はてなキーワード: 10年代とは
いわゆるツイフェミの流れをあまり知らないみたいだけど、リベラルフェミニズムの人たちは10年代まではまだ生き残っていたけど、3.11以降ネット上で古い新左翼の流れを汲んだラディカルフェミニズムが勢力を伸ばして異論を叩き潰していく過程でリベラルフェミニズムも潰されたんだよ
一応今でも活動している人は何人かいるけどほとんど虫の息だよね、ついに柴田英里も潰されてしまったし
もう完全に商業ミサンドリーに絡め取られているからフェミニズムもどきのミサンドリー勢力は外国人差別レイシスト勢力と同じ論理展開を稚拙にまき散らすだけの害悪として黙殺するか法で取り締まるかしかなくなる道に一直線だね
んでそこから見なくなった
見なくなり始めたのは、何部作みたいなのが増えたからだと思う
ハリー・ポッター、ロード・オブ・ザ・リング、パイレーツ・オブ・カリビアン
ここらへん覚えてる、スター・ウォーズもかな?
これらは1と2くらいは見たけど、そこらへんで途切れていた
続き物が見づらくなったのは、私が家族と映画を見に行ってたからかもしれない
「前の話覚えてない」と言われたので見に行かなかった
個人的にもちょっと前の話覚えてないし元が小説だからか分かりづらいところが多かったと思う
あと00年代頃からテレビを見なくなったせいで余計に映画から離れた
あと今日気づいたけどこれは何部作っていうより、原作小説の映画かもしれない
そういう流れがなぜか途切れたと思う
10年代の人気映画を見るとマジで見てないか存在を知らないものが多い
10年代後半からはヒーロー物が台頭してきて洋画界が活気づいた印象だけど、ヒーロー物興味ないんだよね
そして20年代
一応ハリウッドっぽい映画もちょこちょこ出てるっぽいので久しぶりに見てみようかな
というか20年分くらいの良作を一気に見たい、良作以外は要らない、人気作品の続編の微妙だったやつとか見てていたたまれない
なぜ美少女ゲーム趣味なのに国産のスキマ時間ポチゲーをやらずに、中国の推定累計開発費1000億円超えのPC/PSゲー(モバイル対応)をやるのかっtE?
それはゲーム自体の作りがよくてめちゃくちゃ楽しい自分史上最高のオンラインゲームだからだよ
どういうゲームかは例えばこの配信者が新キャラの探索テクニックやチーム編成を試行錯誤してる様子みると分かる
https://www.youtube.com/watch?v=LeFvTI1lBO8
ファンコミュニティも公式が後援してて先日はHoYoFairという年一のグローバルな二次創作イベントで優秀作が一挙に公開された
https://www.youtube.com/@hoyofair/videos
https://www.youtube.com/watch?v=rw0u9QK6cjg
もちろん公式がつくるムービーも常に想像を超える出来で更新頻度も高い
https://www.youtube.com/watch?v=1_wHgvZyZdk
https://www.youtube.com/watch?v=34jc0Y4bzT0
そして音楽が本気すぎる
水の国 https://www.youtube.com/watch?v=kRd1cW0_VMA
炎の国 https://www.youtube.com/watch?v=VN9ucWhXEm4
国に対する偏見がある人は中国発の良いモノを直視することができないのだとしたらあまりにも不憫だ
まあ正直布教する気では書いてない
知識ない状態でみて本当に凄さがすぐ分かることなんてないしね何でも
オーケストラに関してはゲーム理解ない音楽系の人でも凄みは分かると思うけど
既存プレイヤーの人は上に挙げたテイワット運動会3と、運命の糸って二次動画みてくれ
プレイアブルキャラではない登場人物をそこに生きていた人としてしっかり記憶に残る形で描けるゲームは間違いなく良作だ
国産スマホゲーばかりやってきた人たちはガチャで強キャラを引くことだけ考えてNPCの掘り下げを嫌がりなんならシナリオスキップしてまで石をかき集めようとする
まあシナリオスキップもリセマラも出来ない仕組みになってるんだけど
そういう狭窄な楽しみ方しかできなくなっていく国産スマホゲーは文化的じゃないし戻る気ないよ
2年以上続けた国産ゲーだとスクフェスグラブルデレマスSB69色々やってきたけどもう「なんたらフェス」とか言って確率上昇によってガチャ煽るゲームはやる気しない
2020年以後はDMMゲーの方を多くやってきたが、それを含めても国産スマホ/ブラウザゲーで一番感動させられたのは「ららマジ」「あいミス」の2トップだったが、運営能力という点で国産は軒並みダメ
00年代10年代に無数に触れてきた韓国ネトゲの数々と同等以下の運営センスしかない
韓国にはROのGravityやマビノギのdevCAT、エルソードのKOG、AIONのNCsoftのようにセンスのある開発運営があったけど
今日本で一番「デキる」のはCygames、あとシナリオ面ではWFSだが、俺はどこもゲーム的センスがいいとは思わない
まだ00年代の国産ネトゲがちょろっとあった時代の、MoEを作ったハドソンとかのほうがオンラインゲーム的にはセンスがあると思う
それは作者がホモソに異論を唱える為に作中に登場させる空気を読まず発言できるアスペASD持ちの男が、現実のホモソではいちばんミソジニーが強いから。
いわゆる体育会系のホモソのミソジニーなんて熱めの風呂のようなもの、アスペASD男のミソジニーは限界がなく尽きる事もない。サッカー部10人集めても1人で勝てる強度をもっている。
なぜホモソどっぷり野球部サッカー部の男よりも彼らのほうがミソジニーが強いかといえば、それは10~20歳までの健常者の女がまず真っ先にいじめて機会があればハブったり悪い噂流したり晒されたりが続く10年間が、アスペASDをもって生まれた男の過ごす10代だから。
そして大学はいって人文知を習ってアップデートしただけのいじめてた側の女が、自分たちのそういう性質を忘れて、空気を読まないアスペASD男のガワだけ借りてホモソ批判するときのお説教スピーカーとしてマンガの中で利用する。グロすぎる。
作者が男でも女でも、ここまで鈍感な人間の作るホモソ批判がまともでしっかりした解像度をもつことはありえない。
ちゃんと男のホモソを観察した上で批判する作者がいたとしたら、ぜったいアスペASDもちの男をホモソ批判役には選ばない。そんなグロい事は人間の心があれば出来ないからだ。ホモソ批判マンガというジャンルは現状、それに気づかない無神経な人間だけが作り楽しんでいる。
こういう批判もまともに10年代は出てこなかったけどいまはちょこちょこ批判されてるっぽいので、そこだけは多少マシになったなと思う。
アメリカのデマ検証サイトSnopesの記事に詳しくまとめられている。(Snopesの良いところは日本の団体のファクトチェックサイトと比べて、デマの発生源や背景まで調べた記事が多いところ)。
No Evidence Haitian Immigrants Are Eating Ducks, Geese or Pets in Springfield, Ohio | Snopes.com(オハイオ州スプリングフィールドでハイチ移民がアヒル、ガチョウ、ペットを食べている証拠なし)
https://www.snopes.com/fact-check/cats-ducks-haitians-springfield/
アメリカ・オハイオ州は共和党副大統領候補のバンス氏の出身地であり、スプリングフィールドも『ヒルビリー・エレジー』で描かれていたような典型的な産業が衰退した街だった。
だった。市行政当局は、10年代中頃から工場誘致に成功しまくって、日本のホンダなど有名企業がいくつも進出して雇用を生み出した。
一方で、アメリカ国民にはブルーカラーの仕事は人気がなく、コロナ・パンデミック以降は特に人手不足に陥った。
そんな時、ハイチ人コミュニティで「スプリングフィールドに行けば仕事がある。田舎だから生活費も安い」と口コミで広がり、ハイチ移民が一気に集まった。雇用主は歓迎した。
ハイチ移民は、ギャングに支配されてまともに生活できない本国から逃げてきた人たちである。アメリカの移民当局は、ハイチ国民に「一時的保護ステータス」と呼ぶ資格を与えて、アメリカでの滞在と就労を許可している。不法移民ではない。
経済に活気が戻ったとの声もある。とはいえ2万人近いハイチ移民が急増して、市の教育・住居・医療はパンパンに膨らんでしまった。住宅価格も高騰し住民の不満も膨らんだ。
そんな中、ハイチ移民の運転する自動車が、スクールバスに衝突して子供が1人死亡する事故が起きた。運転手は過失運転で有罪になった。そこからハイチ移民叩きが加速した。市長はハイチ移民を流入させているとバイデン政権を批判した。そしてトランプが流した「ハイチ移民がペットの猫を盗んで食べた」というデマにつながる。
今では信じられないことだが、90年代~10年代はリベラル論壇でサブカルチャーの作品や作家について深く思考し語れているか?が論者として凄いかどうかの基準のひとつ。これが暗黙の前提だった。
だから宮台真司も東浩紀もサブカルチャーについて語っていたし、そんな風にインテリにレペゼンされるのが嫌な野良の書き手と謎の小競り合いが起きて……とモメ事もその周辺で延々繰り返された。
このレペゼン枠争いはいまでも岡田斗司夫のオタキングという通称だったりがその時期の文化遺産として名残が残っている。ユリイカがたまにマンガ家特集やったりしてる所なんかもこの名残のひとつだ。
何にせよこの戦いでは深く理解をする、少なくとも理解をしようと務めた者が勝者であり価値として認められていて、これだけは立場、思想を問わず共有されていた。
これが10年代に一気にかわり、理解しているか?よりも反省させているか?が価値となった。迂闊な表象を出した作家や企業をどれだけ炎上させ反省させたか? 理解の深さを競うゲームから一抜けし、かわりに誰かを反省させることをリベラルは選んだ。
これが便利だったのはサブカルチャー批評はキャラの造形、関係性、物語、世界観、作家の意図、フェティッシュ、社会反映、二次創作での扱い。そのすべてに目配せし応答できる知能が求められたが、反省させるのは目に入った刺激に反応するだけで良いので猿でも出来る事で、強力な利点だった。
だから議員になりたての売れたい中年やバズりたいだけのNPO代表なんかがこぞってこの反省ブランディングに手を出すようになり、……このへんから後は皆の記憶に新しい内容がそのまま起きていった。
20年代には誰かを反省させた=凄い奴。が蔓延しきったのでそれに続いて、自分は反省した=凄い奴と、どれだけ反省させたか競争に更にどれだけ反省したか競争までもが加わり不毛さとナンセンスさに更に拍車がかかった。
これは当初は理解の深さで勝負してたのに、いつしか反省の深さで勝負するようになったTBSラジオの宇多丸なんかが最もわかりやすい例だろう。
今の売れ筋はtoxicマスキュリニティで、反省用アクセサリーとしては最近話題になった御茶ノ水の人なんかは全身これで固めていたし定番アイテムとなっている。
この辺りの時期ですでに宮台は映画語りだけを残し撤退していたし、東浩紀は観光客をキー概念とし、レペゼンの万能感から離れ不能さに留まることを選んだ。
このリベラルの入念で計画的な自滅によってサブカルチャーを通してリベラル的に何かを考える思想の蝶番そのものが場所とプレイヤーの両面から壊れ修復不可能になっていった。
保守やヘイターの手によってではなく自分たちで壊すことを選び、現状フィールドに残ったのは壊すことで延命できるような既に賞味期限きれなのをごまかしている評論家だけになったし
新しく出てくるプレイヤーも落合や成田のようにITビジネス系とつきあう形を選びサブカルチャーにはそもそも深入りして言及する事自体あまりない。
こうやって入念に登場の準備をお膳立てし、鍋も具材もすべてリベラルが自らの手で揃えきったあとに現れたのが暇空だった。
こういう流れがないとなぜ彼がやたらとHUNTER×HUNTERの話をするのかエロゲではランス10が最高傑作だったという話をするのかも意味がわからないし
なぜ他の候補のマンガ賢者ブランディングに対し対談で謎のクイズおじさんと化して企画を破壊してまで暴くのかそのメリットが恥をなぜ上回るのかもわからないが
彼は要はこの系譜の忌み子として出てきており、リベラル論壇が自分から手放したここの客層を単におさえただけだ
そしてその上から保守っぽさアンフェミっぽさをメッキで後乗せして支持の総量を増やそうと形づくっていってるのだが、リベラルはあまりにも愚かなのでこのメッキを本体だと思ってミソジニー枠で処理しようとしていて、ほんとうにどこまでいっても愚かだなと感じる
今では信じられないことだが、90年代~10年代はリベラル論壇でサブカルチャーの作品や作家について深く思考し語れているか?が論者として凄いかどうかの基準のひとつ。これが暗黙の前提だった。
だから宮台真司も東浩紀もサブカルチャーについて語っていたし、そんな風にインテリにレペゼンされるのが嫌な野良の書き手と謎の小競り合いが起きて……とモメ事もその周辺で延々繰り返された。
このレペゼン枠争いはいまでも岡田斗司夫のオタキングという通称だったりがその時期の文化遺産として名残が残っている。ユリイカがたまにマンガ家特集やったりしてる所なんかもこの名残のひとつだ。
何にせよこの戦いでは深く理解をする、少なくとも理解をしようと務めた者が勝者であり価値として認められていて、これだけは立場、思想を問わず共有されていた。
これが10年代に一気にかわり、理解しているか?よりも反省させているか?が価値となった。迂闊な表象を出した作家や企業をどれだけ炎上させ反省させたか? 理解の深さを競うゲームから一抜けし、かわりに誰かを反省させることをリベラルは選んだ。
これが便利だったのはサブカルチャー批評はキャラの造形、関係性、物語、世界観、作家の意図、フェティッシュ、社会反映、二次創作での扱い。そのすべてに目配せし応答できる知能が求められたが、反省させるのは目に入った刺激に反応するだけで良いので猿でも出来る事で、強力な利点だった。
だから議員になりたての売れたい中年やバズりたいだけのNPO代表なんかがこぞってこの反省ブランディングに手を出すようになり、……このへんから後は皆の記憶に新しい内容がそのまま起きていった。
20年代には誰かを反省させた=凄い奴。が蔓延しきったのでそれに続いて、自分は反省した=凄い奴と、どれだけ反省させたか競争に更にどれだけ反省したか競争までもが加わり不毛さとナンセンスさに更に拍車がかかった。
これは当初は理解の深さで勝負してたのに、いつしか反省の深さで勝負するようになったTBSラジオの宇多丸なんかが最もわかりやすい例だろう。
今の売れ筋はtoxicマスキュリニティで、反省用アクセサリーとしては最近話題になった御茶ノ水の人なんかは全身これで固めていたし定番アイテムとなっている。
この辺りの時期ですでに宮台は映画語りだけを残し撤退していたし、東浩紀は観光客をキー概念とし、レペゼンの万能感から離れ不能さに留まることを選んだ。
このリベラルの入念で計画的な自滅によってサブカルチャーを通してリベラル的に何かを考える思想の蝶番そのものが場所とプレイヤーの両面から壊れ修復不可能になっていった。
保守やヘイターの手によってではなく自分たちで壊すことを選び、現状フィールドに残ったのは壊すことで延命できるような既に賞味期限きれなのをごまかしている評論家だけになったし
新しく出てくるプレイヤーも落合や成田のようにITビジネス系とつきあう形を選びサブカルチャーにはそもそも深入りして言及する事自体あまりない。
こうやって入念に登場の準備をお膳立てし、鍋も具材もすべてリベラルが自らの手で揃えきったあとに現れたのが暇空だった。
こういう流れがないとなぜ彼がやたらとHUNTER×HUNTERの話をするのかエロゲではランス10が最高傑作だったという話をするのかも意味がわからないし
なぜ他の候補のマンガ賢者ブランディングに対し対談で謎のクイズおじさんと化して企画を破壊してまで暴くのかそのメリットが恥をなぜ上回るのかもわからないが
彼は要はこの系譜の忌み子として出てきており、リベラル論壇が自分から手放したここの客層を単におさえただけだ
そしてその上から保守っぽさアンフェミっぽさをメッキで後乗せして支持の総量を増やそうと形づくっていってるのだが、リベラルはあまりにも愚かなのでこのメッキを本体だと思ってミソジニー枠で処理しようとしていて、ほんとうにどこまでいっても愚かだなと感じる