はてなキーワード: 規約とは
今さら言うことでもないけど、いわゆるボカロ曲は他人がそれを歌ったり替え歌を作ったりすることが許されるような文化がある。
紅白で歌われた「命に嫌われている。」なんかもまふまふさんの歌ってみたが大人気だし、にじさんじの笹木咲が替え歌を歌ったのも有名だと思う。
みんな割と好き放題に作るからどういう替え歌ならいいかなんて基準はないけど、果たしてそれはどこまで許されるべきなのだろうか、ということをこの動画を見つけて考えてしまった。
【替え歌】作者に嫌われている。
タイトルから分かるように「命に嫌われている。」の替え歌で、歌詞としては「ぼくたちは勉強ができない」っていうジャンプでやってた漫画でうp主の推しキャラの扱いが酷かったということを訴えてる。
作者への誹謗中傷というよりは推しキャラの境遇への怒りや悲しみを吐き出してる内容なので、法的にどうこうという感じではないと思うけど、とはいえ攻撃性は結構高い。
替え歌はボカロ文化を豊かにしているものの一つだと思っているので基本的に制限してはいけないと思うけど、他人の曲を使ってこんな動画を作ることは制限しなくていいのかなと考えた。
ぼく勉は単行本全巻持ってるくらいには好き。アンケートも結構入れてた。
命に嫌われている。はまふまふさんから入ったにわかだけど原曲のほうも繰り返し何度も何度も再生したくらいには大好き。
なのでどっちのファンの気持ちも分かるんじゃないかと思ってる。
愛がない二次創作は駄目という格言がある。ではこの動画はどうだろうか。
こう書くとどっちのファンにも叩かれそうだけど、ぼく勉にも命に嫌われている。にもそれなりに思い入れがある身としては、どちらに対しても少なからぬ愛の込められた動画だと感じた。遊び半分で愉快犯的に作ったものではないと思った。
ぼく勉についてだけど、歌詞とか投コメにあるブログのコメントとかを見た感じ、きっとうp主は筒井先生がYouTubeでいつかうるかちゃんのその後のことを描いてくれるんじゃないかって期待してたんだと思う。
だけど半年前からぼく勉のことを描かなくなったからもうダメなんだと気づいて、それでやり場の無い思いを大好きな曲に預けて発表したかったんだと私は感じた。
愛憎半ばっていうのかな。フルで作ってるのにそれでも全然足りそうにないくらいの怨念に満ちた動画だけど、この動画で歌われている恨みはそのまま愛とイコールなんだと思う。
そういう愛憎籠もった歌詞なんだけど、原曲の文字数に合わせてたり歌詞を変えずに使ってるところも結構あったりして、聞いていて意外と違和感は少ない。
MVの再現具合もなかなかしっかりしてて、スクロールの速度もだいたい合わせてるし、文字がランダムで切り替わりながら歌詞が出てくるのとか、他の替え歌動画見てもあんまりやってないことやってる。
動画は作ったことないから詳しくないけど、そこ再現してるのあんまり見ないからきっと再現するの結構大変なんだと思う。それでも手間を惜しまずなるべく原曲に寄せたかったんだろうなと思うと、そこには少なからず愛があるんだろうと私は思う。
こういう動画を作るのはマナーとしてはいただけないことだと思うけど、自分の大好きな作品に対する思いを昇華するために、大好きな曲をどうしても使いたかったんだと思うと理解できる部分は正直少なくない。愛も恨みも大きいから、同じくらいの気持ちで好きな曲でないと釣り合わないのは正直分かる。
個人的には動画が法的に問題あるという感じはしないし、しっかりとした愛があって作られたものだと思う。うp主の怒りも恨みも決して理不尽なものではなく、そう感じて当然のことだと思う。
だけどそれでもこういった攻撃的な替え歌は許されるべきじゃないと私は思う。
もちろん表現の自由とか大切なんだろうけど、そういう法律や規約以前のマナーの問題として、コミュニティの発展のために攻撃的な歌詞は受け入れないとかそのくらいの基準はあってもいいんじゃないかと思う。
自分の曲を面白く替え歌してくれるのが嫌な人はそんなにいないだろうけど、自分の曲を攻撃的な替え歌に使われるのはほとんどの人が嫌なはず。実際単なるファンでしかない私でもこの歌を聞いてうp主に同情するのと同時に悲しい気持ちになった。
それに攻撃的な替え歌を許容するようになってしまうと、そんなふうに使われるのが嫌だと思う人が動画をアップするのをためらうようになってしまうかもしれない。そうするとボカロ文化の衰退にもつながってしまう。
例えば「たべるんごのうた」ブームのときに煽り要素のあったウィーアー!の替え歌をうp主が自主的に削除したことも、ブームが持続した原因の一つと言われてる。
個人の表現の自由も大事だとは思うけど、コミュニティが持続していくためには一定の制限が必要なんじゃないかと思う。他人の曲を使うのであれば、せめて攻撃的な歌詞にはしないという基準があってもいいんじゃないだろうか。
だからもしこの増田をうp主が見ることがあったら、どうか動画を削除して欲しい。
あなたの怒りも恨みも同じ作品と音楽のファンである私には届いた。どうかそれで十分だと思ってもらえないだろうか。
うp主はきっと何か目的があって動画をアップしたわけじゃないと思う。ただただやりきれない気持ちを発散したかっただけなんだと思う。
だからどこかの誰かにではなく、少なくとも私には届いた。それで満足して終わらせてくれないだろうか。
この増田はあなたに届けばいいなと思って書いた面もあります。広まるかも届くかもわからないけど、もしそうして貰えるなら同じ作品と曲のファンとしてこれ以上嬉しいことはないです。
どうも、使用料を求めないものの商標は撤回しない方針という事にしたようだが、どうも対応の速さから「ここまで想定内」という印象を受ける。
そうでなくともYahooニュースなどに取り上げられる事を喜ぶ姿勢などを見せている為、ここまでが炎上商法で売名の為に行なっている可能性が否定できない。
要は、元から
「予想より大事にならなさそうなら使用料は実際に請求するが、そうなることは期待しない」
「まず大事になる(ならないと困る)ので、弱火になりそうな所で逆に煽る」
「炎上で界隈外の人間にまで名前が売れれば勝ち」(悪名でも広がれば価値を持つので)
下記のように法の抜け目を出し抜こうとする魂胆の持ち主である為、流石に逮捕されるのは避けようとしてる印象がある。
ひとまず言えるのは大体このくらいまでか。
【追加ここまで】
現状……
【商標登録した人Yの主張】
・「ゆっくり茶番劇」というタイトルをネット上の記事や動画タイトル・書籍などに対して使う事に対する商標であり、「ゆっくり茶番劇」≠「ZUN氏の東方Projectの二次創作」である。
= 動画内に「ゆっくり霊夢」などのキャラを出さなくても「ゆっくり茶番劇」というタイトルを商用使用したコンテンツであれば「ゆっくり茶番劇」として成立するので、二次創作としての「ゆっくり」関係動画を制限している訳ではない。
また先使用権が成立するため、商標登録より先に「ゆっくり茶番劇」というタイトルでコンテンツを作成している個人等に対し、商標使用について使用料等を取る事は出来ない。
また、これらの権利は明らかに類似した商標・コンテンツには適用できるものの、「ゆっくり実況」とか「ゆっくり解説」などには適用されない。
"法律の隙間"を縫った、かなり巧妙かつ悪質ではあるものの(一応ギリギリ)「正当な商標登録」としか言えない。
これが所謂Softalkとかを使用した「ゆっくり実況」とか「ゆっくり解説」なら"一般的に流布された言葉であり商標として使えない"という感じになるし、また「ゆっくり霊夢」とかの"東方Projectの創作キャラを餅饅頭化した二次創作キャラ"であれば「ギコ猫」の商標登録よろしく権利者が出張れるのだが、"ゆっくり"という言葉だけでは連想できるだけであり極論「ゆっくりとした音声で茶番劇を行うコンテンツ」として解釈できる……みたいな論理が適用できてしまう。
無論、元々の投稿者が半ば炎上アンチ商法を使うとはいえ「ゆっくり霊夢」等のキャラを用いている関係上、どう考えても"そっちの意味で使ってるだろ!!!"としか言えないのだが、敢えて「ゆっくり実況・解説とかは知ってるけど、ゆっくり茶番劇は今回初めて聞いた」みたいな認知度のものを敢えて狙ったというのが悪質すぎる。
無論、このような商標を展開すれば、これから「ゆっくり系の寸劇とかを作りたい」と考えている人の行動は阻害されるし、仮に商標を回避して作品制作したとしても"商標登録者から類似作品だと認定されれば"と考えたら及び腰になるのは当然である。
しかし、あくまで「ゆっくりキャラ」はあくまで二次創作であり、「ゆっくりボイス」も基本的には通称でしかない事から、これらの論理を覆せない限り……キャラやボイスの大元の権利者としては、恐らく「ゆっくりキャラ(東方Project二次創作キャラ)」を使用しないよう監視するとか、規約の範囲内で使用料を払っていればボイス利用を認めざるを得ないとか、そういう後手の対応しか出来ないであろうという感じがある。
強いて言うなら先使用権を持つ人なら多少は何か出来るのではみたいな感じも無くはないが、それだけでは難しい気もする。
しかし、このような手が罷り通るようでは、新しく流行りそうなコンテンツや、一部が細々と楽しんでる二次創作ないし新語を含むコンテンツを狩るような手法が流行りかねず、社会的な文化の進歩を阻害しかねない。
悪質というのは、まさにこの事である。言うなればZUN氏の理想の真逆を突き進む行為としか言えない。そうでなくても市場を焼畑農業で食い潰すことになりかねない。
だが「ゆっくり」というコンテンツ名称だけで上記を指す社会通念として成立する、みたいな主張を通さないと商標取消まではいかないような気もする。かなり難しい案件だ。
・情報を摂取するのはその当人において1視点からその機能に応じて同じく見えるので「接種する情報をどうにかしろ」というのは無理な話
・情報の重要度や優先度、価値といったものについて言うならば「情報を得た人間がそれを利用する場合」に付くものではないか
この前提をもってする1意見なのだけど、その匿名だったり複数の人格を装って発信できる情報なりの素があることは表現とかなんとかの自由で認められるべきものだろうと考える
発信された情報を受け取った人間がどう利用するかについては、問題が発生すると思うのだが「〇〇という発言があった、というのを見た、しらんけど」という使い方をすることについて価値を認めないようにすべきではないかと考える
「保育園おちた」発言で世の中かわったありがとうという記事もなんか今ホッテントリしてるけど、助かった自分がいたのと自分との直接的な関係性はその記事からうかがえるというのはわかるが、直接的に恩恵をうけたのは市政のはず
礼を言うのが身近な店員ではなく神にという主義ならわからなくもないけれども、それでも礼を言う相手が違うのではないか
動かない事柄を動かしてくれた何かに感謝、というならば死んだ人間にみんな「死んでくれてありがとう」という癖がある人なのかと思ってしまう
警察に助けられた警察機構をつくってくれた犯罪者の皆様には感謝しかない、とか日本の平和は敗戦国へと追いやってくれた戦争参加各国のおかげ感謝しかない、とかそういう感覚なのであれば自然ではありそう
どこのだれか知らないけれども発信された情報があったので、それは大事だとするのは感謝の気持ちをそこに添えるのは問題ないし良いことかと思うが、そこに責任があるとしたら自分に返ってくることを自覚すべきではなかろうか
死ねと言い含めたことを、自己の責任として再発言することになった事に責任が持てるならば何の問題のないだろうし、それを臨んでいるので仮に「死ね」発言について炎上したとしても、受けきれるのだろう
実際に問題が発生していたり救済を必要としていたりする情報源について実態を伴う行動が必要かどうかは情報が存在していて、かつそれを摂取して判断した結果になる
発信者が嘘偽りを発信していようが発信者として偽っていたとしても「それを良しとする」規約範囲内での活動を問題視するということは規定を自由に存在させていいという社会的領域を狭める
ツイッターの話ならばツイッターが規約を厳密にしたり審査を厳密にしたりすることはありだろうし、放置するのも緩くするのもありだろう
その自由な選択を認められることが社会的な領域の広さにあたると考えるのでそれは狭めるべきではなく、社会的地位としての上昇を臨むならば社会を狭めて情報源を確実なものに押し上げるのではなく、情報源自体が規約なりで縛り押しあがっていくことが望ましいのではないか
何もしなかったり緩くすることで社会的な情報源としての地位を下げることになるのはその自由の範疇においてやむを得ないだろう
しかし低く下がった信頼度を、ほかの時点の価値観とかさねあわせて「信頼できる情報源において」とするのは「ほかの時点の価値観」でその情報源を推し量っていることが問題だと感じる
文字データになってインターネットに流れていたらみんな平等に貴重な情報源って言うのはいいし信じるのはいいけど、それをもってして行動するのは自己責任にすべき
「〇〇っていう噂があって、まことしやかで、本当なら問題だし」から具体的な例に置き換えて「例えていうなら」からの自説を披露し相手に「だと思わない?」と結局関係ない行動喚起をさせて「しらんけど」と言うのは良くないのではないか
関係ない人間に恣意的な行動喚起をする材料としてそのへんに散らばってる情報を利用して「という情報があるのを発見した」からの「という風に見える」と冴えたような加味をして与えるのは「その情報ソースがそこに落ちていた」という事とほぼまったく関係がないといっていいように思える
それは「人の口元へ運ぶ行動と、口にしていいようにした」のはその情報発信者なのだから、元の情報をつくった人間はもうすでに関係がないといっていいだろう
偽の情報発信者が多く潜み偽の情報を沢山流したとしても、それをまとめて扇動したり誘導したりしようとする人間がでてくるはずで、注意すべきと責任を追及すべきはそこで十分ではないだろうか
改善すべきは、むかしはよかった、むかしはこうだった、かつてはこうだった、だから「今もつかえる」という判断基準で過去の人やものを盲目的に利用しつづけ更新しない人により新鮮な情報を提供するようになっていけばいずれそのなりすましでどうにかなる情報の発信や迷惑行為を正義と勘違いするような扇動者の区別はつくようになっていくのではないかと考える
月曜日、カラスの落とした獲物だった子猫を拾ってからやったこととか、知ったこととか。
拾ったのが朝6時半で、受診できたのが9時半。こんなに短時間で受診にこぎ着けられるなんて、知らなかった。たまたま暇な日だったのか、電話をかけた一時間後に予約を入れてもらえた。
自分で飼う意思がない癖に捨て猫とも野良猫ともつかない子猫を受診させても、嫌な顔一つされなかったのが意外。
うちはペット禁止の戸建て物件のはずが、何故か隣人は犬を飼っている。すごくよく躾けられていて、無駄吠えをしない大人しい犬だ。
「増田さんも何か飼いたくなったら飼っていいのよ」
と以前大家さんは言った。謎におおらかだ。
猫を拾ったらまず交番に連絡するものなんだって。その発想は私にはなかったのだが、猫の保護の仕方についてググって知った。
こんな事で交番に連絡して「はぁ?」みたいな塩対応されたらやだなと思いつつ電話をしてみると、
「あーはいはい、猫拾ったのね。動物愛護団体に預けるんにまず警察に聞いてからにしてって言われるんでしょ。ではまず氏名住所と、拾った場所を教えてください」
と、慣れた対応をされた。世の中の人達は猫を拾ったら普通に交番に届けるものらしい。知らなかったぁ……。
お巡りさんから、飼う意思の有無を訊かれたので、飼う意思はないけど子猫を生かしたいですと答えたら、ちょっくら対応を審議するので折り返し電話するねと言われた。
一時間もしないうちにお巡りさんから電話がかかってきた。調べた結果、子猫を落としたという届はなかったので、子猫を自分で飼うなり人にあげるなり私の好きにしていいとのこと。子猫は落し物・拾得物扱いらしい。
交番で預かるとなると、元の飼い主が名乗り出ないまま預り期間を過ぎた場合、県営の動物愛護センター行きとなる。だがそこも預り期間があるわけで、期間内に譲渡先が見つからないと殺処分になる。従って、猫に生きていて欲しいとなると、自分で動物愛護団体を頼って譲渡先を探した方がいい、と。それで、お巡りさんは県営の動物愛護センターの電話番号を教えてくれて、そこに電話して訳を話して、民間の動物愛護団体の連絡先を教えてもらうように、と言った。
フレンドリーに対応されて驚いた。最近は、役所関係に電話するとどこでも親切対応ですごい。20年前のどこにかけてもクソゴミ対応された時代がうそのようだ。
言われたのはお巡りさんが言っていたのと大体一緒。
「ここはどうしても飼い主が見つからなかった時の最終手段だと思ってください」
だそう。収容動物の譲渡会も開いてはいるらしいのだが、里親が見つからないこともよくあり、収容期間も短いので殺処分になってしまう可能性があると。子猫の場合は貰い手が見付かりやすいから、ここではなく民間の動物愛護団体の開催している譲渡会に参加して貰い手を探す方がいいそう。信用出来る二軒の団体の連絡先を教えてくれた。私が自分でググってみたところ、県内に複数の団体があるようだったのだが、その中でどこが信用出来るかまではネットでは分からなかったので、有難い。
あっちこっちに声をかけて来たものの、芳しい返事はない。しかも、うっすらとキモがられてしまう。宗教やマルチの勧誘と同一カテゴリーなのかな。
そんな中、唯一ポジティブな反応をしてきたのが、仕事仲間の若者で、その人は未婚で両親と同居中。動物愛護団体の譲渡会だと審査に受かり難い属性で、動物を飼うには自分で拾うかペットショップで飼うしかない。本人もペットを飼ってみたいのだが、それ以上にご両親もペットを欲しがっているとのこと。
ただ、その人は数ヶ月前にペットショップで見かけた仔犬に一目惚れをしたが、仔犬は売約済みだったという悲しい思いをしたそうで、出来ればその時くらい可愛いと思える動物を飼いたいという。都合よく子猫に運命を感じられるのかどうか謎だ。
動物愛護センターから教えて貰った団体のホームページを閲覧したら、犬も猫も生後2か月まで親元で育てることと書かれていた。子猫は推定生後1ヶ月だが、親猫とは生き別れになってしまっている。それでも2か月、うちで育てていいのだろうか。
子猫は何も一人で出来ない状態で、とても世話が焼ける。他人に譲渡するならトイレトレまでちゃんとやって手間がかからないようにしてから送り出したい気持ちがありつつ、世話は大変とはいえ可愛い盛りなので、是非すぐにでも引き取ってお世話をしてみたいという人もいるんでないかと思うが、どうだろうか。
てかまず、団体の規約を読む限り、譲渡する子猫は捨て猫ではなく繁殖させた(させてしまった)子猫を想定しているような?
「生後2か月までは、親兄弟との関係を通して社会性を身に付ける、大切な時期です」
そんな風に書いてあるけど、うちみたいに他に猫のいない環境で育った猫はどうなんだ。
そこで考えてしまい、まだ愛護団体に電話をしないでいる。今日電話するつもりだけど。数年前、動物愛護団体の譲渡会に(里親希望で)参加して嫌な思いをしたという増田を読んで、なんか動物愛護団体こわい……と思ったので、電話するのすごく緊張する。
拾った日は歩き方もお覚束無く、ミルクも自分で飲めず排泄もできずだったが、今はもう普通の猫のように歩けるし、皿から餌を食べられるようになっている。すごい成長だ。だが、排泄はまだ人の介助がないと出来ない。
https://help.twitter.com/ja/rules-and-policies/twitter-impersonation-and-deceptive-identities-policy
他のTwitter利用者の快適性を損なうような形で、個人、グループ、組織になりすましたり、捏造されたアイデンティティを使用したりする行為は禁止されています。
Twitterアカウントのプロフィールに、その所有者の本名や画像を掲載することは義務付けられてはいませんが、他者を欺くことを目的に、アカウントを利用して、他者や実際に存在しない人物になりすますことは禁止されています。
虚偽のアイデンティティを使用するアカウントは、混乱を招いたり、Twitterでの会話の信ぴょう性を損なったりする可能性があります。こうした理由により、利用者を欺くことを目的に、他の利用者、グループ、組織のアイデンティティを悪用したり、架空のアイデンティティを捏造したりすることは禁止されています。
国連女性機関が『月曜日のたわわ』全面広告に抗議。「外の世界からの目を意識して」と日本事務所長
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6257a5d0e4b0e97a351aa6f7
何事もなかったかのように風化させようとしてるのか知らないけど、国連の名まで出しておいて流石にその五流企業対応はないんじゃないだろうか。
記事で焦点として上げられた「3つのP」を基準としたチェックには散々ツッコミが入ったし、日本事務所石川所長の過去発言との矛盾も指摘された。
もはや件の広告に問題あるとした人でもわざわざこの件を担ぐほどの人はいなくなった。
それを何事もなかったかのようにほとぼり冷めるようスルーしてやり過ごすのは本当に国連の一機関として問題しかないと思う。
自分たちで提示した根拠に矛盾が指摘されたのだから、それは責任とって説明すべきで、内容はこう見ると矛盾がないとかでも良い。
言いっぱなしで自分たちの矛盾はスルーと言うのは無責任な実態のよくわからない反社企業がトンズラこくようなことで、それを国連の機関が行ったと言うのは国連女性機関、引いては国連そのものの信頼度、言及の信頼性にも関わる重大な損失だ。
最初から提示しなければ、国連女性機関と日経新聞社との契約間での話として終わらせていれば勿論そんなことはなかったろう。
だが日経新聞は国連女性機関との規約を冒したと言わんばかりに一方的な情報開示を行ったのだから、その責任は取るべきだと思う。
このまま逃げ去るのであれば少なくとも日本においての国連女性機関と言うのは今後ただの程度の低いクレーマーとして見做されるだろう。
あの広告の絵単体でNG派はちょっとわかんねぇけど、まあ感覚の違いだろう。
編集部のコメントがアウト派も、それ日経は関係ねぇだろと思いつつ、コメントが時代に沿ってないなというのはわかる。
一番わかんねぇのは、「日経新聞は国連女性組織の規約に違反した!契約の問題!」派。
正直馬鹿じゃねぇかと思っている。
第一に、お前はその規約とやらを確認してねぇだろってこと。だって非公表だもの。
なのに、一方当事者がハフポストに流した情報だけで「国連が言ってる!違反したんだ!」って馬鹿じゃねぇの。
だいたい、誰の目からみても明白に規約に違反しているとわかるものだったら、ハフポストでのインタビュー時点で「こういう規約があって、このように違反しました」って言うだろ。
それだけで終戦じゃん。でもしない。それは、よく言って解釈違い、悪く言えば牽強付会な主張だからだろ。
そもそも具体的に掲載する広告基準に関する規約があるなら、それは日経新聞が外部に公開しているはずじゃん。
その外部に対して審査基準を隠す意味ないだろ、なんでわざわざ基準違反な広告を応募させるんだ。
もし仮にそんな規約を結んでいたならば、それを大っぴらに宣伝に使うだろ。
わざわざ自分を縛っておきながら、それを隠して他紙と競争する意味あるか?
オタクコンテンツ炎上事件が起きると、表現規制派 vs 表現の自由派でうんこの投げ合いが始まるけど、別にこれ、憲法でいう「表現の自由」の話じゃないんだよな。
それなのに、なんか基本的人権の重要な一部が毀損される深刻な事態が起きているかのような話になるから、わけのわからない空中戦になる。
どういうことだか説明するね。
そりゃあ、法的規制ができれば大金星として、成果を大々的に掲げて本とか記事とか書きまくるだろうけど、それができると思うほどのぼせ上がってはいない。
それにむしろ、法律によらず、SNSとか炎上させて圧力をかけて、相手が自主的に応じてくれたほうが都合が良いわけ。
1.法的規制と同様の効果を生じさせることができる。炎上して謝罪させたら、それを見た他の企業も炎上しないよう、自主的にやらないでくれるだろう
2.炎上させる相手を選択することで、自分たちが実質的に規制判断の基準の決定権を握ることができる。フェミニストのなかにはBL愛好家もいるので、法ができてしまうとむしろ困る。BL無罪のたわごとは裁判所では通用しない。
3.憲法上の問題を回避できる。規制法の制定は憲法上、著しい困難を伴う。「性的搾取」とか「性的に眼差す」とかのふわっとした根拠で規制なんかできるわけない。
そういうわけで、フェミニストさんたちは法規制を目指さず、集団で火付けをすることで実質的な規制を行うことを目指しているわけ。
表現に対して批判を行うことも、表現の自由の重要な一部なので、フェミニストさんたちが行っていることは、実にまっとうで健全な手段なのだ。
1.買って応援!
なぜなら、
1.買って応援!
→ とてもまっとうで健全な対抗手段であるが、宇崎ちゃんにせよ温泉むすめにせよ、これまで炎上して取り下げを強いられてきたものは、たいていがコラボ案件なのである。
コラボ案件は実施主体にとって、ないならないで別にそう困らないのである。むしろさっさと取り下げたほうが、いつまでも燃やされるより低コスト・低リスクなのだ。
→ フェミニストにうんこを投げても、チンパンジーじゃないから効果はない。
だいたい、フェミニストたちは社会に訴えかけているのであって、別にオタクと議論するつもりなんかないし、はじめから折伏できるなんて思っていないのだ。
→ フェミさんたちは言論の自由の上に立って批判をしているのであって、憲法上の問題を生じさせない手段でやってるため、はじめから議員の出る幕などないし、むしろ介入方法によってはそれこそ問題があるのだ。
まあ、フェミさん路線は票にならないよと知らしめる意味くらいはあっただろう。
今回、フェミさんたちがなぜ未だに何も達成できていないかというと、
→ しんぶん赤旗にだって広告欄はある。そして紙面にどんな広告を載せるかも、メディアの表現の範囲内だ。
広告に対する事後検閲を外部の機関に許してしまうと、メディアとしての自律性が危うくなるため受け入れ難いし、少なくとも高度に予期可能な基準を要求するだろう。
2.日経新聞が「あれは問題のある広告だった」と認めて謝罪してしまうと、広告主の顔に泥を塗ることになるため、できない
→ あたりまえ体操
3.講談社にとっては、あんまり講談社に抗議はきてないし、謝罪しても別にいいことないし、「広告出したい」「いいよ」「やったぜ」ってだけなので、文句を言われる筋合いがない。
要するに、主にターゲットにされてる日経新聞にとって、譲れない線を踏み越えてきているからなのだ。
なお、UN Womenとの規約に違反したんだって議論もあるが、以下の理由で非常に疑わしく思っている
1.少なくとも「3つのPをすべて満たさないと掲載しない」みたいな内容の規約だった場合、法務や経営陣が許すはずがない
2.仮にもしそんな規約を受け入れているのであれば、外部にむけて広告を募集するにあたって公表するはずである
そうしないと出稿企業から予測不可能なため、広告掲載にあたって毎回手戻りが起きてしまう
3.そんな規約を受け入れるのであれば、せめてそれだけ厳しい規約を受け入れましたよとPRするはずである
どうせ、具体的で予期可能な広告基準は合意内容に含まれていなかっただろうと推測している。
今後も何も、不満に思ったことにたいして批判を加えているだけなので、特に今回のことがあったからといって何も変わることなく、今後も不快なもの、不正義だと思うものに対して批判を加えていくだけだろう。
そのなかにしょうもないコラボ案件があれば、やはり相手は謝罪して引っ込めるだろうし、それが重なっていくことで、世の中の基準はゆっくりと動いていくだろう。
馬鹿じゃねえの?
「日本の産経新聞が違反してるのは加盟規約」である以上、内政不干渉の原則は働くんだよ
破ったのが気に食わないなら追い出せばいい
なんらかのペナルティーなりがあるなら法の範囲で好きにすればいい
ただそれを禁止する規約が正当かどうかまでは法的根拠に則った判断が必要であるし、「仮にも国連機関であるところ」が統計的、もしくは科学的根拠もなく「ステレオタイプの助長につながる」とまで抜かした
これは下手したら「国連が決めたルール」である「国際連合憲章第2条第7項」に違反しかねない言動なんだよ。