はてなキーワード: 書き手とは
小説の設定を練るときのフォーマットを作って、割と納得いくものになりました。
創作で悩みがある人の助けになればと思って、具体例や書く時のコツと一緒に公開します。
上から埋めていくと本文を書けるくらいにイメージが固まってきて、心穏やかに小説を書けます。
小説って書くのに時間かかるから、勢いで書くと書いてる間に飽きるし、考えたこととか忘れて投げ出しちゃう。
設定を練ろう!
ちなみに、小説の実力は趣味程度だから、上手な人は優しくアドバイス貰えると嬉しいな。
追記: みんなブックマークありがと!記事に影響を与えたコメントは後ろで謝辞してあるよ。
====以下、フォーマット====
例: ゾンビさんは在宅
例:
感染した人の思考力・感覚レベルが低下してしまう「Zウイルス」が突如流行し、みんなが外出を控えている。
【主人公の自宅】
H道某市、会社から徒歩5分のところにあるマンションの1階。間取りは1K。
ゲーミングチェアと可動式デュアルディスプレイで快適にリモートワークできる。
例:
根黒 幽(ねくろ ゆう)
ちょっと内向的な新社会人。声は暗いが目はきらきら。経理部に配属され、OJTが終わった直後にウイルスが流行し、在宅勤務を余儀なくされた。
例:
【怪しい経費の流れを発見?】
営業経費の仕分け処理をしていたら、このリモートワークのご時世に出張費が昨年の同月と全く同額の営業さんを発見。
【久しぶりの出勤】
街は危ないので武装。
オフィスに着いたところ、営業さんが殴りかかってきて戦闘になる。
例:
Zウイルスに感染した場合はお近くの宗教施設でお金を払うと蘇生してもらえる。
物流はドローンを使って各家庭のベランダまで送ってもらう方式が普及。
土木工事などはお坊さんがお経を唱えてゾンビ避けをしている間にバリケードを作ってから作業する。
例: ほんとは図で書いたほうがいい
根黒→先輩: カッコいい
例:
根黒 OJT修了
【怪しい経費の流れを発見?】
例:
例:
1. ニュースで本日の感染者数を紹介(世界観を簡単に説明するための情景描写)
2. 朝のルーティン(朝食やぼやきなど、根黒の性格が分かるような心情描写)
3. 勤務開始連絡後、レビュー対象の経費申請を先輩から渡してもらう(先輩に対する尊敬や経理の知識に対する不安などの心情描写)
なるほど!
目的とゴールがあると、書くべきイベントの取捨選択に便利だね。ありがとう!
増田はいつも感覚でイベントを取捨選択してそれを書ききったら終わりにしてるんだけど、これがあると迷わないね。
フォーマットの更新版を作ってコツが集まったらまた記事にしようかな。
入れるとしたら舞台設定や登場人物が明確になった後かなという気がする。
ゾンビが人を襲う場合、理由知りたい派なんだよね(ポピュラーに食うからとか、ゾンビの本体は菌なので傷付けて感染させることで疑似的に繁殖してるとか)。
ありがとう〜。
こういう感想を小説書く前に100分の1くらいの労力で貰えるのが設定を書くメリットの一つだよね。
言われてみたら気になったから、世界観詳細の例に追加しといたよ。
趣味に合うと嬉しいな。
ありがとねー。
こっちの方にもコメント反映したよ。
じゃあ最初から「いい音楽」ではなく「好みの音楽」という視点で批判しているということを明示してほしいわな。
not for meってやつか。
「いい音楽じゃないからお前は初心者だ」っていうのとじゃ全然ニュアンスも、書き手の意図(腹黒さ)も違うだろ。
前者なら「お前の好みかどうかと俺が初心者かは無関係だよね(そしてお前の好みじゃなくても聞いてくれる人がたくさんいるからそれだけの話だよね)」と反論できるが、
後者だと「いい音楽」の定義問題から始まって余計な議論を生み出し千日手にもつれこむ。それが狙いなのかもしれないが。
だいたい元増田の「やつ」がDTMの10年選手で、それでも再生数は最高で100ちょっとだとして、
批判対象の再生数が10万再生以上なのに、「これはDTMやって一週間レベルだ」というのはさすがに推測の妥当性が低すぎだろ。
10年やってる自分の再生数を大きくうわまっているのに、その100分の1以下の期間しかやってないと主張できるのは図太すぎるわ。
初めて嫌いだなと思うカップリングが出来た。地雷とはまた別。嫌い。キャラは二人とも好きなのにカップリングになると嫌いになる。おそらく組み合わせや解釈の問題ではなく界隈に対する気持ち。
ジャンルは世界一有名な漫画の一つだと思うくらい人気な某漫画。カップリングの組み合わせはどちらかというとマイナー寄り。
なんかね、平成初期の名残がすごいの。
そのカップリングのキャラがどちらも初期から登場しているので、マジで平成初期からキャラ解釈とか描写とか書き手さんたちの嗜好が変わってないのかもしれない。連載開始が平成初期だから辻褄は合う。
原作では主人公の憧れで仲間や友人を大切にする強キャラが何故か、受け大好き大好きハァハァ受けにちょっかいかける奴は許さねえ(殺)みたいな、受け至上主義変態化セコム化腹黒化闇化の平成初期オンパレードの攻めになってる。今時そんなことある?
原作でそんな描写ないのにしょっちゅう受けのところに行ってて受けから「帰れ!」て拒絶するところから始まる作品がとんでもなく多い。そういうテンプレート配布されているの?ってくらい多い。攻めは拒絶されてもヘラヘラして「素直じゃねえなぁ♡」みたいな感じでグイグイ行く。原作でそんな描写ないのにどうして全員がそういう解釈なのか分からない。
あとビックリするほど攻めの仲間に対する描写がない。あっても「やれやれ」って攻めに付き合ってる。主人公の仲間の父親が攻めの仲間にもいるけど、その仲間は妻の死に目に会えてないのに。そんな仲間つれて自分は好きな人のところにグイグイ行くのやばくないか。
どういうキャラ解釈してるの?それとも本当にテンプレートが配布されてて皆それを使わなきゃいけないとかルールでもあるの?村八分にされるとか?
受けもなんか平成初期のツンデレ受けをイメージしたら多分それがそのままその界隈の受けになる。攻めをキモがりつつなんだかんだ受け入れて抱かれてる。平成初期の受けと違うのは喘ぎ方くらい。最近の喘ぎ声って「お゛♡♡♡♡」みたいな汚気味でハート乱舞だよね。そこは今時だった。
原作ではどちらかというと敵キャラなんだけど主人公と協力したこともあって、キャラクターとして可愛げもあるから憎めない人気キャラだと思う。
でも正直「BLでは珍しいタイプの受けを推してる私♡♡」勢と「ティーンズラブによくある冴えないヒロインが何故か有能でイケメンな男に溺愛されててヒロインは気付いてないor相手にしてないラブコメ」に自己投影してる勢がいる。偏見だけど。
受けにハァハァしてる攻めも実際は書き手が受けにハァハァしてるのを攻めに代役させてるだけの人も絶対にいる。偏見だけど。
ツンデレかどうかは原作だけじゃ判断できないけど白痴はわわ系にしてないだけ誠実かもしれない。まだツンデレツンギレお前のことなんか好きじゃねーんだからな!フン!てしてる方がキャラの方向は合ってる。
ここまで書いて気付いたけどもしかして受け厨が多いのかもしれない。だから攻めのことはどうでもよくて変なキャラ崩壊させているの?え?俄然嫌い。
ぶっちゃけ映画きっかけでそのキャラたちの二次創作読んだから目につきやすかったのかもしれないけど、攻めが救えなかった少女も、受けが一緒に居たら救えた!みたいなif多くてびっくりしてた。
そんなわけなくない?どんだけ攻めに興味なくて攻めsage受けageしたいの?
そんなことしなくても受けはおいしいキャラだし最高なのに。かわいそう。書き手の技量がないと誰かを貶めないとキャラの良さを出せないのね。大変だなあ。
数行前に受け厨って書いたけど受け厨でもないな。「自分が考えた最強の推しキャラ」を当てはめる枠に受けを選んだだけで受けにもそこまで愛はないのかも。
「自分が考えた最強の推しキャラ」≠受けだから、原作より性格良くして、戦闘力も上げて、色んなキャラに愛されてるように捏造する。逆行とか成り代わりとかまさにそれだもの。原作キャラを借りずに一からキャラを作れ。
二次創作検索して人気順に読んで判断しちゃったけど、最近の界隈の作品はまた様変わりしているかもしれない。長寿ジャンルだし人気順だと10年前の作品とかも出てくる。
諦めるのは早計だと思うけど、でももう無理。嫌いになっちゃった。
令和だよ?って言葉も嫌いだけど、流石に思う。令和だよ?
変態化セコム化暗黒化闇化って女体化とか年齢操作並みに特殊設定なのになんで界隈では常識ですって扱いにされているのか。無理すぎる。それが広まって受け入れられている民度。やば。
なんで平成で終わらなかったんだろう。本当に当時から一定の書き手さんがいてずっと続いているなら凄い。でも平成初期の産物は平成で終わらせて欲しい。アップデートって言葉も好きじゃないけど流石にアップデートしろよって思う。そういうセンスってやっぱり年代には勝てないの?
ハマりそうだったのにハマれなくって悔しいし勿体ない。平成初期のカップリング解釈とか王道が合わないことはまったく惜しくないけど。そのカップリングにハマれなかったのは惜しい。
でも今の王道や考え方もいつかは令和初期(笑)と倦厭されるのかもしれない。私もいつかこんな風に嫌われるのかな。時代を越えられなくなる前に消滅したいね。
今では信じられないことだが、90年代~10年代はリベラル論壇でサブカルチャーの作品や作家について深く思考し語れているか?が論者として凄いかどうかの基準のひとつ。これが暗黙の前提だった。
だから宮台真司も東浩紀もサブカルチャーについて語っていたし、そんな風にインテリにレペゼンされるのが嫌な野良の書き手と謎の小競り合いが起きて……とモメ事もその周辺で延々繰り返された。
このレペゼン枠争いはいまでも岡田斗司夫のオタキングという通称だったりがその時期の文化遺産として名残が残っている。ユリイカがたまにマンガ家特集やったりしてる所なんかもこの名残のひとつだ。
何にせよこの戦いでは深く理解をする、少なくとも理解をしようと務めた者が勝者であり価値として認められていて、これだけは立場、思想を問わず共有されていた。
これが10年代に一気にかわり、理解しているか?よりも反省させているか?が価値となった。迂闊な表象を出した作家や企業をどれだけ炎上させ反省させたか? 理解の深さを競うゲームから一抜けし、かわりに誰かを反省させることをリベラルは選んだ。
これが便利だったのはサブカルチャー批評はキャラの造形、関係性、物語、世界観、作家の意図、フェティッシュ、社会反映、二次創作での扱い。そのすべてに目配せし応答できる知能が求められたが、反省させるのは目に入った刺激に反応するだけで良いので猿でも出来る事で、強力な利点だった。
だから議員になりたての売れたい中年やバズりたいだけのNPO代表なんかがこぞってこの反省ブランディングに手を出すようになり、……このへんから後は皆の記憶に新しい内容がそのまま起きていった。
20年代には誰かを反省させた=凄い奴。が蔓延しきったのでそれに続いて、自分は反省した=凄い奴と、どれだけ反省させたか競争に更にどれだけ反省したか競争までもが加わり不毛さとナンセンスさに更に拍車がかかった。
これは当初は理解の深さで勝負してたのに、いつしか反省の深さで勝負するようになったTBSラジオの宇多丸なんかが最もわかりやすい例だろう。
今の売れ筋はtoxicマスキュリニティで、反省用アクセサリーとしては最近話題になった御茶ノ水の人なんかは全身これで固めていたし定番アイテムとなっている。
この辺りの時期ですでに宮台は映画語りだけを残し撤退していたし、東浩紀は観光客をキー概念とし、レペゼンの万能感から離れ不能さに留まることを選んだ。
このリベラルの入念で計画的な自滅によってサブカルチャーを通してリベラル的に何かを考える思想の蝶番そのものが場所とプレイヤーの両面から壊れ修復不可能になっていった。
保守やヘイターの手によってではなく自分たちで壊すことを選び、現状フィールドに残ったのは壊すことで延命できるような既に賞味期限きれなのをごまかしている評論家だけになったし
新しく出てくるプレイヤーも落合や成田のようにITビジネス系とつきあう形を選びサブカルチャーにはそもそも深入りして言及する事自体あまりない。
こうやって入念に登場の準備をお膳立てし、鍋も具材もすべてリベラルが自らの手で揃えきったあとに現れたのが暇空だった。
こういう流れがないとなぜ彼がやたらとHUNTER×HUNTERの話をするのかエロゲではランス10が最高傑作だったという話をするのかも意味がわからないし
なぜ他の候補のマンガ賢者ブランディングに対し対談で謎のクイズおじさんと化して企画を破壊してまで暴くのかそのメリットが恥をなぜ上回るのかもわからないが
彼は要はこの系譜の忌み子として出てきており、リベラル論壇が自分から手放したここの客層を単におさえただけだ
そしてその上から保守っぽさアンフェミっぽさをメッキで後乗せして支持の総量を増やそうと形づくっていってるのだが、リベラルはあまりにも愚かなのでこのメッキを本体だと思ってミソジニー枠で処理しようとしていて、ほんとうにどこまでいっても愚かだなと感じる
今では信じられないことだが、90年代~10年代はリベラル論壇でサブカルチャーの作品や作家について深く思考し語れているか?が論者として凄いかどうかの基準のひとつ。これが暗黙の前提だった。
だから宮台真司も東浩紀もサブカルチャーについて語っていたし、そんな風にインテリにレペゼンされるのが嫌な野良の書き手と謎の小競り合いが起きて……とモメ事もその周辺で延々繰り返された。
このレペゼン枠争いはいまでも岡田斗司夫のオタキングという通称だったりがその時期の文化遺産として名残が残っている。ユリイカがたまにマンガ家特集やったりしてる所なんかもこの名残のひとつだ。
何にせよこの戦いでは深く理解をする、少なくとも理解をしようと務めた者が勝者であり価値として認められていて、これだけは立場、思想を問わず共有されていた。
これが10年代に一気にかわり、理解しているか?よりも反省させているか?が価値となった。迂闊な表象を出した作家や企業をどれだけ炎上させ反省させたか? 理解の深さを競うゲームから一抜けし、かわりに誰かを反省させることをリベラルは選んだ。
これが便利だったのはサブカルチャー批評はキャラの造形、関係性、物語、世界観、作家の意図、フェティッシュ、社会反映、二次創作での扱い。そのすべてに目配せし応答できる知能が求められたが、反省させるのは目に入った刺激に反応するだけで良いので猿でも出来る事で、強力な利点だった。
だから議員になりたての売れたい中年やバズりたいだけのNPO代表なんかがこぞってこの反省ブランディングに手を出すようになり、……このへんから後は皆の記憶に新しい内容がそのまま起きていった。
20年代には誰かを反省させた=凄い奴。が蔓延しきったのでそれに続いて、自分は反省した=凄い奴と、どれだけ反省させたか競争に更にどれだけ反省したか競争までもが加わり不毛さとナンセンスさに更に拍車がかかった。
これは当初は理解の深さで勝負してたのに、いつしか反省の深さで勝負するようになったTBSラジオの宇多丸なんかが最もわかりやすい例だろう。
今の売れ筋はtoxicマスキュリニティで、反省用アクセサリーとしては最近話題になった御茶ノ水の人なんかは全身これで固めていたし定番アイテムとなっている。
この辺りの時期ですでに宮台は映画語りだけを残し撤退していたし、東浩紀は観光客をキー概念とし、レペゼンの万能感から離れ不能さに留まることを選んだ。
このリベラルの入念で計画的な自滅によってサブカルチャーを通してリベラル的に何かを考える思想の蝶番そのものが場所とプレイヤーの両面から壊れ修復不可能になっていった。
保守やヘイターの手によってではなく自分たちで壊すことを選び、現状フィールドに残ったのは壊すことで延命できるような既に賞味期限きれなのをごまかしている評論家だけになったし
新しく出てくるプレイヤーも落合や成田のようにITビジネス系とつきあう形を選びサブカルチャーにはそもそも深入りして言及する事自体あまりない。
こうやって入念に登場の準備をお膳立てし、鍋も具材もすべてリベラルが自らの手で揃えきったあとに現れたのが暇空だった。
こういう流れがないとなぜ彼がやたらとHUNTER×HUNTERの話をするのかエロゲではランス10が最高傑作だったという話をするのかも意味がわからないし
なぜ他の候補のマンガ賢者ブランディングに対し対談で謎のクイズおじさんと化して企画を破壊してまで暴くのかそのメリットが恥をなぜ上回るのかもわからないが
彼は要はこの系譜の忌み子として出てきており、リベラル論壇が自分から手放したここの客層を単におさえただけだ
そしてその上から保守っぽさアンフェミっぽさをメッキで後乗せして支持の総量を増やそうと形づくっていってるのだが、リベラルはあまりにも愚かなのでこのメッキを本体だと思ってミソジニー枠で処理しようとしていて、ほんとうにどこまでいっても愚かだなと感じる
アファーマティブ・アクションという名の『トロッコ』の下敷きになっている一人であると同時に、
告発の発端となったDMの送り主と同じく、ちゅうしたいしえっちしたい(泣)騒動を当時間近で見聞きしていた一人として、
よくもまあそんなえらそうなことが言えたものだと、かねてより神山翼氏の厚顔無恥なポジショントークを大変苦々しく思っていたのですが、
あろうことか氏が女子学生と不適切な関係にある上にハラスメントの加害当事者である蓋然性が高いだけでなく、
それが事実であった場合に本来その被害者たちの最も心強い味方であるべき(特に同性の)研究者たちが
臆面もなく公然とセカンドレイプを加えているというあるまじき惨状を目の当たりにし、あまりの悍ましさに筆を執らずにはいられませんでした。
研究者といえども所詮一人の人間であり、その高い(ことになっている)論理的思考力をもってしても
認知的不協和を適切な形で解消できるとは限らない、という事情は理解しないでもありません。
しかし、小山(狂)氏へのDM等を通じて今回の件を改めて世に告発した(元)女子学生たちの立場から見た時、
普段は女性の学究環境の改善を声高に叫んでおられる(特に同性の)アカデミアの先人たちが、揃いも揃って、
今まさに実際に不利益を被っている女性であるはずの自分たちを心配し、守り、力になるために立ち上がってくれるどころか、その素振りすら見せず、
あまつさえ印象操作によって加害者を擁護し、稚拙な詭弁によって問題をすり替え、挙句の果てには刑罰をちらつかせて言論を封殺しようとしている様は、一体どのように映るでしょうか。
あるいはこうした人々の振る舞いは、奇しくも以前学内で告発を試みた学生を長時間にわたり監禁・恫喝したとされる教員に女性が含まれることと併せて考えた時、
「女子学生たちは主として男性教員・研究者が『原罪』的に抱えるアンコンシャス・バイアスとやらによって不当な扱いを受けがちであり、
その対策として多少強引にでも女性研究者の数を増やし性別の偏りを均すことは、必要不可欠でありやむを得ない」とする大層立派なご高説と果たして整合しているでしょうか。
「神山氏が本当は潔白であり、悪意をもった何者かによって陥れられようとしている可能性」がゼロではない、と主張するのは結構ですが、
これまで非常に活発に発言してきた神山氏が一転、否認すらせず不自然なほど沈黙を貫いている現状を踏まえたとき、それは
「仮に今回の告発が真実だった場合に、不必要に被害者たちの尊厳を踏み躙り、感情を逆撫ですることになる可能性」や
「今回の告発の真偽にかかわらず、今後もし同様の事態が発生した場合に、最初からその被害者が声をあげる気力を挫いてしまう可能性」と天秤にかけて、
それでもなお積極的に発信・表明するに足ると、本気で信じておられるのでしょうか。
特に、氏の知己を自称しておられる諸氏におかれては、支離滅裂な感想を垂れ流しているような暇があるなら、まず神山氏本人に事の真相を問い質せばよろしいはずで、
それすらしないままご自身の友誼・主観だけを根拠に一方的に告発の信憑性に疑義を呈しておられることの方が、よほど女子学生にとって有害ではないでしょうか。
今回の疑惑に対するアカデミアの一部の人々のこうした反応は、疑惑の真偽以前の問題として到底看過できるものではなく、
「仮に告発が虚偽だった場合に、神山氏並びに関係者の名誉を不当に毀損することになる可能性」を慎重に考慮した上でなお、糾弾を免れないものであると考えます。
彼らがいみじくも『安全地帯からのんびり』指摘なさっておられる通り、万が一告発が全くの捏造であると判明した暁には、
書き手を含む少なからぬ人間が謂れのない誹謗中傷に加担していたことになろうかと思いますが、
そのリスクを負う意義に疑いを挟む余地がないほどに、彼らの振りかざす「正論」の欺瞞は座視しがたいものであり、それゆえ『刺し違える覚悟で』この文章をしたためているというわけであります。
(それに、女子学生・女性研究者の数的不利を補うためなら、無辜の男子学生・若手男性研究者の人生が犠牲になるのもやむなし、とされてきた神山氏のことですから、
今まさに女子学生たちを脅かす理不尽を非難し連帯を表明するためなら、たとえ氏が無実であったとしても、その名誉が一時的に損なわれるくらいのことはきっと甘受してくださることでしょう。)
返す返すも恐るべきことに、上に挙げたような、被害者であるはずの女子学生たちのことを慮っているとは微塵も思えないような仰天発言・行動の主たちの多くは、
平素は女子学生・女性研究者の味方を謳い、女子枠や女性限定公募をはじめとする積極的性差別とそれに伴う犠牲の正当性を主張し、神山氏の高邁な志にも強く賛同しておられたはずの方々です。
傍から見ていると皆様それらとは随分とかけ離れた振る舞いをなさっておられるように見受けられるわけですが、
むしろそれが本性であり、普段のご立派な発言の数々はその実アカデミアに蔓延るとされる不公正に苦しむ女性のためなどではなく、
ファッションとしてお仲間同士で高尚な御託を並べて、単にご自分の承認欲求を満たして気持ちよくなっていただけだった
——という「誤解」を招きかねない言動は慎まれた方がよろしいのではないか、と僭越ながら愚考する次第でございます。
神山氏が関係するものに限らず、今回告発されたお茶の水女子大学におけるあらゆるハラスメントに遭われた皆様の悲しみや怒りは、察するに余りあります。
その上、本来自身を守ってくれるはずの仕組みが張りぼてでしかなく、手を差し伸べてくれるはずの人間が案山子でしかなかったことの絶望に至っては、計り知ることもできません。
そのような苦しみの中でも、まず毅然と立ち上がり相談室へ向かった勇気ある方々、違和を鋭く察知し強力な証拠となる録音の準備を怠らなかった如才ない方々、
数多の困難・逆風に屈することなくOchatやSNSで粘り強く声をあげてくださっている方々を、心から尊敬します。
匿名であることは決して、証言の真正性を不当に減じたり主張を忽せにしたりする理由たりえません。
それを攻撃するのは往々にして自身の立場が保障されているがゆえにその必要がない「強者」であって、
学生(や任期付き研究者)という、単位・卒業・キャリアを人質に取られ「弱い」立場にある我々にとっては、歴とした自衛の手段です。
『下劣な』口撃に怯み惑わされる事なく、このまま堂々と突き進んでください。
どうか、正義がなされんことを。
三沢さん本人か三沢さんに興味あるという人だけが読んでくれれば満足です。
これが一番の進歩であり収穫であって
一般的な「文章を読めない人」と比べても更に何かがあるように見えます。
私ははてブ民の誤読なら大抵は何をどう誤読してるか秒でわかりますが
そちらの思考が長くなるため本の内容の受け取り方が歪む。
草薙さんの癖の強い経歴を見てください。
彼はいわばブラックジャック(医師会に属さない医師)のような僧侶です。
それで本が何十万部も売れるのだから作家の才能は保証つきですが
彼の本が身になる人って案外少ないのではないかと私は感じています。
彼が添加する具体性は常に、
仏教を理解させるより「身近に感じさせる」ことに重点を感じます。
いちいち冗長な具体性を与えて透明な抽象性を損ねているように思えます。
草薙さんと三沢さん2人の出会いが相性抜群で最悪だと感じるのは
教師の草薙さんは仏教を紹介する本にかなり自己流の工夫を入れる人で、
生徒の三沢さんは人の話の途中の浅瀬で自己流解釈を始める人です。
草薙龍瞬さんが提供する仏教は既にスパゲッティナポリタンになってる感じ。
三沢さんはそれを舐めて「このケチャップの僕流アレンジ」を考えている。
三沢さんが草薙龍瞬さんの本から得た「仏教」はお釈迦様のアイデアとは別ものです。
現に三沢さんの欠点・苦しみの元が少しも治っていないですよね。
せめてこの端緒にでもついていれば、三沢さんの病的な「自分自分自分自分」という文の(思考の)癖に変化の兆しぐらいは生じているはずです。
https://note.com/tm2501/n/n1c20fe51d4ec
現に三沢さんにそのような変化が見られないので、
草薙さんか三沢さんか少なくとも片方に重大なエラーが発生していると思います。
(たぶん共鳴し合っている気がするのですが)
三沢さんは執着せず眺めて手放すということが出来ていません。
「ん、これはアンタッチャブル」とか考えていたら出来ないですよね。
(私は草薙さんの「ジャッジメント」ですらなんだかなと感じましたが
三沢さんはそれをさらに俺流に「アンタッチャブル」に変えました。
二人ともなぜこんなことするんですかね。
草薙龍瞬さんの紹介と三沢さんの読解のタッグが仏法を損ないました。
二人とも勝手なアレンジを入れることの弊害への警戒心がなさすぎるように思います。
それをやると劣化コピーではなく根本的に機能を損ねることがあります。
というか私は草薙龍瞬さんの本はサンプルだけ見て閉じたきりでしたが、
今回三沢さんへの影響を確認するうえでアンリミテッドで読みました。
「反応しない練習」。
読んでいるだけでどんどん頭が悪くなるような感覚がありました。
知識の収集癖、羅列癖、過剰で無益な具体性、支離滅裂、あと鍵かっこが多すぎ。
書き手が実践して身についた知識について語っている感じがあんまりしない。
これ本当に三沢さんと同じ型の人ではないですか?
私はこのがちゃがちゃな本から読者が自分のためになるエッセンスを掴み取れる気がしません。
凄く売れた本らしいですが、買った人達はちゃんと読んだのでしょうか?
草薙龍瞬さんはプロの作家でお坊さんですから偉そうな意見は言えませんが、
三沢さんは34歳ニートなので多少の助言はしても良いと思います。
三沢さんは「有能な人っぽく振る舞うこと」に神経を使いすぎです。
三沢さんて「有能な凄い人にならなければ自分の願いはかなわない」と思い込んでいませんか。
全然そんなことはありません。
能力的に凡人でも凡人以下でも願いをかなえて生きている人は沢山います。
三沢さんの大言壮語や意識高そうな口調はただの自己否定や現実逃避に見えます。
凡人だと生きていけないという強迫観念があるためではないですか。
三沢さんは普通でないくらいに自信がない人で、しかも自信欠如への対応がおかしい。
「自分と乖離した凄い人の虚像を作って身にまとう」という対処のせいで
実像とのギャップが生じてますます苦しみと自信喪失のループに陥っていますよね。
たまに三沢さんの文を見かけるだけの人間でもそういうことを濃厚に感じます。
俗世間の熾烈な競争に負けない「凄い人」になる必要があったかもしれません。
しかし34歳にもなればそんなものを追い求める虚しさは感じられているでしょう。
四国に住んで創作活動人生を送るという願いは素敵だと思います。
叶うと思います。
ただ、その願いの実現ためにまず「凄い人」になる必要があると考えていると
10年後も同じ部屋に住んでると思います。
三沢さんが「凄い人」になろうとする必要性や焦燥は何のためにありますか?
そういう「凄い人」になるための焦りの所産と言うか
人と違うバリューを出すんだという間違った取り組みに見えます。
本を読んでるあいだずっと「面白い独自の感想を言わなければ」とか考えていますよね?
これは大きな間違いで、
本をただきちんと読めて書いてあることを受け取れるなら
高学歴なはてなブックマークの人達だって新聞記事すら読めていないでしょう?
ひときわ壊滅的な集中力しかない三沢さんも苦しみの構造自体は同じです。
三沢さんが人並以上に集中力が欠損しているのも、頭があんまり良くないのも、(本当はなんらかの自覚はある筈です)
本の内容と一体化すべき時にいちいち自分自分をやっていれば本など読めるわけがありません。
おそらく「批判的に読書をする」のようなアイデアをまた草薙さんのようなアレンジをする人から受け取って、
ものごとを正しく見て正しく知ることができ、
というのが仏教です。
三沢さん好みの具体的過ぎる話をするなら
何と言うこともなくすらすらと内容が頭に入ります。
概念を手放していくというのはたぶん三沢さんの溜め込んだメソッドと正反対でしょう。
だから三沢さんが本当に仏教と出会えばじわじわと別人になってしまうはずです。
でもそうならないのはおそらく草薙さんと三沢さんの自我のせいです。
何と出会ったって自分の概念九龍城へ組み込むパーツとしてしか見てないために
まとめると
「自分は有能な凄い人だ」という妄想概念をくみ上げて常にそれを体の周りに装着しています。
このために何を見ても何を聞いても何を読んでもその妄想を通しているために情報が壊れてしまう。
これが自我です。
人の話を聞いてるときに、相手が何を言っているかも何を感じているかもわかりにくくないですか。
もしそうならそれは自我がずーっと邪魔をしていて心が目の前の情報を取れないためです。
全人類がこの病気ではあるけど三沢さんは少し程度が強いのではという印象です。
仏教にはこのガスを取り払うための実践的で研ぎ澄まされたメソッドがありますが
草薙龍瞬さんの本を読むとそういうことまで辿り着けないと思うし
三沢さんは「特別な自分」「オリジナルな自分」について考えこむことが自分の強みであり突破口だと思っていそうですが
そこが一番の間違いであることは仏教なら本当は30分でわかります。
本を読むのにも文をバズらせることにもそんなこと考える必要は一切ないです。
四国へ行きたいならまずその自我妄想と別れを告げることだと思う。
ところでお坊さんを軽々に否定したりしちゃいけないという道徳が自分の中にあるんですが
でも草薙龍瞬さんの本はなんか…。デタラメを言っているとかでもないからなんとも言えないんですが。