はてなキーワード: ヌーディズムとは
幼いころ、何かのイベントでフェイスペインティングをやる機会があったのだけれども、当時の僕は顔に何かが付着するのが不快に思われて、断った記憶がある。
それ以来、身体に何かを塗ったことはない。皮膚科の薬くらいか。女性の場合、ファウンデーションを使うので、フェイスペインティングは男性よりも抵抗が少ないと思われるのだがどうだろう?
それはともかく、同様の理屈でボディペインティングはやったことがない。とはいえ、ドラえもんの学習漫画で、水着を忘れたのび太が絵の具を塗ってごまかそうとするが、前だけを塗って尻を塗り忘れて恥をかく場面があり、それが自分の野外露出・CFNM願望とマッチしていたのを思い出す。気づいたしずちゃんが顔を覆って赤面しているのも高ポイント。
実際に水着やショートパンツを描いて野外を全裸で徘徊する女性の動画は、各種動画サイトで閲覧可能だ。
人々が顔や身体を様々な色彩で飾ってきた歴史は長く、世界中で見られる。ブラックベリーやサフラン、粘土や木炭などで様々な色合いが用いられてきた。つまり、赤、黄色、青、黒、茶色などが利用できたわけである。
欧米では、顔や腕を塗ることが多かったし、今でも大道芸人やピエロなどもそうだ。全身をカンバスとして用いるのがメインストリームの芸術やファッションに導入されたのは、1933年のシカゴの万国博覧会でだった。Max Factorがバーレスクの大女優Sally Randを映画のためのモデルにしたが、裸を公衆の面前に出すのは同時としては当然挑発的に過ぎたし、社会的通念からは外れていた。そして、全裸のアートは人気にならなかった。
これが60年代から70年代のヒッピー文化の時代になってくるともう少し人気が出てくる。花やピースサイン、その他サイケデリックな模様を、大義を信奉していることを表現するために描いた。今でも海外のヌーディストたちがワークショップか何かで全身にそうした絵を塗っているのを確認できる。くすぐったそうである。この時代もまだ、カウンターカルチャー的なもので、主流ではない。
革新的であったのが1992年、Vanity Fair誌をDemi Mooreが飾った時だ。彼女は全くの裸であり、芸術的でかつタイトなスーツを着ているようにみえるペイントをしていたのである。今までこうしたものがメインストリームの前面に現れたことはなかった。
一応、乳首が見えているので、直接のリンクは張らない。Demi’s Birthday Suitで検索してほしい。
身体に名画を直接描いたり、人体の形を活かして生き物の姿を描いたりする。全裸も多いのでリンクが晴れなくて申し訳ない。中には会田誠の作品のように、セクシーさというよりはシュールさで有名なものがある。漫画のすごい顔の絵を描いていて、おっぱいに目がある。たぶん現代美術好きな人だったら見たことあると思うのだけれど、ものによっては普通に割れ目までも見ているのでリンクしない。女性器は猥褻だとは思わないが、残念ながら規約違反になってしまうおそれがあり、ブルマーの記事まで削除されてはたまらない。
例えば「アバター」なんかの映画で用いられるメイクアップで用いられる。他にも、Playboy誌が時折ボディペイントを使うことがある。2005 年のカレンダーでは皆がビキニを着る中で、Karen McDougalやHiromi Oshimaはボディペイントだった。そのほか様々な広告でも用いられる。
フットボールの試合、レイヴパーティー、その他の祭りなのでボディペインティングが行われる。また、国際的なボディペインティングのフェスティバルもあるようだ。World Bodypainting Festival(1997年より開催、50か国以上より3万人が参加)など。
Fantasy Festなるフロリダのストリートパーティでも用いられるようだ。おそらく、全裸・半裸になりたいけれどもファッションは楽しみたい、という需要にボディペインティングは応えている。
PETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)が動物の模様を身にまとって抗議することがある。また、全身を様々な色で塗っている写真も英語版のウィキペディアで確認できた。
いい機会なのでPETAについての記事を斜め読みしたのだが、増田ではよく叩かれているとはいえ、捨てられたペットの保護や、ヒツジの臀部から皮を剥ぎ取るミュールシングの代替手段の模索に向けての活動については知らなかった。もっとも、セクシーな抗議がフェミニストの怒りを買っていたり、殺人・虐殺の犠牲者と屠畜された動物を同列に並べて猛反発を受けていたりしてもいるようだ。
一番安全。すぐに落ちてしまう恐れがあるが毒性がなく、アレルギーもほとんど引き起こさない。加えて、石鹸と水ですぐに落とすことができる。手入れが必要で長続きしないが、皮膚の敏感なひとや妊娠中の女性に適している。
汗や水に強いのが特徴なので、夏の音楽フェスやパフォーマンスに適している。落とすときには専用のリムーバーを使うか、アルコールで拭く必要がある。ただし、少し時間がかかる。
ラテックスや油性の画材は全身を塗るのに適しており、目を引く視覚的効果を上げられるし、芸術的な目的にも使われる。取扱説明書を事前にしっかり読む必要があり、塗る前に全身の毛をとり除くひつようがある。毛が残っていると脱毛ワックス的になって痛いためだ。
多くの化粧品に含まれているのと同じもので、前衛的な外観を作りやすく、長続きするが、割れたり摩耗したりしやすい。利点としてはアルコール系と同じように汗や水に強いことが挙げられる。しかし、完全に乾燥することがないので、仕上げのスプレーやパウダーで駄目になるのを防がないといけない。
アジアやアフリカの熱帯地域の植物から採れる色素で染める。髪を染めたり、ボディペインティングの材料にしたりするだけでなく、繊維を染めるのにも用いられる。落とせるタトゥーとしても使われる。
Brown hennaは基本的には天然素材で毒性はないが、black hennaは金属が含まれており、長期にわたって使われると皮膚を害する恐れがある。
多くの人がボディペインティングのときに実際に何を着ていくか迷うらしい。特に野外で行うときには最低限、皮膚の色に近い紐パンや、ペイスティース(乳首の前貼り)だけを身にまとうことがある。トイレに行くときにはローブが必要であり、加えてペインティングスタジオは寒いことがあるとのこと。
WNBR(ワールド・ネイキッド・バイク・ライド)なんかだと普通に全裸に人もいるし、そういうイベントでだったら全裸も普通にOKだろう。
今回は、野外露出目的ではないボディペインティングについて調査した。今後は、ヘナタトゥーなどについてももう少し情報を得たい。
また、ヌーディズムそのものの歴史、ストリーキング、ムーニング(尻を見せる行為)などについて調査予定である。すなわち、身体が自然と触れ合う喜び、抗議・無防備さの象徴としての全裸、宗教的な全裸、それから、祝祭としての全裸についても調査したい。
Significance and Origin of Body Painting - Lynn Schockmel Body Art
History of Body Painting - Facts and Types of Body Painting
History of Body Painting - Ancient Body Paint Art
筆者はもともとブルマーのほうが好きで、ビキニは露出しすぎがと思うけれども、お尻に関係しているから書く。
ところで前回の競泳水着の記事はあまり伸びなかった。ふんどしまで扱ったのがマニアック過ぎたのか?
1895年にウィリアム・G・モーガンが始めたバレーボールの派生競技である、とされているが、他にも説がある。1920年代のカリフォルニア起源説、1915年のハワイ説がある。
プレイする人数も変遷があったようだ。草創期には6人制でであったが、1930年には現在と同じ、ダブルスで競技した記録が残っている。もちろん、当時の女性の水着は、まだおとなしいものだ。
その後、この競技にはセクシーなイメージがまとわりついてしまう。たとえば、1927年にはフランスのヌーディストビーチにおけるレクリエーションとして親しまれた。ヌーディズムは元来、性の解放というよりは身体の解放に近いのだが、部外者からするとそういうイメージを持ってしまう。また、1950年代米国では美人コンテストやテレビ番組とタイアップしたショーの一部として、ビーチバレーがマスメディアの注目を集めたそうだが、このあたり、少々露骨である。
その後の紆余曲折を経て、ビーチバレーがオリンピックの正式な競技になったのは、1996年のアトランタ以来である。意外と遅い。
さて、英語版のウィキペディアによれば、国際バレーボール連盟が1999年にユニフォームを標準化したとき、女性の衣装は2ピースのビキニであることが求められた。一方の男性の水着は膝までのショーツで、これは一部の選手の間で強い憤りを生んだ、と書かれている。もう一度書こう。女性選手は、ビキニを着ることを強制されたのである。
しかも、次の記事によれば、2012年以前は幅7cm以内のビキニを着ろ、とされていたそうである。いくらなんでも小さすぎる。ブクマにより修正。2012時点では幅7cm以内のビキニか、ワンピース型の水着。ただし、ワンピース型でもハイレグで露出度は高い。僕はセクシーなものは大好きだが、こういうのを強制するのはおかしい。
https://www.stuff.co.nz/sport/olympics/82926043/evolution-of-womens-beach-volleyball-uniforms
上の記事にあるように、幸いなことに、この規定は2012年に改訂された。これには、文化的・宗教的な理由から、肌の露出を好まない選手も参加できるようにするため、という理由もあったし、天候に合わせるため、というのもある。図版で示されているのは、再度の改定である2016年のものであるが、女性も男性も、肌を見せたくなければそうしない自由を得た。当たり前のことのはずだが、普及が遅れた理由はよくわからない。どこかでビーチバレーにセクシーなイメージがついてしまったのか、日本のショーツ型ブルマーのように、とりあえず前の世代から受けついだしこれでいいか、みたいな幾分怠惰な姿勢があったのか、そこはわからない。
https://www.insider.com/why-do-women-beach-volleyball-players-wear-bikinis-olympics-2016-8
この記事の冒頭では「女子のビーチバレーはとても注目されているが、不幸なことにそれは選手が何を着ているかであり、彼女たちの腕前についてではない」と記載されている。その通りである。こんな記事を書いている僕がいるくらいだ。
しかし、責められるべきは僕だけではなく、カメラもそうである。ウィキペディア英語版によれば「2004年の夏季オリンピックにおいて、カメラアングルに関しての調査がなされた。20%は胸部に、17%は臀部に争点を合わせていた。研究は、これは選手の見た目が実際の身体能力よりも注目されていることを暗に示している、と結論付けている」そうだ。
確かに、性的な面も含めて、運動している人間は美しいと思う。けれども、そういう姿を期待されるのはおかしいし、ましてや強制されているのは筋違いだ。何を着ようが基本的に選手の勝手だし、それをきれいだと思うのはこちらの自由だ。
美を競う競技に関してはまた別の論点が出てくるし、美と性愛に関しても一言でまとめるのは難しい。ただ、外野の過度な期待に対して、選手がノーと言える環境、そしてそれが炎上したときに選手を守り、サポートする人物や団体が必要ではなかろうか。
Kerri Walsh Jennings選手の声を、一部試訳する(インタビュー当時37歳)。
「ビーチバレーでは、華氏100度(摂氏37.8度)で運動しないといけません。私たちは本気でやっていて、セクシーさをアピールしているのではないのだと、公衆に知ってもらわないといけません」
「御覧の通り、私は女性です。私は鏡を見るときに、自分を厳しく評価してしまいます。けれども、私はスポーツをするときと身体を動かしているときだけは、私たちの精神に対して肯定的になれるのです」
(訳がこなれていなくて失礼)
スポーツのみならず、舞踏・広告などの表現における見せパンやブルマーについて、引き続き調査したい。
他人に迷惑をかけるつもりなどさらさらないが、全裸になるのが好きなので、オーシャンビューとか山の中の露天風呂とかが大好きだ。その好きが高じて、オーストリアの混浴サウナにまで行ったことがある。そこには25メートルほどのプールがあり、遠慮なく裸で泳ぐことができて大変気持ちがよかった。サウナと往復しながらだとそれこそ整うわけだが、こういう場所が日本にないのは残念だ。何も混浴にしろとは言わないので、素っ裸で泳げる広いプールはないだろうか。
さて、昨日(anond:20200907075225)の続き、競泳水着についてである。
以下の歴史は、wikipedia英語版の「History of Swimming」や「History of Swimwear」の拾い読みによる。
有史以前から人間は泳いできたが、大抵の場合全裸であった。ローマ時代にはビキニのようなものを身にまとった女性の壁画が残されているが(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/27/PiazzaArmerina-Mosaik-Bikini.jpg)、これが水泳に用いられたという証拠はない(この古代ローマのビキニには漫画「テルマエ・ロマエ」からも言及があった)。つまり、絵画の水浴図で誰もが全裸なのは、西洋の画家の猥褻な妄想ではない。
水着の歴史は、海水浴と入浴着との歴史が密接に絡み合っている。17世紀の終わりから欧州では公衆浴場で女性がガウン上のものを身に着けるようになったが、男性が裸で泳ぐことはしばらくは当然のことであった(河出文庫のシャーロック・ホームズ「ライオンのたてがみ」の注釈には、このシーンで登場人物は全裸で泳いだと思われる、とある。また、E. M. フォースターのどの作品だったか忘れたが、全裸で泳いでいる男性に悲鳴を上げる女性が出てくるシーンがある。「眺めのいい部屋」だったっけ? また、時代をさかのぼれば「デカメロン」で女性陣が男性陣の目を盗んで裸で泳ぐ場面がある)。
ところが1860年代にイングランドでは男性でも裸で泳ぐことが禁じられた。しかし、身体を見せることを極端に禁じたヴィクトリア朝の反動だろうか、それ以来、全身を覆う水着から現代のビキニへと、肌を見せる方向に回帰しているし、ビーチによってはトップレスが許容されている(親が持っていた海外の観光案内に、トップレスの女性の写真があって、面食らった覚えがある)。いまでも、ヌーディズムが盛んなドイツ・オーストリアなどの中欧では、裸で泳げる場所は少なくない。結局のところ、素っ裸が気持ちいのではないだろうか。
また、一部のスポーツ施設では、男性が全裸で泳ぐことを学ぶことは珍しいものではなかった。昔のYMCAがそうだったらしい。また、驚いたことに、wikipediaの「naked swimming」の項目には、1900年頃に男の子が裸、女の子が着衣で泳いでいる写真がある。こういう日本のCFNM系エロ同人みたいな状況が現実のものだったとは、驚きである(リンクを直接貼るのはなんかまずそうなので割愛)。
なお、女性の水泳の普及が遅れたのは、恥じらいとは別に、生理時の衛生管理の問題もあったそうである。
ところで、意外なのが川や湖ではなく、海で泳ぐ習慣は比較的最近のもので、17世紀ごろからのものだそうだ。海洋国家イギリスの娯楽としての海水浴の歴史は、意外に浅いのだ。また、人が速く泳ぐようになった時期というのも驚くほど遅い。たとえば、1870年代にアマチュアによる世界記録が打ち立てられたのだが、1878年に自由形100ヤードは、なんと76.45秒であった。ちなみに、マシュー・ウェッブ大尉がイギリス海峡を泳いで横断したのもおおよそこのころだ(1875年)。古式泳法もそうだろうが、おそらく速く泳ぐことよりも、長く泳ぐことや、戦場での実用性が重んじられていたのだろう。
この時期はVictorian Sports Maniaと呼ばれる時期で、水泳は数十年にわたって英国が世界をリードする国家的運動となったそうである。このあたりはジョン・サザーランドの英文学史の本にも載っている。
海水浴で使う水着とはまた別の歴史をたどったのが競泳水着である。
https://www.glamour.com/story/the-evolution-of-olympic-swimwear
上記の記事によれば、女性がオリンピックで泳ぐことを許されるようになったのは1912年のストックホルムでのこと。競泳水着の歴史は、ここから語られるべきだろう。
初めの競泳水着は絹でできていたそうだ。また、太ももの露出は少しずつ増えて行ったが、1928年頃まではあまり下着らしく見えないように、下半身が少し膨らんでスカート状になっていたそうである。
ナイロン製になったのは1964年で、1976年頃に少しずつハイレグっぽくなりはじめる。
1984年になると、どういうわけか突如かなりのハイレグになる。男性の水着の面積が極小となったのもおおよそこの頃だし、日本でも時期的にハイレグ水着の流行したバブルと被る。クレヨンしんちゃんのハイグレ、懐かしい。で、話題を戻すと、以前の記事に書いたような女性スポーツウエアのハイレグ化の時期(60年代)とは、若干ずれていることがわかる。しかし、肌を見せることによるスピードアップには限界が見られた。
そんななか、2000年代に一気に普及したのがスピードのボディスーツだ。今はこれが主流だ。簡単に言えば、水の抵抗を減らすために、大きな渦を減らし、小さな渦を作るそうだが、層流とか乱流とかその辺のややこしい話になりそうなので、省く。
つげ義春の「コマツ岬の生活」にはふんどし姿の海女さんが出てくる。これは能登地方のサイジと呼ばれるふんどしの一種らしく、この地域では1960年代前半までこの姿であった(これも写真があるが、今までのスポーツウエアと違って乳房の露出があるのでリンクは控える)。エッチなマンガの読みすぎか、日活ロマンポルノの影響か、なんとなく海女さんといえば、ふんどしというイメージがある。「海女(あま)のいる風景」という写真集の表紙もそうだ。しかし、浮世絵を見てみるとほとんどが腰巻である。私も、太田記念美術館で見たことがある。
https://www.ijikasou.com/monthly/2016/06/
https://www.pinterest.jp/pin/309481805630462018/
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Yoshitoshi-Ariwara_no_Yukihira.jpg
これは恐らく、磯ナカネと呼ばれる別種の木綿の布である。江戸時代のこと、おそらく江戸湾近辺では海女さんはふんどしではなく、この格好だったのだろうと推察される。
昭和時代、中にはレオタードをまとって漁をする人々もいたという。というか、今でもいるそうだ。レオタードの中に海産物をしまうことで、取りすぎることを防ぐそうである。
http://www.chie-project.jp/001/no15.html
たぶん、女性のふんどしの使用は、生理用品としてのみに限られたのではあるまいか。団鬼六作品をはじめとしたイメージから来ているかもしれないが、SMは不勉強なもので詳しくない。そのうち調べるかもしれない。
考えてみれば、自分はふんどしについてそこまで詳しいわけではなかった。女性用の下着としてふんどしがどれほど用いられてきたか、あるいはそもそもふんどしとはどのような下着であったのか、その歴史についていずれ調べてみたい。
【初めに】
コピーミスで一節が抜けていた。申し訳ない。【】で囲まれた部分が追記である。
【本文】
ビジネスホテルに泊まるときは大抵全裸だし、男女関係なく素っ裸で過ごしたら、さぞ気持ちがいいだろう。
そんなことを呟こうものなら、不審者扱いされるのは目に見えている。挙句の果てに、公共の場で脱ぎだして陰部を露出する不審者予備軍と誤解され、警察のお世話になるかもしれない。
だが、よく考えてほしい。ああした人たちは、自分の全裸、特に陰部を見てほしいのであって、裸になりたいのとは少し違う。それに、皆様も思うことはないだろうか。たとえば大浴場に浸かったときの安らぎ。もしもそれが露天風呂だったらなおのこと心が緩み、湯の中に嫌なことが溶けていく思いがしないだろうか。
目の前にどこまでも緑が、あるいは紅葉が広がっていたら。あるいは、絶えることのないとどろきを繰り返す海洋が広がっていたのなら。これほどまでに自由を感じつつ、大いなる存在に受け止められている安心感を覚える場所はないはずだ。何も身にまとうことなく立っていると、海風が全身をそっと撫でていき、普段どれほど重いものを身にまとってきたかを、嫌でも意識させられる。
とはいえ、男女混浴が可能な場所は国内でも限られている。ましてや、近年は混浴のマナーの低下が甚だしく、混浴を取りやめてしまう地域も多いと聞く。ある意味では仕方がないのかもしれない。混浴が誕生した時代とは、私たちの羞恥心の感覚も変わってしまった。
そういうわけで、私は混浴文化がまだ息づいている、ウィーンにまで足を運んだのである。概して、ドイツやオーストリアを含む中東欧の人々は裸体に対するタブーが弱く、混浴についても寛容なである。緯度が高いので、全身で太陽を浴びたいのだろうか。冬になると日照量不足で気分が落ち込む私としては、その気持ちはよくわかる気がした。
もっとも、私は全裸になるためだけにオーストリアに飛ぶような酔狂な人間ではない。
私は建築や美術にも関心があり、この旅行の主目的は、クリムト、シーレ、ココシュカといった人々の作品を鑑賞することであった。なので、脱衣はどちらかといえば、時間が空いたときのおまけである。
日本と同じで、月曜日には休業の美術館が多い。なので、月曜日にそうした巨大温泉施設に向かった。ウィーン中心街からおおよそ三十分ほどのオーバラー駅前の、テルメ・ウィーンと呼ばれるところである。
駅を出ると目の前に巨大な建物があり、そこからは既に硫黄の香りがしている。そうしたところは我が国の温泉とよく似ており、妙な安心感がある。片言のドイツ語で入場料を払い、タオルのレンタルを済ませ、ロッカーに向かった。
ロッカーのカギは電子式で、かざすと自動的に開閉されるというものだ。慣れるまでに時間がかかったが、すぐに便利だとわかった。荷物を持ったままガチャガチャと回すのは大変だからだ。ちなみに、このロッカールームの時点ですでに混浴で、男性女性関係なく着替えている。もちろん、慎み深い人のために個室の更衣室もあるのだが、別料金だ。
ちなみに、温泉施設ではあるがすべて全裸で過ごすわけではなく、全裸なのは奥のサウナコーナーのみである。そのために私は一応水着を持参しており、ついでに防水のバッグも持ってきた。
まずは、せっかくなので水着エリアで温泉を楽しむ。とはいえ、水着エリアは温水プール同然であり、浸かっているとあたたかいが出て風に当たるとすぐに水着が冷えてしまうといった代物である。せいぜい人肌程度であり、温まるには不足である。
これはときどき指摘されることだけれど、日本人の湯加減の好みは、ヨーロッパの人々のそれよりもかなり高いらしい。ハンガリーは温泉大国で知られているが、やはりそこも湯加減はぬるい。ただ、その程度の温度でなければ、ガイドブックで見かけるように、湯につかりながらのんびりとチェスの対局をやるわけにもいかないだろう。
他にも、子供立ち入り禁止エリアというのがあり、ムーディーな照明と共に、カップルや夫婦がぷかぷかと浮かびながら語らっているコーナーがあった。ここも温水プールでほとんど温まらない。日本の温水プールみたいに、塩素臭くないのはありがたいのだが、やはり汗をかかないと物足りなく感じてしまう。
そうしたわけで、水着エリアを堪能した後に移動しようとしたのだが、サウナエリアがどこかわからない。あちこちうろつきまわり、子供に泳ぎを教えているらしい人やスタッフと思しき人物に、「ヴォー・イスト・サウナ?」(サウナはどこですか?)などとつたないドイツ語で尋ね歩くうちに、やっとのことでたどり着いた。
なお、このゲートの先は別料金であり、鍵をタッチして入る。清算は帰りだ。そして、注意書きにはドイツ語と英語で「この先水着の着用を禁じる」と書かれている。なんとも徹底していることだ。私は軽快な電子音と共にその奥へと進んだ。
サウナコーナーは、それほど変わった印象はなかった。ただ、見かける男性が皆素っ裸なので、私も水着を脱いだ。それほどの羞恥を感じなかったのは、一つには周囲には男性しかいなかったからだろう。それに、ここでは全裸が正装なのだ。だったら、むしろ何か着ている方が恥ずかしいのではないか。そんなことを思ったのである。
サウナの入り口には温度が書かれており、四十五度、五十度、六十度、それから九十度に分かれている。ひとまず五十度のところに入ると、既に老夫婦がくつろいでいた。ここで初めて裸の女性と遭遇した。
二人は、私の存在を気にかける様子もなく、くつろいだ様子だった。私も、確かに目の前に女性がいるのだなあ、ということは考えたのだが、気にしてもしょうがなかったので、ぼんやりと天井を眺めることにした。男性で前を隠している人はほとんどいなかったので、自分もそれに倣ったのだけれど、個人的には気持ちが良かった。世間体を気にせずにリラックスした姿でいるのは、何とも言えず心地よい。
ちなみにその老夫婦のいたサウナでは、腰かけるところがチェアベッドのようになっており、仰向けにくつろげるような形になっていた。うとうとしているといつの間にか隣に座った男性が、ペーパーバックで何やら読んでいる。お風呂ではなくてサウナで読書、贅沢この上ない時間だ(もっとも、後で注意書きを見たら、サウナの中の読書禁止、と書かれていたのだが)。
しばらくして、サウナを出てシャワーを浴び、他の温度のところを回ったり、冷水プールに体を浸したりした。日本の温泉は露天風呂がメインで、サウナが複数あるところは珍しい気がするが、ここでは様々なタイプのサウナがあり、存分に楽しめた。
たとえば、スチームサウナというのがあり、ここでは猛烈な蒸気で包まれる。汗が蒸発しないのでなかなかにつらいし、持っていたタオルもすぐにびしょ濡れになってしまうのだが、熱風がきつくないので、肌には優しい気がした。眼鏡をかけていると、何が何だかわからなくなってしまうのだが。
ちなみにこの眼鏡、裸眼で転ばないように、日本でサウナ用の眼鏡をわざわざ購入したもののである。
【ところで、このサウナコーナーには、外がある。サウナなので当然素っ裸で歩くのだが、これが気持ちがいいことこの上ない。芝生の上を歩けば、まるで熱帯民族になったようで愉快だ。そして、歩いた先には小屋があるのだが、そこもまたサウナである。
そこでは、おおよそ温度は九十度で、定期的にスイッチがオンオフになる。オンになると、そこにはタオル一枚のおじさんがやってきて、香りのする水を炉に撒く。そして、巨大なタオルでサウナの人々に熱風を浴びせるのである。
それがまた非常に心地よい。異様な高温のはずで、現に乳首が痛いほどなのだが、それでも不思議と生きている実感が与えられるというか、幸福感と高揚感が感じられる。それは他の人々も同じなのだろう。おじさんのパフォーマンスが終わると、一斉に歓声と拍手がする。ロウリュウ、と呼ばれるものに近いのだろう。
そのあとも、おじさんは一人一人に熱風を送る。そのたびにあおがれた人々は嬉しそうだ。私も、「ゼア・グート。アバー・ゼア・ハイス」(とても気持ちがいいですが、とても暑いです)と、定冠詞の活用が無茶苦茶なドイツ語で応じた。すると隣のおじさんがあおがれたときに「カルト・カルト」(寒い、寒い)などというものだから、思わずその場は笑いに包まれた。
私に向かって風を送るときに、両手を合わせてお辞儀をしてくれた。たぶんタイかどこかと間違えているのだろうが、悪意よりも親しみを感じたので、こちらも会釈した。腰かけるところが熱すぎて胡坐をかいていたので、仏像か何かと勘違いしたのかもしれない。
その後、全身をほてらせながら野外にある二十五メートルほどのプールで体を冷やした。何往復か泳いでから、仰向けになって曇り空を眺めているうちに、これほどの幸せなはないだろうな、と感じられた。何のしがらみもなく、何の規制もなく、ただ存在するだけ。過度な欲望もなく、競うこともなく、誰からも干渉されない時間だけそこにあった。
それに、水着を身につけずに泳ぐと体を締め付けるものが何もなくて、全身を区別せずに流れていく水が本当に心を自由にしてくれる。それに、誰もお互いの裸をじろじろ見たり気にしたりしないのも、気持ちが良かった。あたたかな無関心というか、あるがままの姿を受け入れてもらっている感覚になるのだ。
人間の身体のどこに猥褻なところがあるのだろう、表現の規制は何のためにあるのか、などと大げさな議論が頭の中に形を取ろうとしたが、そうしたものは普段日の当たらない陰部に太陽が差す気持ちよさに溶けてしまった。
そうしたわけで、私は結局三時間以上もそこで過ごすことになった。】
さて、三時間過ごしたので、そこではいろんな人を見ることができた。もちろん、凝視したわけではないけれど、それでも混浴に来るオーストリア人にはいくつかのパターンが認められた。
その一、スポーツマンタイプ。ものすごい筋肉量で、アスリートか何かのようだ。これだけ鍛えていれば、自分の身体に恥ずかしいところなど、どこにもないと言わんばかりだ。ギリシアやローマの彫刻そっくりである。スポーツマン同士で何やら楽しげに話していることが多い。
その二、力士タイプ。非常にでっぷりとした肥満体系のおじさん。人からどう見られているかそんなに気にしていない印象。こちらも堂々と歩いており、楽しそうにしている。
その三、老夫婦。なんというか日本の混浴にもいそうな、のんびりした雰囲気。ときどき湯船の中で抱き合ったり、ほっぺたにキスしたりしている。ちなみに、注意書きには「キス以上のことはしちゃダメ!」「十六歳未満の入場禁止!」と書かれている。
その四、比較的若いカップル、あるいは若い男女。よくわからないのだけれど、「みんなで渡れば怖くない」的な感じで一緒に来たのかもしれない。
ちなみに日本人は私だけだった。それから一人だけアフリカ系の人がいた。それ以外はみんなヨーロッパ系。
で、こうして振り返ってみると、比較的若い人が多い。それでも、私はあまり気にならなかった。というのも、前も言った通りここは全裸が正装なのであり、それについてとやかく言うほうが変だ。確かに、きれいで魅力的な人もいたし、中には私の好みの人もいたのだが、雑踏ですれ違う以上の感慨はなかったし、わざわざ振り返ることもなかった。
混浴について、猥褻だとか下品だとかいう意見があるが、私はまったくそう思ない。そもそも、ここは風呂とサウナであり、いい湯だな、以外の感想はない。たぶん、混浴について批判的な人は、マナーの悪い人と一緒になってしまったのか、そもそもお風呂がそこまで好きではないか、なのではないか。人様のことだから、勝手な判断は差し控えるが。
というか、見えそうで見えない極小ビキニなんかよりも、素っ裸の方がよっぽど上品な気はする。潔いし。隠すから下品だとか猥褻だとか言われるんじゃなかろうか。みんな最初からすっぽんぽんだったら、誰も気にしないだろうし。隠せば隠すほど、そこに注意が向くし、逆説的にそこに注目してくれと言っているようなものな気がする。
それと、全然関係ないけど、女性でも腋毛もじゃもじゃの人は多いのは面白い。話には聞いていたが、実際に目にするとやはり興味深い。陰部がどうなっているかはじろじろ見なかったからわからないけれど、向こうの人は剃っているとはよく聞く。ただ、そんなことも温泉が気持ちいいのでどうでもよい。
そういうわけで、私はオーストリアの混浴を十分に楽しんできた。予想していた通り、とても気持ちが良かった。日本にも類似したサービスがあればいいのに、と思ったが、マナーを一定の水準に保つことは難しいだろう。きっと、ナンパしたりじろじろ見たりする行為が横行するに違いない。一度絶えてしまった、混浴の文化を再びメジャーにするのは、難しいだろう。
プールサイドで裸のまま横になり、夢うつつのまま時間が過ぎていく経験は非常に贅沢だった。しかし、これは今の温泉文化とは、少し違うかもしれない。
個人的には、自分がやりたいことをやったので、満足している部分はある。今後どうするかはわからない。恋人がいないときだったので、とりあえず全裸になってはみたのだが、もしも今後も恋人が見つからず、行きたい場所が思いつかなかったら、どこか別の国でヌーディストビーチに行くかもしれない。それか、趣向を変えて、全裸ハイキングか全裸マラソンかに挑戦するかもしれない。
もっとも、この混浴体験ですっかり気が済んでしまい、数年後には興味すら持たなくなっている可能性もある。それはわからない。
ただ、やりたいことをやってみて、それなりに面白かった。それで十分なのかもしれない。
最後に、脱いではいけないところで脱ぐのは絶対にやめましょう。これだけは強調しておく。
【最後に】
本記事はカクヨムにも掲載されている。私が投稿者本人であることは、カクヨムでは連載中であり、現時点でも未公開になっている部分が含まれていることが証拠になる。
【付記】
ヌードバイクみたいな、ヌーディスト活動経験者の増田は、ほかにもいらっしゃるのだろうか。あるいは、ヌーディズムに関心がある、だけでも潜在的にはどれほどいるのだろう?
ドイツもロリコンとショタコンとファーリーズの変態の国だからな
ドイツ人でも流石に自分でロリコンやショタコンですとは言及しないが、英国の児童人権保護団体Telefono arcobalenとインターネット監視財団IWFの調査で
ドイツは児童ポルノサイト数と小児性愛者のユーザー数が世界で2番めに多い国だと分かっている。
そして恥ずかしげもなく世界中のケモナーが自分の居場所を地図上に記せるファーリーマップでドイツ人は自分達がファーリーズで多く分布していることを自己申告している。
日本がそう見られている以前にドイツ人は性にオープンで変態度が高い人種だから、むしろドイツ人たちの差別になるかどうかの感覚が麻痺しきっていて起きた事柄だと言える。
ドイツは深夜番組で女性の裸を垂れ流しデリヘルのCMが流れて、街中を見れば下着姿の女性がプリントされた売春宿の車が走っている。全裸バーの衝撃もすごいだろう。