はてなキーワード: 映画作品とは
市民ケーン観た。
ヒッチコック辺りと同じような映像技法の教科書的作品らしいけど、おれはその辺興味がないのでストーリーに目が行った。
愛を渇望して、埋め合わせようとしても事足りない空虚さ。失われて取り返しのつかないものって所では、おれも小中学生くらいの頃もっと遊んどきたかったよねってちょっと共感する所はあった。人生って絶え間ない現在の連続なんだし、喜びを捨てていい時なんて一瞬たりともないだろ。未来への投資?今だけ我慢?知らねーよボケって思ってた。
憧れのテレキャスターを弾いたところで、映画作品の背景や位置付けの知識を仕込んで体系的に観てウンウン唸ったところで、マックに集ってP2GやMGSPWの対戦をしてバカ話をしていたあの頃の喜びがあるだろうか。
一方で共感しきれない部分もあった。チャールズ・フォスター・ケーンには権力と金とモノを手にしたという経験が実際にあって、それでも満たされないという実感がある。それは彼の実感であって、おれの納得じゃない。宮殿に住んで開封すらしない美術品を買い漁れるような巨万の富ではなくとも、糸目を付けず欲しい物を買えるくらいの金は欲しい。物質的な豊かさだって大事だ。ゴータマ・シッダールタとて、金持ちではなく門の前で苦しむ側であったら果たして悟りを開けただろうか。他者とのつながりや愛が何を差し置いても大事なものだとも思えない。それが人生の決定的なピースかどうかも分からない。人生は一言で片付けられないなって思った。
まあ大人がいくら後悔した所でこうやって映画にしたりする事くらいしか出来なくて、それだって当の子供に見せた所で伝わるかどうか分からない。ままならないねえ。
人生を変えるほどに大きな影響与えてくれた本は少なからずある。この本がなければ読んでいなかったならば、現在の私はないと言い切れる本も数冊ある。ところが映画にはそれがない。もちろんテレビにもない。
確かに面白かったと言える映画もある。テレビ番組もある。ただしそれだけである。あー面白かった。それだけなのだ。
映画に熱狂する人々を見るに、どうやら私の理解が及んでいないところがあるようだと思い。意識的に多くの映画作品に触れるようにしてきたのだが、結局のところ結論はそういうことである。人生を変える映画などと言うものはない。
それどころか、気持ち悪い、人を洗脳する意図を持ったとしか言いようのない作品が少なくない。トップガンマーヴェリックとか、そもそも前作品の無印トップガンからしてそうである。臨場感を持って劇場で上映される映画作品、何が善で何が悪なのか、浅薄な善悪二元論を唱えるような映画が多くなっているようにも思われる。アメリカ映画に多いような気がする。気持ち悪い。
ホラー界隈を揺るがすような作品が割と頻繁に出てくるのが良い。
アニメでいえばガンダムとエヴァという作品の間には20年以上あったと思うけど、ホラーは数年ごとに「これは!?」と思うような作品が出てくる。
たとえば俺がホラーに触れたのは中山市朗の新耳袋が最初で、そこからはオカルト板のネット怪談の台頭。
ほぼ同時にジャパニーズホラーともてはやされる映画作品が連続して公開される。
最近でいえばYouTubeの興隆によって怪談士の語りが盛り上がっているし、台湾や韓国、タイなどアジアンホラーの良作を見るのもいい。
個人的には怪談やホラーは読む方が好きなので師匠シリーズや某宗派の僧侶なんですがとか、最近は怖い話はキクだけでなんかが気に入ってる。
映画が公開されてすぐの頃には賛否両論というより否定的な意見のほうが目立っていたように思う。
しかし、映画の評判、というか興行成績が伸びるに従って映画に対しての評価が定まってしまったように感じる。
映画作品「SLAM DUNK」は成功作であると認識されるようになってしまった。
ここからが言いたいことなのだが、作品の評価と興行成績というのは必ずしもイコールではないのに、
現代の経済ファーストの社会だと、なんでもかんでも「どれだけ売れたか」が作品評価の軸になってしまうのが残念だ。
例えば宮崎駿の「君たちはどう生きるか」を評価するにあたって、
も興行成績によって変わってるくる部分が大きいと思う。
そういうのは納得がいかない。
売れたからって、いい作品とは限らない、というのは皆わかっていることだけれど、
売れたか売れなかったかの評価軸から外せないというのも事実だ。
この度、岩波文庫からアリエル・ドルフマン(昔は、英語風にドーフマン表記だった)の戯曲作品『死と乙女』が刊行された。90年代に一度、英語版から日本語に翻訳されたものが劇書房から刊行されたが、その後は長く絶版品切状態だった作品である。
「過去に読んだが岩波文庫から復刊したことは知らなかった」という人は、書店に急いで欲しい。
読んだことの無い人も、やはり書店に急いで欲しい。
もしかしたら、作品を読んだことは無くても、朴璐美や真木よう子などが主演した舞台を、日本国内で観たという人もいるかも知れない。または、ポランスキーによる映画作品を観た人もいるかもしれない。
ちなみに、これを書いている増田は、ど田舎生活の低所得者なので、演劇文化とは縁が無いことから、舞台を観たことはない。
今回の岩波文庫版は、著者の母語であるスペイン語で書かれたバージョンからの翻訳となる。翻訳者による詳細な解説があるので、作品執筆の背景となった70〜90年代のチリ内外の政治事情を知ることも出来ることから、一読者として有り難い。
これを目にしている貴方が、書店に赴いて『死と乙女』を入手して読んでくれるならば、もう以下の駄文を読む必要は無い。
この増田が読むことを勧めている『死と乙女』とは、どのような作品なのか、読んだことは無いが少しだけ興味が有るという人に向けて、以下を記す。
ただし『死と乙女』の結末に触れる部分があるので、未読で結末は自分で知りたいという人は、ここで一旦、この駄文を読むのをストップしてもらいたい。
また、直接的ではないものの、性暴力に言及する箇所もあるので、精神的な苦痛を喚び起こされる虞がある人は、ここで読むことを止めてもらいたい。
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1970年、南米チリで、サルバドール・アジェンデを大統領とする政権が誕生した。俗に、史上初の民主主義選挙により誕生した社会主義政権とされる。
しかし、アジェンデ政権を皮切りに中南米地域で社会主義国がドミノ倒し的に増加することを怖れた米国ニクソン政権は、チリへの介入を決定する。かくして、米国の後ろ楯を得たピノチェトが起こした軍事クーデターによって、チリは独裁国家となる。
この独裁政権時代のチリでは、多くのチリ国民が政治犯として弾圧され、不当な身柄拘束、拷問、虐殺の対象となっている。
チリ国外に亡命した人間もいる(亡命はしたもののチリ国外で暗殺されたという人間もいる)。映画『イル・ポスティーノ』の主人公の詩人も、そのような逃亡者であったことを、記憶している人もいるかもしれない。或いはまた、ヨーロッパに亡命していたチリの映画監督ミゲル・リティンが、ピノチェト支配下のチリへ潜入して取材する姿を、コロンビア出身ノーベル文学賞受賞作家ガブリエル・ガルシア=マルケスがルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』(邦訳は岩波新書)として著したので、それを読んだ人もいるかもしれない。
本作『死と乙女』の著者アリエル・ドルフマンも、チリ国外に亡命した人間の一人である。
そして『死と乙女』の主人公パウリナ・サラスもまた、ピノチェト政権下で筆舌に尽くし難い苦痛を味わい、生還したチリ国民の一人である。
パウリナの夫ヘラルド・エスコバルは、ピノチェト政権下で、弾圧されている人々をチリ国外に亡命させる手助けをしていた。そのためにヘラルドは、ピノチェト政権当局から弾圧の対象とされた。
しかし、ヘラルドが当局の手を脱して逃亡したので、彼の居場所を吐かせるために秘密警察は、彼の妻であるパウリナの身柄を拘束し、彼女を拷問した。その時、拷問者は、目隠しされたパウリナをレイプしながら、シューベルト作品『死と乙女』をBGMに流したのである。
時が流れて90年代に入ると、チリは民主主義国家へと移行する。ヘラルドが逃亡する必要も、パウリナが夫の隠れ場所を吐かずに耐える必要も無くなり、二人は夫婦として、堂々と暮らせるようになった。しかし、パウリナの心には、拷問による拭いきれない大きな傷が残り、それが二人の暮らしに暗い影を落とし続けていた。
民主主義政権となったチリ政府は、ピノチェト独裁時代に行われた弾圧について、調査究明を行なうと国民に約束し、そのための調査委員会を任命する。今やパウリナの夫ヘラルドは、その調査委員会のメンバーの一人である。これが、物語の開始の時点で、主人公の置かれた状況である。
物語の冒頭、或る晩、ヘラルドは、パウリナの待つ自宅へと自動車で帰る途中、タイヤのパンクにより立往生していたところを、通りがかった医師ロベルト・ミランダに助けられる。ロベルト・ミランダの車で自宅に送り届けられたヘラルドは、夜も遅いし助けてくれたお礼にと言って、ロベルトに自宅へ泊まっていくことを勧める。
結局ロベルト・ミランダはヘラルドの申し出に甘えることにし、ヘラルドが寝室に居るパウリナに声を掛けて、彼女にも客人を泊まらせることを了承させる。
翌朝。
ロベルト・ミランダは、椅子に縛られている。パウリナが、彼にリボルバー拳銃を突き付けている。
それを見て驚く夫ヘラルドと、狼狽する医師ロベルト・ミランダに対して、主人公パウリナは告げる。
「昨夜、この男の声を聴いて気づいた。この男、ロベルト・ミランダこそが『死と乙女』をBGMとして流しながら、あたしを拷問し、レイプした人間だ」と。
ロベルト・ミランダに拳銃を突き付けて「洗い浚い罪を吐かせる」と主張する主人公パウリナに対して、夫ヘラルドは思い止まるように説得する。
チリがピノチェト独裁体制を脱して民主主義国家となったとはいえ、いまだピノチェトを支持するチリ国民も決して少ないとは言えない(現実世界の2023年現在でも、ピノチェト支持者が残っているのだから、民主政権に移行したばかりの90年代前半を時代設定としている物語の中では、尚更である)。独裁政権時代の弾圧活動に関与した人間たちの全てを、罪に問うて処罰しようとしたならば、親ピノチェト派の有権者からの反発を招き、まだ体制も盤石とは言い難い民主主義政権が倒れることになりかねない。最悪の場合、内戦が勃発して、更に血で血を洗う国民同士の殺し合いともなりかねない。
そのため、現実世界のチリで行われた調査も、調査対象事件を「被害者が殺害されたという重大なケース」に限定し、尚且つ、真実を綿密に明らかにした調査報告書を作成する代わりに、弾圧関与者の氏名公表や厳しい処罰を免除するという、謂わば折衷案の形をとらざるを得なかった。
処罰を免除するという条件を餌にした、一種の司法取引によって、ピノチェト独裁政権時代の弾圧に関与した人間に、己の罪を自発的に告白するように促したとも言える。
しかし、もしも調査委員の一人であるヘラルドの妻パウリナが、ロベルト・ミランダを殺害してしまったとしたら、いや、殺害せずとも、拳銃を突き付けてロベルト・ミランダに自白を強要したことが世間に知られたならば。
民主化した政権も、真相究明も、全てが水泡に帰すことになりかねない。
パウリナは、ロベルト・ミランダの命までは取らないことを条件にして、今ここにいるパウリナ、ヘラルド、ロベルト・ミランダの三人で"裁判"を行なうことを強引に承諾させる。かくして、現実のチリで行われた真相究明の動きを追体験するような、緊迫の一夜が、舞台上で演じられることとなる。
以下では、物語の結末に触れているので、未読の人は一旦ここで増田の駄文を読むのを切り上げて、まず『死と乙女』を読んでもらいたい。
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ロベルト・ミランダに罪を告白させること(供述をテープレコーダーに録音した上で、ロベルト自身の手で文字起こしの原稿を書かせ、さらに「自発的に真実を語った」と宣誓する署名までさせること)が出来たミランダは、ロベルトを監禁する前に家から離れた場所へ移動させておいた彼の車を、返すために取りに行くようにと夫ヘラルドに頼む。
そして夫ヘラルドが家を出て二人きりになると、パウリナはロベルト・ミランダに銃口を向け直す。
「真実を告白すれば命を助けると言ったのに、約束が違う!」と抗議するロベルト・ミランダに、銃口を向けるパウリナ。
パウリナは、ロベルト・ミランダの語りを聞いて、心の底からの反省や悔悛が彼には見られないと判断したのだ。
ここで演出として、舞台には幕が降り始め、パウリナとロベルト・ミランダの姿を隠すとともに、その幕は鏡となっており、演劇『死と乙女』を観ている観客たち自身を映し出す手筈になっている。
再び幕が上がると、物語のラスト場面であり、パウリナとヘラルドは、二人で連れ立って、音楽演奏会に出掛けている。演奏の休憩時間では、他の観客と、調査委員会による調査の成果について、夫ヘラルドは語り合っている。
休憩が終わり、演奏が再開される。
すると、その演奏会の会場にロベルト・ミランダが入って来て、主人公夫婦から離れた、ずっと後方の客席に彼は座る。
夫ヘラルドは気づいていないが、パウリナはロベルト・ミランダの存在に気づいて、しばし後ろを振り返り、ロベルト・ミランダを見る。ロベルト・ミランダは、何も言葉を発すること無く、ただ、主人公パウリナに視線を向け続ける。やがてパウリナも、ロベルト・ミランダからは視線を外し、前方(演奏会の舞台があると設定されている方向)を向いて、物語は終わる。
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この増田は、殺したと考えている。(続く)
この項目は情報が不足しているため、下記の生命体からの情報提供を求めています。 対象:地球人、バービー
バーベンハイマー戦争とは、かつてこの宇宙で地球という名称の天体で発生した最後の世界大戦。
時 | 2023年8月6日~2023年8月15日 |
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場所 | 日本、地球全土 |
結果 | 全面核戦争突入で地球が天体消滅 地球外生命体は「バーベンハイマー」という蔑称で戒めることに |
衝突した勢力 | 日本 |
ロシア、北朝鮮、中国 | アメリカ、NATO軍 |
損害 | 地球の消滅、人間における尊厳のゼロ化 |
第二次世界大戦以降、ロシア・ウクライナとは別に発生した最後の世界大戦。 その前にロシアが日本に対して宣戦布告したツイッター戦争、そこから発展したスーサイドウォーもあったが、奇跡的に地球の破壊は回避されていた。
しかし8月6日にアメリカは「すべてを終わらせるため、この日から戦争している場所、そして我々の行為を否定する者に鉄槌を下す」という宣言を元に、世界各地に攻撃を開始され、各国もそれに対抗してアメリカに攻撃、
奇しくも第二次世界大戦が終戦したとされる8月15日に人間などを含めた地球上の生命体は地球という天体が崩壊という結末ですべて消滅したことでこの戦争は終えている。
地球外生命体などを管理する宇宙連合は、国際宇宙ステーションなども含めた生存者確認をしたものの、全人類は滅亡してしまったため、はてな匿名ダイアリーの情報も含めてすべて消滅したと発表している。
なお人間たちは「第三次世界大戦」と呼んでいるが、地球外生命体はこちらも悲惨な結末を迎えたということで、先のツイッター戦争を「大惨事世界大戦」や「スーサイドウォー」と称するように、「バーベンハイマー戦争」と称した蔑称を用いている。
開戦前に公開された映画作品である『バービー』と『オッペンハイマー』の2作品を組み合わせたインターネットミームから取られているが、
これは開戦の理由に「アメリカ主導のヒロシマ・ナガサキの原爆投下」や「本来戦争とは無関係にも関わらず軍事境界線の1つである九段線を登場させた」というのが関係しているため、それらも皮肉にしたのが理由であると火星方面の生命体は説明している。
なお、地球そのものが消滅したため情報がほとんどないため、現在も周辺領域で調査は進んでいるが、高密度の汚染もあって難航している。 またバービー人形も発見されていないため、本当にこの映画で戦争が起きたのかと疑問に思う生命体も多いとされる。
前提として俺の感想は非常に好意的だ。そういう意味では、バッキバキの同業者目線での批判を期待していた人たちにはごめんな。
俺の非常に好意的な感想は、しがないプロデューサーのはしくれの俺に、「吉田プロデューサーとFF16が世界での戦い方を示してくれたこと」ことに尽きる。
そして俺がこれを書こうと思い立ったのは、それなりにレビューや感想合戦が一段落して、
を参考までに、みんなに個人的な感想として伝えられればと思ったからだ。
例えば映画でいってもそうだが、宮崎駿の作品や新海誠の映画作品も邦画じゃAAA級だが、ハリウッドの制作予算に比べれば全然大したことないんだ。「君たちはどう生きるか」が3000万ドル~7000万ドル(あくまで噂)、すずめの戸締まりが1800万ドルって言われてるが、スパイダーマンスパイダーバースは9000万ドル(アクロスザ・スパイダーバースは1億ドルだってよ)、アナ雪は1.5億ドルだそうだ。
正確な数字かはさておき、どう楽観的に見積もってもハリウッド超大作のそれには敵わないんだよ。
FFはみんなが比較に出す洋ゲーのAAAと比べれば開発予算に限界がある。
だからFFはAA級みたいなもんだ。Aが一個足んないんだよ。(ちなみにAAA級の定義は正確には存在しない。AA級っていうのも存在しない。けど大体、意味、わかるだろ?)
AAA級とAA級でなにが違うか?開発予算が違うんだよ。開発予算が違うとなにが変わるか?できることに限りがあるんだよ。
たとえばよく言うゲーマーたちの指摘には、以下のようなものがある。
もちろん正しい意見もあるとは思う。
けど例えば、上でもあげたけど「アナ雪」ってテーマソングの「Let it go」あがったタイミングでプロットを大転換してるんだぜ。エルサはアナと姉妹でもないし、王家でもないし、純粋な悪役だったって話だ。
この大転換は結果として大成功だったわけだが、おそらくこのレベルの変更はそれまで進めていたあらゆる製作に影響を及ぼしたはずだ。具体的には製作途中のものを捨てたり、考え直すための制作期間の延長だ。これ、制作費(必要予算)増えるんだよ。
AAA級は天才たちが七転八倒して作ってるんだ。AA級のFFはそれをしてないわけじゃない。それを許される回数が限られてるんだよ。
これは大筋はゲームメディアなんかが大筋語ってくれてる内容と沿うんだけど、まぁ聞いてくれよ。
俺たちはもうAA国なんだ。AAA国みたいに何でもかんでもぶちこんで、やりたいこと全部やるってのは無理なんだよ。(もちろんAAA国やAAAタイトルが全部やれてるってわけじゃないんだが、相対的な話だ)
AAA級タイトルに慣れた、舌の肥えた俺たちはAAA級と比較してあれが足りないこれが足りないって言うけど、無理なんだよ。
だけど俺はそんな批判をやめろと言ってるわけじゃない。
もっと生産的な考え方をしようぜ、そしたら俺たち日本人のためになるし得だよって話だ。
それは「この要素を弱めて、この要素を足す」だ。これなら開発費(必要予算)は増えない。
その点でいうと、FF16は限られた予算の中で、どこでならAAA級に匹敵する作品を作れるか?について考えに考え抜いたパッケージングをしていると思う。
吉田プロデューサーは天才アーティストではないかもしれないが、天才プロデューサーであると思う。
彼は重圧の中でその取捨選択を、自分の意思を中心に、それをやり遂げた。
このあたりはストーリーと戦闘システムへのフォーカスだが、そのへんはもうほかにもいっぱい語られてるからここでは言及するのやめるわ。
これも実は大きな誤解があると思う。
エルデンリングのざっと調べても開発費は分からなかったが、少なくとも過去作からモーションを使いまわしてるだの、グラフィックはAAA級と比較して見劣りするだの言われてるよな?
それはそうだと思う。そこで開発費の圧縮をしてるってことも事実だと思う。
でも問題はそれじゃない。エルデンリングは過去作を通じて積み上げてきた「魅力的な特徴」がゲームシステムの中心にあるんだよ。
方やFF16はみんなが言ってる通り「FFはおわった」「FFブランドなんてもう存在しない」とか言ってるじゃん。FFがこれまで積み上げてきた資産ってむしろそれしかないだろw
FF15のオープンワールドは世界に通用する資産か?当時からそんな評価じゃなかったろ。
FF15の戦闘システムは世界に通用する資産か?当時からそんな評価じゃなかったろ。
FF15のレベルデザインはフロムゲーのように緻密なデザインだったか?当時からそんな評価じゃなかったろ。
FF16はFF14で積み上げてきた資産(でもMMOだから流用できる資産は直接的じゃなかったはずだ)と、FFという今となっては影の落ちたブランドに基づいて、むしろ日本が誇る「漫画」と「特撮」のゲーム産業とは違う強みを強引に(したたかに)輸入して生み出された日本の元気玉の一つなんだよ。
これは完全に蛇足だけど、ストーリーの締め方に納得いってない人にネタバレすると、FF16はFF1のストーリーのオマージュと対比構造で成り立っている。
だからストーリーに納得いってない人も残念だがこればっかりは受け入れるしかない。
その上で期待していいことが一つある。
吉田プロデューサーは、スクエニはFFを現代において「語り直した」そして戦闘システムとストーリーという新しい武器(最強とは言わんが、AAA級に挑戦するキーアイテムだろ)を手に入れた。
自分の宮崎駿監督に対する身勝手な期待とか甘えを供養するために書く。今作品は期待半分、不安半分という気持ちだった。宣伝なしということだったし、宮崎駿監督作品を事前情報一切なしで視聴できる機会というのはおそらく最初で最後であろうと思ったので、早バレ等も避けるために数日SNS断ちして初日に見に行った。ただ映画館に向かう足取りの中で最後感じていたのは恐怖感だった。子供のころにもののけ姫を見たときの衝撃を再び与えられて、おっさんになった今再度、人生観を揺るがされるかもしれないと―。
さて、いざ蓋を開けてみると、途中まではリアル物なのかファンタジーのどっちなの?というドキドキや不安感。方向性が確定したときに期待感はMAXとなったが、それ以上膨らむことはなくしぼんでいった―。
美術、アニメーションの美しさは申し分ないが、ストーリーは感情移入できない半端な作りと言ったところで、結局、いつもの宮崎監督後期作品という他ない。今、振り返ってみると監督のキャリアハイとしての作品は千と千尋の神隠しあたりになるのだろうが、その千と千尋も後半から、この半端さの片鱗がある。例えば終盤、千尋は豚の中に両親がいないことを見抜くが劇中にその説明はない。しかしながら説明不足ではあっても、千尋とハクとの心のふれあいみたいなものが十二分に描かれているから、感情的に押しきれている。手を離すシーンとか思い出しただけで泣けるわ。
しかしながら、君生きはストーリーっぽいものや感情の揺らぎみたいな表現はあるものの、説得力というか、それ自体の根拠がはっきりと提示されないから、大抵の観客は感情移入できずに戸惑いを覚えると思う。例えば劇中で主人公の自傷行為や継母の拒絶が描かれるが、その感情の根っこが分からないので観客は困る。自傷はもっと構ってもらいたかったのかな?とか拒絶はやっぱり連れ子がうざかったのかな?とか想像はできるけど見てる側はそれを確定させる要素がないから、多分こうだろうとか理由を補完して見ていくしかない。つまり作品に気を遣う状態になるわけで、それは相当きつい。忖度は要求されるが、圧倒的な感情の「分からせ」がない(※)。監督が一人で突っ走ってる。観客は置いてけぼり。かつて宮崎監督は、見終わったあとに2階から出てくる感覚になるような映画がいいとか言っていたような気がするが(ソース探したが見つからず)、君生きは観客が一生懸命2階への階段を必死に探すものの見つけられないまま塔の中で迷子になり、最後にパヤオだけが悠然と2階から出てくるという感じだろうか(画・浜岡賢次で想像してもらいたい)。
あとはヒロイン?3人は多すぎる。実母に継母に婆さんでしょ?詰め込み過ぎて破綻する典型。正直、継母は全部削除して、序盤で実母エピソード増やして、実母を探しに塔に行く形にして、最後、実母ときれいに別れてで多少は形になったろうにね。もっとシナリオ段階で練ればいいのに…もったいない。
もう一つ、主人公が大叔父と話した後に、急にインコに囚われてるシーンになるが謎過ぎる。壁につながれた手が映ってからの下にパンしたときに、実母でも継母でもなくお前かーいってなったのが一番面白かったかもわからない。宮崎監督が過去、インディジョーンズの潜水艦移動を批判していたが( https://ei-gataro.hatenablog.jp/entry/20131030/p1 )、それと似たり寄ったりだろう。いくら異世界?だからといってワープしすぎである。
※ 宮崎監督とも対談したことのある養老孟司は「バカの壁」において強制了解という語をつかった(p.41)。例えば数学においては前提と論理を共有しているのであれば同じ結論に達せざるを得ない。ある定理の証明を正しく説明されたのであれば、その正しさを了解せざるを得ない。そういった強制力を強制了解と呼んだ。そうした強制力は感情においても成立する。例えば電車で子供が騒いでるのをぼけっと放置している父親がいたとして、普通はそれを理解できないが、もし父親が「実は母親が病院で亡くなって帰る所で、これからどうしていこうかと悩んでいたところなんです」と説明されれば、事情は理解できるだろう。事情が分かれば感情を了解できる。それは物語を受容する過程でも同じことが言えると思う。
なお、この流れで養老は他人の気持ちが理解できることを重視すると同時に、「個性」信奉を批判する。そんなに個性が大事かと。存分に「個性」を発揮している人は病院にいるという。白い壁に毎日、大便で名前を書く患者がいるらしい。芸術的にみればすごいかもわからないが、現実的には大変迷惑でたまらないだろうとのこと。奇しくも本作においては継母の美しい顔が鳥糞まみれになる描写があるのでそういう個性的なスカトロジー的芸術に理解を示す人はいるかもしれない。
こうした一見てんでバラバラに見えるような物語の断片も、もしかしたら宮崎監督だけには分かるのかもしれない。スピルバーグだか有名監督が誰にも分らない映画つくるのはホームムービー撮ってるのと同じだ的なことを言っていた気がするが、もしかしたら本当に宮崎監督はホームムービーを撮ってしまったのかもしれない。自分だけがわかる映画作品を作れるとしたら、映画監督としては最高の贅沢だろう。自分用の映画、私小説と言われたらなるほどという気もする。今回、宣伝がなかったという点でも符号する。これはもはや天才にだけ許された所業なのかもしれない(現実に実行可能という意味で)。
ナウシカだったと思うが、興行的に大失敗とはならなかったことから次の作品を作るチケットを手に入れたみたいな監督のインタビューがあった気がする。ジブリブランドが確立するまではコケたら次はない状態であったろうから、興行面は大変重視されたことだろう。つまり天才は大衆に合わせてくれていたわけである。しかしブランド確立された今となっては、大衆を気にすることなく好きな作品を作れるというわけである(ジブリの体制を維持できなかった点には目をつむるとして)。だから今もしかしたら「天才が本当にやりたかったこと」を我々は目にしているのかもしれない。
過去、パヤオ的感性としてはもっとアニメーション表現に全振りしたかったのだろうが、それじゃあ興行的に成立しないから、ストーリーもしっかりさせていたというのが過去の名作への向き合い方だったのだろうか。我々、一般大衆は天才の現実的な妥協のお陰で、(大衆的には)名作となる過去の珠玉を見せてもらえていたということなのだろうか。凡人が天才にちょっと付き合ってもらったという感じ。天才はちょっと退屈していたのかもしれない。大衆は今の退屈を嘆くのではなく、昔、天才に付き合ってもらっていたということを感謝すべきなのかもしれない。
この作品のそういった諸々の分からなさに対してなんとか理解しようとする感想や、なんとか説明しようとする解説記事などが上がっているのを見かけるが、なんとも物悲しい。めっちゃ面白い作品を骨までしゃぶりつくしたい!という渇望から生まれてくる文章はいい。例えばもののけ姫においては「『もののけ姫』を描く、語る 」というムック本があったのだが、それには一ファンから文筆家まで様々な人々の作品に対するとてつもない熱量で溢れている。でも味のしない作品をなんとかして食えるようにしたいという動機から解説を書いたり、それに群がることの虚しさよ。宮崎監督だから面白いはずなんてことはない。権威主義的だし、もうそれは諦めて次に行こうよ。これを知っていれば、本当は面白いんだよって本気で思っている人もいるかも知れない。でもそういう解説を必要とすればするほど、その面白さが作品内で素直に伝わってないことの裏返しである。野球の大谷がいくら凄いからって彼の(打者としての)ファールや三振をありがたがったりしないでしょ?今回の打席は残念だったねでいいじゃんね。(もちろん宮崎監督の場合、次があるかは分らんが)
さて、作品の表題に立ち返ってみると、これは疑問形である。作品としては名作とはとても言い難い。しかし聴衆に対する問いであると捉えたらどうであろうか。物語がてんで成立していないのに問いかけを見出すことができるのか?うーん正直、自分には無理。味がしないんだから問われたとも感じない。
しかし確かに思ったことがある。それは、大叔父のようなお爺さんに期待するんじゃなくて、自分が見たい作品があるのなら、他にそれを提供してくれる別の人を見つけるか、もしくは自分で作るべきだということ。初めから品質保証なんてものはなかった。自分が勝手に期待して、勝手に失望しているだけのことである。
最後に話がそれるが、しかしながらなぜ我々大衆は次々と名作を望むのであろうか。新作を批判すると「じゃあ、過去の名作繰り返し見とけや!」って言われるかもしれない。そう言われるとちょっと答えに窮する。何度も見ればストーリーも覚え、感動も薄れてくる。やっぱり初見の衝撃に叶うものはないということだろうか。それを再び味わいたくて次の名作を追い求めているのかもしれない。キリがないし、わがままだなって思われるかもしれないが、正直人としての性としか言いようがなくないか?そこを内省しだしたら仙人になるしかない気がする。
あとは現実がつらいからね。時には金払ってちょっといい気分になりたい!ぐらい許してほしい。こっちは作者の高尚な構想にがんばってついていく苦行やマラソンじゃなくて、自動で楽しませてくれるジェットコースターに乗りたいの!
で、初見という点で最近思っていることは「私の体験」を大事にすることが重要なんじゃないかと思っている。ゲームでもなんでもあまりレビューを見ずに体験するように心がけている。あらかじめレビューを見て他の人が面白い!星4以上!と言っている作品なら、安定して面白いかもしれないが、半分ネタバレのようなものではないか?
若い人にはタイパを優先しすぎて自己の視聴体験やプレイ体験を損なっていないかと問いたい。面白さの保険料として自身の体験・感動を売っていないか?と。おじさんおばさんは子供のころに自分で図書館で本を表紙で選んで借りた体験とか、ネットもない時代にゲーム屋で「クソゲーかも知れんがままよ!」と覚悟してゲーム買った記憶とかを思い出してほしい。そういう多少、損するかもと思ってもクソ作品を引く勇気をもって、一対一で作品と向き合う、ぶつかってみるということを時々でもした方がいい気がする。だから、今回、作品に対しては残念だったが後悔はない。純度100%の自分の感想を持てた。展覧会的な感じでいろんなアニメーションを見せてもらったという感触では数千円も損したという気もしない。今後もどんどん色んな作品に触れていきたいと思っている。例えばポノックの次作品はちょっと子供向けだろうけど、子供と一緒に見に行こうかなと思ってる。
視聴しながら、ぼんやりと宮崎監督がゲド戦記作るとしたらこんな感じだろうなと思った。影との戦いでゲドは船で移動するし、ところどころの魔法感や大叔父は大賢者になったゲドのイメージだなと感じた。大叔父のイケオジ度は過去最高かも分らんので一見の価値はあると思う。
インコの大王を追いかける時に螺旋階段を落とされるシーンがあったが、長靴をはいた猫での魔王と主人公たちとの大立ち回りを彷彿させた。この作品の監督は宮崎ではないが、そのクライマックス部分は大塚康生との二人で原画担当した箇所であり、とにかく面白い( https://www.ghibli.jp/shuppan/old/pickup/nagagutsu/ )。1969年の作品なので絵のきれいさはどうしても現代の作品には見劣りするがアニメーションの面白さは今でも通用する。未見の人はぜひ見て欲しい。君生きよりよっぽど面白いと思う。で、君生きでは大王がラスボスっぽくでてくるが大した戦いもなく終わってしまうのであっけない。長靴をはいた猫でのアクションを思い出しただけに、「あ、これだけなのか・・・」という虚しさが半端なかった。念入りに階段落とさせたり、序盤で主人公の着替え丁寧に描写するぐらいならもっと面白いカット増やした方が良かったろうにって思っちゃう。
使いまわし多いし、特に盛り上がる曲もなし。3日で作りましたと言われても信じるレベル。久石譲も「これぐらいの作品ならこれでいいや」って感じだったと思う。絶対、名曲ストック持ってるだろうと思うが、映像側がそれを引き出せなかったというのは至極残念に思う。米津曲も悪くはないけど、作為がちょっと鼻についたかな。いつも何度でもみたいな作品とのマッチ感は正直ない。と言っても作品の味がしないのでどうしようもない気もする。そういう意味では米津もかわいそう。
黒人女優を起用したリトルマーメイドが性懲りも無く物議を醸している。
米国では某ネズミの会社を筆頭として、数年前から多種多様な人種を起用した映画作品の展開が続いており、しばしばファンの間で話題になっているが、中でも既存キャラクターの人種を変える今回のようなパターンでは特に炎上や揶揄が起きやすい。
しかもそういった取組がその人種から支持を得られているかというとそう単純な話でもないようで、ゼンデイヤの「私は白人ウケの良い黒人」発言にあるように、見た目上で人種の置き換えを行なったところで、民族性は無視されている、ゆえにポリコレとしては片手落ちであるというメンドクサイ議論もあちらでは巻き起こっているらしい。(まぁハリウッド映画で散々コレジャナイ日本人を見ているので気持ちは分からんでもない)
ブラックパンサーが大ヒットしたように、最初からエスニシティを前面に押し出したキャラクターないしヒーローを新たに打ち出せばいいようにも思えるが、どういうわけかアメリカという国はキャラクターコンテンツの新陳代謝が悪く、ディズニーのようなクラシックからアメコミのようなサブカルまで、何十年も同じキャラを擦るという特性がある。(というかブラックパンサーも60年台から擦られ続けている)
加えて、さまざまなインタビューを見るに、どうもあちらの女性には「◯◯姫になれなかった」ルサンチマンがあるらしい。リトルマーメイドで言えば、肌の色ゆえにアリエルになることを諦めた少女達がいるというわけだ。それは確かに良いことではないが、そもそもプリンセスという古い類型に囚われる必要もないのではないか、という方向性の議論は寡聞にして知らない。なぜならアメリカのコンテンツは古典があまりにも強すぎて、新しいキャラクターが生まれてもヒットするのはごく限られた一部しかなく、よって過去に目を向けるしかないわけである。
①古典が強すぎる環境、②プリンセス•ルサンチマンという2つの要素が組み合わさることにより、「じゃあ人気のある既存キャラクターの人種を変えよう!」という判断を下しているのが今のアメリカにおけるエンタメジャイアント達なわけであるが、これは結局のところ古典を別な方向から強化しているだけで、今この時の自分達を肯定するメッセージとは似て非なるモノだ。
ようするに現在主流のポリコレというやつは同じ理想像の再生産をしているだけであり、全ての人種でリトルマーメイドの映画を作れないように持続性がないのである。
失敗したのは3Dテレビであって、3D映像、3D映画の可能性はまだまだ無限大である。
3D映画対応の映画館は少ないし、3Dテレビが売れなくて家で見られないのに普及するはずないだろって言う人もいるが、実は3D映像はVRで見られる。これ知らない人が多い。
MetaQuest2でもPico4でも3D映画作品が売られてる。Pico4の場合、無料で見放題になってたので見た人も多そう。
VR使って初めて3D映像を見たけど、迫力が普通の映画と全然違うのは確か。これは凄すぎる。
来年にはPSVR2もAppleVRも出るし、アバターが5まで作られるのもVR使ってのソフト売りを見込んでのことだろう。AppleVRの目玉コンテンツとしてアバターがあるかも。
北村紗衣さんの著書『批評の教室ーチョウのように読み、ハチのように書くー』(ちくま新書)が面白い(ダイレクトマーケティング)。
一言で言えば『批評の教室』は、読書を単に「面白かった」で済ませるのではなく、より深く楽しむために、精読・分析・批評執筆を如何に行なうかを、初心者向けに平易に解説した本である。文学作品・書籍だけでなく、映画作品等についての批評も視野に入れて書かれているので、他のジャンルへの応用も可能だろう。初心者向けとしては悪くない。図書館などで試し読みするなり、書店で購入するなりして欲しい。
同書には、冒頭から良いことが書いてある。一つの作品について良い批評を行なうためには、他の作品・文献なども読み漁り、多角的に観察・考察を行なうといった主旨の、大抵の読書術・批評入門には書いてあるような良いことである。
最初に私は、この本のことを「面白い」と書いた。しかし正直に言えば、それは本来の意味と違う意味の、意地が悪い面白さである。
今日現在の一般読者が『批評の教室』を読んだならば、きっと次のように思うことだろう。
「草津町長及び町民のことを、イプセンの『民衆の敵』に擬えて、一方的に悪者扱いした時、北村紗衣さんは、広く情報源に当たり、多角的に観察・考察することをしなかったのだろうか?」
「あの町議の告発書籍や草津町議会の記録を読めば、判断を誤らなかったもしれないのに、北村紗衣さんは読まなかったのだろうか?」
「読まなかったとすれば、それは手抜きではないか。北村紗衣さんは、肝心の方法論を実践できていないではないか」
「何故、北村紗衣さんは、自分では実践できない方法論を、読者に推奨しているのだろうか?」
この「他ならぬ北村紗衣さんが実践できていない」というのは、同書のサブタイトルにも顕れている。
同書のサブタイトル「チョウのように読み、ハチのように書く」というのは、ボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリを形容する言葉「蝶のように舞い、蜂のように刺す(float like a butterfly, sting like a bee)」を捩ったものである。これは同書にも明記してある。
私は格闘技が好きなので、ここで少しだけそういった話をさせてもらう。
モハメド・アリ以前のヘビー級ボクシングとは、大男が鈍重な動きで力任せに殴り合うような代物だった。そんな場所にモハメド・アリは、まるで軽量級のように軽やかにリングを縦横無尽に動き回る華麗なフットワークと、的確なジャブを活用する力任せではないアウトボクシングを持ち込んだ。しかもモハメド・アリは、対戦相手のジャブに、自分の右ストレートをカウンターで合わせることすら出来た。「神業」という言葉は、モハメド・アリのボクシングのためにある。そんなことすら思う。
文字通り、モハメド・アリはヘビー級ボクシングの革命児であった。「蝶のように舞い」とは「対戦相手の攻撃を華麗に躱す姿」を、「蜂のように刺す」とは「一撃だけでも致命傷となりうるような鋭い拳を対戦相手に打ち込む姿」を、それぞれ表現したものである。分かりやすく言い換えれば、全盛期のモハメド・アリのボクシングは、ワンサイドゲームである。
さて、北村紗衣さんは『批評の教室』の読者には、読書に付き纏う「腰を据えて、地道に読み進める」といった古い先入観を払拭し、花から花へヒラヒラと飛び回る蝶のように、もっと自由に沢山の本から本へと次々に読み回るようにして欲しいと、そんな思いを込めて「チョウのように読み」という言葉をサブタイトルに入れたようである。
沢山の本を読んで見識を広げるというのは、非常に良いことなので、それを奨めること自体には異論は無い。しかし、それを表現するためにモハメド・アリの形容である「蝶のように舞い」という言葉を用いるのは、ハッキリと言えば「的外れ」ではないだろうか。
「蝶のように舞い」と言うのは、対戦相手の打撃攻撃を躱すという防衛行動を不可分・不可欠な要素として含む、ボクシングという打撃系格闘技の中で用いられるからこそ意味を持ちうる言葉・表現なのである。それも、ただ躱すのではない。モハメド・アリが立っていた場所は、リングという狭く限定された空間である。その狭い空間を最大限に有効活用し、対戦相手の攻撃をスレスレで躱していたからこそ、モハメド・アリは称賛されたのである。単に躱すというだけならば、それがリングの外の広い空間であれば、足の速い人間は走って逃げることも出来よう。しかし、狭いリングの上に逃げ場は無い。逃げ場が無い状況下で、対戦相手の攻撃を華麗に躱していたからこそ、モハメド・アリは称賛されたのである。それにまた、ボクシング(だけでなく打撃系格闘技全般)は、顔が腫れ上がったり流血したりと、非常にハードなものである。そのようにハードな格闘技の中で、場違いとすら言えるような華麗な舞いを見せたからこそ、モハメド・アリは称賛されたのである。決してモハメド・アリは、一つの場所から別の場所へと自由に動き回れる状況下で、蝶のように動いたのではない。逃げ場の無い空間的な制限の下で、死中に活を求めるためにモハメド・アリが身につけて実践したものこそが「蝶のように舞う」動きなのである。
北村紗衣さんは、読書のスタイルとして「チョウのように読み」と言うが、モハメド・アリの「蝶のように舞い」という言葉を、表面的にしか理解していないのではないだろうか。上で述べたような「蝶のように舞い」という言葉の持つ『重み』を、本当に理解していたら、本から本へと自由に飛び回ることの形容に当て嵌まる言葉なのか否かと、違和感を持つのではないだろうか。そもそも、読書には攻撃を躱す必要が無い。躱すどころか、先ずは書いてあることを受け止めなければ、読書は始まらない。
北村紗衣さんは、自ら「私(北村紗衣さん)の言語化能力を知りたければ『批評の教室』を読め」と言う(Twitterで批判者から自身の言語化能力に疑いを持たれたことに立腹したために出た言葉である)。確かに『批評の教室』を読めば、北村紗衣さんの言語化能力を窺い知ることが出来るであろう。自著のサブタイトルに使うほどの重要な言葉を、表面的にしか理解していないままで使うという、底の浅さを。
まあ、私のような格闘技好きが「チョウのように云々」の意味に拘ることは、北村紗衣さんにはどうでもよいのかもしれない。しかし、北村紗衣さんが草津町長及び町民を一方的に悪者扱いしたことが知れ渡った今では、この「チョウのように読み」という言葉からは、ポジティブな印象よりも、むしろ「軽佻浮薄」というネガティブな印象を受ける人が少なくないのではないだろうか。「読書をするにしても、そのような軽佻浮薄な読み方しかしていないから、言葉や物事を表面的にしか理解していないから、深く理解しようとしないから、草津町長及び町民のことも安易に悪者扱いしたのではないか」と。
それにしても、沢山の本を読むことを表現したり推奨したりするだけならば、単純に「読書というものは『乱読・濫読』で構わない」と言えば済むのではないだろうか。ただ、そういう風に言うのは「お洒落」ではない。だから「チョウのように読み」とお洒落っぽい言葉を採用した。そういったところではないだろうか。
これは個人的な意見ではあるが、サブタイトルに「チョウのように読み」という言葉を入れるのは「ダサピンク現象」の一つに思える。「女性を読者として取り込みたい。女性は蝶々とかが好きでしょ?」みたいな。ジェンダーの押し付けと言えばいいのだろうか。
高い言語化能力を持つはずの北村紗衣さんは、自著のサブタイトルでダサピンク現象やジェンダーの押し付けが発生することに、違和感を持たなかったのだろうか。
草津町長の公式声明が出された後にTwitter上で北村紗衣さんが表明した、一連のツイートについて、読解とそれに基づく批評を試みたいと思う。
まず一連のツイートから、北村さんの言いたいことの骨子をまとめると、概ね次のようになる。
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(1) 私(北村紗衣さん)は、わずか1回しか、草津町長及び町民への誹謗中傷は行なっていない。
(2) わずか1回なので、草津町長や町民から告訴される可能性は、極めて低い。
(3) 私(北村紗衣さん)が告訴される可能性や処罰される可能性は、極めて低い。それにも関わらず、私(北村紗衣さん)は自発的に謝罪した。これは、私(北村紗衣さん)の良心の顕れである。
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一読して最初に感じるのは、北村紗衣さんは、読者に向けて「誹謗中傷の回数の少なさ」と「告訴される可能性の低さ」を強調したいのだろうという印象である。
まず(1)についてである。法廷において弁護士側・被告人側が行なう法廷戦術として展開する弁論だったならば、然程おかしくはない。しかし、法廷外で被害者に向けて謝罪する場面での言葉として見たら、どうだろうか。加害者にほかならない北村紗衣さん自身が「犯罪と見做されかねない行為の回数の少なさ」を強調する姿を見て、被害者である草津町長や町民は「北村さんは真摯な人だなあ」と思ってくれるのだろうか。むしろ、逆に「一見すると、この人は謝罪しているように見せているが、実際は自分がしたことを矮小化しようとするのに懸命だなあ」と解釈しないのだろうか。
時々、他人に損害を与えた側の人間が、損害を被った側の人間に対して「たかが✕✕ぐらいで」などと言って、不必要な怒りを買うという場面に出くわすことがある。それと同じ誤ちを、現在の北村紗衣さんも犯してはいないだろうか。
次に(2)であるが、これも(1)と同様である。草津町長や町民は、むしろ「なるほど、告訴されないラインを見極めてから、誹謗中傷を行なっていたんだな。狡猾だな」と解釈しないのだろうか。
ハッキリ言えば、今回の北村紗衣さんが草津町長及び町民に対して行なったことは、関東大震災の時に「在日朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」という流言蜚語に乗って、在日朝鮮人を私刑に掛けようとした暴徒と同レベルである。私刑が初期段階でストップしたから、草津町長が無実の罪で刑務所に送られずに済んだという、本当に不幸中の幸いだったというだけのことである。被害者たちからすれば堪った話ではない。
では、その暴徒が「リンチに掛けようとしたのは、たったの一回だけ」「未遂で済んで実害は無かったのだから、重い罪にはならない」「自分は暴徒の群れの中にいた一人に過ぎない」と言ったとしたら、あなたはそれを見て「この人は誠実な人、良心的な人だなあ」と思うだろうか。そういうことである。
続いて(3)である。北村紗衣さんは「私は既に謝罪した」と主張するのであるが、北村さんの一連のツイートを追ってみたのだが、草津町長及び町民に宛てた『謝罪文』らしきものは見当たらない。小説や映画のDVDで前の頁やチャプターに遡って、伏線を見落としてはいないかと確認するように、北村紗衣さんの一連のツイートを確認したのだが見当たらない。これはイーロン・マスクに掻き回されたことによる、Twitterの不具合なのだろうか。
或いは、北村紗衣さんは「謝罪したいと思います」という言葉が、謝罪に該当するのだと主張するかもしれない。しかし「ご飯を食べたいと思います」と言うことと、実際にご飯を食べることは、やはり別の話であると私は思うのである。私がどう思おうが関係は無いと、北村紗衣さんは言うかもしれない。
では例えば、北村紗衣さんを呉座勇一と比較したら、どうだろうか。
呉座勇一が北村紗衣さんに宛てて記し、pdf文書として公に発表した謝罪文のような、誰に対して、何について謝罪するのか、再発防止のためにどのような取り組みをするのか等を明記したものは、現在のところ見当たらない。これは私が見落としただけなのであろうか。本当に北村紗衣さんは、草津町長及び町民に向けた明確な謝罪文を発表したのだろうか。これは、事実についての確認である。
呉座勇一という謝罪と処罰の実例が存在する以上、北村紗衣さんの謝罪が比較対象として俎上に載せられるのは、至極当然であると言える。
もしも、既に北村紗衣さんが、呉座勇一と同レベルの、草津町長及び町民に対する謝罪声明文を出しているのであれば、それを固定ツイートとして最上段に持ってきて、必ず閲覧者の目に留まるようにした方が無難であろう。謝罪する羽目になったことを、北村紗衣さんが大衆の記憶に残したくない、連続ツイートの波によって押し流してしまいたいというのであれば話は別であるが、真逆そんなことは無いだろう。
さらに言えば、北村紗衣さんは「告訴を受ける可能性、処罰を受ける可能性が低いのにも関わらず、自発的に謝罪したのだから、私が良心的な人間であることを他者に示すことが出来た」と考えているようであるが、果たして草津町長及び町民が、北村さんの望み通りの解釈や反応を示してくれるだろうか。
北村紗衣さんは「私が告訴や処罰の対象となる可能性は、極めて低い」とアピールすることで、草津町長及び町民に「なるほど。処罰される心配や責任を取る心配が無いと見越したからこそ、安心して謝罪のポーズを取ったのか」と解釈されるという可能性には、思い至らなかったのだろうか。
最後に(4)である。北村紗衣さんが「私は良心的な人間です」と草津町長及び町民に対してアピールすることは、これは北村さんの自由である。しかし、そのアピールの内容に説得力があるか否か、それを草津町長及び町民に信じさせることが出来るか否かは、また別の問題である。他者が北村紗衣さんの言葉をどのように解釈するか、彼らの内心を強制することは出来ない。
既に述べたとおり(1)〜(3)の主張は、北村紗衣さんが草津町長及び町民に大きな誤解をされかねない要素を多分に含んでいる。北村紗衣さんのことを誤解したままで「私(北村紗衣さん)は良心的な人間です」と言われても、草津町長及び町民の目から見れば、余り説得力を持たないのではないだろうか。
文学研究の専門家に対して、このようなことを言うのは釈迦に説法であり、忸怩たる思いがあるのだが、(1)〜(3)のように読者が芳しくない印象を抱くであろう文章を公表するというのは、それが本来の意図した効果ではない限りは、北村紗衣さんの学術的能力にも疑問符が付けられることになりかねないのではないだろうか。北村紗衣さんのように、誠実で、良心的で、学術的能力に恵まれた人間が、不必要に誤解されること、不当な低評価を受けることは、学術界のみならず社会にとっても大きな損失である。
北村紗衣さんは、ご自身の意図や目的に沿うように文章を十分に推敲して、練り直してから発表した方が良いのではないだろうか。
文学作品や映画作品に明るく、それらについての読解及び批評の専門家であるのだから、北村紗衣さんは「もしも、彼女(北村紗衣さん自身)がフィクション作品の登場人物だったとしたら」と、少しだけ考えてみてもらいたい。北村紗衣さんが批評家や文芸編集者の立場だったとして、作家が「真摯に反省して謝罪している、良心的な人間の姿を描いた」として、上の(1)〜(4)のような描写の為された原稿を提出してきたら「作家が意図した効果は出ていない」と評するのではないだろうか。
もしもこれがフィクション作品であり、北村紗衣さんが登場人物であるのならば、一人の読者としての私は(1)〜(4)の描写に基づいて「表面的には反省や謝罪の言葉を述べているものの、罪に対する罰や責任からは逃れようとしている人物を描いている。それによって作者は、人間のエゴイズムや弱さや愚かさを描こうとしているのであろう」という感想を抱くと思う。それは果たして、作者である北村紗衣さんが意図した効果を生んでいると言えるのだろうか。
このような感想を抱くのは「告訴やそれに伴う法的な処罰の対象となる可能性が低い」ことを、結局のところ、北村紗衣さんは喜んでいるのか、それとも申し訳なく思っているのか、あるいは他の思いを抱いているのか、その点についての描写が不明確だからである。
例えば「司法機関に『私を処罰して下さい』と申請したのだが『法的な要件を満たさないので、処罰はできない』と回答を受けた。罪が重いのに罰を受けないままでは、あまりにも心苦しい。だから、せめて草津町長及び町民の前で謝罪させてもらう機会を与えて欲しい」とか「私が懇意にしているマスメディア関係者に働きかけて、草津町に関する訂正報道や謝罪文が掲載されるように協力してもらう」とか「呉座勇一と同様に職を去る」とか、そういった具体的な描写が無さすぎる。これでは「この登場人物は、本当は良心的な人間であり、真摯に反省しているのだ」と、読者は思わないのではないか。
北村紗衣さんのしたことに見合う罰がどのようなものかは、私には分からないし、私には北村さんを罰する権限も資格も無い。だから私は、北村紗衣さんを罰するつもりは毛頭無い。しかし人間は、己の行動を罪深いと本心から思っている時には、他人からの処罰を受けるか否かには関わりなく、自らで自らを罰したり、償いのための行動を自らに課したりすることが出来る生き物である。だからこそ、優れた文学その他の芸術は、自らの罪と真摯に向き合う人間たちを描いてきたし、北村紗衣さんもそのような作品を愛してきたのではないか。
そのような文学その他の芸術に登場する真摯な人たちと比べて、北村紗衣さんは自分自身のことを、どう思うのか。
或いは、私の解読や批評など取り合う必要も価値も無いと、北村紗衣さんは判断するかもしれない。実際、Twitter上で北村紗衣さんは、草津町長及び町民に対する誹謗中傷について北村さんのことを批判する人間に対して「あなたに自分のことをどう思われようが構わない」という主旨の発言を、今日現在でも繰り返している。しかし、無関係な人間は口出しをするなと言うのであれば、そもそも草津町に縁もゆかりも無い北村紗衣さんが介入したことを、どのように説明し、正当化するつもりなのか。英米文学に明るい北村紗衣さんならば、ジョン・ダンの「なんびとも一島嶼にてはあらず」という言葉を知っているはずである。あなたや我々は、一島嶼なのか、大陸の一部なのか。
そもそも、北村紗衣さんが「あなたは草津町に関係ない」と言った相手は、本当に無関係なのか。Twitterで「あなたにどう思われようが関係ない」と北村紗衣さんが言った相手が、もしかしたら、実は草津町民であった。そのような可能性を、北村紗衣さんは全く考えなかったのだろうか。この文章を書いているのも、草津町民なのではないか。そんな可能性は無いのか。
北村紗衣さんが本当に反省しているのか否か、嘘偽りのない北村紗衣さんの実際の姿を、自分の目で見極めるために、敢えて彼らは、草津町民であることを明かさなかっただけかもしれない。そのような想像力を働かせることこそが、文学によって培われる能力なのではないだろうか。北村紗衣さんは、文学研究を通じて、そのような能力を培おうとはしなかったのだろうか。
もしも、北村紗衣さんが愛した文学作品や芸術作品が、北村さんの中にそのような想像力を少しも育まなかったのだとしたら、これほど悲しいことはあるまい。そのような悲しいことが無いことを、私は願っている。
最近ポリコレによってさまざまな創作物が強制的に現代の価値観に無理やり置き換えられ反感を買うことが増えている。
特に映画や映像作品で特に顕著で、原作にあった背景までも無視する改変ぶりに辟易している人は数多くいるわけだ。
商売から見てもバイオハザードのシリーズがシーズン1で終了するなど明らかに悪影響が発生しているのにそれをやめようとしない。
そもそも言えばポリコレに配慮していようが、その作品の出来が良ければ「それはそれであり」になるはずだ。それが出来ていないのだからポリコレが害悪になるのだ。
市民団体など圧力団体のせいってことも言えそうだけど、もうちょっとこの話は根深いし業が深い。
この話をするには近年のコンテンツ産業におけるとあるジレンマが関係している。それはアーカイブ化だ。
たとえばテレビアニメの場合、昔なら放送したらそれでおしまいだったから再放送がしばしばあった。機動戦士ガンダムなんかは再放送で人気が出た。
それがVTRになってVHSビデオを経て、DVDになって、そして現在それは配信に姿を変えた。
配信になったことで今じゃアマゾンプライムに加入すれば機動戦士ガンダムがある程度画質強化の上で、全話見ることが出来るわけだ。
レンタルで借りる手間もなく、カタログから選べば即視聴できる。
これだけなら実はそこまで問題ではない。厄介のはこの先の話。
既存のコンテンツはあくまで当時の技術で作られたものだから画質や品質が残念になりがちだ。
ところがここにデジタル技術とAIが入り込んできて事態は急変した。古い映画作品でも4K画質に耐えられる画質にされてしまった。
新作映画だと思ったら、ものすごく古い映画だったなんてこともしばしばだ。
そりゃそうだ。映像表現能力は2000年代中盤以降素人目にはほとんど分からない状態になってしまったところに高画質化技術が入って解像度が上がったのだから。
ゲームですらこの傾向が生まれている。かつてはリマスターで売りなおせばよかったのに、マイクロソフトは自動4K HDR フレームレート上昇を半自動で行う。
毎秒30コマで動かす前提でゲームを設計しているものが自動で60コマにされてしまう。ソニックのゲームが旧作なのに新作のような動きで動いてしまう。
つまり、過去作と新作はもはや垣根が存在しない。出来がいいものは延々と売れ続ける。任天堂スイッチのゼルダやマリオカートが延々と売れ続けるように。
こうなると新作を作っているところはたまったもんじゃない。新作だけを競合にしていたのに、過去作までもが競争相手になったらそりゃ無理ゲーだ。
だけど任天堂のように膨大なキャッシュフローを背景に品質上昇のためなら完成したゲームを塩漬けにしてもいいと言えるお化け企業にはなれないのだ。
ゆえに、どうするか、過去の作品を潰すしかないのだ。すなわち焚書である。
だが焚書には大義名分が必要だ。特定の権力者の命令ってことにすれば焚書も可能だが、現代においてそれは難しい。
だからこそゆがんだ正義感を利用する。過去作品は現代の価値観にそぐわないから排斥し、現代の価値観(ということにしたもの)に合わせた作品だけ
利用すればよいのだ。つまるところポリコレというのはあくまで商売のために行う焚書を行う上での大義名分に過ぎないのである。
で、結果と言えば普遍的なコンテンツを作っているところは延々と作品をアーカイブし続け、収益を得るかディズニーのようにアーカイブのために企業を買収するとかが横行しているわけだ。
そんなポリコレを適用したがるのは概ね、アーカイブが十分にできなかった負け組であり、そこが中途半端な予算とポリシーで過去作を墓から掘り起こしていれば失敗するのが道理なのである。