はてなキーワード: 情念とは
ルリドラゴンの登場人物たちがお行儀が良すぎるってのは俺も思うが、その代わりとして出てきた話が粗末すぎる。さてはマトモに読んでねえな。
まず青木ルリの能力は未知数かつ不安定、だがそのどれもが超人的であるため、露骨なイジメなんて怖くてできない。1話で暴発した能力ですら、近くにいた男子が酷い目に合ってるしな。作品の世界観的にあれくらいのノリで済んでるけど、実際あの時点で取り返しのつかない展開になってるだろうな。そんな相手にレイプとか性的暴行なんて無理。変な病気もらうかもしれないし。
それを踏まえた上で、お行儀悪いバージョンのルリドラゴンを羅列していく。当然100%妄想だが、元増田よりは体裁を整えた話にしてる。ただし「ルリドラゴンはあれでいいんだよ」って当てつけも込めてるので、ぶっちゃけ面白くない。
俺の考える『ルリドラゴン』は大まかに三部構成に分かれる。第一部は、ドラゴンの力に目覚めた青木ルリの日常が徐々に崩壊していく話だ。
最初のうちはクラスメートや周りの人も受け入れようと振る舞う。しかしルリは言い知れぬ“隔たり”を感じていた。今までマトモに接してこなかった相手から向けられる、好奇心や疑念入り混じる視線。以前から仲の良かった友達も、表面上は変わらないがどこか壁を感じる。決定的な衝突は起きないものの、真綿で首を絞めるような息苦しい環境。それは着実にルリの精神を蝕んでいく。
しばらく経ったが事態は好転せず、この頃にはルリはもうギリギリ。あとは誰がそのきっかけになってもおかしくない状態。で、マンガによくいるような粗野な馬鹿グループがやらかす。度胸試し的なノリで、ルリにちょっかいをかけるわけだ。そこでルリの友達が見かねて間に割って入るんだが……その後の展開は推して知るべし。
まあ、ここで死人が出てしまうとその後の展開が窮屈になるから、馬鹿グループは全治数か月の重傷ぐらいにしとくか。で、ルリを助けようとした友達は意識不明の重体にしよう。ちなみに友達がそうなったのはルリの能力のせいじゃなくて、馬鹿グループが「「邪魔すんじゃねえ」って突き飛ばしたのが原因だった……ってことが後に判明する。
何はともあれ、誰が悪いとか言ってられるような状況じゃなくなった。ルリは学校にいられないし、ルリ自身も行きたいと思っていないだろう。事態は学校だけで留まるはずがなく、周囲からの無知無理解に翻弄されてルリと家族はマトモに外も歩けない。こうして逃げるように引っ越したところで第一部が終了。
第二部は田舎での生活が始まる。マンガでよくある村社会的な展開で、ここでも居心地の悪さを多少は描いておきたい。
だが、それだけだと一辺倒なので、原作でもあったルリが天候操作をする展開をここで持ってくる。その力を目の当たりにした住民たちはルリを神格化する。で、ちょっとカルトじみた組織ができて、祀り上げたりする。「竜神ルリ様」なんていわれたりしてさ。
ルリは以前の学校生活のツラい経験もあって、その待遇を最初のうちは「自分が認められている」と満更でもなかった。だが、徐々に「なんか違う」って思い始める。そして組織の思想と活動がより強固になっていく過程で、もはやルリ本人の気持ちなんてどうでもいいんだと気づく。
この頃のルリは「もう自分の居場所は人間の世界にはないのかも」、「そもそも自分は何なのか」と思っていた。そのためには自分に流れる竜の血を、自分が生まれたルーツを、父親であるドラゴンを知る必要があると考える。そうして一人旅に出るところで第二部終了。
ちなみに第二部は『BLOOD-C』的な展開でもいいかなあとは思ってる。その場合でもルリは人間社会に絶望して、ドラゴンを探す旅に出るのは同様。ちなみにルリの親はこのあたりで死なせといていいかもな。狂信者が「龍神に人間の親などはいらない」とか言い出してやられるわけ。
ルリが各地を転々と巡ってドラゴンについての情報を集めていく。基本的には1エピソード数話の構成で、そういう漫画にありがちな悲喜こもごもな人間ドラマを描いていく。人間のどうしようもない情念だったり、めちゃくちゃ厳しい人達が不意に見せた優しさだったり。その過程でドラゴンの秘密が徐々に明らかになったりならなかったり。
色々な人たちとの一期一会を経ていく中で「人間は良いとか悪いとか、そんな単純なものじゃない」と思うと同時に「それって“人間”の話であって、じゃあ自分(ルリ)って何なの。やっぱり自分の居場所はココじゃないのでは」と思うのであった。
で、最終的に明らかになる真実は「そもそもドラゴンなんて存在しなかった」という展開。つまりルリはドラゴンと人の間に生まれた子供ではなかった。まあ人間とドラゴンがセックスして子供が生まれるわけないわな。生まれたとしても異形児だし、すぐ死ぬだろう。
じゃあルリがどう生まれたかというと、要は科学の力ですよ。マッドなやつらが「人類を更なる高みへ!」って感じで作ったわけ。数々の異能力も、とにかく超自然的なものを入れただけ。ルリの見た目も能力もドラゴンとは何の関係もない。
誤算だったのは、ルリは生まれてしばらく経っても人間とほぼ変わらない状態だったこと。失敗作だと判断し、処分することになるわけだ。でも、この時の担当者が処分するフリをして、自分の子供として育てるっていう……まあ、よくある話だわな。
このことを育ての親である本人の口から明かすって展開でもいいけど、第二部の終盤で死なせているパターンのほうがいいかな。真実を告げないままルリの親として死んでいった、ってのが後になってから分かる方がグッとくる。そして第三部で判明したころには手遅れで、ルリには帰る場所もなくて、かといって自分が進むべき場所も分からず仕舞いでより無常感がでる。
第三部の話を書いている間に飽きてきたんで、まあこの辺で。仮に第四部があるなら、他にもルリみたいなキメラが実はいるって話になるかな。
そいつらと共に「自分たちキメラの居場所を~」みたいなX-MEN的な話になるけど、如何にもな引き延ばし展開しか思いつかない。書いてる俺ですらウンザリしてるんだから、読んでる側はもっとウンザリだろ。だからルリドラゴンは、あれでいいわけだ。元増田の人生がどうとかルリドラゴンとは何の関係もないんで。
露悪的な物語や表現って、エログロナンセンスに片足突っ込んでると思うんだわ。激辛料理をダラダラ汗を流しながら食べるのも、それはそれで楽しいけどさ。それはあくまで刺激から得られる体験であって、そんなので腹を満たしてたら胃が荒れるって話よ。
この年度の末で学校教諭を辞めている。ラストイヤーである。思えばあっという間だった。上の秋季大会の後も、大なり小なり大会があったが、目立つ成果はなかった。
実力というよりは、柔道部全体の精神力、やる気、気合いの問題だった。センスがありそうな子はいたが、『本気』になり切れない。なぜかはわからないが、若者特有の殺気に満ちた闘志というか、「目の前の相手を殺してやる」という滾(たぎ)りが見られない。
特に、格上相手に戦う場面がそうだった。勝つとか負けるとかじゃなく、全力でぶつかってみせようという気概を感じない。
そんな中で、T君はじわじわと実力を伸ばしていた。この頃だと、ベンチプレスは140kgを上げるようになっていた。
柔道の動きはボテボテとした感じだったが、それでもサマになってきていた。高校から柔道を始めた関係で、高一の頃が特に弱かったらしい。当時は、毎日のように先輩や同級生から千切っては投げられていたという。
シゴキ以外にも、いろいろあったようである。当時の先輩連中からは相当イジられていたらしい。T君の同級生の柔道部員が、確かこんな内容を回想していたっけ。
「おいチクビ。何を寝とる。はよ畳の上から立て!!」
「今、こいつに筋肉ドライバーしてやったら、首めっちゃ抑えて転がっとるしwwwww」
「いつまで畳で寝とんな。早う起きんとチクビねじ切るどっ!」
「チクビ君さあ。今度の公式大会の時に、絶対シャイニングウィザードしてよ。武藤敬司好きなんやろ」
※本当にやって反則負けになったらしい
「プロレス好きなんだって?これからダブル大外刈りするから付き合ってくれ」
彼が弱かった頃は、部内でもやられたい放題だったようだ。しかしこの頃、高三の手前になると、彼は部内で№1になりつつあった。皆、彼に一目置くようになっていた。当時、部のキャプテンだった100kg超級の子と乱取りをしても吹っ飛ばされない。
それでも基本的には、いじられキャラだった。先輩からも後輩からもいじられていた。しかし、彼はどんな時でもリアクションを欠かさず、スマイルで彼らに応えていた。
そういえばT君は、毎日必ず昼休みに柔道場に来て、一人で弁当を食べていたっけ。一人飯には理由がある。弁当を食べた後に、ヤツは筋トレを始めるのだ。ベンチプレスを始めとして、腹筋に、背筋に、あとは自転車のゴムチューブを柱に括り付けての打ち込み練習、あとはシャドー柔道か。さすがにカマキリは相手にしてないと思うが……。
昼休みに柔道場に行った折、彼を何度も見ている。ベンチプレスが一番好みのようだった。自分自身が成長する実感とでも言えばいいのか、月ごとに最高記録が上がっていくのが面白かったのだろう。
柔道界の公式回答としては、高校生に器具を用いた本格的な筋トレをさせるべきじゃない。この時期(小中~高校生)は、技術に磨きをかける時期だ。ベンチプレスその他で測れる筋力は、試合ではそんなに使わない。柔道に本当に必要なパワーというのは、柔道をすることでしか身に付かない。すなわち組み手の練習とか、立技・寝技の乱取りを通じてしか、そのスポーツに必要な『体力』は身に付かない。
しかし、T君には時間がない。彼にとっての柔道は、おそらく高校で終わりである。時間がなさすぎる。だったら、ひたすら筋トレに励む道があってもいいんじゃないか。当時はそんなことを考えながら、昼休憩中のT君のトレーニング風景を眺めていた。
高三の四月時点で、彼の体重は約78kgだった。一年前はボンレスハムのような体形だったが、スマートになっていた。何より、当時のT君は部内で一番やる気があった。何事にも一生懸命だった。鍛えがいがある。
さて、高三最後の公式戦は六月だった。ここまでには仕上げたい。幸い、四月にあった市内大会では、彼は5位入賞を果たして県大会出場を決めていた。順々決勝では、昨年の秋季大会で当たった強豪校の選手に内股で一本負け(空中一回転半させられた)だったが、そこから2回勝って5位になった。
柔道場での立ち技の乱取りでは、納得いくだけの投げを打てるまでひたすら稽古を続けた。T君に対し、組み手の位置は自由にさせて、技も全部受けてやる。その代わりクオリティは一切妥協しない。俺が納得いくまで休憩すらさせない。
「おい、T。苦しくっても、苦しそうな顔すんな。相手にバレんぞ。ビビってるとな、わかんだよ。相手によ~!!」」
すると、唇を引き締めるようにしてT君は、距離を取ってこちらの様子を伺っている。
ああ、これは。技に入るのを狙ってるな。相手が高校生だとすぐにわかる。
「技に入るのを狙うな。狙わなくていい。(お前の反射神経だと)無理だから!! とにかくたくさん、技をかけろ。連続しろ、連続。ちゃんと技は繋がるから。お前の感性でいいんだよ。考えるな、感覚でやれ」
実際、高校レベルの試合だと技が下手くそでもいい。とにかく数。連続性が大事だ。
ただやはり、T君は運動神経が鈍いようで、へっぽこな大内刈りに小外掛けや、ボテボテとした払い腰しかできなかった。ヤツが俺に珍しく内股をしかけると、「ポフッ」という効果音とともにヤツが弾かれる。そんなレベルだった。素人未満である。
「今のお前の柔道、ほかの選手と乱取りやってるのと違うじゃん。俺用の柔道か~、そのへっぽこなのはよ~」
T君の柔道は、俺と乱取りしてる時はモードが違ってる。まるで、何かの専用の練習でもしてるようだった。
ヤツはまた内股をしかけてくるが、全然効いてない。運動神経とか、技に入る姿勢の問題じゃなくて、組み手が下手くそ(≒柔道着の握る位置がおかしい)なのだ。いいところを掴めてない。せっかく自由に組ませてるのに。
ただ、T君に組み手争いを教えるには、もうタイムオーバーである。「思いっきりイイと感じるところを掴め!」くらいしか教えていない。
だが、連続して技を掛け続ければ可能性が見えてくる。うまく相手が転がれば、彼が得意とする寝技に移行するラインも見えてくる。
「オーイ、てら。何止まってんだよ! 動け、動け。変数作れ。チャンスがないと思ってんの、お前だけだよ」
彼はヘロヘロになって大内刈りを放つのだが、俺に効くはずもなく。間隔を取って、釣り手と引き手(※柔道用語は適当にググってほしい)を上下にブンブン振り回したなら、ジャイアントスイングみたいになって、T君が畳をゴロゴロ転がっていく。築地市場の床面を滑っていくマグロのようだった。
「オーイ、俺お前よりも軽いんやぞ。吹っ飛ばされてどうすんだよ」
T君が立ち上がると、顔が真っ赤になっていた。熱中症の人でもこうはならないだろう。それくらい真っ赤だったよ。
ゆっくりと俺に近づいてくると、釣り手の方でパンチするみたいに組み手を取ろうとしてきた。それを弾いて、逆に奥襟を取り返してやった。すると、ヤツも負けじと奥襟を取ってくる。
「力比べで俺に勝てるか」と思ったが、ヤツも結構強かった。睨み合ってたが、T君の耳まで真っ赤になってるのを見た。
この頃になると、彼の耳は潰れていた。餃子耳というやつだ。努力の証である。大半の柔道選手は餃子耳にならない。本気で寝技を練習した証である。
こんな光景を見ながら、ある漫画のセリフを思い出していた。 技来静也が描いた漫画作品の、確かこの場面だったはず。
……呼吸(いき)を乱すなセスタス 恐怖心を意志の力でねじ伏せろ 怯えは判断(よみ)を狂わせる 恐れは疲労を増幅させ 病魔の如く五体を蝕む 眼を逸らすな! 敵の刃を見極めよ 胆力こそ防御の要だ 殺意と向き合う勇気を持て
拳闘暗黒伝セスタス 2巻より
俺だって、中学生や高校生の頃は、練習が恐ろしいことがあった。寝技の最中に、殴られ、蹴られ、締め落とされ、「殺される」と思ったことが幾度となくある。だが、試練を乗り越えるだけの胆力を身に付けないことには、いつまで経っても二流以下である。
こういう感覚は、今時のZ世代みたいなやつがあるじゃん。ああいう子達には伝わらないんだと思う。「○○が上手になりたい、強くなりたい」って? 本当にそうなりたいなら、命くらい投げうってみせろ。
2024年現在だって、野球でもサッカーでも、バレーでもテニスでもゴルフでも、スケボーでもブレイキンでも、将棋だって囲碁だって、その道で超一流の奴はな、自分の命かけてその道を歩んでんだよ。
立ち技が終わると、次は寝技だ。T君が強敵相手に勝とうと思ったらこれしかない。それくらい、彼の運動神経は絶望的だった。立ち技の才能がない。当時のT君が「生まれつき運動神経が切断されてるんです」と言ったら、信じたかもしれない。
柔道場の端にある、寝技の乱取り開始を示すタイマー(ブザー)が鳴ると、俺はさっそく横四方固めでT君を押さえつけて、右拳の先を太ももに突き立てた。するとT君は痛がって、俺の腹を突いて逃れようとする。
「お前、俺に力で勝てんの、勝てんの? 勝てないでしょ!? 頭使わんと、ほら。前に教えたやろ? 逃げ方を……」
横四方固めで抑え込まれた状態のT君は、腕をなんとか両者の間に差し込んで、背筋で跳ねて逃れようとした……それが正しいやり方だったら、そのまま逃がしてやる。それで、また瞬間的にヤツに覆いかぶさって、抑え込みに持っていくのだ。T君は逃げる。ひたすらそれを繰り返す。
俺の抑え込みから逃れたとしても、T君がこっちに向かってこず、亀の姿勢になろうとすると、すかさず両手で奴の柔道着の胴と太腿を掴んだ。
「よいしょっ」と持ち上げると、奴の体がひと時宙づりになった。そのままクルリとひっくり返して、横四方固めでまた抑え込んだ。今の選択はアウトだ、敵前逃亡である。この寝技練習では、攻撃行動以外は認めない。
寝技になると、T君がたまに覚醒する。俺の動きがわかってたみたいに、例えば、真上から抑え込もうとした俺の膝をピンポイントで蹴っ飛ばして、転がして、そのまま上に乗ってしまう。
俺は両足をヤツの足に絡めてガードするのだが、巧みに外して、抑え込みに持っていく――縦四方固めが完成した。
こんな具合で、いい動きをした時には認めてやる。褒めるんじゃない、認めるのだ。そいつのパワー、気概、実力を。褒めるってのは、親が子どもにやるものだ。コーチと選手って対等な関係だろ。
T君は膂力(りょりょく。腕の力)があるうえに、寝技のセンスがあった。寝技というのは、ガッチリ決まると体力差に関係なく勝利できる。当時まだ20代半ばだった俺の体力はT君をはるかに上回っていたが、それでも抑え込みから脱出できないことがあった。
ただ、悲しいかな。彼にあるのは寝技だけだった。立ち技は本当にダメだった。まったく才能がなかった。
せっかくパワーがあるのに、釣り手で相手の奥襟や背中を掴むことは皆無であり、いつも前襟だった。運動神経がないから、せっかく神業的なタイミングで大内刈りや払い腰に入ることができても、相手を投げるに至らない。遅すぎるのだ。
ただ、彼はよくやっていた。性格やキャラクターはいじられ系芸人のそれだったけど、リアクションはよかったし、部員みんなから好かれる存在だった。そういう雰囲気をもった人間だった。
時期は半年ほど戻る。
いつぞやの試合でT君を内股で吹っ飛ばした名門校の選手と、ラーメン屋で同席したことがある。T君と俺と、あの選手N君が一緒になったということは、おそらく試合の帰りだったのだろう。
あれは、福山駅の駅舎の外に入っているラーメン屋だった。名前は忘れた……なんとか吉だったはず。そこで、T君にラーメンをおごってやろうとして、カウンター席がいっぱいで4人掛けのテーブル席に通された。
そしたら、おかみさんが来て、「相席でもいいですか?」と言うのだ。それで待っていたら、N君ともう1人の柔道高校生が向かいのテーブルに付いた。2on2の相席Styleである。
そのN君だが、痩せ気味で精悍な顔つきをしていた。体形は相当細身で、背丈は185くらいか。T君と同じく81kg級の選手である。もう1人は、100kg超級とおぼしき超アンコ体系の子だった。棟田選手以上の丸々とした感じだ。
2人とも、耳は完全に潰れていた。どちらも社会人に近しい貫禄があった。眼光が鋭い。スポーツ特待生で高校入るような奴って、雰囲気からして違ってる。
俺の耳もやはり潰れている、大学卒業して釈迦人デビューするにあたり、手術で直すという選択肢もあったが、餃子耳の方がハクがつくと考えていた。T君の耳は、この時潰れかけだった。
会話、どんなだったかな。そうだ、N君がT君に話しかけてきたんだ。
それでT君も、ラーメンを待ちつつ水を飲んで彼と話をしてた。
思い出せる範囲だと、こんな会話だった。覚えてない箇所は端折っている。
「高校入ってやっとるよ」
「そうなんだ。やっぱりこの辺の学校は、そういう子が多いのかな」
「えー、すごいやん」
「親に無理やり。両親とも柔道してて」
「それで、ここまで強くなれたんや。すごいね」
「内股めっちゃすごいやん。カミソリみたい。サクッと相手が飛んでくよね。マジですごい」
「伝家の宝刀な。あれだけは自信ある。けど、強いヤツは世の中にいっぱいいるし。俺もまだまだよ」
「自分、N君には一生敵わないな。多分。こないだの試合、内股で空中5回転しとらんかった?」
「(テーブルを叩きながら)してた、してた!! なあ~」
※隣の高校生が関心なさそうに頷いていた
「もっと勢いが強かったら、会場の窓ガラスを突き破って護国神社に落ちとったよ」
このあたりで、俺のイラつきを察したのか、N君の隣の高校生が彼を小突いた。
「T君さ。今度オレと試合するのいつになるかな」
「冬に県に繋がる個人戦がなかった?」
「それ、無差別級だけだろ。あの大会は、ベスト8までは全部うちの高校が占めるし、そこまで登ってこられる? それにベスト8が決まったら、例年それで市大会は終わり。解散。1位から8位の順位はうちの監督が決める」
「えー、そういう仕組みなん?」
ここで、隣の高校生がN君の肩を叩いた。
「そう、そういう仕組みな。次の試合は春しかない。あと1回だけのチャンス」
「うん、当たるの楽しみにしてる」
「そんなんされたら、自分死ぬし!! ボンレスハムだし、チャーシューだし、畳をバウンドしちゃうよ」
「楽しみにしてる」
ここらへんの場面で注文したラーメンがきた。それで、あとは皆黙々とラーメンとか餃子を食べて、解散した。
あの店は、とんこつラーメンのアレンジ系が美味かった。当時はよく利用してた。もう軽く十年以上は行ってない。残りの人生で行くこともないのかもしれない。
※書いてるうちに思い出した。福山駅前の八十吉ラーメンである。
ただ、あの頃のT君とは、できれば一緒に行きたくないな。財布的な意味で。
当時、たまに2人きりでご飯をおごってやることがあったけど、あいつ、ラーメン替え玉4杯+チャーハン+から揚げ+餃子5人前とか食べ切っててビビったわ……食欲が凄まじい。ラーメンが4杯で終わりなのは、その頃にはスープが無くなるからだ。
俺はその半分しか食えなかった。食欲においては、完全に俺の負けである。事実だ。認めるしかない。
そんなこんなで、最後の公式戦までの日々は風のように過ぎていった。
この匿名ダイアリーを書くにあたり、約二十年前の記憶を思い返している。正確じゃない部分はあろうけど、そこまで間違った内容でもないはず。一部ではあるが、当時の記録媒体を基にして書いてることもある。
あの日々は、けっこう幸せだった。柔道部の成績は悪かったけど、気合いが入った部員も出てきていた。そういえば、あの時そういう行為をした女子マネージャー(妹)も、あれから特にトラブルはなかった。これまでどおりの、柔道部顧問とマネージャーの関係だった。いや……ごく稀にプライベートで会うことがあったか。
何度か変なことがあった。双子の姉の方と柔道場の入口で談笑してると、妹の方がやってきて一緒に話に入ったのだ。不自然なタイミングで。無理やりに近い。それは、姉じゃないもう一人のマネージャーと話してる時もそうだった。
ちなみに姉の方は、マネ子に比べると若干明るい性格だった。俺ともT君ともほかの部員とも仲良くやってた。天性のコミュニケーション能力があるタイプだった。底抜けに明るいわけじゃないけど、不思議と安心感のある、温かみのあるキャラクターだった。
マネ子の態度は、上記を除いては普通だった。何か月かに一度は、俺も含めた部員みんなにお菓子を作ってくれたし、バレンタインデーには手作りチョコレートくれたし、大会前には率先して雑用を命じてほしいと志願したし、俺の誕生日にネクタイピンをくれたこともある。
私学だし、まあいいかと思ってもらってた。あの子の財布は大丈夫かなと思ったが、月のお小遣いが一万円と聞いて納得した。友達と遊びに行く時などは、母親から別途お金がもらえるらしい。医者の娘は違うな……と、月四千円の小遣いで寮暮らしをしていた高校時代に想いを馳せたっけ。
別に、妹の方とまたセックスしたいとは思わなかった。「したい」という欲求はあったけど、でも教師としての責任感が勝ったのだ。 訂正;間違った記憶でした…
ただ、俺という人間は、やはり異常だったと思う。ちょっと性欲が強いのは間違いない。そちらの方には正直だった。あとは~~子どもの頃に柔道や陸上をしてたのだが、絶対にうまくなりたい! という情念が強くなりすぎて、体を痛めて指導者に怒られることがあった。夢や目標に対しては猪突猛進だった。
性欲、性欲……と、今思い返してみて、人としてよくなかったと思えるものを最低3つは思い出すことができた。ひとつだけ、あれはまだ5才か6才の時か。両親が忙しい家庭だったので、日常の世話は祖母が見てくれていた。いつも、祖母と実妹と一緒に寝床についていた。
いつからだろうか。動機は定かではないが、まあ原初の感情とでも言おうか。夜に寝床にいる時、暗闇の中で祖母と一緒に寝ている時に、祖母の衣服を脱がせていた。「ねえ、ばあちゃん。服、服脱いで」と無邪気に笑って、祖母の服を脱がせていた。それで裸にする。
そして、お互いに裸になって、抱き合って布団の中で眠るのだ。抱き合うだけじゃなくて、ほかにも明らかに色々してたけど、やはり幼子とはいえ異常な行動だったと思う。
妹に対してもそうだった。妹に対しては、ほぼ毎日のように服を脱がせていた。妹は「いいよ」と言ったこともあったし、「いやだ」と言うこともあったけど、お構いなしに服を脱がせた。祖母が近くにいても関係なかった。とにかく脱がせて、納得いくまで裸で抱き合っていた。原初の感情だった。
愚かなことだった。反省している。でも、あの時の感情は本物だった。あの時、まだ小学生ですらなかったけど、俺は「女を抱きたい」と確かにそう思っていた。リアルだった。
次です
https://togetter.com/li/2443173
とあるコレクターが「ゲームやマンガのコレクションを完全無料寄贈してほしい」と大学と政府の人に言われたが断った話
当のコレクターがこんなことを言っている。
「eスポーツみたいに、利権だらけで、税金をじゃぶじゃぶ投入して、中抜きしまくっている人や団体がいる世界。 すげえ気持ち悪いです」
ものすごく偏った日本観が構築されていて、こいつが心配になってきた。
eスポーツ業界は主にゲーム会社とeスポーツチームで成り立ってる。
eスポーツチームはゲーム会社が稼いだ金で何とかなってる部分もあるので、投資家からは「自チームでグッズ売るなりして経済的に自立しろ」とケツを叩かれてる状況だ。
悲しい話だが、利権争いできるほどの美味い話はそう簡単に転がってない。
それでも利権どうたら言ってる連中は、JeSU(日本eスポーツ連合)を過大評価してるだけ。
JeSUがプロライセンスを発行する権限を持っているから、さもプロゲーマーを支配下に置いているイメージなのかもしれない。
実際はプロライセンスが無くてもプロ活動は可能だし、JeSUが関与しない海外タイトルにおいてはどうでもいい話。
eスポーツが著作権ありきの競技である以上、業界をリードするのは著作権を持つゲーム会社だ。
JeSUにそこまでの影響力はない。ありもしない利権団体が牛耳ってるわけじゃない。
中抜きって、誰が何をどうして手数料を得てるんだ? 逆に教えてくれ。
確かに経済産業省はeスポーツを支援しているが、それは法的な整備に重きを置いているのであって、
いわゆる公金チューチュー的な搾取構造を作っているわけじゃない。
https://www.negitaku.org/news/n-23935
経済産業省が「eスポーツ」を本格支援、2025年に3000億円の経済効果創出を目指す
子供向けの作品がわかりやすい悪役を設けるように、幼稚な人間はシンプルな白と黒に分けて思考するんだろう。
情念が強いコレクターってのは思い込みが激しいから、金儲けを企む大人が全て悪人に見えてしまう。
AIに要約されると、感情というか、情念のようなものがごそっと抜け落ちて、熱が感じられなくなるな。
さらに100文字にしてくれと言うと「東大生の経済的背景は多様で、一部は裕福な家庭から来ているが、全員がそうとは限らない。特に地方出身者には大きな経済的課題があることを考慮すべきだ。」ってしてきたんだけど、これじゃものすごい一般論で、一瞬で流されて終わりだもんなあ。
国立大の学費の件は、Bさんのような学生には助成金を出すから問題ないのだ、と言われがち。だけど、助成金って恣意的に選べるから問題が多いんだよねえ。そこら辺もそう言った壁にぶつかったことのない人たちの発想だなと思いました。昔は大学運営側にわかる人たちがいたんだけど、今はそこすら固定化された階級の人々によって運営されているから、見えてないんだと思う。
最近の短歌に関する増田の記事とそれへの反応で気がついたのは、多くの人は歌人が共有する短歌に関する暗黙の考え方を知らないということだ。
短歌詠みの間には短歌に関する決まりごとや規範が暗黙のうちに共有されており、それを念頭に置いて歌を詠んだり、鑑賞したりする。私はこれを「短歌のテーゼ」と勝手に呼んでいる。
あらかじめ言っておくと、このテーゼは必ず守らなくてはならないルールではない。むしろ現代短歌はどうやってテーゼに沿わずして魅力のある短歌を生み出すかを試行錯誤している節がある。
だが、どんな流派であっても優れた歌人はこのテーゼを意識し、従うか対抗するかのスタンスを明確にして歌を詠んでいる。そして、そのスタンスがある程度共通している歌人同士が同じ結社の中で作歌や鑑賞をすることで歌風を確立させて行くのである。
であるから、反例となる名歌はいくらでも挙げられるであろうが、反例があることはテーゼが存在しないことを意味しない。
以下、私はこれが短歌のテーゼだと思うものを挙げてみる。これらは私が歌会での経験や短歌関連の書物を通じて知ったことをベースにした持論であり、歌壇において認められた学説などではないということは断っておく。これらが短歌のテーゼを網羅したものとも考えていない。もしこれも短歌のテーゼなのではないかと思うものがあれば、教えてほしい。
また、この記事を書くにあたって各テーゼに従っている歌と、対抗する歌(=アンチ・テーゼ)を例示しようとしたが的確な歌を全部に配置できないので諦めた。こうした歌の事例もぜひ提案してもらえると嬉しい。(この記事が果たして読まれるのか?という疑念はあるのだが……)
ちなみにこれから挙げるテーゼに対して確信犯的にすべて逸脱しているのが穂村弘である。穂村弘は歌人の中でも一般的に知名度が高く、フォロワーも多いのだが、実のところ短歌のテーゼ的には極めて特異な位置付けにある存在だ。ただし、それは戦後の短歌運動の流れを意識的に継承した、れっきとした文学的試みである。
短歌は本来は歌であり、5・7・5・7・7の韻律を守り、音読したときに美しい調べとなるよう詠むことを求める。句割りや句またがりを多用したり、日本語として音読が困難な言葉を入れてはならない。
歌会などで短歌の詠み合いなどをすると、時々「この歌は"作ってる"ね」と評されることがある。短歌の描写にリアリティが無かったり、やけにドラマティックであるなど、現実には起こったことでない内容であると判断された時にこう言われる。このテーゼにおいては、どれだけ平凡ではあっても日常に実際に起こったことの方がドラマティックな虚構よりも価値があるのである。
"作る"という先ほどの言葉の中には、作為的に言葉を操り、上手く作ろうとする気持ちを戒めるニュアンスも含まれている。日々優れた短歌を鑑賞し、心のうちに誦じて日常を過ごす中で、するっと生まれてくるものを精製するのが本来の短歌なのである。こうした体験なしに、ただ物珍しい言葉をいたずらに組み合わせて面白がられる歌を作ろうとする姿勢は望ましくない。
短歌は日常生活に即した芸術である。その生活感覚は、身体から得られるものであって、生活に根ざしていない社会政治的な話題や、テレビで見たことなど身体を伴わない経験を取り上げるのは望ましくない。
短歌は、風景の描写と心情の表現がセットとなるように構成すべきである。風景はただの現実ではなく、それに対峙する詠み手の心情を象徴するものとして描写されなければならない。
ただものごとを説明するだけの短歌はただごとうたであり、本来の短歌ではない。短歌には詠み手の情念が表現されなければならない。
短歌は日本語を支える伝統文化である。王朝時代以来の和歌の歴史を学び、古典の優れた歌に触れながら、そのような伝統に連なることを意識して歌を詠むべきである。和歌や過去の名歌を鑑賞し、日本文化を象徴するような風流な事物を題材として歌を詠め。
追記:
ちなみに私自身は1・4・5・6に賛同し、2・3はややや否定的であり、7は積極的に否定するスタンスである。7とどう決別するかは、戦後短歌の大きな課題でもあったという認識である。
俳句が"情念"や"私"を盛る器たり得るか? というのは、増田の言う通りあるあるネタだと思うが、正直情念マシマシの俳人もいるので、情念一本槍で説明するのはちょっと難しいんじゃないかと思う。というわけで、自分の好きな情念系の俳人、三橋鷹女の句を紹介したい。
あまりにも有名なこの句。なんというか、余りにもぎょっとする一句だ。作者は秋の夕方に燃え上がるような紅葉の樹をただ見ているだけだ。しかし、その樹の美しさが作者の心中と出会って化学反応が起きる。「この美しい秋の夕暮れの紅の陽の中で、こんな燃え上がるように輝く紅葉の樹に登ったら、私の中の何かが身を焦がし、たちまち目はつり上がり口元は避け頭には角が生え私は鬼になってしまうのではないかしら……」と考えるという、そんな俳句だ。想像できるだろうか?
たとえば妖艶な女性が秋の夕暮れ、紅葉を見ながらほんのり微笑んでるわけだ。(できれば舞台は京都とかその辺の古都であってもらいたい。)やあ、紅葉がきれいですねえ、なんてうかつに声をかけると彼女はにっこり笑って、「そうですね、きれい……あんまりきれいで…」と何か言いたげに言葉を濁す。ここでついうっかり、え、紅葉好きなんですか、なんて下心を出して聞いたが最後、「いえね、あんまり燃え上がるようにきれいだから、この樹に登ったら全身火に包まれてしまいそう、そうして大声で叫ぶ私は、まるで鬼になったように見えるかしらなんて思うと面白くて……」などとやべー妄想を全開でぶちかまされるからだ。考えてみてほしい、鬼になるかどうか、とか以前に、美しい紅葉を見て「その樹を登ったら…」なんて想像をする時点で(まともな大人でそんな奴、いるか?)もうこの人尋常じゃないヤバい系の人なのだ。紅葉を見たら、駆け上る想像をせずにいられないくらいの、この人の身を焦がす情念っていったい何だろう? 恋か。恋だとしたら、どんな恋なのか想像するだにオソロしい。一方でこの「燃え上がる樹に包まれて鬼女になる」というその妄想自体は、余りにも凄絶で美しくてカッコいい。自然・風景と一体化しながらも、この人の情念はまったく矮小化も定型化も減量もされず、読む人の心を打つ。
これにビビっと感じてくれたかもしれない人のために、もう一句だけ鷹女の名句を紹介しておく。
ただそれだけ。まあ、露ははかない人の命の比喩でとか、白露はことに露が美しい秋の季語だとか、そこから作者の人生も秋にさしかかっている立場で詠んだ句であろうとか、まあそういう教科書的な講釈はいい。いいと言いながら一応一通り言ったけど、それより、スッとこの句を眺めてほしい。そこに立つ、一人の女性の姿が鮮やかに立ち上ってこないだろうか。
和服の着付けというのはなかなかの苦労だが、帯を締めるというのはその仕上げの工程に当たる。この句で「帯を締める」というのは、普段から服の手入れもぬかりなくし、朝からきちんと身支度をし、化粧もふさわしくして、そして最後にキュッと帯をしめるまでの一連の工程の総称だと考えられる。これまでも、これからも、そしていつか死んでゆく日にも、私はこうして帯を締めて(そうして死んでゆく)、という( )内の聞こえない言葉が、「帯締めて」という言い差しによってかえって響いてくる。女性としての自身、当時の社会との軋轢、様々なものを一身に引き受けながらすっくと立つ一人の人間としての強い思いが伝わってくるようだ。
「死ぬにはいい日だ」なんて言葉もあるけど、常在戦場の心構えというのはそういう何気ない言い回しの中にあるものなのかもしれないと思う。それになぞられるというわけではないのだけれど、この「帯締める」行為も何だか戦いに備えて自分自身を隙無く装っているような、そんな雰囲気が漂っている。こういう「私はオンナよ」みたいな、固定化されたジェンダーの内面化って昨今あまり流行らないんだけど─まあ軽やかに変化し続ける自己というのもそれはそれでもちろんよいのだけれど─人が成熟の深みとでも言うべきものに到達するには、ここまで強く深く「私は○○○だ」という意識を自身に刻み込み、時を重ねる必要があるのだろう。そんなこの人の「覚悟」みたいなものを、「死」の一字がぐっと引き締める。誰にも文句は言わせませんよ(ニッコリ)、という体で、これまた見事な情念の世界だと思う。
どうだろう、こういった情念・個性の強さ深さというのは、なかなか短歌のそれに劣ったものではないのではないだろうか。
そうしてみると、結局増田の言う”情念”も、それぞれの作家性に拠る部分がかなりあるということも理解していただけるのではないだろうか。鷹女の句は、俳句の王道を決して踏み外してはいないけれど、輝くばかりの個性と情念に満ちあふれている。もちろん、増田の言う、短歌と俳句の出発点となる発想・捉え方の違い(ほとんど真逆)、それに基づく「短歌やりすぎると俳句作れない」という主張もそれなりにもっともだと思う。ただ、だから俳句には情念が盛れないと言われると、いやいやそんなことはないんだけどなあ……と思ってしまうんだよね。
anond:20240506174540 に追記しようとしたら長すぎたので記事を改める。
私の短歌・俳句論について、異論は認めるのだが、この一句は反例とは思えない。むしろ私の認識を強化することにしかなっていない。
この句は一見情念のこもった句に見えるが、この句における一茶はあくまでも風景の一要素としてやせ蛙と並列されている。つまりは蛙ごときに向かい合って必死になっている俳人の描写である。一茶の句におかしみがあるのは、滑稽な自分を冷静に客観視できるからこそで、情念を込めてやろうという精神からはかけ離れている。
それに対して、例えば同じ蛙を描写した以下の斎藤茂吉の歌はどうだろう。
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
この歌は一茶の句と比べると写実的で情念の無い描写に見える。しかし、用心深く読んでみると「かはづ」(蛙)の鳴き声が「天に聞ゆる」のは作者が添い寝をしていて地面に近いところにいて、天を眺めながら聞いているからそのように感じるのであり、実際に天から蛙の鳴き声が降ってきているわけではない。実はこの歌は非常に主観的で情念によって風景を巧妙に歪めていることが分かる。茂吉にとっては「かはづ」も、それどころか「死に近き母」すらも己の寂しさや怖れの大きな比喩でしかないのである。一茶のような引いた視点など待とうとする気もない。短歌が情念の産物と言うのは、こういうことを言う。
私の論に反論するのだったら、例えば短歌は情念とはいうが、奥村晃作のただごと歌、たとえば
などはどこに情念などあるのか?と言った指摘ぐらいは欲しいところだ。
ついでだから私が、これこそ短歌は情念だと思う歌を掲げておく。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする 式子内親王
あーそれで俺短歌は好きだけど俳句にはあんまり興味わかないのかな。風景とかどーでもいい。人間の情念を味わいたい。マンガ読んでも「そんな背景とかに力入れるくらいならもっと恋愛とか人間のドロドロに力注いでよ」って思うもの(まあ背景はアシスタントが描いてるかもしれんが)。
そもそも近代俳句の祖の正岡子規は俳句も短歌も両方詠みまくっていた
ところが虚子の代で「客観写生」とかいうトンデモスローガンに汚染されて、つまらん風景ばかり詠むようになった
芭蕉は「見えたる光いまだに心に消へざるうちに言ひとむべし」といって心の中を重視していたし、一茶の俳諧なんか情念的といってもいい
https://anond.hatelabo.jp/20240506061423
短歌の結社に入っていて、歌会にもよく参加していたことがあるが、元増田のような話は何度も聞いたことがある。もはや歌人あるあるネタだし、私も深く共感する。ただ、字数という点に増田はこだわっているようだが、この話題はそのようなレベルの話ではない。
多くの人は短歌と俳句が同じ短詩型文学であるから、短歌も詠めれば俳句だって作れるだろうと思いがちだが、それは大いなる誤解だ。むしろ短歌を詠めば詠むほど、俳句から遠ざかることになる。
なぜなら、両者は表現のアプローチが正反対だからだ。短歌は風景と言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである。
短歌を詠むということは、言葉に情念を圧縮するということだ。穂村弘は短歌を爆弾に喩えたが、自分の情念を読み手の心奥深くに埋め込もうとするために、言葉の選定や配列に独自性をもたせていく。風景すらも歌人にとっては情念の道具に過ぎない。日本語に己の爪痕を残してやろう。世界は我が情念を表すために存在するとでも言わんばかりの自意識過剰さでもって詠むのが短歌というものだ。己の全情念を31字にすべて押し込めようとするエゴイズムこそ短歌というものの醍醐味である。誤解を恐れずに言えば優れた歌人とは己の日常を糧にした自意識の純粋培養物なのである。
それに対して俳句を作るということは、言葉で風景をカットする行為だ。17字というフレームの中に厳選した風景の要素を置いていく。私は風景から要素を抽出するための機械でしかない。俳句にとって情念はノイズでしかないのである。
このような対比で見ると、短歌を詠む人が17字は気持ちを込めるのに少なすぎる、となぜ思いがちなのかが分かるだろう。字数云々ではなく、根本的にその容器は、あなたの情念をしまうところではないのです。高級フランス料理の小さなお皿にニンニクましましラーメンを入れようとする無理な行為なんですよ。俳句を作るなら、あなたが後生大事に抱えているその情念は捨てましょう。わかりましたか?
そうは言っても短歌人はやめられない。短歌を苦しみ抜いて詠んだきたのだから、この情念は捨てられない。世界中から笑われようとも俺はこの17文字に俺の心情を詰め込んでみせる。31文字でできて17文字でできないことはないっ。ここに俺の私の僕のアイデンティティがかかっている。
という具合に短歌は人に冷静さを失わせ、言葉を発するときに自意識を手放すことができなくさせる。そしてどんどん俳句の精神から遠ざかっていくのである。だから短歌を詠めば詠むほど、俳句は作れなくなる。
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一茶の句は反例にならない。
https://anond.hatelabo.jp/20240506233546
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https://anond.hatelabo.jp/20240508195326
俳句に情念は込められないという主張について、上の増田より鮮やかな反例を挙げていただいた。俳句への理解を深める契機をいただけたことに感謝する。