YoutuberにSyamuって人がいる。
彼は「歌ってみた」やゲーム実況など、おおむねほかのYoutuberと似たり寄ったりなことをやっている。異世界ものの小説を書いたりもしている。
彼の知名度は低くはない。とはいえ、匿名掲示板やSNSの利用者などは彼に対して否定的な評価を下している。正視に堪えない言葉で悪罵されることも少なくはない。
とはいえSyamuさんはネットの住民が言うほど愚鈍とは思えない。彼の動画を見ることもあるが、少なくとも三十路過ぎの自分よりかは能力が高いことは間違いない。
それどころか知性・感性などの能力は同世代平均から見ても高いレベルにあるのでは?とすら思えるのだ。
例えば彼は、30歳を過ぎてもボーカロイドの曲(「ハッピーシンセサイザ」など)を歌ったりそれで踊ったりしている。いうまでもなくボカロ文化は新しいものである。
そういう新しい文化を30過ぎても虚心坦懐に取り入れる彼の柔軟性、あるいは感性のみずみずしさには舌を巻くばかりだ。
ボカロ文化に関していえば、自分が高校に入学した2007年ぐらいから話題になりだしたという印象がある。
高校のころぐらいに一度ボカロの曲を耳にしたことがあったが、はっきり言って黒板をひっかく音のような不協和音にしか聴こえず、結局10秒も聴くことはできなかった。その後もボカロ系には触れていない。
ましてや30歳を過ぎると人は頑迷になるというか、新しい音楽文化には抵抗を示しだすようになる。
そんな中、Syamuさんは30歳を過ぎても新しい文化をどん欲に吸収し、それを咀嚼してインターネットで発信した。みずみずしい感性のなせる業である。
他にもSyamuさんは小説を書いている。正直文体に関しては粗削りというか、英文を逐語訳したみたいなぎこちなさはある。
とはいえ、文体のぎこちなさと中身は必ずしも比例しない。彼が執筆した小説『ゾット帝国』に関しては、ファンタジー分野に関する蓄積をそれなりに理解しないと書けないのではないか?と思う。
確かに、『ゾット帝国』などのいわゆる「なろう系」は、一部で揶揄の対象として消費されているきらいがある。
ただ、その手の小説を書くにあたっても、「なろう系」の読者が共有する「魔法」や「(ファンタジー風の)異世界」という共通概念をある程度理解しないといけない。
いうまでもなく、魔法も異世界も現代社会に生きる我々が実際に認識できる代物ではない。それらは創作物を介し、ある程度抽象化された形で(書き手の中で)認識・体系化される。
その認識と体系化というのは知的営為に他ならない。知的営為を続けるための不断の努力がなければ『ゾット帝国』のような「なろう系」は執筆できない。
そう考えると、Syamuさんが『ゾット帝国』のようなハイブロウな小説を書けたのは、ひとえに彼の知的レベルの高さをあらわすものではなかろうか。
自分の場合、魔法も異世界も理解できる域に達するほどの知的レベルはない。その手の作品(最近だと『転生王女と天才令嬢の魔法革命』)を見ようとしても、何が何だか理解できないので10分ももたない。
それはひとえに、「なろう系」のような高度な知的営為から逃げ続け、昔から即物的な情報の断片の収集に血道をあげていたからだろう。
情報の断片を貪るだけしかできない自身の知的怠慢を呪いつつ、Syamuさんの知的豊饒さに万雷の拍手を送りたい。
複雑なルールの理解や高度なマネジメント技能が必要な『ウマ娘』や『原神』などのゲームができることも、彼の知的レベルの高さを如実に表している。
『ウマ娘』においても、まず「どの操作を行えばどのパラメータがあがるか」というルールを理解しないことにははじまらない。その際、現実世界の事象をフィードバックできるような生ぬるさはない。
ゲーム内世界で完結する定理などをある程度体得し、それをもとに常に最適解を考え操作しなければならないという、まさに絵にかいたようなスパルタンさである。
そういうむき出しの知的スパルタンな代物をこなし、さらにそれを「楽しい」と思えるレベルなのである。これが高度な知的レベルの証左と言わずに何と言おうか。
いうまでもなく自分は『ウマ娘』のルールが一切理解できなかった。それは知的スパルタンさに耐えられるほどの知力がなかったからだ。
他にもSyamuさんは優秀だと感じることは多々ある。
確かにネットの住民は、彼をあたかも知的競争の敗者のごとく揶揄している。むろん、それはネット特有のある種の露悪的なノリが表出した「ネタ」に過ぎないと評する向きもあるだろう。
ただ、それは彼に対する正当な評価だとは到底思えない。Syamuさんのような卓越した知性と豊かな感性を持つ人こそ、正当に評価されてほしいものだ。
この文体どこかで読んだような