はてなキーワード: 折衷とは
うんとこどっこいしょと生み出して、小さないのちを抱きしめて、毎日育てていく。
それって、どんな感じなんだろう。
すごく知ってみたい。大変なことはたくさんあるんだろうけど、どんな感じかなと、私は今日も空想する。
30代も半ばになって、「周りは独身だらけだから」と思っていた自分の周りもずいぶんと子どもを持っている人が増えた。
(それでも、まだまだ独身の友人がたくさんいるのだから“そりゃ少子化だわ”と思わずにはいられないけども)
大切な友人たちの子どもとくれば、それはもう、かわいらしい。
大体みんな私とも仲良くしてくれて、スクスク育って、とてもかわいい。
大変なことももちろんあるだろうが、友人たちが子育てをする姿を見て、自分も子どもがほしいなと思う。
私が今一緒に暮らしているパートナーの生殖機能は今のところ働いていない。
数年前に病気になって、その治療の影響でもう相手の生殖機能を取り戻すのはきっと難しいだろう。
もしかしたら機能が戻る場合もあるそうだけど、本人にもどうにもならないことをあまり強く言っても仕方ない。
そして、仮にその機能が取り戻せたとしても、今度は年齢的にこちらが妊娠しづらいリスクが上がる。
「ああ、このままいけば、もうきっと自分は子どもを産まずに一生を終わるのだろうな」と思うことが増えた。
10代の頃は、結婚して子どもを産むのが当たり前にある未来だと思っていた。
20代の頃は、「それでも、なんだかんだいいなが産むんだろうな」と思っていた。
30代に入って、「あれ、恋人できなさすぎて結婚とかしないのかもしれない」と思うようになった。
でもすぐに「まあいいや、一人でも十分楽しいし、独身を謳歌しよう」と開き直っていた。
そして、今の恋人と出会って、何故だかすぐに「私はこの人と結婚をするかもしれない!」「この人との子どもがほしい!」と思えた。
でもすぐに病気になちゃって、びっくりした。
闘病中に一度、お金がなくて図書館に行って、「名前事典」を見て子どもの名前をふたりで考えたりなんかして。すごく楽しかった。
恋人が昔から自分の子どもにつけたいと思っていた名前を私が気に入らないから、折衷案はどのあたりかを見に行ったのだ。
「この名前がいい」「その名前はイマイチ」「これならどうだ」と、ほとんど全部のページを見ながら言い合って、
最後に恋人が「名前は何とかなりそうだな!」と言っていたのをよく覚えている。
治療が終わった恋人の生殖機能の有無をチェックする日、「大丈夫だったらもうその日にプロポーズして子作りだ!」と思っていた。
でも、なかった。
恋人は、ものすごく落ち込んでいた。病気がわかったときよりも落ち込んでいたと思う。プロポーズどころではない。
恋人と出会えたことで「この人との子どもがほしい!」と思えたのに、それを彼と叶えることは現時点で非常に難しい。
もし子どもがいたら、どんな感じかなあ。
大変だろうなあ。それはそれは、しんどいだろうなあ。
私はピルを飲むほど生理痛がキツくてホルモンバランスの状態も悪いから、きっと妊娠中のつわりとかもひどいと思う。
それでも、それでも、お腹の中で子どもを育てて、ふんばってポンッと産んで、あくせくしながら大きくなる様子を見ていたい。
それって、どんな感じなんだろうなあ。
もし彼と、想像よりも遥かに早い別れがきたとしても、子どもと一緒に彼の思い出を語り合えたら。
それはきっと、さみしいよりも嬉しいが勝るのだろうな。
と書くと「え、見たくない権利じゃないの?」と思うかもしれないが実は違う。公然わいせつ罪の保護法益も現時点では”最低限の性道徳”であるとされている。
だから公然わいせつ罪が成立するのは露出狂などに限らない。現在では、『ストリップで性器が見えた』『乱交パーティーの参加者を不特定多数相手に募集して開催した』『キャンプ場を貸し切ってAVを撮影した』なども公然わいせつ罪となり得る。最後は不起訴になったようだが。
それは法律としていかがなものか、ということで保護法益を”見たくない権利”にするべきという主張もある。
だが、”見たくないようなわいせつな行為”をどのような基準で設定するべきなのかという議論は残る。候補は3つほど考えられる。
要は『見て不快になった人がいたらアウト』である。この基準で行けば見た人の『見たくない権利』は完全に守られる。
一方で、駅前でカップルがキスをしているところを、たまたま「キスであってもわいせつな行為であるとして不快になる」という性嫌悪の人が目撃して訴えたら罪になることが妥当なのか、という問題は残る。
『事情がない限り(※←追い剥ぎに服を全部奪われたなどは仕方ない)○○が見えたらアウト』のように客観的に設定する。
このようにすれば、「私は性嫌悪で、キスシーンを見ただけでもわいせつな行為であるとして不快になる。にも関わらず駅前でカップルがキスをしているところを目撃して不快になった」などは罪にならない。
だが逆に、「○○氏はキスシーンを見ただけでも不快になる性嫌悪である。そいつへの嫌がらせとして、目の前で彼女とキスすることを繰り返してやりました」も罪にならない。それは妥当であるかという問題は残る。
ちなみに強盗罪の基準はこれに近く、強盗罪が成立するための暴力は『相手の反抗しようという気持ちを押さえつける程度』が基準となる。
原則としては客観で判断するが、『相手が特に弱気であることを分かった上で』の抑えめの暴力の場合は成立することがある。
公然わいせつの”見たくない権利”にも似たような基準として、『原則としては○○が見えたらアウト。ただし、相手が特に性に潔癖だったりすることを承知の上で行う場合はその限りではない』とする。上記の1と2の折衷案である。
ただしこの場合、「○○氏はキスシーンを見ただけでも不快になる性嫌悪である。そいつへの嫌がらせとして、目の前で彼女とキスすることを繰り返してやりました」は確かに罪になるかもしれないが、同様に
「杉田水脈の『同性愛は生産性がない』発言への抗議として、同性愛者が集まって杉田水脈の前でキスして見せました」を杉田水脈が公然わいせつと訴えた場合は罪にしなければならなくなるかもしれない。それは妥当であるか。あるい「ある程度主観的な要素も認める」の範囲にキスは含めないことにするのか。
この度、岩波文庫からアリエル・ドルフマン(昔は、英語風にドーフマン表記だった)の戯曲作品『死と乙女』が刊行された。90年代に一度、英語版から日本語に翻訳されたものが劇書房から刊行されたが、その後は長く絶版品切状態だった作品である。
「過去に読んだが岩波文庫から復刊したことは知らなかった」という人は、書店に急いで欲しい。
読んだことの無い人も、やはり書店に急いで欲しい。
もしかしたら、作品を読んだことは無くても、朴璐美や真木よう子などが主演した舞台を、日本国内で観たという人もいるかも知れない。または、ポランスキーによる映画作品を観た人もいるかもしれない。
ちなみに、これを書いている増田は、ど田舎生活の低所得者なので、演劇文化とは縁が無いことから、舞台を観たことはない。
今回の岩波文庫版は、著者の母語であるスペイン語で書かれたバージョンからの翻訳となる。翻訳者による詳細な解説があるので、作品執筆の背景となった70〜90年代のチリ内外の政治事情を知ることも出来ることから、一読者として有り難い。
これを目にしている貴方が、書店に赴いて『死と乙女』を入手して読んでくれるならば、もう以下の駄文を読む必要は無い。
この増田が読むことを勧めている『死と乙女』とは、どのような作品なのか、読んだことは無いが少しだけ興味が有るという人に向けて、以下を記す。
ただし『死と乙女』の結末に触れる部分があるので、未読で結末は自分で知りたいという人は、ここで一旦、この駄文を読むのをストップしてもらいたい。
また、直接的ではないものの、性暴力に言及する箇所もあるので、精神的な苦痛を喚び起こされる虞がある人は、ここで読むことを止めてもらいたい。
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1970年、南米チリで、サルバドール・アジェンデを大統領とする政権が誕生した。俗に、史上初の民主主義選挙により誕生した社会主義政権とされる。
しかし、アジェンデ政権を皮切りに中南米地域で社会主義国がドミノ倒し的に増加することを怖れた米国ニクソン政権は、チリへの介入を決定する。かくして、米国の後ろ楯を得たピノチェトが起こした軍事クーデターによって、チリは独裁国家となる。
この独裁政権時代のチリでは、多くのチリ国民が政治犯として弾圧され、不当な身柄拘束、拷問、虐殺の対象となっている。
チリ国外に亡命した人間もいる(亡命はしたもののチリ国外で暗殺されたという人間もいる)。映画『イル・ポスティーノ』の主人公の詩人も、そのような逃亡者であったことを、記憶している人もいるかもしれない。或いはまた、ヨーロッパに亡命していたチリの映画監督ミゲル・リティンが、ピノチェト支配下のチリへ潜入して取材する姿を、コロンビア出身ノーベル文学賞受賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスがルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』(邦訳は岩波新書)として著したので、それを読んだ人もいるかもしれない。
本作『死と乙女』の著者アリエル・ドルフマンも、チリ国外に亡命した人間の一人である。
そして『死と乙女』の主人公パウリナ・サラスもまた、ピノチェト政権下で筆舌に尽くし難い苦痛を味わい、生還したチリ国民の一人である。
パウリナの夫ヘラルド・エスコバルは、ピノチェト政権下で、弾圧されている人々をチリ国外に亡命させる手助けをしていた。そのためにヘラルドは、ピノチェト政権当局から弾圧の対象とされた。
しかし、ヘラルドが当局の手を脱して逃亡したので、彼の居場所を吐かせるために秘密警察は、彼の妻であるパウリナの身柄を拘束し、彼女を拷問した。その時、拷問者は、目隠しされたパウリナをレイプしながら、シューベルト作品『死と乙女』をBGMに流したのである。
時が流れて90年代に入ると、チリは民主主義国家へと移行する。ヘラルドが逃亡する必要も、パウリナが夫の隠れ場所を吐かずに耐える必要も無くなり、二人は夫婦として、堂々と暮らせるようになった。しかし、パウリナの心には、拷問による拭いきれない大きな傷が残り、それが二人の暮らしに暗い影を落とし続けていた。
民主主義政権となったチリ政府は、ピノチェト独裁時代に行われた弾圧について、調査究明を行なうと国民に約束し、そのための調査委員会を任命する。今やパウリナの夫ヘラルドは、その調査委員会のメンバーの一人である。これが、物語の開始の時点で、主人公の置かれた状況である。
物語の冒頭、或る晩、ヘラルドは、パウリナの待つ自宅へと自動車で帰る途中、タイヤのパンクにより立往生していたところを、通りがかった医師ロベルト・ミランダに助けられる。ロベルト・ミランダの車で自宅に送り届けられたヘラルドは、夜も遅いし助けてくれたお礼にと言って、ロベルトに自宅へ泊まっていくことを勧める。
結局ロベルト・ミランダはヘラルドの申し出に甘えることにし、ヘラルドが寝室に居るパウリナに声を掛けて、彼女にも客人を泊まらせることを了承させる。
翌朝。
ロベルト・ミランダは、椅子に縛られている。パウリナが、彼にリボルバー拳銃を突き付けている。
それを見て驚く夫ヘラルドと、狼狽する医師ロベルト・ミランダに対して、主人公パウリナは告げる。
「昨夜、この男の声を聴いて気づいた。この男、ロベルト・ミランダこそが『死と乙女』をBGMとして流しながら、あたしを拷問し、レイプした人間だ」と。
ロベルト・ミランダに拳銃を突き付けて「洗い浚い罪を吐かせる」と主張する主人公パウリナに対して、夫ヘラルドは思い止まるように説得する。
チリがピノチェト独裁体制を脱して民主主義国家となったとはいえ、いまだピノチェトを支持するチリ国民も決して少ないとは言えない(現実世界の2023年現在でも、ピノチェト支持者が残っているのだから、民主政権に移行したばかりの90年代前半を時代設定としている物語の中では、尚更である)。独裁政権時代の弾圧活動に関与した人間たちの全てを、罪に問うて処罰しようとしたならば、親ピノチェト派の有権者からの反発を招き、まだ体制も盤石とは言い難い民主主義政権が倒れることになりかねない。最悪の場合、内戦が勃発して、更に血で血を洗う国民同士の殺し合いともなりかねない。
そのため、現実世界のチリで行われた調査も、調査対象事件を「被害者が殺害されたという重大なケース」に限定し、尚且つ、真実を綿密に明らかにした調査報告書を作成する代わりに、弾圧関与者の氏名公表や厳しい処罰を免除するという、謂わば折衷案の形をとらざるを得なかった。
処罰を免除するという条件を餌にした、一種の司法取引によって、ピノチェト独裁政権時代の弾圧に関与した人間に、己の罪を自発的に告白するように促したとも言える。
しかし、もしも調査委員の一人であるヘラルドの妻パウリナが、ロベルト・ミランダを殺害してしまったとしたら、いや、殺害せずとも、拳銃を突き付けてロベルト・ミランダに自白を強要したことが世間に知られたならば。
民主化した政権も、真相究明も、全てが水泡に帰すことになりかねない。
パウリナは、ロベルト・ミランダの命までは取らないことを条件にして、今ここにいるパウリナ、ヘラルド、ロベルト・ミランダの三人で"裁判"を行なうことを強引に承諾させる。かくして、現実のチリで行われた真相究明の動きを追体験するような、緊迫の一夜が、舞台上で演じられることとなる。
以下では、物語の結末に触れているので、未読の人は一旦ここで増田の駄文を読むのを切り上げて、まず『死と乙女』を読んでもらいたい。
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ロベルト・ミランダに罪を告白させること(供述をテープレコーダーに録音した上で、ロベルト自身の手で文字起こしの原稿を書かせ、さらに「自発的に真実を語った」と宣誓する署名までさせること)が出来たミランダは、ロベルトを監禁する前に家から離れた場所へ移動させておいた彼の車を、返すために取りに行くようにと夫ヘラルドに頼む。
そして夫ヘラルドが家を出て二人きりになると、パウリナはロベルト・ミランダに銃口を向け直す。
「真実を告白すれば命を助けると言ったのに、約束が違う!」と抗議するロベルト・ミランダに、銃口を向けるパウリナ。
パウリナは、ロベルト・ミランダの語りを聞いて、心の底からの反省や悔悛が彼には見られないと判断したのだ。
ここで演出として、舞台には幕が降り始め、パウリナとロベルト・ミランダの姿を隠すとともに、その幕は鏡となっており、演劇『死と乙女』を観ている観客たち自身を映し出す手筈になっている。
再び幕が上がると、物語のラスト場面であり、パウリナとヘラルドは、二人で連れ立って、音楽演奏会に出掛けている。演奏の休憩時間では、他の観客と、調査委員会による調査の成果について、夫ヘラルドは語り合っている。
休憩が終わり、演奏が再開される。
すると、その演奏会の会場にロベルト・ミランダが入って来て、主人公夫婦から離れた、ずっと後方の客席に彼は座る。
夫ヘラルドは気づいていないが、パウリナはロベルト・ミランダの存在に気づいて、しばし後ろを振り返り、ロベルト・ミランダを見る。ロベルト・ミランダは、何も言葉を発すること無く、ただ、主人公パウリナに視線を向け続ける。やがてパウリナも、ロベルト・ミランダからは視線を外し、前方(演奏会の舞台があると設定されている方向)を向いて、物語は終わる。
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この増田は、殺したと考えている。(続く)
そういう場合、本当に「相手を自分と同じ人間だと思って尊重しろ」と思ってる奴なら
これが相手の自分と同じ人間に対する尊重なんだなと、相手の意思を尊重するはずなのに
尊重されてないと怒り出したりする。
具体的に何かをしてくださいと相手に頼むのが失礼だという考えが根底にある。
その結果が京都人みたいな「そんなことも言わなきゃわからないんどすか?」みたいな態度になるほうが
よっぽど失礼じゃないかと思う。
相手を自分と同じ人間だと思うという行為は、相手が自分と同じ考えであれという強制であって
「相手は自分と同じ人間なんだから自分が望むことをしてくれるはずだ」という期待感の表れに過ぎない。
ないだろ、こんなもん。
具体的に「私はあなたにこれを希望しているのでこうしてください」とお互いに条件を出し合って
30代後半、妻、一児あり。
ただ、俺は家を買いたくない。
ご近所リスク、手抜き工事リスク、ローンが払えなくなるリスク。
一方、妻は何が何でも家を買いたいらしい。
妻の言い分としては、
ということらしい。
まぁ、言っていることはわかるけど、個人的にはそれでもリスクがでかすぎると、と思う。
ローン額の目安は4000万。
(もしくは、家を買う派として俺を説得してくれてもいい。俺が納得して家を買う気になればそれはそれで解決)
ちなみに、折衷案として中古で安い家を買う(ローン額を下げることによるリスクヘッジ)という提案もしたが、
【追記】
Gondwana せめて頭金に使える今の預貯金額くらい書いてくれないと何とも言えないなあ。あとは実家義実家からの援助の有無とか(これが意外と助けてもらってる人って多いんだよ)
一応、預貯金は600万くらいあるけど頭金はなしでもいいって本で読んだから買うとしても全額ローンで買える範囲にしようと思ってた。雑費もかかるし。
あと、関東近郊で土地込み4000万なんて買えるの??って意見があまりにも多いので、簡単に検索してみたが→https://www.homes.co.jp/kodate/shinchiku/saitama/list/
埼玉、新築戸建て、3LDK以上、駅徒歩20以内で3,228件出てきた。まぁ埼玉全域なので秩父とかも入ってるかもしれんけど。
はてなのフェミニストの働きたくない、女だけが優遇されるべきだっていう熱い思いは十分にわかったけどさ、せっかくだからもうちょっと書こうか。
元エントリの追記読めよな。わざわざ追記したのになぜそれでもスターをつける奴がいるのかは理解に苦しむが。
勤労の義務の話なんか書いてないし、家事が労働じゃないとも書いてないんだが、なんで勝手に話を飛躍させるのかね。文章が読めない奴は途中で自分の頭の中でお話を作って自己完結するから元の話が理解できないとは言うが、それかね。
何度も繰り返しだがもう一度書くしかないので書くが、男女平等社会で社会が発展するためには社会での労働が必要だと言っているんだ。家庭での労働では社会に寄与しないもしくは不十分なんだよ。
これは日本のGDP成長率の低さの改善と言い換えても良いだろうね。ご存じの通りGDPに家事労働は含まれない。GDPを上げるためには家庭内ではなく、社会で働いて賃金を得る必要がある。経済を成長させるために必要な行為なわけだ。
だから男性の育児休暇を増やしたりしてるわけなんだよな。そこは制度や理解が進むのに期待するか、あとは今男性が背負っている責任や労働を女性が受け持って全体として減らすしかない。
男女関係なく働きたくないでござる論
これは意外と多いが、上にも書いた通りGDP成長のためにはそれは今は取れないだろうよ。
元エントリに専業主夫を増やすのはあり得ないと書いたが、それもわかってない奴がいたが同じ理由だな。
今より働き手減らしてどうする気なんだって話。
少子化がどうのこうの
だから男性の育児休暇増やしたりとかやってんだろって話で、文章読めんのかね。
あとはっきり言ってしまえば、男女平等を推し進めれば進めるほど少子化は進むだろうよ。少子化対策も重要だが、男女平等、男女共同参画による社会発展も大切なので折衷案を模索してんの。わかる?
あかん寝られへん
一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。
一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。
一、有材の公卿・諸侯及および天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。
一、外国の交際広く公議を採り、新あらたに至当の規約を立つべき事。
一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。
以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内うだい万国に徴するに、之を捨てて他に済時の急務あるべし。苟いやしくも此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並立するも亦敢て難かたしとせず。伏ふして願ねがはくは公明正大の道理に基もとづき、一大英断を以て天下と更始一新せん。
赤松健議員は自分が「族議員」であることを理解していないんだと思う。
族議員なら、もっと、弱者のどぶ板をして、心のなかでは「無理だなー」と思っても、「貴方の気持ちわかります」って、零細クリエイターの話を聞いて、握手をして欲しい。
心のなかでは無理だなと思っても、だ。
動画に、仕事を失うのではないかと恐れているイラストレーターを呼ばなかったの、致命傷になるなと思ってる。
実際に言ってることは、そんなに間違っちゃいないのだが、浮世離れしすぎていて困っている。
ぶっちゃけて言うと、赤松健の言ってることすべてって、「メガヒットした漫画家の理論」なんですよね。
カネに困ってないメガヒッターが考えるクリエイター論で、周囲の漫画家から聞いた意見も「超メガヒット」連中の強者クリエイター理論が多すぎる。
9割以上の大半を占める、零細個人事業主のことなんか「切り捨てるような発言」を結構してしまう。
言ってる方向性は間違ってないのにだ。
インボイスの流れで押し切られた後、画像生成AI使用の理論も、全て「どんな波が来てももう稼ぎ終わった強者」の視点で冗談を言ってしまう。
ぜんぜん零細個人事業主クリエイターのことは考えてない言い方をしている。
「マクロで長期的に見ればいいだろ」って、ユーモアのつもりで言ってしまうんだよな。
って思う。
「その長期的に見ればいずれ安定する」っていうのは、歴史家か評論家の役割で、族議員は「わかります! なんとか努力します! 安心してください! 私がこの状況をなんとかします」ってとりあえず握手して言うことだよね。
AIも、神絵師以外の水飲みイラストレーターについては、今そこにある危機で、実際に仕事が減って需要がなくなっているんだよな。
「それが歴史の流れだ」「長期的視点に立っているんだ」と思っていても「言う」のは、政治家の役割ではない。
ほどほどのところで妥協点を見出して、「新しい技術との折衷案を見つけました」と言うべきところで、「日本が勝てる」とか言ってしまう。
日本が勝つことになんか興味ねーっつーの。
明後日の依頼がAIに食われて廃業するっていう状況で「日本が画像生成AI開発に勝てる」なんて言われてもうれしくもなんともない。
赤松健の政策主張は、どれもこれも言い方が浮き世離れしている。
AIについても、いずれ安定するって言ってるけれど、それを観て、あーこれハサウェイのタクシー運転手の気分だって理解した。
実際に「学がありすぎるんですよ。暇なんだねぇ、その人さぁ。暮らしって、そんな先考えている暇は無いやね。」
って思う。
AIと人間の関わりの軋轢が放置されたり、インボイス制度が織り込まれる1000年後には、おそらく多くのクリエイター(零細)は耐えられない。
だから、取材を受けたり発信したりするのは、「推進したいなら推進側じゃなくて、反対している人を呼ぶ」ことなんだよな。
AI反対してる人達を呼んで、話をさせてないで、推進側のひとたちとばかり、話ししてるでしょ。
でも、実際に投票したクリエイターの大半は、「貧乏で金もない零細」なんだよ。
それを、「いずれ安定する」とか「夢がある」とか言うのは、族議員じゃないんだよな。