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はてなキーワード: 自殺未遂とは

2018-01-20

自動安楽死施設の構想を練る

はてブを見ていると、安楽死についての文章を度々見る。

自分は反出生主義。

まれてきた人は全て幸せに生きてほしいと願っているが、どうやら無理そうだ。

死にたいと思い続けて10年。自殺未遂が怖くて、チャレンジすらしないで10年。

安楽死施設の構想を練っているときいちばん楽しく、ニコニコしてしまうよ。

安楽死問題複数あるが、まず「自殺幇助者の精神負担」があげられる。

とすれば、死から墓場までを自動化することで解決しそうだ。

日本では死刑囚を死なすの首吊りが使われていて、

複数ボタン複数人で押すと吊られるが、そのうちの1個が本物、

という仕組みになっていると聞いた。

まず、安楽死施設ではそのボタン自分で押せるところに配置すれば良いだろう。

ボタンを押したあと、確実に死亡したか機械判断

遺書がお母さんのところへ発送される。

自動でおろされ、ベルトコンベアで運搬、花とともに棺に納まる。

ベルトコンベアの上に乗ったまま、私は加熱される。

お菓子工場のように、ゆっくりゆっくりオーブンを通り、私は骨になる。

ちょっとお金がかかるが、私はダイヤモンドになることにしたのだ。

骨の中の炭素が集められ、私はダイヤモンドになる。

真っ白な施設入り口ロビーにあったアクリル製の細い管の中に

“1個”になった自分が追加され、陽を浴びてキラキラと光る。

安楽死施設は、死への夢を叶える楽しい場所だ。

建設して一番最初に利用するのは私だから自殺幇助者はひとりもいない。

全ての人が幸せ人生を終えられますように。それが、私の願いだ。

2018-01-18

anond:20180118232623

女性だったんか、申し訳ない。

ワイの妹は30頃に事務職になったで。

就活ときにぼろくそ言われて自殺未遂とかもあったけどな。

妹もワイも糞ニートやwww

なんとかなるから何にも考えずひたすらやってみ!

大丈夫やなんかあったらここに相談に来ればええんや^^

子供の頃、遅刻忘れ物・紛失・提出物忘れなどが本当に酷く、受け答えやテストの点だけ良かったので、

わがまま大人馬鹿にした子と嫌われるか、面白い子と受け取られるか、担任によって評価が両極端だった。

父親出張飛行機に乗り遅れたり、手帳や財布など重要ものを無くすことが多く、

私も父親も、しっかり者の母が介護じみた注意喚起をしてくれるからなんとか人らしい生活が送れているだけだった。

母親ストレスで体調を崩し実家に帰った。現在父親と二人暮らしをしている。

私は会社員として労務経理契約管理と庶務の実務をやっているが、正直全く向いていない。

私はADHDではないか自分のことを疑っている。ADHDがやるには最悪の仕事内容だと思う。

業務量が多く、ミスも多く、電話がかかってきたり人から質問されたりすると集中が繰り返し途切れ、

進捗の悪さに内心パニックを起こし、雇い主から国家資格を取るように言われているので毎週資格学校にも通っており、

資格学校で受講中に涙が止まらなくなるなど、精神状態がメチャメチャになっている。

ほぼ常時死にたい気持ちでいる。生まれてこなければよかったと心から思う。

高校時代に一度自殺未遂をしている。高校偏差値が68で、周囲が健常で真面目な人間ばかりのなか、

私が異常者で迷惑をかけ通しだったので適応障害を起こし、鬱状態になって寝たきりだった。地獄だった。

生きていることが申し訳なかった。全方位が真っ暗闇だった。ただただ苦しくて悲しかった。

雇い主には私が人材としてゴミ同然の状態で拾ってもらっている。私が経営者だったら私に金は払わない。

捨てられたら行く先もやりたいことも無い。何もない。ただ生まれたくなかったと思う。人生をなかったことにして欲しい。

まれたくなかった。勘弁してくれ。健常でないなら生まれない方がよかった。つらいばかりだ。

父親他人と起こしたトラブルを全部相手が悪いことにして怒鳴り散らすタイプなので自分自身精神おかしくなっていないが、

私はそこまで自分自身を贔屓して物事を捉えることができない。冷静に客観的自分を見ると私の行いが害悪だと思う。

誰も恨んでない。疲れきってしまった。「地獄だ」という言葉脳内を何度もめぐる。これからもずっと疲れるだけだ。

できそうだと思われ、できない。迷惑をかける。苛々される。怒られる。しらけた顔をされる。陰口を言われる。

ただ私が存在しなかったことにしたい。申し訳なくて悲しい気持ちをこれから生きている限り味わい続けるのか。

結婚が怖い

長くなるが、書き殴る。本当にチラシの裏のようなくだらない話。

5年付き合った彼にプロポーズをされた。

長年、遠距離恋愛を続け、ようやく掴んだ幸せだ。そんな彼にプロポーズされ、幸せだなと思うと同時に、恐怖を感じる。

私と彼は何もかも正反対だ。

から愛情を受け、自分卑下することなくすくすく育った、人に愛される彼。

一方私は、所謂毒親に育てられ、生きている価値がないと言われ続け、死ぬ気で大学を出た。

幼い頃から転勤だったため、長く付き合いのある友人もほとんどおらず、新卒で入った会社病気退職し、今の職場では同年代の人がいない。結婚式に呼べる人はもちろんいない。

彼は親のため友人のため、盛大な結婚式を挙げたいという。披露宴に呼びたい人は友人だけで80名を超えるという。

私は呼べても10名もいない。お酒が飲めない子が多く、二次会は皆たぶん不参加である

親も親族もあまり呼びたくない。体裁のため呼んだとしても、感謝手紙なんか読めるわけもなく、ただ席を埋めてもらうだけになりそうだ。

友人代表スピーチを頼める友人がいない。結婚式に話せるような友人とのエピソードがない。流せる写真もない。

その時その時をそれなりに生きてきたとは思うが、人と長期の関係を築くのを怠ってきたツケが回ってきたとしか思えない。

彼は子供が欲しいという。だが、私は子供が欲しくない。両親が私にしてきたことをしそうで怖い。子供笑顔で笑っている自分が全く想像できない。ヒステリックに怒鳴りつける自分しか想像できない。

子供は欲しくないと彼に伝えたが、「そのうち変わるって、子供可愛いよ」と本気で取り合ってくれない。

外面のいい両親を見て、なんでそんなにトラウマを抱えているのかわからないと言われた。

まれてこなければよかったのにと毎日言われ、一人で暮らそうとすると自殺未遂をされる私の苦しみは彼には一生わからないと思う。

わかって欲しくないとも思う。私は彼の屈託のない、誰も疑ったり、誰かに怯えたりすることのない、自由な姿に憧れたから。

ただこの先、この違いを受け入れたり、乗り越えたりしていけるのか自信がない。

マリッジブルーと言われたら、それまでだけど今の私の気持ち

2018-01-17

anond:20140116140438

自殺未遂してるけどなかなか成功しない

でもこの間上手くできたから次は成仏目指す

2018-01-16

しにぞこない

何度も何度も辛くなってアイドルオタク辞めようとしてるのに結局辞められないのって自殺未遂みたい。

辛くなって死のう死のうって思うのに結局怖くなって死にきれない、

2018-01-13

この記事は半保護されています。(半保護の方針による半保護) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン Ludwig van Beethoven Beethoven.jpg 基本情報 別名 楽聖 生誕 1770年12月16日頃 出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン 死没 1827年3月26日(56歳没) オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン ジャンル 古典派音楽 活動期間 1792 - 1827 ベートーヴェンのサイン ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。 目次 [非表示] 1 生涯 2 作風 2.1 初期 2.2 中期 2.3 後期 3 後世の音楽家への影響と評価 4 芸術観 5 思想 6 人物 6.1 名前 6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー 7 死因また健康について 7.1 聴覚障害について 8 親族 9 弟子 10 代表作 10.1 交響曲(全9曲) 10.2 管弦楽曲 10.3 協奏曲、協奏的作品 10.4 室内楽曲 10.5 ピアノ曲 10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 10.7 宗教曲 10.8 歌曲 11 著作 12 伝記 13 脚注 14 参考文献 15 関連項目 16 外部リンク 16.1 録音ファイル 16.2 伝記 生涯 ベートーヴェン(1803年) 1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。 1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。 20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。 1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。 40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。 1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。 作風 初期 作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。 中期 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。 中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。 これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。 後期 1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。 後世の音楽家への影響と評価 ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。 ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。 中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。 一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。 芸術観 同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。 ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。 思想 ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。 また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。 政治思想的には自由主義者であり、リベラル進歩的政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。 その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。 人物 身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。 基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。 師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。 これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。 彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。 名前 原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。 日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。 姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。 vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。 偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。 ベートーヴェンフリーメイソンリー 詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照 死因また健康について 慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。 ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。 1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。 聴覚障害について 難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。 耳硬化症説 伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。 又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。 先天性梅毒説 「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。 鉛中毒説 上載の死因また健康についてを参照。 メッテルニヒ政権説 ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。 有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。 デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。 完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。 親族 祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版) フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。 祖母:マリア・ヨゼファ 父:ヨハン 母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。 弟:カスパール・アントンカール 甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。 弟:ニコラウス・ヨーハン 同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。 弟カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。 弟子 カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。 フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。 ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。 ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。 アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。 代表作 詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照 交響曲(全9曲) 第1番 ハ長調 op.21 第2番 ニ長調 op.36 第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13] 第4番 変ロ長調 op.60 第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13] 第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12] 第7番 イ長調 op.92 第8番 ヘ長調 op.93 第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13] 管弦楽曲 『レオノーレ』序曲第1番 op.138 『レオノーレ』序曲第3番 op.72b 序曲『コリオラン』ハ短調 op.62 交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91 『命名祝日』序曲 op.115 『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113 『献堂式』序曲 ハ長調op.124 協奏曲、協奏的作品 ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12] ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61 ロマンス第1番 ト長調 op.40 ロマンス第2番 ヘ長調 op.50 三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56 合唱幻想曲 ハ短調 op.80 室内楽曲 弦楽四重奏曲(全16曲) 第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1 第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2 第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3 第10番 変ホ長調(ハープ) op.74 第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95 第12番 変ホ長調 op.127 第13番 変ロ長調 op.130 大フーガ 変ロ長調 op.133 第14番 嬰ハ短調 op.131 第15番 イ短調 op.132 第16番 ヘ長調 op.135 弦楽五重奏曲 (全3曲) ヴァイオリンソナタ(全10曲) 第5番 ヘ長調 『春』 op.24 第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47 チェロソナタ(全5曲) ピアノ三重奏曲(全7曲) 第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1 第7番 変ロ長調『大公』 op.97 その他の室内楽曲 ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17 六重奏曲 op.81b 七重奏曲 変ホ長調 op.20 管楽八重奏曲 op.103 ピアノ曲 ピアノソナタ(全32曲)   第8番 ハ短調『悲愴』 op.13 第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13] 第15番 ニ長調 『田園』 第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2 第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53 第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13] 第26番 変ホ長調『告別』 op.81a 第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106 第30番 ホ長調 op.109 第31番 変イ長調 op.110 第32番 ハ短調 op.111 その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等) 創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34 創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35 『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78 『ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79 創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80 創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76 ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120 アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57 幻想曲 op.77 ポロネーズ ハ長調 op.89 7つのバガテル op.33 11の新しいバガテル op.119 6つのバガテル op.126 バガテル『エリーゼのために』 WoO.59 本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品 歌劇『フィデリオ』 op.72c 劇付随音楽『エグモント』op.84 劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113 バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43 オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85 カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112 別れの歌 皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87 宗教曲 ミサ曲 ハ長調 op.86 ミサ・ソレムニス ニ長調 [12]  修道僧の歌 歌曲 アデライーデ op.46 汝を愛す 鶉の鳴き声 新しい愛、新しい生 口づけ 追憶 懺悔の歌 モルモット(旅芸人) 連作歌曲集『遥かなる恋人に寄す』 op.98 曇りのち、快晴 著作 『ベートホーヴェンの手紙』 外山楢夫訳、新しき村出版部、1926年。 『ベートーヷンの手紙』 中西武夫訳、啓明社、1928年。 『ベートーヷン書翰集』 中西武夫訳、啓明社、1930年。 『ベートーヴェンの手紙』第1編、鈴木賢之進訳、音楽世界社〈楽聖書簡叢書〉、1936年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫 2579-2581〉、1940年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎選訳、岩波書店岩波文庫〉、1950年。 『ベートーヴェン書簡集』 小松雄一郎訳、岩波書店岩波文庫〉、1957年、改訂増補版。 - 附:

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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

曖昧さ回避ベートーヴェンベートーベン、ヴァン・ベートーヴェン」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ベートーヴェン (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

Ludwig van Beethoven

Beethoven.jpg

基本情報

別名 楽聖

生誕 1770年12月16日

出身地 神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国、ボン

死没 1827年3月26日(56歳没)

オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国ウィーン

ジャンル 古典派音楽

活動期間 1792 - 1827

ベートーヴェンのサイン

ウィキポータル クラシック音楽 ポータル クラシック音楽

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(独: Ludwig van Beethoven、標準ドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェンに近い[1]、1770年12月16日頃[2] - 1827年3月26日)は、ドイツの作曲家。J.S.バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

目次 [非表示]

1 生涯

2 作風

2.1 初期

2.2 中期

2.3 後期

3 後世の音楽家への影響と評価

4 芸術観

5 思想

6 人物

6.1 名前

6.2 ベートーヴェンフリーメイソンリー

7 死因また健康について

7.1 聴覚障害について

8 親族

9 弟子

10 代表作

10.1 交響曲(全9曲)

10.2 管弦楽曲

10.3 協奏曲、協奏的作品

10.4 室内楽曲

10.5 ピアノ曲

10.6 オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

10.7 宗教曲

10.8 歌曲

11 著作

12 伝記

13 脚注

14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

16.1 録音ファイル

16.2 伝記

生涯

ベートーヴェン(1803年)

1770年12月16日頃、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男[3]として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた、祖父ルートヴィヒの援助により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)[4]であったが、元来無類の酒好きであったために収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して強い嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの危篤の報を受けてボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)[5]、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められて弟子入りを許され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノ即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として広く名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたため自殺も考えたが、彼自身の芸術(音楽)への強い情熱をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意欲を得て新たな芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へと移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となっり、更に神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、度々非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で書き上げた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も併発するなど病状が急激に悪化し、以後病臥に伏す。病床の中で10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変のため56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が参列するという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。

作風

初期

作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていた。この作風は、ハイドンモーツァルトの強い影響下にあるためとの指摘もある[6]。

中期

1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機である。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により脱出した。つまりウィーン古典派の2人の先達よりも、素材としての動機の発展や展開・変容を徹底して重視し、形式的・構成的なものを追求した。この後は中期と呼ばれ、コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功した。

中期の交響曲はメヌエットではなくスケルツォの導入(第2番以降)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5、7番)、標題的要素(第6番)、楽章の連結(第5、6番)、5楽章形式(6番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与えた。第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品がこれに追随した。

これらのベートーヴェンの要求は必然的に「演奏人数の増加」と結びつき、その人数で生み出される人生を鼓舞するかのような強音やすすり泣くような弱音は多くの音楽家を刺激した。

後期

1818年の二度目の危機の時には後期の序曲集に代表される様にスランプに陥っていたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、対位法つまりポリフォニーを研究した。対位法は中期においても部分的には用いられたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められた。これにより晩年の弦楽四重奏曲ピアノソナタ、『ミサ・ソレムニス』、『ディアベリ変奏曲』、交響曲第9番などの後期の代表作が作られた。

後世の音楽家への影響と評価

ベートーヴェンの音楽界への寄与は甚だ大きく、彼以降の音楽家は大なり小なり彼の影響を受けている。

ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、作品は公式・私的行事における機会音楽として作曲されたものがほとんどであった。ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係(および、そのための音楽)を拒否し、大衆に向けた作品を発表する音楽家の嚆矢となった。音楽家=芸術家であると公言した彼の態度表明、また一作一作が芸術作品として意味を持つ創作であったことは、音楽の歴史において重要な分岐点であり革命的とも言える出来事であった。

中でもワーグナーは、ベートーヴェン交響曲第9番における「詩と音楽の融合」という理念に触発され、ロマン派音楽の急先鋒として、その理念をより押し進め、楽劇を生み出した。また、その表現のため、豊かな管弦楽法により音響効果を増大させ、ベートーヴェンの用いた古典的な和声法を解体し、トリスタン和音に代表される革新的和声で調性を拡大した。

一方のブラームスは、ロマン派の時代に生きながらもワーグナー派とは一線を画し、あくまでもベートーヴェンの堅固な構成と劇的な展開による古典的音楽形式の構築という面を受け継ぎ、ロマン派の時代の中で音楽形式的には古典派的な作風を保った。しかし、旋律や和声などの音楽自体に溢れる叙情性はロマン派以外の何者でもなかった。また、この古典的形式における劇的な展開と構成という側面はブラームスのみならず、ドヴォルザークチャイコフスキー、20世紀においてはシェーンベルクバルトークプロコフィエフショスタコーヴィチラッヘンマンにまで影響を与えている。

芸術観

同時代のロマン派を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される芸術からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文芸ではゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルモーツァルトなどから影響を受けた[7]。

ベートーヴェンが「前衛」であったのかどうかは、多くの音楽学者で見解が分かれる。原博は「ベートーヴェンは前衛ではない」と言い切り[8]、彼は当時の「交響曲」「協奏曲」「ソナタ」「変奏曲」などの構造モデルに準拠し、発案した新ジャンルというものは存在しない。ただし、「メトロノームの活用」「母語での速度表示」「ピアノの構造強化と音域の拡張」「楽曲の大規模化」「大胆な管弦楽法」「演奏不可能への挑戦」「騒音の導入(戦争交響曲)」など、後世の作曲家に与えた影響は計り知れないものがある。

思想

ベートーヴェンカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。

また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。

政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒウィーン体制では反体制分子と見られた。

その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。

人物

身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。

基本的に服装には無頓着であり、若い頃には着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」、「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。

当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでも他のどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。

潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。

性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人づきあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなどしばしば暴力的な行動に出ることもあったという。

ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。

パトロンカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)この「場を全くわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。

テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然(こうぜん)として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈(ふき)奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。

交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントンシンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄(かいざん)を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。

聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。

死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィック(独語版)やその妹ヨゼフィーネ(独語版)等とする説があったが、現在ではメイナード・ソロモン(en:Maynard Solomon)らが提唱するアントニエ・ブレンターノ(独語版)(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説が最も有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。

これらは氷山の一角に過ぎず、20-30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。

メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番ハンマークラフィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。

彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。

パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであり、寿命を縮めることになったのは疑いがない。

コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという[10]。

名前

原語であるドイツ語ではルートゥヴィヒ・ファン・ベートホーフェン ドイツ語発音: [ˈluːtvɪç fan ˈbeːthoːfən] ( 音声ファイル)と発音される。

日本では明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、ほどなく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナーヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。

姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラントフランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。

vanはドイツ語オランダ語では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味に過ぎない。しかしながら、当時のウィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。

偉大な音楽家を意味する「楽聖」という呼称は古くから存在するが、近代以降はベートーヴェンをもって代表させることも多い。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。

ベートーヴェンフリーメイソンリー

詳細は「フリーメイソン#ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」を参照

死因また健康について

慢性的な腹痛や下痢は終生悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓、腎臓、脾臓、他、多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に汚染されたかについても諸説あり、以下のごとくである。

ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛とする説。

1826年の1月から、肝障害による腹水治療を行ったアンドレアス・ヴァヴルフ医師が、腹部に針で穿刺して腹水を排水した際、毛髪の分析結果では腹部に穿孔するたびに鉛濃度が高くなっていることから、傷口の消毒のために使用された鉛ではないかとする説。

聴覚障害について

難聴(40歳頃には全聾となった)の原因については諸説[11]ある。

耳硬化症説

伝音性の難聴であり、中耳の耳小骨の「つち・きぬた・あぶみ」の内のあぶみ骨が硬化して、振動を伝達できず、音が聞こえなくなる難病。ベートーヴェンの難聴が耳硬化症である論拠として、ベートーヴェンが人の声は全く聞こえていなかったにも関わらず、後ろでピアノを弾いている弟子に、「そこはおかしい!」と注意したエピソードが挙げられる。これは耳硬化症に特有の、人の声は全く聞こえなくなるが、ピアノの高音部の振動は僅かに感じ取ることが出来る性質にあると考えられる。

又、ベートーヴェンは歯とピアノの鍵盤をスティックで繋ぐことで、ピアノの音を聞いていたという逸話もこの説を裏付ける論拠として挙げられる。

先天性梅毒説

「蒸発性の軟膏を体に塗り込んだ(水銀の可能性。当時梅毒の治療法の一つ)」という記述がある為に、論拠とされている。しかし、後にベートーヴェンの毛髪を分析した結果、水銀は検出されず、又、梅毒は眩暈(めまい)の症状を併発するにも関わらず、そうした話が無い為に、先天性梅毒説は説得力の乏しいものとなっている。

鉛中毒説

上載の死因また健康についてを参照。

メッテルニヒ政権説

ベートーヴェンが難聴であっても完全に失聴していたかどうかは、21世紀の現代では疑問視する声が大きい。ベートーヴェンは1820年代のメッテルニヒ政権ではブラックリストに入れられたため、盗聴を防ぐために「筆談帳」を使った可能性は大きい。その延長として「ベートーヴェンは暗号を用いていた」という仮説に基づく「秘密諜報員ベートーヴェン」[9]という書籍が出版された。

有名な逸話に「女中に卵を投げつけた」という類の物が残されているが、これは「女中に変装したスパイ」への正当防衛であるという見解がある。

デビューほやほやのリストの演奏に臨み、彼を高く評価したのは、もし失聴していれば出来ない行為である。

完全失聴や聴覚障害を患った作曲家に、ボイスやフォーレがいるが、彼らの作曲活動はその後伸び悩んでいるのに対し、失聴したベートーヴェンはその間に多くの重要作を書いている。

親族

祖父:ルートヴィヒ同姓同名) (英語版)

フランドル地方メヘレン出身。ケルン大司教(選帝侯)クレメンスアウグストに見出され、21歳でボンの宮廷バス歌手、後に宮廷楽長となった。

祖母:マリア・ヨゼファ

父:ヨハン

母:マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)  ヨハンとは再婚(初婚は死別)。肺結核により死去。

弟:カスパール・アントンカール

甥:カールドイツ語版)  カスパールの息子。1806年生まれ~1858年没。1826年にピストル自殺未遂事件を起こす。

弟:ニコラウス・ヨーハン

同姓同名の兄や妹2人がいるがすぐになくなっている。

カールの血筋が現在も残ってはいるが、ベートーヴェン姓は名乗っていない。カールの直系子孫の一人であるカール・ユリウス・マリア・ヴァン・ベートーヴェン(1870年5月8日生まれ)が1917年12月10日に他界したのを最後に、ベートーヴェン姓を名乗る子孫は途絶えている。

弟子

カール・ツェルニー - クラヴィア奏者・作曲家。

フェルディナント・リース - ボンのクラヴィア奏者・作曲家。

ルドルフ大公 - ベートーヴェンの最大のパトロン。のちにオルミュッツ大司教。弟子としては唯一、ベートーヴェンが彼のために曲を書いている。

ドロテア・エルトマン男爵夫人 - メンデルスゾーンと交流。

アントンシンドラー - 秘書だが、弟子とされることがある。

代表作

詳細は「ベートーヴェンの楽曲一覧」を参照

交響曲(全9曲)

第1番 ハ長調 op.21

第2番 ニ長調 op.36

第3番 変ホ長調エロイカ(英雄)』 op.55[12][13]

第4番 変ロ長調 op.60

第5番 ハ短調 (運命) op.67 [12][13]

第6番 ヘ長調 『田園』 op.68 [12]

第7番 イ長調 op.92

第8番 ヘ長調 op.93

第9番 ニ短調 (合唱付き) op.125 [12][13]

管弦楽曲

『レオノーレ』序曲第1番 op.138

『レオノーレ』序曲第3番 op.72b

序曲『コリオラン』ハ短調 op.62

交響曲『ウェリントンの勝利またはビトリアの戦い』 op.91

『命名祝日』序曲 op.115

『アテネの廃墟』序曲 ハ長調op.113

『献堂式』序曲 ハ長調op.124

協奏曲、協奏的作品

ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 『皇帝』 op.73 [12]

ヴァイオリン協奏曲ニ長調 op.61

ロマンス第1番 ト長調 op.40

ロマンス第2番 ヘ長調 op.50

三重協奏曲(ピアノヴァイオリン・チェロのための)ハ長調 op.56

合唱幻想曲 ハ短調 op.80

室内楽曲

弦楽四重奏曲(全16曲)

第7番 ヘ長調(ラズモフスキー第1番) op.59-1

第8番 ホ短調(ラズモフスキー第2番) op.59-2

第9番 ハ長調(ラズモフスキー第3番) op.59-3

第10番 変ホ長調(ハープ) op.74

第11番 ヘ短調『セリオーソ』 op.95

第12番 変ホ長調 op.127

第13番 変ロ長調 op.130

大フーガ 変ロ長調 op.133

第14番 嬰ハ短調 op.131

第15番 イ短調 op.132

第16番 ヘ長調 op.135

弦楽五重奏曲 (全3曲)

ヴァイオリンソナタ(全10曲)

第5番 ヘ長調 『春』 op.24

第9番 イ長調 『クロイツェル』 op.47

チェロソナタ(全5曲)

ピアノ三重奏曲(全7曲)

第5番 ニ長調『幽霊』 op.70-1

第7番 変ロ長調『大公』 op.97

その他の室内楽曲

ホルン・ソナタ ヘ長調 op.17

六重奏曲 op.81b

七重奏曲 変ホ長調 op.20

管楽八重奏曲 op.103

ピアノ曲

ピアノソナタ(全32曲)  

第8番 ハ短調『悲愴』 op.13

第14番 嬰ハ短調 『月光』 op.27-2 [13]

第15番 ニ長調 『田園』

第17番 ニ短調『テンペスト』 op.31-2

第21番 ハ長調 『ヴァルトシュタイン』op.53

第23番 ヘ短調 『熱情』 op.57 [12][13]

第26番 変ホ長調『告別』 op.81a

第29番 変ロ長調ハンマークラヴィーア』 op.106

第30番 ホ長調 op.109

第31番 変イ長調 op.110

第32番 ハ短調 op.111

その他のピアノ曲(変奏曲、バガテル等)

創作主題による6つの変奏曲 ヘ長調 op.34

創作主題による15の変奏曲とフーガ(エロイカ変奏曲)変ホ長調 op.35

『ゴッド・セイヴ・ザ・キング』の主題による7つの変奏曲 ハ長調 WoO.78

ルール・ブリタニア』の主題による5つの変奏曲 ニ長調 WoO.79

創作主題による32の変奏曲 ハ短調 WoO.80

創作主題による6つの変奏曲 ニ長調 op.76

ディアベリのワルツによる33の変容(ディアベリ変奏曲) ハ長調 op.120

アンダンテ・ファヴォリ ヘ長調 WoO.57

幻想曲 op.77

ポロネーズ ハ長調 op.89

7つのバガテル op.33

11の新しいバガテル op.119

6つのバガテル op.126

バガテル『エリーゼのために』 WoO.59

本来の曲名は『テレーゼのために』であった、という説が有力視されている。

オペラ、劇付随音楽、その他の声楽作品

歌劇『フィデリオ』 op.72c

劇付随音楽『エグモント』op.84

劇付随音楽『アテネの廃墟』 op.113

バレエ音楽プロメテウスの創造物』 op.43

オラトリオ『オリーヴ山上のキリスト』 op.85

カンタータ『静かな海と楽しい航海』 op.112

別れの歌

皇帝ヨーゼフ2世の為の葬送カンタータ WoO.87

宗教曲

ミサ曲 ハ長調 op.86

ミサ・ソレムニス ニ長調 [12] 

修道僧の歌

歌曲

アデライーデ op.46

汝を愛す

鶉の鳴き声

新しい愛、新しい生

口づけ

追憶

懺悔の歌

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希死念慮

小さい頃から希死念慮ぼんやりとした死んで楽になりたいという気持ち)がある。

小学1年の時に、祖父母が買ってきた問題集をやらされたのが嫌だったらしい。勉強机だった古い木製の机に鉛筆で死んでやるとか死にたいとか書いていた。

人に見つからないように書いていたつもりだが、バレていたようだ。祖父母が亡くなった後に父から聞かされた。

小学校高学年で火の鳥を読んで、それから生と死についていっそう考えるようになった。

中学の頃は成績の事でよく怒られてて、2階のベランダの壁の上に座りながら、ここから落ちて死んでもいいのかなと思って月を眺めていた。

今思うと、道路から行人に見られていたら通報されていたかもしれない。

中学3年の時に車輪の下を読んだ。父は悲しい話だと言っていたが、自分主人公は楽に慣れて少しうらやましいなと思った。

高校文化祭体育祭修学旅行にはあまりいい思い出がなく、この頃から自分人とは少し違うことを感じていた。

いつだったか、両親にせっかく産んであげたのにと言われたことがあったけど、産んでくれないほうがよかったのにと思った。口には出さなかったけど。

高校3年で受験勉強がうまく行かない時があって、3階の教室の窓から下を覗いて、ここから落ちて死んだら楽になるのかなと思っていたら、クラスのあまり喋ったことのない人に飛び降りるとか考えるなよと言われた。

大学では体育会系部活に入ってしまったが、あまり馴染めずにいた。

退部する勇気がないでいたら、周りが次々に辞めて逆に辞めづらくなってしまい、結局最後までズルズルといた。

ストレスはあったけど、Winnyダウンロードした完全自殺マニュアル自殺のコストを読んで心を落ち着かせていた。

大学院では修士2年からまったく研究をするモチベーションがなくなってしまって、トラックにでも跳ねられて死んで、今まで学費を払ってくれた両親に賠償金が入ればいいのになと妄想していた。

実際に手首を切ったとこはないけど、刃物を手首にあてながら、切ったら傷跡が残るの嫌だなと思っていた。

社会人になってからは、残業はそれ程厳しくなかったが、家に帰ると体が動かなくなってベッドの上で固まっていた。

同期や職場の人とのコミュニケーションに気疲れしてしまい、特に飲み会の次の日には無性に死にたくなることが多かった。

今では会社人とはプライベートでは極力会わないように気をつけている。

数年前に父が躁うつ病になって、自殺未遂をした。

幸いにも後遺症はなく、病気も今では回復している。

自分はだったら失敗せずに上手くやったんだろうなと思っている。

ただ、死ぬことについてはまだ何となく恐怖もあって、精神科のお世話にもならずにぼんやりとした日々を過ごしている。

2018-01-09

怨みについて

昔はずいぶん奔放でずさんな性生活を送っていた。

最初自分を捨てた男が憎いから恨めしいから次から次へと男を乗り換えていた。

自分のことが好きだと気に入ってくれた男を順に重圧をかけてじりじりと愛していった。

少しでも否定的なこと(かわいいと言ってくれない、会いたい時に会えない、電話に出ないメールの返事が遅い等)をしたならば即悪口を捲し立てたものだ。

「私のこと好きだって言ったくせに」「好きなら〇〇して当然だよね?」「遊びだったんだ 最低な人間だね」「私のこと好きじゃない人間に用はないよ」と言ったことが数え切れない。

すると耐えきれなくなった男が私に罵声を浴びせながら別れを切り出してくるのだ。

殊更、男のことがまた憎くなる。

私は頭が悪いので怨みの対象が男として生けるもの全てと錯覚した。

ブスでも性格が悪くても不思議相手が途切れなかった。若いし、体と媚びを売るのが上手かった。

体目当てでも心から好意でも関わってくる人間をみんな潰して回った。

中には欝になったり仕事学校辞めてしまった男もいる。

潰してしまっても罪悪感というものがなかった。

あいつは私のことを愛せなかった悪い人間から辛い思いをして当然」とまで思っていた。

自分を捨てたり弄ぶ男が自分罵声脅迫自殺未遂等等に翻弄されて疲弊していくのを見て胸がスカッとする気持ちになっていた。

また恋愛以外にも自分の嫌いな苦手な人間不利益が生じるように行動する癖もあった。

これも強い怨みを持った時に起こる。

自分の体に傷を入れたり自分が多少困ることになっても相手を貶めてやりたかった。

「〇〇さんのせいで増田さんが可哀想なことになった」という状況を作るというのが一番効くと知っていた。

相手をうっかり傷つけたという弱みが一番痛い。

でも数年たって今どうだろう。

自分と関わって不幸になったと思った人間自分のいない見知らぬ土地で元気に活躍してる。

自分けが大昔の怨みの感情に囚われて、体にその傷は残り、経歴もぐちゃぐちゃになって、当時のことを思い出して過呼吸からメルトダウン(発達障害特有発狂行動)を起こしたりしている。

しかも先程言ったように他人を傷つけたことは一番の弱みになる。

絶対的自分が悪いからだ。

たくさんの人間を苦しめて傷つけて迷惑をかけた。

責められたらどう言い逃れもできない。全部僕が悪い

今更罪悪感に苦しめられている。

怨みは自分の中にしか積もらず何をしても晴らされない。

絶対自分に返ってくる呪い

今の自分の首を絞める過去自分が怨めしい。

2018-01-04

どうやら自分は不死身らしい。

練炭自殺に失敗した。

それ以降、咳が止まらなくなった。胸に空気が溜まると咳が出る。

あと、車が煙臭くなった。

自業自得はいえ、嫌なものである

自分は今回の件だけでなく、自殺を何度となく繰り返してきた。そして失敗し続けている。

自殺に失敗し続けて、気づいたことがある。


自分は不死身なのではないだろうか?


何を言っているんだという感じなのだが、おそらく間違いない。

自分は不死身なのだ

このまま自殺未遂を繰り返して、せっかくの不死身の身をすり減らすのももったいないような気がしてきた。

何かこの不死身の身を有効利用する方法はないものだろうか?

2018-01-03

練炭自殺

昨日は自殺に失敗してしまった。車の中で練炭を焚いたが、頭が痛くなり胸が気持ち悪くなり、涙や鼻水が溢れ、苦しさを我慢していたが我慢しきれずに外の空気を吸ってしまった。その後も、車の中で練炭燃えるまで待っていたが、死ぬことはできなかった。ただ、頭痛吐き気けが残った。

自殺するのも簡単じゃないなと思った。あれだけ苦しい思いをしても、死ねないのでは。

睡眠薬の量が足りなかった。もっと強烈な眠気が来る量を飲んで、それから練炭に火を点けなければならない。

自殺未遂たことを、主治医に報告するべきだろうか。また入院になってしまいかねない。そこまで正直に話す必要はないだろうとも思う。

話したところで何か変わるだろうか。良い方向に変わるだろうか。

こんなことではいつになっても真人間になれない。死ぬこともできない。本当にただの生き地獄だ。

2017-12-24

anond:20171224143600

女は自殺未遂の段階で同情を引けるから

男の場合は単なる死に損ないであって、死んでようやく同情の対象になる

2017-12-23

懸念

最近海外AV女優ゲイビデオ経験がある男性との出演を断ったことがきっかけでSNS炎上して、20代にも関わらず自殺したらしいのだが、

はあちゅう氏にも大量の誹謗中傷を続けていると同じことが起きてしまうのではないか懸念する。

難しいことではあるが、批判するにしても、あまり相手を追い込み過ぎると取り返しのつかないことになることはもっと認識されるべきだと思う。

SNS炎上たことがきっかけの自殺自殺未遂は他にも存在する。

2017-12-22

パワハラセクハラやってる側の意見

爆サイ方面から来たんだけど、なよなよしたおまえらに、やってる側の意見を聞かせてやろうと思って。

といっても保育園死ねの頃からここを見てるからもも古参だけどな。ここは初めてだから緊張する。

俺は無職から妻へのパワハラセクハラについて書く。

別に俺はパワハラがしたいわけじゃない。それは言っておく。でも苦しくてやってしまう。お金がないから、ついつい誰の金だって

そんなことを言っても意味がないのはわかってるんだけど、年50~100と数百万の貯金だと苦しい。だからふいに言ってしまう。

でもしょうがない面もある。子供病気の時に自転車はきついかタクシーを使いたいだとか、病院なんかに出かけたら自分へのご褒美に買い食いしてしまうとかね。

俺は出かける時はペットボトルに水を入れてもって行くし買い食いなんて絶対しない。でも嫁はやる。だから言ってしまう。

最近だとストーブ欲しいとか夏ならエアコン欲しいとか。そういう時に自分で金を稼いで買えと言ってしまう。

あとはセクハラだけど、今日言い合いになった時に、俺の下品下ネタはまったく楽しくなくて嫌だ、セクハラだと言われた。

俺としてはそこまで嫌がってるとは気が付かずに、関西突っ込み的なものだとずっと理解してたので驚いた。

あと夫婦セクハラなんて無理やり襲うとか以外ではないと思っていたので衝撃だった。

あとは嫁に金を稼げとも言ってしまう。生活費は全部俺が出しててイライラしてしまうので、だから何かやれって言ったら、趣味としてブログをしたいと言うので、俺がそれに乗っかって、ブログで稼げとネチネチもう1年ぐらい言ってて、今日ゲンカして、パワハラやめろと言われた。

俺が稼げれば良いのだが、うつ病自殺未遂をやってから働けなくなってしまった。もううつ病は治ってるんだけどね。

から転売とかでほそぼそと稼いでる。おまえらの嫌いな転売ヤーってやつだよ。社会の足を引っ張ってるだけの存在からおまえらは俺に頑張れとはまさか言わないよね(自嘲)。

アマゾンセールとかで安い時に買ってメルカリなんかで売るだけ。アフィとか1円ライターとか色々やってきたけどぜんぜんダメで、これに落ち着いたから、他にも頑張れとかなしな。

嫁もそこまで健康ではないので外で働くのはたぶん無理。経験もないし。ずっとポイントサイトをカチカチやってた。妊娠する前は。俺があまりにうるさいか最近再開してるけど、そっちは月に数百円が良いところだから、ぜんぜんダメ

こんな俺にかける言葉なんてどうせ、嫁と子供の為にも離婚してやれとか、どうせそんなんだろ?

嫁も離婚したがってそうに思えるけど怖くて聞けない。確かに離婚したら母子家庭なら生活保護もらえるんじゃないかと思う。でも俺がいたら水際ではねられるよね。氷河期はいえまだ若いからマグロ漁船にでも乗れとか言われるんだろう。いまなら介護か?でもたぶんもう俺は働いたら自殺する自信ある。無職10年目の氷河期が年下に偉そうに言われるんだろ?現役で働いてた時でも未遂まで行ったのに、それより厳しい今の年齢で職歴もクソな俺は死ぬしかないよね。

結局嫁の稼ぎに期待してる俺が糞って話か。誰かも言ってたが、金がないと泣くなら殺せってことだよな。結論出てる。糖尿は出てないけど。

2017-12-21

災厄も感謝もないすばらしい新世界

母のことは尊敬しているけれど最も恐れる人間だし、父のことは心底軽蔑してるけどシンパシーを感じてしまう。恋人のことはどうしようもなく愛してるけど、信用できない。親友たちのことは大好きだしみなとてつもない人格者で、だからこそ私みたいなのが関わって迷惑かけていい人間ではない。生誕を呪う私は孤独に生きるべきなのに、どうしようもない寂しがり屋で、すぐ誰かの腕を乞う。

終わらない、寿命と私の意思との我慢くらべはいつまで続けなければならないのだろう。昔流し見たネットの当てになるかもわから知識をもとに、なんとなしに、ドアノブに手近なロープをかける。自室の10階の窓を開放して階下を覗き見る。寒いキッチンに滑り出し、包丁を研ぐ。そんなことばかりして、実行には至れない。自殺未遂すらできないあたりに、いかに実行力や自制心が欠如していることが、なぜ社会粗大ゴミであるのかがよくわかる。

SNS登録してみたかった。ろくでもない自分のことが可視化され、記録されると思うとそれすらできなかった。FacebookLINEも、情報リテラシー意識が高いフリしてやらない理由説明し続けた。

裏垢を作ってみたかった。裏垢を作る気力も持てず、ただひたすらスマホメモに吐き出すだけだった。つらいことをネット上の玉石混淆馬の骨とも糞ともわからぬ誰でもいいから、目に留めてもらいたかった。なのに、匿名でも私の記録が残ると思うと、恐怖心がまさってかなわなかった。

子供が欲しいと言ってみたかった。愛する恋人結婚を渋るのは、死んでも子供はいらないという私の主張にこそ原因があった。そうでなくとも、誕生し生きるということを根本的に肯定たかった。あるいは、自分が親に足る人間であると、自らの両親のようには決してならないと、そんな自信が欲しかった。

別に今すぐ死ねもしないことはよくよくわかっているけれど、死に際に書き込むなんてできた人間の真似事をしてみたくて投稿する。はてな登録が簡潔なものでよかった。

最初はどこにも公開しようなどと思わず書き始めたけれど。そろそろ限界が近い。〆切も愛も恋も友情も年齢も何もかも、現状のままでは。この書き込みひとつこれまでの自身への弔いとして、明日明後日明々後日、それから新年新年度を無事迎えられますように。

2017-12-08

生活保護費を下げる好景気日本死ね

働こうとしてるのに働けない人間もまとめて死ねと、なるほど。

議員年金は上げる、脱税放置

こんなガス抜きで満足しちゃう人っているんだろうか。

生活保護最低賃金以下の生活しかできないよ、最低賃金で働いてる人良かったね、というメッセージなわけだが。

しばらく最低賃金は上がらないだろうし、生活保護とまとめて下がるループに入るんじゃないかな。

生活保護費より低いから、ということで最低賃金が上がる理由は一つなくなるわけで。

どちらも下げるべきではないし、上げなければならない。ここの水準が下がると生活や先行きに安心できなくなるから少子化の原因になると思う。

きっとそこは奴隷めいた移民で何とかするつもりなのだろう。

わたし生活保護受給しているが、家賃で42000円、生活扶助66000円頂いてる。

水道光熱費14000円、ネットMVNOで6000円、食費20000円。

日用品、服、勉強や外出、人と会ったりして人間性を保つのに25000円程度使っている。

貯金はできてない。

重めの喘息ナルコレプシー発達障害虐待適応障害持ちだが自分なりに資格勉強したり、無理して働こうとして何度も身体壊して来た。

就労支援も受けたし、ハローワーク障害者障害者しか受けられませんと門前払いもされたが紹介とかで何とか会社に潜り込もうともした。

自殺未遂も何度もして、それでも少しずつ頑張ろうと思えるようになってきたタイミングでこれだ。

死ぬほど生活保護を一日も早く抜けたいという気持ちはある。無理はできないのもこれまでの経験で分かっている。

自殺しろ、お前なんかお荷物だ。寄生虫非国民死ね

そう言われているよう感じて毎日を過ごしている。

そろそろその声に負けてしまおうかとも思う。

日本死ねというアレが国会で取り上げられても、こういう人間の声はセンセイ方には無視されるしかないのだろう。

彼らには都合悪いから。ちょっとそれがどうなるかも知りたくて、タイトル日本死ねと入れた。

2017-11-26

メンヘラとは無理、だと言っていた彼。

ある男同士の会話の中で「メンヘラとは付き合えないわー」と言っていた彼。

私はすぐ隣でそれを聞いていた。

その彼に、告白されたことがある。

もう2年以上前のこと。

当時、私はうつ病を抜け出してまだ3年くらいのときで、そのときもまだ、10年ほど過食症に悩んでいた頃。

今思えば、父親が働かなくて両親の喧嘩が絶えない、引きこもりニートの妹がよく自殺未遂をするとかで、私の精神はいっぱいいっぱいになってたのが原因。だけど、そういう家で10代を過ごすと私にとっての当たり前がそうなるので、それが原因だとは思わなかった。(よくよく考えたら誰だってあんな状況精神を病む。事実、多分うちは一時期家族全員精神を病んでいたと思う)

うつ病になったり、食べたものを吐くのは自分性質メンヘラからだと思ってた。

から、彼に告白されたときも「メンヘラとは付き合えない」が頭の中でこだまして、お断りしたんだ。

彼は、「君の強いところが好き」だと言ってくれた。

外では明るく笑顔で過ごしていたけど、きっと付き合うほど関係が濃くなれば途端にバレる。

そう思って、受け入れられなかった。まぁ、それほど、好きではなかったのかもしれないけど。

それから、男の人はメンヘラとは付き合いたくないよね、こんな私じゃ嫌だよね、ってずっと思ってる。

あのときの、「メンヘラは勘弁」という彼らの笑い声が、うつ病じゃなくなった今も、もう吐かなくなった今も、ときどき聞こえてくる。

2017-11-23

anond:20171122133619

補習校に通ってた帰国子女だけど、全員とは言わないけどそういう人はいるな。

思い出した話を一つ。

思春期海外に住むことになって環境変化とか家庭の問題が重なって毎日涙が出て鬱っぽかったときがあった。

一度どうしても涙が止まらなくて部屋に鍵をかけて一日泣きじゃくり、現地校も補習校も休んだことがある。

次の登校日はなんとか行った(というか車社会なので親の送迎で半強制的に運ばれた)んだけど、親から変な風に話が伝わったようで、補習校教師ホームルーム時間クラス全員の前で「世の中には自殺するそぶりを見せて気を引こうとする人がいて、構うと逆に自殺未遂を繰り返すので、そんな人は放置するに限る。実際俺はそうやって生徒の自殺を止めたことがある」って話をしだしてだいぶ傷ついた。

名指しではないけど責められてる気がして。

それがきっかけで先生だけでなく補習校の友達ともなんとなく気まずくなったりして更にしんどかった。

私は運良く気をかけてくれる先生が現地校に複数人いて救われた。

まだ現地語があんまり上手くなかったからまともに相談は出来なかったんだけど、泣いてると静かな所でそばにいてくれて、私が辛そうなことを認めてくれたしその後も見かけるたびに声をかけてもくれて、少し安心できた。

まあこれも十年以上前の話だし、今の日本先生もこの位なら言うのかな?

2017-11-18

マインドフルオナニー

マインドフルインターネット

マインドルソーシャルゲーム

マインドフル自殺未遂

なんでもいけるな。

マインドフルを頭に付けて似合わない言葉が思いつかねえ。

マインドフル田中太郎マインドフルカップラーメンですら成立してしまうんだからな。

anond:20171117120807



実に胸糞の悪くなる話だな。

まとめると

仕事が辛いなら辞めればいいだけなのに辞めもせずストレスを溜め込み

そのはけ口に恋人を利用しようとした所、向こうも同じように仕事が忙しくて構ってもらえず

その事に腹を立てたお前は腹いせのためにソイツが傷つくような形で自殺未遂をし

もし何かの間違いで本当に死んだ時に確実に恋人を傷つけられるように恋人が原因であるかのような証拠を残し

更に念には念を入れ友人に遺書を託して死ぬアピールを徹底的にしておいたと

最低のクズだな。

何がクズって、お前のようなクズに付き合ってくれた周囲の人間への八つ当たりを正当な権利だと言い張っていることだ。

ストレスをぶつける相手がお前の親や上司や同僚やストレスの原因だというのならまだ話は通りうるが……

違うんだろう?

それなら何でわざわざ傷つける必要がある?

ただの自殺未遂で終わる予定だったんだろうが一歩間違えれば人生で一番最後の瞬間になる

なぜそのタイミングでわざわざお前みたいなクズ相手をしてくれた連中に爪痕を残す?

お前はクズだ。

何故、クズなのか。

それはお前がお前の承認欲求や歪んだプライドを最優先するような人間からだ。

他人大事にされない理由自分他人大事にしておらず利用することばかり考えていることにあることに気づいてないか認めていないかだからだ。

無意味に人を傷つけるな。

これは人間社会絶対的ルールだ。

わかったな。

無意味に人を傷つけるな。

それだけは守れ。

anond:20171117120807

何度か自殺未遂を繰り返すとコツが分かって

のどちらかになる。

2017-11-17

自殺未遂をした

仕事が忙しく、経験たこと無いようなストレスと自信消失になった。恋人仕事が忙しいのかなかなか連絡がとれなかった。

恋人から既読無視がついた途端、とても落ち込んだ。支えが完全に無くなった気がした。死ぬことを決意した。

深夜に恋人へ別れを告げ、首吊り自殺について調べた。昼過ぎ遺書を書き、写真を撮って、念のために仲のいい友人に託した。

睡眠薬を6錠飲み、プレゼントするつもりで編んだネックウォーマーを自宅のつっぱり棒につけて、頭を通した。

苦しくない位置にかからないことと、睡眠薬による動悸、足がついてしまう高さということもあり、うまく死ねなかった。

家族帰宅したので、一旦首吊りセットを片付けた。

そわそわした。どこで吊るといいのか、電気ケーブルで吊れば死ねるのか、はやく死にたいとずっと思った。

仲のいい友人から制止する連絡が来ていた。嫌われていると思っていた恋人からは嫌いじゃないと言われた。本心偽善か分からない。

そのまま寝てしまい、朝を迎えていた。仲のいい友人は何人かに自分が死のうとしている事を話していた。

こうなったら後戻りは出来ない。死ぬしかない。そう思い、家族が去った後の家でふたたび首吊り自殺を試みた。

うまい位置に引っかかった。血流が止まり、顔がむくんでいく感覚がした。今度はいける。

そう思った瞬間、ネックウォーマーを首から外していた。虚無感があった。怖気付いたのかもしれない。

昨日までの高揚感がなくなっていた。

知人から連絡が来た。自分自殺未遂を起こして死ねなかったという話。今の自分と似た状況だったので思わず涙をポロポロこぼした。

どうすればいいのか分からなくなった。仲のいい友人に電話をした。後で折り返すと言われた。

無気力死ぬ気も失せてしまった自分はどうすればいいのか分からなくて、ひたすらぼーっと、虚しく掲げられたネックウォーマーを見ている。

死にたいのに死ねないし、今更ひょっこりと生き続けるのもダメだと思った。

2017-11-11

キモくて金のないおばさんも死にたがってる

生きててもしょうがないって思ってる人いますか?

948コメント

http://girlschannel.net/topics/180012/

私は27です、もう人生に対して悲観しています

これから会社が傾かない限り今のところでただ働いて、それ以外は部屋で特に何もせず過ごしてくかと思うと結構キツイです。

今は人に対してあれこれ思うこともなく無関心になってしまいました。

同じような状況や考えの方いますか?

昔って、美人でも頭が悪いとか、お金持ちでも性格が悪いとか。もっと言えば、不幸ばかりだった人は、そのうち幸せになれるとか、自分勝手調子に乗って居る人は天罰が下るとか、平等さってのがあったと思う。

私の周りを見れば、美人モテて、実家お金持ちで一流大学出ている人も居れば、私みたいにブスでモテ無くて田舎高卒出身もいる。

まれた時から人生が決まっている。

このまま生きていても差が開くだけ。惨めな思いをしながら80まで生きていくのはしんどい

まさに私のことですね。

現在通信に通う高校生ですが、前の高校いじめあい自殺未遂。それでも親はいじめられる原因はお前にあると言いました。

かにそうかもしれません。幼稚園小学校中学校高校、全部いじめられましたから。

ですが、いじめをする奴に限って幸せそうなんです。全く自分のしていることを悪いと思っていないし、こないだなんとなくいじめた奴らのTwitterを覗いてみたら毎日楽しそうに暮らしているようです。自分で言うのもなんですが、私みたいないじめられっ子って大人しくて真面目な子多いじゃないですか。そんなタイプってあまり幸せになれないイメージがあります

いじめとかする奴が幸せ暮らして、私みたいな人間は苦しい思いをして生きてかなきゃいけない、そんな人生の何が楽しいんですか。

ガルちゃんで前にマイナス覚悟トピみたいなので、こういう暗いトピの奴らはシャキッとせいや!ってコメがあったけど、そんなこと簡単に出来たら苦労しませんよ。無神経でお気楽な人だからそんなこと言えるんでしょうね。

私はもう疲れきったら自殺します。同じ考えの方がたくさんいて嬉しかったです。現実世界ではこんなこと話せる人いませんから

2017-11-03

推しアイドルを辞めた。

 一ヶ月ほど前、推しアイドルを辞めた。

推しとある男子アイドルグループ所属していた。デビューしてからもう数年。所属グループの売り上げは鳴かず飛ばず。正直、人気とは言い難い。むしろ全くと言って良いほど売れてない。この何年かなんてほぼ休止状態に近かったくらい。毎月スケジュール更新されるけど、それも真っ白。昔からファンなんて今はもうほぼいない。いるのはタイとかベトナムとか、その辺の海外ファンだけ。自国ファンは皆無といっていい。

 活動しなくなってすぐに、メンバーの脱退もあった。辞めてから麻薬でしょっぴかれたメンバーもいた。オタクメンバーが繋がってたことがそのオタク本人にバラされる、なんて不祥事もあった。なんとも絵に描いたような三流アイドルだけど、それでも私はそのグループと、推しのことが大好きだった。初めて推し出会った時の感動は今でも忘れられない。

 推しは元々ちょっと変わった子だった。芸術肌というか、個性的というか。お姉ちゃんがいるせいか男の子っぽくない、ちょっと女の子っぽいところもあった。絵を描くのが好きで、ダンスが好き。でも可愛らしい見た目とは逆にゴツゴツしたアクセサリーが好きだったりとか、服も小物も黒ずくめかと思えばやたら極彩色の柄ものをチョイスしてみたりとか。好きなアーティスト映画ちょっと年代男の子からはズレてて、いわゆるサブカル男子っぽい感じだった。

 でもステージに立っているときはどこまでもキラキラアイドルで、ファン思いでメンバー思いで、明るくて甘ったれで、なのに時々ハッとするくらい儚くて、綺麗で、かと思うと地方出身から男らしいところもあって、方言サバサバしてて、笑い声がうるさくて、年上のメンバーにべったりしたり、年下のメンバーを溺愛してたりして、でも同い年の子にはツンケンしたりすることもあって、そういう色んなとそろのギャップと、どっか不安定で危なっかしいところが好きだった。

 グループとしての活動が目に見えて減り、歌を出すこともなくなり、前述のあれやこれやが続いたある日だった。推しSNSを始めた。推しバレ覚悟で書くけど、ツイッタープロフィールには一言、paradise。インスタにはbutterfly。こりゃ拗らせてんなあと笑った。

 もちろん、投稿内容もお察しであるツイートポエムと呼んで差し支えない感じだし、インスタの写真モノクロ彩度MAXフィルター5枚重ねみたいなのばっかり。公式ファンクラブ名があるのにも関わらず、なぜか自分ファンのことをbutterflyと呼び始めたのも面白かった。私も自分のことbutterflyですって名乗ってた。この辺りまではまだ、推しの行動をそれっぽいなあって笑いながら見れていた。

 でも、そういう不思議な行動にだんだん違和感を覚えるようになった。最初にあれ?と思ったのはツイッターで生配信を始めたあたりだった。初めは推しけがずっと見れるなんて!と思って喜んで見てたけど、見てるうちに初めは小さかったその違和感がどんどんハッキリしていった。

 こんな喋り方する子だったっけ。

 こんなこと言う子だったっけ。

 そんなことがちょっとずつ増えていった。でもカバー動画とかダンス動画みたいなのも出してたから、歌やダンスが嫌になったわけじゃなさそうだし、それくらいは好きにしたらいいよ、と思っていた。

 そうしたら少し目を離した隙にものすごい長髪になってた。ろ、ロン毛ブームなのかな?と思って見守っていたら、とうとう首の後ろにタトゥーを入れたらしい写メを上げてきた。ファッションタトゥーで済まないような、毒々しくて大きいやつ。親が泣くからタトゥーはしないって言ってたのに。この辺りから、いよいよちょっと変なんじゃないかと思い始めた。

 元々そういうところのある子ではあったけど、歯止めがきかなくなったように思えたというか、これは明らかにおかしいなと思うほどになっていった。ファッションで済まないようなタトゥーもそうだし、生配信で虚ろな目で1時間近く、淡々猟奇殺人事件の話したりとか、事務所の後輩とあんまり仲良くない、好きじゃない、と吐き捨てるように言ったりとか、あとはそこにコメントしてくるファンにマジギレして配信ぶち切ったこともあった。その時は本当にショックだった。今までの推しなら絶対やらなかったようなことだった。ファンにはとろけるような甘いことしか言わないし、怒ってもメッ!て感じだったし、心配から言うんだよって言ってくれるような子だったから。

 そういえばマネキンの生首に名前つけて友達って紹介してたこともあった。怖くて名前は忘れたけど、もうなんかその頃にはなんにも笑えなくなってた。

 何かがおかしいって、ズレてきてるって思った。もう止められないところまできてるなって。推しものすごい勢いで暗い方へ転がり落ちていくのがわかった。でも私たちには、そしてメンバー事務所にも、多分どうしようもなかった。

 そしてある日、決定的な事件が起きた。

 推しが、生放送自殺未遂した。

 

 外出先から配信だった。もう明らかに様子がおかしかった。泣きながら「死にたい」って言ったり、道路を背景にして、笑いながらどの車に飛び込もうかなって選び始めたり、泣いてたかと思ったら狂ったように笑い出したり、ものすごく情緒不安定だった。見ていられなくって携帯の電源ごと切った。そして、もうダメだって思った。きっとこの子はもう限界なんだろうって。薄々感じてたことが、確信に変わった瞬間だった。

 そこからしばらくして、インスタに投稿があった。今見たら消えてたから正確には思い出せないけど、「皆さん心配かけてすみませんでした。僕は今、治療を受けています」と、そんなようなことが落ち着いた文章で書いてあった。

 涙が溢れた。病院に行くほど酷かったんだという思いと、ちゃんと治療を受けてるんだという安心と、推しが心を病んでしまうほど辛いことがあったんだって現実とで、泣いた。もちろん幻滅したわけじゃないけど、ただただ辛かったし、これまでのいわば奇行みたいなものにきちんと理由があったんだってわかってホッとした部分もあった。

 そこからは辛くて、怖くて、推しの動向を確認するのをやめた。ただ、久々に配信を見た時に自分Aセクシュアルであることを明かしたのにはちょっとびっくりした。けど、それに関してはなんとも思わなかった。人それぞれだし。ただ個人的にはバイなのかなぁと思っていたので真逆でびっくりしたくらい。つくづく現代を生きづらそうな子だなぁ、とだけは思った。

 そこからは一時期より落ち着いた、まあ拗らせてるな、くらいの更新が続いた。事務所の指示なのか本当に安定してたのかはわからないけど、表面上は元気そうだった。実家にも帰ってるみたいだったし、家族は変わらず仲良さそうだし、仲のいい友達とも遊んでいるみたいだし、それで安心していた。

 そうしたら先月、ものすごく長文の投稿があった。

 何だろうと思って、でも本当は読む前から何となくわかっていた。不思議と落ち着いた気持ちだった。

 

 そしてそれは案の定、脱退しますという挨拶文だった。

 そこにはいろんなことが書いてあった。最初メンバーが脱退したときすごく辛かったこと、笑って見送らなきゃと思ったけど本当は心が引きちぎれるくらい辛かったってこと、ずっとそばにいるって約束したファンのみんなに申し訳ないって、約束を守れなくてごめんなさいという言葉が何度も出てきた。今まですごく辛かった、たくさん泣いた、というくだりで、とうとう耐えきれずにわあわあ泣いてしまった。

 最初に辞めたメンバー推しとすごく仲が良くて、本当のお兄ちゃんみたいに懐いていたから、当時はものすごく心配していた。案の定の子はあの時それを抱えきれなかったのだと思うと、そして珍しくぽつぽつと囁くように語られたあの子セクシャルも、きっと長年抱えていた大きな悩みや痛みのもとであったのだろうと思うと、推しの味わったであろう途方もない悲しみと痛みに涙が止まらなくなった。胸が苦しくなった。そんな中、気丈に頑張っていたのだろう推しの、アイドルとして見た最後笑顔が頭をよぎった。これまで話した色んなことを思い出した。

 推し推しのいたグループメンバーと、そこのファンは最早友達か近所のお兄ちゃんかみたいな距離感だったので、私も推しとはとてもファンアイドルがしないような話をたくさんした。学校休んでサイン会に行ったりしてたまに叱られることもあったけど、もう本当にしょうがないんだからって笑ってくれた。そして必ず手を握って目を合わせながら、いつもありがとうね、って笑ってくれた。手の骨が折れた時もギプスでガチガチに固めた手で踊りまくってサイン書いて、痛くないよって笑うような子だった。チョコレートが好きで、渡すとその場ですぐに食べちゃう子だった。あげた手紙をちゃんと読んで、次に会った時にその話をしてくれる子だった。誕生日も先にお祝いしてくれた。そんなことを次々と思い出した。

 推しが弱かったと言われればそれまでだ。アイドルに向いてなかったと言われればそのとおりだと思うし、甘えだと言われればそうかもしれない。同じような経験をしたって、もっと辛いことがあったって、立派にアイドルしている子なんて大勢いる。

 でも、私の推しは耐えられなかった。そしてアイドルを辞めた。それが全てだ。

 周りに推し推しグループ好きな人が皆無だったので、この気持ちを分かち合える人がいないのが辛い。でも、推しの方が多分もっと辛いし、辛かったはずだ。

 辛かったよね。しんどかったよね。嫌なこと、苦しいこと、悲しいこと、傷ついたこと、たくさんたくさんあったよね。大丈夫だよ。そんなに気に病まなくていいよ。私は辛くないよ。あなたが辛かった時に笑いながら「辛くない」と言ってくれたように、今度はこっちが言うから大丈夫、ちゃんと笑ってお別れできるから大丈夫。だからもう休んで良いよ。辛い時は辛いって言って、たくさん周りに甘えていいよ。

 だけどお願い、これだけは守ってほしい。頼むからもう二度と死にたいなんて言わないで。自分から死のうとなんてしないで。あなたが死んだら悲しむ人が、あなたの思ってるよりたくさん、たくさんいるから。

 本当に、本当に、今までたくさん頑張ってくれてありがとう。思い出をありがとう。私の十代の終わりと、二十代の初めにあなたがいてくれたことが、何よりも幸せだった。誰よりもキラキラしたアイドルだったあなたのをことを、わたしはずっと忘れません。ありがとう。ずっとずっと、大好きです。

2017-10-19

ネット依存

というよりdis依存だろうか

他人の話ではない。僕の話だ

インターネット出会って以来、もう15年位dis依存なのだ

政治音楽芸能・・・

なんでもいいから叩き続けないともやもやしてしま

おそらく人生についてコントロール不能な不満があり

それをネットで発散しているのだと思う

時間のムダなので辞めたいのだが、やらないと気分が重くなる

もともとメンヘラであり、自殺未遂はたくさんやった。入院もした

他にもいろいろと問題を抱えている

基本的に何かをして気分が高揚することはない

趣味もない

でも何かをdisってる時だけは全能感があるし、アドレナリンも出て時間を忘れる

辞めたい、でもどうすれば良いのだろう

不満はなくならないのだし、他にはけ口がない

普通の人はあるんだろうか、ちゃんとしたはけ口

あるんだろうな、トモダチと遊ぶと気分が晴れるとか

アニメ見る、映画見る、音楽を聞く

僕はないからなあ

困った困った

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