はてなキーワード: 配偶者とは
嫌いになったわけではない。
かつてないほど熱が醒めたからだった。
ライブで、会場のファンにいつもありがとうと、ありがとう、ありがとうと沢山言ってくれる推しが好きだった。
ライブのトークも面白くて、バンドメンバーへの細やかな配慮も忘れない推しが好きだった。
下ネタが苦手な癖に曲中のファンサでそういうことを言って恥ずかしがる推しが好きだった。
就活がうまく行かずに悶々としてた時に当たった握手会で、辿々しく自分の話をちゃんと相槌を打って聞いてくれて、推しがもっと好きになった。
大学を卒業して、就職して、結婚しても推しは好だった。配偶者にもからかわれるけど、好きなものは好きだった。
ライブの円盤もCDも絶対買っていたし、ライブ自体も地方都市在住だから全通や複数公演は難しかったけど、ツアー中最低一回はちゃんと行っていた。
ファンクラブに入っていてもいい席になるとは限らず、ただファンクラブ優先購入券という名の抽選回数が増えるだけだから、行けたとしても半分より後ろだとか、本人は豆粒でしか見えないなんてこともよくあった。
この六年間、「好き」という気持ちに波があったことは否めないけど、それでもファンクラブをやめるという選択肢はなかった。
豆粒でさえ、本人を見ることができて、曲を聴けていたから。
2020年中に行われる予定だった初のドームライブのチケットには当たっていた。
ドームライブ決定という発表はライブの千秋楽でなされたのだが、自分もちょうどその場にいて、個人的に特別なライブだった。
発表の場にいれて、すごく嬉しかった。
チケットにも当たったから、そのライブも特別なものになるはずだった。
しかし、コロナでそのライブは行われず、チケット代は返金された。
それでも推しのことは追っていた。
勿論チケットを買って家で見ていた。
ライブ会場でも本人が見えなくてモニターで追うことはよくある。だから、今回もそんな感じかなと思いながら見始めた。
でも、ライブが始まる前のあのワクワクした気持ちが、一切湧いてこなかった。
曲を聴いても、例えそれがあまり好きではない曲でもライブ会場では楽しめた。ライブの円盤でも楽しめている。でも、配信ライブでは何とも思わなかった。
今年こそライブに行けるといいなと思いながらファンクラブの更新をした。
その頃は小康状態とはいえ、地方都市から首都圏へ向かうことはまた憚れていたし、もしコロナを持ち帰って家族や会社の人へ移してしまったら、という懸念があって配信ライブのチケットを買った。
というのも、自分が住んでいる地方都市の最初のコロナ患者が首都圏からの持ち込みだったからだ。かなりバッシングされていたし、なんなら自分も引いた。
ワクチンは二回接種していた。周りも皆二回接種していた。それでも、遊びで県外へ行く人は周りにはいなかった。
この間の配信ライブは、自分の好きな曲を全然やらなかったからあまり楽しめなかったのかもしれないと思いながら見始めた。
会場の熱気は、観客の声が出ていなくても分かった。
曲の後に起こる拍手。
自分も同じように拍手していたけれど、なんだか置いてけぼりにされている感覚がした。
アーカイブ公開期間に途中から見ようと思いつつ結局忘れていた。
かつてなら何か発表があったらリツイートして何らかの反応をしていたが、それもしなくなった。
気がついたらそのライブの円盤も発売されていた。いつもなら予約して火曜日のフラゲ日に引き取りに行っていたが、購入さえもしなかった。
ライブに行けなくて、どんどん熱が醒めていっているのが自分でも分かった。
あの置いてけぼりの感覚は、「地方」と「首都圏」という壁を意識してしまったからなんだと気づいた。
勿論、地方からでも行っている人はいただろう。逆に、仕事とかで行けなかった首都圏の人もいたはずだ。
いつもならそんなことは思わなかったと思う。元々そんなにライブに回数行けるような人間ではないし。
ライブに行けないのなら、ファンクラブに入っている意味はなかった。
だから、やめた。
それだけ規模の小さなの話なのに長々とちんたら書いてしまったのは、覚え書きとして残しておきたかったから。
とりあえずコロナは滅してくれ。
親が嫌い。
父親は教師だったが勉強を教えてくれなかった。家のことを何一つしようとしない人間だった。
私が5歳ぐらいのとき、父親と話をしようとして煙たがられたことをよく覚えている。
あと、私がはいた靴下でビールのこぼした所を拭いていたことを覚えている。
小3くらいまで、話かけたり、描いた絵を見せて反応を見ていたが、周りのどの大人よりも反応が薄かった。私に興味がないのだと気づいたから、話をすることはなくなった。
母親はそんな父親に対して、私に向かって「パパはあなたたちに関心がないから。上のお姉ちゃんの時は色々していたんだけど」と言った。
年長の時に、「パパの家 食って寝るだけ ホテルかな」という俳句を作らせて、父親が帰ってくる前までサイドボードに貼っていた。
いう図式を刷り込まれて育った。
私がみんな出来るはずのスキーができないのは父親がちゃんとスキーを教えなかったせいとか。
母親は私に向かってよく悪口を言っていたが、本人には決して伝えなかった。中学生の時に、私が母親に悪口を言っていて、これまでのエピソードが全て蘇って怒っていたら、「ちょっとちょっと…言いすぎだから。そんなに言うことないから。」と思った。
私は母親の望む答えを用意出来なかったんだと思った。
大人になってからも、母親は私に悪口を言ってくる。私は今までのことを全て思い出して、イライラして、毎回キレている。
この前も、一悶着あって母親が「本当に子供の成長を阻害するよねー」と私に言ってきて、
お前もだろ、そう思ってんなら毎回何で言わないのかとキレてしまった。
気づかない人間に何も言っても響かないのは分かりきってるので、後悔している。
私をサンドバックにして、父親とうまくやってんじゃねーよ。毎週土曜日の夜にセックスしてるくせに。
なんなんだよ。
親が嫌い。
父親は教師だったが勉強を教えてくれなかった。家のことを何一つしようとしない人間だった。
私が5歳ぐらいのとき、父親と話をしようとして煙たがられたことをよく覚えている。
あと、私がはいた靴下でビールのこぼした所を拭いていたことを覚えている。
小3くらいまで、話かけたり、描いた絵を見せて反応を見ていたが、周りのどの大人よりも反応が薄かった。私に興味がないのだと気づいたから、話をすることはなくなった。
母親はそんな父親に対して、私に向かって「パパはあなたたちに関心がないから。上のお姉ちゃんの時は色々していたんだけど」と言った。
年長の時に、「パパの家 食って寝るだけ ホテルかな」という俳句を作らせて、父親が帰ってくる前までサイドボードに貼っていた。
いう図式を刷り込まれて育った。
私がみんな出来るはずのスキーができないのは父親がちゃんとスキーを教えなかったせいとか。
母親は私に向かってよく悪口を言っていたが、本人には決して伝えなかった。中学生の時に、私が母親に悪口を言っていて、これまでのエピソードが全て蘇って怒っていたら、「ちょっとちょっと…言いすぎだから。そんなに言うことないから。」と思った。
私は母親の望む答えを用意出来なかったんだと思った。
大人になってからも、母親は私に悪口を言ってくる。私は今までのことを全て思い出して、イライラして、毎回キレている。
この前も、一悶着あって母親が「本当に子供の成長を阻害するよねー」と私に言ってきて、
お前もだろ、そう思ってんなら毎回何で言わないのかとキレてしまった。
気づかない人間に何も言っても響かないのは分かりきってるので、後悔している。
私をサンドバックにして、父親とうまくやってんじゃねーよ。毎週土曜日の夜にセックスしてるくせに。
なんなんだよ。
お見合い結婚がなくなってメリットしかないと思うんだけど俺だけ?
ゴミクズでも結婚して子供を産めるから虐待が増えて、不細工で無能でも繁殖できるから子供がみんな不細工無能になるよ
子供を育てる素質のある人だとせめて配偶者から選ばれるお墨付きは欲しいし、不細工無能が増えるからって優生保護法するより自然の性選択に任せた淘汰があるほうが生物学的に安定しない?
リベラリズムの一部門としてのフェミニズム思想に立てば、性産業への就職に限らず、障害がある人、特に二重の搾取を受けやすい女性障害者の安易な婚姻や契約には注意が必要だろう。
特に婚姻に関しては、他人の目が行き届かない性暴力的関係性が家庭内に入り込み、より深刻な問題に発展する危険性が強い。
さらには出産強要DV、つまり意に反した出産を配偶者から強要される問題もある。
そこで、現代フェミニズムの予防主義的な人権思想によって、障害当事者女性の婚姻や出産が法的に制限される未来もある。
AV出演と同じで、自分の意思決定だから問題ないと言い放つ当事者の言葉のそもそもをフェミニズムが疑い、保護し、善導する社会へ。
こわ。
20代前半の頃、ぼんやり生きていたら、積極的な女の子が急にグイグイ来て、悪い気はしないので受け身に付き合った。
でもその女の子が美少女なわけではなく、普通のルックスで、会話がかみあわないことがある子だったりして、
「結婚したいという気は起らないなあ」なんて上から目線のことを考えながらぼんやり付き合っていたら、
唐突に振られて(本当は唐突ではなく、サインが出ていたのに、気づかなかったか、面倒だから無視していただけなのだろう)、
振られたあとは20年、あらゆる女性から「人間」としては会話してもらえるけど、「恋人・配偶者候補」としては無視されて、
これでも女が悪いんだ。
「妄想だ」と叩かれることが多いけど、「女の子が降ってくる」に近い事態というのは現実にあって、
20代前半の頃、ぼんやり生きていたら、積極的な女の子が急にグイグイ来て、悪い気はしないので受け身に付き合った。
でもその女の子が美少女なわけではなく、普通のルックスで、会話がかみあわないことがある子だったりして、
「結婚したいという気は起らないなあ」なんて上から目線のことを考えながらぼんやり付き合っていたら、
唐突に振られて(本当は唐突ではなく、サインが出ていたのに、気づかなかったか、面倒だから無視していただけなのだろう)、
振られたあとは20年、あらゆる女性から「人間」としては会話してもらえるけど、「恋人・配偶者候補」としては無視されて、
元彼女の一件は「奇跡」であったことを、10年20年経って、さすがに直視しなくてはならなくなる。
元彼女は今でも自分のことを好きでいてくれるはずという幻想にも浸れない。とっくに既婚者になっており2児の母だ。
ぼうっとしている人間が、ラッキーで女性の好意を得られても、ぼうっとしているままなら、逃す。
ラッキーがあったときは、ラッキーが途切れないうちに、運の流れが来ていると感じているうちに、
死ぬ気で、自分を作り替える勢いで、求められることができる人間になれるよう学ぶべきで、
そうでないと流れが途切れたときに、全部が元通りになる。
プライベートの人間関係だけではなく、仕事でもなんでも、人間が関係するものはすべてそうなのではないか。
女性についてだけ書いているようだが同性の友達もいない。積極性やサービス精神がないと同性にも相手にはされない。
分かれ道は、まず「運の有無」があって、次に「運に乗って学習するか否か」がある。
ひたすら運がない、本当に運がなくてすべての機会が絶たれている場合は気の毒だ。
でも、多数派は俺みたいに、運がもたらした機会を怠惰によって台無しにしているのではないか。
本当は怠惰が原因なのに、運がなかったと思い込んで、努力家が享受しているものだけを、あいつは運がいいと言って、ねたんでいるのではないか。
母は十二分に愛情をかけてくれたけど、あなたが求める形ではなかったというような体験はないかな。
たとえば、話を聞いてくれなかった、頼りたいときに頼れなかったとか、反対に母がなんでも先回りして決めてしまったとか。
そういうことにどこかで怒りを感じていて、しかし表面上は愛情をくれたというアリバイが成立しているので、怒るに怒れない。
母は子のわだかまりを理解せず、自身の愛情を一切疑うことなく泣いている。その身勝手さへの怒りや母自身の哀れさや、母はこのようにしか愛せないのだという諦めで涙が出る。
子離れの辛さは相当あるにしても、あなたが親元を離れて生きていけるようになることは何より自然なことで、成長の証で、喜ばしいことじゃないか。
なのに母は泣くのをやめない。それが不思議。
嫁さん(30代前半)がよくTwitterのフェミニストを馬鹿にしてる。 ツイートを見せてきては、頭おかしいねって言ってくる。
の時点で。
わざわざ他人のツイートを夫に見せてねえねえこの人頭おかしいでしょ痛いでしょ?とやる時点で痛いのはお前だろとしか思えない。
まあこの夫婦の場合は「他人のツイートを痛いと嗤うこと」がコミュニケーションになっている(という設定の)ようだけど
別に痛ニュー見てようがツイフェミ見て嗤ってようがどうでもいいが、それを他人と共有しようと思うのがそもそも理解できん。
自分一人で見てこっそり楽しんでるってならまだ分かるけど。
【はてなid】
【年齢】
【性別】
【学歴】
【職業】
【年収】
【宗教】
【出身地】
【現住所】
【何オタクですか?】
【趣味】
【好きな食べ物】
【無人島に何か1つだけ持参するなら?】
【支持政党】
【犬派?猫派?それとも?】
前日よりも人の出が少ないようだった。広場にあったワンタッチテントの数も前日の半数以下だ。だが、駐車場の空きは少なかった。隣接のサッカー場で子供のサッカーチームが試合をしていたので、公園の駐車場がその関係者達に占拠されてしまい、他所から公園に遊びに来た人達は、駐車出来ずに諦めて帰ったのかもしれない。
前日は公園に着いたらまずは敷地内をぐるりと一周散歩したが、この日は真っ直ぐ管理事務所に入った。「鯉とカモの餌」を三つ買う。300円なり。上の子と下の子のぶん、そして私のぶんだ。
池の周りでカモに餌やりをする人々やザリガニ釣りをしている人々も、少なめ。連休最後の日はインドアに過ごしたい人が多いのだろうか?
前日にはいくらか居た鯉の姿があまり見えない。カモは前日と同数くらいいるが、同一カモかどうかは不明。
私と子供達がカモに餌をやっている間、夫が池の周りをぐるりと回って鯉の様子を見て来た。夫によれば、鯉は燕子花の間により集まっていたそう。鯉は、産卵に忙しくて餌どころじゃないらしい。
産卵があろうがなかろうが、この池の鯉は何故か人に餌をねだることを全くせず、人影に向かって寄ってくることもない。昔からそうなのだ。「鯉とカモの餌」は実質「カモの餌」である。
連休中、人々の投げ寄越す餌にカモは飽きてしまったのか、前日よりも食い付きが悪い。食い付きが悪いと、子供達はむきになって餌を次から次へ、なんなら鷲掴みで一度に投げつける。面倒臭そうな仕草で、カモは泳いで行ってしまう。
前日に学んだ通り、カモは真正面に落ちて来た餌にはあまり反応しないので、横か、なんなら背後めがけて投げるのがよい。一粒ずつ投げて、食べたらより手前の方に投げて、少しずつカモをこちらの方に誘き寄せる。……と、言い聞かせても、子供達の逸る気持ちを宥めるのは無理なので、子供達がやたらめったら投げて全部外しているうちに、背後から私が投げて、カモ達をこちらに誘導する。
公園のカモは人慣れしているが、それでも野鳥なので、決まったセーフティーゾーンを越えて近づいてくることはない。一番寄って来て、岸から1.5mくらいの所。だが、それだけ近づいてくれれば、子供の手で投げた餌でもカモはもれなく拾ってくれる。
カモを岸に寄せたら、私の役目は終わりだ。早くも手持ちの餌を投げきってしまった下の子に残りの餌を手渡し、子供達の隣にしゃがんでカモを眺めていた。
やがて二羽いたカモのうちの一羽が、人間の相手をするのに飽きたらしく、水面に浮いた水草の根で遊び始めた。猫がねこじゃらしにじゃれつく時のように、根っこの切れっぱしを仮想敵とみなしてつつき回している。するともう一羽は反対方向へとすいすい泳いで行ってしまった。
よく、水辺の白鳥の姿は夕方だが、水面下では白鳥の足はジタバタと不恰好に水を掻いているという。だが、カルガモ達が水面をすいすい行く時の足の動きは優雅で無駄がない。茶色と緑の入り雑じった泥水の中でも、カモの足のオレンジ色は鮮やかに映えている。
子供達は橋を渡って池の向こう岸へ行き、別のカモのコンビに餌をやり始めた。私と夫は日陰に入り、また別の二羽を眺めた。なんと、二羽のうちの一羽がうたた寝をし始めた。私と夫の他にも人間がいくらかいる、その前で、自らの羽の合間に嘴を突っ込んで、うつらうつらと目を閉じたり開いたりしている。警戒心がだいぶ薄れているようで、風に吹かれるままに岸辺に流されて来て縁に敷かれた石にぶつかりそうになったところで目を覚まし、いそいそと池の中央に戻っていく。だが、しばらくするとまたこちらに流れてくる。カモ達の、ここに来る人間達への信頼度は半端ない。
あまり昼寝の邪魔になるのもなんなので、こちらから遠慮して岸を離れた。池の中央にかかった橋を通ると、水面に亀がひょっこり顔を出していた。種類はわからないが、外来種ではなさそうだ。どう見ても、こっちを意識している。子供達を呼び寄せて、亀がいるよと教えてやると、子供達は亀に餌を投げた。すると亀はカモよりも機敏に餌を追いかけて食べた。だが、カモほど食欲が底なしではないらしく、いくつか食べただけでくるりと身体の向きを変え、泥水の中へと姿を消した。
対岸で、子供達がカモに餌を投げるのを見守る。子供達はやはり闇雲に餌を投げるばかりで、大人のようにテクニックを駆使してカモを手懐けることは出来ないようだ。それでも、力技で遠投した餌をカモに拾われて喜んでいる。
二人の少し後ろに、三歳くらいくらいの男の子がとことことやって来た。手には餌の袋を持っている。だが、まだ小さいので餌を遠くに投げることができない。男の子は、うちの子供達が餌を投げているのを、恨めしそうにじっと見ているだけだ。そのまた背後に、父親が心配そうな顔で着いている。うちの子供達が邪魔で男の子がカモに餌をあげられないという構図になってしまっていた。なので、私は子供達に声をかけて、あっちのカモに餌をやりに行こうと促した。
池の周囲でカモに餌をあげようとしている子供の多くは、五歳以下に見える。自分の足元も覚束無い幼児もいる。彼らはどうしたらカモの気を惹けるか考えて餌を投げるということが出来ないので、節分の豆まきのように餌を投げまくった末にカモ達に完全無視を決め込まれる。ガッカリしている子もいれば、とりあえず好きに餌を投げただけで満足という様子の子もいる。
うちの子供達がその年頃のころ、私は子供達にカモの餌やりはさせなかった。うっかり足を滑らせて池に落ちることを恐れてのことでもあり、こんな小さな子に失敗が運命付けられているような事をさせても可哀想なだけなのではないかと思った。それに、その当時は池の畔に集まる子供の多くが小学生で、幼児の方こそ場違いに見えた。
だが今は、頭の重みでいつ前のめりに転がり落ちるかわからない幼児が、器用に池の縁の石の上に立ち、池の中を覗いているのだ。
うちの上の子はもう五年生で、この歳までカモに餌をやって遊ぶことをしないで来たわけだが、もうじき自分から幼児に紛れてこんな風に遊びたいと言うような年頃ではなくなってしまうだろう。少々の危険を覚悟で、もっと小さいうちから好きに遊ばせておけば良かったのではないかという後悔を感じないでもない。だが、一人で池を覗き込んでいる年端のいかない幼児が池に転がり落ちないで済んでいるのは、単に運がいいだけにも思える。
餌を全部投げ終わると、子供達は手を繋いで、中央広場の遊具で遊んで来ると駆けていった。私が子供達の手助けをする必要はもうない。遊具で遊んでいるのも幼児とその保護者ばかりで、小学校高学年の子供達はマイナーだ。十年前は逆に大きな子供達ばかりが、少数の幼児を蹴散らすような勢いで遊具に飛び付いていて、危なっかしくひやひやしたものだ。
後で上の子に聞いたところ、遊具には小さい子が沢山いるから、小さい子に出会ったら危なくないように道や順番を譲ったとのことだった。
子供達が遊具で遊んでいる間、私と夫は木陰のベンチに腰掛けて待っていた。
蓮池のところでザリガニを捕っている親子連れがいた。事務所で売られている「ザリガニ釣りキット」ではなく虫捕り網を持っている。ザリガニは釣るより手掴みした方が早いのは確かだ。
母親が威勢よく小学校低学年くらいの息子に怒鳴っている。ここぞという時に息子が網を持ってふらふらとどこかに行こうとしたからのようだ。母親は、ザリガニ捕りどころか公園遊びにも向かないようなくるぶし丈のスカンツの裾を片手で引き上げ、もう片方の手を蓮池に突っ込んでザリガニを捕ろうとしている。根っからのお転婆ではなさそうだ。そんな妻の横に立つ夫は「男らしさ」とは縁の無さそうなおっとり系だ。私の観測範囲だと、自分の息子を「男の子でしょ!」と叱る人ほどお転婆そうではなく、配偶者も大人しそうな優男であることが多い。
振り返って広場の方を見ると、上から下までスポーティーな格好の母親と、やはり上から下までスポーティーな格好の小学校高学年か中学生くらいの娘がバドミントンに興じているのが見えた。楽しそうだ。子供が大きくなったら大きくなったなりの遊び方があるようだ。私の乏しい体力では、バドミントンは無理そうだが……。
コロナでしばらく会っていないので、少しは恋しいとか心配とか思えるかなと思ったがやっぱり嫌いだ。電話だけでも心が荒れる。
今度親が遊びに来るらしい。用事があるからと断ろうとしたが、本当ならお前がこなくちゃいけないところをわざわざ私たちが訪ねてくるのだから無理してでも出て来いとのことだった(ちなみに別に大した用事があるわけではない)。
昨日は親のこと考えててイライラしてしまって全然寝れなかった。
別にDVとかされたわけではないが、言動・行動・考え方に常にイライラさせられる。
私は割と温厚と自負しており、昔から「もっと怒った方がいい」と友人に言われるような性格だが、親に対しては怒りで頭がカッとなって捲し立ててしまうことすらある。
配偶者に対しては毎日一緒にいてもそう思わないので、身内に甘えているというだけでもないと思う。(結婚するまでは配偶者にも同じようにイライラしてしまうのではと割と不安だった)
昔親に言われたこと、されたことを思い出すと眠れないほど腹が立つ。1秒たりとも親のために時間を使いたくない。できればお金も払いたくないが、大学までの学費は出してもらったのでそれで縁が切れるならその分くらいは返してもいい。
きっとみんな親子関係の中で大なり小なり嫌な思いをしたエピソードはあるだろうし、そんな中でも折り合いをつけて親に敬意を持っているのだろうに。
母親との距離感が近い、というのは切腹モノの”恥”という強烈な意識を私は抱くようになった。
その意識は思春期の到来によって引き起こされる内面的変化の表れで抱いたものではなく、別のきっかけによって植え付けられたものだった。
「〇〇君はなんとお母さんのことを『ママ』と呼んでま~す!!wwwwwwwwwwwwwwwww」
信じられない人もいるだろうが、少なくとも90年代まではこのレベルのキチガイ教師はザラにいた。
また、当時は『ママ』呼びする男は問答無用で気持ち悪い奴という認識が共有されていて(今どきの若い子で公然とママ呼びしている人は普通にいると大人になってから知って仰天した)、それこそロリコンに匹敵するくらいの扱いを受けていた。
だから、暴露されたクラスメートは卒業までかなりかわいそうな扱いを受けていた。
ちなみに私はこのショッキングな出来事が起きた日、家に帰ってすぐ母親に対して
と宣言した。
母親は「そうか、もう”ちゃん付け”は嫌だか!」と爆笑していたが、なんと本当にその日から私のことをを”ちゃん付け”で呼ぶことをきっぱりとやめた。
加えて、私はこの時期から約十年にも及ぶ長い間、母親との雑談を一切しなくなった。
担任の愚行一発で、私は母親との距離をもっと遠くしないといけない強烈な危機感を抱いてしまったのだ。
それまでは小学生の子供らしく母親とそれなりに会話をするほうだったと思う。
夜一緒にテレビを見ながら、かつて竹中直人がお笑いタレントで「笑いながら怒る男」の芸で一世を風靡したことや、
志村けんがドリフの初期メンバーでなかったことなどを母親から教わった記憶がある。
それから時は流れ、大学生になっていた私は運転免許の合宿のために地方で3週間ほど滞在した。
合宿中のある日、同日入校した男連中と休憩室でテレビの情報番組を見ていた時、
画面に映る女性タレントを見て私が「この子超可愛いなあ。こういう彼女いたらなあ」と口にすると、
男の一人が「俺、家じゃそんなこと口が裂けても絶対言えないわ……」と唸った。
どういうことかとその場の皆が不思議がっていると彼は
「母親の前でアイドルとか女子アナのこと可愛いなんて言うともう……『そんなにこの子がいいなら一緒になって家出て行けばいいじゃない!!』って大泣きして怒り狂うんだよね……」
となかなか衝撃的なカミングアウトをした。
周りが騒然としながら、そうなったときお前どうしてんの?キレ返すの?と尋ねると
「いや、もうずーっと『ごめんごめん、俺が悪かったから泣かないで』って泣き止むまで言って落ち着かせてる……」。
お前それもう彼氏やんけ、と皆から引き気味にかわれていたが、私はというと「あーここまで母親との距離が近い奴もいるんだなあ」と妙に安心していた。
合宿が終わって実家に帰ると、私は母親と再び雑談をするようになった(10年以上のブランクがあったので何を話していいのかわからない状態で半年くらいはぎくしゃくしていたが)。
それから、オッサンになった今に至るまで、他人とその母親との関係性がうかがえるエピソードを聞かされる機会が結構あったが、距離感が近い母子は結構いるもんなんだなあと思う場面は多かった。
配偶者の実家の近くに家を買うつもりであると母親に伝えると「あなたを取られちゃうみたいで凄く嫌なの」と不快感をあらわにされ最後の最後まで反対されたとか、
部活の引退試合を終えチームメイトや父兄が集合している場で「〇〇ちゃん、お母さんを抱きしめて~!!w」と強烈なハグをされて死ぬほど恥ずかしかったとか、
家では『お母さん』呼びをすると完全に無視を決め込まれて食事抜きにされるからついにママ呼びを脱却する機会を逃したまま大人になってしまったとか。
自己中心的で幼稚だから無職なんだよ。働いても同僚に迷惑をかけるだけ。
自己中心的で幼稚だから独身なんだよ。結婚しても配偶者を苦しめるだけ。
たくさんブクマいただいて恐縮です。
まず、文献を貼らずに・・・と何人かの麿が目を剥いていたので、ほぼ古典レベルのこの文献を貼っておく。
木下富雄(2002)リスク認知の構造とその国際比較, 安全工学 41 (6), 356-363
https://www.jstage.jst.go.jp/article/safety/41/6/41_356/_pdf/-char/ja
P.357これまでに日本で行われたほとんどすべての研究において、女性が男性に比べてリスクに敏感であることが知られている6)10)11)。そしてこの傾向は、科学技術のリスクだけではなく、BSE汚染や自衛隊の海外派遣のような、社会的な事態のリスクにも及んでいる12)。性差はさらに年齢とクロスしており、リスク認知が一番高まるのは、30~40歳代の女性であることが多い11)13)。これは、配偶者や子供など、身近に愛するものをかかえるこの年齢の女性が、リスクに過敏になるためではないかと解釈されている。
p.362ところが,中国では,たばこを除き男女差はほとんどない.さらにアメリカでは,レントゲンや麻薬において,男性のほうが女性よりも高いリスク認知を示している10).いずれにしてもリスクの認知が,文化の影響を強く受けていることだけは明らかといえるだろう.
この分野が面白いと思った麿は、最近の文献はGoogle ScholarやらPubMedで risk perception をキーワードに色々探してみて欲しい。
英語のPDF文献はShaper https://dream-exp.net/shaper/ で改行削除してDeepLで翻訳すると楽です。Shaper作ってくれた人ありがとう。
で、エントリを読んだ人にはほとんどわかっていただけたと思うが、自分は例のアンケートの元々の設計と結果の解釈が正直「まずい」というか「かなりまずい」と感じており、あのアンケートの結果をもって、
40代以降が萌え絵についていけてなくて価値観がアップデートされていないとか、
40代~の中高年層がやたらと「風紀委員」的になっているとか言ってしまっている人たちに、
いやいやちょっと落ち着こうやというつもりで今回のエントリを書いた。
仮説や解釈に言及しているひと、同業者の方だろうか、ありがとう。
自身のつらい体験や、大事な人のつらい体験を書いてくれている人も、共有してくれてありがとう。
良く分からないが「あれは絵だ」とか、「あの広告をなくしたところで痴漢は減らない」言っている人も、おそらくnot for meな長い文章をさいごまで読んだのはえらいなとおもった。とにかく読んでくれてありがとう。
どのコメントもすべてありがたく読んでいる。
特にn3922氏の
“周囲の大人は痴漢に怒ってくれる、という信頼感を自分にくれた恩人である。” この信頼感の絶対量がもっと多い世の中だったら、たわわも問題にならなかったんじゃないのかな〜と思ったりする“
というコメントは、自分が広告の表象よりは講談社の意図が気になった根底には、これがあったんだなと、気づきを得た。
信頼感は、リスクの評価や受容に大きくかかわると言われている。
これを今のニュースで例えると、製薬会社やそれを指導管轄する国への信頼が低ければ、ワクチンが危ないという気持ちが強くなり、ワクチンを受容しようという気持ちが低くなるという仕組みになる。まあワクチンの場合はもっといろんな影響因があるが。
今回の件の場合、○○への信頼の○○には、「社会」が入るだろう。
具体的に言えば、「この社会は市民を性的被害から守ろうとしてくれる」という信頼感である。
この信頼感が高ければ、たわわの広告が「まずい」と感じる人は減ることが予測される。(この論理については後段でもう少し詳しく説明する。)
「まずい」と思う人が減れば、広告表象等に係わるコンフリクトが減ることが期待される。
これはみんなにとって良いことだろうと思い、講談社の意図と社会への信頼感の関係性をみる実験を考えた。
講談社の意図については、ブコメでは以下のお2人が回答してくれていた。他に見落としていたら申し訳ない。
yujimi-daifuku-2222氏
可愛らしい女の子が出てくるギャグファンタジーを読んで、新入社員に元気になってもらいたい以外の何があるのだろうか。/強敵との戦闘を楽しむDBの孫悟空は通行人に面白半分に殴りかかる事を肯定しているのですか?
ruin20氏
漫画の中の彼女たちの巨乳を拝んでありがたいなあ(しみじみ)みたいな形で元気をもらってくださいねって話だと思うんだけど、それだったとして何なの? なんか問題あんの?
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可愛らしい女の子が出てくるギャグファンタジー。彼女たちの巨乳を拝んでありがたいなあ(しみじみ)みたいな形で新入社員に元気になってもらいたい。
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しかしなにかまだ足りない。
たわわには巨乳ヒロインが複数登場するが、そのうち、電車の中で会える女子高生のアイちゃんをわざわざ表象に選んでいる意図が抜けている。
それを加えて、ターゲットと提供する価値を明確にしてみたのが以下である。
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新入社員のみなさんへ。
憂鬱な月曜日、巨乳を拝んでしみじみと癒され、元気になりましょう。
1~4巻発売中。ぜひ買ってね!
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どうだろうか。キャッチ―とは到底言えないが、割と過不足なく講談社の意図と広告の中身を説明できているのではないか。
(ギャグファンタジーはちょっと違うのではと思ったので単に漫画とした。すみませんyujimi-daifuku-2222氏)
これを、朝の新聞の1ページいっぱいに32ptくらいのフォントで書いて出す。
絵は、「オタクや萌え絵への忌避感」の影響を避けるために載せない。
それを見た時、「この社会は子供を性的被害から守ろうとしてくれる」という信頼感はどう変わるだろうか。
おそらく、性的被害の経験者はそうでない者と比較して、信頼感が有意に下がることが予想される。
理由は、「電車の中の女子高生を性的コンテンツとして楽しむこと」と痴漢等の具体的な性的被害への危機感がリンクするのは、主に被害の実体験を持つ者だからである。
上記が納得いかない、という人もいるだろうから、その作用機作を証明するために同様の実験をするといい。
例えば、「痛みを伴うことを笑いの対象とする」バラエティー番組を宣伝する文章を掲示し、
「この社会は子供をいじめから守ろうとしてくれる」という信頼感の変化をみてみるのはどうだろう。
おそらく、いじめ被害者は、加害者と比較して、信頼感が有意に下がることが予想される。
いじめ被害者は「バラエティ番組で人を痛めつけることをコンテンツとして楽しむこと」といじめの具体的な被害への危機感がリンクしやすいからである。
ここまで書いて、なぜ私は1mmも自分の成果にならない実験の話をしているのだろう、と我に返ったが、まあいい。このまま投稿する。
夜中のテンションにまかせて書いたので、同業者諸氏に粗を指摘・改善いただいたうえで、この実験を例の計量経済学の先生にしてもらえると嬉しい。
たわわ広告への反応が、「風紀委員的な正義感」に基づいたものなのか、「被害経験に基づく社会への信頼感の低さ」に基づいたものなのか、より明確にできるだろう。
以上。
世の中には4種類の人がいます。
自分自身や、友人知人のことを思い浮かべながら読んでみてください。
逆に「協調性」が低い人の特徴は以下です。
逆に「外向性」が低い人の特徴は以下です。
魅力的な性格(≒利他的な性格)で人に好かれやすい、活動的で出会いが多い、他人を信頼しやすい、といった特徴が結婚しやすさに繋がっているようです。
「こういう性格の女性が好き」というポイントを、既婚男性に聞くと、「明るい」「思いやりがある」「やさしい」などが挙がる傾向にあります。
一方、同じ質問を独身男性に対して聞いてみると、「だらしないのは駄目」「裏表があるのは嫌」「自分中心的な人は嫌い」などが挙がる傾向にあります。
異性を加点法で見る人は交際開始・結婚に至りやすく、異性を減点法で見る人は周囲の異性全員が「不合格」となるようです。
出会いが少なくてリスクを嫌うタイプは一生未婚になりやすいです。利己的or出会い無しで好かれるチャンスがなく、人を好きにもならないということです。
あとは、容姿が悪いと異性に好かれにくく、結婚できないということもあります。
「協調性」「外向性」が高い性格で、結婚を望んでいるのにできない場合、原因は容姿である可能性があります。
ビッグファイブにおける「情緒安定性」が高い人の特徴は以下です。
逆に「情緒安定性」が低い人の特徴は以下です。
逆に「誠実性」が低い人の特徴は以下です。
「情緒安定性」が低いと、DVやヒステリー、モラハラを行うことが多いようです。
「情緒安定性」が低い人はとても傷つきやすいため、強い被害者意識を抱えているのですが、
第三者が客観的に見ると、むしろその人がモラハラやヒステリーで周りを傷つけていることが多いのです。
配偶者に暴言を吐いたり辛く当たったりして、心を傷つけたという理由で離婚になりやすいようです。
「情緒安定性」が低いと、欲望を制御できない傾向にあるので、不倫をして離婚になる場合もあります。
また欲望を制御できないので依存症になりやすく、課金依存・ギャンブル依存などの浪費で借金を作って離婚になることもあります。
アルコール依存症で家族を殴って離婚になるのも、「情緒安定性」が低い人の典型的なタイプです。
また、「情緒安定性」が低いほど、精神病を発症しやすいそうです。
精神病者の介護疲れという形で、見捨てられて離婚になることもあります。
「誠実性」が低いと物事を放り出して、学習や職業能力開発に失敗するため、低収入との相関があります。
ひどいと仕事をバックレてしまったり、すぐ辞めてしまったり、社内ニートになり解雇されてしまったりします。
収入も低いし家事もしないなど、家族の役に立たないせいで離婚になりやすいようです。
しかし「誠実性」が低くても、生まれつきの容姿が良かったり、配偶者がすごく年上だったりすると、