はてなキーワード: 固執とは
鳥の王様選び(あらすじ知らん人は文末解説読んで)というグリ厶童話を思い出してしまう。
なぜ「誰それを応援している」という借り物の御旗で調子に乗るのだろうか。
お前が虎の威を借りているものの素晴らしさとお前の間にある繋がりなんて細すぎるだろ。
無数にいるファンの一人でしかなく、パトロンやスポンサーと呼べるのかも怪しいくせに。
なんだろう。それで「俺こそがこのキャラを愛してる」とか言うの辞めてもらえますか?
お前が好きなのはお前だろ結局。
そのために利用してるだけだろ。
お前が見出した原石でもなければ、お前が磨いた宝石でもないものを、「この素晴らしさが分かるなんて自分は素晴らしい」とかよく言えたものだな、と。
好きだという権利はあるし、それを共有するのはいいことだと思う。
何かが好きというのを自分の事実として受け入れるのは大切だよ。
自分の趣向を知るのは大切だ。
でもそれで自分が何者であるのかを認識するのはやはり良くないと思うな。
子供の頃の楽しかった思い出にずっと固執してるとか、なんとなくこういう色合いが好きとか、そういったものの積み重ねの果てに推しが生まれるわけだ。
それを「これが好き」で止めるなよ。
たとえば「鉄道」が好きなのをちゃんと「自分の生活に根ざしたものでないと興味が沸かない。人間や動物は怖いから無生物が好き。揺りかごのような振動に安心する。個人が所有するのが難しい物の方が、好きなのに持っていないという矛盾を受け入れやすい」みたいな分析を深めていって、そこに自分のアイデンティティを持てよ。
雑なんだよ。
「これが好きです!全部好きです!」なんてのはさ、相手も自分も分析する気がなく理想を一方的に押し付けてるだけだろ。
そういった態度がやがて「俺の理想通りにならないはずがないんだが?」という思い込みを生んでストーカーや窃盗に繋がるんだ。
自分がなにをどう好きになるのか、どういったものが好きなのかでキャラ付けして、その結果として推しを持て。
自分の価値や自己認識を無から生み出すための手段として推しを利用するな。
それはただの痛い人だ。
鳥がある日王様を選ぶことにした。
カラスは様々な鳥から羽をパクって自分の体に貼り付けまくり、コンプリートフェザーフォームでランウェイを歩いた。
実況からは「素の自分でオタクは黒に染まれしてればワンチャン」
https://anond.hatelabo.jp/20190823163251
ずいぶん昔のことのような、
ついこないだのことのような。
搬送先が偶然、元彼の職場だった。診療科が違うから、会うことはないかなと思ったけど、何となく気になって担当の看護師さんに聞いてみたの。「●●科に元彼さんって方いらっしゃいませんか?」と。
そしたら、「去年までいましたよ。ご結婚されて、退職されました」
わたしはあれからそれなりに元彼のこと吹っ切れて、趣味や仕事を頑張っていた。
新しい出会いがあって、恋もした。
ブコメのみんなが言った通り、執着を振り切って良かったと思ってた。
元彼のことを、切なく思い出すことは減っていた。
ただ、大切な思い出として思い返すことがあるだけだった。
もう戻りたいとは思わない。
なのに、彼の気取らない笑顔や、素敵な歌声や、ぶっきらぼうだけど人情家な心持ち、凛々しい眉、さわやかな目元、薄い唇、夜の情熱、いろんなことがぶわって思い出されて、その日の夜は何だか眠れなかった。
誰とも結婚する気はないって、何だったの。
良くないと思いつつ、ラインした。
「今●●病院に入院してるの。それで聞いたんだけど、結婚したんだって?」
そしたら彼はあっけらかんと「うん」
彼は続けた。
「あのままお前と続いていたら、お前と結婚したと思う」
わたしの今の恋人もまた、昔の元彼と同じく、結婚する気がない人。
別れなきゃいけないのかなぁって思いもありつつ、先月30になったわたしには、次の出会いを探す体力もない。
なんだかんだこの人の隣は居心地がいいから、一生このまま、一緒にいられたらいいか、とも思う。
それでも、元彼と戻りたくはないけど、元彼と別れなかったら、という未来を想像するのをやめられない。
やるせない。
わたし本当に愚かだ。
学校の体育祭や球技大会、日本代表戦といった、「自分がいるところを応援しよう」的なムードにどうしても嫌悪感を感じてしまう。
理由はわからないが、否が応でもこの状況を見せられ、そういうことを強制されるような雰囲気になるのが受け入れられない。
ここでは、そのエピソードを紹介する。
小学校は赤白に、中学以降は多数の色に分かれて多くの競技より得点を競う体育祭。
士気を鼓舞すべく、組ごとに黒板に絵を描いたり有名歌謡曲の替え歌を作ったり掛け声を挙げたりで絶対優勝しようと騒ぐ。
私は、小学校のころから、なぜそこまでして優勝を目指したいのか、なぜ別に優勝などどうでもいいと考えている人まで巻き込もうとするのか理解ができなかった。
ここでは体育祭の話のみをするが、球技大会などその他チームを組んで競い合う行事すべてにいえることである。
時は流れ、何の因果か、私は教育実習生として、体育祭前の学校にいた。
生徒だけでなく教師も絶対優勝しよう的なことを言っていたが、ますます理解できなかった。
あまりに嫌悪感が激しいので、終業前の学活でこんなことを言った気がする。
「負けろ」だとか「優勝は諦めろ」みたいなことは言わない。
だが、優勝に固執したり、その結果他のクラスとの関係が悪くなったり見下してはいけない。
もしかしたら優勝できない、場合によっては最下位のこともあるだろうが、もしそうなったとしても「これでよかったんだ」と思えるようになってほしい。
自分より上位のクラスに対しても、下位のクラスに対しても、惜しみない拍手を送ってほしい。
他のクラスも「敵チーム」ではなく、同じ仲間だ。
その相手に対して負けろだとか自分のクラスが勝つだとか思わず、お互い応援しあって、楽しんで体育祭を終えてほしい。
それと、体育祭へのモチベーションは生徒によってさまざまだが、くれぐれも優勝しようというムードを強制するようなことはしないでほしい。
幸い内心は指導教員にはバレず、怒られたり大学にクレームを付けられたりすることはなかったが。
どこもそうなのかもしれないが、やはり生徒も教師も似たようなことを言っていた。
バカバカしいので授業の際に「あんまり無理すんなよ。優勝なんかより心身の健康が大事だから」的なことを繰り返して言った。
同じチームの教師からは「チームが優勝できるよう応援してください」と言われたが、ハイハイとだけ言って、あとは見守るだけに徹した。
2年に一度(夏季・冬季)のオリンピックに加え、ワールドカップやWBCその他において、日本代表というチームがあって世界各国の代表チームと試合を行う。
これはスポーツだけでなく、ノーベル賞など、日本人が参加するあらゆる競技や賞で起こる話である。
テレビ、新聞、インターネット…あらゆるメディアでこのことが取り上げられる。外出してもビルや電車の画面に映ってくる。
否が応でも見せられるのだ。
しかも、どのメディアも最初から最後まで口をそろえて日本側を応援する。一見中立そうに見えても最終的には日本側の勝利に言及する構成となる。
中には日本が負けそうになると中継を別の競技に変えたり、負けると(ノーベル賞の場合は日本人候補者が選外になると)軽く扱って次の話題にすることもある。
つまり日本に肩入れしない取り上げ方をしているところ、あるいは相手チームを応援しているようなメディアはないものか。
(日本の負けを望んだり、日本が負けて喜ぶのはまあいいとして、個人的にはそれで相手を全速力で煽るシバターみたいなのはいただけないが)
なぜ、そこにいるというだけで、同じところのチームを応援しないといけないのか、理解に苦しむ。
あくまでただ偶然彼らと同じところにいただけであり、彼らやチームとは何のつながりもない。それなのに、なぜ応援しなければいけないのか。
(別に愛着を持ってここにいるわけではないので、勤務条件や文化などでもっといいところが見つかればさっさと移住したいとも思っている)
自分がいるところ以外を応援してはいけないのか。一歩離れたところから傍観するだけではいけないのか。
なんというか、自分がいるところ(特に日本)だけを応援するムードが気持ち悪くて仕方ない。
どうすればいいんだろう。
つい最近TwitterでボカロP的な人が「曲を聴いてもらいたいだけなのにイラストやら動画やらでお金がかかって大変だよ😭」というようなツイートをしていた.
それを見て次の2つのことを思った
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画にお金をかけなくても(ある程度は)聴いてもらえるのでは?
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは?
そして最後に『3. MVと音楽は別物の創作物である』という個人的な主張について書く.
1. 良い曲を投稿していればイラストや動画に金をかけなくても(ある程度)聴いてもらえるのでは? について
まず前提として,各種の動画投稿サイト上で"曲自体に魅力はないがMVが良いから高い評価を得ている音楽"ってあるだろうか?
全く存在しないことはないだろうが,少なくとも私は知らない.
一方で,"MV自体が高い評価を得ていなくても曲は高い評価を得ている音楽"なら比較的たくさんあると思う.
なんならMVと言いながらもイラストや画像を載せているだけだったり,曲に合わせて音の波形のようなものがうねうね動くだけの動画でも良い曲というのはごまんとある.
こういった事情を考慮すると,自分が作った曲をたくさんの人に聴いてもらおうと思った時にMVが優れている必要はなく,ただ良い曲を作ることだけに注力した方がよくない?と言いたくなる.
もちろん,優れた曲を作った上で優れたMVが用意できれば,話題性が出てより多くの人に聴いてもらえるといったことはあるだろうが,それはMVが特段優れたものではなくても(もしくは,そもそもMVなんかなくても),ある程度の人に聴いてもらえるようなクオリティの曲を作れるようになってからでも遅くはないように思う.
むしろ,明らかに素人感丸出しの曲なのに,お金の力を借りてMVだけクオリティの高いものを用意しても,動画の視聴者はなんか違うな...となってしまうだけではないだろうか.
MVが曲の評価を高めるという側面はあれど,それはあくまでも曲そのものが魅力的である場合に限られると思う.
2. ツイ主の本心としては"曲を聴いてもらいたい"というより"自分の曲を使ったMVがバズってほしい"なのでは? について
最近のボカロ音楽は,音楽と動画のセットで話題になるという傾向が顕著である,というよりむしろMVがないけど話題になるような曲の方が少数派なのではないだろうか.
それゆえ,特に最近のボカロリスナーであればあるほど曲にはMVが付随しているのが当たり前であるという認識が一般的になっているように思われる.
そしてそれに伴って,ボカロ曲の作り手たるボカロPの創作欲求の源泉として,"作った曲を聴いてもらいたい"よりも"作った曲のMVを観てほしい"というものの占める割合が増えてきているのではないだろうか.
もちろん,純粋にボカロで曲を作ってそれを聴いてもらえることが第一であり,別にMVなんか必要ないという作り手も大勢いるだろうことは承知している.
しかし,仮にツイ主がそういった考えであれば,そもそもお金を払ってまでMV制作を依頼することにそこまで固執することはなかったのではないだろうか?
まず,前提として私は音楽をよく聴くが,MVを観ることはあまりない.
その理由を端的に言うと,私は音楽を聴きたいのであり,動画を観たいわけではないからというのに尽きる.
個人的な話だが,つい先日私の好きなバンドが数年ぶりのアルバムを発売するにあたり,YouTubeでそのアルバム内の1曲についてMVを公開した.
公開時にはアルバムはまだ発売されておらず,私は早くその曲を聴いてみたかったのでMVの動画を再生した.だが,あくまでMVを観てはいない.
その時はPCのブラウザでYouTubeを開いていたのだが,動画の再生ボタンを押した瞬間にブラウザから別のウィンドウに切り替えることで,あくまでMVは観ずに音楽を聴いただけであった.
こんなことをしていると,なぜそこまでしてMVを毛嫌いしているのかと言われそうだが,私はMVが嫌いなわけではない.
優れたMVを観て良いなぁと思うことも感動することもある.ただ,それは純粋に音楽を聴いて良いなぁと思ったり感動したりするのとは,情動の発生要因に違いがある.
具体的に言うと,MVを観ながら聴いた音楽には,その音楽についての印象に視覚情報が関わってくる.一方で,MVがなければ,音楽を聴いた時に及ぼすのは純粋にその音楽を聴くことで得られる聴覚情報のみである.(厳密に言えば音楽を聴いている時に目を開けていれば視覚情報はシャットアウトできないがそれは無視する)
それゆえ,私はMVを観ることによって,音楽を聴いたときのイメージに視覚情報が含まれてしまうことが嫌でMVを観なかったのだ.一般的に人間にとって視覚情報は聴覚情報よりも強い影響を及ぼすため,MVを観ながら音楽を聴けば,次に同じ音楽を聴いたとき,その音楽のイメージには少なからずMVの視覚情報から得られた印象が含まれているはずだ.私にとってはこれが好ましくないのだ.
音楽を聴いた時に音楽の全体的な印象として,または特定の音色に関してそこに色彩感覚を知覚する"共感覚"というものがあるらしい.例えば「この音は薄い紫色」だとか「この音楽は白っぽい感じがする」だとか.
私はこの共感覚を持っているとは言えないが,でも曲の中にはなんとなく,本当になんとなくだが色彩感覚であったり,風景(薄い緑色の草原の中を風が吹き抜けている様子だったり,石畳の歩道や教会のある中世の街並みをセピア色のフィルターを通して見た景色だったり)を連想したりするものがある.
これは本当にボンヤリとしたものであって真に共感覚を持っている人の感じ方とは全く異なるものだと考えている.しかし,ボンヤリとした形であれ,音楽という聴覚情報から視覚情報が想起されるという人は自分以外にも少なからず存在するものだと思っている.(具体的な根拠はないですが...)
このような,音楽を聴いた時に何らかの視覚情報が想起されるというのが私が音楽を聴くことが好きな要因の一つであり,また私の好きな音楽というのは,聴いた時に頭の中にイメージや風景が浮かぶものが多い.こういった感性を持っている人がいたら多分共感してもらえると思うが,MVを観て音楽を聴いてしまえば,その音楽の色やイメージのようなものは間違いなくMVで使われていた色やイメージにひきづられてしまう.
つまり,MVを観ることによって,MVを観ることによって得られる視覚情報からの楽しさが得られる代わりと言っては何だが,今後そのMVの曲を聴いたときのイメージが視覚情報から得られたイメージに大きく影響を受けるという代償を負っているとも言える.少し大袈裟な言い方な気もするが,事実である.
よって,私にとってMVというのは視覚と聴覚の両方を同時に刺激する存在であり,音楽というよりはアニメや映画といったものに近い創作物であるという印象がある.
例えば,映画と音楽という創作物について考えてみると,音楽は映画を構成する一部分ではあるが,これら2つの創作物を同じ土俵で評価・議論したりするのは違和感があるだろう.
それと同様に,MVと音楽という創作物もそもそも別種のものと捉え,区別するのがより自然な見方ではないかと考える.
にも関わらず,現状では多くの人がMVと音楽というものをあまり区別することなく,「音楽の良し悪しや評価 = そのMVの良し悪しや評価」と考える人が多いように思えて違和感を感じている.
人間というのは思想や行動を強制されることに対して本能的に抵抗する。
例えばだが、野球が好きな人もいれば嫌いな人もいるし、もちろん別になんとも思わない人もいる。
もちろん好き、嫌い、なんとも思わないだけでなく野球に対して快感を覚えたり気味が悪い、気持ち悪い、この世から無くしたい、存在そのものが理解できないと考える人も一定数いるだろう。
そして、「好き」というだけでもその度合いは人それぞれである。野球が好きだからと言って大谷翔平選手のことを好きな人もいれば嫌いな人も必ずいるのだ。
これはどんなことにだって当てはまる。スポーツでも仕事でも、もちろん性的指向でも
ゲイやレスビアンに対しても好き、嫌い、別になんとも思わない、気味が悪い、と人それぞれだ。
問題は野球が好きな人を嫌いな人へ強制的に改心させることは絶対に出来ないし、その逆(嫌いな人を好きな人へ改心させること)も絶対に出来ない
それと同じ事がLGBTだけでなく、どんなことにでも当てはまるということだ。
つまり、LGBT推進法案はゲイやレスビアンという者に対して理解が出来ない人に対する思想信条を犯そうとしているに過ぎない
そもそも、野球が好きな人たちが野球が嫌いな人たちをわざわざ探したりはしないだろ?波長が合わないんだから
野球が好きな人たちが野球が嫌いな人を探し出して「なんで野球が嫌いなんだ?野球を好きになれ、野球が好きな自分たちを理解しろ」なんていった日には確実に争いになることは目に見えている。
他人に対して「自分たちの存在を認めてくれ」なんて、思想強制しても何にもならん。
にも関わらずLGBT推進法案を推奨する人たちは波長が合わない人たちに対してわざわざ攻撃をしている。
「差別」というデリケートな言葉をまるで核爆弾みたいに振りかざし無条件降伏を迫っているかのようにしか見えない。
そもそも自分自身の存在(思想信条含む)を他人に認めて貰おうとしていることに無理がある。
ゲイであろうがレスビアンであろうがストレートであろうが野球が好きであろうが野球が嫌いであろうが自分自身がどんな考えや趣味、性的指向をもっていても
それを認められるのは自分自身だけだよ
「俺は野球が好きだけど大谷翔平が嫌いなんだ!」と言われても個人的には(なるほど、この人はこういう考えなのか、へー)という感想しか思い浮かばないし「まぁそう考えるのはあなたの自由だからどうぞご自由に」としかいえない。
大谷翔平選手が好きな人からすれば、同じようなことを言われたときに(大谷翔平が嫌いなんてけしからん、改心させてやる!)なんて思わないでしょうし、(あ、この人とは肌感覚がまったく合わないや)と思ったらその人とは自然に距離を置くようになるでしょう。
そして、自分と同じ肌感覚(波長)をもつ人たち(コミュニティ)を探し求めるでしょう
ゲイやレスビアンの人たちだって一緒ですよ。自分たちと同じ考えを持つコミュニティを探し求めれば良いだけの話しでわざわざこんな法律を作る必要は一切合切無い。
もっというと昔と違ってTwitterとかもあるわけでそこで自分と同じ波長を持つ人を探せば良いのでは。
わざわざ波長が異なる人から「自分たちの存在を認めてくれ」と言われても知ったことではないですよ。「それはどうぞご自由に、勝手にどうぞ」と思うだけ
大多数の人間はそうやっているでしょう。職場でも趣味のことでも自分の波長とあうものを探していればいずれは心地よい場所へ終着できるはず。
そもそも他人にそこまで興味を持つ必要もないでしょう。周りや環境に自分自身が左右され、自分で物事を正しく考えることが出来ない時点でどう足掻いてもご自身の本当の幸せを手に入れることなんて出来やしない。
LGBTに対して「差別」されたと思っている人はその昔に他人から面と向かって存在を否定されるようなことを言われた人たちなんでしょうけど
そういう「レベルの低い人間」にこれ以上固執しても何の役にも立たないですよ。
心の中で中指でもおったてて、そのレベルの低い人間とその取り巻きからとっとと離れてしまえば良いだけの話し
あ、もしかして「自分はLGBT(性的少数派)だから幸せになれないんだ」とか思っている?
あのね、自分自身を好きになっていない人に対して他人は貴方自身を好きになることはできないよ。
まずは自分自身の「幸せ」というコップのメーターを満タンにして幸せをコップからあふれださないと誰もあなたのことを好きになることは出来やしないからね。
この法案が通っても誰も幸せにはならない、得しないと絶対的な自信を持って断言しますよ。この法案が通って得するのはせいぜい人間の奥深さ、世界の広さを知らない議員連中と所謂「意識高い系」(笑)が「世の中のために良いことをした」と本気で思うぐらいで端から見ればそれはただのオナニーに過ぎないですね。
人生は自己責任です。自分も含め、貴方が今まで経験してきた楽しいこと、辛いことはすべて貴方が最終的に判断して行動したことで経験してきたことで
例え自殺を考えてしまうほど辛い経験をしたとしてもそれは貴方自身が引き寄せたことなんだよ。
それを認めるのは時間がかかるだろうが、ひとたび認めてしまえば少しずつだが自身の感情をコントロール出来るようになり、一瞬ごとに自分にとっての幸せを考えて行動するようになるだろうよ。
世間に甘えるな、世間は自分たちの「お母さん」ではない!!ってどっかの金貸しの幹部が言ってたし事実そうだと思う。
人間、勝手に生きて勝手に幸せになって勝手に笑顔で死ねば良い。
人生とはそれでいいと今は思っている。
あと、ゲイやレスビアンといったLGBTに対して気に食わない、嫌い、存在が理解できない、と思っている人たちに一言伝えておく。
それはそれで別にいいんだけどさ、そういう「嫌い」といった感情を他人に対して面と向かって表に、口に出さない方がいいよ。
これは別にLGBT関連だけでなく何事もそうだけど、野球が嫌い、サッカーが嫌い、囲碁将棋が嫌い、ゲームが嫌い、漫画アニメが嫌い
そう思うのはいいんだよ、貴方の思想信条だろうから。そう思うようになってしまったのは過去そういう風に考えざる終えないトラウマを抱えてしまったことだって
あるだろうから。
ただね、口に出したければ勝手にどうぞ。その代わり、貴方が死んだとき誰も貴方の葬式には出席しないだろうから、そもそも葬式すらあげて貰えそうになさそうな人間性だろうからどーでもいいけど
それでもどうしても吐き出したければ言い方を考えてみれば良いと思う。「自分にはどうしてもこれが合わなかったんだ」といった申し訳ない口調で言えば他人も「へーそうなんだ」ぐらいには考えてくれると思うよ。
ちなみに自分はワンピースやドラゴンボールがその類いだ。ストーリー展開がどうも合わなくてね、強い敵が出てきてそれを倒しても更に強い敵が出てくるでしょう?あの無限ループがどうにも苦手。
原因はわかっていて、スレイヤーズという小説で主人公がはなから世界最強で一巻目で世界最強の魔王を倒すというすんごいストーリーなんだけどそのストーリー展開に感服しちゃったもんだからワンピースやドラゴンボールがどうにも受け入れられなくなった。
もっというとドラゴンボールは作者に大変申し訳ないがキャラクターデザインが自分とは合わない、同様の理由でドラゴンクエストも合わない。
・・・とまぁこんな感じで「嫌い」という言葉を使わずに自分とは合わないものを書いてみたがこれを読んだワンピース好きやドラゴンボール好きな方はどう思われただろうか。
「へーこんな考えの人もいるのか」とか「こんな奴がいるなんて信じられない」と思ったからはたまた別の考えが思い浮かんだか。
自分と考えが合わない人が出てきたとき、もしくはTwitterとかブログで感想文を読みあさっててそういうのに出くわしたときは
怒りに震えるのではなく、「なるほど。そういう考えもあるのか。へぇー」ぐらいに留めておいて自分の中に取り入れないといった処理の仕方もありますよ
とにかくね、他人に思想信条を押しつけたり強制するのはやめなさい。絶対無理だから。
せいぜい提案するぐらいに留めておけば良い、「自分はこういう風に考えるのだが貴方にとっては如何でしょうか」とかこんな感じで。
というわけでとっとと廃案にしなさいよ自民党の連中め。
さもなくば今度の衆議院選挙の時は覚えていやがれ。
例の水産業応援どんちゃん騒ぎパーティーについての個人的な感想です。
利益に一切絡まない飲み会を政治家がするはずがないので、単なるどんちゃん騒ぎというのは小市民的目線の無価値な揶揄だというのは全くそのとおりだと思います。
ですが、「自民党の偉い先生たちが惨めな一次産業の連中に面通しをする機会を与えてやってるんやろありがたいやろ」という部分があることについては暗い気持ちにならざるを得ません。
日本という国を支える数多くの産業、国民の全員に対してその重要性を尊重する意識が薄く、自分に媚びへつらう態度を取ってきたお友達であるかどうかが支援における第一条件となってしまうような状況はどうなんでしょうか?
「人間なんだから顔も見こたともないような相手を助ける気にならない」といった小さな枠組みを脱して、国家を回すためのシステムに組み込まれる覚悟を持って国会議員としての職務にあたって欲しいものです。
自分の心に固執するようでは政治家として三流と言わざるをえない。
会ったことのある相手の顔を想像して仕事をするのではなく、まだ顔も知らない1億人の国民全員のために仕事をするという意識を持っていただきたい。
私のお気持ちはこんな所ですね。