はてなキーワード: 折衷とは
しゅんき氏の、ラニーノーズ、Runny Noizeに対するファンとしての失敗に関するnote(https://note.com/syunki0910/n/n0bbc0a2e4b96)が話題になり、
それにより「推し活は、推しが理想と違った場合は呑み込んで応援するか離れるかしかない」という言説が出回っているが、私は少し違う意見だったためその旨を記す。
以下はしゅんき氏が記事内で挙げた、何らかの推し活をするうえでのファンのパターンだ。
この2パターンがいて、両者は分かり合うことができないということには共感をする。そして本記事は、②であることが多い立場からの発言である。
また、こちらの記事(https://note.com/syunki0910/n/n9e7ab2259c1c)の嫌われた原因の項目で書かれている、「自分の振る舞いはおかしなことではない」という点も、一部は理解することができる。
私のスタンスは、
・人には他人を傷つけたりその自由意思を妨げない限り、発言の自由は担保されるべきである
・プロのアーティストが生み出した作品に厳しい意見がつくことは(誹謗中傷や言葉選びによっては許容されないが)ある程度想定されることであり、その発信自体は叩かれるべきではない
というところだ。
前置きが長くなったが、以上のようにしゅんき氏に一部共感するところがある人間の視点から、問題を分析したいと思う。
しゅんき氏は、noteの中で、「人がどんな感情を持つのもどんな行動をするのも、基本的には自分勝手である。勝手に人に感動したり怒ったりするのだ。誰でもそうだ。人間はそういうものなのだから、別になんの問題もない。」と述べている。この一文はまったくその通りである。だから「推しに不満を持っていても、不満を吐き出しながら応援する」という行為自体に問題はなく、「推し活は~すべき」ということには当てはまらない。
特に規模が大きいアーティストになればなるほど、様々な葛藤を抱えながら応援しているファンはいる。私が今回記事を書こうと考えたのは、冒頭に述べた「推し活のファンの在り方二元論」に異議を唱えたかったからだ。あのような言説が広まると、多くの葛藤するファンが「自分は推しを応援する資格はない」と自分を責める原因になりかねない。「どんなスタンスで応援しようと自由」なのである。
今回、しゅんき氏は、以下のように述べている。
これは、「アーティストはかくあるべき」という押し付けであり、アーティスト個人に対する自由意思の妨げである。
もちろん、客の声をよく聞き向上に努めるスタンスは、商業的に正しいとされる。これがたとえば、利益創出を目的とした企業それ自体が相手であれば、もう少し理屈は通る。しかし本件の相手はアーティストとはいえ個人である。私は洲崎氏という方を本記事で初めて知ったが、どういうスタンスで活動するかは自由であり、それが利益に繋がるか繋がらないか、繋がらない場合どうなるかはファンが判断することではなく、本人自身や所属会社が考えることである。
存じ上げないうえで例とはいえこのようなことを述べるのは申し訳ないが、たとえば「今はコントより音楽活動に比重を置きたい」と思っており、作品の完成度が低くなった場合も、それはアーティスト自身の自由である。
しゅんき氏が「ファンとはこうあるべき(たとえば本人が提示していた①のような全肯定であるべき)」「作品への不満は言ってはならない」ということを強要されるのをおかしいと思うことと同様に、人の創作活動やアーティスト活動を強要することはできない。
しゅんき氏がそれを傲慢だと述べるのも自由だが、洲崎氏が傲慢と思われても構わないと思うこともまた自由なのである。
しゅんき氏の初期のnoteの中には「自分はこういう人間である」という記述、そして自分がなぜ間違っているかわからないという記述があった。
1でも述べたとおり、間違っているわけではないという点は共感する。ただし、その自分を周囲が受け入れるべきだと考えると、それは今回のような事態を生む。
見る限りしゅんき氏のなかには2つの欲求や理想(細分化すれば3つ)の状態があると思う。
1つは、アーティストと良好な関係を築き、ライブに参加し続けること(これは2つに分けられる)
この2つは、現状の方法では両立することが困難である。そして氏は両立できないことについて、「相手が譲歩し両方の欲求を満たしてくれるよう振る舞うべき」だと考えている。
ここが今回の一番の問題であると考える。よく言われるように他人は変えられない。だから自分がやり方を変えるしかないのだ。
②SNS上の振る舞いを優先し、良好な関係は諦める。現場では交流を求めず作品だけ楽しむ
③完全に降りる
そして、④は(今からはもう難しいかもしれないが)、「欲求が両立する方法を考え、折衷案的振る舞いを見つけること」だ。
こういった場合、人は④の方法を取ることが多いのではないだろうか。
・この職場に自分の仕事の進め方を浸透させた方がいいと考え、同僚には仕事の仕方を合わせてもらえるよう交渉する。後に実績で報いられると信じ、その場の人間関係の軋轢は覚悟する。
・合わない場所にいることはしたくないが1年ほどは我慢できそうなので、転職のために1年は必要な実績を積むことにする。そのために時に妥協し時に我を通すなど状況に応じて変える。
・人と良好に働くことを優先したいため、同僚の進め方に合わせる。関係を構築してから徐々に自身の意見を述べるようにしていく。
以上の違いは、「進め方へのこだわり」「実績」「人間関係」様々な要素がある中で何を優先するかだ。自分の価値観を点検し、どこにどれだけ比重を置き、逆にどれが不足していると耐えられないか、どれくらいなら耐えられるかを見極め、自分にとって心地の良いバランスを探っていく。それが人間関係であり人の営みではないのだろうか。
ここで、すべてを満たそうとただ声高に叫んだところでそれが叶えられることはないだろう。しかししゅんき氏は、自分の欲求すべてが同等に叶えられるべきであると考えている。
欲求を複数持つことや叶えようとすることは問題ではない。問題は、他人や環境は変えられないという点への無自覚さと、自分の中の優先順位が不明瞭なことである。
自分にとってもっとも理想的な状態は何か。それが実現するためにはどのような振る舞いが適しているかを「相手が変わる」という選択肢を除き、「自身の妥協点」や「自身が新たに身につける思考や振る舞い」を考慮したうえで計画し、実行に移す。
こうした行動が、氏には必要だったのではないだろうか。
とはいえ、まだ若い方が以上のようなことを考えて振る舞うことは難しい場合が多いだろうと思う。
そしてこうした振る舞いを自身が二十歳そこそこの時に身につけていたかというとはなはだ疑問であり、だからこそ私は、こうした記事を書いている。
なんてもの、ファンダムのなかの「べき」論は幻想だと思っている。ただそこは人の営みであり、アーティストも含め、心の通う、自分と違う人たちが多くいる場所だ。
迎合を覚えろという意味ではなく、ただ、自らの思い通りにならないことを理解したうえで、なるべく心地の良い落としどころを見つけていくこと(あるいはそれを試すこと)を、私は若い方に推奨したいのかもしれない。
それからの一年間、俺はそれを溜飲に入れたままで手をつけず、でも腸は煮えたぎっていた。アンドロイドが自分の上司になったのは十八ヵ月ほど前だから、他が同じことをしても安全なのはほとんど間違いないはずだけど、俺が自分の上司のことをSNSで罵倒していたのが重役にバレたらどうなるかは、想像する気にもなれなかった。
俺は翌週の午後まで待った。その時間、重役は会議に没頭する。俺は自分の部屋のドアを閉めて、カーテンを引いた。ドアには鍵がなかったから、アカウントに偽装してアイコンを隅まで塗り潰したものの、モニターをじっと見つめたままでいるうちに画面が暗くなってしまった。VRの中で、元上司のことを考えた。元上司は俺も持っているのと同じ業務が原因で職を失ったが、目の見えなかった期間が長すぎたのでESC(Employment Support Center)の力では光を取り戻すには至らなかった。元上司が見せた将来への信頼が揺らぎはじめる。元上司の業務内容と俺の業務とは同じ系だが、取り掛かり方は個々人それぞれだ。俺は職を失うハメになりたくない――それに、俺がもたらそうとしている変化は、社長のところへ行ってアンドロイドの設定をもとに戻せば取り消せるものだとはいっても、それは重役に気づかれずにできることではなかった。
ゴーグルを揺すってふたたび明るくし、アプリの起動画面を表示した。この幻想的なアイコンのような鮮明で新緑の葉が木に宿っているのを、俺は見たことがない。けれど旧世代的な家庭環境を持つ友人たちが、寓話とも呼べる”新緑の葉”を見つけることは自分たちにも全然できないと確証してくれたことがあり、その言葉を疑う理由はなかった。俺の職場環境は、人間の三種類の性格類型論の典型的な反応と同じように分類することで、人の力量を最大限発揮できるよう最善を尽くす。だが、単なる分類しかしていないわけではなく、ほかの選択をすることもできる――その選択した場合、俺は職場の中に新しいハードウェアを入れることなく、社会心理学的なこれまで以上の就労を得ることが出来るのだ。
その仕組みはこうだ。俺の人工学習データじゅうに散らばっている量子シナプスには数百万個のスペアが含まれていて、機能中のセクターのどれかが故障したときに代わりができるように待機している。そのスペアは、前もって特定の言語や思想に割り当てられてはいない。なぜなら、たとえば代替の需要が右翼的や左翼的に偏った場合に、左翼派に割り当てられたスペアが、うまい棒のチーズみたいな人気味によって場所ふさぎに終わることがないようにするためだ。そして選択後に俺の思想を真似る手段は、形式分子や言語フィルターではなく、量子井戸全体に一連の電圧を設定するというものなので、スペアが表現できるのは民主主義・共産主義のような二元論に限定されない。社長が送ってきたアンドロイドは、各員に指示して俺たちの持つスペアのすべてを覚醒させ、さらに、覚醒したスペアをもともとの思想の領域のあいだとその両側、計四つの新しい帯域に同調させることができた。
俺はマウスホイールを指先でなでながら、結論を出そうとしていた。アンドロイドの上司が俺を他の社員と同じにしている。アンドロイド上司のおかげで俺は人々の中に紛れ込んでいる。それ以上のものを望む理由は? 統計学的な運命まかせにされていても、俺はあと二十年、完全に職を失うことはなかっただろが、友人は実行できるもっとも早い時期に代替手段を選択し、俺はこの環境に適応する機会を最大限にあたえられた。
だが、それは十八ヵ月前のことだ。俺の頭にまだ新しい環境を意義あるものに出来る柔軟性がある今、この試みがなかったら、自分がなにを逃したかは死ぬまで分からないままだろう。
決断を引きのばさせていたマウスから指をいったん離して、そのあとすぐ画面のボタンをクリックする。
会社はアンドロイドの優位性と実務証明を必要としたが、どちらもアンドロイドの取扱説明書にはっきりと記載されていた。メーカーの保証書は既に期限切れだが、なにも無効にはなっていなくて、HPの長たらしい前書きが謳うところによれば、このアンドロイドは定期検査をする技術従事者からその作動を完全に隠すことができる。休止状態に戻しても修正不能な誤りが生じないかぎりは、企業がアンドロイドの思想ブールに干渉したことは一生発覚しない可能性もあった。
次の局面では優位な反応を示していた。標準の思考(はい・いいえ)の曲線はすでにかなりの部分が重なりあっていたが、青の曲線はそこからほぼ完全に離れたところにあった。デフォルトで選択されているのは、青と赤のあいだにふたつの新しい曲線を押しこんでから、さらに折衷案の端にひとつ、否定案の端にひとつの曲線を付け加える方法だ。 ”逆方式”のデフォルトもひと組用意されていて、それは新しい思考のさまざまな組みあわせからどのようなかたちで情報を引きだすかを指定するものだった――あらゆる人間の頭の中で赤と青の反応の違いが計算され、脳へ送られるのとまったく同じようだ。
そうした構造をなにかしら編集する――そのプロセスに企業独自のひねりを加える――ことを考えると、緊張で手が汗ばんだ。理想的な思想範囲がどんなものか、俺自身の個人的な考えを作り上げようとしても、どこから手をつければいいのかさえわからない。それは同時に、俺がデフォルト設定を許可するとしても、それが悪意に基づいた選択ではないことの証明だともいえるだろう。けれど、表示されているいくつかの曲線の整然とした見た目には、心落ち着かせるものがあった。密着して並ぶ曲線の小さな山の各々は、隣の山から約八十ナノメートル離れた波長で頂点に達していて、行政上の認可領域を均等かつ効率的にカバーしている。そのどこかにもおかしな感じはなかったし、生物学的深層レベルの複雑な正当化なしには納得できないところもなかった。なにも変更は必要ない。
俺は『続行する』を押して、次のページに進んだ。
警告
あなたのアンドロイドの思考セクターを起動・再同調させると、アンドロイドの脳の思考経路に永久的な変化を生じさせる可能性があります。このアプリは思考をオリジナルの状態に戻すことができますが、あなたのアンドロイドの挙動に関しては、われわれはそのような保証をいっさいいたしません。
この警告に俺はまったく動じなかった。アンドロイドが受けとったり受けとらなかったりする情報によって改変されるというのは、俺にとって目新しい話ではなく、取扱説明書にでかでかと書いてあることだった。アンドロイドの登場は日本を救うのにはちょうど間に合ったが、俺を救ってくれたほどの効果があるものではまだなかった。さまざまな規模の企業や自治体たちもアンドロイドを導入している。考えれば考えるほど確かだと思えてくるのは、俺がこのチャンスをふいにしている間に、同僚や俺の友人たちが俺のはるか先を全力疾走して谷の反対側に姿を消してしまうのがいちばん恐ろしい、ということだった。
警告文はプログレスバーに取って変わった。アプリとアンドロイドの共同作業の進行状況を、バーの上の文章が警告するのを俺はまじまじと見ていた。スペア・センターの工程作成、センサーの内部テスト、再同調、再テスト。
プログレスバーが八十五パーセントのところで一時停止し、アプリが俺に、AIは制御されているか、適切な業務は可能か、と尋ねた。思考はクリアで、業務環境は整備済みだった。俺は社内からアカウントを追い出し、スマホをひらいて自分のアカウントを部屋に導き入れてから、社長にもらったアクセスキーをテーブルに置き、それからアンドロイドに投じる思弁ベースが連続した帯になるまで前後に調整した。
アプリに指示されるまま、俺はゆっくりと帯を動かして、スペクトルの左から右へ、赤の端から順に少しずつ青を動かしていった。スピーカーからナノメートルの数字がカウントされるのは、アプリが量子ブールにおこなった微調整をあらゆる波で検証しているためだ。それはとても劇的で俺に高揚感をもたらした。
アプリが終了を告げる。
「完了」
スマホを見ると、プログレスバーは百パーセントに達していた。画像がズームアップして、環状の帯がふたたび表示された。それが広がり点になるとアプリは終了し、俺をスマホのホーム画面をじっと眺めた。
扉を全面に閉じて、部屋を空白で満たす。なにひとつ前と違って見えるものはなかった。周りを知覚するのに何かの変化が生じるまでには数日から数週間かかることもある、と注意を読んでいた。しかし、苛立ちは安堵に相殺された。俺が今ほかに何をしたにしろ、少なくともアンドロイドに害を与えても職は失ってはいなかった。
次の数日間、俺は職場を実験場にして、同僚の意見に対して独自の判断をしたようなアンドロイドの言論に悩まないことを学習した――いうまでもなく、人権無視や、パワハラや、答えようのない曖昧な質問につながるような、それよりはっきりした反応を見せないことも。明らかに動揺する新入社員や、競合他社びいきの上司を見て、ニヤニヤ笑いをこらえるのが無理そうになったときには、自分だってどこを取っても同じくらい馬鹿みたいに見えていることを思いだすようにした。そのためには鏡は必要なかった。ちらっとシャツの汗の染みに視線を下げれば、それはまるで洪水の水が引くときに残していった灰色の沈泥のように見えて、こみあげる恥ずかしさがきっちりと唇から笑みは拭い去った。
お前がしていなくても、トランスヘイターがそういうツイートをしているだろう!というなら、トランスジェンダーの中にも痴漢行為を女風呂で働く人がいるのでお互い様では?
トランスジェンダーの問題は、まず「定義がないこと」。北原みのりのこの一文に尽きると考えている。
合理的な理由があって男女別になっている女性スペースにトランス女性を入れないと差別をいう主張はおかしすぎる。
(3ページ目)衆院通過LGBT法案に当事者やフェミニストから「廃案を」の声 「折衷案」は誰のため? 北原みのり | AERA dot. (アエラドット)
憲法学者の木村草太さんがTwitterで「『男女を区別しない場面で生じているトランスジェンダー差別の問題』と『男女の区別が要求される(正当とされる)場面での男女の区別基準の問題』とを分けて考えるのが、混乱を解消するカギだと思われる」とスマートにまとめていたが、体の性別を基準に区分されているスペースで、「性自認」をどのように定義するのか、法律にどのように組み込んでいくのか、「疑問を挟むこと自体が差別」と封殺することなく議論をしていきたい。
これ以上死人を出さないために脚本家を責めるなっていうのは一理あるんだけど、今までも原作漫画を次々破壊する作品を作り出しても何度も起用されるだけのバックに大きなお友達のいるからこそ、何を発言しても許されるとわかっててあのSNSでの発言。死にはしない。彼女に川治ダムの淵に立つような度胸も勇気もなければ自分のアイデアを横取りされた絶望もない。コメントからもわかるように自分が責められてる事からどう逃れられるかしか考えてないし、ここまでコメントも出さず何もしないで居られるくらい相談に乗ってくれるほどの組織に守られて今もケアされてるのでしょう。だから大丈夫。
筆は折るかもしれないけど、その後のキャリアも映像クリエイターの倫理折衷についてのアドバイザーとかになって、汚名も華々しく図々しく翻して生きていくと思う。ここまで図太かったのにいきなり繊細になるはずがない。大丈夫。
並行して何品も料理できない。
世の中の自炊ガチ勢、主婦の皆様はどういう流れで料理を準備しているのか教えて欲しい。
以下自分語りだから読まずに料理ライフハックだけ教えてくれるのでも全然嬉しい。
一人暮らし歴は長いが数ヶ月に一度しか料理をしてこなかった。昨年から広いキッチンのある家に引っ越したためウキウキで料理をするようになったが自身の効率の悪さに辟易してきた。
クラシルでレシピを見ながら食材を用意し、洗って切って、茹でている間に次に使う食材を洗って切って、その合間にもレシピを見て、炒めて、投入する調味料をレシピ見ながら用意して、火加減見ながら味見して、ようやく1品出来上がる。一つ一つが出来上がるのは嬉しいし楽しいけれども、ようやく1品出来上がった後にさらに副菜、スープ等々を準備する気が起きず主菜とご飯だけの時も多々ある。
一度に3食分程度作るので連日料理できた日は作り置きも含めて品数が増えるが、ほぼ前日と同じメニューになるため、自分1人の時はいいけれど将来結婚して誰かに振る舞う時には嫌な顔されるのかな〜と考えてしまう。
→ガチ勢たちは各料理のレシピを覚えているのか?感覚で作るの?私の場合、自分の味覚に頼って感覚で調味料を混ぜ合わせてもあんまりおいしくならない、どうせ料理を作るなら美味しいと思えるものを食べたい。
→干し椎茸の戻した水って使えるのかな、キャベツって何日保存できるのかな、とか一々調べる時間が毎回ある。これは自炊継続してたら解決するかな。
→全く同じ料理を毎日作るなら作業効率ガチれる自信はある。でも毎日違うもの食べたいよ〜。毎回違うものを作るから手順が想像できておらずよくフリーズする。ポンコツすぎて悲しい。
○少し潔癖
→汚れた調理器具やボウルがシンクに溜まっていく様や、作業場が食材や水で汚れていくのが耐えられず、お片付けタイムを頻繁に挟んでいる(もちろんノロノロ片付けしている)。生肉を扱うときは特に慎重になり、ビニール手袋をつけたりゆっくりと作業するため時間がかかって仕方ない。気にしすぎだなと自分でも思っているので、自炊を継続してたら色々おおらかになって効率重視で動けるようにならんだろうかと未来の自分に期待してる。
今考えつく効率悪化の原因はこれくらいか。改善点があれば教えて欲しいです。
効率悪いなと思いながらも、お惣菜買うより自炊した方が美味しいことにようやく気がついたのでこれからも料理は続けたいと思う。なんなら効率を諦め、キッチンスツールを買って、座ってyoutube見ながらダラダラ料理する方向にシフトしようか考えている。
今でも業スーのカット野菜や食洗機など楽できるよう色々導入しているがもっと短時間で楽に料理できるようにならんかな。
なんの気なしに投稿したら沢山のアドバイスと温かい反応があって嬉しい、皆様本当にありがとうございます。
中にはすごく具体的な案や情報を書いてくれた方もいてとても助かります、順番に実践していこうと思う。参考になる本やサイト、料理家さんの紹介も嬉しい、少しずつ調べてみます!
その中で、効率重視すぎる方法は増田の希望したアドバイスじゃないのでは、と書いてくれた人もいた。
私は、そのとき食べたいものを美味しく作りたいっていう“趣味としての料理“が好きなのは大前提として、現実問題、仕事の都合上まとまった調理時間が毎日作れるわけではないので時間とエネルギー消費を最小限に抑えた“家事としての料理“を知ることが今の自分には必要だし、両方のベクトルで上達できたらな〜と甘いことを考えてたりする。
なので効率全振り情報を教えてもらえるのは助かるし嬉しい、私にとっては目から鱗な方法ばかりで本当に参考になったのでぜひ実践していきたい。
理想を言えば、毎日美味しくて華やかな食卓!だけれども私は頭も体力もキャパが広くないので、色々試行して折衷案というか自分の中での落とし所を探っていければな〜と今回自分で思いました。
これを知れただけで十分な収穫だった!手際のいい人は常日頃使いこなしてるんだろうな、と勝手な思い込みがあったので気が楽になった。
【並行して使うためじゃなく火力が違うので用途によって使い分けるための3口】
そうなんだ〜〜〜〜〜〜〜?!?!?!全く知らなかったので驚いた。尚更、無理に3口使って効率よく!同時作業!みたいな考えが削ぎ落ちたので良かった。
【死なせてるとは】
折角の3口コンロを活かせてない→生かせてない→死なせてる の言葉遊びのつもりで書いたんだけど余計なノイズになってしまったねごめんね
【慣れ一択】
露天風呂付きの、客室に泊まるのはどうよ?
これなら折衷案というか2人とも満足できると思った。
お部屋でのご飯付きなら
まず外に出なくても充実感が半端ないよ。
(加えて、旅館内に大浴場があったりバーやラウンジがあったりすると ホテルから出ないw いい旅館だと部屋だけで満足するので、部屋からも出ない)
食事は朝夕 できるだけ好きな時間にセッティングしてくれるからゆっくりで、部屋食べれるし。
シェフや板前がいるような旅館だと食事もクオリティ高く、楽しめる。
お高いなと思ったら、ワインとかビールとか家から持ってきちゃう。
箱根、修善寺、熱海、別府、湯布院、草津、伊香保、有馬などなど。このへんは、そういう宿は多い。
弾丸旅行。ただ、これは同じペースで回るのが苦にならない人と行くしかない。
しかし日常からの解放というのを目的で旅するのも良さがある。何もしないでいる贅沢。厳選の湯に浸かる贅沢。
こういう切り口で、増田が、楽しみ方を開発してゆくといいんじゃないかな
横になって、テレビ見たり、家から持ってきたカードやボードゲームでもして、お酒飲んで寝て、帰る。
ってそれはそれで贅沢で最高だよ。
ちなみに、帰り際にその土地ならではの特産品を買いに行ったり、お寺や神社によってお参りしたり、
一泊2日で充分に癒される。
完全にSNSやら仕事について考えることから遮断するのがミソ。
(あと数泊ダラダラして、ホテルの周りを散策したいが、それはまたの機会。)
おためしあれ
逆に人が作った飯が合わんほうが多い
ファミレスとかチェーンは合うとこは慣れたりするけど、一味足らないとか具が少ないとか
それを調整できるから料理によっては自分が作ったものが一番美味いことも多い
味覚は子供なので、ミートソースとか麻婆豆腐とかはレトルトや5分で作れるみたいなやつをベースにしてるから料理というほどでもないものも多いが
自分は料理が趣味っぽくもあり、作る喜び(そんな大げさなものではないが)と誰かに食べて貰って評価してもらう楽しみもある
褒められるだけじゃなくて、他人に合わなかった時にそっちに合わせて改善したり、自分好みとの折衷案考えたり
飯を作らん(作れん)母親と、たまに適当な飯を作ったり行方不明になったりする父親と
飯マズほどではないが料理が得意ではなく、自分の趣味などにかまけて手抜きになったり、謎の健康系調味料とかにハマって味は二の次になりまくってた奥さんと
腐った食材を躊躇なく使ったりそのまま食うばあちゃんとかの影響で自分で作る方面に拗れた(スパイスカレーとか蕎麦とかジビエとかは全然やってない)
皿洗いも好きなほうの家事で、料理終わるころにはほとんどの調理器具は洗い終わってる
(1人分とか2人分の簡単料理だから可能で、料理中断したりしてるので時短とか効率とかはよくない)
そっちはそっちで変なほうに拗れてるというか、普通はそうなんだろうな
MLBでは戦力均衡の観点から「総年俸が一定の金額を超えた場合、金を徴収して機構に収める」という仕組みがある。
かなり複雑なので、詳しく知りたいかたは下記推奨。日本語で書かれたウェブ文書の中でたぶん一番詳しい。
本来払うべき贅沢税を圧縮し、戦力均衡を傷つける行為であるとされるため。
具体的には、贅沢税を算出する際にインフレ率を考慮し、後払いの分は現在価値に換算して払うためというルールがあるためだ。
インフレが全くしていない社会(日本は長いことデフレなので肌感としてはこちらに近いかもしれない)では、現在の100万円と10年後の100万円の価値は変わらない。だが、年間3%のインフレをしている社会では通貨の価値が年々目減りしていくので、現在の100万円は10年後には74万4千円の価値しか持たない。贅沢税の計算は、このインフレ率を考慮して行われる。
分かりやすくするために極端に考えると、以下のような契約があったとする。
このとき、100年後には現在の1円の価値が18.66分の1まで圧縮されるので、この選手の年俸は現在価値において5億3000万円と計算され、これが贅沢税の対象となる。球団は100億円のうち94億7000万円圧縮でき、その分を補強に回せる形になる。
年数 | 支払われる金額 | インフレ率(複利) | 現在価値 |
1 | 200万ドル | 1 | 200万ドル |
2 | 200万ドル | 1.03 | 約194.17万ドル |
3 | 200万ドル | 1.0609 | 約188.51万ドル |
4 | 200万ドル | 1.092727 | 約183.02万ドル |
5 | 200万ドル | 1.12550881 | 約177.69万ドル |
6 | 200万ドル | 1.159274074 | 約172.52万ドル |
7 | 200万ドル | 1.194052297 | 約167.49万ドル |
8 | 200万ドル | 1.229873865 | 約162.61万ドル |
9 | 200万ドル | 1.266770081 | 約157.88万ドル |
10 | 200万ドル | 1.304773184 | 約153.28万ドル |
11 | 6800万ドル | 1.343916379 | 約5059.8万ドル |
12 | 6800万ドル | 1.384233871 | 約4912.4万ドル |
13 | 6800万ドル | 1.425760887 | 約4769.3万ドル |
14 | 6800万ドル | 1.468533713 | 約4630.4万ドル |
15 | 6800万ドル | 1.512589725 | 約4495.6万ドル |
16 | 6800万ドル | 1.557967417 | 約4364.6万ドル |
17 | 6800万ドル | 1.604706439 | 約4237.5万ドル |
18 | 6800万ドル | 1.652847632 | 約4114.1万ドル |
19 | 6800万ドル | 1.702433061 | 約3994.2万ドル |
20 | 6800万ドル | 1.753506053 | 約3877.9万ドル |
ということで、合計すると大谷の契約は現在価値にして合計4億6千万ドルほどとなり、これを10で割った4600万ドルが贅沢税の対象として計上される。球団は浮いた分でほかの選手を補強でき、よりワールドチャンピオンに近づく(戦力均衡が破壊される)。
cider_kondo よーわからん。ドジャースファンが球団を批判するなら分かるがそれ以外は意味不明。将来のキャップスペース(球団の未来)を生贄に捧げて短期的な戦力確保を優先したという話であり、それ以上でもそれ以下でもなかろう
yunotanoro 大谷翔平が後払い契約をする事で、大谷翔平の現役生活中は毎年6800万ドル分他の選手を強化してドジャース最強時代を築き上げれるってバグ技が発生したってことか。引退後は暗黒期になる可能性もあるよな。
Futaro99 これって十年後に居ないオオタニの分のぜいたく税払うんだよね?それはそれで辛くないのか?
大谷の年俸が贅沢税の対象になるのは、あくまで契約が切れる10年後まで。年俸の総額を契約年数の10で割って年々支払っていくのだが、この「総額」を圧縮しているので問題となっている。
なので「将来(11年目以降)がつらい」「11年目以降を犠牲にして短期利得を得た」という話ではない。
kiki-maru ここ10数年ナリーグ西地区では一度だけ1ゲーム差で落とした以外は大抵大差で地区優勝してる金満球団のドジャースでこれをやればそりゃキレられる。
同感。ドジャースは日本でいうと現在のソフトバンク、より正確に言えば80年代後半〜90年代前半の西武ライオンズみたいなもので、そこがリーグ最強選手を補強して贅沢税の支払いも圧縮しているので、そんな契約を結んだ大谷含め叩かれている。
大谷の契約には後払い利子もないため、インフレが進むアメリカにおいてはもらえる金額が目減りするデメリットしかない。たぶん以下のような事情なのだろう。
うんとこどっこいしょと生み出して、小さないのちを抱きしめて、毎日育てていく。
それって、どんな感じなんだろう。
すごく知ってみたい。大変なことはたくさんあるんだろうけど、どんな感じかなと、私は今日も空想する。
30代も半ばになって、「周りは独身だらけだから」と思っていた自分の周りもずいぶんと子どもを持っている人が増えた。
(それでも、まだまだ独身の友人がたくさんいるのだから“そりゃ少子化だわ”と思わずにはいられないけども)
大切な友人たちの子どもとくれば、それはもう、かわいらしい。
大体みんな私とも仲良くしてくれて、スクスク育って、とてもかわいい。
大変なことももちろんあるだろうが、友人たちが子育てをする姿を見て、自分も子どもがほしいなと思う。
私が今一緒に暮らしているパートナーの生殖機能は今のところ働いていない。
数年前に病気になって、その治療の影響でもう相手の生殖機能を取り戻すのはきっと難しいだろう。
もしかしたら機能が戻る場合もあるそうだけど、本人にもどうにもならないことをあまり強く言っても仕方ない。
そして、仮にその機能が取り戻せたとしても、今度は年齢的にこちらが妊娠しづらいリスクが上がる。
「ああ、このままいけば、もうきっと自分は子どもを産まずに一生を終わるのだろうな」と思うことが増えた。
10代の頃は、結婚して子どもを産むのが当たり前にある未来だと思っていた。
20代の頃は、「それでも、なんだかんだいいなが産むんだろうな」と思っていた。
30代に入って、「あれ、恋人できなさすぎて結婚とかしないのかもしれない」と思うようになった。
でもすぐに「まあいいや、一人でも十分楽しいし、独身を謳歌しよう」と開き直っていた。
そして、今の恋人と出会って、何故だかすぐに「私はこの人と結婚をするかもしれない!」「この人との子どもがほしい!」と思えた。
でもすぐに病気になちゃって、びっくりした。
闘病中に一度、お金がなくて図書館に行って、「名前事典」を見て子どもの名前をふたりで考えたりなんかして。すごく楽しかった。
恋人が昔から自分の子どもにつけたいと思っていた名前を私が気に入らないから、折衷案はどのあたりかを見に行ったのだ。
「この名前がいい」「その名前はイマイチ」「これならどうだ」と、ほとんど全部のページを見ながら言い合って、
最後に恋人が「名前は何とかなりそうだな!」と言っていたのをよく覚えている。
治療が終わった恋人の生殖機能の有無をチェックする日、「大丈夫だったらもうその日にプロポーズして子作りだ!」と思っていた。
でも、なかった。
恋人は、ものすごく落ち込んでいた。病気がわかったときよりも落ち込んでいたと思う。プロポーズどころではない。
恋人と出会えたことで「この人との子どもがほしい!」と思えたのに、それを彼と叶えることは現時点で非常に難しい。
もし子どもがいたら、どんな感じかなあ。
大変だろうなあ。それはそれは、しんどいだろうなあ。
私はピルを飲むほど生理痛がキツくてホルモンバランスの状態も悪いから、きっと妊娠中のつわりとかもひどいと思う。
それでも、それでも、お腹の中で子どもを育てて、ふんばってポンッと産んで、あくせくしながら大きくなる様子を見ていたい。
それって、どんな感じなんだろうなあ。
もし彼と、想像よりも遥かに早い別れがきたとしても、子どもと一緒に彼の思い出を語り合えたら。
それはきっと、さみしいよりも嬉しいが勝るのだろうな。
と書くと「え、見たくない権利じゃないの?」と思うかもしれないが実は違う。公然わいせつ罪の保護法益も現時点では”最低限の性道徳”であるとされている。
だから公然わいせつ罪が成立するのは露出狂などに限らない。現在では、『ストリップで性器が見えた』『乱交パーティーの参加者を不特定多数相手に募集して開催した』『キャンプ場を貸し切ってAVを撮影した』なども公然わいせつ罪となり得る。最後は不起訴になったようだが。
それは法律としていかがなものか、ということで保護法益を”見たくない権利”にするべきという主張もある。
だが、”見たくないようなわいせつな行為”をどのような基準で設定するべきなのかという議論は残る。候補は3つほど考えられる。
要は『見て不快になった人がいたらアウト』である。この基準で行けば見た人の『見たくない権利』は完全に守られる。
一方で、駅前でカップルがキスをしているところを、たまたま「キスであってもわいせつな行為であるとして不快になる」という性嫌悪の人が目撃して訴えたら罪になることが妥当なのか、という問題は残る。
『事情がない限り(※←追い剥ぎに服を全部奪われたなどは仕方ない)○○が見えたらアウト』のように客観的に設定する。
このようにすれば、「私は性嫌悪で、キスシーンを見ただけでもわいせつな行為であるとして不快になる。にも関わらず駅前でカップルがキスをしているところを目撃して不快になった」などは罪にならない。
だが逆に、「○○氏はキスシーンを見ただけでも不快になる性嫌悪である。そいつへの嫌がらせとして、目の前で彼女とキスすることを繰り返してやりました」も罪にならない。それは妥当であるかという問題は残る。
ちなみに強盗罪の基準はこれに近く、強盗罪が成立するための暴力は『相手の反抗しようという気持ちを押さえつける程度』が基準となる。
原則としては客観で判断するが、『相手が特に弱気であることを分かった上で』の抑えめの暴力の場合は成立することがある。
公然わいせつの”見たくない権利”にも似たような基準として、『原則としては○○が見えたらアウト。ただし、相手が特に性に潔癖だったりすることを承知の上で行う場合はその限りではない』とする。上記の1と2の折衷案である。
ただしこの場合、「○○氏はキスシーンを見ただけでも不快になる性嫌悪である。そいつへの嫌がらせとして、目の前で彼女とキスすることを繰り返してやりました」は確かに罪になるかもしれないが、同様に
「杉田水脈の『同性愛は生産性がない』発言への抗議として、同性愛者が集まって杉田水脈の前でキスして見せました」を杉田水脈が公然わいせつと訴えた場合は罪にしなければならなくなるかもしれない。それは妥当であるか。あるい「ある程度主観的な要素も認める」の範囲にキスは含めないことにするのか。
この度、岩波文庫からアリエル・ドルフマン(昔は、英語風にドーフマン表記だった)の戯曲作品『死と乙女』が刊行された。90年代に一度、英語版から日本語に翻訳されたものが劇書房から刊行されたが、その後は長く絶版品切状態だった作品である。
「過去に読んだが岩波文庫から復刊したことは知らなかった」という人は、書店に急いで欲しい。
読んだことの無い人も、やはり書店に急いで欲しい。
もしかしたら、作品を読んだことは無くても、朴璐美や真木よう子などが主演した舞台を、日本国内で観たという人もいるかも知れない。または、ポランスキーによる映画作品を観た人もいるかもしれない。
ちなみに、これを書いている増田は、ど田舎生活の低所得者なので、演劇文化とは縁が無いことから、舞台を観たことはない。
今回の岩波文庫版は、著者の母語であるスペイン語で書かれたバージョンからの翻訳となる。翻訳者による詳細な解説があるので、作品執筆の背景となった70〜90年代のチリ内外の政治事情を知ることも出来ることから、一読者として有り難い。
これを目にしている貴方が、書店に赴いて『死と乙女』を入手して読んでくれるならば、もう以下の駄文を読む必要は無い。
この増田が読むことを勧めている『死と乙女』とは、どのような作品なのか、読んだことは無いが少しだけ興味が有るという人に向けて、以下を記す。
ただし『死と乙女』の結末に触れる部分があるので、未読で結末は自分で知りたいという人は、ここで一旦、この駄文を読むのをストップしてもらいたい。
また、直接的ではないものの、性暴力に言及する箇所もあるので、精神的な苦痛を喚び起こされる虞がある人は、ここで読むことを止めてもらいたい。
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1970年、南米チリで、サルバドール・アジェンデを大統領とする政権が誕生した。俗に、史上初の民主主義選挙により誕生した社会主義政権とされる。
しかし、アジェンデ政権を皮切りに中南米地域で社会主義国がドミノ倒し的に増加することを怖れた米国ニクソン政権は、チリへの介入を決定する。かくして、米国の後ろ楯を得たピノチェトが起こした軍事クーデターによって、チリは独裁国家となる。
この独裁政権時代のチリでは、多くのチリ国民が政治犯として弾圧され、不当な身柄拘束、拷問、虐殺の対象となっている。
チリ国外に亡命した人間もいる(亡命はしたもののチリ国外で暗殺されたという人間もいる)。映画『イル・ポスティーノ』の主人公の詩人も、そのような逃亡者であったことを、記憶している人もいるかもしれない。或いはまた、ヨーロッパに亡命していたチリの映画監督ミゲル・リティンが、ピノチェト支配下のチリへ潜入して取材する姿を、コロンビア出身ノーベル文学賞受賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスがルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』(邦訳は岩波新書)として著したので、それを読んだ人もいるかもしれない。
本作『死と乙女』の著者アリエル・ドルフマンも、チリ国外に亡命した人間の一人である。
そして『死と乙女』の主人公パウリナ・サラスもまた、ピノチェト政権下で筆舌に尽くし難い苦痛を味わい、生還したチリ国民の一人である。
パウリナの夫ヘラルド・エスコバルは、ピノチェト政権下で、弾圧されている人々をチリ国外に亡命させる手助けをしていた。そのためにヘラルドは、ピノチェト政権当局から弾圧の対象とされた。
しかし、ヘラルドが当局の手を脱して逃亡したので、彼の居場所を吐かせるために秘密警察は、彼の妻であるパウリナの身柄を拘束し、彼女を拷問した。その時、拷問者は、目隠しされたパウリナをレイプしながら、シューベルト作品『死と乙女』をBGMに流したのである。
時が流れて90年代に入ると、チリは民主主義国家へと移行する。ヘラルドが逃亡する必要も、パウリナが夫の隠れ場所を吐かずに耐える必要も無くなり、二人は夫婦として、堂々と暮らせるようになった。しかし、パウリナの心には、拷問による拭いきれない大きな傷が残り、それが二人の暮らしに暗い影を落とし続けていた。
民主主義政権となったチリ政府は、ピノチェト独裁時代に行われた弾圧について、調査究明を行なうと国民に約束し、そのための調査委員会を任命する。今やパウリナの夫ヘラルドは、その調査委員会のメンバーの一人である。これが、物語の開始の時点で、主人公の置かれた状況である。
物語の冒頭、或る晩、ヘラルドは、パウリナの待つ自宅へと自動車で帰る途中、タイヤのパンクにより立往生していたところを、通りがかった医師ロベルト・ミランダに助けられる。ロベルト・ミランダの車で自宅に送り届けられたヘラルドは、夜も遅いし助けてくれたお礼にと言って、ロベルトに自宅へ泊まっていくことを勧める。
結局ロベルト・ミランダはヘラルドの申し出に甘えることにし、ヘラルドが寝室に居るパウリナに声を掛けて、彼女にも客人を泊まらせることを了承させる。
翌朝。
ロベルト・ミランダは、椅子に縛られている。パウリナが、彼にリボルバー拳銃を突き付けている。
それを見て驚く夫ヘラルドと、狼狽する医師ロベルト・ミランダに対して、主人公パウリナは告げる。
「昨夜、この男の声を聴いて気づいた。この男、ロベルト・ミランダこそが『死と乙女』をBGMとして流しながら、あたしを拷問し、レイプした人間だ」と。
ロベルト・ミランダに拳銃を突き付けて「洗い浚い罪を吐かせる」と主張する主人公パウリナに対して、夫ヘラルドは思い止まるように説得する。
チリがピノチェト独裁体制を脱して民主主義国家となったとはいえ、いまだピノチェトを支持するチリ国民も決して少ないとは言えない(現実世界の2023年現在でも、ピノチェト支持者が残っているのだから、民主政権に移行したばかりの90年代前半を時代設定としている物語の中では、尚更である)。独裁政権時代の弾圧活動に関与した人間たちの全てを、罪に問うて処罰しようとしたならば、親ピノチェト派の有権者からの反発を招き、まだ体制も盤石とは言い難い民主主義政権が倒れることになりかねない。最悪の場合、内戦が勃発して、更に血で血を洗う国民同士の殺し合いともなりかねない。
そのため、現実世界のチリで行われた調査も、調査対象事件を「被害者が殺害されたという重大なケース」に限定し、尚且つ、真実を綿密に明らかにした調査報告書を作成する代わりに、弾圧関与者の氏名公表や厳しい処罰を免除するという、謂わば折衷案の形をとらざるを得なかった。
処罰を免除するという条件を餌にした、一種の司法取引によって、ピノチェト独裁政権時代の弾圧に関与した人間に、己の罪を自発的に告白するように促したとも言える。
しかし、もしも調査委員の一人であるヘラルドの妻パウリナが、ロベルト・ミランダを殺害してしまったとしたら、いや、殺害せずとも、拳銃を突き付けてロベルト・ミランダに自白を強要したことが世間に知られたならば。
民主化した政権も、真相究明も、全てが水泡に帰すことになりかねない。
パウリナは、ロベルト・ミランダの命までは取らないことを条件にして、今ここにいるパウリナ、ヘラルド、ロベルト・ミランダの三人で"裁判"を行なうことを強引に承諾させる。かくして、現実のチリで行われた真相究明の動きを追体験するような、緊迫の一夜が、舞台上で演じられることとなる。
以下では、物語の結末に触れているので、未読の人は一旦ここで増田の駄文を読むのを切り上げて、まず『死と乙女』を読んでもらいたい。
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ロベルト・ミランダに罪を告白させること(供述をテープレコーダーに録音した上で、ロベルト自身の手で文字起こしの原稿を書かせ、さらに「自発的に真実を語った」と宣誓する署名までさせること)が出来たミランダは、ロベルトを監禁する前に家から離れた場所へ移動させておいた彼の車を、返すために取りに行くようにと夫ヘラルドに頼む。
そして夫ヘラルドが家を出て二人きりになると、パウリナはロベルト・ミランダに銃口を向け直す。
「真実を告白すれば命を助けると言ったのに、約束が違う!」と抗議するロベルト・ミランダに、銃口を向けるパウリナ。
パウリナは、ロベルト・ミランダの語りを聞いて、心の底からの反省や悔悛が彼には見られないと判断したのだ。
ここで演出として、舞台には幕が降り始め、パウリナとロベルト・ミランダの姿を隠すとともに、その幕は鏡となっており、演劇『死と乙女』を観ている観客たち自身を映し出す手筈になっている。
再び幕が上がると、物語のラスト場面であり、パウリナとヘラルドは、二人で連れ立って、音楽演奏会に出掛けている。演奏の休憩時間では、他の観客と、調査委員会による調査の成果について、夫ヘラルドは語り合っている。
休憩が終わり、演奏が再開される。
すると、その演奏会の会場にロベルト・ミランダが入って来て、主人公夫婦から離れた、ずっと後方の客席に彼は座る。
夫ヘラルドは気づいていないが、パウリナはロベルト・ミランダの存在に気づいて、しばし後ろを振り返り、ロベルト・ミランダを見る。ロベルト・ミランダは、何も言葉を発すること無く、ただ、主人公パウリナに視線を向け続ける。やがてパウリナも、ロベルト・ミランダからは視線を外し、前方(演奏会の舞台があると設定されている方向)を向いて、物語は終わる。
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この増田は、殺したと考えている。(続く)
そういう場合、本当に「相手を自分と同じ人間だと思って尊重しろ」と思ってる奴なら
これが相手の自分と同じ人間に対する尊重なんだなと、相手の意思を尊重するはずなのに
尊重されてないと怒り出したりする。
具体的に何かをしてくださいと相手に頼むのが失礼だという考えが根底にある。
その結果が京都人みたいな「そんなことも言わなきゃわからないんどすか?」みたいな態度になるほうが
よっぽど失礼じゃないかと思う。
相手を自分と同じ人間だと思うという行為は、相手が自分と同じ考えであれという強制であって
「相手は自分と同じ人間なんだから自分が望むことをしてくれるはずだ」という期待感の表れに過ぎない。
ないだろ、こんなもん。
具体的に「私はあなたにこれを希望しているのでこうしてください」とお互いに条件を出し合って
30代後半、妻、一児あり。
ただ、俺は家を買いたくない。
ご近所リスク、手抜き工事リスク、ローンが払えなくなるリスク。
一方、妻は何が何でも家を買いたいらしい。
妻の言い分としては、
ということらしい。
まぁ、言っていることはわかるけど、個人的にはそれでもリスクがでかすぎると、と思う。
ローン額の目安は4000万。
(もしくは、家を買う派として俺を説得してくれてもいい。俺が納得して家を買う気になればそれはそれで解決)
ちなみに、折衷案として中古で安い家を買う(ローン額を下げることによるリスクヘッジ)という提案もしたが、
【追記】
Gondwana せめて頭金に使える今の預貯金額くらい書いてくれないと何とも言えないなあ。あとは実家義実家からの援助の有無とか(これが意外と助けてもらってる人って多いんだよ)
一応、預貯金は600万くらいあるけど頭金はなしでもいいって本で読んだから買うとしても全額ローンで買える範囲にしようと思ってた。雑費もかかるし。
あと、関東近郊で土地込み4000万なんて買えるの??って意見があまりにも多いので、簡単に検索してみたが→https://www.homes.co.jp/kodate/shinchiku/saitama/list/
埼玉、新築戸建て、3LDK以上、駅徒歩20以内で3,228件出てきた。まぁ埼玉全域なので秩父とかも入ってるかもしれんけど。