はてなキーワード: 執筆とは
実話怪談とは、四谷怪談のような古典怪談ではなく現代の怪談だ。というとトイレの花子さんのような都市伝説を思い浮かべる人もいるだろう。しかし、そのような出所不明の噂話とも違う。
まず大前提として「実際に不可解な体験をした人というのは、この世の中にいるんだ」というところから始まる。そして、それら体験者から聞き取ったものを語ったり、あるいは執筆という形で記録されたものが実話怪談である。
と、基本的な説明としてはこれで十分ではあるのだが、多くの人が疑問に思うことだろう「それが実際にあった話だとする根拠は?」と。
ここははっきりと申し上げておくが「そんなものはない!」である。
ないんスよ。というのも怪談は超自然的なもの、未知のものを扱う分野だからだ。最新の科学技術や物理知識を以てして証明できてしまったなら、その時点で、もはやそれは「怪談だったもの」となってしまうからだ。
うん、わかった。
もう少し突っ込んで説明しようか。
つまり、実話怪談とは「実際にあった話だとする根拠はないが、とにかく、本当に不可解な体験をしたと主張する人がいて、その人の実在を根拠とした話」のことだ。
そんな根拠の拠り所となる体験者は、実際に語られるさいには、諸般の事情により匿名として扱われることが多い。
…はい、お察しのとおりだ。実のところ、受け手側に実話であると判断する材料はほぼない。
ここまで読まれた皆様におかれましては「せめて、なにか実話を担保するものはないのか?」とお思いかと存じます。
まあ、その、あるにはあるんですよ。お気に召すかはわかりませんが。
というわけで、以下が令和最新版だ。
実話怪談とは「実際にあった話だとする根拠はないが、とにかく、本当に不可解な体験をしたと主張する人がいて、その人の実在を根拠とした話…としたいけど、事情により身元は明かせない以上、聞き取ってきた私という実在を仮の根拠とした話」のことである。
あきれちゃった人には申し訳ないが、こういった回りくどい手順を踏むことで、かろうじて実話と呼べるものになっているのが実情だ。ゆえに実話怪談はその性質上、二重の信用が必要となる。
つまり、怪談話者(著者)は、取材において体験者が事実を話していると信用し、受け手は話者(著者)が嘘を言っていないと信用したときに、初めて実話怪談を楽しむことができるのだ。
もはや新手のカルトのように聞こえるかもしれないが、事実そうなのだ。とはいえ実話怪談愛好家がなんでもかんでも受け入れているかというと、そんなわけではない。聞いていて、あるいは読んでいて「なんかこの話うさん臭いなぁ」と思うことは多々ある。
なぜなら、それぞれが自分なりの実話怪談観を持っており、常にそれをもとにこの話者(著者)を信用するかどうかを推し測っているからだ。また、これは怪談の取材時でも吟味される事柄である。(興味があるなら『忌み地 怪談社奇聞録』あたりを読もう)
こういった部分も含めてこのジャンルの楽しみ方となっている。
個人的に言えば、実話怪談とは少額の霊感商法だと思っている。騙されたとしても、実害は、文庫本なら数百円ていど、新書なら千円か二千円ていど、映像ならタダから数千円ていど。イベントもそれくらいのものだろう。
これは受け手側としての心持ちについて論じているが、同時に話者(著者)側にある程度の倫理観を求めるということでもある。
実在する人物を扱うこともそうだし、死を扱うという点においてもそうだ。タブーをかき分けた先に真の恐怖はある。根本的に不謹慎なジャンルなのだ。
だからこそ信用される優れた話者(著者)となるためには、細心の注意を払いつつもギリギリを攻めるという綱渡りを行わなければならない。
ともかく、信用を重視する点からわかる通り、実話怪談というジャンルは意外なほど属人的な性質を孕んでいる。そしてこの属人性こそが、昨今の実話怪談ブームの一因であるように思う。
分かりやすく言うと、怪談師と呼ばれる人々が出てきたことによって盛り上がったのだ。
実話怪談の始祖を『新耳袋』とするなら、最初の媒体は書籍であり文字媒体だった。(ちなみに稲川淳二御大の語る怪談を、実話怪談の枠に当てはめるのは無理があるので割愛)
まだ怪談師という言葉はなかったが、初期のころから属人的な気質は垣間見れた。とはいえ、この時代の実話怪談はエピソード至上主義であった。
私は00年代の初期からの愛好者だが、この時代は怪談にとって冬の時代だった。それでも『新耳袋』や『「超」怖い話』がシリーズとして刊行を続けてきたことが、今日の盛り上がりの土壌となっている。
「怪談師」という言葉が出だしたのは10年代の中頃だろうか。怪談師とは怪談話者のことだ。彼らの活動範囲は音声のみならず、映像やイベントなど大きく広がっていった。
そのため必然的に話者の存在が前に出ることとなったが、属人性の強い実話怪談と非常に相性がよかった。
昨今の怪談人気は、すなわち怪談師の人気と言って差し支えない。
さて、それに加えて、去年あたりから呪物が盛り上がりを見せている。
いわゆる呪物ブームだ。
事情を知らない人からするとマンガ『呪術廻戦』人気に乗っかったものだと思われるかもしれないが、それは半分くらいは正しい。マンガの影響はでかい。
とはいえ呪物コレクターと呼ばれる存在が昨日今日で誕生したわけではない。もっと言えば、呪物と呼ばれるものは大昔からあり、怪談好きに限らず、多くの人から認知されていたはずだ。
そもそも実話怪談においては、エピソードが重要視された。実話の「話」とはお話(エピソード)のことだから当然と言える。ゆえにエピソードの乏しいものは主流から外れていく。
怪談ジャンキーには「ここの木陰に恨めしそうな女の顔があります」だけではお話として弱く感じるのだ。
「出ると有名な廃墟を探索しました。すごく雰囲気があって怖かった」だけでは怪談欲は満たされないのだ。
呪物もその性質上エピソードに乏しい。「これが丑の刻参りで有名なご神木に刺さっていた藁人形です」だけでは情報不足も甚だしく、消化不良を起こしてしまう。
とはいえ、これらは実話怪談という評価基準において物足りないというだけで、それぞれに違った魅力があり、愛好する者が一定数いる。
また、怪談師という存在が実話怪談を発表するメディアを広げたことにより、別媒体として点在していたそれらが、集約されつつある。その中でもビジュアルに優れた呪物は、具体的なイメージに乏しい実話怪談を補佐する存在とも言える。
だが、それは本質ではない。
呪物ブームの最大の理由は、呪物コレクターの所有する呪物のエピソード性の高さだ。いつの間にか呪物はお話を手にいれ、怪談そのものとなっていたのである。
むろんこれにはカラクリがある。そして、それこそが先般の木札に関連した炎上事件の原因ともなっていると考えられる。
具体的な手口は単純で大したことではない。呪物の定義を限りなく押し広げた、それだけ。
一般的な「呪い」や「呪物」といったもののイメージは「恨みを持った人間が、儀式などの間接的な方法で怨念を晴らそうとする行為=呪い」であり「その儀式で使用される道具=呪物」ではなかろうか。すなわち丑の刻参りを行うことが「呪い」であり、そこで使用された藁人形が「呪物」であると。
・呪われるわけではないが曰くのあるもの
・心霊現象に関わる物品
・念のこもったもの
これらをまとめて呪物として扱ったのだ。
呪物という語にそれらを無理やりに詰め込んだ結果、呪物のミーム化といった現象がこの界隈で起こった。これによりエピソード性は強いが呪物と呼びがたい物すらもその範疇に納めることに成功する。
どこまで意図的に行われていたかは分からないが、そういった呪物コレクターの戦略が奏功し、折よくマンガの人気と合わさったことで、呪物ブームが巻き起こったのではなかろうか。
あくまで個人的な考察ではあるが、あながち的外れでもないかと思う。
というのも、今回の炎上には特徴的な温度差が見てとれる点からも、それらを裏付けているように感じたからだ。
今回の件はジャニーズ性加害問題と似ている。すなわち、内部においては問題意識がほとんどなく、外部の人間が指摘することで初めて問題化したという点だ。
そもそも木札のエピソードは2022年の時点ですでに紹介されており、それこそ祝祭の呪物展というイベントでは2年連続で展示されていた。しかし木札について問題視する声は(自分の観測範囲内では)なかった。
私自身はイベントに足を運んではいないが、動画にてその存在を知った一人である。だが、やはりその時はまったく問題意識はなかった。
事が明るみになったさいも、初めは事情の分かっていない人が騒いでいるだけだろうくらいに思っていた。しかし実際に内容を確認するにつれ、そういった次元の出来事でないことに気付き、心地よい夢から叩き起こされたような気分となった。
この件に関しては、はやせ氏に非があることは間違いない。
問題は複数あるが、やはり東日本大震災の被災者と関連のある物品を「呪物」というくくりに入れてしまったことに尽きる。呪物コレクターとしての戦略が裏目に出た形だ。
だが、本当に非があるのははやせ氏だけだろうか。
これは出自不明と説明された木札の出所が判明し、そのエピソード自体に疑問が持たれた今だからこそ言える話などではなく、最初の発表時からあった問題だ。
しかし自分も含め誰も指摘できなかった。受け手側も麻痺していた部分があったのだ。間違っても「はやせさんがあんなに謝ってるんだから、許してあげてください」なんて言える立場にない、どころか一緒にごめんなさいしなくてはいけない立場にあると言える。
…とはいえ、頭では理解できるものの、心の奥底では引っ掛かりを感じている。
それは結局のところ、不謹慎さも含めて楽しむというスタイルが染みついているせいだろう。
自分は高潔な人間などではない。心の奥底にドロドロとした薄汚いものを秘めた、しょうもない人間でしかない。
冒頭に戻るが、今、実話怪談が盛り上がってきている。
文字媒体くらいしか発表の場がなかった時代は終わり、怪談師の活躍により発表の場は増えていった。賞レースも盛んとなり、多くの怪談師と無数のファンを生み出した。
私は腐女子ではないが、二次創作を見たりやったりしている女オタクだ。いわゆる女性向けソシャゲとか少年漫画とかの原作が何よりも好きで、二次創作は原作準拠・全年齢対象のものを嗜む程度に好んでいる。これらの二次創作は腐女子が多いため、かつては大人しめの腐女子コミュニティに属していたこともある。今は壁打ち。
ただ、性別問わずキャラを性的な目で見ることがなかったので、R18とかはキャプションが目に入っただけでそれなりのダメージだった。今も友達同士などの関係のキャラ同士がキスさせられているサムネを見かけると反射的に目を背けている(避けようとしてもpixivやtwitterから勧められる)。が、そういうのを描いている腐女子が描いたものであっても、CPなしとか公式CPのものなら普通に好きだった。
しかしtwitterのおすすめ機能で目にする機会が増えたのもあって、最近二次創作自体を怪訝な目で見ることが増えた。
その結果愚痴垢(特定作品ではなく、二次創作全般に言及しているアンチ腐女子系)を見に行くようになってしまって、それ自体は本当に最悪なのだが、まぁ結構共感できる内容も多かった。
ので、どこにモヤるのか箇条書きで分析をしてみる。
多分私は、腐女子コミュニティに属していたこともありながら全年齢公式準拠二次創作をほどほどに好む、という意味では両者の事情を知っており中立といえる立場なのではないかと思う。ただし今の私の基本的なスタンスは愚痴垢寄りである。
よって以下の内容も基本的に「どの程度正しいか」がポイントだが、私の個人的な感情や意見も入ることは明記しておきたい。ちなみに私は、腐女子以外にも百合や男女、男性向け、恋愛・性的要素なしなども含めた二次創作全般に同じスタンスでいる。もちろん自戒も含んでいる。愚痴垢やこういった投稿で腐女子が取り沙汰されるのは、単にファンが男性向け二次創作に比べて目にする機会が多く、腐女子という名前がついているからというだけのことである。
多分、二次創作を好む男オタクにもキャッチーな名前がついたら同じ現象が起きるだろう。というか男オタク全体という雑な括りですでによく燃えている。
前置きが長くなったが、本題に移る。一言でスパッと言おうと思ったが中立に近づけるためには無理だった。
→SNSの反応を公式が見ているとしても、一般ファンやファン候補も検索するので適宜検索除けをすべき。作品自体のイメージに関わる。愚痴垢ではSNSで目にしたファンの妄想が脳裏をよぎるため原作すら嫌いになってしまったという人も散見される。R18にはたとえ妄想であっても検索除け必須、鍵にもすべき。腐女子側も実際モラルがあり同人慣れしている人はセンシティブな内容にはツールを使ったりR18用の鍵垢で分けている人も多い。
そしてこれに関連した腐女子側の「棲み分けできている」という主張だが、これは完全に嘘だ。先に出したtwitterといいpixivといい、今の時代いくら検索避けやCP名明記をしたところでおすすめ機能が自動的に判定して勧めてくる。鍵垢以外意味がない。ちなみに「嫌なら見るな」「自衛しろ」なども内輪以外には通じないことを、腐女子に限らず全ての二次創作者は肝に銘じておかなければならない。一度目に入った時点でゾーニングなんてできていないことが明らかなのでアウトだ。
→由来を考えれば愚痴垢が正しい(腐女子側からもこの主張は多い)。しかし百合や男女など他のキャラ改変二次創作にも使うのが主流とはならないし、一次創作BLのファンも腐女子を自称するなど浸透していないのが現状である。また、腐女子にも色々なタイプがおり、昔は「公式ではBLじゃない(から二次BLは妄想)」タイプが多かったからこその由来だろうが、少なくとも今はそれよりも本気で公式がBLだと思い込んでいる腐女子が多い(これは次の項目にも絡む)。これは原義通りだと説明がつかない。
そして「腐向け」の略なのはわかるが、二次創作物そのものを「腐」と呼ぶのでは差別的だと言われても仕方がない。BL妄想ツイで「腐ってるAとB(※キャラ名)」という言い方も見た。そのキャラが同性愛者だと「腐る」のか? キャラを崩壊させたのはお前であって性指向じゃない。
たとえば百合の場合は「百合豚」「百合厨」など(こちらは自称より他称の方が多く由来も異なりそうだが)と表現の対象ではなくファンのほうを下げているので、これに準拠して初めてクリアできるのでは。
そもそも創作物である以上、作者が異性愛者以外を認識している人なのかどうか考えてみた方がいい。たとえば昭和生まれの少年漫画に異性愛者以外が登場する可能性はかなり低いだろう。逆に平成後期〜令和生まれの女性向けソシャゲは、ターゲット層はもちろんライターにBL作品の執筆経験がある場合などを考えると、ビジネス的に(腐女子がCPで争ったり夢女子を呼び込めなかったりするので)明記しないだけでBL的意図があるかもしれない。
それにジャンルや時代は異なるが『少女革命ウテナ』のように「同性愛を描こうとしていたが時代などの都合で友情にカモフラージュせざるを得なかった」パターンもあるわけだ。これ自体はtwitterで見ただけなので単なる噂かもしれないが、さっきの昭和少年漫画にもこの可能性はゼロとは言いきれない。この場合は同性愛描写を見出そうという試みも作品読解に役立つかもしれない。
ただし「読解」であって「誤読」「曲解」ではいけないし、原作者が明言しない限りは憶測に過ぎない。
そして逆にキャラを被創造物でなく一人の人間として考えれば、キャラが性的少数者だと考えること自体は作品背景なくまったく問題ないだろう。
でもなぜ同性・両性愛者(ゲイやバイ)に限定するのか。非性愛者(アロマ・アセク)などの可能性は考えないのか。そして公式で明確に恋愛だとわかる描写があったり結婚していたりする異性の相手がいるキャラでBL二次創作をするのはなぜか。そもそもなぜ恋愛や性愛の表現に固執するのか。
あとこの手の主張をする腐女子にはR18を好んで見るのにアセクシャルを自称する人がいるが、それはアセクシャルじゃなくそういうものにしか興奮できないだけ(スコプトラグニアという名前があるらしい)ではないのか。(ただし性指向を自認100とするならアセクを名乗ること自体は別にいいとは思います。この辺は話が別なので割愛)
それに倫理の面から正当化したいならまず他人の著作物を無断で利用どころか私物化していることを自覚してからにすべきだ。読む時は好きに読めばいいが、二次創作したり感想を言ったりするときは原作者や他のファンがいることを忘れてはいけない。
そして後者。「ホモ」は腐女子憎さからあえて使っているのかもしれないが、現在差別語扱いなので正当に腐女子を批判にしたいなら見直した方がいい。「勝手に」というのもそもそも原作者がゲイやバイとして描いているキャラの場合もあるので二次創作が勝手に……とは限らない。言うなら「勝手に恋愛にするな」とかが妥当では(実際愚痴垢でもこっちが主流という感じはする)。
噛み砕けば、どちらに関しても「奴らに付け入る隙を与えるな!!」である。
余談だが、以前キャラの一人をアセクシャルと捉えた上でソフトめなBLを描きワンクッションを置いている二次創作も見かけた。こういうやり方なら好感が持てる。キャラの組み合わせがそこまで好きじゃなかったから私には刺さらなかったけど。
→50:50。
まず前者、これを言う資格があるのは、二次創作に一切金銭を使わない……までいかなくとも、少なくとも「公式のために使う金(中古除く)>>同人誌同人グッズの印刷費制作費および購入費・即売会参加費など公式に行かない諸費用」と胸を張って言える人だけだ。言えるか?
あと二次同人で利益を出さないのとか女オタク界隈では大前提で暗黙の了解で利益が見えたらその瞬間総バッシングだが、でも実際は出てるんだろう。skebで許可されてない作品の二次創作で集金する人もいるし男性向けだとFANBOXでR18二次創作載せてる人多いし。その利益もちゃんと全額公式に還元してるのか? してるなら確かに公式の利益になるだろう。著作権的にも倫理的にも真っ黒だけどね。
あとは今もう削除されてるけど、はてブロの呪●●戦のやつ。あれは極端な人だし腐女子による悪意で書かれてる説もあるようだが、事実とすれば二次創作から原作に入った実例だ。購入せずに読んでいるし二次創作どころか原作を読むのも辞めているし最終的にやっぱり買ってない。とてもじゃないがこれで「二次創作が原作の利益につながる」とは言えない。あのブログが事実だとすれば、最初の時点で原作準拠の二次創作が主流だったなら読むのをやめる事態にはなっていなかっただろう。そもそも最初から読んでいなかったのかもしれないが、それならそれでいい。創作物にはイメージが重要なのだから。
後者はなんとも言えない。前述の公式費用>二次創作費用の人が大半かもしれない。二次創作をするために公式の資料集やインタビューの載った雑誌などを買ったり、二次創作で高じた原作愛を発散するために公式のグッズなどを買ったりする人がいるかもしれない。ただの希望的観測だけど……。でも二次創作でモチベが上がる原作者はおそらく多数派だろう。その二次創作の質にもよるが。
それにしても誰かここを具体的な数字にして調査してくれないものだろうか。「二次創作は本当に公式の利益につながるのか」とか、もうあるのかな。コミケの話はあるけどそうじゃなく二次創作と公式について……私はそんなに興味ないし……経済分野のえらい人~~(丸投げ)
(上の話題で検索したら腐女子ではないけどこんなもの(https://ichi-up.net/2016/059)が出てきた、愛すらないエロ二次創作で稼ぎまくって自分の仕事の踏み台にしてるってことだよな? 匿名確信犯。とんでもねえな)
→申し訳ないがこれに関しては愚痴垢100。二次創作は自由ではない。著作権的な問題はもちろんだが、公式の許可によりそれをクリアしていてもガイドラインがある。ガイドラインにほぼ必ず書かれている「非営利のファンアート」「公序良俗に反しない範囲」取り締まらない以上企業側の建前でしかないが、二次創作者たちは言われている以上守らなければ罰されても仕方がない。果たしてこれをR18同人誌が守れていると言えるのか。
また、仮に自由であるとしても、自由には責任が伴うと聞いたり考えたりしたことはあるのか? 二次創作は作品イメージという名の責任が原作者にも影響する。先に挙げたはてブロの例のように、原作と大きくイメージの異なる二次創作が跋扈すると原作にもそのイメージがつく。はてブロの例は二次創作を先に読んでいたが、これは原作を読むタイミングには関係ない。二次創作が原因で原作者が筆を折った場合、その責任は二次創作にある。いずれもあまり起きえない事例だとしても、本質はそういうことではないのか。
それから、ちょっと長くなるがこれは根本的な話題すぎて私個人の感情からも色々言いたい。
まず二次創作は借り物に過ぎない。たとえば図書館から本を借りるとして、借りた本から引用して論文を書いたり、コピーしたり、そこまでいかなくとも読んで学んだり自分の考えの参考にしたりするだろう(こっちは合法だから二次創作とはちょっと違うけど公共物なのは同じだし気持ち的に)。でも借り物を汚していいわけがあるか。図書館から借りた本に落書きしたり体液とかウンコとかつけたりして返すのか?いや本人はいいものだと思ってるからお菓子の食べかすで例えたほうがいいかもしれない。逆に借りた本に生ゴミと化した他人の食べかすとか体液とかウンコとかついてたらいい気分しないだろ。ましてや大切な人からのプレゼントとかに他人からそういうことされたらどう思う?なあ。せめて汚すのはやめてくれよ。男でも女でも何だとしても思い出のある、あるいは自分の人生の指標にするような好きなキャラがオタクの性欲で汚されてるのが目に入るの、本当につらいんだよ……知らなければ存在しないのと同じだったのに……
まぁこのズレた例え話はともかく、二次創作は借り物だから自由ではない。
あと本題とはあまり関係ないが、愚痴垢も腐女子もはたから見ていてエコーチェンバーが酷いからネットと距離を置いた方がいい。私自身このように中立っぽく振る舞おうとする程度には自分の考えを確立しているつもりだが、愚痴垢を見ているだけでかなり影響されている実感があるし、愚痴垢を見る頻度が日に日に増しているのには危機感もある。多分腐女子が検索避けをしなくなったり公式より二次創作に重点を置くようになったりするのもエコーチェンバーの一つだろう。
被害者にも加害者にもならないために、やるならフォロー0の壁打ち(鍵は適宜)で検索せず自分と原作に向き合うのが個人的にはおすすめ。
以上、意外と項目数が少ないがネタ切れ。というか愚痴垢に対するモヤモヤが腐女子へのモヤモヤに比べて少なすぎた。
また何か思いつけば追記するが、とりあえずこの辺にしておく。
※この投稿は愚痴垢と腐女子どちらが正当なのか決めたり彼らに何らかの行動を強制したりするためのものではありません。私も自分が絶対的に正しいなどとは思っていません。
俺には信条がある。
”習うより慣れろ”というものだ。
映画監督になりたいのなら映画を山ほど見て映画をつくればいい。
転属してきた上司がやたらと俺に仕事を回す人でね、それで潰れた。
特になかった。
それでも以前から昼休みなんかには増田をちょくちょく覗いてた。
書き込むことはしない。常に傍観者で、いつもロムってた。
仕事を辞め、やることもなくなり、最底辺まで落ちた俺の自尊心を拾ってくれるものは誰もいない。
そこでここだ。
これを趣味することに決めたんだ。
それを欲することは自然なことに思えたんだ。
俺は注目されている増田全てに目を通すようになった。毎日、数時間増田を眺めるようになった。
でもつかない。反応は乏しく、あったとしても下種な反応ばかりが跋扈し、俺の投稿を穢す。
俺はブクマに嫌われている。
と、思い続けてずるずると6年半もマスターを続けてしまっている。
ちょうど初のアーサーPUが開催されている時だった。
フレンド登録した同僚のクー・フーリンオルタをレンタルしまくり、「絶対にエウリュアレを育成しとけ!」という同僚のアドバイスに素直に従い6章のガウェインをなんとか撃破し、次イベCCCコラボは第1部クリアが参加条件だったので大急ぎで人理修復し、1週間のイベント延長があったおかげで無事BBちゃんをお迎えすることができた。
それから毎日ログインを欠かす事なくプレイしていたのだが、昨年のマンガでわかるFGOコラボを期にモチベーションが一気に下がってしまった。
シナリオが酷すぎてイベントが完走出来ないなんて初めてだった。
正直、長くプレイしていればあまり好きではないシナリオは出てくるし、そういう時はスキップする事もあったのだが、マンわかコラボに至ってはそんな気力すら湧かないくらいに最低なシナリオだった。
そこからはとりあえずログインだけして石回収すればいいやくらいになっていたのだが、第2部6.5章のトラオムが(賛否両論あるが自分は)わりと好きなシナリオだったので、虚無期間でも宝物庫くらいは周回するかーくらいモチベーションは回復した。
それから2部7章はオルト戦が果てしなくめんどすぎた為、再びモチベーションは地に落ちそうになるが、カマソッソパワーでなんとかクリア(なぜ実装されない)。
今年のバレンタインイベントもホワイトデーイベントもアーケードコラボも良シナリオだったので、じわじわモチベーションが回復してきていたのだが、程なくして三度モチベーションは地に落ちる。
若干○.5章の時点で引き伸ばし感は半端なかったけど、まあ3.5章と4.5章はイベント扱いだったし、5.5章と6.5章はわりと面白かったので許した。
シナリオ売りのソシャゲ故に2部の完結を引き伸ばしたいのはわかる。
わかるんだけど、オーディール・コールはあからさますぎじゃない?
そもそも、extraクラス召喚しすぎて人理くん激おこって設定なのに、以降もextraクラスじゃんじゃん実装してってんじゃん。意味わからん。
そんなこんなでモチベーションが奈落の虫まで堕ちてしまった為、せっかく奈須きのこ御大が執筆した夏イベントも殆どスキップし、黒オベロンの水着霊衣入手だけをモチベーションに完走したのだが、これってもうやってる意味ないよねぇ。
いい加減辞めたい。
課金だってマーリンPUの時に2万円入れたくらいで、あとは福袋召喚でちょこちょこ石買うくらいなので、トータルで6万もしていない。
終わんねぇだろうなぁ。
とりわけマシュとはもう6年以上の付き合いなので、彼女の行末は最後まで見届けたい。
2部6章で初めて離れ離れになって、やっと再会した時には嬉しくて愛しくてめちゃくちゃ泣いた。
とりわけ先程散々ディスってしまったがペーパームーンで登場したセレシェイラも、実はずっとずっと一緒に戦ってきたエルロンだった事が判明した時は一気に親しみを覚えた。
じゃあ付かず離れず無理ない範囲でログインだけしてりゃいいじゃんて感じなんだけど……。
そこにイベントがあればとりあえず走ってしまうし、強キャラのガチャがあれば回してしまうんや……。
この度、岩波文庫からアリエル・ドルフマン(昔は、英語風にドーフマン表記だった)の戯曲作品『死と乙女』が刊行された。90年代に一度、英語版から日本語に翻訳されたものが劇書房から刊行されたが、その後は長く絶版品切状態だった作品である。
「過去に読んだが岩波文庫から復刊したことは知らなかった」という人は、書店に急いで欲しい。
読んだことの無い人も、やはり書店に急いで欲しい。
もしかしたら、作品を読んだことは無くても、朴璐美や真木よう子などが主演した舞台を、日本国内で観たという人もいるかも知れない。または、ポランスキーによる映画作品を観た人もいるかもしれない。
ちなみに、これを書いている増田は、ど田舎生活の低所得者なので、演劇文化とは縁が無いことから、舞台を観たことはない。
今回の岩波文庫版は、著者の母語であるスペイン語で書かれたバージョンからの翻訳となる。翻訳者による詳細な解説があるので、作品執筆の背景となった70〜90年代のチリ内外の政治事情を知ることも出来ることから、一読者として有り難い。
これを目にしている貴方が、書店に赴いて『死と乙女』を入手して読んでくれるならば、もう以下の駄文を読む必要は無い。
この増田が読むことを勧めている『死と乙女』とは、どのような作品なのか、読んだことは無いが少しだけ興味が有るという人に向けて、以下を記す。
ただし『死と乙女』の結末に触れる部分があるので、未読で結末は自分で知りたいという人は、ここで一旦、この駄文を読むのをストップしてもらいたい。
また、直接的ではないものの、性暴力に言及する箇所もあるので、精神的な苦痛を喚び起こされる虞がある人は、ここで読むことを止めてもらいたい。
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1970年、南米チリで、サルバドール・アジェンデを大統領とする政権が誕生した。俗に、史上初の民主主義選挙により誕生した社会主義政権とされる。
しかし、アジェンデ政権を皮切りに中南米地域で社会主義国がドミノ倒し的に増加することを怖れた米国ニクソン政権は、チリへの介入を決定する。かくして、米国の後ろ楯を得たピノチェトが起こした軍事クーデターによって、チリは独裁国家となる。
この独裁政権時代のチリでは、多くのチリ国民が政治犯として弾圧され、不当な身柄拘束、拷問、虐殺の対象となっている。
チリ国外に亡命した人間もいる(亡命はしたもののチリ国外で暗殺されたという人間もいる)。映画『イル・ポスティーノ』の主人公の詩人も、そのような逃亡者であったことを、記憶している人もいるかもしれない。或いはまた、ヨーロッパに亡命していたチリの映画監督ミゲル・リティンが、ピノチェト支配下のチリへ潜入して取材する姿を、コロンビア出身ノーベル文学賞受賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスがルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』(邦訳は岩波新書)として著したので、それを読んだ人もいるかもしれない。
本作『死と乙女』の著者アリエル・ドルフマンも、チリ国外に亡命した人間の一人である。
そして『死と乙女』の主人公パウリナ・サラスもまた、ピノチェト政権下で筆舌に尽くし難い苦痛を味わい、生還したチリ国民の一人である。
パウリナの夫ヘラルド・エスコバルは、ピノチェト政権下で、弾圧されている人々をチリ国外に亡命させる手助けをしていた。そのためにヘラルドは、ピノチェト政権当局から弾圧の対象とされた。
しかし、ヘラルドが当局の手を脱して逃亡したので、彼の居場所を吐かせるために秘密警察は、彼の妻であるパウリナの身柄を拘束し、彼女を拷問した。その時、拷問者は、目隠しされたパウリナをレイプしながら、シューベルト作品『死と乙女』をBGMに流したのである。
時が流れて90年代に入ると、チリは民主主義国家へと移行する。ヘラルドが逃亡する必要も、パウリナが夫の隠れ場所を吐かずに耐える必要も無くなり、二人は夫婦として、堂々と暮らせるようになった。しかし、パウリナの心には、拷問による拭いきれない大きな傷が残り、それが二人の暮らしに暗い影を落とし続けていた。
民主主義政権となったチリ政府は、ピノチェト独裁時代に行われた弾圧について、調査究明を行なうと国民に約束し、そのための調査委員会を任命する。今やパウリナの夫ヘラルドは、その調査委員会のメンバーの一人である。これが、物語の開始の時点で、主人公の置かれた状況である。
物語の冒頭、或る晩、ヘラルドは、パウリナの待つ自宅へと自動車で帰る途中、タイヤのパンクにより立往生していたところを、通りがかった医師ロベルト・ミランダに助けられる。ロベルト・ミランダの車で自宅に送り届けられたヘラルドは、夜も遅いし助けてくれたお礼にと言って、ロベルトに自宅へ泊まっていくことを勧める。
結局ロベルト・ミランダはヘラルドの申し出に甘えることにし、ヘラルドが寝室に居るパウリナに声を掛けて、彼女にも客人を泊まらせることを了承させる。
翌朝。
ロベルト・ミランダは、椅子に縛られている。パウリナが、彼にリボルバー拳銃を突き付けている。
それを見て驚く夫ヘラルドと、狼狽する医師ロベルト・ミランダに対して、主人公パウリナは告げる。
「昨夜、この男の声を聴いて気づいた。この男、ロベルト・ミランダこそが『死と乙女』をBGMとして流しながら、あたしを拷問し、レイプした人間だ」と。
ロベルト・ミランダに拳銃を突き付けて「洗い浚い罪を吐かせる」と主張する主人公パウリナに対して、夫ヘラルドは思い止まるように説得する。
チリがピノチェト独裁体制を脱して民主主義国家となったとはいえ、いまだピノチェトを支持するチリ国民も決して少ないとは言えない(現実世界の2023年現在でも、ピノチェト支持者が残っているのだから、民主政権に移行したばかりの90年代前半を時代設定としている物語の中では、尚更である)。独裁政権時代の弾圧活動に関与した人間たちの全てを、罪に問うて処罰しようとしたならば、親ピノチェト派の有権者からの反発を招き、まだ体制も盤石とは言い難い民主主義政権が倒れることになりかねない。最悪の場合、内戦が勃発して、更に血で血を洗う国民同士の殺し合いともなりかねない。
そのため、現実世界のチリで行われた調査も、調査対象事件を「被害者が殺害されたという重大なケース」に限定し、尚且つ、真実を綿密に明らかにした調査報告書を作成する代わりに、弾圧関与者の氏名公表や厳しい処罰を免除するという、謂わば折衷案の形をとらざるを得なかった。
処罰を免除するという条件を餌にした、一種の司法取引によって、ピノチェト独裁政権時代の弾圧に関与した人間に、己の罪を自発的に告白するように促したとも言える。
しかし、もしも調査委員の一人であるヘラルドの妻パウリナが、ロベルト・ミランダを殺害してしまったとしたら、いや、殺害せずとも、拳銃を突き付けてロベルト・ミランダに自白を強要したことが世間に知られたならば。
民主化した政権も、真相究明も、全てが水泡に帰すことになりかねない。
パウリナは、ロベルト・ミランダの命までは取らないことを条件にして、今ここにいるパウリナ、ヘラルド、ロベルト・ミランダの三人で"裁判"を行なうことを強引に承諾させる。かくして、現実のチリで行われた真相究明の動きを追体験するような、緊迫の一夜が、舞台上で演じられることとなる。
以下では、物語の結末に触れているので、未読の人は一旦ここで増田の駄文を読むのを切り上げて、まず『死と乙女』を読んでもらいたい。
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ロベルト・ミランダに罪を告白させること(供述をテープレコーダーに録音した上で、ロベルト自身の手で文字起こしの原稿を書かせ、さらに「自発的に真実を語った」と宣誓する署名までさせること)が出来たミランダは、ロベルトを監禁する前に家から離れた場所へ移動させておいた彼の車を、返すために取りに行くようにと夫ヘラルドに頼む。
そして夫ヘラルドが家を出て二人きりになると、パウリナはロベルト・ミランダに銃口を向け直す。
「真実を告白すれば命を助けると言ったのに、約束が違う!」と抗議するロベルト・ミランダに、銃口を向けるパウリナ。
パウリナは、ロベルト・ミランダの語りを聞いて、心の底からの反省や悔悛が彼には見られないと判断したのだ。
ここで演出として、舞台には幕が降り始め、パウリナとロベルト・ミランダの姿を隠すとともに、その幕は鏡となっており、演劇『死と乙女』を観ている観客たち自身を映し出す手筈になっている。
再び幕が上がると、物語のラスト場面であり、パウリナとヘラルドは、二人で連れ立って、音楽演奏会に出掛けている。演奏の休憩時間では、他の観客と、調査委員会による調査の成果について、夫ヘラルドは語り合っている。
休憩が終わり、演奏が再開される。
すると、その演奏会の会場にロベルト・ミランダが入って来て、主人公夫婦から離れた、ずっと後方の客席に彼は座る。
夫ヘラルドは気づいていないが、パウリナはロベルト・ミランダの存在に気づいて、しばし後ろを振り返り、ロベルト・ミランダを見る。ロベルト・ミランダは、何も言葉を発すること無く、ただ、主人公パウリナに視線を向け続ける。やがてパウリナも、ロベルト・ミランダからは視線を外し、前方(演奏会の舞台があると設定されている方向)を向いて、物語は終わる。
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この増田は、殺したと考えている。(続く)
文鮮明と統一教会の麻薬犯罪について、調査報道ジャーナリスト・ロバート・パリー氏による下の記事がある。
統一教会の麻薬犯罪について、犯罪組織としての統一教会について、日本ではほとんど報道されていないが、記事の内容から、統一教会の犯罪組織性を汲み取った場合、「家庭庁が呑気に質問権を行使しているしている場合ではない」と解釈することも可能だと考えるが、どうだろう?
著者は、90年代後半から2000年代にかけて統一教会問題を精力的追及した調査報道ジャーナリストのロバート・パリー氏。AP通信やニューズウィーク誌に勤務し、George Polk AwardやI.F. Stone Medalを受賞。
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https://www.consortiumnews.com/archive/moon6.html
(略)
しかし、この連載が始まって以来、文氏の国際的な政治的つながりについて、さらに厄介な事実が明らかになってきた。文氏の浪費癖を考えると、最も気がかりなのは、アジアの組織犯罪やラテンアメリカの麻薬取引につながる極右主義者との長年にわたるつながりである。このような関係、そして南米で深化する文氏の事業活動は、米政府が文氏がどのようにして米政治帝国に資金を供給しているのかを正確に確認する必要性を強調している。
文氏の代理人は、遠く離れた場所でどのように事業を維持しているのか、その詳細を公にすることを拒否している。しかし、武器や麻薬の違法な密売で利益を得ているという度重なる疑惑には、怒り心頭で反論している。
アルゼンチン紙『クラリン』による銃乱射の質問に対する典型的な回答として、統一教会のリカルド・デセナ代表はこう答えた。私たちの運動は、民族、国家、宗教の調和に応え、家族が愛の学校であることを宣言しています」。[クラリン、1996年7月7日]
しかし、文氏と麻薬に汚染されたギャングや堕落した右翼政治家との関係は、アジアにおける統一教会の初期にまでさかのぼる。文氏の韓国を拠点とする教会(統一教会)は、かつてイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニを "完璧なファシスト "と称賛した日本のヤクザ犯罪組織のリーダーである笹川良一の支持を得た後、1960年代初頭に日本で最初の重要な進出を果たした。日本と韓国では、影のヤクザが麻薬の密輸、ギャンブル、売春で利益を上げていた。
笹川は日本の与党である自民党の裏指導者であったため、笹川とのつながりは文に改宗者と影響力の両方をもたらした。国際的な場面では、笹川はアジア人民反共同盟の設立に協力し、ヘロインに汚染された国民党中国の指導部と韓国、日本、その他アジアの右派を結束させた。[詳細については、デイヴィッド・E・カプランとアレック・デュブロの『ヤクザ』を参照されたい。]
1966年、アジア連盟は、より伝統的な保守派とともに、ヨーロッパの元ナチス、アメリカのあからさまな人種差別主義者、ラテンアメリカの「決死隊」工作員らを加えた世界反共連盟へと発展した。文鮮明の信奉者たちは両組織で重要な役割を果たし、CIAとも密接な関係を保っていた。
(略)
新政権を祝福するためにラパスに到着した最初の好意的な人々の中に、文鮮明の最高副官ボー・ハイ・パックがいた。文の組織(統一教会)は、ガルシア・メザ将軍と会談するパクの写真を掲載した。山深い首都を訪問した後、パクは「私は世界一高い都市に文鮮明の玉座を建てた」と宣言した。
後のボリビア政府や新聞の報道によると、文鮮明の代理人がクーデターの準備に約400万ドルを投資したという。ボリビアのWACL代表も重要な役割を果たし、文の反共組織の一つであるCAUSAは、ボリビアの主要なクーデター実行者のほとんど全員をメンバーとしてリストアップしていた。[CAIB、1986年冬号]
クーデター後、アルセ=ゴメスは、トラフィカンテのキューバ系アメリカ人密輸業者を含む大物麻薬密売組織と手を組んだ。クラウス・バービーと彼のネオ・ファシストは、ボリビアの主要なコカイン王を保護し、国境まで麻薬を運ぶという新しい任務を得た。[コカイン・ポリティクス]
「準軍事組織--バービーは新しいタイプの親衛隊として構想した--はコカイン男爵に自分たちを売り込んだ」とヘルマンは結論づけた。「ラテンアメリカにおける民族社会主義革命という考えよりも、コカイン取引で手っ取り早く稼げるという魅力の方が強かったのだ」。
レビンによれば、アルセ=ゴメスはある一流の密売人にこう自慢したという。クーデター勢力もそれを支持した。
「ボリビアはすぐに、当時まだ駆け出しだったコロンビアのカルテルへのコカイン・ベースの主要な供給国になり、彼ら自身がアメリカへのコカインの主要な供給国になった。「そしてそれは、DEAの暗黙の協力とCIAの積極的かつ秘密裏の協力なしには成し得なかった。
1980年12月16日、キューバ系アメリカ人の諜報員リカルド・モラレスはフロリダの検察官に、ボリビアの新しい軍事支配者からコカインを輸入する陰謀にフランク・カストロと他のピッグス湾の退役軍人が関与しているとするマイアミを拠点とする捜査「ティック・トークス作戦」の情報提供者になったと語った。[コカイン・ポリティクス]
数年後、メデジン・カルテルの資金洗浄者ラモン・ミリアン・ロドリゲスは、ジョン・ケリー上院議員(マサチューセッツ州選出)が議長を務める上院公聴会で証言した。ミリアンロドリゲスは、カルテルの初期には、"ボリビアは他の国よりもはるかに重要だった "と述べた。[1988年4月6日]。
麻薬王がボリビアで権力を強化するにつれて、文鮮明の組織もその存在感を拡大した。ヘルマンの報告によると、1981年の初めには、戦犯バービーと文鮮明の指導者トーマス・ウォードが一緒に祈る姿がしばしば目撃されていた。アルゼンチンの諜報部員ミンゴラは、ウォードをCIAの給与管理者であり、月給1,500ドルはウォードの代表のCAUSA事務所から支払われていると述べた。[CAIB、1986年冬号]
1981年5月31日、文鮮明はラパスのシェラトン・ホテルのホール・オブ・フリーダムでCAUSAのレセプションを主催した。ボー・ハイ・パックとガルシア・メザは、暗殺未遂事件からのレーガン大統領の回復のために祈りを捧げた。ボー・ハイ・パックはスピーチの中で、"神は共産主義を征服する者として、南米の中心に位置するボリビアの人々を選ばれた "と宣言した。後のボリビアの諜報機関の報告によると、月の組織はボリビア人の「武装教会」をリクルートしようとし、約7000人のボリビア人が準軍事訓練を受けたという。
しかし1981年後半になると、明らかにコカインに汚染されていたことが、アメリカとボリビアの関係を緊張させていた。「文鮮明の一派は、到着したときと同じように一夜にしてボリビアから密かに姿を消した」とハーマンは報告した。ボリビアの情報機関が民政移管を進める中、ウォードと他の2、3人だけがボリビアに残った。
ヘルマンの証言によると、ミンゴラは1982年3月、ラパスのホテル・プラザのカフェテリア「フォンタナ」でウォードに会った。ウォードはボリビアの作戦に落胆していた。「アルトマン(バービー)とのこと、ファシズムとナチズムのこと、あれは行き止まりだった」とウォードは愚痴をこぼした。「文鮮明とCAUSAがここにいるのは愚かなことだった。[CAIB』1986年冬号)この記事に関するウォードのコメントは得られなかった。
コカイン・クーデターの指導者たちは、すぐに逃亡することになった。アルセ=ゴメス内相は結局マイアミに送還され、麻薬密売で30年の刑に服している。ロベルト・スアレスは15年の実刑判決。ガルシア・メザ元大統領は、権力乱用、汚職、殺人の罪でボリビアで30年の刑に処せられ、逃亡中である。バービーは戦争犯罪で終身刑を受けるためフランスに戻された。彼は1992年に死亡した。
しかし、文鮮明の組織はコカイン・クーデターの代償をほとんど支払わなかった。米国の保守政治会議に資金を提供し、1982年には超保守的な『ワシントン・タイムズ』を創刊し、レーガン大統領をはじめとする共和党の有力者に取り入った。文はまた、南米に政治経済的基盤を築き続けた。
1984年、ニューヨーク・タイムズ紙は文鮮明の統一教会をウルグアイにおける「最大級の外国人投資家」と呼び、その前の3年間に約7000万ドルを投資した。投資先には、ウルグアイで3番目に大きな銀行であるバンコ・デ・クレディト、モンテビデオのホテル・ビクトリア・プラザ、新聞社ウルティマス・ノティシアスなどがあった。文鮮明のベンチャー事業は、ウルグアイの軍事政権による寛大な税制優遇措置に助けられた。「教会関係者によれば、ウルグアイは海外での利益の本国送還を容易にする自由な法律があるため、特に魅力的であったという。[NYT、2-16-84]
ニカラグアのコントラ反乱軍を支援する文鮮明の組織は、ニカラグアの国境沿いにコントラにベースキャンプを提供した強力なホンジュラス軍とも密接な関係を築いた。ここでもまた、文鮮明の代理人は、米国へのコカイン輸送を支援している疑いのある将校と接触していた。マイアミの麻薬ネットワークにつながる反カストロのキューバ人も、アルゼンチン軍の情報将校と同様に、反共の大義を推進するために登場した。
ホンジュラスとのつながり
ケリーの上院報告書は、ホンジュラスが北へ向かうコカイン輸送の重要な中継地点になったと結論づけた。「ホンジュラス軍の一部は1980年から麻薬密売人の保護に関与していた。「ホンジュラス軍の一部は1980年以降、麻薬密売人の保護に関与していた。米国は麻薬取締局のホンジュラス駐在を強化し、米国がホンジュラス人に提供していた対外援助をテコに麻薬密売の撲滅に断固とした態度で臨む代わりに、テグシガルパの麻薬取締局事務所を閉鎖し、この問題を無視したようである」。[麻薬、法執行、外交政策--ケリー・レポート--1988年12月]。
1980年代半ば、ジャーナリストや議会調査官が麻薬密売の証拠を探り始めたとき、彼らは文鮮明のワシントン・タイムズから厳しい攻撃を受けた。私がブライアン・バーガーと共同執筆したAP通信の記事は、タイムズ紙の一面で「政治的策略」と非難された。[1986年4月11日]
タイムズ紙は、まずケリーの調査官を金の無駄遣い[1986年8月13日]、次に司法妨害[1987年1月21日]で攻撃した。今、南米の麻薬に汚染された役人たちとの文の歴史的なつながりがより鮮明になり、これらの調査に対する嫌がらせは、自己防衛の可能性という別の様相を呈している。[詳しくは「文鮮明のダークサイド」シリーズを参照されたい。]
さらに最近、文師はウルグアイの豪邸に活動の拠点を移し、南米に保有する資産を拡大し続けている。彼はアルゼンチンのコリエンテス州に多額の投資をしている。コリエンテス州はパラグアイに近い国境地帯で、主要な密輸センターとして知られている。
《パラグアイ》旧統一教会敷地内の麻薬輸送滑走路を爆破=国際犯罪組織が利用、教会関与の疑い(ブラジル日報)
https://news.yahoo.co.jp/articles/64477ef04951e7916bd1426874a3e9a6064a903c
1996年1月2日、文鮮明は信者たちに対する説教の中で、南米の遠隔地に小さな滑走路を建設し、沿岸警備隊のパトロールから逃れるための潜水艦の基地を建設する計画を発表した。飛行場計画は観光のためのもので、「近い将来、世界中に多くの小さな空港ができるだろう」と付け加えた。潜水艦が必要なのは、"世界には国境による制約がたくさんあるからだ "と彼は言った。
その経歴と知名度から、文鮮明とその組織はアメリカ政府の監視の目にさらされるのは当然のことのように思える。しかし、文鮮明は多くの有力政治家を買収することで、立ち入った調査に対する保険をかけているのかもしれない。~
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自分が日本とイギリスのブルマーについて調査してからすでに3年以上が経過したが、自分の興味関心というか性癖がほぼぶれていないのには笑ってしまう。pixivのお気に入りを見返してもそれは同様だ。ブルマ、CFNM、CMNF、混浴、ヌーディズム、野外露出と、十年単位で一貫している。
このうちの野外露出、野外で裸になりたい衝動は継続していて、合法的に実現するために混浴サウナだとかヌーディストビーチを訪れている。裸になって海で泳いだときには、もうこれだけ裸になりまくったのだからもう飽きただろうと思ったのだが、どうもそうでもないらしい。
困ったもんだ。
ブルマー姿の女の子といちゃつきたい願望もあり、かなり願望の再現度が高いプレイを5年以上前にイメクラだったかM性感だったかでしたことがある。その時は先に脱がされてCFNM願望も叶えた。そのときの記録をネットのどこかに放り投げたのだが、それは消えてしまっている。書き直してもいいのだが、増田に書いたところでしょうがないだろうと自分にツッコミを入れたい気分だ。
また行けばいいのではという意見もあるだろうが、風俗には飽きている。嬢は皆親切だったが、もう十分に楽しんだ。
先ほどヌーディストビーチに行ったと書いた。
実はこの夏、地中海をあちこちうろついていた。その際に、現地のへそ出しファッションをいろいろと見た。シャツが短い物、ほとんどブラトップのもの、へそだけ露出しているもの、前だけを覆って背中は紐だけ(びんぼっちゃまみたいなスタイル)、さまざまだ。同じへそ出しと言っても色々ある。他にも、レオタードの下にズボンをはいて腰の部分の素肌が見えている格好の人も見かけた(アニメ版攻殻機動隊の少佐みたいなスタイル)。
面白いのはモデル体型どころか、ふくよかであってもためらわずに着ている点だ。良い意味で、日本よりも人の目を気にしていない。
確かに欧州のリゾートはおばあちゃんでもビキニを着るし、トップレスも多い。
教会であってもへそ出しで入ってくる人は多い。一応ドレスコードが看板に書かれており、男性でもノースリーブはやめてくれとガイドラインがあるのだが、観光客はほとんど気にしていない。
これが地中海のむこう側のイスラム圏になると、異教徒の女性にはモスクの中でまとうスカーフを貸してくれる。短パンの男性も腰に布を巻かないと入れない。
好きなものを着るファッションの自由・権利と、伝統への敬意との衝突を目の当たりにしたわけだ。
地中海を越えてイスラム圏から出たときには、その温度差に風邪をひきそうになった。
そのへそ出しファッションについてだが、英語版のウィキペディアにMidriffとして記事がある。他にも西洋やインドの文化でのへその立ち位置を詳述した記事もある。ここから抜粋して記事を書こうとも思ったのだが、なんだか面倒くさくなっている。どうせウィキペディアを訳すだけなら、個人的に斜め読みをすればいいのだし、なんだったら自動翻訳にかけたっていい。まとめる必要もない。
同じ理由で、トップレスとか世界の文化における全裸・女性器についても記事を書きあぐねている。
ウィキペディアから訳すだけなら各自で読んでもらえればいいし、それで閲覧数やブクマを稼ぐのも馬鹿馬鹿しい。何か新しい知見が欲しい。
例えばクレオパトラはカエサルと対面したときはトップレスだったのか。そんなことも調べたい。しかし、この辺はハリウッド映画によりつくられたイメージも強く、画像検索も難しい。そもそもプルタルコスの時点で裸のまま袋だか絨毯だかに入って寝床に忍び込んだという話があるが、実際当時のエジプトの服はどうだったんだ。
面倒くさいなと思う理由は他にもある。
あれだけブルマーに関する記事がバズっても、ネットの世界ではほぼ常に日本でのブルマーについての議論が中心で、自分が提起した 「学校体育でのブルマーは日本のみならず、英連邦・共産圏でも見られた」という主張はそれほど広まらなかったからだ。
ネットの議論など、結局は自分がどういう経験をして嬉しかったとか腹が立ったとかの感情が中心なのだから、当たり前といえば当たり前であろうが、一つの事実が広まらないのは幾分残念であった。
増田から外部のSNS・ネット文化圏に広がるには、全く別の内容で達成したように、1000以上のブクマが必要なんだろう。
はてな匿名ダイアリーというのが辺境のサービスだということなのかもしれないが、増田全体に特に広がった様子もない。あるいは僕も含めて読者は忘れっぽいのか。
それにブルマーについてのフェチは薄れなくても、それについて書く情熱は薄れつつある。情念が薄れたせいか、全く関係のない記事もバズりにくくなった。
確かに、人生後半には前半とは異なる楽しみ方や新たな可能性が待っています。以下に、独身者向けの人生後半の楽しみ方のアイデアをいくつか挙げてみましょう。これらは一般的なアイデアであり、個人の好みや状況に応じて調整できるものです。
新たな趣味や挑戦: 人生後半には、新しい趣味や挑戦を始める絶好の機会です。例えば、アート、音楽、舞台演技、スポーツ、料理、旅行など、今まで経験したことのない分野に挑戦することで、新たな興奮と楽しさを見つけることができます。
ボランティア活動: 後半の人生は、他人の役に立つための時間やエネルギーを提供する素晴らしい機会です。ボランティア活動を通じて、地域社会や支援が必要な団体に貢献し、達成感や喜びを感じることができます。
学びと成長: 後半の人生でも学びと成長は重要です。新しいスキルを身につけたり、興味深いトピックについて学んだりすることで、脳を活性化し、知識を深めることができます。
旅行と冒険: 後半の人生になると、時間や経済的な余裕が生まれることがあります。これを活かして、世界中を旅して新しい文化や風景を楽しむことができます。冒険心をくすぐる旅行プランを考えてみるのも良いでしょう。
創造性の表現: 才能や創造性を活かして、自分のアイデアやストーリーを表現することも素晴らしい楽しみ方です。執筆、絵画、音楽制作、手工芸など、自分の内面を表現する手段を見つけてみてください。
リラックスと癒し: 忙しい前半の人生から解放された後半は、ゆったりとリラックスする時間を持つことができます。ヨガ、瞑想、温泉、読書、自然の散策など、心身の健康を大切にすることも大いに楽しいことです。
新しい人間関係: 後半の人生でも新しい友人や恋人を見つけることができます。趣味や共通の興味を通じて出会い、新たな人間関係を築くことで、人生に新たな充実感を加えることができます。
以上のアイデアは、人生後半における楽しみ方の一例です。重要なのは、自分自身の興味や価値観に合った楽しみ方を見つけることです。
注目コメントのこれ
[B! メディア] X(旧Twitter)、ニュースリンクの見出しを削除へ
翌日には言うこと変わるのついてくの大変だなw
普段のイーロンの傾向について言いたいのだろうか?
Musk氏はこの発表の前日に、「より自由な執筆とより高い収入を望むジャーナリストは、このプラットフォームで直接記事を公開するべきだ」と記して、Xを使用することを報道関係者らに要請したばかりだった。
これは「(関連して)前日にこういう事を言っていた」であって「前日にこういう事を言っていた“のに”今日はこんな発表があった」ではないのだが……。
「前日に〜したばかりだった」+「イーロンマスク」というキーワードから連想して脳内でストーリーを作り上げてしまったのだろうか。
ぼる塾の酒寄希望さんを知っているだろうか。
メディアに良く出ているぼる塾は3人だけど、ぼる塾にはもう1人、酒寄さんというメンバーがいる。
酒寄さんには息子さんがいて育児休業中だったけれど、最近では一部の劇場に復帰し、執筆活動をしたり、ぼる塾のYouTubeに出演したりしている。
私は自分が出産するまで、「酒寄さん育休中って言うけど、期間長くない?」と思っていた。
私が勤めている会社では、大体1年で復帰する人ばかりだったからだ。中には数ヶ月で復帰する猛者もいた。
だからなんとなく私も、子どもを産んだ後は1年で復帰して、まぁ時短にはなるかもしれないけれどあとは元に戻ると思っていた。
いや、無理だ。
まだ育休中の身ながら実感している。
元に戻るなんて無理だ。
習い事の先生には「育児が落ち着いたらまた通いたいです」なんて話をしていた。
いや、落ち着くのっていつだ。
子どもは産んで終わりじゃない。
そんなことわかっていた筈なのにわかっていなかった。
保育園に通わせたって、仕事終わりに迎えに行かなきゃいけない。小学生になったって同じことだ。
育休中の今、旦那さんや母に預かってもらっても、歯医者に行くのがやっとだ。
ここで漸く酒寄さんのことにいきつく。
私はぼる塾が好きで、妊娠中も出産後もよくぼる塾のYouTubeや、出演したテレビ番組を観ていた。先日酒寄さんが出版された本のイベントも観た。
酒寄さんはこのいつまでも終わらない育児の合間に、ネタを考えたり、連載を執筆したり、挙げ句に今は舞台にも立っている。
凄すぎる。
YouTubeにも出ているし、中でも田辺さんと酒寄さんのラジオ「田辺の和室」ではずっと小気味良いトークを繰り広げている。
すごすぎる。
更に更に酒寄さんは、よくぼる塾のメンバーとLINEでメッセージを交わして、精神的支柱にもなっている。
いや、すごい。
子ども1人抱えていっぱいいっぱいになっている私には途方もない仕事量に思えた。
先日、酒寄さんがSNSにある呟きをしていた。
その前からこの文章を書きたいと思っていたんだけど、今こそ誰かに伝えたくなって実際に書き出してしまった。
ぼる塾の酒寄さんはすごかった。
今も現在進行系ですごかった。
近年、日本における生涯未婚率は上昇しており、男性の生涯未婚率は2022年で28.3%となったそうだ。これは50歳時点で婚姻歴のない人の割合を示したものなので、現在の20代が50歳になる頃にはこの数値が更に上昇していることが予想される。
さて、私は23歳で、今年度末で大学を卒業する大学生の男である。結婚について考え始める事はまだ早計だとは思うが、今まで女性との交際経験はないほか、性格面でも容姿面でもいわゆる「非モテ」に分類されるような人間である事、他にも、食べ物の偏食が激しい、就職後も実家暮らしの予定であり一人暮らしの人と比較して自立した生活力が低いなど、総合的に考えて結婚に向かない要素が多く、約3割の人が生涯未婚となる社会において自分が7割の結婚できる側の人間だとは到底思えない。
そのため、生涯独身で生きていく覚悟をする必要があると考えたが、それに対して漠然とした不安もある。そこで今回は、その不安を言語化してまとめるため、この記事を執筆した。
生涯独身で生きていくにあたって、大きく分けて3つの不安がある事に気づいた。
まず一つ目は、年齢を重ねてから後悔する可能性があるという事である。
結婚には「適齢期」があり、歳を取ると結婚する事は難しくなる。そのため、若い間は独身である事を気にしていなくても、一般に結婚が難しくなるとされる30代後半以降になってから、「若い頃に結婚しておけばよかった」と感じ、後悔してしまう可能性がある。
生涯未婚で過ごした場合、仮に自分が結婚していたら幸福になっていたかどうかというのは全く分からない。そのため、隣の芝は青く見えるという言葉のように、結婚している人が羨ましくなったり、結婚しなかった事を後悔する可能性が高いと危惧している。
結婚した場合、新婚旅行や結婚式、子育てといったライフイベントを経験する事になるが、結婚しない場合にはそういったイベントがなく、非常に平坦な人生となる事が想定される。もちろんその方がラクという見方もできるのだが、少々つまらない人生となってしまう事は否めない。
もちろん一人で趣味を楽しんで過ごすということもできるが、趣味には飽きがくるだろう。
また、人間は、年齢を重ねるにつれて、自分が楽しむよりも他者を楽しませる事に充足を感じるようになるように思う。そのため、家族を持って、配偶者や子どもを楽しませるような人生を送った方が、充実した人生になる事が予想される。
私には母方の祖母と父方の祖母がいるが、いずれも子に非常に頼っており、高齢者が家族の支援無しに生きていくのは非常に難しいのではないかと感じている。
高齢者が家族の勧め等無しで自ら老人ホーム等に入居するというのはあまり想像ができない。かといって、一人で暮らしていれば、加齢による生活力の低下でいずれは限界が来るし、突然倒れても誰にも気づかれないといった危険性もある。
あいにく、私には兄弟どころか従兄弟もおらず、老後に頼れる親戚が存在しないため、生涯独身で過ごした場合の老後に対する不安が大きい。
私はこの記事を執筆する事で、生涯独身に対して漠然と不安に思っている事を言語化する事ができ、少しスッキリした反面、これらの不安と付き合っていかなければいけない今後の人生に対して憂鬱に感じてしまった。
文豪をキャラ化した作品の同人誌即売会に、元ネタとなった文豪の書いた小説や詩歌をそのまま同人誌にして頒布やDL販売しているサークルが複数ある。
イベント主催企業のFAQには「ある作品の聖地巡礼写真集(notコスプレ)はどのジャンルを選べばいいですか?」「メインとなるパロ元の作品ジャンルでお申し込みいただけます。」とあるので原作キャラとは関係のない元ネタを扱った同人誌を作品ジャンルで頒布するのは問題ない。著作権は切れているので誰かの権利を侵害しているわけでもない。
でもそれって同人誌としてどうなの?
文豪の随筆を元にキャラの漫画や小説を書いて、出典として一部引用するならわかる。詩歌を読んで得たインスピレーションを元にイラスト集を作るのもわかる。
文豪の記念館・文学館やゆかりの地を巡って旅行記にするのもいいし、文豪の作品を読んで感想文を書いたり執筆背景を調べて本にするのもいいと思うよ評論はコミケの老舗ジャンルだし。
文豪の作品をコミカライズしたり朗読CDにしたり、古語や外国語で書かれた本を翻訳したり別の作品の形に翻案するのもクリエイティブだと思う。
でも文豪の作品をそのまま同人誌にするのはうーん…二次創作とはいえ何らかのオリジナリティを発揮するのが同人イベントの趣旨じゃないのか?
「洗濯機の調子が悪くなり始めたので、試しに洗濯板を使ってみた→イメージしてた使い方と全然違って驚いた」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2188096
要するに洗濯板に擦り付けるのではなくて、波板の上で布同士を擦り合わせ揉み洗いするのが正しいという主張だ。
それに対して「ゴシゴシするものだと勘違いしてました」とのコメントが並ぶ。
いやいや、擦り付けで正しいのではないか?
というのも、昭和の2槽式洗濯機には小さい洗濯板が付いていたものがあったからだ。
脱水槽の蓋が閉まっててチラとしか見えないのが残念だが、これを見て欲しい。
https://www.kajitaku.com/column/dry-cleaning/3331
洗濯槽と脱水槽の間にギザギザが見えるだろう。これは洗濯板で、がんこ汚れをここでゴシゴシするためのものだ。ここで揉み洗いというのはナンセンスという事が判るかと思う。
これは上から下まで全面に凹凸が入っているが、もっと多かったのは洗濯槽右下の隅切り部分に斜めにチョットだけ凸凹が入っている形式だ。靴下とか襟とかを擦り洗いするのに適していた。
厨房などでは未だに2槽式洗濯機の方が人気がある。どのみちそばにずっと人がいるから移し替えも気にならないし洗濯水を使いまわせて融通も利く。更に水場においても壊れにくい。
更に昭和の日本製家電というのは耐久性が今から見ると異常でオーバークオリティなほどで、水場に置いて家庭の使用頻度の10倍くらい酷使してるのに30年以上持つというタフさである。
折れたダイヤルが平成デザインのものに交換されていたりする。これは平成洗濯機が先に壊れて昭和機の部品取りにされたという事を意味する。
だから厨房や事業所などでは洗濯板が付いた洗濯機が平成中期でも残っていた。そしてそれらの洗濯板部分は摩耗して穴も開いていた。これはこすり洗いされまくったという事だ。
因みに昭和40年代までの洗濯機は1槽式+ローラー付きだが、これにも洗濯板が付いているものがあった。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=61877998
これも、この上で揉み洗いするという動機はなくて、ここでゴシゴシとこすり洗いする為のものというのが判るかと思う。
こういう補助的洗濯板が消えたのは洗剤の進化による。固形石鹸から合成石鹸へ、そして洗濯機のメインストリームが2槽式→縦型全自動→ドラム式と進化してそれに合わせた洗剤が開発されて「いちいち部分的に手洗いする」という必要がなくなったのだ。
今の時代にこういう事をわざわざやるのが金になるのがYoutubeのDIY界隈で、DIYの裾野が広大なのが英語圏なので、こういう時は英語で検索するのがいい。
https://www.youtube.com/shorts/W1KKCwEUVJc
これなども擦り付け洗いしているだろう。ほかにも沢山動画があるので「how to use washboard」で検索してみるといいと思う。だれも揉み洗いとかはしていない。
ただ、後述するが一枚づつこすり洗いしてるのは下手だと思う。
米をとぐときに水はどれぐらい入れるだろうか?米が浸るヒタヒタぐらいでといで、すすぎの時は水を沢山使うだろう?
これはヒタヒタぐらいでとぐのが一番効率がいいからだ。水が多いと米が動いてしまってとぎにくい。水が少ないと米表面がこすり合って良くとげるのである。
容器の中を洗浄するのに小石などを使う場合も然りで水は少ない方が洗浄力が上がる。
洗濯板の上で揉むというのも同じで、水の中で動くよりも布同士がこすり合い、同時に潤滑材として機能して滑りやすい、水ヒタヒタの状態が一番洗浄力が強い。このヒタヒタを維持しやすいように凹凸はカーブしている。真ん中に水が集まり易いからだ。
この状態で一番下に布の一部を敷き、その上を滑らせる形で他の部分を動かすとこすり合わせれて汚れが落ちる。これが一般的な使い方と思われる。
なお、洗濯板を使う場合は最近主流の液体洗剤は適さないと思われる。というのも最近の洗剤はドラム式に最適化されていて泡を殆ど出さない。
だが洗濯板では泡が潤沢に出ないと滑りが悪くなってダメなのだ。下に敷いた布がめくれてしまう。布も痛みやすい。
もとスレのtogetterではマンガの描写からこすり洗いでなく両手で揉み洗いが正解と導き出されているが、マンガの描写が正確、精密になったのは劇画の流行を経てその手法が吸収された1970年代以降なのだ。
劇画の嚆矢は昭和30年らしいが、これが一般化したのは団塊世代が青年であった昭和40年代/1965年~70年代である。
団塊は「大人になってもマンガを読んでる世代」の走りだったが、それは「大人の鑑賞にも耐える」を志向するマンガが流行したためでもあった。
初期の劇画は『カムイ伝』のようにコマ割や表現が映画的/ハードボイルドで人物画は「劇画チック」というだけだったが、やがて描写が緻密になっていく。例えば最初期のゴルゴ13は背も低くマンガテイストが残っていて今見ると滑稽だ。だが巻を下るとその描写は緻密で正確になっていく。
70年代末には劇画はやがて下火になっていくが、今度は青年漫画などに劇画の手法が輸入されるようになっていった。
有名なのは手塚治虫の『ブラック・ジャック』で、「マンガの神様」手塚は、しかし昭和40年頃になると丸っこい子供向けマンガしか描けない前世代の遺物のような扱いになっていった。
そこで手塚は医学書や解剖図を読み漁って人物は丸っこい細部が緻密な描写のフィクションを作り上げ、復活を果たした。これはさいとうたかおが後に極めることになった劇画の手法である。
三種の神器と呼ばれた洗濯機が低価格化して多くの家庭に導入されたのは昭和40年前後である。
つまりマンガで緻密に作画がなされるようになった頃には洗濯板が一掃されていたのだ。
「作画崩壊」は昔は無かった。劇画の手法が輸入される1970年代末まで人物が走る時は弓線と足二本で表現された。
洗濯板も然りで板と石鹸と手と泡描いたら洗濯が表現された。劇画ではこれの表現はNGだ。そして現在のマンガは劇画ルールが導入されているのである。
こういう訳で「洗濯板の上でゴシゴシ」が正解と思われる。但し、一枚だけを凹凸に擦り付けるのではなく十分に泡立てて凹凸の上の布の上で布を滑らせて布同士を擦り合わせる。
一番まずいのは、ノンフィクションマンガなどの描写に難癖をつけて「擦り洗いはしない、揉み洗いが正解」とネットで聞いた事との相違のクレームを入れてしまう事だ。
ノンフィクションでは資料を揃えて居る事が多い。その執筆態度は劇画に始まるものであり、洗濯板が現役だった頃にはその影響がまだなかったというのが今回の誤解の原因である。
元増田とは違うけどさ、KENZO 【新宿109】ってユーチューバーについて聞きたいのよ。マルチというか出資金詐欺系の人物を告発したいのだけど、彼に行ったら動いてくれるかな?その詐欺師の特徴なんだけど、
1975.4.25 シュガー・ベイブが「DOWN TOWN ⁄ いつも通り」 でエレックレコードからレコードデビュー
1976.12.25 山下達郎が小杉理宇造の尽力によりアルバム「CIRCUS TOWN」でRCA ⁄ RVCからソロデビュー
https://www.musicman.co.jp/interview/19480
1980.12.12 近藤真彦が「スニーカーぶる~す」でRVCからレコードデビュー
1981.9.30 近藤真彦のシングル「ギンギラギンにさりげなく」発売 B面「恋のNON STOPツーリング・ロード」の作曲編曲は山下達郎
1982.2 小杉理宇造がRVCから独立 アルファ・ムーンを設立 山下達郎も移籍
1982.5.1 中森明菜が「スローモーション」でワーナー・パイオニアからレコードデビュー
1982.6.30 近藤真彦のシングル「ハイティーン・ブギ」発売 A面「ハイティーン・ブギ」B面「Momoko」共に作曲編曲は山下達郎
1984.9.13 近藤真彦のシングル「永遠に秘密さ」発売 A面「永遠に秘密さ」の作曲編曲は山下達郎B面「One more time」の作曲は山下達郎 編曲は山下達郎・馬飼野康二
1984.10.24 近藤真彦との交際を噂された中森明菜が「ザ・トップテン」の公開生放送で近藤真彦のファンから帰れコールを受ける
https://m.bilibili.com/video/BV11K4y1E7rm
1985.1.26 近藤真彦・中森明菜主演映画「愛・旅立ち」公開
1986.12.24 中森明菜のアルバム「CRIMSON」発売 10曲中「駅」「告白」「OH NO, OH YES!」「赤のエナメル」「ミック・ジャガーに微笑みを」の5曲が竹内まりや作詞作曲
1987.4.29 中森明菜が「夜のヒットスタジオ」で「OH NO, OH YES!」を歌う
https://youtube.com/watch?v=3srAJ5bXpRk
1987.8.12 竹内まりやのアルバム「REQUEST」発売 中森明菜への提供曲「OH NO, OH YES!」「駅」のセルフカバーも収録
1987.10.17 中森明菜が東京厚生年金会館でコンサート 「ミック・ジャガーに微笑みを」を歌う
https://youtube.com/watch?v=tippJz4YGe4
1989.12.28 メリー喜多川の強い勧めで中森明菜がデビュー以来の所属事務所研音から独立 小杉理宇造と新会社コレクションを設立 しかし小杉理宇造はすぐにいなくなりコレクションは機能不全に陥る
https://youtube.com/watch?v=AzEHq7Pb2f4&pp=ygUP6YeR5bGP6aKo5Lya6KaL
1990 アルファ・ムーンがワーナー・パイオニア傘下になる
1991 ワーナーパイオニアがワーナーミュージック・ジャパンに改称
1992 中森明菜がワーナーミュージック・ジャパンとの契約を解消
1993.3.31 中森明菜が「夜のヒットスタジオ RETURNS SPECIAL」で「駅」を歌う
https://youtube.com/watch?v=2AnW6M3b-9g&pp=ygUS5Lit5qOu5piO6I-c44CA6aeF
1994.7.25 竹内まりやのベストアルバム「Impressions」発売 山下達郎がライナーノーツを執筆 「駅」のライナーノーツ全文
「87年のアルバム「リクエスト」のコンセプトのひとつに、「他人に書いた作品を自分で歌う」というのがあり、「けんかをやめて」「元気を出して」などと同じく、この作品も、もともとは、さる有名アイドル・シンガーのために書かれたものである。
まりやは当初、この曲を自分で歌うことに難色を示していた。マイナー・メロの「歌謡曲的」なアプローチだからというのがその理由だったのだが、歌謡曲とそれ程縁のない(?)私の耳には、この曲はとどちらかといえばイタリア風に聞こえたし、また、そのアイドル・シンガーがこの曲に対して示した解釈のひどさに、かなり憤慨していたこともあって、ぜひとも自分の手でアレンジしてみたいという誘惑にかられ、彼女を説得してレコーディングまでこぎつけた。
その後このヴァージョンは有線放送で1位になるなど、今では竹内まりやの代表作のひとつとなっている。メデタシ、メデタシ」
1995 小杉理宇造がワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長就任
2003.11 小杉理宇造がジャニーズ・エンタテイメント代表取締役社長就任
2013.11.28 竹内まりや×クリス松村「Mariya's Songbook」対談
https://natalie.mu/music/pp/takeuchimariya02
「クリス ここまでは若くてかわいらしいアイドルにピッタリな曲が多いんですけど、「駅」とかはまた違いますよね。
竹内 「駅」は確かに違いますね。頼まれたときから、明菜ちゃんには濡れた哀愁メロディの曲を絶対書きたいと勝手に思っていて。そのマイナーメロディの雰囲気に合わせて、昔の恋人を駅で偶然見かけてすれ違う……というストーリーを彼女の写真を見ながら組み立てていきましたね。歌詞自体は当時の私が歌ってもそんなに違和感のないものだったと思いますけど、マイナーコードであれだけベタな歌謡曲メロディを書いたことはなかったんで、それ自体が面白かった。
竹内 本当にそうなんですよ。明菜ちゃんの持ってる佇まいやイメージがそういう発想をくれたと思ってます。自分で歌う曲じゃないからこそ、ああいう哀愁メロディにしたわけですから。明菜ちゃんという素材があってこその曲だったと思いますよ」
同人関係の話、もう時効ってことでいいよね、フェイク込みだけど10年前のこと。
当時は若かったということで、後で消すかも。
とあるマイナージャンルでプチオンリーが開催されると告知された。
まあ、マイナーと付いている通り飢えに飢えてたジャンル者は大喜び、更には記念アンソロも発行されるという事で界隈で有名な人達も執筆って事で盛り上がる盛り上がる。
……まあこの時点でそれなりに同人経験ある人なら「ん?」となると思う、半年後のプチオンリー合わせのアンソロって規模にもよるけどかなりスケジュールがカツカツ、すぐに取りかからないといけないレベル。
まあでも、主催の他にも協賛が付いていたしプチオンリーのサイト、Twitterやアンソロ告知がされていたし、アンソロの執筆に関しての詳細が送られてくるのを待っていた。
そこから二ヶ月、主催から個人的なお誘いを受ける(本当に個人的な事、遊びに行きましょうというお誘い)
はい、まだアンソロ執筆に関しての詳細が送られて無かったんですよね、残り四ヶ月。
当時、同人初心者だった私はそんなもんか~と思ってました、うん、馬鹿だね。
んでそのお誘いを受けて、その中でアンソロやプチオンリーに関しての詳細を主催から熱弁されて「話は水面下で進んでいるんだな~」と暢気に思っておりました、今思うと本当に馬鹿だね。
そのお誘いから二週間後、なんと主催が自身のTwitterで入院すると告知、純粋に心配だった私は主催に連絡、
主催は「大丈夫です!大した事無いので心配しないでください!」と返って来たので「無理しないでくださいね」と送りました。
その次の日、協賛の方から私に連絡、「少し前から主催と連絡が取れない、入院の事も聞いていない、プチオンリーやアンソロは主催しか分からず、今回の件で辞退者も出ていて中止になるかもしれない」
私、晴天の霹靂、寝耳に水、Why? 昨日まで普通に連絡取れてましたが?
それをありのまま伝えたら協賛の方から「Skypeで話せないか」と打診され、それを受けることに。
その日の夜、Skypeで話すことにこの時点で協賛の方とは一切面識無し、向こうも私の事を主催側の人間だと思ってたんじゃないかな。
そこには協賛の方と協賛のご友人が数名。私、完全にアウェー。
んでそこから出るわ出るわ
・今月になってもアンソロの詳細が一切決まらないから協賛が主催に連絡したけど一切反応がなかった。
・実はオフセット本のノウハウがあるかすら怪しく、告知サイトの管理は協賛に丸投げしてた
・徐々に不信感が募ってきたその矢先の主催からのいきなりの入院宣言
という事実が判明。
もうね、リアルでファーーーーーwwww ですよ。
んで恐らく、話から聞くに連絡を無視しはじめたの私と遊んだ頃なんですよ、その時から主催は協賛や執筆者を平然と無視してプチオンリーとアンソロの事を私に話していた訳ですね。
まあでも、一応主催の言い分もきこうかね、と主催に連絡、「入院するならプチとアンソロの今後の事を説明した方がいいですよ」と送るも、
昨日まで連絡出来てたのが嘘みたいなスルー、いくら待っても返信なし。
……まあ、さすがの私でもここで「やってんな」と察しますよね、ここから以後は主催と連絡取れなくなりました。
そこからアンソロは発行中止、協賛の方は協賛を降りる事になり(主催と一切連絡とれないから当たり前ですね)
またプチオンリーは某社の規約だと主催以外は個人情報の云々により何も出来ない状態に。
空 中 分 解 。
んでマイナージャンルとはいえ、これだけ大事をやらかしたんだから、ジャンル外の一部の人もこの騒動を知ることになり、今で言う炎上。
今なら間違いなくトレンド入りするレベルだったけどそこまで大騒ぎにならなかったのは時代とジャンルがマイナー故か。
ただプチオンリーやアンソロは空中分解しても、既にサークル申し込みしていた人が複数居て(自分もその一人)
仕方なくイベント準備、当日を迎える事になります。なおここまで主催は一切音沙汰無し。
ただ、プチオンリー本部が3SPも取られてた事は気になりましたが(主催が何するつもりだったのか後述)
そして当時の某社のプチオンリーって主催に向けて開催記念のミニフラワーみたいのを置いていたんですよね。
これどうする? となって私が貰っていくことに。
「主催が入院中と思われる時期に別ジャンルのイベントに参加していた」というメッセージと共に主催のTwitter裏アカが元協賛の元にリークされたんですよね。
鍵も掛けてなかったので第三者からもまる見え、そのTLに入院していたと言われる時期に別イベントに参加している主催のツイートが載っていたわけですよ
真相は今となっては分かりませんが、ほぼ九割方入院は嘘だった、ということですね。
元協賛は主催のその裏アカに凸るもブロックされ、主催は完全に何事も無かったかのようにツイートする日々。プチオンリーやアンソロについては無視でした。
そして元協賛から私もその裏アカを教えてもらいTLを眺める事に、プチオンリーやアンソロに関して何か言わせたいけど、
ただむやみに突っ込んでもブロックされて終了だろうから何かないかと考えあぐねている所、主催はツイートしました。
そうだ、直接乗り込もう。
はい、最初に話した通り、主催とはリアルで会える距離だったのでイベント会場は余裕で私も行ける場所だったんですね。(元協賛は遠方住み)
んで、更に主催はどうやら私が何も知らないと思っているっぽかったんで平然と次の予定をツイートしてた訳ですね。
よし、行こう。
……とは言ってもここまで読んでくださった方なら分かるかと思いますが、一人で会いに行くのは主催が何しでかすか分からないのでさすがに危険と判断し、急遽私のリアル友人を召集。
友人達はジャンルは別だったものの、プチオンリーの事情を知っており、ノリノリで来てくれました(今でも本当に感謝しかない)
無事に見つかったものの、スペースにいない。
実は主催はレイヤーもやっており、撮影の為に席を外していたっぽいんですね。
ここで裏アカ確認、リアルタイムでコスキャラを画像付きでツイートしていたため特定。
「よし、行くよ」
「○○さん(主催)」
主催、私を見て固まる
「分かりますよね?」
主催、黙る
「ばっくれたプチオンリーとアンソロの件、協賛の人とアンソロ執筆者に謝ってください!」(クソデカ大声)
それを見た私の友人、引け、と腕を引っ張って合図する。(私が予想外にクソデカ大声を出した為、揉める前に、という判断だったらしい)
「分かりました、今日の所は帰ります。ただこれを受け取ってくださいね」
と、私、プチオンリー開催記念のミニフラワーを主催に押しつける(嫌味の為に持ってきた)
そして、忘れず主催の裏アカに捨てアカで凸、「ちゃんと謝るんですよ?」と追い打ち。
はい、その日の晩にようやくプチオンリーとアンソロの謝罪文?が出ました。プチオンリーやアンソロ関連のTwitter(主催が管理してた)もようやく削除。
ただ、元協賛の方に再びリーク、どうやら私に凸られた後、私のクソデカボイスからレイヤー仲間から問い詰められたようでやらかした事を素直に白状したらしく、
(ちなみに元協賛の方は私が凸った事は知っています)
と、こんな感じでプチオンリーをばっくれた主催に凸した話は終わるんですが、実は話はここで終わりません。
実はこの主催、当時の名前で今も同人界隈にいます(先程出た別ジャンルにて今も活動中)
私が数日前、Twitterのトレンドに載ってたTLを見ていた所、見覚えある顔が……はい、レイヤーでもあるのでアイコンがコス写真なんですね、一発で分かりました。
ツイート内容は「(トレンドに載っていた件で)自分もそれで色々苦労した」と言っていて
「いや、当時あんたに振り回された人達はもっと苦労したがな」と突っ込み入れたくてしょうがなかったので、こうしてここに書くことにしました。
ジャンルは今年リメイク(リマスター)が発売予定のRPGです。
今もサークル参加をしているので界隈の人にとんでもねぇのいるから気を付けて、と言いたいです。
ちなみに無駄に取った3SPを何に使うつもりだったのかって件なのですが、
『ペーパーラリーの景品で私(主催)が○○(ジャンルの人気キャラ)のコスしてツーショットで写真とるとか考えてるの~』とこれ以外にもプチオンリーやアンソロについて何をしたいか色々香ばしい事を言ってました。
さすがにこれは当時の私も「それはwwwwないwwwww」という気持ちになったのは言うまでもなく。
あの漫画を描いた八神千歳とかいう漫画家、今まで全然知らなかったけれど遥か昔からこういう類の漫画描き続けてたらしい
自分達の知らない間に八神千歳の漫画を読んで、世の中の女子がずっと洗脳され続けていたのだと思うと邪悪すぎて吐き気がする
「内容の一部に」って、全部問題があったとは編集部は思ってなかったって事????はあ???????
ツイッターアカウントがあったので確認したが丸で無視を決め込んでいる
大本の元凶である八神千歳は、今まで自分が描いてきた事に罪の呵責とか一切無いんだろうか?
男が同意無く性的ハラスメントに持ち込む事を正義として何十年も描いて来た事を少しも悪い事だとは思ってなかったって事?????
狂っているとしか思えない
八神千歳が少しでも良心が残っているなら、今まで漫画を通して害悪をバラ撒いて来た事を全て詫びて潔く執筆活動を終了して、今まで描いてきた漫画も全部回収して二度と世間に出てこない事を約束するのが筋だろ
もしかしたら自分の意志とは無関係に性暴力漫画を描いてしまう病気にかかってるのかもしれないけど、だったら両腕を切り落として強制的に描けないように努力を怠るなよ。
あなたの事は昨日まで知りませんでしたが八神千歳先生、今すぐ消え失せてください。
二度と漫画を発表しないでください、子供に1ページでも読ませたくありません。
貴方の漫画のせいでどれだけの数の女子が性暴力肯定思想を植え付けられたまま名誉男性化してしまったのだと思うと怒りがいつまでも収まらない
八神千歳のような人間が存在しているからヘルジャパンがいつまでも終わりを迎えてくれないんだよ
八神を庇護し、有害思想を何十年も散布するのに協力した新潮社の人間も一人残らず地獄に落ちてくれ
女の子の子供がいる家庭は今すぐ子供が八神や、準・八神的な漫画を読んでいないか確認してほしい
万が一読んでいたら決して叱らずに(子供も被害者だから)八神の考え方の有毒性について教えてあげてください。
そして漫画業界は、二度と八神千歳のような漫画家を排出させないように内容や思想性を精査して、有害な内容は世に出さないように厳重にチェックする事を怠らないでください。
Buzzfeedがハフポストに買収されて報道部門が廃止、それに伴いメディカル部門ディレクターの岩永直子が医療記事執筆を禁じられたという報が先週に流れてきた。
正直ホッとした。Buzzfeed自体が閉鎖されて欲しいと思っていた為だ。
そして昨日には岩永が「医療記事を書きたいから」独立するという。だから金を振り込んでくれとの事だ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/naokoiwanaga.theletter.jp/posts/66023f60-16ef-11ee-ad5a-a36b89620c35
冗談ではない。これを機会に筆を折って欲しい。
はてなでは「お金出します」というコメントが沢山付いていたが彼女がコロナ禍で何をやったのか判っていないのだろうか?「脳外科医ですが病院から執刀とカテーテル検査禁止され閑職に回さされてます助けて」って投稿があったら助けるの?
Buzzfeedはコロナ禍で最低最悪のデマメディアだった。これはディレクターの岩永がPCRの特性について勘違いをし、その間違いの指摘をフィルターバブルと編集権を用いて排除して体面を保ち、やまもといちろうに罵倒されるまでそれを続けていた為だ。
まず最初に2020年2月26日に聖路加病院の坂本史衣のインタビュー形式で「希望者にPCR検査をしないのは感染確率が低い集団に検査すると的中率が下がる」論が披露される。
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/covid-19-sakamoto
これは後に知的に背伸びしたい連中に散々弄ばれる検査前確率と「ベイズの定理」の話で普通の化学検査には妥当するが、後述するようにPCRの特性的に妥当しない、端的に間違いである。
また坂本はこの記事とその後の記事での抜擢によって「タレント」と化し、NHKや婦人公論などにも登場するようになり、入院患者全数検査は無駄という非常に危ない主張を広める事になる。
なおBuzzfeedメディカルの記事がなぜ大きい影響を与えたかというと、Yahooに配信されたからである。Buzzfeed Japanの親会社はヤフージャパンで、記事配信の契約がされていた。
講義を停止していた東京女子医大が再開前に全学生へのPCR義務付けと陰性証明を求めるとこれを批判する記事を配信。
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/inseikakunin-tokyojoshiidai
これも「検査前確率が低い集団に検査すると偽陽性がー」「陰性確認は出来ない」という勘違いに基づくものだ。
記事のネタはBuzzfeedや医クラの扇動に感化されて大学の行動に憤った意識高い系学生のタレコミだろう。故にこの記事もSNSでの大学の炎上を狙った犬笛であろう。
でもなぜ彼大学がこの決定をしたかと言えば「医学部」だからである。仕事で使う検査機器の特性を熟知しているのは当たり前の事だからである。そして医学部の後半では実習で病院への出入りが増えるから無症候感染者は弾いておく必要があるからだ。
当初、国は保健所と病院のパンクを恐れて検査を絞りに絞っていた。他国が数十万件/日のペースでやってる時に50件/日みたいなナメプだ。この為救急病棟をコロナ専門にしていた病院などは経営難に陥った。また簡易ロックダウン頼みであった。
この状況に最初に異を唱えたのは日経新聞で、ちゃんと検査数を増やさないと制圧できない、PCR検査の特性に誤解がある、という意見を明確にした。(5月)
これで流れが変わって来たのだが、Buzzfeedでは相変わらず「PCR検査論争が不毛だ」などという記事を延々と掲載。論争も何も岩永が一方的に間違えているだけの事である。
日経の記事の前から生化学研究者や生物系学科卒業生などが医クラや岩永にPCRの特性の説明、特に現在主流のリアルタイムPCRの仕組み、製薬会社の構造、試薬製造会社とバイオテクノロジーの関係、シーケンサーとPCRの関係等を丁寧に説明していた。またタカラバイオのサイトに初学者向けのPCRの解説とマニュアルとプライマー金額表まであるので見るように説得していた。
だが彼等は一向に見ないどころか「検査しても隔離しなきゃ意味無い」などの幼稚なすり替え、治療のための検査と防疫検査の意図的なすり替えを続け、そのしつこい説得を「PCR真理教」と揶揄するなどを続け、岩永はこれら生化学系人士らのツイッターをブロックした。意図してバブルを作ったわけだ。悪質な人物と言う外無い。
試しにツイッターで「岩永直子 ブロック」で検索してみて欲しい。
因みに以前はもっと沢山のブロックされた生化学人のツイートがあったのだが、PCRデマが周知されコロナが一段落したのでアカウントを消したりROM専になって検索スコアが下がって掛からなくなったのである。
じゃあなぜその人らが語りだしたかと言えば医クラとBuzzfeedのせいなのだ。致命的な間違いを流布しているから座視できずに声を挙げたのである。
岩永は唐突に「医クラにはネトウヨをRTしたりする馬鹿が多い」と批判した事がある。
三浦瑠璃も「日本会議ってネトウヨだからw」と同じ事をした事もあるのだが、これは三浦が学者としてあり得ないミスをしたり、学知が不十分だったり、国際経済や思想史、経済一般という周辺知識に暗いのがバレたり、宗教右翼等の如何わしい所でばかり講演するなどで評判が低下したのを気にして切断処理したのであった。
岩永も医クラが医療問題を韓国などの差別デマに転換して歓心を得たり、英語論文を根拠に反論したが読んでみると内容が全然違う(つまり虚仮脅しとしての英語)事がバレたりと切断したくなったのだと思われる。だがフィルターバブルを形成してその中で自意識を肥大させたり犬笛で炎上惹起したり(しかも間違い)しているから筋が悪い人間が集まるのであると言う外無い。
段々筋が悪い事に気が付いてきた岩永は「無兆候者検査は無意味」「検査数と感染者数は反比例しない」などの意見を述べてくれる人なら医学も疫学も生化学も関係ない人にインタビューするようになる。内容はただの相関関係がどうのこうののこじつけのナンセンスな論考である。
これらは防疫も医学も関係がなく「岩永がミスをしていたとは言い切れない感じもする雰囲気みたいな」という代物であって岩永の私益でしかなく、メディアの私物化である。
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga
こうやってダラダラと部下をも使役して保身の為に間違ってない論を続けていたが特異度が99%でも99.999%でも議論は同じ(低事前確立だと偽陽性が多数出る)、という記事を書いたところ、やまもといちろうに食いつかれる。「 【久々に怒ってます、誤報案件!】BuzzFeedさん、PCR検査の特異度が99.9999%と99%で「議論が変わらない」は雑すぎませんか? 峰宗太郎さん/岩田健太郎さん/岩永直子さん/千葉雄登さん 」
buzzfeedが下らない保身記事を打ち続けて防疫の邪魔をしているのは明白だった。この動画の再生数はあまり伸びていないが、昔からネットやってたらやまもとに絡まれる厄介さを知らないはずがない。
するとこの動画が出るや特異度が99.9999999%がみたいな言い訳は止まったのだ。医学に関する事なのに事実の確認じゃなく厄介なインフルエンサの方が影響あるのかよ。
特異度が変わっても同じ論は引っ込めたがやはりダラダラと言い訳記事は同年冬まで続いた。紙面私物化も良いところだ。
その間に空気感染に近いというのが周知され無症候検査の重要性が喧伝されてもそのまま続けた。
女子医大の例にもあるように、Buzzfeedや聖路加タレントが何を言おうが、判っている病院では職員と入院患者の全数検査を行っていた。
だがそれをしていない、検査環境を整えていない病院の病棟ではコロナの院内感染が発生した。
例えば埼玉県戸田の戸田中央病院では職員100名以上と患者141人が感染し、患者31名が死んだ。市内での致命率は1~3%だが、病棟では20%以上が相場だ。このケースでも致命率は20%である。術後患者や病人ばかりなのだからそうなるのは当然である。
更にこれにより他病院の受け入れが相次ぎ埼玉南部の救急はパンク救急車が何時間も出発できずこの時に重病になった人は助からなかった可能性が高い。
こうなるから全数検査の体制を整えていたのにBuzzfeedは女子医大を炎上させ聖路加タレントは検査すべきではないと言ってNHKや雑誌に取り上げられていたのである。途中で生化学人士らの説明を聞き改めて訂正をする機会はずっとあったのにだ。
朝日新聞などの有料記事はきちんとお金払って記事を全文読んでコメントを書いているのですか?
見出し記事だけで本文を読まないままブコメを書くのは論外だとしても、記事を全文読まないでコメントするのもフェアではないし正確ではないとは思います。
もしかして聞きかじりで適当なことをいう無責任な人間を体現するためにあえてそのようなことをなさっているのか。
大間原発の審査でキロとメートル間違える 2度の指摘でようやく判明:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASR6Z5HP7R6ZULBH001.html
[B! 原発] 大間原発の審査でキロとメートル間違える 2度の指摘でようやく判明:朝日新聞デジタル https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASR6Z5HP7R6ZULBH001.html
例えばここの41人
「笑い取るためだった」 元自衛官ら無罪主張 五ノ井さん性被害事件:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASR6Y6R06R6YOXIE012.html
[B! 性犯罪] 「笑い取るためだった」 元自衛官ら無罪主張 五ノ井さん性被害事件:朝日新聞デジタル https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASR6Y6R06R6YOXIE012.html
例えばここの276人
知りたいのは基準なのです。
YoutuberにSyamuって人がいる。
彼は「歌ってみた」やゲーム実況など、おおむねほかのYoutuberと似たり寄ったりなことをやっている。異世界ものの小説を書いたりもしている。
彼の知名度は低くはない。とはいえ、匿名掲示板やSNSの利用者などは彼に対して否定的な評価を下している。正視に堪えない言葉で悪罵されることも少なくはない。
とはいえSyamuさんはネットの住民が言うほど愚鈍とは思えない。彼の動画を見ることもあるが、少なくとも三十路過ぎの自分よりかは能力が高いことは間違いない。
それどころか知性・感性などの能力は同世代平均から見ても高いレベルにあるのでは?とすら思えるのだ。
例えば彼は、30歳を過ぎてもボーカロイドの曲(「ハッピーシンセサイザ」など)を歌ったりそれで踊ったりしている。いうまでもなくボカロ文化は新しいものである。
そういう新しい文化を30過ぎても虚心坦懐に取り入れる彼の柔軟性、あるいは感性のみずみずしさには舌を巻くばかりだ。
ボカロ文化に関していえば、自分が高校に入学した2007年ぐらいから話題になりだしたという印象がある。
高校のころぐらいに一度ボカロの曲を耳にしたことがあったが、はっきり言って黒板をひっかく音のような不協和音にしか聴こえず、結局10秒も聴くことはできなかった。その後もボカロ系には触れていない。
ましてや30歳を過ぎると人は頑迷になるというか、新しい音楽文化には抵抗を示しだすようになる。
そんな中、Syamuさんは30歳を過ぎても新しい文化をどん欲に吸収し、それを咀嚼してインターネットで発信した。みずみずしい感性のなせる業である。
他にもSyamuさんは小説を書いている。正直文体に関しては粗削りというか、英文を逐語訳したみたいなぎこちなさはある。
とはいえ、文体のぎこちなさと中身は必ずしも比例しない。彼が執筆した小説『ゾット帝国』に関しては、ファンタジー分野に関する蓄積をそれなりに理解しないと書けないのではないか?と思う。
確かに、『ゾット帝国』などのいわゆる「なろう系」は、一部で揶揄の対象として消費されているきらいがある。
ただ、その手の小説を書くにあたっても、「なろう系」の読者が共有する「魔法」や「(ファンタジー風の)異世界」という共通概念をある程度理解しないといけない。
いうまでもなく、魔法も異世界も現代社会に生きる我々が実際に認識できる代物ではない。それらは創作物を介し、ある程度抽象化された形で(書き手の中で)認識・体系化される。
その認識と体系化というのは知的営為に他ならない。知的営為を続けるための不断の努力がなければ『ゾット帝国』のような「なろう系」は執筆できない。
そう考えると、Syamuさんが『ゾット帝国』のようなハイブロウな小説を書けたのは、ひとえに彼の知的レベルの高さをあらわすものではなかろうか。
自分の場合、魔法も異世界も理解できる域に達するほどの知的レベルはない。その手の作品(最近だと『転生王女と天才令嬢の魔法革命』)を見ようとしても、何が何だか理解できないので10分ももたない。
それはひとえに、「なろう系」のような高度な知的営為から逃げ続け、昔から即物的な情報の断片の収集に血道をあげていたからだろう。
情報の断片を貪るだけしかできない自身の知的怠慢を呪いつつ、Syamuさんの知的豊饒さに万雷の拍手を送りたい。
複雑なルールの理解や高度なマネジメント技能が必要な『ウマ娘』や『原神』などのゲームができることも、彼の知的レベルの高さを如実に表している。
『ウマ娘』においても、まず「どの操作を行えばどのパラメータがあがるか」というルールを理解しないことにははじまらない。その際、現実世界の事象をフィードバックできるような生ぬるさはない。
ゲーム内世界で完結する定理などをある程度体得し、それをもとに常に最適解を考え操作しなければならないという、まさに絵にかいたようなスパルタンさである。
そういうむき出しの知的スパルタンな代物をこなし、さらにそれを「楽しい」と思えるレベルなのである。これが高度な知的レベルの証左と言わずに何と言おうか。
いうまでもなく自分は『ウマ娘』のルールが一切理解できなかった。それは知的スパルタンさに耐えられるほどの知力がなかったからだ。
他にもSyamuさんは優秀だと感じることは多々ある。
確かにネットの住民は、彼をあたかも知的競争の敗者のごとく揶揄している。むろん、それはネット特有のある種の露悪的なノリが表出した「ネタ」に過ぎないと評する向きもあるだろう。
ただ、それは彼に対する正当な評価だとは到底思えない。Syamuさんのような卓越した知性と豊かな感性を持つ人こそ、正当に評価されてほしいものだ。