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はてなキーワード: 三十路とは

2024-11-19

仕事ができる子に嫉妬してた

人生に疲れてる感じがして、辛いかもしれない。

もうおばさんと言われる年齢だ。職場で働いている中で悩みがある。将来のことだ。このままずっと、これでいいのか不安しょうがない。

十年くらい、関西にある地元市役所臨時職員(※今は会計年度任用職員)として採用されて、働き続けてきた。

部署の異動は一度だけ。最初水道の庶務の仕事だった。今の部署はさすがに言えない。ごめん。

会計年度任用職員略称としては会任なんだけど、それになってからは異動がない。臨時職員アルバイトパートだとすると、会任は契約社員位置づけである

ずっと同じ部署にいても、民間みたいに正社員転換しないといけないルールはないらしい。長い人だと、地籍調査とか用地取得部署で、正規じゃないのに15年以上働いてる人もいる。

私の人生の何がつらいのか、書き綴ろうとしたけどまとまらない。何がどう辛いのか、自分でわからないところがある。しいていうと、恋愛とか、結婚だろうか。世の中の一般女性にとって大事なことだ。

私は女らしくないし、あまり可愛くもないし、なんならハムスターとか、チンチラに生まれたかった。あの子達の世界にもブサイクはいるのかもしれないけど、人間目線だとみんなカワイイ



不安はたくさんあるけど、ここでは一つだけに絞って話をする。

不安の全体だと、恋愛結婚もそうだし、生活のこともあるし、やや遠くで暮らしてる親のこととか、相続とか、自分健康のこともある。

けど、一番は恋愛とか、結婚のことだ。アラフォーになったばかりだけど、正直結婚は難しいと思う。本当にそう思う。

私と同期で、約十年前に入庁した臨時職員の子達は、全員が自分の道を見つけている。適当男性とくっついて離職した子もいれば、普通に転職した子もいれば、市役所から直接スカウトを受けて、コネ採用みたいな恰好で、公開競争試験じゃなくて個別試験をセッティングしてもらって、裏口のような形で正規職員になった子もいる。みんな、ちゃんとした理由があった。

入庁当時の私は、25才だった。美容専門学校卒業したけど、リーマンショック関係で職が少なくて、フリーター転々として、生活が貧しくて毎日泣きそうで、そんな私を最後に拾ってくれたのが生まれ故郷市役所だった。

月給は額面13万円+残業代で、ボーナスは当然ゼロ病気・傷病休暇もない。有給は年に5日だけ。私も皆も、風邪インフルエンザでも普通に出勤していた。こんな私が働けるのはここしかなかった。

数年前に会任制度スタートしてからは、ボーナスが年間二か月分出るようになって、まともに貯金ができるようになった。今でもこの職場感謝してる。

話がまとまらなくなる前に、恋愛とか結婚不安のことを話したい。わかりにくいところがあったらコメントとかで教えてほしい。できるだけ答えるので。

20代後半の頃は、結婚できるのかなって勝手に思っていた。男性の人が話しかけてくれるし、アプローチがあったし、同じ職場の人にデートに誘われたこともある。交際経験もあるけど、そんなには続かなかった。

しだいに焦ってはきたけど、私が三十路になる年のことだった。水道部署から現在部署に移ったばかりのことだ。この職場に、いいなって思える男の人(A君)がいた。私と同い年で、小学校中学校が一緒だった。

当時の私は、残業休日出勤が多い部署で、毎日地道に仕事をがんばっていた。イベントで使う資機材をまとめたり、パンフレットを作ったり、式典会場の準備をしたり、てんてこ舞いの日々だった。

私は当時、その男の人A君と一緒のペアになって仕事をしていた。心の距離が段々近づいていって、仕事帰りにラーメンをおごってもらったり、イベント帰りに家に送ってもらったり、辛い時に慰めてくれたりした。優しい人だった。



以上を一年目とすると、二年目にそれは起こった。

新卒で入庁してきた子がいた。大卒の子だった。おそらく22才のはずだ。この地域にある名門企業代表者と同じ苗字だった。この子Sさん年代は違うけど、私やA君と同じ焼酎学校出身だった。

直属の上司である係長(※蛇足だけど係長学校が同じ。Sさんとは出身高校も一緒)からは、「Sさん大学出たばかりで、最初全然慣れないだろうからフォローしてあげて」と言われていた。そうしてあげるのが先輩としての正しい道だと思ってたけど、後日別の意味否定された。

Sさんは、仕事ができる子だった。難しい言葉を使うと、利発な子だった。都会じゃなくて、地元にある大学出身の子別に京都大学とか大阪大学とか、そういうレベル大学出じゃない。

けど、頭の回転とか、コミュニケーションとか、気遣いとか、嫌いな相手とも表面上仲良くするとか、そういうのができる子だった。

あれは今でも覚えてる。私とペアになってたA君だけど、Sさんを目で追ってるのがわかった。

関係ある仕事でも、関係ない仕事でも一緒に話をしようとするし、Sさんと話してる最中は、私の時と比べて笑顔だった。

反面、私と一緒にいることは少なくなった。一緒にご飯を食べることはなくなったし、一緒の車に乗せてくれることもなくなった。同じ仕事をして、彼を補助する仕事は変わらなかったけど。

Sさんは人懐っこいとか、そこまでではないけど、皆とよく一緒に話していた記憶がある。若い子らしくて、さわやかな印象だった。よく笑っていた。ブサイクな方ではないと思う。

結局、A君はみんなが見てる時でも、Sさんに対して恋愛的にがっつく……は言い過ぎだけど、熱烈に会話をするようになってた。「あれはひどい、やばい」という次元だった。

上司である係長に「あれはよくないです!」と進言したこともあった。けど、係長も、そんな2人をむしろほほえましい感じで、ノホホンとした眼差しを送っていた。「増田ちゃんあんなのイチイチ止めてたら、日本少子化待ったなしだよ~」だって……。

その係長だってSさんには甘々だった。この部署の中では、Sさん新卒とは思えないほどスキルがあったとは思うよ?私なんかとは別格の。係長は、そんなSさんを散々利用していた。

本来ベテラン職員がやる仕事まで、入庁一年であるSさんに割り振っていた。イベントだってほとんど休みなくSさん休日出勤させていた。

「こんなのおかしい。職場って恋愛する場所じゃないよ」、て言いたかった。なんでそんなに、Sさんばっかり使い倒すの。私だっているじゃん。私の給料Sさんと同じくらいなの知ってるよね。私に休日出勤仕事を割り振ってよ、残業代欲しいよと思っていた。そんなもやもや一年以上、ずっと続いた。

Sさんのことたくさん書いてるけど、彼女はもう職場にいない。A君も。

 在籍中だったら、公共の場所にこんなことは書けないし、書かない。



さらに、その次の年度だった。

季節は春を過ぎたくらい。Sさんが朝礼の時、皆の前に出てきて、「私。今月結婚します。仕事にはもちろん支障ないので、これからよろしく~」と皆の前で告げた。

A君の顔を見ると、茫然としていた。生気が抜けた表情だった。残念、みたいな表情を通り越した顔( ;∀;)だった。

まあみろ、ていう薄汚い感情自分の中にあった。でも、ここは職場から。そういう思いを出す場ではないから、と自分に言い聞かせた。

Sさん結婚相手は、やっぱりというか、地元の名士の苗字だった。京都和歌山の人なら、聞いたことがあるかもしれない。CLAMP漫画に出てくるような、鳥系の氏だ。

入庁して二年目で、結婚かぁ……私が入庁して二年目の頃は、そんなこと考える余裕はなかった。恋愛アプローチがあっても、応えるだけの生活の余裕がなかった。貧しかった。

月給13万円台で、京都市内での一人暮らし不可能に近かった。実家を頼ろうにも、父母にそんな余力がないのは明らか。私は学生向けのボロアパートに住んでいた。

私が好きな少年漫画で、「ドンまり」という表現が出てきたのを思い出した。本当にこのドンまり、という状況だった。若い頃の私は。

でも、Sさんは違う。私と違って余裕がある。実家は太いし、皆から人気はあるし、私みたいな隠キャラとはわけが違った。生まれた瞬間からして違う。

それから今に至るまでの私は、ずっと同じような縮小再生産だった。

[仕事]…一般事務と、イベントのお手伝いの仕事正規職員登用の声がかかる気配なし

[生活]…近所のスーパーで夜に割引食材を買う。奇跡が起こると、6.6割引になってることがある

[趣味]…たまにアニメ漫画小説を読むくらい。作品イベントに行けるだけの余力なし



最後Sさんと会ったのは、同じ年だった。Sさん妊娠後、もうすぐ育児休業職場からいなくなるタイミング

うちの部署イベント大成功のお祝いで、みんなで夏にバーベキューをすることになった。係長が、お手頃な値段でたくさん食べられるというお店(というか山の中……畜産農家の圃場内だった)を紹介してくれた。私の少ない給料でも全然参加できる料金だった。そこにSさんも参加していた。

バーベキューだけど、みんなイベントの疲れを癒すというか、ねぎらうというか、和やかな雰囲気だった。広い車庫ガレージの中での立食形式BBQだった。

私はやっぱり隠キャラで、食べたり飲んだりはしてたけど、会場の設営とか片付けとか、飲み物の氷の準備とか、お肉を焼いたりしていた。誰かが焼酎水割りとかハイボールで使う氷を取りに来る時、その人の背後に付いて、「氷入れますよ」という案内をしていた。※「増田ちゃん暗殺者かよ~」とツッコまれ

あとは、ほかの人のところを巡って、コップが空いてたら飲み物を注いだりした。そこまで飲み食いはしなかった。お肉とオニギリは本当においしかった。本物の食肉卸だった。限られたお客さんにだけBBQパーティサービスをしてるとのこと。

その日も、Sさんはみんなに人気があった。焼肉野菜を食べてお酒を飲みながら、ガレージ内でおしゃべりをしていた。ずっと。そんな時に私は、Sさん~~職場友達の話に聞き耳を立てることがあった。

こんなことを、話していた。

(早く結婚できてよかったねと言われて)

「えー。運がよかったんです。親の紹介で、京都御所の建物の中まで入れる限定行事があって、そこで知り合って」

(仕事ができるねと言われて)

「ほかの人が協力してくれるので、自分は大したことないので」

(育児休業どれくらいするの、と聞かれて)

係長からは上限の3年まで取っとけって言われたけど、自分は1年半で十分です」

 ※働かなくても共済組合から給料分相当額がもらえる期間

(Sさんが羨ましいと言われて)

幸運があったので。ありがたく、この環境はもらっておきたいですけど、でも別に、ここまで恵まれてなくても、私は幸せになれるように頑張ったんじゃないかな」

嫌な感情が湧いた。

彼女は、Sさんは、私にはないもの絶対に手に入れることができないものを持っていて、それが才能とか、環境とか、そういうのじゃないって、自分の力だって絶対にそう思っている。

そういうのがムカつくって、あの時の自分は思った。ガレージの中で涙が出そうになった。焼肉の煙が目に入ったのもあるけど。自分はこんなに苦しいのに、Sさん自分が恵まれ環境にいることに気が付いてるフリをして、実際には気が付いてない。

Sさん自分との間には埋められない溝がある。でも、この時、こんなに人生で初めて、悔しい思い、誰かを憎んだのは初めてだった。

Sさんとその友達の空いたコップを見つけた時、「Sさん、何飲んでるの?」と聞いてみた。

すると、「あ~、じゃあ。私は焼酎水割りします。あそこの奥にあるやつで、焼酎少なめがいいです」とのこと。Sさん職場友達は、「ありがとう。私はカルピスでいいです。お願いします!」と言った。

あそこの奥にあるやつ……その焼酎は、ガレージの奥のテーブルにあった。卓上の保冷ケースの陰に隠れていた。獺祭の高いやつだ。私も焼酎が好きだけど、こんなに高いのは飲んだことがない。

保冷ケースの裏で、私は焼酎を少し注いでからテーブル真下にあった開封済の農薬袋を見つけた。右手で、農薬の粉瘤を二掴み手に取って、Sさんが飲むはずの焼酎のコップにそれを入れた。

水じゃなくて炭酸水を入れて、攪拌用の割りばしでかき混ぜて、ニオイを嗅いでみると、何も感じなかった。味見した感想焼酎ソーダ割りだった。カルピスは急いで作った。



流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ」「流産しろ




何度、心の中で叫んだかわからない。気持ちを止めることができなかった。

あなただって、ここまでずっと人生幸せだったじゃん。不幸もないと、おかしいよ。

人生には不幸があった方が幸せになれるよって、そっちの方がいいよ」って、この時思っていた。

2人のところに飲み物を持って行って、「暑いし氷溶けるし、早く飲んだ方がいいよ」と伝えた。

2人とも会釈だけして、Sさん獺祭ソーダ割りを飲んでいた。こんな会話が聞こえた。

「え~、これ炭酸割じゃん!」

「いいじゃん。増田ちゃんサービスしてくれたのに」

10分くらい経って、Sさんが別の男性に「獺祭おいしい、おかわりほしいです~」とねだっているのが見えた。

翌週、Sさん職場にこなくなった。「体調不良です」と係長上司に報告していた。

産休予定だったので、早めに開始することになった。それからまた日常が戻った。私の仕事内容は、今後もずっと変わることはないと思う。定年までずっと、いやきっとそうなんだと思う。

昇給だって、年に三千円だけ。しか一定のところまで行ったら頭打ち。「こんなのっておかしい」と思うけど、ルールから従うしかない。正規職員と違って身分保障がないのに、今までクビになってないだけ「ありがたい」と思わなきゃいけない。



今年に入って、育児休業中のSさんベビーカー子どもを乗せて職場に来た。みんな、生まれたばかりの赤ちゃんを間近で見ようと寄っていた。私もそうだった。

後ろの方には係長も来ていた。Sさんがいなくなったせいか仕事量の負担が大きくて元気がなさそう。

Sさんに、ほかの皆と一緒に「元気に生まれてよかったね!」と伝えると、Sさん幸せそうだった。でも、なにか違う気がした。

この、赤ちゃん職場に連れてくるシチュエーションは、私が子どもの時も、学生の時も、社会人になってからも、何度もあった。その時、新しいお母さんは、みんな誇らしげな表情をしていた。安心がまざったような。

でも、Sさんの表情は悲しそうだった。もしかして辛いことがあったのかな。だったら、それでよかったのかもしれない。無事出産できたのはいいことだけど、人生にはつらさも必要だと思うから

同じ職場の仲間として、Sさん職場復帰する時が来たら、これまでと同じように一緒に仕事ができたらと思う。私は貧しい生活だけど、それを受け入れることができている。ここまで達観できるようになった。これも成長だ。これから人生どうなるかもわからないし、不安もあるけど。

長文駄文、ここまでお読みいただきありがとうございました。

2024-11-12

anond:20241112213346

無産三十路子宮摘出らしいしそこを区切り治療していくと良さそうだね

とりあえず無産だけ治療しよう

2024-11-10

女だけど下方婚をした結果

私より低学歴

私より低収入

私より〇〇…

だけど3才も年下だしいっかァー!!!

何より中身がさいこ〜なんだよ!!!

カワイ〜〜!!!!と思って結婚したら

ものの数年で年収を抜かされ

私は三十路性格が悪くプライドだけは高い高学歴中小ブラック労働者

相手20代後半優良企業勤務(友人多い)


あぶなかった!!!

数年前は内面はともかく条件面は格下だと思ったが、今や条件も中身も完全に格上

今なら間違いなくマッチングはしないであろう

あの時の自分グッジョブ過ぎる

2024-11-01

実のところ30代なんてもう甘えるような年齢じゃない。

同僚に子どもが生まれた。しばらくは子どもかわいいと浮かれていたが、ここのところは愚痴っている。思ってたんと違って嫁の親が孫の面倒をあまり見てくれない、と。

そんで嫁の親はおかしいのだろうか? 関わってみるといい人だが癖が強いようにも思えるのだが、なんて同僚は言う。嫁が出産入院している間、同僚宅に泊まり込みで家事をしてくれたというお義母さんに対してその言い草だ。

同僚は平時から被害者意識が強く、こいつにかかればどんな人でもちょっとした失敗や性格瑕疵などのために悪人とされてしまう。なので同僚に真正から物を言うと面倒臭い事にしかならんから、同僚の言うお義母さんの悪口、同僚の嫁が同僚にこぼしたお義母さんの悪口を、自分はふーん、それはやだねぇ、なんてゆるふわに流すに留めたが、おそらくそういう自分にとっては当たり障りない対応も同僚には気分次第で冷たい奴だなんだと悪く取られていることだろう。


ともあれ、自分が思うに同僚のお義母さんはわりとふつーだ。シンプルにもう年だから疲れてんだよ。赤ん坊の面倒みれるほど体力有り余ってねえの。

世の中の人達は軽率子育てするのに親を頼れっていうが。それは自分自身がまだ10代や20代前半の若くて未熟な時ならば通用するけれど、三十路を超えたら通用し難い。自分がそれなり歳を重ねていると同時に親ももういい歳である時代時代なら子供夫婦生活保障をしてもらって、盆栽とかお茶とか体力の要らない遊びをしてのんびり暮らす歳だ。

そういうじーさんばーさんに今から孫の面倒お願い! っていうのはなかなか酷なことだぞ。たとえて言うなら既に一度退役した老兵を少年兵サポートをするためにまた戦地に送り込むようなもの倫理的にも微妙だ。だってじーさんばーさんは若い頃に頑張ったんだから。それ以上頑張れっていうのか。いつまで頑張り続ければいけないのか。

という訳だから。今時はじーさんばーさんも気持ち的には孫の面倒を見るとか可愛い娘息子のために色々してやりたいと思ってるらしいし言うけど、いざ実行しようとするとどう頑張っても体力が追いつかんなんてことになる。


それでも孫の面倒を見てもらっている現役父母というのはいものだが、老いますますバリバリ元気なスーパーおじいちゃんおばあちゃんに恵まれたのでない限り、内情はエンタメとしての「孫育て」という名のアクティティを楽しんで貰う為に下準備や根回しを用意周到にしてやっと実現させているのではないだろうか。おじいちゃんおばあちゃんに孫を見てもらったおかげで束の間の休息を得たり多忙スケジュールを何とか乗り越えることが出来た。けど、すっごい疲れたナー。とか思ったりなどして。



自分が二十代の終わりくらいの時、久しぶりに自分の両親や昔よくしてくれた親戚のおじおばや近所の年寄りに会う度にちょっとびっくりさせられたことがある。昔は自分の話をうんうんと何でも聴いてくれた大人達が、今となってはこっちが会話をリードしてくれるのを笑顔だがずーっと待っている。みんなそうするのだ。その時自分はもう甘える様な歳じゃなくて、この人たちを支えて行かなきゃいけないんだとしみじみ思った。

2024-10-27

三十路ニートが取るべきは基本情報じゃなくて介護福祉士だろ

いつまでも夢を見せるのが優しさなのか?

2024-10-22

悩みがデカ過ぎる

小学生の頃から私を常に悩ませてるもの環境問題

悩みがあまりデカすぎて対処のしようがない。常に病んでいる。

小学生の頃に地球温暖化だのを初めて知ったとき机上の空論であることを願ってたけど、夏の暑さや災害の増加で、ヤバいところまできているんだなっていうのを肌で感じている。

職場人間関係世間体、親から結婚への圧、もちろん一般的な悩みもあるけど、環境問題かいうどでかい壁を前にしたらなんてことない。

人類が足並み揃えて「せーの!」で今すぐにアクションを起こさないとどうにもならないレベルだと認識してるので、個人的エコ生活を心掛けたところで虚しくなるばっかり。

私は三十路差し掛かっていて、子育てしたいなら今すぐ婚活しなきゃならない年齢なんだけど、自分自身こんなに未来絶望してるにも関わらず、自分より後の世を生きることになる人間を産み落とすのはあまり可哀想じゃないか?と思って躊躇してる。

私は子ども大好きだし、子どものために生きていく自信は大いにあるけど、私の生きる意味になってもらう、というエゴで生まれてくる子どもが気の毒だ。

多少飾った知識だけで絶望してるんだから研究者学者の方達は絶望感とどう折り合いをつけてるんだろうと気になってしまう。

2024-10-13

精神疾患持ちだが、恋活婚活している

罪悪感を吐き出させてくれ。

当方、あと数か月で三十路になる彼女いない歴=年齢の魔法使い候補生

少し前からマッチングアプリを始めたり、婚活イベントに行ったりしている。

きっかけは、友人が結婚したり、父が入院現在普通に完治)したりで、将来、疎遠や死別により現在人間関係が途絶えて自分孤独になる未来を思い描いてしまたから。

大の男が言うには情けない台詞だが、俺はかなりハッキリと孤独が怖い。

から、強いつながりを持つ『家族』という関係を、いずれ自分より先になくなる両親以外に欲して、結婚を志した。


だが、そこで大きな問題になるのが俺が精神疾患持ちという点だ。

まあ、『持ち』といっても、かかってから数か月程度のビギナーで、今のところ社会生活向精神薬パワーで破綻せずに送れている。

が、それでも、通院歴のある精神病患者であるということには違いない。

俺は恋活婚活の場において地雷だ。

当たり前だが、プロフィールに「○○病持ちです!」なんて書いてはいない。

だって汚点はあって、普通はそれを初対面の人に堂々とひけらかしたりはしないので、未記載それ自体が悪いことだとは思わない。

が、もし親しい間柄のお相手ができて、精神疾患のことを告げ、それで別れることになったら、お相手時間無駄にしてしまたことに対してはきっと罪悪感を覚えるだろう。

まだそういう相手がいるわけではないので、ある種、捕らぬ狸の皮算用的ではあるが、そんな未来を考えると気が重くなる。


精神疾患自体は実は解消の可能性はある。

わりと原因が外的なモノでハッキリしており、一年もすれば確実に状況は変わるので、おそらくそこまで耐えればなんとかなると想定でいる。

ただ、精神疾患の通院歴があると、ローンや保険で3~5年は審査問題になるので、結婚ということ考えるとお相手迷惑をかける可能性が高いことには変わりない。

いや、これも言い訳だ。

上記を踏まえた上で、それでも精神疾患現役で婚活をするよりは解消してから婚活をした方がマシなのではないかという考えはある。

ただ、はてなでも少し前に話題になっていたが、ろくな恋愛経験もない三十路婚活成功するのは非常にハードルが高い。

それを少しでも成功確率を上げようと思ったら、一秒でも早く動きだし、女性と話す経験などを積むことが大切なハズだ。

から俺は完治より先に婚活に動き出した。

結局は、俺は自分本位な人間なのだ

だがそんな人間でも全く罪悪感を抱かないわけではない。

あとで消すだろうけど、せめてここでその罪悪感を吐き出させてくれ。

2024-10-12

anond:20241012163202

手に職系の職業訓練を受ければ引く手数多やろ

バイト半年やって派遣ステップアップ

バイトと並行して職業訓練

バイトしながら電験3種取ってビルメン上下水道プラント監視など

派遣で金貯めて免許取って長距離運送

この人手不足時代

三十路ならまだまだ余裕よ

割と色んなルートがあるから悲観して時間をドブに捨てるのだけは止めるようにな

人の間を生きる上で必要なのは

臆面もなく恥を晒せる図太さ・政治家とき面の皮の厚さと堂々とした自身と素直さ

挨拶と「すいません・ありがとうございます」を欠かすことなく言える礼儀から

このへん意識しつつバイト年末まで続けて次のステップに備えた生活リズムを構築してこ

あ、正社員登用にはまっっっっっっっったく期待するなよ

足元掬われるから

2024-10-06

三十路過ぎたくせにマネジメント一切やりたくなくて仕事辞めた

俺みたいな奴ってどうやって乗り越えてきてるん?

2024-10-05

I Love It (feat. Charli XCX) - Icona Pop

私は誰しもがそう望むように幸せになりたいと思っていた。それは我々の権利でさえある。しかしそれは法で定められなくてはならないほど、私たちに縁遠いものなのかもしれない。例えば社会的地位経済的余裕、暖かな人との繋がり、夢や希望をこの地であくまで追求すること──。

これは生活に追われて疲れ果てたある女の手記だ。私はこんなくだらない文章を書くほど暇なのだ。それは決してゆとりではない。それに真実でもない。「何もすることがない」というのは恐怖なのだ自分自身、もしくは人生の虚無と向き合うはめになる。それならこうやってスマホの白い画面に黒字を打ち続けるほうがよっぽどマシなのだ

私はつねに漠然死にたいと願っている。先に告白しておこう。私はうつ病者だ。だから歪んだ世界に生きている。そして発達障害当事者)でもある。私の目に見えるもの本来の姿を留めていないのかもしれない。私は何重にも孤独なのだ恋人も友人もいない。私は一人だ。いや、少なくともいま現在はと付け加えよう。

私には子どもが一人いる。

まだ幼い、母親庇護必要とするか弱い存在だ。私の苦悩の全般子育てに起因するように思う。人より劣る私のような人間にはそもそも育児など不可能だったのだ。すでに夫だった(それ以前は恋人だった)男とは離別している。「孤育て」とは誰の造語かは知らないが、なんとも言いえて妙だ。

私の人生で誇れることがあるとすれば、それは離婚だ。自分で考え自分で行動し自分で決着を付けた。そして学びを得た。「私のことを粗末に扱う人間とはもう関わらない」夫はいわゆる“モラハラ”体質だった。デートDVもあった。でも私は気付けなかった。それを理解したのは最近のことだ。ということは私にもそれなりの成長があったのだ。しかし、もっと早くに気付いていれば傷は浅かったし、それからそれから、息子を産まずに済んだのだ。

私が心を病んだのは十代の頃だ。夫と出会う前だ。だから全面的に彼を非難することは出来ない。初めて行った産婦人科で、エコー写真を見た。モノクロテレビ画面に不思議抽象画のようなものが映し出された。そして写真を撮るカチッとした音が響いた。それで私にも分かったのだ、この腹のなかに何かが居るのだと。動揺して頬にしずくが伝ったのを覚えている。真っ白で消毒液臭い古びた院内。私にとって希死念慮は懐かしく親しみ深い欲求だ。だからこの一連の愚かで頓馬な騒動のなか、私は一つの結論に達した。つまり子どもが産まれたあとに自殺しよう、と。私のその願い(この人生を終わりにしたい──)と胎児とはなんの関係もない。巻き込むにはしのびなかった。その程度の理性は持ち合わせていると自負している。

だが私は当初男に中絶を訴えた。私はまだ“女の子”でいたかったのだ。くたびれた子持ち女になるなんて、とんでもないことだ。子どもなんていらない、私には夢がある、そんな責任背負えない──などなど、私は空回りする言葉を口にした。男は泣いて反駁した。絶対後悔させない、幸せにする、土下座してもいい……。いずれにせよ上っ面な言葉が二人の間に投げ交わされた。その中で、男の涙も出産を決意した理由の一つになった。私たちの深刻で感情的な会話は回転寿司屋で耳目を集めた。あの人が泣くのを見たのはあれが最初最後だ。希望のない結婚生活はすぐさま破綻し、ただの狂女と化した私を男は見切った。離婚合意によるものだった。結婚は、結婚はといえば寄り切られただけだ。それに実家では死にたくなかった。「家」から出るための判断だったと今になって思う。

そして母親からまれなかった子どもは今や四歳になる。つまり私は死ねなかった。ひどく臆病なのだ。だらだらした生を送り、日々は過ぎ去り、私は今日もただ生きているという苦痛に耐える。

16時半になると息子が帰って来る。彼には発達特性があり、療育と呼ばれる困りごとを抱えた子どもたちを支援する施設に通っている。青い車に乗った彼はたいていはご機嫌で帰宅する。そして「今日ご飯は? なんのおやつがある?」などと訊ねる。その都度私は答える。どうでもいいことを、どうでもいい感じで。

私たち親子をこの先待っているのはなんだろう、とふと考える。私の予想では、息子はグレるか引きこもるかのどちらかだろう。“軽度の発達遅滞”──、医者の言った言葉だ。

私が憂うのは──、また興味を惹くのは、私たち家族が年々機能不全家庭に成り下がってゆく事実だ。

祖母戦争で夫を亡くしお茶お花の教室を開いては子ども二人を育て上げた、祖母家業家事育児を両立させ手作り洋服を娘らに着せていた、私の父は男手一つで私を曲がりなりにも成人させた。では私はどうなのだろう。三十路の子持ち女、気ままなパート通い、充実した福祉政策にすがってその日暮らしをしている。闘病中だから仕方ないでしょ、が最大の言い訳だ。もちろん私は合理的配慮必要を認める、国だってそう言ってる。だが私の怠惰と甘えはとどまることを知らず、日に日に心身が肥大していくのだ。もはや若くもなく、痩せてもいず、まぶたに色を添えるでもなく、唇はささくれだっている。元夫が愛した頃の可愛らしい私などとうに消失した。ミニスカートを履くことも今後この人生にはないだろう。

だがこの点において私は絶望していない。若さゆえの唯美主義とは残酷ものだ。それを脱して豚になるのだっていいだろう。“おばさん”にはセクハラ痴漢も起こり得ない、少なくとも私はそう考える。

閑話休題──と打ちかけて気付いた。この文の本論はどこにあるのだろうか。私の人生言葉の力を借りて小説にし美化するため? それはそれで良いだろう。だが打開策にはならない。私は毎朝ダブルベットからのろのろと起き上がり息子を登園させる、夕方になれば電話が鳴り息子をアパートの外で出迎える。その間は私一人だけの時間だ。支援職の人々は「ゆっくり休んでください」と口を揃えて言う。でも物事を複雑化して自作迷路に一人で迷い込んでゆくのは私の大得意だ。つまり安息などない。私は息子の帰宅を恐れる。逃げ出したいと思う。実際逃げ出したらどうなるか綿密に考えてみる。それもいいと時々思う。でもだいたいは「居続ける」ことを選ぶ。人生においてもそうだ。やめようか、どうしようか、でも面倒ごとは御免だ──結局私は生き続けることを選んで来た。それが正解だったのか、正しい判断なのか迷う。安易に出せる分かりやすい答えにはさほど価値がないように思う。あらゆる人間関係のなかで悩み苦しむこと、その明快な人生定義を思い浮かべる時、もしかしたら私は幸福なのかもしれない。

2024/08/27 18:28

2024-10-04

職歴フリーターのみ高卒三十路なんだがITに進むなら

SESより登録派遣のがいい感じか?

調べてるとSESは一週間研修だけ受けさせて1人で現場行かせる会社あったり悪名高すぎるでしょ

そりゃ社員潰れるわと思ったわ

有識者見解求む

2024-10-02

東海道新幹線開業60周年

私が東海道新幹線に乗ったのは新幹線開業して30年以上経った90年代

母方の実家があるため静岡病院で産声を上げた私が、当時両親の住んでいた社宅がある神奈川へ帰るために乗ったのが恐らくファースト新幹線。勿論記憶の欠片もない。

そこから幾年経ったのか明確に記憶があるのは、まだ0系が走っていた頃。例によって静岡祖父母宅へ行かんと新横浜駅の待合室でこだまを待っている時の記憶

当時、のぞみは走り始めていたが新横浜を通過するのぞみもまだまだある時だった。

全ての列車が停車する今となっては考えられないが、かなりのスピード新幹線新横浜を通過する時は待合室に相応の轟音と振動が伝わり、幼心に恐怖心が芽生えた。

こだまがそろそろ着く時間になると、エスカレーターを上がり4番線へ向かう。篠原側の有閑な景色を見て少し経った頃に、0系ホームに滑り込んでくる。

これに乗るといよいよ静岡のおばあちゃん家に行くぞ、と気持ちが出来上がるのだった。

そんなわけでしばらく新横浜静岡の往復でしか東海道新幹線というものを知らなかったが、その見聞が一挙に広がることとなる。

ある時、静岡祖父旅行企画してくれた。寝台特急富士・はやぶさ九州へ行き、帰りは博多から500系のぞみで帰ってくるというものだ。(祖父神奈川まで来てくれた)

500系運用は決まってのぞみ静岡は停車しない。

フォルムの格好良さに憧れてはいたのに縁のない列車、と諦めていたが遂に乗れるチャンスが訪れたのだ。

空気抵抗を減らすため円形に作られた車体は2列×2列シート。高身長祖父は少し窮屈そうにしていたが、幼少の私はそんな事気にも止めず、5時間近くの乗車をただただ楽しんだ。

何せ全てが見た事ない。そして、300km/hで流れていく景色の速さ。気付けば慣れ親しんだ新横浜ホームに降り立っていた。

そこから中学修学旅行京都に行き、当時まだ試運転をしていたN700系を見たり、大学に入ってから付き合った彼女京都に行ったり。

そして現在に至る。

三十路を越えた今では、JR東海に勤めることは出来なかったもの電車マスコンハンドルを握って仕事をしている。

JR東海新卒普通に落ちた。

恨むこともないし、社会人になり親友名古屋に転勤になったからと託けて名古屋に行ったり東京での飲み会の帰りが面倒で乗ったり、と東海道新幹線に乗る機会は減るどころか増える一方だった。

飲み会帰りに気軽に使うような間柄になっても、やはり新幹線という特別感は拭うことが出来ない。東京駅の東海道新幹線ホームに上がり白い車体を見る時、心の端にいつも高揚感が芽生えていた。

車両が変わり、速度が増して静岡まで1時間を切るようになり、その距離は益々近くなっていったが、社会人になった忙しさとコロナ禍にかまけて私と祖父母距離は遠くなっていた。

そして、今年の正月祖父が亡くなった。

仕事中に訃報を伝えられ、品川から東海道新幹線に乗り込んだ。

予め認知症などの兆候があったとはいえ、やはり思うところはある。

流れる車窓を眺めながら、祖父との思い出が駆け巡る。

新幹線に乗り愛知万博家族みんなで行ったこと。

静岡ホームで、ここ空いてるよ!と並んでる列を割り込もうとした祖母を窘める祖父のこと。

社会人になった後に神奈川祖父母が来た時、帰りの切符グリーン車で取ってあげたらグリーン車なんて乗るの初めてだよ…と泣かれたこと。

祖父との思い出の節々に東海道新幹線が出てくる。

母は、修学旅行では寝台特急長崎へ行ったと言う。それはそれで羨ましいものがあるが、新幹線開業以前、長距離の旅とはおいそれと気軽に行けるものでは無かった。

現代では、仕事終わりに急に新幹線に乗っても1日とかからずに殆ど目的地へ行くことが出来る。

私と祖父が同じ時代を生きた時に、新幹線があって良かったと思う。

会いに行こう、をテーマ曲に。これから日本の大動脈として人々の出会いを支えて欲しい。

そう思って文を締めます

東海道新幹線開業60周年

私が東海道新幹線に乗ったのは新幹線開業して30年以上経った90年代

母方の実家があるため静岡病院で産声を上げた私が、当時両親の住んでいた社宅がある神奈川へ帰るために乗ったのが恐らくファースト新幹線。勿論記憶の欠片もない。

そこから幾年経ったのか明確に記憶があるのは、まだ0系が走っていた頃。例によって静岡祖父母宅へ行かんと新横浜駅の待合室でこだまを待っている時の記憶

当時、のぞみは走り始めていたが新横浜を通過するのぞみもまだまだある時だった。

全ての列車が停車する今となっては考えられないが、かなりのスピード新幹線新横浜を通過する時は待合室に相応の轟音と振動が伝わり、幼心に恐怖心が芽生えた。

こだまがそろそろ着く時間になると、エスカレーターを上がり4番線へ向かう。篠原側の有閑な景色を見て少し経った頃に、0系ホームに滑り込んでくる。

これに乗るといよいよ静岡のおばあちゃん家に行くぞ、と気持ちが出来上がるのだった。

そんなわけでしばらく新横浜静岡の往復でしか東海道新幹線というものを知らなかったが、その見聞が一挙に広がることとなる。

ある時、静岡祖父旅行企画してくれた。寝台特急富士・はやぶさ九州へ行き、帰りは博多から500系のぞみで帰ってくるというものだ。(祖父神奈川まで来てくれた)

500系運用は決まってのぞみ静岡は停車しない。

フォルムの格好良さに憧れてはいたのに縁のない列車、と諦めていたが遂に乗れるチャンスが訪れたのだ。

空気抵抗を減らすため円形に作られた車体は2列×2列シート。高身長祖父は少し窮屈そうにしていたが、幼少の私はそんな事気にも止めず、5時間近くの乗車をただただ楽しんだ。

何せ全てが見た事ない。そして、300km/hで流れていく景色の速さ。気付けば慣れ親しんだ新横浜ホームに降り立っていた。

そこから中学修学旅行京都に行き、当時まだ試運転をしていたN700系を見たり、大学に入ってから付き合った彼女京都に行ったり。

そして現在に至る。

三十路を越えた今では、JR東海に勤めることは出来なかったもの電車マスコンハンドルを握って仕事をしている。

JR東海新卒普通に落ちた。

恨むこともないし、社会人になり親友名古屋に転勤になったからと託けて名古屋に行ったり東京での飲み会の帰りが面倒で乗ったり、と東海道新幹線に乗る機会は減るどころか増える一方だった。

飲み会帰りに気軽に使うような間柄になっても、やはり新幹線という特別感は拭うことが出来ない。東京駅の東海道新幹線ホームに上がり白い車体を見る時、心の端にいつも高揚感が芽生えていた。

車両が変わり、速度が増して静岡まで1時間を切るようになり、その距離は益々近くなっていったが、社会人になった忙しさとコロナ禍にかまけて私と祖父母距離は遠くなっていた。

そして、今年の正月祖父が亡くなった。

仕事中に訃報を伝えられ、品川から東海道新幹線に乗り込んだ。

予め認知症などの兆候があったとはいえ、やはり思うところはある。

流れる車窓を眺めながら、祖父との思い出が駆け巡る。

新幹線に乗り愛知万博家族みんなで行ったこと。

静岡ホームで、ここ空いてるよ!と並んでる列を割り込もうとした祖母を窘める祖父のこと。

社会人になった後に神奈川祖父母が来た時、帰りの切符グリーン車で取ってあげたらグリーン車なんて乗るの初めてだよ…と泣かれたこと。

祖父との思い出の節々に東海道新幹線が出てくる。

母は、修学旅行では寝台特急長崎へ行ったと言う。それはそれで羨ましいものがあるが、新幹線開業以前、長距離の旅とはおいそれと気軽に行けるものでは無かった。

現代では、仕事終わりに急に新幹線に乗っても1日とかからずに殆ど目的地へ行くことが出来る。

私と祖父が同じ時代を生きた時に、新幹線があって良かったと思う。

会いに行こう、をテーマ曲に。これから日本の大動脈として人々の出会いを支えて欲しい。

そう思って文を締めます

2024-09-29

仲良しグループの緩やかな崩壊

今年三十路になる私には、大事な友人たちがいた。

毎晩、約束しているわけでもなくDiscordにのろのろあつまり、その時集まったメンバーで5人FPSや、マイクラ、協力ホラゲーなどをする。

毎日来るメンバーはだいたい5~6人くらいだった。(誰かがあぶれたりするが、画面配信を行って雑談などもして一緒に楽しむのだ)

大人になってからの新しい出会いなんかはもうSNS上やゲームの中でしかない。

そんな中、友人といえるまでに仲良くなったのは、もう1年以上の付き合いになるからかもしれない。

現にここ数か月の言葉数だけカウントするなら、家族よりも友人たちのほうが多いだろう。

この空間が何より好きだった。

私の生活のサイクルの中心といっても過言ではなかった。

ゲーム勉強もするし、今晩はこの作戦をやってみたいなど、日常思考も友人たちと一緒にやるゲームの内容だった。

私の中では特に好きなメンバーが数名いた。

この人たちとプレイできれば、ゲームタイトルはなんでもよかった。

言葉を選ばずに言うなら、私の中でメンバーティアがついていた。

しかし、一時期このティア1のメンバーが2名グループを脱退してしまった。

理由は、わからなかった。消息を絶った人もいた。

5人FPSをメインでやっていたので、フルパーティで回せなくなってしまっていた。

この間いろいろあり、結果、グループに新しいメンバーが数名増えた。

これが、崩壊のろしとなった。

なぜかというと、脱退していた2名が戻ってきたためである

まず起きたことは、譲り合いの嵐。

人がいいメンバーたちは、「これからごはんたべるから」、「別のゲームするから」、などと理由を付けて譲り合った。

私はとにかくこれが面倒だった。

譲り合いが起きるのはこのグループの習慣が原因だった。

だらだらVC部屋にのろのろメンバーが集まり

あるていど人が集まったらとあるゲームをしよう、とだれかが声をかける。これが大半5人FPSだった。

そうなると、私の思考としてはティア1の友人たちがこのFPSに入るかが重要だった。

新しいメンバー募集を立てると、私のティア1の友人は間違いなく誰かあぶれる形だ。

次第に私はこのFPSをやらなくなった。

次に起きたことは、だらだらVCに人が集まらなくなったことだった。

普段夕方ごろから誰かしらいたVCに、誰もいなくなった。

少なくとも21時には集まっていたVCも、誰もいない。

22時を回ったごろに、ぽつりと、恐る恐る誰かが現れるくらいになった。

そのメンバーを見て、人が寄ってくるような形だ。

私も人を選んであとから寄っていく側のメンバーだった。


この頃には、もう嫌気がさしていた。

推し活を理由Discordに行かなかったり、FPSモチベーションがないことをアピールしたり、大人数でできるゲーム提案したり、ゲームすらせずだべるようになっていた。

この期間は疲れた、とにかく疲れた

以前までなら、間違いなく夜はこのメンバーゲームだと決まっていた。

いつもの気心の知れたメンバーで率直に意見を交わしながらゲームできた。下手でも楽しかったし、うまくなるようなアドバイスも素直に受けられた。

だが、異分子が混じった。

まだ仲良くないので余所行きの顔がいるし、第一問題は上位のティアの友人と遊べないことだった。

ティアの高い友人の一人は、顔すら出さなくなった。

ああ、もう、このグループは終わるのか。

私たち楽園はこうやって終わるのか。

まるで先住民土地を悪意なく開拓した歴史のように、きっとこのグループも体質を変えられてしまうのだろう。

何よりも嫌だったのは人柄が悪いわけでも問題があるわけでもない新規メンバーを呪う自分自身だった。

鬱々とする毎日が過ぎていく。

涙が出る。

もう、あの居心地のいい空間はないのかと思うと

いろいろ作戦を練ってティア1の人だけと組める方法を考えなければならない。

固定を組めばいいのでは、

裏で声をかければいいのでは、

他にDiscordサーバーを作ればいいのでは、

いろいろな策略が脳裏を駆け巡る。でも実施しない。

私は大人から、もう、いいんだ。

私はわかっているのだ。

「誰と誰で、私とこのゲームをしたい」

ただのわがままなんだ。

私が我慢できればいいのだ。


とても大事だったのに失ってしまったんだ私は。

どうすれば良いのかはわからないし、きっと答えはない。

このまま苦しんで、毎日を過ごすしかないんだ。

依存だ、これは。

彼らに依存していた。今もしている。

私の、勝手感情なんだ。

ただ苦しいのであればやっぱり、私が去るしかないのだ。

今まで、ありがとう

2024-09-16

来月三十になる増田です

増田普通に高校卒業し、普通に大学に進み、普通に新卒で働き始めて今もその会社に勤めている。

二十五で結婚し、翌年に子供が生まれ、今は家族三人で慎ましくも幸せ暮らしている。

自分人生を端的に言い表せば「普通」。

学生時代には仲の良い男女のグループに属しており、それなりに思い出があるもの他人に誇れるような特筆すべき思い出はない。あくまで皆が体験したことのあるようなことしかないんだ。

もちろん、普通であることが悪いとは思わない。

しかしそれでも、たまに自分人生を振り返ったときに「まるでエスカレーターみたいだな」なんて思うことがある。

自分で大きな決断をして舵を切ったことはなく、ただ周りに合わせて、歩調を揃えることで逸脱することもなければ突出することもない。そんな風に人生を歩んできた。

俺は歴史に名を残すような偉業を達成することはないだろう。ネットにさえ名を残すようなこともない。大きな挑戦をしたこともなく、自分といった人間限界学生の頃から知っていたように、何に対しても背伸びをしてこなかった人生だ。越えられるハードルのあるところしか走らない。自分が凡人であることを嫌でも自覚させられる。それが少しコンプレックスなのかもしれない。

別にアウトロー的な生き方に憧れがあるわけでもないんけど、来月にはついに三十路突入してしまう。この人生に対する妙なモヤモヤ感というのは、何と呼べばいいのだろうか。

2024-09-14

anond:20240914225905

聖女の魔力は万能です、とか、三十路おばさんが何故かモテモテなやつね。

良いじゃん。

おっさんハーレム作れるんだから三十路にハマる王子様がいても不思議はないよ。

anond:20240914215340

そんなことを言ったら、三十路女がナーロッパ召喚されて美形揃いの王子様その他にちやほやされる女性向けなろうの読者はこの世の最底辺だ、ということになってしまうのですが

2024-09-12

ミソジニー意味を初めて知ったwww

キチガイ左翼やアホフェミが言ってるからてっきり

三十路女性を叩く弱者男性の事を言ってるのかと思ったよ(笑)

まぁ、あんたらそれくらい社会的信用が無いのだと理解してもらいたいね

2024-09-04

anond:20240904132937

あるでしょ

高校から大学生の時期がそれにあたる

子供が初めての恋愛ドギマギしてるのはほほえましいけど三十路過ぎのおじさんが同じことしてたら悍ましい

2024-08-28

Vtuberなんて数年しかできないよな

おっさんキャラとかならいいけど、普通3年も経ったらどうしても年齢を考えちゃうでしょ

非公開で10代みたいなおっぱいキャラやっててもさ、どうせ中身はもう三十路越えてるんだろってなる

FIREが正解よな

2024-08-18

https://anond.hatelabo.jp/20240818172601 身長174cm三十路女の主張。 ‐低身長女性高身長女性の皆様 もう争いをやめにしませんか

私は身長174cmの高身長女性です。幼い頃から背が高かったです。現在30歳。 これを書こうかずっと悩んできました。 だって書いてしまったら、今度は高身長女性たちに"可哀想な子"の烙印を押す方々が出てきてしまうかもしれないから。 だからどうか、この記事を読んだ皆さん、高身長女性可哀想烙印を押さないでください。 可哀想侮辱です。それを人に対して言うのは、思うのはとてもとても、失礼なことなんですよ。 では話を始めます最近デカブームがX(旧Twitter)でありました。背の高い女性たちが自分身長をのびのびとアピールしていましたね。 その後、低身長はこういうときにも出しゃばるな、どんぐりボディなどの誹謗中傷に取れる発言がバズっておりました。とても酷い身体差別発言ですね。このことについて “何の関係もない"多数"の小柄な女性" の皆さま、同じデカ女として本当に本当に申し訳ないと思っていま

2024-08-07

複数人合同で贈る出産祝いの注文の時になって、お祝いメッセージ必要だということに気づき、深夜2時まで悩み抜いてテキストを構築し、睡眠時間を削って消耗しました。バツイチ三十路女にはまぁまぁ体力的にもメンタル的にもしんどいです。とはいえ誰をも恨まずやっていかねばならないですね。ご誕生おめでとうございます。すべての新しい生命に幸多からんことを。

2024-08-04

三十路フリーターだけどドル円158.6円から20lotショートポジション持ってる

評価損益約240万

震えが止まら

もっと落ちると思ってスワップ払いながらガチホしてる

2024-08-01

もうやだ

やらなきゃいけない仕事は山積みで、色んなことが重なってバツイチパートナーのいない三十路過ぎで、周囲はベビーラッシュで、取りまとめたはずの共同出産祝いの内容に異論差しまれ、完成したと思っていたはずの書類に不備が見つかり戻ってきた。

なんかもうダメだわー、発狂したいわー。

それでも笑顔ハニカミながら諸々に対して「すみませんでした!対応しますね」と言ってどうにかやるのが社会性だということをこれまでの人生で学んできたので、そうする。ここで発狂するやつは人間として終わってるとも思う。そして自分は終わりたくはない。

あーあ、みんな幸せにな〜れ。こんな投げやりな祈りから不運ばっかり着いて回るってわかってるんだが、脳みその中のぼやきは止まらないので仕方ない。一生不運と付き合っていくしかない。キリの良いところでうまく自分に非がなく周りに迷惑ができるだけかからない感じで突然パタリと逝ってしまいたいな。幽霊になって自分葬式で泣いてくれる人が多少なりともいることが知れれば気分が晴れる気がする。そう思ってる時点で葬式に人なんて来てくれないんだろうな。わかってる。わかってるよ。あーあ。もうやだ。

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