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2024-11-19

親を救いようがない

現状を投下するので気兼ねなくコメント欲しい

登場人物

筆者(28歳女、会社員

母(パート主婦

妹(パン職)

父(故人)

彼氏(筆者の恋人最近久しぶりにできた)

【要旨】

母を毒親とは決して思わないが、母を尊重すると自分幸せが低減するのではないか?と現況を振り返ると思うのだがどうか。なお、老いる母より当然自分の方が大切である承知しており、行動への移し方を模索するもの

最近のあらすじ】

父は3年前に、2ヶ月でコロっと病死。当時4年間一人暮らしをしていた筆者は実家に帰り(首都圏仕事は全く同じもの継続できた。幸運)、まだ学生だった妹と母を扶養に入れた。保険金だの色々あって、筆者本人の生活苦はなし。母も得た資産を切り崩しながら生活

翌年春妹が就職し、扶養から離脱(そのまま同居)。

母は傷心や手続等の煩雑からしばし無職

今年本格的にパート再開。筆者は家事ほぼゼロで、母に多分に世話になっている。

【発生した問題点

登場人物紹介で大体察しつくと思うが)母が筆者の彼氏との恋愛に反対する。批判嫌悪、怒り、悲しみ、自棄、脅迫がみられる。

批判

近場の男とつきあうのは短絡的(同級生

年収が低い(筆者比)

嫌悪

気持ち悪い、セックスするんだ

筆者の容姿性格面、経験から恋愛するに妥当でない(妹はOKらしい)

自棄

死んじゃおうかな

脅迫

家を売るから

ペットに会わせないか

家事は一切やらない

情緒面などの諸情報

夫婦関係はここ10年は悪く、母は金銭苦をいなしつつ、無私の愛を注ぎ子育てをしてくれたと思う。(自分のための買い物、おでかけ、30年殆ど皆無。寿退社し父の仕事手伝いかパートのみ。)

はいい所もあり、残された家族理解するところだが、性格は難ありと言わざるを得なかった。晩年は減ったがよくどなる、無計画な消費(母の貯金を使うなど)

それに、死んでから浮気をしていたことが携帯からわかった。母と筆者だけの秘密とし、母は妹にはとても言えないとのことだった。(何となく伝わる所はあると思う)

母は文句を言いながらも40年一緒にいた父との突然の死別と、彼の裏切りどちらにも耐え難いショックを受けた。特に通院、服薬はなし。

妹は四大を出て知能は正常だが、自己愛ぽい所がありたまの激情で手をつけられないことがある。家電を壊したり、母を殴ったことがある。彼氏ができ、社会人になってかなり落ち着いてきた。近々遠方の彼氏と添い遂げるのだろうと思う。給料安い。

筆者の性格は細かくは文章から読み取ってもらうほかなし。ハイパー自己なのは確実。倫理観も少し怪しい

父のようになるまい、と思い自営ではなく頑なにサラリーマンに拘ったりした。でも、最近一部似てきているらしい。あるある

非常に楽だけど、生理不順が凄いなと思いある時婦人科に行ったら「血液検査結果が排卵してると思えない」と言われた。無排卵不妊なのかもだが、通院はロクに続かなかった。元よりてんで子を成す願望がなく、不妊の身を悲劇と思うこともできない程。調べて調べてできるなら治療して、子供を産みたいなんて欠片も思わない。(母の子育てが辛そうだったから筆者に影響した、のは理由の半分位になりそう)

ということで、年齢を理由結婚を急ぐこともないのだ。それでも、共に生きるパートナーってのを作ってみたいのだ

母の名義になった土地と家は、父の思い出が詰まっているし、家としても魅力的。金融資産は妹に、処分のこと含め家は筆者が請け負いたい!と話すこともある。

彼氏10年超のつきあい恋人になったのは最近。筆者の血族とは無縁の軟派な性格だが、尽くすタイプ上記諸々の筆者自身の難点は許容。今は控えめだが理系国立院卒会社員のどこにケチをつけようというのか?

母について細かくは打ち明けず。筆者の話術で、彼氏のことはいくらでも筆者の味方にできてしまいそうだから。親との同居はどっちのとも絶対しない。

【筆者の個人的分析

もとより母は子供との自他境界に少し難点があったと考えている。母の無私の半生や失われたキャリアを思えば、それなりの学歴職業を得ていく筆者のストーリー移入するのは異様なことではないはずだ。個別エピソード卑近のため割愛するが、親と距離を取るのが仲良しのコツと思って実家を出て、結果そうだったので、同居が軋みの理由として大きいのはわかっている。

よくネットで見る記事のように、無意識に娘を蹴落とすだの、不幸になるように誘導するだのは全くなかった。筆者の恋愛を機に「明らかにおかしいな」という発言が増え、筆者としても耐え難い状況となった。

これは筆者が娘から他人の女となり、自分のもとから金銭的にも精神的にも離れようとする娘、という構図に耐えられないからではないか?娘には未来があるが、自分にはない。娘はどうやら愛されようとしているようだが、自分は金輪際得られない。

この辺りが標題で「救えない」と思うに至ったもの。死人に挽回余地はないし、大人ましてや老齢になって性格が変わることもないだろうし、パート主婦に一軒家を維持するのは10単位では難しい。筆者の扶養や援助なしでは。友人関係もかなりシュリンクしてしまっている。

母の母、祖母看護師でよく外で働き、家事は疎かなタイプだったそうだ。筆者にも母にも一部愛着問題がある気もする。素人見解

【直近、今後の展望

2ヶ月程前に筆者が一度爆発。前から逐次進展を仄めかす度に反対されていた彼氏交際開始を告げた瞬間「出てって」と言われたため。父譲りの爆発的な行動力賃貸内見を即時予約し「出ていく」と宣言して荷物まとめを開始した所、「お願いだからすぐに出ていくのはやめて」「元の生活、接し方に戻すから」と態度を一変させ、沈静化。

しばらくしてまた上述の嫌悪批判が復活してきて、どうしたもんかと思い筆をとった。

「私とママは別の人間」「私は自分幸せを取るから」「自他境界おかしい」直接遠慮なしに言葉をぶつけもした。言いたいことはどんなに相手を傷つけるっぽいことでも言えるし、やれてしまいそうなのだが、どうやら良心か打算か、筆者が今涙でベチャ濡れでこの文を打っているように、ひとに吐露したいものがあるのだ。かしこぶってとんだ悪文で申し訳ない。

父が死んで途方にくれる母と妹とペットを、たしかにあの時は守りたいと思って実家に帰ったはずで、母が憎いとか愚かだと思う反面、哀れだ、大切だ、できることはしたいと思う気持ちもある。でもそれは、今家事をやってもらったり、母が「便利だから」そう思っているだけだったとしたら?

母や家を捨てて(あきらめて)新生活スタートさせたとして、最初は悲しいけどコロっと切り替えられるかもしれないし、20年とか経って取り返しがつかなくて泣くかもしれない。

最初に書いた登場人物、全員が、うまい具合にいく方法が、あるって信じたい。円満にことが進めば家を出た後も親に仕送りしたいし。実家の近くに住むし。

マジで何で死んだんだ親父は。普通にクソ野郎だったのに死んで幾分か美化されて英雄になった。気持ちが切れそうで、この2年ずっと仏壇の前にあまり立てない。

今日もできるだけ未来の話はしないようにして、朝と晩に母に世話してもらって、仕事に出かけている。

2024-11-17

anond:20241117134744

要約

主人公お見合い結婚で元夫と結ばれるが、元夫が性行為に未熟で夫婦関係はうまくいかず、行為が成立しないことを主人公のせいにされる。義家族からの孫プレッシャーや、義祖母との「嫁の畑が悪い」という発言を機に、元夫は横柄になり、主人公に非現実的要求を突きつける。限界を迎えた主人公離婚を決意し、Xデー計画通り離婚を実現。

その後、優しい新しいパートナー再婚し、子どもを授かり幸せな家庭を築く。「畑が悪い」と責められた過去皮肉を込めて振り返り、辛い結婚生活を乗り越えた自身の成長を示している。

嫁の畑が悪いから。

「嫁の畑が悪いから。」

初めて言われた時の衝撃が忘れられない。

私が結婚した年

義妹が妊娠した。(結婚は1年前程)

家族初孫に大層喜んでいた。

義母「次は私さんね!」

義父「楽しみだなぁ。」

元夫「子ども早く欲しいなぁ。」

私「ですね〜。」

私(は?元夫との行為今まで1度も成功してないのに何を言ってるんだろ…)

私はこの時点で子どもは既に諦めていた。

だって行為が成立しないんだもの

お見合い結婚の私達。

勿論行為結婚後。元夫経験ナシ。

とは言えどできるでしょって思ってた。

できなかった。まじか…

とりあえず持続できない。

最後までできない。

もどかしさで不機嫌になり、私にあたる。

私がしたいと思わない。負のループである

週1で義務のように言われ、

その時間地獄のようだった。

だって終わったら叱られるから

そして、勿論できない繰り返しである

生理は叱られるけど誘われないか

身体キツイけど安らぎの1週間だった。

まず、射●した事あるのか疑問だった。

(ここまでできないと。)

やんわり聞いてみると1人でした事ないと。

そんなの嘘だと思ってた。

でも本当らしくて衝撃だった。

そういう病気かと思って病院勧めたら

「俺は病気じゃない!」と

キッチンタオル(筒)が飛んできた。

放っておこう。

週末、テーブル精神病院パンフレット

メモが置いてあった。

旦那様を病気扱いにする前に、早く妊娠できるように努力すべし。精神的に追い詰められてるなら入院検討。」

放っておこう。

約1年が過ぎた頃、

元夫「養子を取るか。」

私「そんな簡単じゃないよ?」

元夫「施設可愛い赤ちゃん貰ってこい」

私「いやだから色々審査受けたり手続き云々」

元夫「両親には施設は伏せとけ」

私「お腹ぺたんこのままいきなり赤ちゃん来ないから」

元夫「風船かボール入れとけば」

放っておこう。

いよいよおかしくなっているんだろうなと思っていた。

相変わらず行為は成立しない。

養子発言の原因がわかった。

元夫、義家族大好きで2週間に1度実家に泊まり帰る。

私は実家半年に1回帰るくらいだったかな。

当時車で高速2時間半の距離だった

義妹第二子ご懐妊。

その時に元夫と祖母の会話が

祖母「元夫のひ孫はいつぐらい?」

元夫「俺は考えてるんだけどね」

祖母「嫁がなっとらんのか」

元夫「嫁がね。俺は頑張ってる」

祖母「嫁は健康なんか」

元夫「嫁の畑が悪いからかもしれない。」

祖母離婚視野に入れとけ」

って話を元夫から聞かされた。←!?

元夫「祖母と盛り上がったんだよ〜。嫁の畑が悪いからって笑」

笑顔で私に言いやがった。

その日のうちにひとり暮らし物件見始め、

会社パートからフルタイム打診。

Xデーに備え始めた。

祖母から離婚視野を言われ

一家家長である元夫は急に横柄になり

何かと突っかかり喧嘩が増えた。

まり文句がある「これは離婚しかいね。」

Xデーにはまだ準備不足の為、

私は黙るしかなかった。

元夫は決まり文句で私を押さえつけて

離婚届をひらひらと私にちらつかせた。

私は静かに耐えた。

Xデー2週間前くらいに

随分態度もでかくなり王様みたいに

ふんぞり返っていた元夫と喧嘩になった。

しょうもない喧嘩である

菓子パン大好き元夫。菓子パン食べすぎて

夕食いらないという。

私「なら明日に回していい?」元夫「いいよ。」

翌日夜、元夫「旦那様に前日の残り物出すなんて!」私「昨日いいって…」元夫「言ってない!」

(数カ月前から敷地内同居の実家に逃げその日帰ってこず。)

翌日朝、元夫のメモ【別居しまーす!家賃○万払ってください!半年以内に出産しないと離婚です!】

勿論妊娠などしていない。

Xデーはもうすぐ。

その日の夜ニヤニヤしながら帰ってきた。

元夫「読んだ?」

私「家賃とか出産がよくわかんない。」

元夫「そのままだよ!!相変わらず頭悪いな。半年経ったら離婚からな。俺は半年待ってやる優しい旦那様だからな。」

半年もいらないよ、Xデーは2日後。

2日後、離婚の意を伝え

元夫の答えはNO。

ロミオ化し泣き顔を晒し

凄く長文の手紙メールやら貰いましたが

元夫の望み叶えたんだよ?

元夫から手紙

【君が作った温かい食事が食べたい。君が待つ家に帰りたい。もう一度心を入れ替えるからやり直すチャンスをくれないか。2週間で君の理想旦那様になるよ。】

菓子パン温かくないしなぁ

あとなんで上から目線なんだろう。

放っておこう。

拝啓 元夫様へ

離婚して数年後、とても優しい方との間に

とても可愛い赤ちゃん誕生しました。

元嫁の畑悪くなかったみたいです。 敬具

幼少期に形成される身内との信頼関係

あんまり覚えてないんだけど、俺は幼年期に同居してる父方の祖母によく外に連れてって貰い、都内のあちこちに連れて行って貰っていたらしい。

年子の弟もいたので、嫁の負担を減らしてあげる心算もあったのだろう。

俺が一つ覚えているのは、祖母電車に乗って出かけ改札を出かけた時の事だ。祖母が一人で先に改札を抜けてスタスタと先に行ってしまった事があった。「おばあちゃん!」と呼びかけても振り向きもせず、切符概念も把握も改札のシステムもわからない俺はどうすればいいかからなかったので、そのまま改札を突っ切り祖母に追いついた。

他にもあちこち連れて行って貰った記憶はあるが、楽しかった記憶というのは正直あまりない。辛かったのか、行きたくなかったのかもよく覚えてない。

俺は愛想だけは良かったので、あちこち祖母について行くお婆ちゃん好きなおばあちゃんっ子だと言われていたので「俺はおばあちゃん好きなおばあちゃん子なのか〜」と当時は刷り込まれていたが、気づいた時には祖母のことはどちらかと言えば好きではなかった。同居家族としての割切りと諦念があった。こういう事を言うのもあれだが、正直に言って尊敬できる所を探すほうが難しかった。俺が歳を重ね、比較対象となる大人が増えていく度に、祖母デリカシーの無さや常識の無さ、相手気持ちに立って考える事が出来ない思慮の無さや軽薄さ、衝動で動く計画性の無さ、被害妄想に由来する攻撃性の高さ、感情の起伏の激しさなどが浮き彫りになって行き、悪い所ばかり目につくようになった。

俺は母方の祖母が寡黙で勤勉で優しくて好きだったし、母方の祖父は村一番の頑固者で難しい人だったが尊敬できる所もちゃんとあった。父方の祖母が好きではなくなったのはいからなんだろう。小さい頃はよく出かけてたよな……とぼんやりと思うことはあったが、正直どうでも良かったのであんまり考えた事も無かった。

そんな祖母ボケだした。実の親なのにノータッチな父(休みの日は酒のんでヤニ食って寝てるだけなので祖母からの呼びかけもガン無視、家のことは何一つやらない)と、ボケは甘えだと思ってる弟(祖母の呼びかけに対しても「なにいってんのかわけわかんねえよ」と足蹴にし、家のことは何一つやらない)は我関せず。母はパートをしながらわけのわからんことを言い続ける祖母の世話をしていて顔色を一つ変えず明るく振る舞っていたが、俺はこのままでは母が潰れると思い、実家に戻って祖母の世話の手伝いをする事にした。祖母は要介護1になっていた。「実母の世話もしない旦那なんて見切りつけてさっさと離婚しても誰も文句言わんよ。カフカの変身みたいにお母さんが居なくなったら残された家族がしっかりしだすかもよ」なんて言いながら、母の溜まりに溜まった愚痴を聞いていた。

そんな中で、母から俺が子供の頃に祖母に外につれてかれていた話を聞かされた。

祖母は俺を人混みに連れて行って、俺を撒いて泣きながら祖母を探す俺を隠れて見る趣味があったらしい。泣きながら「おばあちゃんどこ」と探し回る俺が可愛くてしょうがなかったらしい。母がそれを知った経緯は、父と母と俺の三人で出かけた時に、父が母を連れて俺を撒いて泣いて親を探す光景を母に見せたことがあったそうだ。母は大激怒したらしい。後に祖母も全く同じ事をしていたと知って唖然としたそうだ。

俺はその話を聞いて、改札で俺を置いて先に行く祖母記憶が、今までの曖昧感覚が、全てが繋がった気がした。そうか、俺はどこかのタイミング祖母が嫌いになったんじゃなくて、もともと祖母が好きじゃなかったのか。おばあちゃん子という刷り込みが、小さい頃あちこち出かけていたおぼろげな記憶が、俺の判断を鈍らせていた。なんなら父への不信感や信頼が皆無な事までも繋がった。

心理学用語に「安全基地」という概念がなんか書いてて面倒くさくなってきた。

[] あるGW出来事

突風が吹いている日だった

母、叔母、妹、私が車に乗ると、叔母の様子がおかしかった

叔母は「ここは強者のみが勝ち残れる」「これ以上先に行ったらアウト」などと運転しながら発狂していた

墓地につくと、祖父の墓にお参りをしようとするのだが、恐怖を感じるほどの突風であった

祖母は「そうだ、あんた、線香に手をかざしなよ」といった

私はそのとおりにすると、突風が一瞬で収まった

私が振り返り、「手をかざしたら突風が収まったよ」というと、叔母は「それはあんたがdrftgyjだからだ!」と怒りの形相だった

また突風が吹き始めた

私は「わかったよ」といい、再び線香の火に手をかざした、突風は収まった

家に帰ると、妹と母が意味不明発狂していたので、私は警察電話した

すみません事件です。母と妹の様子がおかしいんです。外に行って帰ってくると、異常な発狂をしているんです」

警察は言った「実は今、壮絶な情報戦が繰り広げられているんです。あなた名前は?」

私は名前を言った。警察はその後「はい、とめまーす!」と意味のわからない号令をした

2024-11-15

転職が決まって心の整理をした


当方、齢37である。来月末に引っ越しをする。大学卒業から約15年、暮らしてきた実家近くのアパートを離れるのである

社会人としての稼ぎが少なすぎて、実家の手を借りなければ生きられない。よくメシを食べに行っていた。情けない社会人だった。それは結婚しても変わらなかった……幸い、子どもはいない。

妻は、いいやつだ。こんな貧乏暮らし人間結婚してくれた。見栄っ張りなのが玉にキズである。親戚や近所同士の集まりでも、コモンカード(MTGで言うと「モグ狂信者」 わかったぞ! わかったぞ! わか……)に等しい私を、高年収正規サラリマンとして紹介することがあった。

よくできた妻だと思う。私にはもったいないくらいの。悪態をつくことはあるけど、裏切ったりしない。近所の実家にお米や野菜たかりに行く時も、一緒に付いてきてくれた。

もし、この世界エロ漫画世界で、あらくれ氏が描くみたいなオッサンに妻が寝取られしまったとしても、私は許すと思う。私に尽くしてくれる良妻である

かつては弱者だった。※弱者男性という言葉は嫌い

大学時代、ぜんぜんダメな子だった。偏差値50台の二流以下の大学で、学生時代アルバイトばかりやっており、部活サークルもせずにダラダラ過ごしていた。就職活動はひどいものだった。

「Fの就職チャンネル」で就活生の動画ex.大学4年の6月から就活始めたりする)をたまにやってると思うが、まさにあんな感じの、圧倒的ダメダメ就活生だった。

さて今回、引っ越しをするのは、晴れて正社員としての採用が決まったかである関西の南の方に住んでるのだが、隣県での採用が決まった。大まかな括りだと機械操作オペレータである年収+はなんと約200万円。

今まで、この田舎にある小さい製造会社毎日毎日機械仕様書図面と格闘してきた。25才の時、契約社員として雇ってもらった。それまでは近所にある町中華の店でアルバイトしていた。

正直キツかった。専門知識は一切ない私立文系人間であるマジで辛かったよ。しかも、小さい会社なのに出張であるんだからな……だがしかし、ついに培ってきたワザが評価されたのだ!!

今年の4月になってから(妻の強い勧めで)転職サイト登録してみたところ、私のワザというのは、意外と需要のあるスキルだったようである。(ビズリーーーーーーーーーーチッ!!)



そんなこんなで、この田舎最後に何をしようか思案していた。

したことは思いつかなかったが、とりあえずやってみたことを列挙する。

・少し高級な中華料理屋で暴飲暴食

・年に5~6回通っていた居酒屋で高級シャンパンを注文

・昔の思い出グッズを漁る(MTGカード進研ゼミ中学版、ガラケー写真など)

地元中学校での文化フェスティバルへの参加。中学生以来

地元小学校のサマフェスへの参加。高校生以来

地元神社奉納祭り役員への立候補。当日記を書き始めた頃に無事終了

あとは、里山登りかな。幼い頃、祖母に連れられてよく里山散歩をしていた。小高い山の頂上から見下ろす町並みは壮観だった。

なにぶん田舎なので、里山がたくさんある。グーグルマップで見てみると、東京の方でも端っこの方は青々とした山が広がっている。あん標高数百メートル以内の山を、ひたすらに登っていく。

自宅の裏から繋がる山道入口から始まって、よいしょよいしょっと里山を登っていく。私が子どもの頃は、近所の人はみんな林業してたから、開けた地形がけっこうあった。里山というよりは丘陵樹木が生えてる感じだった。

亡き祖父の話によると、戦時中はどの里山もはげ山状態だったらしい。戦争石油燃料が不足したため、国民単位でみんな柴刈りをやりまくったのだ。グーグルマップで言うと、あの青々とした山がほぼ肌色だったということだ。

昭和前半の空中写真を見たら一目瞭然

今は林業をする人はおらず、里山は荒れ放題であるてっぺんまで行っても町の景色など見えやしない。雑木の群れが頂上を覆い隠している。

樹木が生い茂ってないところだと、町の景色が見えたりする。山の標高は低いけど、限界効用が低いとでも言えばいいのか、珍しい景色なので壮観である。汗ダラダラで意識朦朧としてるのもある。脳がマヒしている。

景色の一例≫※いずれも里山。道なき道を進んでいく

https://tadaup.jp/15183559802496/

https://d.kuku.lu/83gjgt5fb



高校時代卒業アルバムも読んだっけ。柔道部に籍を置いていた。

高校卒業式の直後、部活メンバーみんなで柔道場でお祝いをするのだが――その時の写真が出てきた。

なんと、みんなからの寄せ書きも残っていた!! 超恥ずかしいけど公開してみよう。別にいいだろ。増田にこういう投稿するの、人生最初最後なんだからさ。



卒業記念色紙の部員コメント

部員一同)

同人誌コレクター増田さんへ

あなた変態っぷりにはほとほと呆れるばかりでした……

大学生になっても、変わらず変態でいてくださいね

自分リッツ第一志望です。京都まで遊びに行きます

増田さんは、□△高校相川さんがロリロリで好みなんですよね!!

相川さんを是非モノにしてください

応援しています

増田先輩の行動で一番驚いたのは、■▲高校藤田さんの写真をこっそり撮って、救急箱に貼っていたことです

閉会式の時、柔道着の藤田さんが目を閉じて、優勝旗に顔を傾けているやつです

自分もあれがほしいです。現像したの1枚余ってたらくだいね

とにかく3年間お疲れ様でした。先輩にはクソお世話になりました!!

本当にありがとうございました

増田先輩の柔道、粘り腰で凄かったです。どんな時でもあきらめずに、ベストを尽くしてました

冬の大会で4人抜かれてから5人抜きした時はマジでびっくりしました!

自分もああい柔道、できるようになりたいです

大学でも柔道続けるんですよね。心から応援してます

増田先輩の変態エクストリームハートには緊張させられっぱなしでした。

スーパーハードロリータ増田!!

スーパーハードロリータ増田!!

スーパーハードロリータ増田!!

早く警察に捕まってください!!笑

カノジョさんともお幸せに 愛のキューピッド藤本より

ロリータ戦士 増田さんへ

あなたロリータっぷりにはびっくりでした。

あなたのそのロリータ魂を受けつぐ戦士が欲しいです。

ぜっひ増田さんにはロリータ魂を忘れてほしくないです。

ファックfuck!!fuck!!fuck!! アダルト西村

増田先輩へ

よく型の練習付き合ってくれたの感謝してます

先輩がいたので、二段の試験合格できました

今でも感謝してます

大学でもがんばってくださいね

増田先輩

お疲れ様でした!!

自分一年なんで、あまり絡みなかったです!!

けど、引退した後もたくさん乱取り付き合ってくれて、たくさん寝技も教えてくれて、感謝してます

いままでありがとうございました♡

柔道部監督

増田君が入部してきた頃にはどうなることかと心配しました。ご卒業おめでとうございますキャプテンとしての重責、大変ご苦労様でした。柔の道は、将来どこかで役に立つ時がきます。力必達(※つとむればかならずたっす)。何事も最後まで諦めず努めてください

女子マネ

・先輩ご卒業おめでとうございます これからも頑張ってください

・3年間お疲れさまでした 面白い先輩でした笑

・これからも今までみたいに頑張ってください



これはひどいwwwwwwを地で行く内容である。こんなん、人に見せられるもんじゃねーだろ。

でも、いいよ。増田民へのサービスだ。いつもお世話になってるからな。



そんなこんなで先月に就職が決まってから、結局最後までできなかったことがある。大学時代の思い出の開封である

それ以外の思い出BOXはすぐに開封できた。実家にある元自分の部屋にある段ボール箱テープを、ビリッとやればそれでよかった。でも、大学時代は後味が悪すぎる。就職すらできずに、逃げるようにして卒業したんだから。正直、嫌な思い出であるトラウマと言っていい。

いや、大学卒業式は出席したのだ。謝恩会にも。問題は、マクドナルドでの思い出である

マクドアルバイトしてたんだけどさ、卒店式っていうのがある。文字どおり店舗から卒業である。毎年3月にある。

卒店式だけど、マクドナルドって経営店舗運営外資ルールからエリア内の店ごとに売上を競わせるんだよな。

それで、いい結果を出してる店舗だとそれなりの貸館施設で、いまいちな結果の店舗だと近所の公民館無料で借りて、ジュースお菓子テーブルに並べて卒店式をやる。

大学時代アルバイトをしてたマクドの店は、成績がいいところだった。京都にある四条河原町店という名門店舗である店舗番号は100番以内、つまりマクドナルド黎明期に作られたお店のひとつだ(今でもあるのかな)。

当時の私は就職活動に失敗して、無職neatでの卒業が決まって落ち込んでいた。

そんな時、自分ひとつ年下の後輩のスウィングマネージャー(※できるアルバイト社員仕事をする。時給+50円)から話があった。「増田さん今までお世話になりました。卒店式、ホテルグランヴィア京都でやりますからね。店長が、すげー男を見せてくれた(※足りない分は自腹切ったらしい)んすよ!! 自分増田先輩のために送辞読みます」とか言ってた。

でも、私は嬉しくなかった。就職活動に失敗してニート確定の自分が、そんな場で送辞を読まれたって嬉しくもなんともない。畜生というやつだ。

結局、卒店式には出ないって後輩君に伝えた。すごくガッカリしていたよ。だって、彼が初心者の頃、私がずっと付いて教えていた。彼が嫌なことあって、アルバイト中に不貞腐れてる時でも、構わずにとにかく、いろいろ教えていったよ。

の子は才能があるから、すぐにうまくなるだろうと思ったけど、やっぱりすぐに上手になった。

ただスキルがあるだけじゃなくて、なんというか、仕事本質がわかってるというか。能でいうところの上手(うわて)みたいな感じである世阿弥がさ、『風姿花伝』で伝えてるような、社会人技能について嵩があって丈もあって(※今でいうとT型人材)、本質的なことがわかってる子だった。

一度だけ、後輩君から催促を受けた。二度だったかもしれない。あの時のことは覚えてる。

あれは事務所だった。「卒店式出ましょうよ」というシンプルものだった。しかし私の答えは……。

「そんな気分じゃない。早く就職しないと。すぐにできないかもしれんが」と言ったら、「増田さん。AJCCで2回も勝ったじゃないですか!! 余裕っすよ」と言ってた。

AJCCマクドナルド技能大会。「2回勝った」とは、地区大会と府大会部門別優勝したの意。関西大会では、府大会と違うメンツオペレーションになったので、コミュ障だった私はボロボロの成績だった

その後の後輩君とのやり取りは覚えてない。最後の方だと「あのな、後輩君。どんだけ綺麗に、上手く、速く、素早く、ハンバーガー作れたってな。社会じゃ何の役にも立たねーんだよ!」と悪態をついた。

それで、後輩君は黙ってしまって、それ以来やつとは会話していない。最後の勤務日も、淡々仕事を終わらせて――いや違う、確か女性学生客がトイレゲロ吐いたんだっけ――それの片付けを夜に終えて、私にとってのマクドナルド終焉を迎えた。

帰りに、同じくマクドナルド河原町三条店(※こちらは関西最古の店舗らしい。今でもあるのかな)に寄って、チョコパイベーコンポテトパイを買って帰った。マックポークだったかもしれない。マックチキン……( ;∀;)

しんみりしてしまった。

学生時代の思い出を開封するのは心理的キツイ。けど、時間は限られている。いったん妻とこのアパートを出たら、帰ってくるのは十数年後になるかもしれない。妻はうちの実家嫌いなので……。

そんなのはちょっと想像したくなかった。というわけで、アパートの自室の押し入れを開けて、学生時代の禁断に近い思い出の段ボール箱開封した。

そしたら、いろんなものが出てきた。当時のガラケーとか、大学時代の成績表とか、学位記とか、マクドナルド辞めてから郵送で届いた卒店式の寄せ書きとか、昔の授業ノートとかだな。産業社会学部のゼミのみんなで撮った記念写真もあった。京都駅の近くで行われた社会科学の研究展示会で賞を取った時のやつだった。当時の日記も出てきた。

その日記最後の方だけパッと読んでたんだが、どうやら学生時代の私は卒業時に108万円の貯金があったらしい。なんでそんなにあったかというと、大学1回生の時からマクドナルドで週5で働き続けていたかである。いわゆる超修行をしていた。ここまで働いてると、身体が脳をハックするようになる。

……厨房の注文画面が「ピッ」と鳴ったら、考えるよりも前に身体ハンバーガーを作り始める。考えるんじゃなくて、調理行程を『感覚』が捉えるようになる。トングとか、ソースガンとか手に取るんだけど、なんかさ、感覚がさ、一体感がすごい。トングが身体の延長というか、もはやマクドナルドというお店自体が、自分と一つになってるような、そういう感じ。

例えば、トングを握ってパティ(肉)を掴んでる時って、体のどこがそれを認識してるのだろうか。

指先だと思うかもしれない。けど、その指を支えているのは筋肉組織と関節であり、それらをさらに骨組織が支えている。物質に触れている指先というのは、入口である

組織と言ったけど、トングでパティを掴んだ時の刺激って、関節の中を電気信号が走って、最後は脳に伝わる。ということは、刺激というのは、結局は指先じゃなくて『脳』が認識している。

でも、その刺激って指先が認識してると人は解釈することができるし、実際にしている。脳が認識してると捉えることもできるし、体の先っちょが認識してると捉えることもできる。

こういう解釈が成り立つということは、指先が触れてるトングそのものが、パティ感触認識してるってことにもならないだろうか。

剣道の達人だと、竹刀が体の一部みたいになっていたりする。サッカー選手だったらボールである。そうだ、ここでの私にとっての肉体の最延長は、指先じゃなくて、トングなのだ!!

もう少し延長すると、店舗で働いている自分というのは、床に立っている。呼吸をしている。ほかの従業員やお客さんの存在を感じ取っている。ということは、其処に存在している以上は、その床を、空気を、ほかの店舗スタッフを、お客さんを、なによりマクドナルド四条河原町店という、その存在が――私という人間の延長として考えることはできないだろうか。

実際、国際赤十字とか、国連とか、国際NPOとかで働いている人、それ以外にも人類福祉のための活動してる人って、地球とか、人類社会のもの自分の延長として捉えてるんじゃないか? そう感じざるを得ないようなニュースがたまに飛び込んできたりする。



それはさておき。108万円の貯金、結局どうしたんだっけ。

あー、そうだ。グータラだった自分は、フリーター生活とともに2年もしないうちに霧消したんだった。でも、あのお金があってよかった。あれがなければ、秋から始まる奨学金の返済に対応できなかった。

あの頃(23~25才)の私は、アルバイトではダメだと、奨学金の返済に耐えられるだけの仕事を探して、探して、探しまくって、ようやくたどり着いたのが今勤めている金型の製造工場だった。

始めは出荷場での勤務だったけど、オペレータ給料が高いというので転属を申し出たのだ。これらは当時の日記を読み返して初めてわかった。案外、人は記憶改ざんするものである

ちなみに、まだ奨学金を返済できていない。普通社会人だったら、繰り上げで30前半くらいには全額返済できていると思われる。今はその程度の稼ぐ力すらないけど、これから妻と一緒に創り上げていきたい。

長くなったけど、これでひと段落ついた。終わりである

長文読んでくれてありがとうな。明日から、また一増田ユーザーである

みんなの面白い日記を楽しみにしています

2024-11-14

anond:20241112185048

酒鬼薔薇かい祖母按摩器で精通して自分の殺した子供の生首をオカズにシコるような基地外を引き合いに出して

「今、少年たちに何が起こっているのか!」等とテレビで煽られた世代としては異常者は異常者とラベリングして頂く他ないという意見だわ

2024-11-13

anond:20241113133737

弁当店に73点のうそ注文をして業務妨害した疑いで逮捕の41歳無職男性北九州市小倉北区

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1549393?display=1

 

駐車場他人の車のタイヤを傷つけ、パンクさせた疑い 41歳の男逮捕 明石

https://www.kobe-np.co.jp/news/jiken/202411/0018333529.shtml

 

旦那が車を壊した」 妻を複数回殴って車を壊した疑い 41歳の夫を逮捕 静岡市

https://news.yahoo.co.jp/articles/f7a5b38d89d1098cf12017e95bb8c971363de570

 

10少女全裸スマホ盗撮疑い、41歳の教員逮捕 児童ポルノ所持も「何も話す気になりません」滋賀

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1352019

 

住宅放火、93歳祖母を焼死させた疑い 41歳の男を逮捕「覚えていない」と否認 福島

https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tuf/1411143?display=1

 

おもろ…

2024-11-12

昨今のお寺の事情について

私は特にどこの宗派が好きとか檀家であるわけではなく、主に御朱印や御首題いただきにお寺巡りをしている。

そうなると様々なお寺の事情垣間見れることがあるが、やはりお寺の厳しい状況を垣間見ることもある。

まずは後継者不足である

住職高齢化も進み引退したりお亡くなりになったりするとそちらのお寺は他の同じ宗派のお寺の住職兼務したり、後が見つからなければ廃寺になってしまうこともある。

私が知っている限りでもそのような事情兼務されているご住職を知っているが、県を跨いでいたりすると双方の距離もそれなりにあり移動が大変で負担もかかる。

先日行ったお寺も元々は現在、そちらを管理されている方のお祖母様が始められたがお亡くなりになり遠くから同じ宗派のご住職を招いておられたそうだが残念ながら昨日でお寺じまいをされてしまった。

子どもなどがお寺を継ぐケースが多いがどこもなり手不足のようで、様々な事情で跡取りがいない場合がありそうなると前述の通り、他の住職兼務したり廃寺となってしまう。

お寺の収入は主に檀家からお布施であるが、最近檀家離れが進んでいるようでそうなると収入も少なくなる。

懇意にさせていただいているお寺のご住職もお子様がいらっしゃり色々とお金がかかるとのことで、お義父様がオーナーをされているコンビニで週一でアルバイトされている。

また普段一般企業に勤めながら住職仕事をされていたり、自営業をされてそちらの収入で賄われている方もいらっしゃる

お寺は幼稚園経営をされているところも多いが、近隣のお寺の幼稚園少子化もあってか2年ほど前に休園(実質廃園)となり、一部の建物以外は取り壊して現在アパート建設である

お寺は大きなところ以外はどこか近寄りがたい印象もあるが、それを払拭しようと御朱印に力を入れて凝ったデザイン限定のものを出したり婚活イベントや書展など様々な催しを行ったりと開かれたお寺を目指しているところもある。

御朱印をいただいたりご住職お話をさせていただくと色々と勉強になることも多いので、まずは色々なお寺に訪れてほしいと思う。

2024-11-11

若い売れっ子キャバ嬢だった独身おばさんだけど

18歳から22歳ごろまで水商売にドップリの生活をしていて、某繁華街でいわゆる有名嬢だった。

令和のキャバ嬢ホストは億を売り上げる人もいて、数千万くらいは特別凄いことでも無さそうだから、今なら通用しないと思うけど。

最近SNSで夜の仕事への憧れがより高まっている感じがあるけど本当の意味での成功はなんなんだろうとたまに考えたりするので書いてみる。

自分人生、ずっと緩やかに絶望的な状況が続いているように思う。

18歳。キャバ嬢になった時私は処女だった。

キスもまだ、むしろ気持ち悪いと思ってたし初恋自体がなかった。

家が貧乏学歴もなく、実家も出なきゃだったから稼ぐしかなかった。

若さもあってか、すぐに指名客は何人か掴むことができた。

面白いと思った芸人フリートークとかを参考にしてちょっと突っ込んでみたり、

バカな女ぽくしたり

売れてるキャバ嬢の服や化粧を真似てみたりしたら

簡単売れっ子になれた。

学生時代男子から女子からも下から数えたほうが早いレベルのブスの扱いを受けていた気がするけど、背が高くてガリガリに痩せていて、元々大袈裟な二重瞼で厚ぼったい唇をした私は夜の世界では美人扱いをされるようになった。

その間に酔いすぎたタイミング処女を飲みに来たそこらへんの仕事帰りのホスト喪失した。

それまで自分ノンセクシャルとかなのかと思ってたけど、意外とやれるもんだとわかってからはそこまで鉄の貞操ではなくなったし、何人かの男と付き合ってみたりもした。ただやっぱり、恋愛感情はよくわからないままだった。

風俗スカウトマンやらホスト、同業の男が付き合ってみたら夜の仕事に反対的なのは意外だったしつまらなかった。

不動産系のプルゴリみたいな営業マンは、稼いでるみたいだからと思って付き合ったのにいざ付き合うとクリスマスホワイトデーのお返しもなにも無くてつまらなかった。

だったらキャバの客にVIP寿司の出前でも取らせて、客に3代目を歌わせて、ランニングマンやってるのを大して面白くもないのに爆笑してあげて、ノリでテキーラ頼んで、口直しにシャンパンも飲みたいって言って。

ただそれだけで同世代会社員の何倍も稼げた夜の仕事のほうがまだ暇つぶしにはなった。

けどそのうち、男が好きでもないのに、ノンセクシャルを疑うレベルなのに、恋愛感情もわからないのに、たまたま女の体に生まれたから女をやっているだけなのに、女の部分を売る仕事限界を感じて精神を病んでしまって、ラストイベントも打たずにその繁華街から消えることにした。

20半ばからは誰とも付き合ってもなければセックスもしてない。DL同人をよく買うから性欲は間違いなくあるんだけどその性欲が生身の男に向かない感じがある。アラサーになってから気づくなんて。

キャバ嬢時代に何人かの男と暇つぶしで寝て不毛時間を過ごしていたことに対する後悔に今更さいなまれてる。

30を過ぎた今は雑貨屋店長をしていて、祖父母の家に月5万入れて居候をしている。子供部屋おばさんと言って良いと思う。

店長と言っても、手取り残業が少ないと20万を切ることもザラにあるので今でもたまに場末キャバで時給泥棒をしてる。昔はガリガリだったのに、今はぽっちゃり売れっ子ではないけど、そもそもナンバーワンも大して売れてない店だから何も言われずに働いている。

なんとなくライブを見に行ったり、美術館に行ったり、ちょっとしたサブカル女としての活動お金を使うことが多い以外は特にお金を使ってない。キャバ時代ブランド品も全部手放した。

学歴高卒で、職歴キャバが1番長自分が名ばかりとはいえ店長をやれてるんだから給料安くても文句は言えないなと思ってる。

親とは不仲で、高校を出た後5回も会ってない。親に金を貸したことはか20回以上あるけど。

親に頼れない自分はさっさと男を作るべきなのに男もしっくり来ない。

キャバ時代貯金なんて全然してなかったかすっからかん生活に困らない程度には暮らせてはいるけども。

子供はいた方が人生かになる気もするけども。

母子家庭育ちでその母も男好きのしょうもない女だったか母親像とかわからんし、私的にはサザエさんのほうが異常に感じるレベルだし、お年玉とかもらったこほとんどないし、居候させてもらってはいるけど祖父母全然金ないし。

そもそも自分生命にうっすら嫌気がさしてるのに他人生命を与えてはいけない気がする。

反出生主義ではないけど、自分に対してだけうっすら適用してる感じ。

犬を飼っていて、それがものすごく賢くて人懐こくて多分世界で1番可愛い犬だからの子を生きがいに生きてる。

でもどうせ10何歳かで死んじゃうのはわかってるから、いつか犬が死んじゃった時に私の人生が今と同じ調子なら生きる意味はもう無いかなと思ってる。

初めからペット自分より先に死ぬだろうことはわかってるからペットロスなんてヌルい考えだと思うけど。

だって犬の世話以外に私の生きる理由ないし。

上記をこの前祖母に言ったら「私は孫を看取らないといけないの」と言われて笑ってしまった。

祖父母はこの2年くらいでめっきり老けた。

鏡を見るとあの頃よりだいぶ太り、雰囲気ボーイッシュに、見た目は歳の割には多分若い、けど美人ではない私が映る。

私はモテないんじゃない、結婚できないんじゃなくてしないだけ、学歴はないけど中学まで勉強はそこそこできたし、男に選ばれなかったんじゃなく自分が選ばなかっただけ。親がちゃんとしてればキャバ嬢なんかやらなかったし、大学も行った。大体大学まで行ってデキ婚して専業主婦みたいな女は世の中舐めてる。それにその辺のキャバ嬢より売れたんだから私には価値があるはず。

男と寝るのはうっすら気持ちいかエロ同人買ってるけど出張ホスト呼ぶやつよりマシ。

何より私には最強に可愛い犬がいる。毛並みを今日も褒められた。毎日仕事して犬の世話して私はとっても偉い。

そしていつか、犬がいなくなってしまったら多めに眠剤飲んで練炭を焚いて眠ればいい。

そんな自意識過剰の中で今日ゆっくり絶望してそこそこに生きてる。

なんか散らかった文になってしまったけど、若い子に言いたいのは学歴なくても職歴なくても意外とぬるっと絶望しつつそれなりに生きられるってこと。いざという時は死ねば良いんだし。

死は救済、心安らかなり

2024-11-09

まれた時から生活保護を受けているうつ病

まれた時から生活保護を受けている。

正しくはわからないが、物心ついた頃にはもう我が家生活保護だったと思う。

父親母親離婚しており、シングルマザー姉妹で育ててもらった。

母は精神的に不安定な部分があり、よく姉と衝突していた。

私は他人とぶつかりたくなかったから、文句をあまりわず従っておりそのたびに母親に褒められていた。

母親によく、「私ちゃんの子どもとして次は生まれてきたいな」と抱きつかれながら言われた。気持ちが悪かった。

母にとって私は都合の良い恋人であり、友人であり、娘であったのだと思う。

保育園にはお昼寝があるが、自分だけお昼寝で眠れず、虚空を眺める日々を送っていた。

そのまま小学生になり、軽度のいじめを受けながら常に自殺することを考えながら空を見て数時間過ごす日々だった。

この頃から不眠症の気があったのだと思う。

アパート暮らしており、自分の部屋などあるはずもなく、物だらけの汚い部屋に小さな棚と机を置いて、そこで勉強していた。

姉は努力家で見た目も良く、出来がよく人気者だった。

私は努力ができない怠け者で、見た目も悪く、人見知りだった。

地方住みの貧困家庭だった為、中学までは公立の近いところに入学し、高校は”普通と違って楽しそうだから”という理由農業高校に入った。

から片道4kmほどある高校で、自転車で通っていたがほとんどギリギリの出席数だった。

高校入学の時点で、選択肢を間違えたんだと思う。

小学生から過敏性大腸症候群に悩まされていて、すぐにお腹を下し、授業中に何度もトイレに行くことが多かった。

そのことで陰で悪口を言われていたことを知ってる。しかし仕方なかった。

高校二年のとき大腸検査をしたが異常がなく、その頃に母親が通っていた心療内科を勧められた。

最悪の出会いだった。

腹をよく下すのは睡眠不足からと言われ、眠剤を処方された。

医者の口癖は「楽しいことを見つけなさい」「箸が転んでも笑える年頃なんだから」だった。

この時過敏性大腸症候群への効果は無かったが、薬への依存けが残った。

この頃からうつ病意識し始めていた気がする。

この医者には「自律神経失調症」と診断されていた。

母親お金のことは気にしなくていいか大学に通って良い、と言われた。

底辺高校だったので成績と家庭の経済状況から奨学金一種も狙えたが、そう言われたか奨学金を借りなかった。

そのまま栄養士育成の短期大学入学した。

母親は言ったことを反故にした。

入学してすぐに「あんたを大学に行かせるお金なんて無い」と言われた。

そんなことある?それなら大学なんて行かずに就職しておけばよかったと思った。

もう大学入学してしまたからにはここから行かない選択肢を選べるほど私は強くなかった。

から入ってから奨学金を借りた。奨学金二種だった。

利子が60万ついた。

私が大学に入る頃、ここで生活保護を抜けて、姉が看護師で働き出した。

親は姉に10万家に入れることを強いていた。私はあまり知らなかったが、手取りのうち10万も家に入れていたら働く気力なんて無くなると思う。

しかし確かにその期間姉のおかげで私達家族生活保護を抜けて生活をしていた。

短大に入ってからは通うのに苦労した。片道バスで2時間だった。

この頃にはうつ病の症状が重く、月~土の1限から6限の必修授業についていくのが大変で必死だった。

ただ何度も休学をしたくなったり、大学を辞めたくなった。

学校カウンセラーを利用したが、大して効果もなく、授業と授業の間に行く時間が無くなって通うのを辞めた。

栄養士として働くイメージが足りていなかったな、と今になると思う。

管理栄養士と違ってただの栄養士調理系が9割なのだ

私は勝手実験系の仕事イメージしていた。

考えなしの馬鹿だった。

勉強も苦手で努力もできないのに奨学金という借金を背負ってまで大学に行く意味がなかった。

なんとか卒業できたが、就活がうまく行かず、結局小売の接客販売業就職した。

実家からどうしても離れたくて地元以外の場所店舗希望を出したが、配属が決まったのは地元の端っこだった。

実家から店舗への距離10km以内だったからか、通勤手当が出ず、結局店舗の近くのアパート引っ越した。

その頃姉は結婚し、引っ越して家を出ていた。母は姉のことを「裏切り者」と罵った。

勿論私も実家を離れるときに散々恨み節を吐かれた。

母親からしたらそう言いたくなるかもなと思った。

ここまで話には出してこなかったが、母方の実家祖母は気狂いだ。

宗教に傾倒していて、そのことで近所の人や親戚に迷惑をかけまくっていた。

昔の人だからいたこともなく、祖父お金だけで暮らしてきた人だった。

私は祖母友達の家に遊びに行っちゃ駄目と言われたり、祖母たまたま私が友達の家に入っていくのを見ていたらしく、勝手友達の家に侵入してきたことがあった。

ホラーだった。この時の友達の家の人に警察に行かれなかっただけ良かったと思う。

こういう人だから、いつ学校不法侵入してくるか怖くてたまらなかった。

中学の時に祖父が亡くなり、母の精神さら不安定になり、苛烈だった母は弱い人間になってしまった。

母にとって唯一頼れる身内が、祖父だけだったからだ。

からより子どもに依存するようになったのだと思う。

母には妹がいたが、関東に住んでおり、祖母の面倒を見れる状況ではなかった。

そのため今も母は祖母の世話に苦しんでいる。

から祖母の世話を任せっきりにされている母が親族を恨むのは当然だと思った。

話を戻す、新卒で入った店舗は、パワハラセクハラが横行するブラックだった。

ドラッグストアだったのだが、笑顔と声のトーンで厳しく言われ、なんでこんなこと言われなきゃならないんだと思って何度も泣いた。

エリアマネージャーは客の前で上司を怒鳴るし、上司も客の前で私を叱った。

また、登録販売者資格入社した年に取れないと晒し上げにされるようだった。

月一で勉強会が開かれ、その度にテストをした。

その結果は上司に送られる。

そこで結果が悪いと、休憩時間休日店舗強制出勤させ、勉強をさせられた。

家に帰ってもずっと勉強をしていた。

私は馬鹿記憶力も悪く毎回テストの点数が悪く、その度上司から叱られた。

仕事の中で棚の整理(商品がばらついてたら綺麗にする)があったのだが、遅すぎて叱られ、仕事で出来ないことがあるとその度バイト大学生と比べられることが多かった。

社員なのにバイトと比べられることがとにかく嫌だった。

店長は2つの店舗兼任しており、ほとんど私のいる店舗はいなかった。

店舗にはパワハラをしてくる上司二人と私だけがいる状態だった。

二ヶ月ほど経って、精神限界に達し、出勤できなくなった。

出勤しても上司に「その顔は何?」と言われ(普通の表情をしていただけなのだが、笑顔でいないと気に食わないらしい)、少し調子が悪そうにすると「体調悪い状態でいても迷惑から休むなら休むで帰って」と言われるようになった。

後者はその通りかもしれないが、私は「冷たいな」と感じてしまった。

期待するな。

まり覚えてないが、3ヶ月目には上司に辞めることを伝え、店長を交え泣きながら辞める理由を伝えた。

こちらは主にパワハラや、店長がいなくて相談できなかったことを伝えたつもりだったが、店長は「バイトと比べられるのがイヤねぇ……」そこに引っかかっていた。

「ああ、この人たちとは話が通じないんだ」と思った。

仕事を辞めた。新卒カードを捨てて3ヶ月だった。

すぐに転職をした。医療事務だった。

院内いじめが横行しており、手取り13万でやることが無いか聞いてから動いているのに「やること聞いたりしなよ」と院長に言われ、毎日全身に湿疹が出て、連日救急にかかってやっていけないと感じ、3日で退職した。

辞める日は、全員がいる前で辞めることを言わされた。公開処刑だなーと思った。

ここから1年ぐらい実家ニートをしていた。

生活費はカードローンを借りて自転車操業でやっていた。実家にいても生活費は無いのだった。

その後生保護を受けることにした。

実家にいても親と二人で改善に向かわない、地獄のような蠱毒暮らしてるだけになってしまうから

生活保護は案外すんなり通った。

そこから生活保護を受けながらアルバイトをした。

その頃は「うつ病」ではなく「自律神経失調症」と言われていたので、就労不可が降りなかったからだ。

しかメンタルが安定せず、長く離れていた父親と同居することにした。

ここで生活保護を抜けた。

2年ほどだった。

父親と同居が始まってしばらくは良かったが、突然姉と叔母が家に来て、私を社会復帰させるための会議が始まった。

毎日家事をこなし、毎日2時間以上の外出をし、就労支援事業所に行き、アルバイトをし、など様々な条件を出された。

居候立場だったから断れなかった。断る権利がなかった。

叔母の金で病院を変え、二万以上かかる謎の脳波検査統合失調症か、躁鬱か、ADHDか、うつ病判断する検査をした。

うつ病だった。

そこから新しい病院で大量の薬を出され、過ごすことになった。

その後3ヶ月ほど姉たちに言われた通りの生活をした。

結果的に私は自殺未遂をした。

希死念慮がひどく、気持ちとは裏腹に体が勝手ベランダから落ちようとするのだ。

海が近くにあったから、海に沈もうとしたこともあった。

流石にそのことを姉たちに打ち上けた。

ひどく失望された。

これ以上ここにはいられないと思った。その頃父親女性と毎晩会っていることを感づいていたこともあり、余計に居づらくなった。

私は逃げるようにまた生活保護申請した。

通った。

生活保護を抜けては申請し、抜けては申請する人間になっていた。

色々あって、結果的新卒会社を辞めてから大雑把に空白期間が7年経った。

メンタルは良くなってはおらず、悪化してからずっと現状維持状態が続いていた。

外に出るとたまになにもないのに涙が出た。家の中にいても不安で、スマホyoutubeを流して横になっていた。

最近になって急に働こうと思いたち(今思えば究極の躁状態だったのだと思う)、フルリモート営業を二ヶ月だけやった。

何故二ヶ月だけかと言うと二ヶ月で切られたからだ。私が無能だったのかもしれないが、ベンチャー企業だったこともあり、経営不振での派遣切りだった。

全部メールチャットでの対応だったため、4時間ほど働けば残りの4時間は寝ていても気づかれないのだ。そういうところも駄目だったのかもしれない。

時々寝坊もした。社会不適合者過ぎた。

下手に二ヶ月ほど働いたため、二ヶ月だけ保護費を大きく超える給料が入り、現在保護停止状態で、国保医療費を払っている。

ちなみに稼いだ金は二ヶ月で合計35万ぐらいだ。一ヶ月の生活費が13万のため、9万ほど手元に残る予定だった。

ここまで話していなかったが、実は私は今猫を二匹飼っている。経緯は省くが、知人から預けられた。

猫のうち片方の歯が突然抜け、病院に行ったら歯周病治療費がちょうど9万だった。

たまたま働いていたからなんとかなったものの、働いていなかったらどうにもならなかった。

偶然に助けられた。

正直自分の世話もまともに出来ないのに何故猫を飼っているのかよくわからない。

だが大事な命だからいつまでも健康に生きて欲しい。寿命まで面倒を見たいと思っている。

不要不急の出費がなければ通常猫にかかる費用人間に比べたら大したことなかった。

でも働いていなかったら?どうなっていたかからない。まぁ多分病院に分割返済を頼んでいたのだと思う。

話は変わるが、中学の頃から仲良くしている友達が、30までに結婚できなかったらルームシェアをしようという話を出してきた。

現在28から。残り2年だ。

欲が出た。

ルームシェアをしたいと思った。

ただそのためには生活保護はいけないし、貯金100万以上ないと引っ越しは難しい。

私は焦りだした。すぐに働かなければいけないと。

100件ほどエントリーしたと思う。面接は30件強したかな。

どこも受からなかった。

クローズ就労ほとんどだったが、一つだけ応募した障害者雇用も、3週間ほど時間をかけて待機させられたが有耶無耶になって見送りになった。

選ばなければ仕事はあるだろう。介護とか接客業とか色々。

でも続かなければ意味が無いし、自分が甘えた考えの障害者だと思ってるから応募していない。

色々な企業から引っ越せば仕事があるとは言われたが、猫がいるので転居費用が出ず、無理だった。

このまま一生働くところも無いまま生活保護に甘えて生きていくのかなと思った。

今の医者には働くことは難しいと言われてるし、自分も外出ただけで意味もなく不安になり泣く病気なのでやっていける気がしない。

だけど金が欲しい、ルームシェアがしたいと思い、仕事を応募し続けている。

派遣事務常勤だが、受かれば働きたいと思っている。

7年の空白期間はでかすぎた。

正直夜職やチャトレも考えたが、夜職に関しては見た目が悪くデブ喪女なので無理だしチャトレもそうだが職歴に書けないものはやっても意味がないのだ。

そもそも精神不安定自分ができると思えない。世の中の働いてる人間は凄い。

田舎なのでまともなB型A型作業所もなく、求人もなく、就労支援事業所も無い。

もう諦めるしかないのかな。

就労支援事業所バスに乗れば通えるが、何度も言ってる通り外出すると精神不安定になる。

それを考えると何もかも駄目だと思ってしまう。

フルリモートで働きたい。電話はできなくは無いが、コールセンター的なところに勤めたことが無いから続けられるかわからない。

生活保護停止がいつまで続くのかは知らないが、この状態病院に行くことを考えると不安で無理をしたくない。

ニュースを見ると手取りが減るやらなんやら書かれてるしより不安を煽るな、と思う。

障害年金3級があるから2ヶ月に1回14万入る。だから手取りは多少低くても大丈夫だが、流石に手取り10万となると少し厳しい。

13万以上は欲しいと思うのは贅沢なんだろうか。

何か今更手に職をつけたほうがいいのか、と思わないこともないがその努力勉強もできないから今の自分があるんだと思い手が止まる。

駄目人間だ。

本当に毎日飯だけは人一倍食い、糞して寝る。ウンコ製造機だ。

生きるだけなら生活保護生活できる。

だけどそこから抜けて貯金できる生活をしたいと考えると途端何も出来ないと泣くだけの無能女が表に出てくる。

親も貧乏だしほぼ絶縁してるし頼るという考えはまず無い。

というかこの状態でいてもそのうち親の面倒を見なくてはならなくなるのではないか未来のことを考えると憂鬱になる。

隣の芝生は青いというが、

毒親田舎環境が悪い、無能デブス、

せめてどれかはまともであれよと願ってしまう。

ダイエットをしたいが飯でしかストレスの発散ができない。睡眠欲も性欲も無いのに食欲だけはどれだけ体調もメンタルも悪くても人一倍はあるのが笑える。

糖尿病と診断されており、好きだった白米も食べれなくなった。まあそんなに制限してない。ソーセージなどは控えてる、程度だ。

正直どうにでもなれと思いUber Eatsを使って贅沢して飯を食い自己嫌悪する日々をここ最近は送ってる。最悪だ。何やってんだ。

本当にどうしよう。

恐らくここから辿った未来が少し前ネット流行った「美緒48歳」なんだと思う。

美緒、あと20年でお前に追いつくぞ。

世の中のうつ病金無し人間はここからどう働くんだ

誰か教えてくれ

祖母早く死なないか

認知症で言ってることめちゃくちゃだし、金取ったって言いがかりつけてくるし、その癖金たかる従兄弟にはじゃぶじゃぶ金使うし

おじいちゃんは生きててほしいけど祖母老害すぎる

もう言ってることいちいち真に受けてはないけどムカつく、キモい婆の介護なんて死ぬことを楽しみにすることくらいしかないよ

さっさと施設に入れたいけどしぶといし

昔は相応に好きだったのにな、おばあちゃん

もうキモくてムカつく婆にしか見えない

こんなになってまで生き続ける必要なんてないでしょ、私がボケる前に安楽死できるようになってほしい

2024-11-07

anond:20241107124927

連れ子、継母とかあるし、祖母は片方の名字が違うのはそりゃそうとしか

anond:20241107124430

え?そんなことある???

どういうケースなのか気になる

姉妹で違う名字、は当たり前なんだけどね

私と姉と母と祖母は全員名字が違うよ

2024-11-06

僕の考えた最強の年収の壁問題解決

文章書くの苦手なので、以下AI君にまとめてもらった。

少子化と「年収の壁」問題を同時に解決するために、以下のような税制社会保障制度改革提案します。

1. 基礎控除の減額、配偶者控除および扶養控除の撤廃

税控除制度シンプル化するため、基礎控除を現状より減らし、配偶者控除扶養控除は撤廃します。

2. 世帯内で年収の振り分けを可能にする

世帯年収を各構成員に分割して申告できるようにします。例えば、以下のような世帯場合年収ベース):

祖母:200万円

• 父:1500万円

• 母:300万円

• 子:0万円

この場合税金に関しては以下のように分割して申告可能します:

祖母:500万円

• 父:500万円

• 母:500万円

• 子:500万円

こうすることで、税負担分散でき、子供が増えれば増えるほど所得税率が実質的に下がるため、少子化対策にもつながります

3. 健康保険の支払い

分割された年収を基に各自健康保険料を支払う必要があります。ただし、子供については18歳までは健康保険料の支払いを免除します。

4. 世帯構成員の条件

世帯構成員は、任意の中心人物から3親等以内で自由に設定できるようにします。これは、会社役員報酬のように、当該年度の開始前に設定する必要があります

5. 年金制度統合と支払い

全員が厚生年金統合され、上記の分割年収に基づいて支払う義務を負います。ただし、20歳未満および60歳以上の構成員年収を過度に振り分けて世帯年金支払いを逃れることがないよう、以下の規制を設けます

20歳未満の子供や60歳以上の構成員に対する年収の振り分けは、他の成人の年収を超えないようにします。

例えば、以下のような年収分配は不可とします:

祖母:1000万円

• 父:0万円

• 母:0万円

• 子:1000万円

メリット

この制度によって、所得税負担の軽減が実現され、特に子供が多い世帯メリットが大きくなり、少子化対策に有効です。また、税金保険料負担の柔軟性が増し、家計の安定に寄与することが期待されます

以上が、僕の考えた最強の「年収の壁」問題解決策です。

2024-11-05

大人になる決意表明

※好き勝手につらつらと書いています

 

最近、父から連絡がきた。ラインへの着信が複数回携帯電話への着信が複数回

意図的にその連絡を無視していると翌日の朝にも同じような着信が、それも無視していると夕方にまた着信が。

これは鳴りやまないし連絡を返さないと後から面倒になるパターンのやつか…と渋々電話すると酒に酔ったやけに上機嫌な父の声が聞こえる。

元気にしているのか、仕事は順調か、今俺はこういうことをして過ごしているなど他愛のない会話をする、そんなんじゃ人生やっていけないぞバカ説教もされる。

暫くすると死にたいのに死ねない、どうしようもない、どうすればいい、と泣きながら話し出す。

私はそれに対してそう言われてもなあ…お父さんが元気な方がうれしいけど、と伝える。

 

覚えている限り、私が小学生くらいのときから父はこんな感じの人だった。

私が幼稚園生のときも父は定期的に酒に酔って癇癪を起していた記憶があるが、死にたいとかどうとかの話をしていたかまでは覚えていない。

私はその年の時分なんでか酔った父に襖を投げられ顔面クリーンヒットし、鼻血がとめどなく溢れて鼻の穴だけでは排出量が追いつかず口からも血が出てきたことにより、

人体では鼻と口が繋がっているという当時としては衝撃の事実を知ったので父がとりあえず酒気帯び暴力マンであったことだけはよく覚えている。

 

父は定期的に酒に酔い暴言暴力を奮い、死にたい死にたいと泣く人だった(酒さえ飲まなかったら昭和の頑固おやじとか関白亭主とかで表現できるような人ではある)。

そんな父と暮らす生活文字通りたまったものではなかった。

 

とはいえ父としてもこの状態を良いものとは全く考えておらず、父なりに改善のための努力をしていた。

断酒会に通って似たような境遇の人とコミュニケーションをとったり、

暴力を多少配慮のある暴力としていったり(投げる物が茶碗とか灰皿から箸に変わったり、暴力体勢に入ると羽交い絞めにして止めても止まってくれなかったが、それが多少話を聞いてくれるようになったりなど…)、

お酒を飲んでしまったら、暴力的になるより先に自分を潰すために酒をあおるように飲むようになったり、

まりうまくいっていないようだったがそもそもとしてお酒を飲まないように回数を減らそうとしたり。

傍目で見てまあ昔よりは多少マシになったのかなあと疑問に問いかけられるレベルには努力をしていた。

とはいえこんな家にいつまでも居ては人生潰されると思い大学から地元を出て、社会人になった今でも都会の方で私は暮らしている。

 

私が家を出た後、父は定年も数年後に控えた歳で仕事自主退職し、収入不安定になった。

そのときは今までの多少の努力を水泡に帰すような荒れっぷりになったが、祖父母遺産が懐に入ったことで家計が安定し、老後の不安が解消したのか次第とアルコールへの依存がかなり減っていった。

憑き物が落ちたかのように父の生活はより穏やかなものとなっていった。

母はこんな家庭をずっと精神的に支えてきてくれていたのだが(鬱っぽくなったときも多々あったが)、ようやくこのタイミングで父との夫婦らしい生活を取り戻すことができた。

定期的にくる母からラインでは今日はお父さんと一緒に散歩をしたなど、ほのぼのとした一日の出来事が綴られてあり、その連絡に安堵をして意気揚々と返信をしていた。

しかし、数年前に母が癌で他界した。

父と母の穏やかな生活が始まってちょっととき出来事だった。

それ以後父はまた定期的に酒を飲むようになり、冒頭の連絡をよこすようになった。

 

母が他界してから私は父に多少の恨みをもつようになった。というのも、私は父に父親に対してするような相談を全くできていないのである

父親に対して相談したい悩みならたくさんあったにもかかわらず。

父が私に対してそれなりの愛情と、うまく対応できるかどうかは別として何かあったときに尻ぬぐいしてやるくらいの器量を持ち合わせているのは知っている。

でも私がまず一番父に求めているのはどっしり構えた親の姿であって、ありがたいもの愛情や脆い器量がほしいのではなかったのだ。

からの連絡がくる度にそれがないことが毎回分かってしまって、泣いてしまう日が増えた。

 

今朝がた母の夢を見た。癌で治療中の母のもとに私がお見舞いに行っているのを第三者視点でみる夢だった。

○○ちゃん(私のこと)がね、今日どこに行ってたのか看護師さんとお話してたんだよ、

お母さんね○○ちゃんが何をしてたのか知ってるんだよ、

幼稚園生のようにたどたどしく話す母に対し、

ベッドの小脇にある丸椅子に座りながらどこか嬉しそうにそっか~そうだったんだね、すごいね、とひたすら相槌をうつ私の姿が病院の一室にあった。

音程歌詞も良くわからないような歌なんかも一緒に歌ったりもしてた。

とても緩やかに時間が流れているような夢だった。

 

実際は病院でこんなに緩やかな時間を過ごしたことはあまりなかったように感じる。

詳しくは伏せるが、母は放射線治療のために入院した後、一週間過ぎたくらいでコミュニケーションがほぼとれなくなり、その三週間後には他界した。

 

母が他界してから母の夢を見たのはこれで二回目だった。

一回目見た夢の中の母はもっと私の知っている母親しかった。

私は母の闘病中に籍を入れたのだが結婚式をしなかったことに対して本当はしているところを見たかったのよと言われたのを覚えている。

 

なんで今回はこんな夢を見たのだろうと思案してみたのだが、私は母が私に大人になりなさいと伝えているのだと解釈した。

夢なんてスピリチュアル領域を出ないものだし、確実にどうというものでもないのだが、逆に言えばどうとらえるもその人の好き勝手にすれば良いのだ。

 

はいつまでも親でいてくれるわけではない。

無いものを数えては何で私にはこれが無いんだろうと嘆いてもしょうがない。

自分がどんな状態でもその人のほしい言葉をかけてあげること。

幼児退行した母と親のようにふるまう娘の私との会話で、暗にそんなことを示し、教えてくれたのではないかと感じた。

 

そんな都合のいい解釈をした今、少し肩の荷が下りている。

冷たく聞こえるようだが、父に私の望む親としての役を担ってもらうことに期待をしないと決めた方が心持が幾分か楽になったのだ。

そして今度は私が、そんな大人である親側の役を担う番であると決意ができた。

 

色々父に対して恨みつらみを綴ったが、父も父で大変な環境で生きてきたのではと思う。

 

父のいとこのおじさんが、父は他のいとこがちょっとしたこと大人から褒められると、よく癇癪をおこしてその子喧嘩するような人だったと言っていた。

父方の祖母他人のことを小馬鹿にするきらいがある人だった、私の初任給の額が自分年金よりも低いと知ると嬉しそうにしている人だった。

父方の祖父仕事が忙しく、夜中まで帰ってこない日も多々あったらしかった。あまりから祖父の話を聞いたことがない。

父の職場では(そもそも昭和時代だとどこも似たようなものかもしれないが)年功序列が厳しく、飲み会もかなり激しいものだったと聞いた。

父は若い頃酒は一滴も飲めないほど弱かったにもかかわらず、無理してお酒を飲んで帰ってきてゲーゲー吐いていたと母から聞いた。

 

実際のところはどうかわからないが、もう少し色んなところで色んな大人相手のことを思いやって態度で示せれば、

私の父も何かに依存して心の安穏を保とうと必死にならなくても良かったのかもしれない。

でも無いものをねだってもやはりしょうがないのである

 

父がこれから穏やかに過ごせるかどうかは父の努力次第である、私は助けを求められればそれ相応に対応する心づもりもある。

だがその結果に関してどうこうと思いあぐねることはもうしない。それは父の人生の結果であって私が囚われるべき人生の一部ではない、もうそういう歳になれた。

今までと変わらない様子でいるのであれば、私はお父さんが元気でいてくれた方が嬉しいんだよと伝えるだけだし、

もし頼りになる父になってくれるのであれば、そのときどきの相談事をすればいい、

もっと歳をとって老人のようになったら、夢での母との会話のように穏やかに何度も相槌をうつ。それだけでいいんだと思う。

 

ただ私は相手のことを考えた相手のほしい言葉をかけてあげられる大人になることをひたすら目指そうと思う。

それは父にも、パートナーにも、友人、職場の人、親戚、将来できるかもしれない子供に対しても、誰に対しても平等姿勢で。

これまた勝手ではあるがこの目標最後の母との約束として忘れないよう、覚書として残す。

 

孤独死老人の末路

一人暮らししている祖母がそろそろ死にそうなので見に行った

専業主婦引きこもり趣味もなく人の顔を見るたびに何かの悪態をついてるので特に誰も寄りつかない

日中寝て、ときどきテレビを見るだけの生活を三年ぐらいしてるらしい

食べかけのせんべいゴミ賞味期限が切れた菓子パン、山積みになった新聞紙

食卓にあるアジシオと書かれたラベルの塩にはよくわからないサナギの抜け殻が5つ入っている

 

孤独な老人はみんなさまざまな状態死ぬのに人生のディティールはどこにも残されずに薄汚れた家でただ死んでいるという結果だけが記録になって消えていくから悲壮感がないんだな

撮り鉄子供を泣かせるのをやめてください

事前に言うがこれは主語がでかい愚痴

先日地方特急電車に乗った。全席指定だ。


ゆるく観光車両になっていて、先頭車両の前のデッキにはちょっとした簡易ベンチがあって、子供大人わず運転席を覗いて歓声を上げたり盛り上がっている。

当日も社内販売などはないものの、駅弁を持ち込む老夫婦や社内で酒を飲んで寝ているお父さんなどもいて、もちろん子供もいっぱいいた。

観光からほど近い終点に向かって、車内の乗員は減っていき、ほどほどに窓の外の景色も廃れていく。

自分旅行ではなく祖母の家への帰省であったので終電の一つ前が終着予定駅だった。(そこも遊園地に行く最寄り駅ではあるので、天気が良い土日などは結構子供最近カップルが多い)

ある水族館真珠が有名な駅をおりてから一気に子供連れが減った。たぶん、この三連休台風が接近していて天気が悪かったからだ。水族館は行けても外の遊園地は行きづらい。

その少し前くらいに男性が一人乗り込んできた。見るから撮り鉄で大きめのカメラ首に下げて、ビデオカメラを手に持っていた。最初から先頭のそのパノラマデッキから風景を取るために乗ってきたのだろう。

その人は全席指定車両ゆえに申し訳程度に一瞬自席に乗り込み、荷物を置いてさっそくそパノラマデッキへと足を向けていた。

なんとなく譲り合う空気はあるものの、占領する空気ではなく、みんなで楽しく見ていて、たまに一駅か二駅分くらいだけ占領できる時間を見つけてはほくほくと嬉しそうな子供たちが可愛かったのだが、特急路線最後のほうは乗客も減ってその撮り鉄男と増田家族(1歳半の子供)だけがそこにいくようになった。そこから問題だ。

子ども喃語交じりの声がビデオに映りこむからと言って「出ていけ!」と睨みつけられた。はっきり指でしっしと払う素振りと、言語外国籍なのかうまく聞き取れないものの、何かしらの非難をされている。

正直、独り言の話しぶりや仕草から健常者じゃないかもと思ってしまって、席に戻るのだが、子供にそんな理屈通用しないのであっちへ行きたいと指さし、行けなければ少し声が大きくなるので、車内で騒がれるくらいならデッキに行くべきとも思ってそっちへ行く。そして撮り鉄に怒られるの繰り返しだ。

けれどこちらは乗車時点から2時間弱、いろいろな老夫婦子供連れご家族、友人連れ旅行者、などとこのデッキ居合わせ、怒られることもなく、話し声程度の声の大きさだと思っている。これが子連れ思考だったら申し訳ない。ちなみに三連休初日の昼ごろだ。

それを見て子どもが怖がって泣き出してしまった。それを見て余計に怖い顔をする撮り鉄たまたま通りかかった車掌さんに手を振ってもらって機嫌を持ち直す子ども。そして車窓さんににこやかに会釈する撮り鉄車掌さんがいなくなった途端睨みつけてくる撮り鉄。反対方向のトイレなどがあるデッキへ行くがそっちじゃないと怒りだす子ども疲れた

楽しい旅行のはずだったのに台無しだった。

子ども連れが一人じゃなかったら、もっと多ければあんなにしっかり抗議してこなかったのだろうか。自分が舐められたのだろうか。

観光車両だぞ。別に子供を優先しろとは言わないが、大の大人子供を押しのけて占有するな。

2024-11-04

anond:20241104131711

はてなでは全く話題になってないけど、相撲部屋誹謗中傷が酷すぎて開示請求したら自分母親祖母犯人だったという力士事件があったんやで。で、そのまま19歳の力士は離縁したという結末。

anond:20241102204426

母や祖母ちゃんと自営で働いてたんだな。

まぁでも旦那さんはまともな感性をお持ちなようだし、良い人たちに囲まれてるようで良かった。

とりあえずスーパーレジ打ちのパートでも初めてみては。金より何より、まず常識を身につけるために。

男は嫌だと言っても理解してくれない

うちの祖母掃除という名目勝手に人の部屋を漁るため孫たちにめちゃくちゃ嫌われてたのだが、やめろと言うと「私は嫌われても良い!」と謎理論で言い返してくる論理破綻ババァだった。

結論そいつ個人ヤバいだけで男女関係ない

2024-11-02

[]anond:20241102204426

いかにも実績も無しにプライドだけは高いまんさんらしいと思いました。

■「ただのオバサン」になってしまった

以前、子供就活及び内定先の件で子供と言い合いになった事があり

その際に「お母さんみたいなただのオバサンの癖に、偉そうにあれこれ語るな!」って言われた

さすがにその物言いには怒ってかなり憤慨したんだけど、後で夫にその事を愚痴ったら

子供の言い方自体は悪いし自分からも注意しておく、と言った上で

物事についてよく知らないのに上から目線で語るのは(私の)悪い癖だと思っていたし、子供に言った事はあまりにも無知過ぎる」

「◯◯(子)が怒ったのも分からなくもない」

という事を言われて、これもカチンときて夫とも言い合いになり、しばらく険悪に

ただその後子供・夫との喧嘩の件を親や仲の良い友人に愚痴っても、逆に私が窘められたり、それはしょうがないって対応だった

特に母親からは「あなたみたいな社会を知らない世間知らずが口だけ出すからそうなる。もっと勉強しなさい」って、かなりキツイ調子で言われた

改めて人生を振り返って見ると、一貫校でエスカレーター式に進学、就職先も親の紹介で早々に決まったがそこも一年足らずで辞めてしまった

そこからはまた親の紹介で別の職場バイトで入り結婚するまで実家暮らしながらその職場でゆるく働いていた

結婚後は退職し、以降はずっと専業

母や祖母と違って実家の自営で働く事も、特に趣味らしい趣味も無く、せいぜいカフェ巡りやよもぎ蒸しぐらいで

家でダラダラしている事の方が多い

そんな自分は確かに社会経験が少なく見えるだろうし、高校の頃からバイトをしていた子供から見たら「ただのオバサン」なのかも知れない

そんな、ただのオバサンになってしまった自分がすごく悲しく思えてならない

子供とはあれ以来ギクシャクしてて、仕事で忙しいを理由に疎遠気味になってしまっている

一度嫌味も言われた事があった

「訳の分からない怪しいフリーターみたいな仕事してる子供なんて恥ずかしいよね」ってさ

本当にそう思ったから、言って、もっとお硬い仕事、例えば銀行員公務員を目指しなさい、って言っただけなのに……

本当に後悔しかない

「ただのオバサン」になってしまった(追記しました)

以前、子供就活及び内定先の件で子供と言い合いになった事があり

その際に「お母さんみたいなただのオバサンの癖に、偉そうにあれこれ語るな!」って言われた

さすがにその物言いには怒ってかなり憤慨したんだけど、後で夫にその事を愚痴ったら

子供の言い方自体は悪いし自分からも注意しておく、と言った上で

物事についてよく知らないのに上から目線で語るのは(私の)悪い癖だと思っていたし、子供に言った事はあまりにも無知過ぎる」

「◯◯(子)が怒ったのも分からなくもない」

という事を言われて、これもカチンときて夫とも言い合いになり、しばらく険悪に

ただその後子供・夫との喧嘩の件を親や仲の良い友人に愚痴っても、逆に私が窘められたり、それはしょうがないって対応だった

特に母親からは「あなたみたいな社会を知らない世間知らずが口だけ出すからそうなる。もっと勉強しなさい」って、かなりキツイ調子で言われた


改めて人生を振り返って見ると、一貫校でエスカレーター式に進学、就職先も親の紹介で早々に決まったがそこも一年足らずで辞めてしまった

そこからはまた親の紹介で別の職場バイトで入り結婚するまで実家暮らしながらその職場でゆるく働いていた

結婚後は退職し、以降はずっと専業

母や祖母と違って実家の自営で働く事も、特に趣味らしい趣味も無く、せいぜいカフェ巡りやよもぎ蒸しぐらいで

家でダラダラしている事の方が多い


そんな自分は確かに社会経験が少なく見えるだろうし、高校の頃からバイトをしていた子供から見たら「ただのオバサン」なのかも知れない

そんな、ただのオバサンになってしまった自分がすごく悲しく思えてならない

子供とはあれ以来ギクシャクしてて、仕事で忙しいを理由に疎遠気味になってしまっている

一度嫌味も言われた事があった

「訳の分からない怪しいフリーターみたいな仕事してる子供なんて恥ずかしいよね」ってさ

本当にそう思ったから、言って、もっとお硬い仕事、例えば銀行員公務員を目指しなさい、って言っただけなのに……


本当に後悔しかない




数日前に書いた愚痴日記に思ったより反応あってびっくりしました

責める様な、口が悪い書き込みが多く、正直辛い…後で消すかも


子供内定した所は、うろ覚えすみませんが、ネット?の、なんたらサイド?のエンジニア?だったでしょうか

経験を積んで、将来的にはPOピーオー)になりたいとか、そのために勉強したり何か資格を取った、などと言っていましたが

就職活動もロクにせず資格?を取って、変なフリーターみたいな職業になるなんて…と思い(少しスマホで調べたら、「職業名 フリーター」の検索結果がズラッと出てきてしまったので)

すぐフリーターになる様な仕事なのかと思い、つい苦言を言ってしまいました


実のところ、今でもそんなに間違った事を言ったとは思えない部分もあるのですが、初めは理解していなかった夫も子供を話を聞いたらすぐ納得し

また母(子供からしたら祖母)も納得したようで、私の知らない所で内定祝をやっていたと聞いた時は、さすがにちょっと怒りました

ただのオバサンなら、ただのオバサンなりに一生懸命子育てに頑張ったつもりですが

多少世間知らずでも、世間どころか大切に育てた筈の子からすら認められないものなのでしょうか?


そんなに「社会経験」って大事なのかな…

それを積める人生を歩めなかったのは私が女性で、専業という道を選んだせいですか?

2024-11-01

親にADHD疑惑が出た

元々毎日酒を飲み家にいる時は酒を飲んで陽気な状態か寝ている状態だった父。

仕事が変わってからキレることが増えてきた。

また自分不快に思った物は壊そうとしたり。

ある日体調が悪いので病院で薬を貰ったそうなのだが、1番重要な薬を飲み忘れていて、母に薬飲み忘れているよ。と言われた瞬間烈火のごとく怒り出した。

そんなの説明されてない!

その薬の説明部分が紙で見えない!

病院が悪い!

病院のせいにしていた。

キレそう!とぶつぶつ言っていたが、どう見てもすでにキレている。

母曰く、前日に病気ネット真剣に調べいたらしい。なので余計に飲み忘れているのは何故なのか?と思ったらしい。

私もなぜ薬の一覧の紙を見ないのか?とか何種類あるなと確認しないのか?と思っていた。

怒った父親の顔は別人のようで毎回恐怖で身体が縮こまる。

身の危険を感じたのでこれ以上悪化する前に外部の人に相談した。

アルコール依存症か脳の病気ADHDかもしれない。また複数を複合的に発症してる可能性もと言われた。

ADHDかもと言われてものすごく納得した。

父親算数ができないし、役所書類も読めないので手続きほとんど母がしていた。

家電なども説明書も読まないし、組み立てなど上手く行かないと途中で投げ出して家を出て行く。

個人で使う物ならまだしも、共用部分もそうなのであとから私たちが物を直したりする。

なのに本人は何故か全部自分の手柄のように振る舞うのだ。

親戚間の連絡も全く取らずに母が取り継いでいる。自分兄弟にもキレるので、親戚から怖がられているらしい。

部屋が物で山積みになっていて、共用スペースまで物だらけである

自分の物はどんどん共用部分にはみ出るが、私が少しでも共用部分に置きっぱなしにしているとキレる。

父は同居している祖母のことがあまり好きではないが、祖母の部屋の周りを自分趣味のもので埋め尽くしている。

近くに共用の家電があるのだが、物が多すぎて邪魔である

きじゃないならあまり使わないとか頭にないのだろうか。

風邪を引いた時にトイレに近いテレビがある部屋で寝ていたら、その隣で寝てずっとテレビを見ていたり。

吐いてしまった布団をそのままにされたり。

皿を洗っていて体調が悪くなってきたので、後でするねと伝えたら、じゃあ洗ってから休んで。と言ったり。

母が家で事故に遭った時に父親は出かける寸前だったそうだが、そのまま出かけようとしたことを母の前で笑い話にする。

悪口ではなく平然と笑い話にする。

愛情がないとか父の幼少期は大切にされてなかったのかな。と考えたりもしたが

頭のつくりが違うと考えた方が1番しっくりくる。

昔はこういう人は男だから家族我慢してきて問題視されてなかったのかなあ。

兄弟の将来について悩んでいた時に、父親に話したら人生色々だからな〜まあ嫌ならお前が家出ればいいじゃん!と言われた。

ちなみにこの時私は病気ありすぐに働ける状態ではなかった。

これを聞いてから我慢限界がきて、あ、この人が糞尿垂れてても血を流しても痛みに苦しんでも人生色々だもんねって助けないでおこう。と誓ったのだった。

親があとから発達障害かもと思った人はどんな心持ちでいるのだろう。

2024-10-31

私と毒親恋愛人生

毎日母親との嫌なことを思い出して辛いのでここに放流する。ネットに流せば少しは気持ちが薄れたらいいが。

ちなみに母親からまだ離れられていない。離れる計画の途中であるもっと早く離れればよかったと強く思っている。

母親違和感を感じたのは10歳の時。クラスプレゼントを渡したい男の子が数人いてその話をした。すると、○○君は遅刻するよ。○○君はテストの点数が悪い。など悪い点を挙げられた。余りにも驚いて混乱して何も言えないようになった。

それから人を好きになることは人に文句を言われる、評価されるものと思うようになった。

学校で異性と仲良くしてもし母親に何か言われたらと常に怯えていたし、恋愛話も興味ない振りをしていた。

勉強趣味に打ち込んでいたが心の片隅では寂しい気持ちを抱えたままそのまま高校生になった。

ある日、下の兄弟男の子を家に呼んで遊んでいた。

それを見て母親祖母はやった!うちで初めての快挙だ!これで玉の輿だ!と噂話していた。ものすごく恐怖を感じた。

今まで異性を家に呼ばなかった私はダメなのかとひどく落ち込んだ。

今思い出して書いてみるとすごく昔の考えに思えるが、筆者は平成初期生まれである

母と祖母から女性なんだから働かなくていいと言われたり、バイトが遅くなっただけでキレられたり、受験の合否をすぐしないだけでキレられたり(不合格なので悲しくて泣いていた)随分振り回されてきた。

しかし物は豊かだったため、学生の頃は周りからは親がおかしいとは気づいてもらえなかった。

社会人になり別に恋愛しなくてもいいかと思っていた。周りから恋愛してなくて変と言われるのは辛かった。だが、偶然にも同性を好きになることがあった。初めての出来事自分でもかなり思い悩んだ。

その悩んでる最中に、祖父母に久しぶりに話をしたら会って1番にこの歳で結婚しないなんておかしいねえ!と言われ、何かが崩れていき祖父母の家には行けなくなった。

その後、祖父がかなり弱って入退院を繰り返して最期死ぬまで私は見舞いに行かなかった。

毎日母親から祖父の見舞いに行って。○○ちゃん(私)が子ども産むまで死ねないよって言ってるよ。と聞かされていた。

祖父が死んで葬式が行われても私は行かなかった。

この時の私は一人暮らししようと転職した職場ブラック企業で鬱になり、家で休んでいるところだった。

苦しくなって情緒不安定になっている時、母親に部屋の隅まで追い詰められ、家が嫌なら出て行け!と怒鳴りつけられた。

もう何もやる気が出ない。希望も絶たれて家を出ようという気持ちも起きない。

鬱がどんどん悪化していき外に出れない食事も取れない日々が続いた。

貯金も減り親に相談した所、もしもの時や結婚した時のために貯金は使えない。と言われた。

今はもしもの時じゃないのだろうか?今生きることより結婚大事なのか?

もう死のうと思い、首を絞めた。

結局死ねなかったが、首を絞めたことを医師に話すと入院になった。

入院中は母親は私の同級生に早く結婚して出ていって欲しいと言っていたらしい。

もう何が正解かわからなくなっていた。

高齢出産の年齢になった。

友人の子どもを見てもかわいいと思えない。

親の言う通りになるので、この先結婚もしたくない。

もし子どもができても、親のようになってしまうかもと恐怖がある。

ただ自由に生きたいな。

今は退院し、支援してくれる人が複数人いて一人暮らしへのサポートを受けている。

退院後は過去に言われて嫌だったことを母親に伝えている。例えば、突然お前は料理が下手だから餓死する一人暮らしなんて出来ない。など。

それを伝えても文句しか取られない。どうして謝って欲しいと期待してしまうんだろう。これが共依存なのかな。

ある人からこれから自分人生なんだから自由に生きよう!と言われるのだが、なんだかモヤモヤしてしまうのだ。励ましてくれていることはわかる。

でも私の今までの人生自分人生じゃなかったのか?制限されていたなりに、仕事趣味は頑張ってきた。なんだかそれまで無かったかのような気持ちになってしまうのだ。

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