったら、土地ごとに有名バンドを挙げられる。
「ぎゃーんって鳴って、それが気持ちよければ、もう最高なんです」とか、ギターを握って言うのが気持ち悪い。
流行りの曲は全部、歌謡曲と言う。でも久保田早紀とか寺尾聰とか、リビングで流れてくると、いい曲だよなーと言って当時のことを語る。
感無量といった表情で、疲れえ果てて〜♪ いることは〜♪ とマイクを持っているようにして、歌ったりする。
高卒で働きまくって、結婚して子供もいて、何がパンクだ、ハードコアだ、とずっと思っている。
「最近のお前はすごいとは思うけど、俺はお前の音楽の良さが分からない。全く、分からない。俺はそこらへんの音楽に興味がない」
と、言われたとき、あっそう、と思った。
俺も、興味のないものが増えたなあ。
子供のころ、あるクセが抜けなくてそのせいで虫歯だらけになり、成人になった今でも虫歯が止まらなくて歯を削る治療、神経を抜く治療を年中している。
このあるクセが抜けないというのは一種の発達障害らしく本当は以後子どもの発達要観察となる現象のひとつだと知った。
当時はそのような知見が広まってなかったらしく、特段何か対処されることはなかった。発達障害なんてワードも無かった。
だから私は、今の今まで知能レベルや発達障害を自分に疑ったことがなかった。
しかし上記のことを知ってから、興味を持って色んな情報を見てみると発達障害でよくあるエピソードがまんま子どもの頃の私だったり、三親等以内に精神病を発症した人がいたり(必ず遺伝するわけではないが遺伝は要因の一つらしい)、家系的に?遺伝子レベルで精神病が発症しやすい人間だったし、おそらく今だったら発達障害と診断されてるんだろうなと思う。
ただもう中年なので「へぇ、そうなんだー」くらいにしか感じていない。でも10代の時に、「あなたは発達障害。IQはこんな程度。発達が遅れてる。社会でやっていくには努力が必要」とか言われてたら、すごいショックでがんばるのやめたかもしれない。絶望して滝つぼに突っ込んでたかもしれない。
滝つぼに突っ込むなんてそこまでしなくても…と思うかもしれない、私もそう感じたけど、でも実際いまこの自分がきっと発達障害かと分かってから、自分の身に置き換えて考えたら気持ちは分かる。私だって、若い時は何にだってなれるし自分はすごく優秀な人間だと信じてた。ひとつひとつの体験から怒ったり、落ち込んだり、開き直ったりしてゆっくり自分の弱点を受け入れてきた。
それを経て、そうか私は発達障害かって分かっても、絶望しない。だけどその過程を経ずにいきなり事実をつきつけられたら心の準備なんてできなくて絶望に直行してたと思う。
発達障害の検査を受ける人が増えているらしいけど、そんな若いうちから自分の頭には「障害あり」って断定されるのかなりきついってこと、本当に理解できてるんだろうか?
おそらく私の年齢くらいが、いま自分の子どもを発達障害の検査受けさせるくらいの年代だと思うんだが、時代的にそんなに分かってない気がする。
価値観も、それからの生き方にもかなり大きな、消えない影響を残す検査なんだが、そういうのってちゃんと説明してくれるのかな。
検査しなくたって生きていける。ただ…まぁ、すごく努力が必要だったし人生ハードモードではあった。検査して診断されると努力しなくてよくてイージーモードになれるのかはわかんないんだけど。
10代の私が発達障害って言われてたら、いまやってる仕事絶対選ばないし、なんなら大学も行かないだろうな。でも別にそれはそれで、良い人生だよね。
でもなんか、自分発達障害だし…っていうのが将来考える上で入ってきちゃうのは、残念なんじゃないかと思う。活かせはすると思うが、なんていうか、人材をフルに活用させるために自分は生きてるわけじゃない、好きに生きて本当は良いんだよね、とは思う。
難しいな、でも。私、天職があるなら知りたいって思ってたし。そういう考えなら、さっさと発達障害って言ってほしいって思うよね。いや、言ってほしくないか笑。発達障害とは言ってほしくない、良い所だけ言ってほしい。「あなたにはゴルフの才能がある」とだけ言ってほしい。えーゴルフかよ。ゴルフやりたくないな。才能あったとしても。