はてなキーワード: 呼称とは
元々侍と武士は同じ意味だったが、時代を経ると侍は高位の武士の意味になってる。
侍(さむらい、サムライ)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。
「侍」という言葉は元来は、朝廷の実務を担い有力貴族や諸大夫に仕える位階六位下程度の下級貴族(官人)を意味した
武芸を仕事内容とする技能官人である武士が発達すると、「侍」は武士を指すようになった。
さらに、武士階層の裾野は広がり貴族に連なる支配階層に加え、本来は百姓身分である地侍や徒士、卒、足軽なども武士に含まれるようになると、「侍」は武士の中でも比較的高い地位にある「騎馬戦闘の権利資格を有する階層以上の武士」を指すようになった。
足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。
概念によっては、雑兵(雇い兵)と混同されることが多いが、足軽は正式に登録された下級武士であり、雑兵は戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵のことである。
弥助が侍かどうかの話があるが、そもそも侍の定義を明示してないと話が始まらない。
足軽だったとしても下級武士であり武士=侍の時代の定義に従えば足軽も侍と言うことも可能なので議論する上で当たり前だがそもそも言葉の定義についてはっきりさせておく必要がある。
二郎系のラーメン店は、ラーメン二郎という店のスタイルを元にした、いわゆる「マシマシ」文化取り入れている点で二郎系と呼称され市民権を得てきました。しかしこの文化を過剰に解釈し、暴走していると言わざるを得えないというのが今の状況といえるでしょう。実際のラーメン二郎は、二郎系と比較するともっと控えめなスタイルを持っています。
二郎系の特徴として、大量の麺、脂、野菜、そしてお肉が山盛りになって提供されることがあります。この盛り付けの豪華さやボリューム感は、一部のファンにとっては魅力ですが、初めての人には驚くこともあるでしょう。
対照的に、本家のラーメン二郎はその名に反して、比較的バランスの取れた提供を心がけています。もちろん、量は多いですが、過剰な部分は控えめで、全体としてまとまりがあります。
つまり、二郎系と本家二郎の違いは、過剰さと控えめさのバランスにあると言えるでしょう。二郎系は、その過剰さが一部のファンを引きつける一方で、本家二郎はその控えめさとバランスの良さが根強い支持を得ているのです。
◎:序論
結論を先に述べると、そろそろ彼自身、みずからの戦略がリベラル側に受け止められ模倣される時期になったのではと推察する。
筆者は暇空茜がWBPCという攻撃目標に、攻勢の利を取れる限界が迫っており、彼がこれ以上の法廷闘争は泥沼化することを、内心で実感しているのではないだろうかと感じる。
東京都知事選挙というスポットライトはある意味で、彼がカリスマ性を維持できる最後の挑戦であり、体制に対する王手をかける最も効果的な一手なのだ。
確かに彼はナポレオンであるが、東京都知事選挙はライプツィヒの戦いである。
つまり、彼の手法が陳腐化する前の最後の灯といって差し替えない。
事実、彼は窮地に立たされている。
だが、その窮地に立つこと含めて、彼の戦略であると筆者は考えている。
ついては、今が政治におきようとしているパラダイムシフトを理解するために、彼がとった戦略をここに考察したい。
いうなれば、これは手品の種明かしであり、十分彼の行動が必ずしも属人性によるものではない、ポピュリズムのもとに流用可能な「手段」であることの証明である。
本論は、彼の手法を流用する「攻勢策」と、彼の手法に対抗する「防衛策」に分かれている。
防衛策に関しては、以降、noteでの有料販売を予定しているので論外とさせていただく。
悪しからず。
◎:本論:暇空茜の攻勢策について
一つは「攻勢の利を活用し、組織の不平な脆弱性を積極的に攻撃すること」
WBPCへの攻撃が第一の手法、石丸候補への訴追や都知事選に第二の手法が用いられている。
これら二つの柱を併用する「勇者の戦略」を活用することで、彼は都知事選という一見無謀なステージに足を踏み入れることができている。
2024年現在のポリティクスに対しては、どちらも有効な戦略であることを認めたうえで、これらの手法を解説をしていこう。
第一の手法である「攻勢の利を活用し、組織の不平な脆弱性を積極的に攻撃すること」は、本来ポリティクス側の基本的なドクトリンである。
彼は取った手法も、古典的なジャーナリズムの手管に端を発するものであり、特段解説することはない。
本来議会やマスメディアという単位で行う追求を、個人として行っているに過ぎない。
その例外的な非対称性が、攻勢策として極めて有効な効果を発揮していることは事実である。
彼は交渉を行わず業績を絶え間なくアピールすることで、SNSという構造に対する優位性と属人性によらない一定の支持層を両立している。
既存の政治組織やマスメディアにとって、これは幾分困難が付きまとう手法であり、戦略的手法としては斬新なアイディアであることを認めるべきである。
だが、戦術レベルで見ると、むしろ常識的なレベルを外れることは何一つ行っていないことも補記しておきたい。
▼:第二の手法
第二の手法である「積極的なゲリラ戦略の活用」 は、第一の手法と合わせて最大の効果を発揮している。
自らのステージに相手を乗せ、攻勢の利を生かしたゲリラ戦略的な対応をとることで、彼は防御側である現体制に痛撃を与えている。
2024年現在、多くの個人や政治組織は、積極的なゲリラ戦略への対策を有効に取れているとは言えず、悪く言えば、大分いいようにされている。
これは、日本における政治分野へのゲリラ戦略の適用というテーマにおいて、暇空茜はパイオニアであるゆえに、致し方ないことであるともいえるだろう。
ここ一年半、彼を見てきて思ったことは、「彼は歴史をよく勉強している」こと、そして「大抵の人間は準備なしに他者と論戦をすることはできない」ということである。
彼が特別優れているのではない、皆が特別劣っているわけではない。
論戦を行うことに日々を費やしていない人間というものは、直接他人と口喧嘩をすると大なり小なりボロが出るのだ。
それを知っていて、彼は直接的な論戦という形態で個人を壇上に乗せ、罠にかかった幾人かの犠牲を信用に変えて、論戦に乗っても乗らなくても自身の存在をアピールできる状況を構築している。
ここで政治分野における個人の「積極的なゲリラ戦略の活用」 が、如何に革新的な事であるか読者に理解してもらうためにも、暇空茜のSNS戦略について考察しておきたい。
一昨年、風雲児として現れた彼は、初めはただジャーナリズムを行使して、特定の組織の過失を公言する個人であった。
それが徐々に、個人や組織へと訴訟をアピールしながら、思想家やクラスターへと論戦を仕掛けるインフルエンサーに転じた末に、今の都知事選の候補という立場まで躍進している。
これは、自らの支持者を囲い込み、不平の公表と訴追という、自らの目的を果たすために問った行動であり、彼が行う行動に信任する人間を増やすためには最も効率的な手段であったと言えるだろう。
結果、彼は一定の支持者を確保したうえで選挙戦を開始し、無視できないパイを確保して今に至っている。
ここまでは周知の事実であるが、我々が凡夫が着目するべきは、何故彼がこんな手段を取ったのかを、理解することに他ならない。
彼は個人で組織と戦うために自らの攻撃力と防御力を最大化する必要があった。
特定の思想を実行するシステムとして個の奇襲力と攻撃力を最大化し、他者のありとあらゆる攻撃から身を守る防御力を最大化を行うための施策が求められていた。
その前提を満たすために、暇空茜がとった回答が「積極的なゲリラ戦略の活用」という個人が攻勢の利を最大に生かせるドクトリンの活用であると筆者は考察する。
だから彼は、自らの業績を公表してアピールを行い、彼が行う行動に信任する人間を増やすことで自身の攻撃力を最大化した。
だから彼は、個人への論争を積極的に行い、対象に社会的なダメージを与えることで、自身を攻撃する組織や個人を炙り出すことで防御力を最大化した。
だからこそ、彼は、自らが都知事選に出馬した選挙戦の最中であろうと、レスバをしてスペースで話し合おうと対立した思想を持つ個人と論争を繰り広げなければならない。
なぜなら、融和的な姿勢を取ることは、彼が攻撃的な姿勢を取る以上に自らの攻撃を増加し、自らの行動の一貫性を損ねることで攻撃力の最大化への支障に繋がるからである。
ゆえに彼が都知事選への参加を決めたこと自体が「積極的なゲリラ戦略の活用」 による、既存の政治組織の意向に対するの攻勢的な反撃であると同時に、自らを窮地に追い込む中でSNSへとアピールを行い、思想的に自らの攻撃力を最大化する選択肢なのである。
◎:結論
かくして、暇空茜は不平的な脆弱性を攻撃するために、積極的なゲリラ戦略を活用する「勇者の戦略」を以って、孤独な戦いを続けている。
だが、その攻勢策は決して彼が嘯く「自分だからできる」という、完全なる属人性に基づいた内容でないことは確かである。
彼個人としての命脈が尽きるかは、日曜日の選挙当日にかかっている。
だが、彼が作り上げた無敵の人LV100のような手法自体は、今後も研究されポリティクス的な活用を見ることだろう。
筆者は、彼が行った「勇者の戦略」は以後、多くのポリティクスの場で活用され陳腐化すると断言する。
確かに彼は、ナポレオンやゲバラにたとえてもよい革新的な創業者だったのかもしれない。
重ねて、暇空茜の用いた「勇者の戦略」に対する防衛策に関しては、以降、noteでの有料販売を予定しているので論外とさせていただく。
悪しからず。
仕事や家庭の事情で半年~一年単位で日米を往復する生活を送っている。
そんな自分が都知事選の殺伐とした空気を感じて思うのは、日本がアメリカみたいになってしまっているって事。
あちらでもトランプ支持者、ってのを公にすると、日本みたいにキャンセル・カルチャーが発生する事はありがちで
日本みたいに津田大介だか勝部元気みたいなアルファが扇動して個人や企業を攻撃するのも普通にある話。
だから隠れキリシタンならぬ隠れトランプ支持者、みたいなのは普通にいる。
本当は今の政権なんてクソだと思ってるけど、それを表面に出すと色んな所から石が飛んでくるから、黙っている。
というか黙らされている。
そんな人達をQアノン、日本で言う所の暇アノンと呼称して公然と差別する言論はのさばっているし
実際の所Qアノンに危険性が無いかとか言われればそれは否定出来ない。
やっぱバイデンの支持層ってのは日本で言う所の上野千鶴子や津田大介、及びその支持者って感じなんだよね。
と言った現在は裕福であったり、尚且つ産まれもそれなりに恵まれている、中流以上の出身が多い。
そういう連中が、中流かそれ以下のラインで生きている人々を顧みる事って基本無い。
軽んじたり、直球で差別してくる事はあってもね。
トランプは、そんな軽んじられ黙らされてきた一般市民の代弁者のアイコンとして登場した。
少なくとも支持者はそう考えている。
「俺ら」の存在を黙殺してきた連中を、アイツなら蹴散らしてくれると。
少なくとも日本では、今はまだ社会の理性が働き、お互いに殺し合う様な深刻な対立は無いが
まるで黒人社会と白人社会の様に、同じ社会を生きている筈なのに見えている世界はまるで違うし
お互いの事を敵視している人間が多いのはどうしようも無い事実だ。
JTCはJapanese Traditional Company(伝統的な日本企業)の略なんだけど、この略称というか呼称がとても嫌い。
もともとは古臭い日本企業を揶揄するために使われていたらしいけど、僕が目にした時は既に「カッコイイ大企業(総合商社、重工、自動車メーカー)!」を指す言葉、特にそこに勤める自分の属性に使われる言葉になっていた。
なんていうか、外銀、外コン、戦コンなんかの、華々しい職種や企業のグループに対抗心を燃やした日本企業勤めの方々が使い始めたように思う。
そういう対抗心が丸見えなのにそうでない風を装っていたりするところが不快。
そもそも日本の伝統的な企業、なのに、何故アルファベット三文字なのかもわからない。
外資系企業は"外資"だよ。だれも"フォーリン"なんて呼ばない。
なんで、どうして…
多分キラキラなカタカナの呼称に憧れて使ってるんだろうけど、やっぱり不快。
不快というのは少し違うか、恥ずかしいという方が正確なのかな。
とにかくジェーティーシー勤めなんて言われるのが嫌。