はてなキーワード: リハビリとは
障がい者の子どもがいる。重度ではないけれど健常者にはなれない狭間の子。ひどい話だが親のくせに子どもをちゃんと愛しているか自信がない。
新生児仮死で生まれた子どもは脳の一部が傷ついて、運動発達に遅れが生じる可能性があると出産した病院で言われた。
はっきり言わない病院側の説明に、額面通り受け取ったので遅れない可能性もあるんだと希望を持っていたけど、普通に遅れて成長した。それでも運動面で言えば、バランスが悪いながらも歩けるようになった。
健常児の成長をゆっくり追いかけている感じなので、いつかどこかで追いつくと思っていた。小学校にあがるまでには人並みには追いつくだろうと。
言葉は出る。記憶力はいい。ご飯もよく食べる。運動発達以外には問題がないと思っていた。けどそうじゃなかった。
言葉は出るけど、発音が甘い。記憶力はいいけど、うまく説明できない。ご飯もよく食べるけど、手指の操作が覚束ない。できるけど、できない。想像していた一般的な子どもには追いついていない。
運動発達の遅れが結果的に他のところにまで影響してくるんだということ、考えもしなかった。誰も教えてくれなかった。わかりっこない。言われなきゃわからない。こっちは限りなく可能性が低い、何事もなく成長するという希望に追いすがっていたんだから。現実逃避と言われればそれまでだけど。
赤ちゃんの頃、何か一つできるたびに嬉しくて喜んだ。ゆっくりだけど順調だね、と幸せな気持ちで抱きしめた。
けれど今、それがない。
来年小学校にあがる子どもは、歩けるけど走れない。ジャンプもできない。普通の靴をはけない。トイレも上手にできない。口元の筋力が弱いのかよだれが垂れるし、食事もぼろぼろこぼす。うまく図形もかけなくて、1人だけ何をお絵かきしてるかわからない。何を喋っているかわからないときがある。チャックやボタンの服も1人では着られない。
できないところに目がついて、怒る。できるはずだろうと怒る。障がいのせいでできないのに、周りの子どもたちと違うことが気になって強く当たる。嫌悪感を抱く。拒絶してしまうこともある。
愛せていない。赤ちゃんの頃のような気持ちで抱きしめられない。純粋に可愛がれない。自分の子どもなのに。
そこまできて、実は自分の中の差別意識がすごく強いことに気づく。
社会では多様性をうたっていて、健常者も障がい者も誰もが幸せな生活を、という風潮があり、そうなるべきだしそうするべきと思っていた。
けれど町で叫んでいる障がい者を見ると怖いと思うし、寝たきりで電動車いすに乗っている障がい者を見ると驚いてしまう。そして自分の子どもには「普通」を強いる。
子どもの将来のためにももっと障がい福祉が充実してほしいと思う一方で、全部一緒なんて無理だとどこか相容れないと思う気持ちもある。説明できない矛盾した感情を持っていて、子どもにきつく当たるように、他の障がい者の人もいざ自分の身近になれば差別してしまうのではないかという恐怖があった。
一番の理解者であるべきなのに、一番「普通」を気にしている。自分の子どもが障がい者であることが耐えられない。健常児だったら、と何万回も考えた。あのときああしていれば、こうしていれば…何度も何度も考えては落胆した。
アプガースコア0から蘇生して歩けるようになり、心優しく育った子どものこれまでの頑張りは何にも代え難いものであるはずなのに、気づくとどうしたら障がいをなくせたのかばかり。
子どもを愛したい。優しくしたい。毎日子どもを傷つけている。眠った子どもの頭を撫でることは出来ても、起きている子どもを抱きしめることができない。療育で楽しそうにリハビリを受ける、自分の子どもよりずっと思い障がい児の親子を見て、情けなくなる。みんな一生懸命乗り越えているのにどうしてできないんだろう。どれだけ自分は狭量で差別的な人間なんだろう。
維新の議員さんの件でまた騒がしくなっているウィシュマさんの事件ですが、こう、メディア等の問題設定に違和感があるわけです。
人が亡くなっているわけですし、直接的な原因としては入管の不手際があるわけで、入管の体制の見直しは待ったなしだと思うんですが、本当にそこだけをクローズアップするのでいいんでしょうか。その点では、件の議員さんの問題意識は正しいと思います(まあ、追求するのはそこじゃねえだろ、というのはあるのですが)。
ということで、改めて入管の調査報告書を読んだので私見を述べたいと思います。
亡くなった方を悪く言うのは気が引けるんですが、ウィシュマさんはかなり「やって」ます。
・留学ビザで入国して、学校に行かなくなった(本来ならその時点で帰国しないといけない)
・在留資格を延長する目的で、難民の事由に該当しない内容で難民認定申請を行った
・その申請内容が虚偽だった
・申請が不許可になったので逃げた(意図的にオーバーステイした)
オーバーステイ、事由に該当しない難民申請、偽造在留カード使用はそれぞれ単体でも在留を却下されるやつです。ウィシュマさんがどこまで理解していたかは不明ですが、在留資格を得られる可能性はほぼなかったと言えます。
その他にも怪しい部分がたくさんあります。同情的に語られる恋人からのDVですが、不正確な話が色々あります。
まず、ウィシュマさん逮捕の時点でBさん(報告書の記載にならいます)とは恋人関係ではありませんでした。Bさんの話によると、逮捕の8ヶ月ほど前には既に関係は解消しており、Bさんは別の女性と交際していました。その後も同居は続けていたという話です。その上、逮捕の3ヶ月前にはウィシュマさんが仕事をやめたことで、Bさんが家賃や生活費を全て出していたそうです。恋人でもない人の生活費を面倒見るというのは、一般的なDV男とはだいぶん印象が違います。
しかもBさんは暴力を振るったことがあるとは認めつつ、一方的なものではないと証言しています。ウィシュマさんから体当たりされている動画や、投げつけられたコップや破られたパスポートといった物の写真を残していました。刑務所からウィシュマさんに送った手紙にも、よくけんかをしたという内容が書かれています。
もちろんそれだけでDVがなかったという確証は持てないんですが、Bさんは逮捕の2日前にウィシュマさんから復縁を迫られたとも証言しています。DV加害者に復縁を迫るなんてことあるのかな、という疑問もDVの存在を疑わせるわけです。
また、Bさんはウィシュマさんと同じ日に、ウィシュマさんの密告によりオーバーステイで逮捕されています。DV加害者から逃げようとしている時に相手を刺激するようなことするかな、という点も大いに疑問です。
ちなみに、Bさんから脅迫的な手紙が届いたというエピソードは、ウィシュマさんの密告だと気付いたBさんが怒って書いたものです(Bさんは偽造在留カードを2枚、本人名義と他人名義のものを持っており、警察は他人の方の名義まで知っていたということなので、まあ分かりますよね)。つまり、手紙による脅迫はウィシュマさんのオウンゴールに近いものです。密告すれば恨まれるに決まってるじゃないですか。
余談ですが、ウィシュマさんはBさんへの手紙には誰が警察に通報したか分からないと書きつつ、入管への仮放免申請の際は「彼氏は、私のせいで警察に捕まったと分かったようで」と書いています。
この手紙の脅迫をもってウィシュマさんは帰国できないと言っていますが、これも怪しいです。というのも、Bさんとの手紙のやり取りは10月に行われているのですが、支援者と面談した12月の時点ではまだ帰国するつもりだったからです。その時点ではBさんが障害になるとは考えておらず、在留に気持ちが傾いたためそれを利用したとしか考えられません。
家族についても不思議な点が多いです。ウィシュマさんは家族からの連絡は途絶えている、だから帰国したらお寺に行くと話していました。またBさんは逮捕の後、入管の施設に収容され、11月に仮放免を受けています。この時ウィシュマさんの母親に電話してウィシュマさんを助けてほしい、妹に自分の電話番号を伝えてほしいと話したそうです。しかしウィシュマさんの家族から連絡はなかったそうです。
一方、ウィシュマさんが亡くなった後すぐに来日していることからも、本当に家族と関係が悪かったとは考えにくいです。ただ、留学ビザが1年3ヶ月だったことは知っていたと思うのですが、2年過ぎ、3年過ぎても帰って来ないウィシュマさんについて何も思わなかったのでしょうか?ウィシュマさんが日本で滞在している間、連絡は取っていなかったのでしょうか?来日した後でウィシュマさんと知り合ったBさんは母親の連絡先を知っていたのに?何かトラブルがあったのでしょうか。よく分かりません。
入所後の病院に連れて行って欲しいという要望についてもなかなか厳しいものがあり、ある時点までは仮放免のためのアピールだったと考えざるを得ない部分があります。2月1日の看護師面談の記録に、看守にはなぜ病院に連れて行ってもらえないのかと主張する一方で、看護師には病院に行きたくないと語ったとあります。2月1日は、嘔吐を繰り返していたため共同室から単独室に移動したタイミングです。つまり、その時点での「病院に行きたい」はただのアピールだった可能性があるということです。2月中旬には自力でトイレに行けないほど歩けなくなっていので、おそらくそこまで至っていれば本当に病院に行きたいと思っていただろうと思われます。アピールなのか本気なのか、看守が見誤ったのはオオカミ少年的な事情が感じられるのです。
というわけで、入所時にオーバーステイや在留カード等の諸々でそもそも印象が悪いところに、支援者との面談で帰国の意思が覆り、病院に連れていけとアピールと始めた、というのが実態だろうと思うわけです。これで本当に具合が悪くなったタイミングを見極めてきっちり対処しろというのはなかなか負担が大きいだろうなと思うんですよね。なので、今回の議論の中で見かけた、予断をもって当たることのないよう収容所の運営は別組織にした方が良いと言う意見は、ある程度的を得ていると思ったりします。
・ウィシュマさんに「(体調不良を)アピールした方がいい」と伝えていたこと
・これまで大量に仮放免の身元保証人になっており、その20%以上で取り消しになっていること
ウィシュマさんにとって、この支援者と出会ったことは不幸だったとしか言えません。報告書を読んでも、なぜこの支援者がウィシュマさんに在留を勧めたのか、さっぱり分かりません。12月16日の面談記録に「日本で生活したいなら支援するので仮放免申請等を行ってはどうか」と助言したと残っています。出会っていなければ、ウィシュマさんは帰国できていた可能性があります。入管は帰国の準備を進めていたからです。
当時はコロナ禍対策のまっただ中で、スリランカへの航空便は全便停止していました。そこで臨時便に乗ってもらおうとしたのですが、費用の問題が立ちはだかります。運賃に加え、帰国した際は一定期間隔離されるためその宿泊費を自費で出す必要がありました。ウィシュマさんは手持ちのお金がなかったためさまざまな方法が検討されたのですが、そのさなかに支援者と出会い、帰国しないと言い出してしまったのです。
議員さんは、ウィシュマさんがハンガーストライキをして亡くなったのではないか、支援者がそれをそそのかしたのではないかと言って炎上しました。私もハンストではないと思うのですが、支援者の影響はあるだろうという見解は同じです。
私はどちらかと言うと、報告書に出てきた身体化障害(身体症状症)のたぐいではないかと思っています。体の機能には異常がないのに、悪いところがあるという本人の思い込みで本当に具合が悪くなってしまうというものです。ウィシュマさんが体調不良を言い出したのは1月の中旬で、支援者と1月20日の面談記録に「入管は体調不良者について何もしない。病院に行って体調不良を訴えないと仮放免されない。仮放免されたいのであれば、病院が嫌いでも病院に行った方がいい」「仮放免されたいので,絶対病院に行く」という内容の会話があります。これによって「病院に行かなければ」という思いが生まれ、行けない期間が長くなるにつれ焦りに変わり、強迫観念になってしまったのではないかな、と。こればっかりは想像の域を出ませんが。
入管の扱いが悪いから体調を崩したのだ、という考え方もありますが、個人的にはそちらには否定的です。8月に入所してから4ヶ月間は健康に過ごしている点と、体調を崩し始めた後の1月29日にウィシュマさんは看守、支援者のどちらにも「入管での生活は快適で、ストレスは感じていない」と話しているからです。もっとも、ウィシュマさんは病院が嫌いだったようなので、行きたくないから嘘をついた可能性も否定はできません。仮放免のために病院に行きたい、でも嫌いだから行きたくない、そういうアンビバレントな精神状態もストレスになっていたのかもしれません。もし嘘だったのであれば、嘘をつく癖が悪い方向に働いたと言うべきでしょう。いずれにせよ、精神的な問題を抱えていたのであれば、支援者の助言は影響していたと思います。
ウィシュマさんの仮放免申請は2回提出され、1回目は不許可、2回目は亡くなったため判断なしという結果でした。2回目は許可の方向性だったものの体調が著しく悪いため保留というステータスだったのでともかく、1回目が不許可だったのは半分支援者のせいです。
今回身元保証人になる予定だったS3さんという方は、2015年1月から2021年3月までの間に47件の仮放免で保証人になっています。そのうち10件で、逃亡等の理由で仮放免取り消し処分になっているのです。約21%にあたるので、同期間の全国の仮放免取り消し率(約6%)の3倍以上です。さらに保証人になった後、仮放免された当人を近隣に住まわせないという暴挙に出ています。名古屋入管の話なので多分愛知県にお住まいだと思いますが、なぜか対象者が兵庫県に住んでいるケースもあったようです。身元を保証する気があるのか疑われたのも無理ありません。また今回のケースでは特に、ウィシュマさんが在留希望に転じたのは支援者の影響なので、支援者と暮らしたらより帰国させるのが困難になるのではないかと考えていたようです。
要するに、「この人に預けると退去強制が執行できなくなる可能性がそこそこ高い」と思われていたということです。仮放免はあくまで帰国までの間収容所の外で暮らせるという制度なので、帰国しないぞと頑張られては困るわけです。
結局、ウィシュマさんは支援者の助言により仮放免を求めて帰国をやめ、支援者の負の実績により仮放免を受けられなかったわけです。ウィシュマさんが入国管理の制度についてどれだけ理解していたかは分かりませんが、仮放免を在留許可と勘違いして帰国を思いとどまってしまったのであれば、これほど不幸なことは無いと思います。ウィシュマさんは日本で働きたいと思っていたはずですが、仮放免は就労不可なので生活費の全てを支援者に頼ることになり、思っていたような生活はできないんですよね。
あと、ヒアリングの途中で調査チームへの協力を拒否した点も印象悪いです。
悪い条件が相当重なっていたこともあり、個人的には入管に対してかなり同情的なのですが、それでもこんな形でウィシュマさんが亡くなって良いはずがありません。私の思う問題点は1つだけです(そこから色々派生するんですが…)。
・歩けないほど衰弱してるなら病院に連れていけ。
そこそこ元気だった人が2週間ほどの間に歩くことすらできなくなったのを目の当たりにして、緊急性を感じないのは感覚が麻痺しています。さすがにそこは擁護できません。いくら2月19日の段階で3月4日に精神科を受診することが決まっていたからと言って、その間に寝たきりになって関節を動かすリハビリを始めるに至ったら、精神科では不十分だと分かりそうなものです。
報告の体制が徹底されていない点は調査でも指摘されていましたが、看守の自己判断で報告義務のある内容が報告されないほど規則が形骸化しているのであれば、事故を防げるはずがありません。そういう意味では、これは防げた可能性が十分にある事故です。若干繰り返しになりますが、健康管理に関しては独立チームを作って運用した方が良いのではないかと思います。
この事件をどうすれば防げたかということを考えた時、実際のところ事件は3年前から始まっており、入管は最後の最後なんですよね。入管だけを責めてどうにかなる問題ではないんです。簡単にまとめると、こんな感じでしょうか。
・入国する外国人の皆さんに、適法に滞在してもらう(不法滞在者にアメを与えない)
・支援者は収容者にやみくもに手を差し出さない(身元保証人には欠格条項を作るべきでは?)
・入管はちゃんと被収容者の健康管理をする(というよりも、緊急時の判断の訓練をする)
そのためにも、入管の対応を責めるのは良いとして、ウィシュマさんを無辜の被害者として祭り上げてはいけないと思うのです。適法に滞在している外国人の皆さんに対して失礼ですし、「日本は不法滞在者にも優しい」なんてメッセージを出してはいけないんです。不法滞在者や施設の収容者が増えれば、それに応じて動的に人員を増やせるわけではないのですから、当然事故は起きやすくなります。
ウィシュマさんは不法滞在者であった。しかしその命が入管で失われるようなことがあってはいけないのだ。この事故を繰り返さないためには、そういう論調こそが重要なのではないでしょうか。
コロナ禍になる前からテレワーク・リモートワークの仕組みを作ろうって話を提案し続けた。これはうちに介護が必要な弟がいて、どんどん状態が悪くなってる事もあったんだが。
一部が通って、実験をスタートさせるも予算つけて貰えない。業務の合間でやれということで、自分で勉強してオープンでシステムを研究していた。
そこで、コロナ禍になる。コロナ禍になったら、今度はまだ完成してないのかと謎の反発になるも、予算が出て、一気に構築した。とは言ってもモダンなものではない。単なるVPNだが、地域IP網の折り返し通信を使うとかでかなり低コストで快適な仕組みになったと自負している。
が、ITシステム担当はシステムが動かなかった時にフォローが必要であるという謎の理由で出社強制、コロナ禍でもテレワークが許可される事はなかった。
そうこうしているうちに、弟がデイでコロナをもらってきて、俺も含めて罹患。親と弟は入院、俺は自宅待機となってようやくテレワークを使ってもよいことになったが、一時的なもので、出社に切り替えられる。
親は1カ月ほどで退院できたが、弟はリハビリが必要になり、一年かかってようやく退院。
より重い介護が必要になる状態になってしまうが、施設での受け入れ先がない。
退院にあたってテレワーク申請、介護休暇をちらつかせてようやく許可を取って、週3日テレワークでやっていたが
先日、全社で無条件出社の御触れがでた。
もう付き合ってられるかと言う気持ち。
転職活動したら、在宅中心、週1出勤、年収2割UPの条件で内定出たのでもう辞めるところ。
それでも、GWを返上して、有休消化期間もとらずに引き継ぎしている俺は愚か者である。
もう自分自身にも付き合ってられない。
どのくらいデブかというと、
155.5cmの身長に対して95kgのウエイトである。ちなみに女だ。
紛うことなきデブであり、将来的にも健康の心配がされるデブである。
それでも勝手に体力には自信があった。
オタクイベントで2万歩、3万歩歩いてもピンピンしているのだ。
それってアドレナリンのおかげですよ、とは思いつつ、しかし体力はあると思いこんでいた。
やべぇ、フライパン持ってられない。
皿に盛り付けるために、片手で持って中空で維持していたフライパンがフラフラする。ダジャレかな?
オタクイベント以外、やたらめたら疲れまくるのは、それはもちろんデブのせいだと思っていた。
運動場のラインパウダーこと石灰の袋(20kg)が2袋も体についている。
そんなもん、重いに決まってるじゃねーか。疲れるに決まってるじゃねーか。
そう思っていた。
さて、詳しい人はそろそろ「お前の気持ちなんかどうでもいいから、体脂肪率出せや」と思っている気がする。
155.5cm 95kg 体脂肪率40%
すると、どうも平均以上にムキムキなはずになってしまうのだ。
でも、やっぱり計算上は筋肉量もあるし、大丈夫な方のデブなのか?
あすけんの女とも付き合ってみたが、な~んも気にしないでとりあえず記録だけ入れるという生活をしてみたところ、1日1500キロカロリーしか食べなくて、むしろあすけんの女に食え食えとせっつかれるぜ。
な~んだ、そのウチ減るのでは?
あー安心した!
何も!
状況は!!
結局筋力なんてものは、私にはなかった。
あまりにもウエイトがありすぎると、どうやら計算上の筋肉量は多くなってしまうらしい。
なんで分かったのかといえば、そう、いわゆるジムに通うことにした。
オタクらしく、フィットボクシングやリングフィットアドベンチャーでどうにかしようと思った時期がワタシにもありました。
増田は一軒家に住んでいるが、家族からの生ぬるい視線に負けてしまった。
ゲームで元気に動くデブは、理解を得られなければ家族からでも白い目でみられるのである。
「またやんの? 今日もやんの?」的な態度がツラい。
デブに偏見なく付き合ってくれるのは、月に1回遊びにくる甥・姪くらいなものである。
実はまだギリギリぽっちゃりレベル(66kg/体脂肪30%)のときにジムへ行っていたことはあるのだが、インストラクターのデッカイ兄ちゃんから「コツコツ通っててエライっすね」と物理的にも口調的にも上から目線で言われたときに、何故だか「なんかもう!ヤダな!!」と思ってしまった。
当時の自分を擁護するなら、仕事でしんどかったとか、仲の良かった同僚が転勤したとか、天候とか、ホルモンバランスとか、まぁ色々悪かったのかもしれない。デッカイ兄ちゃんは会員を励まそうとしてくれたのだとは思うのだが……メンタルヘルスの不可思議な部分である。
そんでもって仕事をリタイアしたときに、それまで明日の朝起きられるのか不安ということで不眠を抱えていて毎日3時間程度しか眠れない日々を送っていた影響もあって、3ヶ月くらいガッツリ寝て、寝て、寝まくって寝て……というような生活を送っていた。
学生時代は運動部だったし、体力測定は常にトップクラスを走っていた自分だが、あの時、筋力は大幅に落ちていたんだろうなとは思う。
難しい話でなく「入院・安静による筋力低下」ということである。
おかげさまで、自分はまるまる3ヶ月程度の眠りの後、運良く超絶スッキリ大復活することができたのだが、寝ていた結果の筋力低下については全く考慮していなかった。しかも寝まくる前はメンタルがボロボロだったので自分の体の調子がどれくらい変わったかなど、当然のように全く分からない。
このあたりで、どっかジムとかリハビリっぽいところとか行ければ良かったのだが、当時まだ二十代だったのでそんな発想はなかった。
自己流でやっていたのだが……
今から振り返ってみると……以前から摂取タンパク質が足らなかった。
ニク、高いじゃん。
でもどこでも買えるようになったのマジで便利だよね。
あれよあれよと10年経って、プラス30kgで今現在ということである。
あすけんの女からもタンパク質が足りないと言われていたが、マジでそこまで足りないと思っていなかった。
今回のジムで高い体重計に乗り、骨格筋率を測定してびっくりである。
21%だった。
女性の骨格筋率の標準範囲は25.9%~27.9%(オムロンヘルスケア)、つまり25.8%以下は「低い」に分類される。
すごい、体重計乗って「低い」って判定されることがでぶの自分にも起こり得たのか……
そして現在の体力を振り返るために、体力測定も行った。
結果、体の柔軟性以外はすべて同年代の平均以下だった。
わー!すごい!体力測定系で平均以下の判定もらったの初めてかもしれん!!!
という、間違った興奮の元、インストラクターさんにとてもいい声で元気ハツラツ、
「すごくショックです。体力を取り戻すために頑張ります(キリッ」
と答えていた。
指導の一貫でタンパク質はコレくらい食べるのがいいよ!という表をもらったので眺めてみたら、現在自分が摂れているタンパク質は必要量の6割強というところだった。
うーん、それはね。衰えるよね。
思ったよりタンパク質足りてないデブ、動く筋力を作ることもできずに加速度的に衰えていたという話でした。
幸い牛乳は好きだし、プロテインで足しつつジム通いたいと思う。
元自衛官で肉体だけが取り柄、借りた畑での野良仕事が趣味だった親父。
古希を迎えてすぐ、膝を悪くしてろくに散歩もできなくなると一気に衰え、
帰省するたびにどんどんショボくれていき、筋肉など見る影もない枯れ木のようなジジイになっていく。
関節だけでなく度重なる飲酒と喫煙のダメージで内臓もボロボロらしく、
透析寸前で好きなものも食えないということで精神的にも弱っているようだ。
とはいえ、昔気質で亭主関白な親父、昭和生まれの元自衛官なんて、
今風に言えば「有害な男らしさ」を煮詰めたような環境でサバイブしてきた男だから、
かといってリハビリに精を出すわけでもなく、座して死を待つがごとく寝たきりに近い生活になっているらしい。
この間話した時は頭がまだはっきりしていたのが幸いだが、そんな生活を続けていればボケるのも時間の問題な気がする。
体がダメになるのが先か、頭がダメになるのが先か、いずれにしてもあと数年で今生の別れがやって来そうな予感がする。
そんな予感をヒシヒシと感じつつも、じゃあ生きてる間にたくさん親孝行だ、とはなかなか思えない自分がいる。
まだ小さい子供と、ウチの実家を敬遠している妻、安月給なのに忙しい仕事を抱えて、自分の生活を維持するので精一杯な部分も大きい。
しかし、それ以前に俺は父親のことを人間として知らなさすぎた。
それは父親自身の気質ゆえに、父親というロール以上の人間性を自分にあまり見せてこなかったというのもあるかもしれない。
あるいは、俺自身が父親に人間としての興味をそこまで持たずにここまで来てしまったからかもしれない。
母親曰く、父親は息子である俺にいい面だけを見せようとしていると。
俺には、借金だけはするなと言っていたのに。
でも俺は俺で、父親のいい面だけを見ていたかったのかもしれない。
母の苦労は想像するにありあまるが、それでも愚痴を聞きたくはなかった。
18で家を出て以来、実家に帰るのは多くて年に二度。酒を飲める年齢になっても、結局父と2人でゆっくり盃を交わしたことはなかったな。
どこかで腹を割り切れないというか、親父は親父、倅は倅、そういう立場を超えて本音を話したことがなかった。
今からでも遅くない、という思いもあるし、いや、このままでいいんだと思う自分もいる。
息子にいい面だけを見せようとしていたなら、いい面だけを思い出にして綺麗にお別れしたいと思う。母親には悪いが。
あと数年、年老いた母に父親の介護を押し付けて、老々介護を見て見ぬ振りして暮らすのは忍びないが、せめて役所手続きしたり保証人くらいはやるので勘弁してくれ。
父も母も、一人の人間としてみれば、毒親とは言わぬまでも問題の多い人たちだったと思う。正直友達にはなれなかっただろうな。
でもやっぱり自分も親になってみて、二人の子を育て上げたことのすごさは尊敬に値するし、感謝の念は抱いている。主に苦労したのは母親だと思うけど。
でもレールを敷こうとする過干渉気味の母親を制して、父が生きたいように生きることを支持してくれたことは心底ありがたかった。
そういうとこが母からしたらいいカッコしやがって的にムカつくポイントだったんだろうけど。
学生の頃、仕送り散々もらって、働き出したら返すなんて言って、結局全然返せなくてごめん。
大学まで行かせてもらって、好きなように生きて、結局大して稼げなくてごめん。
まーた兵庫か
ええかげんにせえよホンマ
おなじ関西人として恥ずかしいんだが。
一度大掛かりな厄落とし?みたいな行事やれよ
松明で山を焼くとか、神事で30日祈るとかさあ
2013年、神戸市にある北須磨訪問看護・リハビリセンター。患者宅での訪問看護を終えて事業所に戻ってきた30代の女性看護師は、いつもと明らかに様子が違っていた。酒に酔ったような足取りで室内を歩き回り、上機嫌で職員に話しかける。ふざけているのだろうと初めは笑って見ていた所長の藤田愛さん(57)だったが、かみ合わない会話に「クスリをやられた」と直感した。
在宅医療を担う医療従事者が、訪問先の患者らから暴力やハラスメントを受けている。その被害は深刻だ。2022年1月には、医師が埼玉県ふじみ野市にある住宅に呼び出され、担当していた高齢女性の息子に散弾銃で撃たれて死亡している。医療従事者の安全をどう守るべきか。長年、この問題に取り組んできた所長の藤田さんに、現状と課題を聞いた。(共同通信=櫛部紗永)
様子がおかしくなった女性看護師は、その患者宅を半年前から訪問していた。実は、訪問を始めてからの半年間にも体調の異変はあった。藤田さんは他の職員から「看護師の様子がおかしい」と連絡を受けていた。看護師に確認すると、返答は「風邪気味だから大丈夫です」。口調も明るい。休養するよう伝えたが、それ以上のリスクを予測できなかった。担当の変更などはせず、この日も看護師をそのまま送り出していた。
看護師に後で確認したところ、訪問先で夫婦の家族だという男性からお茶を出され、飲んだという。規定では訪問先で出された飲食物を口にしてはいけないとなっている。看護師もいったんは断ったものの、温め直しをされ、何度も勧められていた。季節は冬。「相手を傷つけてしまうかもしれない」。せっかくの厚意をむげにできなかったという。
戻ってきた看護師は、意識障害を起こして緊急入院となった。点滴を打ったが、目を覚ましては起き上がろうとしたり、幻覚のせいか手を振り回して暴れたりした。「休んでいて」と落ち着かせたが、「所長すみません」とろれつが回らないまま、うわごとのように繰り返した。
センターに対する説明では、この住宅は訪問介護を利用する妻と、夫の2人暮らしのはず。お茶を勧めた男性が同居していることは知らされていなかった。初回訪問時も姿は確認できていない。警察に通報したが、治療の後だったため証拠が足りず立件には至らなかった。この男性が違法薬物を取り扱ったとする罪で執行猶予中だったことを警察から聞いたのは、ずいぶん後のことだ。
そろそろ解消しそうなので備忘録で書き留めておく
辛いPMSにはセルトラリンはマジで全女子に知ってほしいと思ってる。
ただ薬も余り効かず我流の鍼とかでひたすら耐えた感じ。
連続投与のピル(自分の場合はジェノゲスト)とセルトラリンが黄金の組み合わせと思う。
婦人科は精神科の薬を出すのが余り上手くないため、心療内科もかかることをお勧めする。
ピル五種類飲んだからマジで長かった。ヤーズ嫌だって言ってるのにバカの一つ覚えの婦人科医師多すぎ。クッソ手こずった上に結局心療内科が治療のキーとなったため、婦人科にはあんまり信頼感がない。
◉精神症状
一番ひどい時は文字が読めなくなったり家から駅まで行けなくなったり、人間関係を生理ごとにぶち壊したりしてきた
ピル(ジェノゲストではない)で他害行為は良くなってからも空間把握能力がおかしくなり、料理中に気づいたら手を切っていたりして恐ろしいほどの能力低下していた
◉身体症状
だるい。これは今でもそこまで良くなってない。15時間寝るなどの過眠も良くなってない。その他の頭痛などはかなり連続投与ピルで改善した。
後は大食いムーブがあったりした。その後は生理で何も食えなくなるから痩せてたんですけどね。
◉月経困難症
排卵痛まで酷かった上、ピークの時はボルタレンロキソニンでも薬が効かなかったため3週間くらい痛みにずっと耐えないといけず何もできなかった。
→3ヶ月くらい続いた。
散歩もまともにできず、不眠になった。
最初はタケキャブ使ってもダメで、原因は生理止めるためのピルでの肝炎だった。婦人科ファッ●
肝炎良くなってからもたまにぶり返すのでタケキャブもらったりする。スッキリ良くなる。
●肝炎
→とあるピルが悪さして辞めた途端治った。全国の婦人科よ血液検査はちゃんとしてくれ。
●肥満
運動しまくってたのに痩せずに途方に暮れたところ、不眠治療し出してようやく痩せ出したところ。泣くほど嬉しい。
●不眠
→マジで毎日寝付けず頭が働かない生活を送ってた。睡眠外来の病院に行ったところ、指導が神がかってた。かなり良くなった。なぜか不眠治療したら食欲が減って痩せた。
●肩凝り
→整形外科で体操教えてもらったのがかなりよかった。急性期はリハビリしてもらったのも非常によかった。
その後教えてもらった体操、コリコランとオムロンの高い治療器でそこまで極端に凝ることは減ったが真冬はたまに弛緩剤のお世話になることがある。
●まとめ
→早く病院に行くほど簡単な病気の治し方はないと思った。ただ婦人科はなかなか当たりがないので大変。心療内科は予約取りにくいのでとにかく早めに。
父親、70代前半。
元々障害(軽いと言えば軽い)あったり、脳梗塞かなんかでちょい体動かしにくくなったから元増田のとことどっこいどっこいかな。
定年後もめちゃくちゃ元気だったけど、入院した後、飲酒とDVD鑑賞の毎日。加えて去年一昨年と立て続けに父親母親亡くして一気に老け込んだ。
すごくキレっぱやかったけど、なんか感謝とか労い聞いたこともない言葉を口にするようになったり人の心っぽいものを手に入れた(フリはできるようになった)
元々人の気持ちがわからない人間で相談と🦀は乗ってくれないし相談しようとも思わないけど(他の兄弟も同じ気持ちだったり心配かけたくないとかで相談とかしない)
多少の友達が残ってて、月に2~3回は父と遊んでくれている。
加えて町内会みたいなの(田舎なので)があってそれだけはなんとか出席してる。
王様、独裁者タイプだけど、お金は持ってて人に振る舞うのが好きなので仲良くしてくれる人が残っている。実は寂しがりなんだろうし。
お酒を買っておくとほんとに出かけなくなるので、酒は自分で買いに行ってもらってる。
近所のコンビニだと4~5本ぐらいが限界。カート使えるディスカウント店とかで箱買いしてちまちま運び込んでたりしてる。
衝突回避システムを信じてるよ。ちょいちょいぶつけるので、本人も自覚あるのと、朝から酒飲んでるので、乗るのは月に2~3回に激減した
晩飯は週に5日か6日、都合悪い時以外は作ってて、都合悪い日の前日はカレーとか作りおいてたけど、色々面倒になってたまにしか作らなくなった。自分の分のお米炊いたりはしてるけど
食が細いので、2~3回に分けて食べてる。あとはカップラメーンminiとかふりかけごはんとか
冷食とかあったら勝手に食べてる
昔切れ散らかしてたのがウソのように丸くなった。
相撲と笑点はわざわざテレビのある部屋に来てリアタイで見てる。あと前シーズンの朝ドラと。今のは見てないっぽい。
あと、新しい番組とかついていけてないようで、昔から何度も見てる映画とかのDVDを繰り返し見てる。
幸いにして家が広いので、父の部屋の近くまで行かないとその音は聞こえないけど、いつも同じBGMが流れててちょっと引く。
かまちょだったのが、孫の遊んでる姿を優しく見守って、独り言行って、眠くなったら自室に引っ込んでとか、なんか優しくなっとる。落ち着いた
私が結構ドライな性格で、面倒だったら見捨てるオーラをぷんぷん出しながら色々してたから、人が変わったようで、近所のおばさんとかに私に見捨てられたら生きていけないとか漏らしてるみたい。冗談だろうけど
ごめんね、見捨てるよ
まだ体動いて判断力あるうちに、入れるところ探してね
徒歩5分とかでしんどいとかいうので、ほんとにお酒とか買いに行くのがリハビリというか最終防衛線になってる。
そういえば、うちに出入りしてた酒屋さんとか近所の雑貨店の人が、似たような年代で独り身の男性がことあるごとに色々頼んできて、ほっておくわけにもいかないって愚痴ってたなぁ。
感謝も薄いというか、ありがとうが言えない、表現できない、そろそろ限界だなーって。
民生委員さんとかかな~て思った。それかお寺か。
あと、自分で飼い始めたお犬様なのに全然世話しない。(おばあちゃんの役目から私に自然と引き継がれた)
ひなたぼっこしながら縁側で庭のわんこに餌あげたりするのは増えた。
わたしひとりで全部背負おうとして去年は私が折れかけてた
私がこんな性格なのと、母とはとっくに離別してるのと、ご近所さんとかの付き合いが残る古い地域なのがまだ最悪の方向に行ってない要因だと思いました
仕事でさ、再開した仕事に慣れてないっていう状況で「リハビリ」って単語使ったら
「本当に骨折したり麻痺だったりで自由がきかない人に失礼だ」って怒られたんだけど…
みんな使わないの?リハビリ…
Twitterを眺めていたら、藝大に受かったという報告を載せたツイートが流れてきた。
数年前の私なら、涙が出るほど悔しかった。その悔しさは、なんというか、落ちたからではなく、別の意味の方で悔しかった。
美大受験に夢を見ていた中3の頃、両親の望む高校は受けず、美大進学実績の多い高校に進学した。進学実績の資料通り、美術部には本気で美大受験を考えている人が沢山いた。居心地がよかった。絵を描いても馬鹿にされない環境が、私を天狗にさせたし希望を持たせてくれた。だけど、気付いてしまった。芸術を嗜む者たちは皆余裕があった。私以外、みんな笑顔で、お金のことはあまり考えてなくて、親も芸術に理解があって。まず、美大に行くには絵を学ぶ画塾に行くことが必要だと言うことも、絵の上手い笑顔の友人が教えてくれた。その子は親の勧めで、中学から画塾に通っていたらしい。私は芸術に大して興味のない家庭に生まれたバグ人間だったから、美大進学を応援してくれる親が存在すること自体、初めて知った。ただ純粋に「絵上手くなるぞ!」って気で来たのに、人生の課金され度が違いすぎて、そのギャップにびっくりした。その時から、画塾に行くこともできない、絵が下手で、情弱な自分のコンプレックスは増大し続けた。そんな私を哀れに思った美術の先生が、「ネットを使えば?」と提案してくれた。どこそこの美大に受かった生徒は、田舎で画塾に行けなかったからネットでデッサンのノウハウを学んだらしい。へー。じゃあ、やってみるか。と言っても、何を調べればいいのか、見当も付かなかった。馬鹿だったから。学びのないなかで描くデッサンは、段々と下手になっていった。もう当時の私は、精神的に疲れていたと思う。
親や祖父母、親戚の人まで、美大志望の私を散々馬鹿にしてきた。「絵を描くのは趣味でいいじゃないか。」「正直言って、あなたの描く絵上手くないよ。」「あの絵に使った絵の具が可哀想。」みんな笑っていた。私を中心にして、お酒を飲んだり、食事をしながら。すごく悔しかった。最初は、地元の美大に行こうと思っていたけど、志望校を東京藝術大学に変えた。一週間だけ通った画塾(親が受講費をケチったため)で、塾講師が「藝大も可能性あるよ。」と言ってくれたのも原因だと思う。友達と美術の先生だけは、私を応援してくれた。来たる受験日、私は呆気なく一次試験で落ちた。一次の合格発表が出るのは二次試験の前日、卒業式の日だった。遠方に住んでいた私は卒業式を捨て、もう東京に来ていた。ショックだったけど、浪人しようという決心もついた。
卒業式に行きそびれたため、後日改めて学校に行かなければならなかった。卒業証書を貰い、サッサと帰ろうと思った時、担任が一言。
「お前は浪人するのか?」
浪人します。と答えたら、説教された。「〇〇は藝大に現役で受かってるのに、お前は浪人したって受かる実力ないんじゃないのか?就職するなら手助けするからさ、考えなおそう。」
心にひびが入った。ずっと耐えてきたのに、涙が出そうだった。それでも、藝大は諦めきれなかった。
泣きっ面に蜂と言うが、不幸なことは立て続けに起こるもので、ある事件が起きた(人間関係のことなのでボカしておく)。いよいよ私の心は壊れてしまった。回復するまでだいぶ時間がかかった。正直、当時のことはあまり覚えていない。ただ、絵が描けなくなっていたのは覚えている。どうやっても描けない。似顔絵が描けなくて泣いている小学生の気持ちがわかった。あんなに芸術が好きだったのに、あんなにデッサンを描いたのに、あんなに画家の技法を真似したのに、たった数ヶ月描かなかっただけで0になった。ブランクがあっても、少しくらいは残っていると思っていたのに、下手くそなデッサンさえ描けなくなっていた。自分はそこまで才能なかったんだと自覚した。でも、そのおかげで諦めがついた。そのことを両親に伝えると、二人は藝大受験を諦めたことを喜んだ。事件のせいで、親にも迷惑をかけたし、選択肢のない私は、社会復帰することだけを考えた。今もリハビリ中だけど、いずれは就職できたらなと思っている。数年前よりはマシになったけど、悔しい気持ちはまだ残ったまま。
北区姥ヶ橋自転車移送場所にいくと高齢の職員が出てきて、いざとなるとマスクを解除して自分の鼻の形は団藤のものだ、といわんばかりに見せつけてくるうざいジジイがいますよね。
しかしそもそもの話として、姥ヶ橋ってなんですか?姥捨て山を連想させるわけですね。実際に団藤のような執念深くて尊敬される刑事法学者は平成24年に亡くなっているので、その
団藤が存在するわけがない。しかし、町子が脳梗塞で倒れてリハビリから帰ってきたときに自分は鬼塚ちひろだっていってみせてきたときにあれは佐藤の指令が強制されていたと思うんですね
私はその頃黒羽から出てきてずっと猫をしていて色んなところを走り倒していたのでそういうことを考えてる余裕がなかったのだけど町子がリフォーム業者と話し合ってるときにそうしたわけです
でも私は見たくないからそのときは見たくなかった。86歳の人が鬼塚ちひろのわけないからですね。昨晩ですがその町子がブタになってハンモックで寝ている映像が出てきてあれはどうやって