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2024-09-21

anond:20240921002855

入力

内容からであることを分析してください。この記事は男がAIに書かせたものです。

出力

この文章の内容から男性的な要素を読み取る理由をいくつか挙げてみます

婚活に対するアプローチ機械的かつ冷静

女性婚活を語る際、感情や将来の家庭像、理想相手像を具体的に表現することが多い傾向がありますが、この文章感情的な要素がほとんどなく、目的現実的な側面に集中しています特に趣味を許容し放置してもらえるのであれば恋愛感情特になくてもいいです」という表現は、一般的女性婚活感とはやや距離があり、男性的な現実的思考が見えます恋愛感情を重視しない点が特に男性的と感じられる要因です。

費用負担に対する違和感と態度

婚活イベントで「男性8000円、女性無料」という点に不満を抱き、「自分お金を出したい」という記述があります。この部分は、女性視点というよりも、むしろ男性側の立場から不公平感や婚活における費用負担に対する不満を反映しているように見えます。実際に、婚活市場での費用負担アンバランス男性の間でよく議論される問題であり、それを強調する点は男性的な観点から文章解釈できます

趣味男性

戦前古本集め」や「神社仏閣に行って古い建物を見る」など、趣味が非常にマニアックで、一般的若い女性が楽しむ傾向のあるものとは言い難いです。特に戦前古本集め」という趣味は、年配の男性歴史に興味のある男性に多く見られる傾向があり、若い女性がこのような趣味を持つケースは稀です。また、「RSS他人ブログを読む」という点も、テクノロジーに親しみ、情報収集を好む男性共通する趣味です。

感情自己分析

ADHDに関する言及や、「散漫さと過集中が交互に訪れる」といった症状の説明が冷静で客観的すぎるため、男性的な視点が感じられます。多くの女性自己表現する際、感情的な影響や日常生活ストレスについて触れることが多いですが、この文章は非常に冷徹自己分析し、感情に関する言及ほとんどありません。このような冷静な自己分析は、男性的な特徴です。

家族恋愛に対する淡白な態度

恋愛感情に対して「特になくてもいい」という点や、家族に対する将来の展望が非常に淡白です。一般的には、若い女性が婚活を語る際に家族恋愛感情に強い関心を持つことが多いですが、ここでは家族像や将来のパートナーに対する具体的な感情表現が欠如しています。これは、感情を重視しない男性的な思考が反映されていると考えられます

金銭感覚描写

「欲しいものがあればすぐに買う」や「スーパーでは少しいい食材を買う」といった記述が、やや即物的感情に左右されない買い物習慣を示しています特にブランド品にお金を使うことはない」という部分は、女性典型的な消費行動とは異なり、より男性的な価値観が反映されていると感じられます

これらの内容を総合すると、婚活テーマにしているにもかかわらず、感情的な深みが少なく、非常に理屈っぽい構成趣味・行動において男性的な特徴が強く現れています。このような点から、この文章男性AIに書かせたものだと推測できます

2024-09-16

ブクマカ底辺男性が多そう

https://anond.hatelabo.jp/20240915022139

https://anond.hatelabo.jp/20240914091056

 

ソープに行くような層だから自力彼女もつくれない底辺男性層が多いのだろう。

まりブクマカ意見は、社会的底辺層の意見で主に形成されているということ。

 

から罵詈雑言が多く、即物的で、性欲の話にすぐに飛びつく。

そう考えれば納得がいった。

 

ブクマカの主なユーザー層は底辺なのだ

2024-09-10

インド規律を産んで生産力を向上させてきた時の話 その1


https://anond.hatelabo.jp/20240909201827

そんなに仕事の話をして欲しいならば俺が少しだけ語らねばなるまい。

インド人カスだ。

それが俺のインド駐在で学んだことである

会社の都合でインド支部に異動になり、直面したのはこいつらマジで約束を守らないな、ということである

遅刻は当たり前、嘘も当たり前。それがインド人だ。なんでかというとこいつらは「短期利益のためなら何でもしていい」とガチマジで思っているからだ。

職場学校にいたどうしてそんな下らねえ嘘つくんだよってムカつくタイプを思い出せ。それがインド人デフォルトだ。

なんでかっつーとインドではみんながゆるゆるで事実関係確認なるもの物理的に行えないからだ。

から電車が遅れた」などと言って遅刻されても、本当に電車が遅れているのか確認する術がない。

確認相手インド人カスからだ。真実が霧に消えてしまう国なので、自分の見たもの以外は信じられない。それがインドかい地獄だ。

まあ、その辺かなりの競争社会なのもあって失点=即死みたいな文化もあるから可哀想といえば可哀想なのだが、仕事をする上では適当クソ野郎もの集団と付き合うメリットマジでない。

弊社もそんなインド支部を置いたものから現地人が上手く使えず、日本駐在員たちが次々と精神を病んでしまい、俺にお鉢が回ってきたというわけだ。

余り細かい事は特定が怖いので書かないが、社会的に大変価値のある仕事である。人の命を救うことに非常に関わりの低い商品を扱う会社である

まり適当野郎どもがいなければ救われた命があったというストレスにみな耐えきれなくなって心を病んでいくのだ。だからこそ、俺はその現地法人チームに規律をもたらす必要があった。

そういうのなら、増田君が適任だろ、という上司の力強い言葉は確かである。俺は規律を産むことにかけては自信があった。

まず、着任時のスタンスとして「聞かずにやるな」と「その程度のことは聞くな」二つの性質を合わせもつことにした。

要はダブルバインドだ。大声も重要だ。

インド人基本的にその場を凌ぐためならばありとあらゆる手段使用してくる。

から、とにかく、部下の人格を透明にしていくのだ。混乱をもたらし、人情をもって感情否定していって完璧ソルジャーに仕立て上げる。それが俺の役目だ。

同時に、メンヘラ人格をしっかりと作り上げ、アピールするのも重要である

インド人は実は人情である。非常に。なので、人前で俺は泣いた。

「みんなで俺を出世させない気なんだ!俺が嫌いなのか!俺の子供たちはもう終わりだ!」

みたいなことを言って号泣するのである

楽勝だ。子供なんていないし妻もいないが、インド人家族の事となるとアホになる。根源的に、家族がいないという概念理解できない。

子供にはマジで甘い。ものすごく甘い。厳しい人が時々見せる優しさにも弱い。プリミティブな情緒で生きるカスインド人だ(それを計算に入れて小ズルく短期利益を得ようとしてくる知能があることも忘れてはいけない)。

から情緒を揺さぶることで感情平衡感覚喪失させていく。

学校先生がすねて教室からいなくなる、みたいな手法がやたらと効くのがインド人というみじめなアニマルである

ただしそれだけだと舐められるので、時にマッチョを見せつけることも重要だ。

相手価値観を破壊し、思想破壊するためには必要なことである。Aな人間はBなはずだ、という既存概念を壊していくことで今までの人生経験否定して人生否定して人格否定して、透明で使える人間に仕立て上げなければならない。

いや、人間である必要はない。虫のように美しい機能的な存在へと作り変えるのだ。

そういう意味人間人間たらしめる、『宗教』という共同幻想は厄介だ。

俺は宗教が嫌いだ。

仕事邪魔からだ。

死後の世界とか輪廻転生とか因果応報とかあるわけがないだろ。

そもそも思想だの心の拠り所というもの必要ない。思考だけしてくれればいいのだ。

早く人格個性を捨てて欲しいのだ。インド土人共の基本感覚文字通り地球ゴミことヒンドゥーなのだが、こいつを否定するのはあまりにもコストが高い。

まあ基本的には「君の不利益って全部キミの前世のせいだよね。カスみてえな前世だな」ということをひたすら言い続けるのが有効だ。

勿論直接的には言わない。そういう感覚をくすぐるのだ。あとはカーストプライドも、同様に「くすぐる」。

インド会社にはカスみたいな下働きカスども(トイレ掃除だけするやつとか、社内配送だけするカス。こいつらも自分の下の階層人間を見下しまくっているのでまさにカス中のカスだ)と比べてお前はどうなの?というのをやるのだ。

これはかなりバランスを考えなければいけない。遠回りにやるのだ。あの人の仕事は丁寧だね(それに比べてお前は)といったように。

リボンデスクにつけることも有効だった。俺は10個のリボンを部下に配布した。

「最低限の仕事をするたびにコイツをとる。これが全部とれたら一人前」というようにするのだ。

勿論、この制度は部下から提案があったことにする。インド人基本的に人事評価からなにからなにまで共有する家族的な所がある。

それを壊す意味でも、疑心暗鬼を生み出しコミュニティコミュニケーションの分断を狙っていかなければならない。

あいつはお前を陥れようとしているぞ」というのをなぜか嫌うのだ。やつらは。常に即物的思考他人迷惑をかけまくっているのと矛盾しないのかと思うものだが、とにかくそういうものなのだ

加えてプライドの高さを利用するためにもこのリボン制度有効だった。

要は、リボンが取れてないやつはバカだ、という風潮を作るのである。そして、これはみんなの前では取ったり取らなかったりする。状況や報酬矛盾が生じるようにする。

あいつは俺に嘘をついているんじゃないか?」という不和を生み出すことで、横の結束を機能不全に陥らせる。

これにはまともなインド人の協力が必要不可欠だった。仮に「クリシュナ君」としよう。彼は優秀で、俺やお前達みたいな一般的日本人の規律を多少なりとも理解できる男だった。

俺は彼と親しくすることにした。実際にクリシュナ君は仕事が大変できたので、「なんでこいつみたいにできないんだ」というポジションにつけるのにはうってつけだった。、

同時に、排斥される男も必要で、仮に「サイ君」としよう。彼は仕事はそこそこだったが、とにかく嘘をつく癖がひときわ酷かった。だから俺は彼を徹底的に弄った。

髪型を弄り、顔を弄り、趣味を弄り、学歴否定し、業務を全て笑い物にした。そのうち、俺と一緒にみんながサイ君を笑うようになった。ゴミ共め。知能がねえからイジメなんかするんだ。

と俺は冷静だったが、とにかくそうやって家族集団意識を、会社のチームに少しずつスライドさせる、そういう手ごたえを感じていた。

同時に成績も無事に上がり始めていた。当然だ。通常の3倍働いているのだから、業績もその分伸びる。だが、俺は個人的にはあと倍は行けるなと感じていた。

家族と飯食うとか、下らねえ趣味だとか、そういう余計な人生をやっている暇があったらもっと仕事が出来るからだ。

徹底的な監視システム成功しつつあった。基本的にやった業務は全て写真で撮って送れ、俺は見たものしか信じない、というのを大原則にしたのだ。(これは多くの日系企業、現地企業に取り入れられた)

信じられるのは、ルール規律成功、そして俺だけでいい。蜂さんや蟻さんのような、何も考えず何も思わず集団のために無意味に命を捨てられる、美しい生命体になるのだ。

だが、混沌に秩序をもたらそうとする真実と愛の伝道師ライトサイドの権化たる俺はこの後、ゴミカスから、何故か思わぬ反撃を食らうこととなる。(続く)

2024-08-28

anond:20240807210906

夫が、娘を、腐女子と言い出した

私と家族の詳しいスペック(例えば身長体重美人美人友達の数や成績)は書かない。それは本題ではない。(先に書くと、むしろそういう関連付けを拒むべきというのが私の意見結論だ。)

娘は中学生、一人娘。夫は三十代後半。私は四十代。


お盆に先立ち、中学生の娘は先に、比較的近所の私の実家に帰っている。

娘が出かけた夜、私の夫が、こんなことをいってきた。

「娘は腐女子なのではないか?どうにか腐女子にならない人生を歩ませることはできないのか?」と。

私は耳を疑ったし、そういうことをいう夫に悲しくなった。

実の娘に対してそういう感情を抱くのか、とか、本人のいない前で悪口のようなネットミームを擦り付けるのか、とか、色々な感情がよぎった。


腐女子という言葉ネットミームは、私も一応知っている。知っているといっても、BLボーイズラブ)を好んでいる女性、という、何か表面的なことだけだが。

私は夫に、「ネットミームで人を呼称するようなことはしないでほしい」ということを伝えたうえで、なぜ娘を「腐女子」だと思うのか、夫の考える「腐女子」とはそもそもどんな存在なのか、など尋ねてみた。


夫曰く、(いくつかの会話を私がまとめたものだが)

・まず「腐女子」とは、社会生活を営む上でリーダーシップ創造性などが見受けられず頼りなく、特に異性関係においても劣位ないし全く展望が望めず、またそれによって勝手逆恨みや卑屈さを増幅させ悪循環に陥るであろう女性総称

・この「腐女子」という言葉は、夫の友人たちのLINEグループなどでまず概念を知り、そのあと個人的に調べて、腑に落ちたので使うことにした。六月ごろからこの言葉をもとにした娘への疑念が生じた。

・娘を「腐女子」と思った理由は、娘の(公表しない個人的スペック)や交友関係部活動での立ち位置などを広く見たうえで、前述の素質が多くみられるから


私は、仮に娘が「腐女子」だとして、一体何の問題があるのか、いくつか思いつく例を挙げて聞いてみた。ただ、私もショックというか悲しい気持ちがあり、うまくまとまった受け答えができていたかは分からない。

(私)出自とか社会的階層による差別が許されない社会において、どうして「腐女子」という概念を娘に当てはめようとするのか? 我々も例えば「ゆとり」とか「新人類」とか「さとり世代」とかただ生まれ年代レッテルを張られる辛さを経験しているはずであり、それをネットミームで何故繰り返すのか?

(夫)そう感じてしまったものは仕方がない。父親であっても異性としての視点があり、娘がこのままでは対人関係面で悪化するのを予想できる。腐女子という分かりやす言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。

(私)私も夫も娘の人間関係をすべて知っているわけではないし、まずそもそも、仮にその「腐女子」で何が悪いのかわからない。娘は何の非行もしていないし、いや、逆にしていたら「腐女子」じゃなくなるのか?(何だか屁理屈っぽいが私も混乱していた)

(夫)娘にスクールカースト上位になってほしいとかそういうのではなくて、ただ普通人間社会生活を営む上で常識的な身のこなしとか、総体的なことを重視できる人間になるべき。

(私)娘は、まだと言おうが、もうと言おうが、中学生であり、親に関与できる部分もあれば、娘個人未来もある。私も夫も、自分のやってきたことを娘に強制できる人間ではないし、まずそういう人生観を伝える上で「腐女子」ということばを使うのが間違っているのではないか

(夫)だから、今までそれを言い表しづらかったのが、新しい言葉ができた以上、「腐女子」という言葉を使うのは当然だという話。話さなければよかった。

(私)娘には、まさか、面と向かって「腐女子」などと言う言葉を使ったのか?

(夫)使っていない。(これは本当だと思う。娘が何かショックを受けたり夫を避けてる様子はないので。そう信じたい)


夫が、私にこのことを話さなければ(相談しなければ)よかった、と言っている通り、この数日間、私と夫は少し(というか私の側からはかなり)ぎくしゃくしてしまっている。

個人的スペックについて話さないとは書いたが、少なくとも夫がこれまで、このようなネットミームを使ったり、なんというか、「生理的に無理」「キモイ」みたいな即物的なことばを頻繁に使う人間ではなく、娘に対してもちゃんと親としての見守りを並んでしてきてくれたと思っていた。故にショックが大きかった。

しかし夫にとっては、娘が「腐女子かもしれない。腐女子だ」ということが、「親としての責任、見守り」という認識なのだということにも思い至っている。何か、本当に根本から食い違っていることだけはわかる。

ただ、私は腐女子という言葉概念自体否定したい立場だ。特にまとめサイトでやいのやいのいう次元ではなく、親が子供を指して使う言葉ではないというまず常識レベルで。


だが、なんというか、これ以上どうしたらいいのかわからない。一度腐女子という言葉を知り、娘に当てはめてしまった以上、夫は娘に対し、何をするのか。さっきも書いたが、「腐女子」という概念自体が良く分からないので、どうなるのか分からない。

単に「シャキッとせえ」「ええかっこしい」みたいな次元ではなさそうだ。私に「娘が腐女子だ」という以上、子育てとしての問題意識があるのだろう。母としての自分は、では「腐女子」に対する何かを打ち出せたのか。

からない。娘が今は実家で楽しくしてくれていることを願うだけだ。

2024-08-18

パンティーがつまらなくなった

昔のパンティーはよかった。

夢があった。

そもそもパンティーとはなにか。

男を興奮させるためのものだよ。

パンティーの歴史を知らないものパンティーは女性を守るためのものだと思っている。

そうじゃない。

パンティーは男を誘うためのものだ。

人類史における最も古いパンティーを私は知らない。

原人が始めて服をニ枚履きした時、肌に接していた側が今で言う下着となり、それが今でいうパンティーになったのだろう。

最古のパンティー、それは確かに身体を守るためのものだったはずだ。

だがそれらはパンティーというよりも、二枚目の補助的な服であったと言える。

我々の考える本当にパンティーらしいパンティーとは違ったパンティーだ。

では我々に馴染み深いパンティーの元祖はなんだろうか。

それはドロワーズである

所謂かぼちゃパンティである

19世紀においてスカート文化の発展と共に用いられるようになったこパンティーは人々にチラリズムという発明をもたらした。

社会が豊かになるに連れ人々はより即物的なチラリを求めノーパンを持て囃した時代もあったがあれは大いなる間違いだ。

女性が男にその秘密を全て曝け出すのはベットの上であるべきであって、道行く人々に見せていいのはその直前までだ。

たとえそれが接待に使われる鏡張りのしゃぶしゃぶハウスであっても、不特定多数の目に晒すべきではない。

隠すべきものは隠されているから美しく、それでいながらも身近であって欲しい。

そのバランスを維持するのがパンティーという絶対的境界線なのだ

だが現代社会は用意に手に入るエロに溢れパンティーは力を失っている。

パンティーのありがたみ、パンティーとの距離感パンチラロマン、あらゆるものが失われていく。

パンティーがつまらない。

これは人生がつまらないのと同じだ。

バランス失われた世界

パンティーへの夢が失われた世界

バッドエンドの向こう側。

ハッピーエンドの失われたあと。

パンティー、それは昔日の光、現代の闇。

パンティーをまた楽しめると、いいよな。

2024-08-09

anond:20240807210906

主と妻の論点が異なってるし、どっちもそこそこ正当なことを言ってるから、主と妻がお互いどの領域でなにを言いたいのか冷静に整理しないと先に進めなさそう

妻の主張

①息子がチー牛かもしれん

子育てのやり方を見直すべきでは?

主の主張

①(嫁に対して)チー牛とかい差別的ネットスラングを(特に家族に)使う人間になるな。

②息子がチー牛の特徴に当てはまっていたとして、それのなにが悪い?

って感じで、議題が噛み合ってる箇所が②しかないし、

その②も簡単に論じれるような話題じゃないから、もっと慎重に論点を切り分けながら個別意見のすり合わせをしていく必要があると思う

以下それぞれに対する俺の感想

まず主①の主張、これは賛同できる

チー牛とかいうかなり差別的ネットスラングをあろうことが子どもに対して向ける妻の精神性はかなり「それはやばくないか?」と思わざるを得ない

そして妻①の主張、「息子がチー牛かも?」これはまあ判断できる要素が書かれてないからなんとも言えないが、主が否定してる描写も無いしそこそこ当てはまっているのでは?と感じた

で、主妻それぞれの②の主張、まとめると

「チー牛っぽい特徴を持っているかもしれない息子に対して今後どうアプローチするべきか?」に対しては、

俺は少し危機感を持った方がいいと思う、という立場

「息子がチー牛でなにが悪い?」という主の意見はわかる、わかりはするんだが、

一旦冷静になって、「悪い」のニュアンスを分けて考えるべきだと思う

チー牛っぽい特徴を持っていることは人格的に、もしくは社会的に、「悪」なのか?というと、これはもちろんそんなわけがない。そういう意味で、主の意見通り「息子がチー牛なのはなにも悪くない」。善悪概念では、悪ではない。

が、チー牛っぽい特徴を持っていることが、今後何か不利益に働くか?と言われると、これは「だいぶ不利益に働く」と言わざるを得ない。良不良の意味では、不良。

そういう意味で、「なにか対策を打つべきなのでは?」という妻側の意見の方に賛同する。

そうだな、「学歴差別は不当」と「低学歴は苦労する」は両立するのに似てるな。

主は「生理的に無理」とか「キモい」とかそういう言葉即物的だと言って一笑に付してるけど、

人間理屈や正しさよりもかなり感情第一印象先入観で動きがちで、なんならたとえ理性的であろうと心がけている人でもなんだかんだ生理的感覚に引っ張られるものなので、

生理的に無理」「キモい」と感じられてしまうような人間に対する世の中からの扱いはかなり悪くなってしま

これが不当な差別だっていうのはわかる、わかるんだが、人種差別とかと違って、本能に根差しものとして指摘すればなくなるわけじゃないんだよ ある程度根拠のある差別と言ってもいい

学歴差別を無くしたからといって、学力方面での高学歴低学歴の差がなくなるわけじゃないのと同じ

妻がいう通り、チー牛という言葉がそういう「感じ」を上手く言い表しているんだよね

昔は「ネクラ」とか「オタク」という言葉にその「感じ」が含まれてたけど、「オタク」がもっと価値中立言葉浄化されたから、代替としてチー牛という言葉が生まれただけ

チー牛という言葉を無くしても、その「感じ」がなくなるわけではない

妻はなんというか、チー牛というスラングがそこまで差別的言葉だっていう認識が薄いんだろうね

からもちろんチー牛という言葉を使うこと自体咎めたほうがいい

ただその「感じ」があること、その「感じ」に世の中から差別的な目が常に向けられていることとは別に議論した方がいい

じゃあどうすりゃええねん、と言われると、

そうだな、そうだな……

俺もチー牛だからそのへんはあんまりよくわかんないな……

ただなんとなくは、「父性」が鍵のような気がしている。

母親が過干渉父親が無関心気味の家庭が「そう」なりがちというのは各所で言われがちで、

やっぱり教育家庭における「男らしさ」の不足が原因の一端なんじゃないかな?とは思う

男らしいとか女らしいとかそういうのはジェンダー平等に反してるだろ、と言いたいのはわかるが

なんだかんだ現代でも男は男らしい方が得するんだよな

男女平等を主張してる女たち自身が男らしい男を嗜好するし、男同士であってもそうだから

男女平等ジェンダーバイアスの解消というのはお題目としては立派であっても現実に即してはいないんだな

優しさとか誠実さとか生真面目さは世の中を渡っていくにあたってそこまで大きなプラスになる「見た目」ではないんだよな

これらを持つこと自体否定してるわけじゃなくて、もちろん大事ものなんだけど、無害性のアピールしかならないから、

必要な時に(時として他者のために)他者に対して強く出られる能力責任を引き受けたりする能力リーダーシップイニシアチブを取る能力と見かけ上相反してるから、やっぱりなにかしらそういう芯の強さを育む機会が必要だと思う 無害性オンリーでは人間評価だと下の上止まりになってしまう おそらく中の下にもいけない

運動部に入れろとかそういう感じに近いけど、部活強要するわけにもいかないし、親にできることってどれぐらいなんだろうな……

まとめると、

•「チー牛」はその「感じ」を端的に表していることばではあるが、かなり差別的なので息子に向けるのはやめたほうがいいと伝える

•息子がチー牛的素質を持っていること自体は、すこしなんらかのアプローチを考えた方がいい

って意見かな。

なんか内容を見るだけだと夫婦自体が悪そうに見えてしまうけど、そこも見直したほうがいいのでは?

anond:20240807210906

主と妻の論点が異なってるし、どっちもそこそこ正当なことを言ってるから、主と妻がお互いどの領域でなにを言いたいのか冷静に整理しないと先に進めなさそう

妻の主張

①息子がチー牛かもしれん

子育てのやり方を見直すべきでは?

主の主張

①(嫁に対して)チー牛とかい差別的ネットスラングを(特に家族に)使う人間になるな。

②息子がチー牛の特徴に当てはまっていたとして、それのなにが悪い?

って感じで、議題が噛み合ってる箇所が②しかないし、

その②も簡単に論じれるような話題じゃないから、もっと慎重に論点を切り分けながら個別意見のすり合わせをしていく必要があると思う

以下それぞれに対する俺の感想

まず主①の主張、これは賛同できる

チー牛とかいうかなり差別的ネットスラングをあろうことが子どもに対して向ける妻の精神性はかなり「それはやばくないか?」と思わざるを得ない

そして妻①の主張、「息子がチー牛かも?」これはまあ判断できる要素が書かれてないからなんとも言えないが、主が否定してる描写も無いしそこそこ当てはまっているのでは?と感じた

で、主妻それぞれの②の主張、まとめると

「チー牛っぽい特徴を持っているかもしれない息子に対して今後どうアプローチするべきか?」に対しては、

俺は少し危機感を持った方がいいと思う、という立場

「息子がチー牛でなにが悪い?」という主の意見はわかる、わかりはするんだが、

一旦冷静になって、「悪い」のニュアンスを分けて考えるべきだと思う

チー牛っぽい特徴を持っていることは人格的に、もしくは社会的に、「悪」なのか?というと、これはもちろんそんなわけがない。そういう意味で、主の意見通り「息子がチー牛なのはなにも悪くない」。善悪概念では、悪ではない。

が、チー牛っぽい特徴を持っていることが、今後何か不利益に働くか?と言われると、これは「だいぶ不利益に働く」と言わざるを得ない。良不良の意味では、不良。

そういう意味で、「なにか対策を打つべきなのでは?」という妻側の意見の方に賛同する。

そうだな、「学歴差別は不当」と「低学歴は苦労する」は両立するのに似てるな。

主は「生理的に無理」とか「キモい」とかそういう言葉即物的だと言って一笑に付してるけど、

人間理屈や正しさよりもかなり感情第一印象先入観で動きがちで、なんならたとえ理性的であろうと心がけている人でもなんだかんだ生理的感覚に引っ張られるものなので、

生理的に無理」「キモい」と感じられてしまうような人間に対する世の中からの扱いはかなり悪くなってしま

これが不当な差別だっていうのはわかる、わかるんだが、人種差別とかと違って、本能に根差しものとして指摘すればなくなるわけじゃないんだよ ある程度根拠のある差別と言ってもいい

学歴差別を無くしたからといって、学力方面での高学歴低学歴の差がなくなるわけじゃないのと同じ

妻がいう通り、チー牛という言葉がそういう「感じ」を上手く言い表しているんだよね

昔は「ネクラ」とか「オタク」という言葉にその「感じ」が含まれてたけど、「オタク」がもっと価値中立言葉浄化されたから、代替としてチー牛という言葉が生まれただけ

チー牛という言葉を無くしても、その「感じ」がなくなるわけではない

妻はなんというか、チー牛というスラングがそこまで差別的言葉だっていう認識が薄いんだろうね

からもちろんチー牛という言葉を使うこと自体咎めたほうがいい

ただその「感じ」があること、その「感じ」に世の中から差別的な目が常に向けられていることとは別に議論した方がいい

じゃあどうすりゃええねん、と言われると、

そうだな、そうだな……

俺もチー牛だからそのへんはあんまりよくわかんないな……

ただなんとなくは、「父性」が鍵のような気がしている。

母親が過干渉父親が無関心気味の家庭が「そう」なりがちというのは各所で言われがちで、

やっぱり教育家庭における「男らしさ」の不足が原因の一端なんじゃないかな?とは思う

男らしいとか女らしいとかそういうのはジェンダー平等に反してるだろ、と言いたいのはわかるが

なんだかんだ現代でも男は男らしい方が得するんだよな

男女平等を主張してる女たち自身が男らしい男を嗜好するし、男同士であってもそうだから

男女平等ジェンダーバイアスの解消というのはお題目としては立派であっても現実に即してはいないんだな

優しさとか誠実さとか生真面目さは世の中を渡っていくにあたってそこまで大きなプラスになる「見た目」ではないんだよな

これらを持つこと自体否定してるわけじゃなくて、もちろん大事ものなんだけど、無害性のアピールしかならないから、

必要な時に(時として他者のために)他者に対して強く出られる能力責任を引き受けたりする能力リーダーシップイニシアチブを取る能力と見かけ上相反してるから、やっぱりなにかしらそういう芯の強さを育む機会が必要だと思う 無害性オンリーでは人間評価だと下の上止まりになってしまう おそらく中の下にもいけない

運動部に入れろとかそういう感じに近いけど、部活強要するわけにもいかないし、親にできることってどれぐらいなんだろうな……

まとめると、

•「チー牛」はその「感じ」を端的に表していることばではあるが、かなり差別的なので息子に向けるのはやめたほうがいいと伝える

•息子がチー牛的素質を持っていること自体は、すこしなんらかのアプローチを考えた方がいい

って意見かな。

なんか内容を見るだけだと夫婦自体が悪そうに見えてしまうけど、そこも見直したほうがいいのでは?

2024-08-07

妻が、息子を、チー牛と言い出した

私と家族の詳しいスペック(例えば身長体重美人美人友達の数や成績)は書かない。それは本題ではない。(先に書くと、むしろそういう関連付けを拒むべきというのが私の意見結論だ。)

息子は中学生、一人息子。妻は三十代後半。私は四十代。

お盆に先立ち、中学生の息子は先に、比較的近所の私の実家に帰っている。

息子が出かけた夜、私の妻が、こんなことをいってきた。

「息子はチー牛なのではないか?どうにかチー牛にならない人生を歩ませることはできないのか?」と。

私は耳を疑ったし、そういうことをいう妻に悲しくなった。

実の息子に対してそういう感情を抱くのか、とか、本人のいない前で悪口のようなネットミームを擦り付けるのか、とか、色々な感情がよぎった。

チー牛という言葉ネットミームは、私も一応知っている。知っているといっても、あの有名な画像と、牛丼店でチーズ牛丼を頼みそうな性格人格、という、何か表面的なことだけだが。

私は妻に、「ネットミームで人を呼称するようなことはしないでほしい」ということを伝えたうえで、なぜ息子を「チー牛」だと思うのか、妻の考える「チー牛」とはそもそもどんな存在なのか、など尋ねてみた。

妻曰く、(いくつかの会話を私がまとめたものだが)

・まず「チー牛」とは、社会生活を営む上でリーダーシップ創造性などが見受けられず頼りなく、特に異性関係においても劣位ないし全く展望が望めず、またそれによって勝手逆恨みや卑屈さを増幅させ悪循環に陥るであろう男性総称

・この「チー牛」という言葉は、妻の友人たちのLINEグループなどでまず概念を知り、そのあと個人的に調べて、腑に落ちたので使うことにした。六月ごろからこの言葉をもとにした息子への疑念が生じた。

・息子を「チー牛」と思った理由は、息子の(公表しない個人的スペック)や交友関係部活動での立ち位置などを広く見たうえで、前述の素質が多くみられるから

私は、仮に息子が「チー牛」だとして、一体何の問題があるのか、いくつか思いつく例を挙げて聞いてみた。ただ、私もショックというか悲しい気持ちがあり、うまくまとまった受け答えができていたかは分からない。

(私)出自とか社会的階層による差別が許されない社会において、どうして「チー牛」という概念を息子に当てはめようとするのか? 我々も例えば「ゆとり」とか「新人類」とか「さとり世代」とかただ生まれ年代レッテルを張られる辛さを経験しているはずであり、それをネットミームで何故繰り返すのか?

(妻)そう感じてしまったものは仕方がない。母親であっても異性としての視点があり、息子がこのままでは対人関係面で悪化するのを予想できる。チー牛という分かりやす言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。

(私)私も妻も息子の人間関係をすべて知っているわけではないし、まずそもそも、仮にその「チー牛」で何が悪いのかわからない。息子は何の非行もしていないし、いや、逆にしていたら「チー牛」じゃなくなるのか?(何だか屁理屈っぽいが私も混乱していた)

(妻)息子にヤンキーになってほしいとかそういうのではなくて、ただ普通人間社会生活を営む上で常識的な身のこなしとか、総体的なことを重視できる人間になるべき。

(私)息子は、まだと言おうが、もうと言おうが、中学生であり、親に関与できる部分もあれば、息子個人未来もある。私も妻も、自分のやってきたことを息子に強制できる人間ではないし、まずそういう人生観を伝える上で「チー牛」ということばを使うのが間違っているのではないか

(妻)だから、今までそれを言い表しづらかったのが、新しい言葉ができた以上、「チー牛」という言葉を使うのは当然だという話。話さなければよかった。

(私)息子には、まさか、面と向かって「チー牛」などと言う言葉を使ったのか?

(妻)使っていない。(これは本当だと思う。息子が何かショックを受けたり妻を避けてる様子はないので。そう信じたい)

妻が、私にこのことを話さなければ(相談しなければ)よかった、と言っている通り、この数日間、私と妻は少し(というか私の側からはかなり)ぎくしゃくしてしまっている。

個人的スペックについて話さないとは書いたが、少なくとも妻がこれまで、このようなネットミームを使ったり、なんというか、「生理的に無理」「キモイ」みたいな即物的なことばを頻繁に使う人間ではなく、息子に対してもちゃんと親としての見守りを並んでしてきてくれたと思っていた。故にショックが大きかった。

しかし妻にとっては、息子が「チー牛かもしれない。チー牛だ」ということが、「親としての責任、見守り」という認識なのだということにも思い至っている。何か、本当に根本から食い違っていることだけはわかる。

ただ、私はチー牛という言葉概念自体否定したい立場だ。特にまとめサイトでやいのやいのいう次元ではなく、親が子供を指して使う言葉ではないというまず常識レベルで。

だが、なんというか、これ以上どうしたらいいのかわからない。一度チー牛という言葉を知り、息子に当てはめてしまった以上、妻は息子に対し、何をするのか。さっきも書いたが、「チー牛」という概念自体が良く分からないので、どうなるのか分からない。

単に「シャキッとせえ」「ええかっこしい」みたいな次元ではなさそうだ。私に「息子がチー牛だ」という以上、子育てとしての問題意識があるのだろう。父としての自分は、では「チー牛」に対する何かを打ち出せたのか。

からない。息子が今は実家で楽しくしてくれていることを願うだけだ。

2024-07-28

その昔、食い尽くし系娘だった時の話

これは学生時代不登校引きこもりで病んでいた頃の話です。振り返ってみると、当時の私はどう見てもメンタルが異常でした。

毎日不安で、何をしていても落ち着かず、生きた心地がしませんでした。

単純に言えば、「満たされていなかった」。

そんな中、私を救ってくれたのはいつも「好きなもの」でした。漫画音楽、そして食べること。これらが私のメンタルを辛うじて支えてくれていました。

私は食べることが好きです。好き嫌いほとんどないし、小さい頃からよく食べる方でした。つまり私にとって、食べるとは即効かつ確実に「自分を満たしてくれる」行為に他ならなかったのです。

食い尽くしてしまう人々の名誉のために言っておくと、計算はできていたと思います。例えば、2人に対して餃子10個あれば1人5個。うちは5人家族だったので、この場合は1人2個です。

もちろん最初自分の皿に餃子を2個移します。そして食べる。美味い。しか大皿にはまだ数個の餃子食卓と目が合って、まだ皿の上に在る食べ物を見てしまうと私はいつも、衝動を抑えることが出来なかった。私の中を這う感情は常に「お腹空いた」ではなく「足りない。満たされたい」でした。

そうなると、恐ろしいことに、私の脳内では「1個くらい食べてもバレないんじゃない?」や「まだ取ってない人がいるなら、お腹空いてないのかも」といった自己正当化が始まります。そして、何かに急かされるように大皿に手を伸ばしてしまうのです。

今思うと、これは完全に自己正当化認知の歪みです。当時の私はメンタルおかしかった、と思います

話を戻しますが、私は餃子を3個以上食べたわけなので、当然バレて親に怒られました。「なんで食べちゃうの」と。そりゃそう。至極真っ当な意見

でも、当時の私はその言葉では食い尽くし癖を止められなかった。

だってその時、私が本当に欲しかったのは親から承認だったから---☆

学校に行かなくなって、周りの評価も変わって、当時の私はそれが結構怖かった。相対評価の中でしか価値を認められてなかったことに気付いて、結構ショックを受けていたのです。だから私は親に、どこで何をしているか以前にあるはずの「私の存在のもの」を肯定し、承認してほしかった。

でも親は学校は行くべきもの、やるべきことだと思っていたし、私に「学校に行って欲しい」って言っていた。そしてその言葉が娘に対する愛情から由来するものだとは私も分かっていた。それでも学校には行けなかったので、悲しいすれ違いが発生してました。

何をしていても不安だった。「でもお前はやるべきことをやっていない」という視線は、あの日の私のメンタルを満たす箱の、底を抜いていた。

から、満たされない心を他の何かで埋めるために、即物的で確実に欲を満たせるものへと手を伸ばす。それが私にとって「食べること」でした。

念のために言っておきますが、「だからお前の旦那メンタルおかしいんだ」と言いたいわけではないです。

そういうことを断じれる立場にはありません。

ゆえに、私はただ私の話をしているだけです。その点はご留意ください。

ただ、もしかしたら貴方のおうちも、食い尽くしのその原因は食卓以外にあるかもしれません。

餃子の数とか、食欲とかではなく、それ以外のところに。

以上、読んでくれてありがとうございます。何かの参考になれば嬉しいです。



ちなみに親とはぼちぼち仲良くやれてます虐待とかじゃないし、被害者面したい訳でもないです!そこだけはまじで頼む(?

10個は例えの数です。異常に足りてないご飯ではなく、普通にいつも5人分出てきてましたよ


追記

はてぶろ、使わない文明すぎて返信の仕方わからん

1.分かりにくい文章でごめんなさい。書き直してみたのでよければ読んでみてください。精進します……。

2.私もそう思います。私の場合は、許されたいのは餃子をたくさん食べることではなくて、自分存在のものだったので、食べる数だけ許容されてもより満たし方が歪になってただけだと思います。まあ食い尽くししてる側が悪いんだけどさ……。

2024-07-19

「ほんとうにあった呪いビデオ BEST10」

このシリーズ20年くらい前に見てけっこう怖かった。

長いシリーズベスト10からどんだけ怖いんだよって思ってみてみたけど、ビデオに映る心霊雑コラすぎていまいち怖くなかった。

昔、このシリーズを見たときもっとふわっとした感じで映ってた気がするが。

あと「おわかりいただけただろうか」→「Replay」→「スロー&拡大リプレイ心霊がどこに映っているかわかる」というパターンではなくなって、初見からはっきりわかる感じになってたわ。

オカルト世界タイパ重視で即物的になっとるんやな。

2024-06-08

横浜トリエンナーレへの批判を読んで(前半)


文字数制限にかかるようなので、前後に分けて挙げます。)


前置き


第8回横浜トリエンナーレ野草:いま、ここで生きてる」がこの土日で終わります。私も見に行って、なかなか面白く思いました。ところが友人によると、SNSでは批判の声が多いそうですね。あまりそういうものは見ないようにしているのですが、友人がその場で例を見せてくれたので、ついいくつか読んでしまいました。そのとき感想は、ひとことで言うと「批判者の言うことにもわかる点はある。でもキュレーターはそれなりによくやっていたと思うし、今回が最悪だとか、他の回に比べてどんどん悪くなっているとか、そんな気はしない」ということでした。そこで友人といろいろのことを話し合ったのですが、今はそれを思い出しながらこの文を書いています


今回の展覧会には魯迅の『野草』という短編集が深く関わっていますが、魯迅は「おおむね、折にふれてのささやか感想を述べたに過ぎない」と述懐しています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。魯迅感想短編集『野草』を生み、『野草』がこの展覧会を生み、この展覧会が人々の感想を生み、そしてその感想がこの感想を生みました。もしこの感想を読む人がまた新たな感想もつならば、それで満足です。


人は物事に触れて感想を持つものだと思いますSNS批判の中にも、「これは感想にすぎない」というような留保をつけるものがありました。感想自由にあるべきと思います。そして、感想を読んだ感想というもの自由にあるべきでしょう。今はくだんの批判を読み直さず、またあまり調べものもせずに書いていますが、不十分なところはどうぞ悪しからずご理解ください。これは「論」ではなく、「感想」のつもりです。


野草』と「文の国」


今回の展覧会の特徴は、「作品」と「意味」のバランスを探る点にありました。多くの作品は、ただ「見て楽しむ」ものではなく、「意味を考える」ことが求められるものでした。そのバランスキュレーターの側でうまく作れているか、そして鑑賞者がそれをどのように読み解くかがカギになっていたと思います


今回のテーマは「野草」というのですが、その裏には魯迅の『野草』という著作が密接しています。これは展覧会中にも幾度となく示されており、魯迅の『野草』の本も展示してありました。この本は「二十四篇の短文から成るものですが、「スタイルはまちまちであって、詩あり、散文あり、また即物的もの追憶的なもの観念的なもの象徴的なもの風刺的なものなどが入り混り、内容形式ともに多傾向」なものとなっています岩波文庫竹内好訳『野草』の解説)。この本は意味があるようで意味がない、意味がないようで意味がある、詩のような文のような、芸術のような政治のような、一種独特雰囲気をもった作品集です。


これを読んでから展覧会を見渡すと、「キュレーターたちは横浜美術館を一冊の現代版『野草』にしようとしていたのではないか」ということに思い至ります


そう考えると少し納得できる点もあります。それは「文」への偏重です。友人は次のように話していました。「私は今まで、展覧会作品を見ればよいと思っていた。作品を見ずに解説ばかり読む人があれば、本末転倒だと考えていた。つまり言葉を軽視していたのだ。ところが、今回の展覧会では作品の多くに意味があり、その意味キュレーター解説を読んで初めてわかるようなものが多かった。入口にはタブレット文章が並べられ、その左側の階段の上には本を並べた一角もあった。さらには猟師へのインタビューがあったり、詩が作品として出ていたりと、言葉への重視が目立った。」


しかし、これは考えてみればさほど奇妙なことではありません。ふつう、広く「芸術」 (art) と言うときには「文学」を含みますし、「美術」 (fine art) というときでも「詩」を含むことがあります。「芸術」は「造形芸術」に限られたものではありません。もちろん、ただの書籍文章が「芸術」と言えるのかどうかは議論余地がありえますが、言葉芸術距離がそう遠いものでないことは確かです。


さらテーマの「野草」が魯迅の『野草』に由来するものであることを考えると、今回の展覧会の裏地には文学がぴったりと張り付いているような気がしてきますキュレーター中国出身であるということから、なんとなく心のなかに「文の国」という言葉が浮かんできました。三千年の歴史をもち、科挙試験にも詩が課され、書という芸術をいだき、詩文文字芸術でないなどと疑ったことのない文化の国のイメージとともに。


作品との対話


いっぽう、日本一般に「芸術」というとき、それは詩文を容れえないほど偏狭ものなのでしょうか? 批判の中には「文」への偏重に対する疑問もあったように思います。そのような人々にとっては、あたか展覧会からあなたの思う芸術とは何ですか?」という問いが投げかけられたような恰好になっているわけです。


では、「芸術アート)」とは何でしょう。批判する人たちの中には、自分にとって「美しくない」「面白くない」から芸術アート)ではない」と断じたい人もいるようです。でも、現代アートは「美」への問いかけを含むものではないでしょうか。デュシャンの「泉」などはまさにその代表だと思います。また、「芸術」における「言葉」といえば、シュルレアリスムと詩の関係だとか、20世紀初頭の芸術家たちがしちくどい宣言を次々と打ち出したりだとか、いろいろと思い当たることはあるはずです。そういうところに「美しいもの芸術なのか?」とか「言語表現芸術無関係か?」といった問題ゴロゴロと転がっているわけで、簡単に「これは芸術だ」「これは芸術じゃない」と判断できるはずはありません。その人たちの考える「芸術」は、どのくらいの狭さなのでしょうか。


鑑賞者は芸術に触れるとき、常に戸惑い、「作品の受容」ができない事態に直面する可能性をもっています。そのような時こそ、自分の中にある固定観念を見直す機会かもしれません。今回、批判したくなった人が多かったということは、それだけ作品からの「問い」を受けた人が多かったということでもあります。そうなると鑑賞者は、やっかいなことですが、自分の回答を練らなければならなくなります批判ひとつの回答ですし、その回答に満足せず、さらに新たな回答を考えてもよいわけです。陳腐な言い方ですが、「作品との対話」が必要展覧会であったと言えるのでしょう。


友人はまたこうも言っていました。「かつては『現代芸術抽象的すぎて何が描いてあるかわからない』という時代があり、その後に『現代芸術は難しくない、何も考えずに作品面白がろう』という時代が来て、それはひとむかし前まであった。でも、それが終焉すべきときに来たということかもしれない。今は言葉時代なのでしょう。考えずして何が現代芸術か、ということになっている。地味でつまらなかったといった批判もあるようだが、休日ちょっと芸術に触れてみよう、子ども芸術に触れさせてみよう、デート美術館に行ってみよう、特に『何も考えずにただ作品面白がろう』と期待した人にはつまらなかったかもしれない。」


しかに、昔からの(または昔ふうの考えをもった)現代芸術の鑑賞者の中には、「芸術とは面白がるもの」という考えから抜け出せず、新しい潮流に戸惑う人がいるかもしれません。「金を払って楽しみに来た」という手合いには、気の毒だったと言えるでしょう。しかも来訪者への間口は大きく広げられていたので、そのようなミスマッチを生むしかけは念入りに準備されていたともいえます。今回は横浜美術館改装後の久々の展覧会であり、規模も大きく、宣伝もあって、多くの人を誘い込む要素がありました。そのような場で横浜美術館は「人を面白がらせる」展示をすることもできたはずです。しかし、実際には「人を戸惑わせる」展示を行いました。だからがっかりした人も多かったのでしょう。


私も「キラキラ」な楽しい芸術が好きです。だからそういうものが多いと嬉しいし、その逆ならばがっかりします。しかし、美術館の目的には「レクリエーション」もありますが、決して「レクリエーション」だけを目的とした施設ではありません。今回、美術館はこのような大規模の展覧会で、作品との「出会い」と作品からの「問いかけ」を提供し、人々を「戸惑わせ」てくれました。その意味で、美術館はよくやったと思うのです。「キラキラ」な楽しい回があってもよいし、「地味」な考える回があってもよい。美術展はそういうものだと思います


過去トリエンナーレ


ここで、ちょっと過去トリエンナーレを振り返りたいと思います


私が初めてヨコハマトリエンナーレに訪れたのは2011年の第4回「OUR MAGIC HOUR ――世界はどこまで知ることができるか?――」でした。この年は東日本大震災の年で、印象としてはとにかくキラキラと輝くような回であったということです。震災後の混乱をアートがどう扱うか、芸術家の間でもまだ折り合いがつかずに、ただ思いつく限りのことをやってみたといった印象で、宝箱の中の宝石をぶちまけて転がしてあるような、たいへん魅力のある回でした。私にとってこの回は「よい」の標準になっています


2014年の第5回「華氏451芸術世界の中心には忘却の海がある」もたいへん期待したのですが、この回は言ってみれば「地味」な印象で、まだ青かった私は「ハズレ」だと感じました。しかし、友人はこの回も面白かったと言っています。この回は「忘却」がテーマで、戦争中に作家芸術家がいか体制側に立ってはたらき、戦後その責任もとらず、反省もせずに「忘却」したかということを、当時かれらが執筆した文章を並べて示していました。このころには震災後の政権交代脱原発などの流れの中で、世の中を動かすのは「政治であるという意識が出てきていたためかもしれません。


2017年の第6回「島と星座ガラパゴス」は、博物館の表に救命ボートがびっしりと張り付けられていました。「ネトウヨ」に関する展示もひとつふたつあったことを覚えていますが、これもきわめて「政治的」でした。長期化する安倍政権さなかにあって、政治右傾化懸念されていたことも影響していたのでしょうか。(「政治性」の話は、後で少し触れたいと思います。)


2020年の第7回「AFTERGLOW――光の破片をつかまえる」は久々の「当たり年」でした。2011年に次ぐキラキラの再来です。入口から光り輝くカラスよけのCDのような装飾、メビウスの輪のような形をした光り輝く金属の骨組み、巨大な腸を模した造形、赤いカーペットをひいたでこぼこの「道」映像作品「遅れてきた弟子」、そのほかここでは言い尽くせないもろもろの楽しい展示の連続


きっと第7回が初めてのヨコトリ体験であった方々は、2011年の私が次回に期待したように、第8回にも「キラキラ」を期待したかもしれません。しかし、べつに横浜トリエンナーレは「キラキラ展」ではないので、地味な回もあるのです。その意味で言えば今回はやや地味だったかもしれません。しかし「地味」には「地味」なりの「味」があるものです。今回はその意味で「ふつう」と「よい」の間くらいと感じました。決して「悪い」ではなかったと思います


いわゆる「政治性」


今回の展覧会が悪かったという人の中には、展示が「政治的」だという人もいたようです。もちろん、芸術政治であることの何が問題なのかとか、政治生活と密接なものである以上は程度の差こそあれ政治的でないものなどありうるのかといった疑問も出てきますが、今回の展覧会を見て私が感じたのは、むしろいわゆる「政治性」の薄い部分があることでした。キュレーター中国出身の方ということなので、もしや特に日本のために配慮(手加減)したのではないかという疑いさえ感じました。


しかに、今回の展覧会ではヨーロッパ戦争に関連する展示や国粋主義者移民反対デモ映像が展示されていました。それがひとっところに固めてあるのではなく散らばしてあったのは、この会場をひとつ世界見立てて、このような出来事遍在していることを忘れてはいけないと示したようにも見えます


そのデモ映像ひとつを見ているときでしたが、後ろを通りかかった人が「ヨーロッパ、壊れてんな」とつぶやきました。まことに然り! だがそれを言えば日本だって「壊れて」いるのです。日本でも人種差別デモが行われていますヘイトクライム危険もあります。「人種差別」がわたくしたちの身近にあることは、ネットを少し覗いてみればすぐわかることです。


思い返せば2014年2017年はかなり「政治的」な展示があったと思いますしかし今回、キュレーター日本問題ひとつも指摘しませんでした。日本美術展が国粋主義的主張をもった人々の抗議で中止に追い込まれ事件もそう遠い昔のことではありません。日本美術表現自由にできない国です。キュレーターたちは日本に気をつかってくれたのでしょうか? それとも日本で波風を立てて攻撃されることを恐れたのでしょうか? それとも今の世界を広く見たときもっとも新しくもっとも重い問題にしぼってとりあげようと考えたのでしょうか? それは知るよしもありません。もっと自由表現への危機は(またすこし違った形で)キュレーターたちの出身である中国にもあることでしょう。展覧会中に示されたように、ヨーロッパ安全ではありません。世界じゅうで似た現状があります


しかし、日本が名指しで批判されなかったからと言って、日本が許されたわけではもちろんなく、これらの作品なかに普遍性見出し、これを「鏡」として日本の現状を見ることが求められているのだと思います。それらの作品が見るに堪えない現状を示しているとき、それに怒っても意味がないでしょう。それは鏡をヒョイと覗き込んでみて、「ああ醜い! 私の美学に反する。美はいったいどこにある?」と怒るようなものです。


ところで、批判者の中には展覧会のこのような政治的な「傾倒」や「変質」がここ10年や20年の変化だと振り返る人もいますが、私には展覧会なかにその説明があったように思われます。今回の展覧会は、これも魯迅の『野草』をテーマとしているためかもしれませんが、歴史を強調するものが多くあり、あるところでは史料紹介の様相すら呈していました。木版画をめぐる日中交流史の展示では、魯迅木版画という簡易で複製可能芸術を通じて、民衆文化を届けようとしていたことが紹介されていました。これは「芸術」が一部の特権階級のものではなく、民衆のためのものであるべきではないのかという問題を、当時から現代に向けて投げかけなおした一面もあると言えるでしょう。また、皇国史観へのアンチテーゼとしての縄文土器や、学生紛争撮影した写真が展示されていたのは、芸術政治問題が降って湧いたものではなく、日本でも半世紀以上にわたって連綿と続いている問題であることを示していたと思います


(後編へ続きます。)

https://anond.hatelabo.jp/20240608093350


2024-05-06

anond:20240506115921

ここで俳句解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアル相談した方がいいよ。

…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト文脈)に依存する芸術からだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力もつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。


それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。

「ここで昼餉(ここでひるげ)」

初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わず17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこち公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。

ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)

「真赤な夏の/花佇つゆゑ」

最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初のんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。

もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。

一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くそ花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的楽天的天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。

二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかたからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反用字である

結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。

そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的俳句もっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用物語調で独特だ。一般的俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか

まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。

2024-03-22

そもそもゲームってタイパ重視な娯楽の一つだと思うんだけど?

ゲーム好き嫌いについての語りを1MBほど集めれば「タイパを優先するなら最初からゲームなんて無駄なことはやらないだろ」という言葉が1つは紛れてくるものだ。10や20や100や200混ざっていても全然おかしくない。

だが待って欲しい、ゲームというのは言うほどタイ度外視の遊びだろうか?

しろ、より短時間即物的気持ちよくなりたいという願望を満たすことを重視したタイパ重視のコンテンツではないのか?

対して練習もしないままに大技がスイスイと繰り出せ、主人公キャラクター達はみるみるうちに成長していく。

これほどに素早くトントン拍子で進むのは食べることや読むことといった受動的な娯楽ぐらいのものだ。

生き物を育てること、楽器演奏すること、スポーツをやること、能動的に関わることになる大部分の娯楽がこの速度に敵わない。

能動的な風でありながら、その実受動的な遊びのスピード感で進むということがゲームという遊びの特性だ。

かにゲームという遊びの中にはやたらと時間をかけてジックリとやり込むことを求めるものもある。

全てのプレイヤーゲームスピードを求めているわけではないだろう。

だが、コントローラーを握る多くのプレイヤーゲームに求めるものは「簡単にサッサと気持ちよくなりたい」なのではないだろうか?

2024-03-14

anond:20240314031304

俺たちを認めろ的な意味合いがないとは言わんが、もうちょっと即物的理由やで

ようするに金を出す奴らに配信数よりも実際の売り上げ見せた方が動くってだけの話なんよ

配信回数が超回っててもプラットフォーマーの手のひらの上だけど、

ディスク売れてればとりあえず金は回収できてるから次も委員会入ってやるか」

みたいになるんよ

金出す奴らはまだまだインターネットなんて全然わかんねー奴多いから、当分はしゃーなしやで

2024-03-13

友人が創作活動で壊れてしまった

ちょっとバズったことで味を占めたらしく、睡眠時間を削ってひたすら創作活動に励んでいる。

睡眠時間の低下によるのか、なかなかバズらない焦りなのか、ストレス耐性が下がっていき言動が凶暴化してきてる。

バズ目的創作ばかりしているのでまともにストレス解消も出来てないのか、いつもずっとイライラしている。

エゴサーチの延長からネットウォッチにはまり即物的ストレス発散を求めてなのかいろんな人に噛み付いていてそのうち炎上しそうである

消費活動だけノンビリ楽しんでいればよかったのに、なんで一度変にバズっちゃったんだろうね。

パチンカス誕生と同じような光景を目撃しているのかも。

はやく創作活動から足を洗って真人間に戻って欲しい

2024-03-02

anond:20240302165640

お書きの通り

18禁コンテンツゆえ、少年ジャンプのように一般的認知度の高いメジャー誌が存在しないことが最も大きな理由だと思う。

潜在的に人気があった(あるいは人気になるポテンシャルがある)としても公に語りづらいというのもその通り。ゆえに口コミで広がることもないし、社会現象にもなり得ない。メディアミックスもされない。

加えて、ジャンプ漫画に求められているのは「友情努力勝利」であり、魅力的な登場人物への憧れや感情移入であり、心躍るストーリー展開であり、人気があれば連載は長期に渡る。

思春期他人人生を擬似的に追体験し、ときに励まされ、勇気づけられ、作品キャラクターへの思い入れは深くなる。

一方、エロ漫画基本的即物的もので、射精までの極めてインスタント性的興奮以外は要求されない。自慰行為のために何週間もキャラクターセックス以前の関係性を追って気分を盛り上げたいなんて変わり者はまずいない。

いちご100%やi's、ToLOVEるに本格的な18禁描写があったとして、少年ジャンプ掲載できなければやっぱり公に語ることができないコンテンツになってしまうし、そもそも違う作品なっちゃうよなあ。

2024-02-18

anond:20240218164326

わかるわかる。

イギリス人旅行YouTuberもあちこちで貧民に現金渡してるし、別のロシア人YouTuberは志こそ貧困問題社会派のはずなのに、やってることは貧乏人に高額な品物を買い与えて喜ばせる、なんて言うか、即物的な感じ。

2024-01-20

anond:20240120220946

小さい男って言ってるわりに即物的な考え方しかできてないおまえは薄っぺらい男ですね

2023-12-29

発達障害=発達遅滞

今年30になる後輩と酒を飲みながら、彼が涙ながらに語ってくれた悩みを聞いていて驚いた。

彼女と上手い関係を作れない、多分幼少期に問題があったんだと思う、今思うと親は毒親で云々、何もやりたいことが見つからない、ただ仕事をしているだけで何も楽しくない、即物的でパッとなくなる金の使い方しかできない、金を貯められない、人生今死んでも後悔しないし、もっと生きたい人に命をあげたい。云々。

いや、中高生かよ。せめて大学生までに解決しておけよそれは。

その時発達障害は発達遅滞だっていう説が頭によぎった。ちなみに彼はADHDの診断が下っているらしい。まあ、今、気付いただけ彼は良い方なんだろうな……

2023-12-10

朝ドラが楽しめないことを知り合いのテレビ関係者相談したら褒められた

増田さん、それっていいことですよ」

「あれはいわゆる「B層」に向けた作品群なので、IQが高い人達には全然さらないんです」

「今のテレビ業界はもう最初からB層」「D層」しか相手にしてないんですよ」

「だから今のテレビがつまらないっていうならそれは増田さんがちゃん自分で考えられる人ってことです」

「でも勘違いしないで欲しいんですが、B層D層の人達だって社会の中で経済を回す役に立っているってことです」

「彼らが中身のないブルーカラー労働をロクに考えもせず低賃金でやってれているから今の社会が回っているんです」

「そうして得た雀の涙みたいな賃金ソーシャルゲームみたいなしょーもないモノに使ってくれるおかげで市場が回る」

だって彼ら投資なんて出来ないでしょ?」

「そんな人達お金を溜め込まれちゃ困るからテレビは頑張って消費を煽るわけですよ」

「今のドラマはもう完全にそういう人向けの作品ばかりで、安っぽい即物的な感動をそのまま引っ張り出して終わりなんです」

「結局その方が楽に儲からからですね」

「まして朝ドラなんて黙ってても金が入るような組織が惰性で作ってる番組ですからね」

「そりゃ増田さんみたいな人が楽しめないのは当たり前でしょ」

ふーん。

そうなんだ。

2023-11-10

anond:20231110083211

たとえ実年20代女性であっても母親や家でゴロゴロしてる時の姉妹連想させるような

日常ゼロの性表現している女性はだいたいの人は無理だと思うやで

 

セックスとはファンタジー、非日常

 

人として好きになる→気分が盛り上がる→セックスはあっても、

即物的に性衝動を満たそうって時に非日常感の無い人は基本的に選ばんと思う

 

というか日常感ウリのエロって基本マニアカテコライズされてるよね

そしてそういうの好きな人1020代の頃から好きで、中年になってから覚醒するってあんま無い(ゼロとは言わない)

2023-10-23

anond:20231023102643

ちょっと村上春樹っぽいのでパスティーシュしてみたよ。



僕が古代ローマ人が一つ目の巨人を倒すときに用いた棍棒のように真っ直ぐに固く勃起したペニスコンドームを着け終え、背中を見せていた彼女何気なく「ねえ、今何を考えているの?」と尋ねると、彼女は振り返って僕の目をじっと見つめ、「植民地時代マレーシアプランテーションについて考えているのよ」と答えた。

だって

「昔、地理の授業で習ったの。イギリスマレー半島にもたらした天然ゴム19世紀から20世紀初頭にかけて急速に発展し、マレーシアインドネシアに次いで世界第2位の生産国であり、世界アブラヤシ生産量の約30%を占めるのよ。プランテーション農業は、欧米諸国が熱帯・亜熱帯地域の国々を植民地にし、豊富資金力を用いて広域的に開発し、国際的価値が高い農作物を大量に栽培する農業スタイルであって、マレーシアは、現代においてもパーム油、天然ゴム木材などの主要生産国なのよ?」

やれやれ

彼女が突然どうしてよりにもよってマレーシアプランテーション農業について出来損ないのAIのように語りだしたのか僕にはさっぱりわからなかったが、幼児がおまじないをする際に行う一見無意味動作と同じように彼女自身にとっては必要作業だったのだろう。

あっけに取られて押し黙っている僕に彼女は少し不機嫌になり「あなたっていつもそうね。セックスときセックスのことしか思考しないのはあまり原始的即物的じゃない?そう思わない?」と言った。

勇敢な古代ローマ人獰猛な一つ目の巨人のことは彼女には黙っていた。僕はだいたいにおいて余計なことを考えすぎるのだ。

僕は少し意識を集中して、古代ローマ人を甘く柔らかい泥濘の中に、一つ目の巨人を深く青い海原の中に、一流シェフ一世一代料理を盛りつけるときのような慎重さでゆっくりと消し去った。それでも薄い膜が張られたペニスペニスのまま冬眠前の熊のように厳然と現実存在していた。

あなたも一緒にプランテーション農家マレーシア人のことを考えて?」そう呟くと、彼女若い雌猫が生まれたての子猫を全身で包むような柔らかさで僕のペニスを薄い膜越しにそっと口に含んだ。

2023-09-30

スタンド・バイ・ミー』1986→『よりもい』2018→『フリーレン』2023の共通項と時代の変化

この3つの作品には重大な共通項がある。

死者に会いに行くこと。

そしてその仲間たちの間に深い友情があるということ。

物語の中心に居座る巨大な二本の軸が共通しているのだ。

だが物語の紡いだ形は全く違う。

スタンド・バイ・ミー』は友情を「幼い頃にあった輝かしい宝物」としている。

その友情がそれぞれの人生を輝かしいものにするようには描いていない。

しろ友情や思い出の有無が人生を決定づけないことにこそ、友情というもの独立して価値あることの証明だと言う主張が見て取れる。

また、友情を描く過程で見に行く死者も赤の他人である

物語の終着点にあるマクガフィン意図的無意味ものにすることで、友情価値純粋に描こうとしている。

『よりもい』で描かれる友情には成長がある。

友情を通して人は成長し、成長していくことで人生自分の臨んだ形に切り開いていけると描く。

この作品における友情ある意味人生を切り開くツールの一つである

最終目的地にいる死者も主人公一行の1人にとっては重要人物であり、友情のおかげでこの人物との再開を果たすことが出来たという物語構造となっている。

友情はそれ自体価値を持つだけでなく、人生における目的を達成させるための助力となるとして描かれているのだ。

フリーレン』においても友情は人に変化と成長を促すものとして描かれる。

フリーレンの旅は死者の辿った道を再び巡るものであり、そうしようとフリーレンを動かしたのもまた死者との間にあった情愛だ。

旅に出ようとしたことのものが死者との間にある友情証明であり、物語の描く過程全てが触れ合いによって人が変化したという結果だ。

人との出会いは明確に人間人生を変える。

それはその相手が死んだあとであっても変わることはない。

他者との関わりが人間の中に永遠の変化をもたらすものとして描く『フリーレン』、他者との関わりは輝かしい思い出以上でも以下でもないと描く『スタンド・バイ・ミー

どちらが優れいてるという話ではない。

求められる物語が変化したのだ。

今の社会は非常にせっかちで、物事にすぐに意味を求めたがる。

「ただ懐かしくて素晴らしかったんだよ」だけの友情物語では納得しないのだ。

「あの思い出が輝かしいから、自分は変われたんだ」と主張できなければ、その思い出の輝きに納得してくれないのである

即物的で寂しい時代になった……などと老人のように嘆く気はない。

ただ、時代は変化していくのだなと感じるだけだ。

振り落とされないようには気をつけたいな。

時代に合わせて自分を変化させるのが正しいのかという疑問もないわけじゃないけど。

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