はてなキーワード: 書き手とは
https://www.nhk.or.jp/gendai/comment/0026/topic057.html
つまらないときとか、刺激がないとか、仕事でうまくいかないなっていうときに
はてなブックマークに逃げるというのはよくありました。
第一にはてなブックマークはお金がかからないっていうのが自分の中にすごいありました。
触れることができたという達成感もありました。
はてなブックマークに至るまで自分の気持ちが徐々に高まっていって、
はてなブックマークできたら自分の頭の中で『やったー』と最高潮に達して、その繰り返しでした。
あとは支配欲も満たされたんです。
はてなブックマークが犯罪という概念はほとんどありませんでした。
電車の中で『ただ触っただけ』じゃんって。
自分の行為が記事の書き手を傷つけているとか、記事の書き手に対して申し訳ないという気持ちはほとんどありませんでした。
はてなブックマークユーザーはなぜ自分は加害をしたのか、はてなブックマークがどれだけ人を傷つけるのかなど、みずからの暴力性について語ることばを持っていないんです。
言い換えるとすると、自分のはてなブックマーク行為を語ることばの豊かさを持っていれば、
はてなブックマークユーザー自身も人生の中でことばを奪われてきた逆境体験をしています。
はてなブックマークユーザー臨床の中では、過去にモノ化された被害者が、
さらに言うと、はてなブックマークユーザーは被害者がどのような世界を見ているのか理解しづらいということも影響していると思います。
はてなブックマークユーザーは普通に社会で生きている中で、消費される経験がほとんどありません。
自分が被害に遭うかもしれないという前提の意識では生きていないと思います。
しかし記事の書き手は、日常の中で常に消費されているし、消費されることが当然だという刷り込みがいたるところにあります。
はてなブックマークユーザーの被害も稀にありますが、暴力に関して、
はてなブックマークユーザーと記事の書き手は見ている世界がそもそも違うのです。
はてなブックマークユーザーは被害者が被害に遭った後どんな人生を送ってきたのか、
どれだけセカンドレイプで傷ついてきたのかを知らないのです。
もっと社会が被害者のことばに耳を傾け、被害者の実態を知るということが、いまの日本社会や強いて言うとはてなブックマークユーザー臨床の中にも不足しています
と、「暴力シーンは実際にはやってないのに性行為だけは実際にやるのは許せない」とAV新法に反対している人の理屈はこんな感じなんだろうな。
https://b.hatena.ne.jp/bnckmnj/20220427#bookmark-4718753839676412386
書き手達はAの信者じゃないどっちも潰れず静かにしててくれよ…って静観してたら漫画上手いほうが消えて地獄。こなつさんは前々からもやっとしてたし今回の件だけで切ったってミスリード上手いよねそういうとこだよ
https://b.hatena.ne.jp/bnckmnj/20220502#bookmark-4718939323845765730
https://b.hatena.ne.jp/bnckmnj/20220511#bookmark-4719353819039521154
二次創作(小説)書いてるオタク。感想もらうの疲れたからもう欲しくない。
自分で言うのも何だけど何かこう人の心に遠慮なく刺さる文章を書くタイプらしくて熱心な読者の方からすごい長文の感想をよくもらうんだけどそれを読むのがしんどい。つーかもう新着メッセージの通知が来るだけで「はあ・・・・」ってなる
大体の人は褒めてくれるが自分の経験をまじえて話したり自分の考察を懇切丁寧に説明してくれたりするのがしんどい。ごく稀にだけど何言ってもいいと思ってサンドバッグ代わりにしてくる奴もいてタチが悪いしそんなものを受け取るとその後しばらく気分が落ち込んでしまう。ポジティブだろうとネガティブだろうとそれを読んで心に浮かんだものだからそれを書いたやつに全部ぶつけてOKと思ってる人が多すぎる。いや分からない、そういうのを引き寄せるタイプの文章なのかもしれない、それにしてもカウンセラーでもないのに人の感情の受け皿になるのはしんどすぎる
これだから「感想いりません(エアリプとかで自分のTLで呟くならOK、直接ぶつけてこないで)」という表明をしたいくらいだが「書き手は感想に飢えてるんです涙涙涙」という風潮の二次創作界隈でそれをやるとものすごく嫌味だろうし感想を受け止めきれないのは大方こっちのキャパの問題だからそれを送ってくる人のせいにしているようで何とも具合が悪い。
現在打っている対策としては「お気軽に感想ください」の類の発信をしない、本の奥付にメルアドは書くが「落丁本があった際はこちら」などと書き添え(感想送るところじゃねえんだよ)感を醸し出す、マシュマロを使わない、DMを解放しない、などを実行しているがそれでも感想を防ぎきれない。もーーいいよーー。自分の作品を褒めてくれる人のツイートを偶然目にするとか、イベントで本が売れるとかで充分なんだよーーーー。人の感情重いよーーーー。
例のレビューをネタにしてるブログやTwitterで、評価がバラバラなので疑問に思って調べたてみたら。
コピペ保存された複数バージョンを集めて比較してみたが、書き直すたびに、プライバシー侵害的な記述や伝聞系のデマが削除されて、文章が毒抜きされてる。
初期バージョンと削除直前バージョン、読後感は相当違うだろう。
特に、以下の文章が冒頭に入っているバージョンは明らかにプライバシー侵害内容を扱っているので要注意。
あるいは借用書を発行してもらって出願している。
これも、一般家庭ではなかなかできないと思う。
まぁ全削除された今となっては蟷螂の斧ではあるのだけれども。
現代日本のフェミニズムは、傷ついた人間が慰め合うセラピーの看板のような機能を持っていると言える。
弱者が慰め合える駆け込み寺、いわばフェミニス堂があること自体は良いことだ。
エンパワメントやシスターフッドという精神性・関係性を重視した言葉が最近人気なのもその一環かもしれないし、そこまで前向きな気持ちになれないからとにかく苦しみや怒りを吐き出させてくれという層だって駆け込み寺には居場所がある。
だが、「セラピーとしてのフェミニズム」と「学問や言論としてのフェミニズム」が分離されていないために、言論としてのフェミニズムの信頼度が著しく弱まっている。
セラピー面も学問言論面もひと固まりだから、フェミニストはメンヘラだとか、他人の幸せを許せないだとか、ミサンドリストでセックスヘイターのジェンダークレーマーだとかの批判に繋がってしまっているのだろう。
私自身も精神疾患持ちなので、精神が弱っていることを批判する気はないのだが、セラピー的な語り合いと、学問的討論がごっちゃになっている状況は大いに問題視している。
(追記:↑ここで私の精神疾患に言及したのは、私も議論の場で当事者性を武器として使おうという態度でよくなかった。反省する。)
本稿で主張するのは、「冷静な研究者としての立場」と「傷つき怒れる当事者としての立場」は、兼任すると問題が生まれるのでどちらか片方だけの立場に立つべきだ、ということだ。
たとえ学位や免許を持っていても、冷静になれない話題については傷が治っていない当事者だから、理論と議論を使いこなせる研究者ではなくあくまで苦しむ当事者個人として発言した方が良い。
本論前に、何がOKで何がNGかおおざっぱに切り分けておこう。
フェミニズムという看板のもとに、傷ついた人々が集い、辛さや怒りを語り合い共感しあい心を癒そうとする様子は、当事者会に近い。
当事者会自体は、様々な依存症や障害、事故被害者などについて行われており、有用なセラピーと言っていい。
だが「セラピーとしてのフェミニズム」の問題は、当事者会で癒される患者と、当事者会を監督したり理論を語る研究者がかなり重なってしまってるということだ。
要するに、当事者として治療を受けるべき傷を抱えたままの人間が、セラピスト役もやってしまっているという問題が、「セラピーとしてのフェミニズム」にはある。
だが、SNSのそこら中で行われている「セラピーとしてのフェミニズム」当事者会の多さに比べて、監督できる冷静な研究者は全く足りていない。
普通の当事者会やセラピーは、福祉や医療や心理の専門家によって研究と理論化がされ、社会に対して有用性が主張され、会の時にはその場にいて見守ったりもするはずだ。
傷ついた当事者たちの語りは、しばしば自己中心的だったり理屈が通ってなかったり乱暴だったりするが、それは回復に必要な心の解放だ。
それがそのまま社会への要求として世の中に出されたりはしないので、当事者会で語ったことが間違ってるなんて責任を問われることもない。
客観的な専門家が当事者たちの感情吐露を分析して理論化した上で、必要な部分は社会に訴えるようになっている。
だから、普通の健全な当事者会セラピーは、傷ついている当事者が冷静さを求められたりはしないし、当事者がヤバいことを主張していても研究者の評価が下がることもない。研究者が監督しているから当事者同士の会話が先鋭化するエコーチェンバーも防げる。当事者の要求は研究者が整理したうえで一般社会に伝えるので、外部の一般人が当事者の過激すぎる主張を直に聞かされて悪感情を持つこともない。
全てが完全に徹底されているわけではないが、それでも、当事者会セラピーで語り合う患者とそれを監督する研究者の間に線が引かれていることで、ある程度は弊害の抑制ができている。
しかし、「セラピーとしてのフェミニズム」では、患者、監督者、研究者の区切りが曖昧になりやすいので、普通の当事者会セラピーでは減らせる弊害がモロに発生しているのだろう。
たとえばフェミニストが「トーンポリシングはやめろ」と主張し、議論や説得において言い方ってのは大事だろと反論されるのをよく見るが、あれも、内輪の癒しセラピー的な感覚と対外交渉議論の感覚がごちゃまぜになっているせいだ。
「私はいま苦しすぎて言葉を選んでいられないのでセラピー患者として気持ちをぶちまけてるんだからトーンポリシング(言い方警察)するな」、という話なら真っ当である。
「私は冷静を保ち、言い方や内容にしっかり気を使うから、議論として発言を真面目に聞いてくれ」、というのも真っ当である。
だがそれを同時にやろうとする、「自分はセラピー的に感情をぶちまけるが聴衆は真面目に聞いてくれ」というのは無法な要求だ。
せめて、セラピーを監督する冷静な研究者に向かってぶちまけて、その研究者が理屈の通らないところを補助し冷静な言い方に直して議論の場に持っていくという形にしなければいけない。
なのにフェミニズム議論では、何もかも一緒くたになりがちである。
臨床心理士やカウンセラーや看護師助産師になりたがる人間はしばしば自分が精神不安定を抱えているというのは、統計はともかく実体験としてはよく聞く話である。
博物学系でも、たとえば動物学者はだいたい動物好きで、心情的には動物を保護したがるだろう。
だが、そこは資格団体ががんばってたり教育だったりで、臨床心理士や精神保健福祉士はある程度の信用をしてもいいだろうとなっているし、動物学者も後先考えない動物愛護活動をする人は目立ってないわけだ。
むしろ、愛護派の過激な主張の角を取って一般社会的に可能な動物保護のやり方を訴えたりしていて、それはまさに、感情的になりがちな当事者の語りを、研究者が自分のところで一度止めて丸めて社会に伝える、当事者会に対する医療や福祉関係者の立場と近い。
だから、臨床心理士や動物学者などの学問的信用はまあ保たれている。
ところがフェミニズムや一部社会学は、理論家や研究者が、傷ついた当事者と近かったり同一人物だったりするせいで、冷静な監督者のいないまま野良セラピー的な語りあいを続け、当事者の悲痛な心情吐露ではあるがそのまま社会に要求するには妥当性に欠ける内容が研究者の学問的立場から主張されてしまっている。
フェミニストはメンヘラだとか他人の幸せを許せないだとかミサンドリストでセックスヘイターだとか言われてしまうのはこのせいだ。
それにもかかわらずフェミニズムの大義名分は世界中で力があり、フェミニストの要求の内容を精査して妥当性十分の時は応じますという態度は悪だと指弾されるのが、本当に良くない。
ここで断言しておくが、メンヘラも、他人の幸せを許せない人も、ミサンドリストもミソジニストも、セックスヘイターも、楽しく生きてよいし好きに発言してよい。当事者会で同病相憐れむのだって、傷ついた人間には大切だと思う。
過激な思想やトラウマは緩んだ方がいいとは思うが、それもあまりに大きな加害に繋がらないのであれば自由だ。
ただし、その好き勝手な発言暴言はあくまで傷つき冷静さを欠いた人の胡乱な言動として生暖かく聞き流されている方が、周囲にとっても当人にとってもよいはずだ。
弱者の声は社会から無視されるべきではないが、そのままでは妥当性が低いので、客観的な研究者が集積して適度に理論化と穏健化した上で世の中に訴えるべきだろう。
フェミニズムが、弱者に肩入れしようとするあまり病んだ当事者発言をそのまま重用したり、著名な研究者が「冷静さを保つために私の当事者としての感情を一時的に抑えよう」という努力をおろそかにしているのは、誰にとっても不幸である。
辛すぎて悲鳴を上げざるをえない当事者と、冷静で他者と対話可能な研究者の弁別は、完璧でなくとも努力する価値がある。できたぶんだけ弊害が減るはずだ。
一つ、わかりやすい事例を挙げる。
フェミニズムやジェンダー学周辺で、セラピー的機能と学問・言論的機能が混在することの弊害を私がはっきり感じたのは、朝日新聞運営の『かがみよかがみ』である。
「私のコンプレックスを私のアドバンテージにする」とか「私は変わらない、社会を変える」とかをコンセプトにして、女性の自己肯定感の爆上げを目指すメディアであることを謳い続けている。
18~29歳の女性からのエッセイを募集して、編集部がチェックして載せている。著名人や契約コラムニストの連載もある。
そして投稿者を「かがみすと」と呼び運営ボランティアを「ミラリスト」と呼んで連帯感を出し、若い女性同士で肯定しあえるコミュニティを作ることも意図しているようである。(かがみすとは今もしっかり使われているが、ミラリストはTwitterで検索してもほぼ出てこないので今も使われてるかは外部からは謎)
二年くらい前に数回燃えたが、扱っている内容の割にはてはで話題になる回数は少ない気がする。はてなとは読者層が違うのだろう。
上野千鶴子さんに質問「ベッドの上では男が求める女を演じてしまう」 | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/12881008
フェミニストでも、守られたい。フェミニストだから、守りたい | かがみよかがみ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mirror.asahi.com/article/13432941
これの上の記事に関わっていたコラムニスト(かがみすと)が、謝罪をしつつかがみよかがみを批判したnoteを全三回書いていたのだが、その第三回と、ここから辿れる記事類を読み、フェミニズムがセラピーと言論を区切らずやっている弊害はあるな、と強く感じた。
上野千鶴子氏座談会のセックスワーカー差別炎上とかがみよかがみコミュニティの雰囲気について(下)|滝薫
https://note.com/hannnahkuku0819/n/n6514127ed85a
私はこれを読んだ時、伊藤編集長があらゆる批判に応じないのもわかる、といっそ清々しささえ覚える形で納得してしまった。「セーファープレイス」を構築しようとして、内部を守っているのではないかと思った。
(略)
『かがみよかがみ』を必要としている利用者はいる。それはわかっている。私も、エッセイを投稿した後の”共感”と”褒め合い”によって自信がついた一人であることは変えようがない事実である。その価値を認めていても、『かがみよかがみ』の未来に不穏さを感じてしまう。
『かがみよかがみ』が目指すのは、あくまで女性の自己肯定感の爆上げである。正しさではなく、自己肯定感である。
それも、明言はしていないが18~29歳の女性だけを狙っているだろう。
若い女性たちがエッセイで悩みを語り合い、書き手同士のSlackか何かでも褒め合い、お互いが何を言っても原則として批判しないし自虐もしない。まさに当事者会でありセラピーのやり方である。
フェミニズムやジェンダーなどの内容が多く扱われているが、それはあくまで自己肯定感爆上げの道具なので、理論的な正しさを保とうとして心が苦しくなってしまうようなら、正しさを追求しなくてよい。
エッセイ投稿の年齢制限も無い方が「正しい」のはわかってるだろうが、年上の説教エッセイや愚痴エッセイが載ってるサイトは鬱陶しくて気持ちよくなれないという若者の本音を慮って、微妙な理屈をつけて年齢制限をかけていると思われる。
投稿者をかがみすとと呼んで内輪感を作るのも、その繋がりで孤独が癒える人がいるからである。そういう内輪感にウエッとなる人もいるだろうが、そのタイプの人は他のどこかで癒されればよいというスタンスだろう。
伊藤あかり編集長のモットーらしい「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」とも合致する態度だ。
傷ついた若い女性のために、正しさではなく自己肯定感爆上げを目的とした当事者会セラピーの場があること自体は、良いと思う。
だがそれが、朝日新聞運営メディアとして広くネットで広告され、上野千鶴子や石川優実を企画に呼び、ヒコロヒーなどの連載があり、エッセイ投稿者もジェンダー学やフェミニズムで多少の理論武装をして識者っぽい人もたまに言及するとなれば、そこはもう言論の場となってしまう。苦しい内面を安心して吐き出せる、責任を負わなくていいし怒られもしないセラピーの場としては相応しくない。
なのに、そこが曖昧に混ざった立場で『かがみよかがみ』の文章は発表され続けている。
そして、これは、インターネットにおける様々なフェミニズム活動についても近いことが言える。
最後にもう一度まとめる。
傷ついた当事者同士が慰め合うセラピーの看板としてのフェミニズムと、冷静さと客観性を保つ学問や研究としてのフェミニズムは、分割しておく必要がある。
現在の日本では、セラピーの場としてのフェミニズムと、学問としてのフェミニズムが、ごちゃごちゃ混ざっている。
心が乱れてフェミニズムセラピーを求める患者と、冷静であるべきフェミニズム研究者が、ある程度重なってしまっている。
この状況を解消しないと、世の中の幸せにはつながらないだろう。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11258745501?sort=1&page=2
より
の表現の方が適切だとなんかいちゃもんつけてる回答者がいるが単なる好みの問題にしか思えない。
誤字脱字を指摘、で文法的には十分なのだから、誤字脱字があることを指摘、ではむしろくどいと思う人もいるだろう。
「普通に考えて理解できること」と書いてあったらまさに普通に考えればそれがどういうことをいったものなのかは理解できるのに、後者は理屈っぽく、逆に書き手の言わんとすることを直感的・実感を伴う形で汲むのをかえって阻害しうる表現といえる。
好みと正しさをすり替えて、正当性のあるものとして好みを押し付けて相手にマウントとれるなんて一石二鳥だな。
いや好みと正しさの区別がついてないとすれば、好みを押し付けてる自覚はないかもしれないけどね。
俺は質問者の方が文章力はあると思う。理屈で長ったらしい文章の方が書ける人が多いのに比べて、簡にして要を得るっていうのを心得てる感じだな。
スーパーファミコンとかに付いていたボタンで、押すとゲームがリセットされるもの。
その機能から「人生にリセットボタンは無い(やり直しできない)」といった比喩が使われてきた。
しかし令和の今にこの表現を使う書き手は、時代を反映できてないという点でライター失格である。
痛々しいなと思ったのは、たぬかなの炎上を扱った円為格人というライターの文章。
ゲームの腕を磨く前に、学ばなければいけないことがあるのではないだろうか。
たぬかながやってる格ゲーは対戦ゲームなので、セーブデータという概念が乏しい。
対戦ゲームはデータを蓄積するんじゃなくて、スキルを磨いていくものだ。
アカウントに紐付けられる信用情報も大事なので、そう簡単にリセットできない。
円為格人は「同性愛者をバカにするスラングがプロゲーマーの間で横行してる」というデマも平然と書いている。