はてなキーワード: エゴとは
元増田ですが、何もせず苦しませて生かすということではないから「緩和ケア」と言います。
薬で痛みを和らげてあげたりストレスなく終わりを迎えられるようしたりするということです。
また緩和ケアというのはペットだけではなく人間の医療でもこの言葉は同じような意味で使われますから、簡単に考えられてそう発言されたなら、今後いつか知識を深められた方がいいかもしれません。
もし死ぬことが避けられない場合で緩和ケアしないならば、それこそ本当に「病気の苦しみを感じながら死を待つ」ということになるからです。
「緩和ケア」という医療やその効果を否定し何もしていないことと同じだと、私の猫に安楽死がお勧めだとお考えになられているならば、あなたの考えのままに、もしもあなたの大切な家族が病で死が近いときには「何もせず苦痛を取り除けないまま生きるだけだから緩和ケアはいらない」と、痛み止めなども利用されない方法をお勧めされたらいいかと思います。
「何もせず苦痛を取り除けないから緩和ケアして生かすのは可哀想、人間のエゴ」というのがあなたの考えであるから、あなたの思う一番良い方法を私にもお勧め頂いたと思うので。
でもあなたの「苦しみながら生き続けるのは嫌なことだ、可哀想だ」というお考えは伝わってきて理解できますし、話されたい趣旨は分かります。
ですから私は…あなたの考えを無視した失礼な例えかもしれませんが、もしあなたやあなたの家族が病気になってしまったら、「苦しむのが怖い」という気持ちが強いあなたにこそ緩和ケアは必要なもので、お勧めしたいと思います。
まだ少しご飯を食べていてわたしに親愛の表現をしてゴロゴロいっている猫ですが、最期に怖い思いをさせて、病院の台のうえで「人による確実な死をすぐに与える」というなら、それはそれで人間のエゴで、「わたしの猫にとっては」それは悲しくて苦しい、可哀想ではないか、と私は考えます。
(これは私の猫に対する私の考えです。治療の末に『苦しませたくない』とその方法を選ばれた方がいらっしゃることもまた理解していますし、それはそれで愛だと思っています)
「飼い猫」であり「自然環境」で生きているわけではありませんからエゴというならばどれもがエゴで、「これが絶対正しい」というものはなく、飼い主が愛情を持ちながら猫の様子を見て、その時々で選択していったものが「正しい」のだと思います。
私は、悩んで出した自分の判断が「それが猫にとっていいものだ」と考えていますし、自分のエゴで選んだ結果は最期まで自分で責任をもってお世話して、わたしの猫の命を見届けます。
党のトップだよ?
不倫を許す党ってどうなん?
倫理的にアウトにならんの?
党首だよ?
党首が倫理に反することしてたら、普通は党首は辞めるべきでしょ?
反省して即謝ったら済むもんなの?
よく考えてよ
なんとなくの気分でみんな許しちゃってるけどさ
関係ないことはないでしょ?
よくみんな許せるね
あっそうか、わかった
国民民主党に国民に有利な法案倒して欲しいから、許してるのか!
そうだ
そうだよな?
はっきり言っちまえよ
「国民に有利な法案通して欲しいから不倫してても許す!」ってさ
結局自分のためなんだよな
エゴじゃん
恣意的じゃん
単に自分たちのために許してるだけじゃん
なんだそれ
そんなもんなのか、日本国民って
残念だよ、呆れるよ
目に浮かぶよ
恋愛というのは他者への依存であって自立しない薄弱未熟な精神ゆえにそれに浸っていられるものだ
もちろんその依存システムを利用してつがいを作り遺伝的多様性を維持しながら繁殖する生物である以上恋愛を求める心理を必要以上に恥じる必要はないのだが
キャラクターはそもそも生殖する必要がないのでキャラクターに恋愛させたがるのはエゴでしかない
そして愛されるキャラクターというのは依存心を超越した自我を確立しており人間として尊敬できる生き様をすでに持っているものであり
それに対して未成熟な読み手は恋愛という体で精神的依存をしている場合ではないのである
キャラクターに感銘を受けたならばそれと同じような高潔さを己の中に取り込めるよう努力すべきなのである
尊ぶべき徳性をもつキャラクターを教え広めたり行いそうなことを想像・創作したりすることは一定の意義があるものの
最終的には己に帰ってきて血肉となってこそフィクションに価値が生まれることを忘れてはならない
ひたすらにキャラクター同士の関係性に耽溺するばかりではそれは相対的な自傷行為の様相を呈すようになる
そのような刹那的コンテンツ消費の対象物としてキャラクターや作品を貶めることもなりかねない
ゆえに「単体か恋愛か」という嗜好はこうした心得の大小によって分かれてきそうな部分ではあるものの
最終的にどうキャラクター作品に向き合うべきかという大きな問題の前では小さな違いにすぎない
つまるところその嗜好形態に拘泥する意味はないであろうということが主旨である
皆が持ってるから自分も子どももってみた〜いみたいな、一回言い出したからには引っ込みもつかない
他人の人生勝手にスタートさせるっていうエゴを無視して「自分が」子持ちになって、周囲の子持ちのパパママとして扱わられることしか考えてない人間なんだな〜てなる。
僕のただ一人の親友が、かつて僕に言った言葉が頭の中に響いた。酒を飲みすぎたり、食べすぎたり、交通事故を起こしたり、あるいは、とてつもない災害に巻き込まれたりしたりして死ぬ人はたくさんいる。けれど、なんだか死にたいから死ぬ、ということができるのは、自分の命の手綱を握りしめることのできる大人だけだ。大人だけが、親のエゴとか、世間の義務から解放されて、自己責任と無関心のど真ん中に落ちていくことができる。だから、電光掲示板の自殺者の名前さえ、どうでもよくなるんだ。みんな耳をふさいで、聞こえてくるのは、誰が言ったのでもない誰かの言葉。自殺した子供はきっと、心が大人になってしまったんだろう。大人になりすぎた子供は、生死の境すらも一息で超えてしまうほどに、歳を取り過ぎている。
新卒で挫折して休職中、全部自分のせいにしたら頭がおかしくなりそうだったから、毎日8時間他責をしていた。
小さい頃に虐待を受けて、義務教育も不登校で、なんとか資格をとって社会に出ても、求められる仕事はできなかった。
人一倍早く出勤した、残業した、家でも勉強をした、でもその場でパニックになり水の泡。
最初は親切にしてくれていた同僚からも、あの人は障害者じゃないかと噂をされた。
噂が広まってからは問題なく出来ていた業務も疑いの目で見られ始め、見張られていると感じて緊張でさらにミスが増えた。
こんな育ちで障害かもしれない自分が何を言っても信用がないだろうと自分が一番分かっていたので、何も言えずただ謝り、次からはこうこうして気をつけます…!と反省までした。
大人なのに、ありがとうとごめんなさいくらいしか出来る事がない。
努力しても要領の悪さと一度抱かれた不信感は埋められず、周りに迷惑をかけてしまった。
一年半で辞めた。
障害の事を調べる内に、自分を虐待して出て行った母親も発達障害だったんじゃないかと疑った。(あらゆる特徴が一致していた為)
その時に、堰き止めていた思いが一気に崩れた。
母親自身も両親に虐待を受けていたから、繰り返してしまっても仕方ない。
人より出来る事が少ないのも全部自分のせいだ。
親の事は関係ない、自分がとにかく頑張れば、普通の人生になるはずだーーーと思って
信じて生きてきたのに。
今まで困ってきた事は全部親のせいだったのか。
生まれた時から頭が変だったんだ、だから頑張っても上手くいかなかったんだ…今からどうやっても、障害だったら治らないじゃん…
絶望。
産むな!!!!
学もない貧乏が、被虐待児が、障害者が、責任とれない奴が、産むなよ。
中出しセックスして、結婚出産を自分が何者かになるための道具にして。
子どもに障害なすりつけて、虐待連鎖で自己肯定感までめちゃくちゃにして。
まともに1人育てられないのに兄弟がいないと将来可哀想〜!って偽善で兄弟ポンポン産んで結局逃げて。
自分の人生を彩るために産んだり、病気や障害の可能性を深く考えずに産む人間が全員、気持ち悪くなった。
だんだん自分の事を飛び越えて、虐待やヤングケアラーの問題、遺伝する病気や障害、兄弟児の苦悩、いじめ、貧困、戦争、性犯罪がある世界に産む人間達、ニュースやSNSで話題を見るたびに心がぐちゃぐちゃに掻き乱されて全て許せなくなった。
どんどん自他の境界がなくなって、もう人間自体が居なきゃいいとすら思った。もっと少子化になって滅亡したらいい。優生保護法が続いていれば自分は生まれずに済んだのかもしれない。安楽死の制度が出来て辛い人がどんどんいなくなったらいい。
死のうとしても直前で怖くて死ねなくて、失敗して余計に苦しむのも怖かった。
こっちは産んでくれと頼んでない、親が勝手に産んだのに、自分で本能的な死の恐怖に打ち勝たないと死ねない。
産みたい人が産む自由は尊重され賞賛され、自殺は非難される、楽に死ぬ手段もない。
怒りの行き場がなくSNSで毒親を叩き、レスバに時間をついやした、同じ思想の人からいいねをされて一瞬スッキリした。
自分の主張は正しいと思って、スッキリしたはずなのに、それを繰り返すたびにさらに自分の存在が気持ち悪くなって自分以外も全員気持ち悪くなって、苦しくて苦しくてたまらなかった。
それでも街中で知らない人とちょっと話したりお礼を言い合ったり、そんな事が不思議とうれしかった。
バイトして仕事覚えようと悩んでいる方がまだましだし、たまに感謝されたら普通にうれしかった。
(まぁスキルなしの障害者でも出来る仕事ってなったら毎日ゲロとかマナーおかしい人糞掃除するしかなくて、よく変な人にも話しかけられてキツくてやめてしまったけど。そんな仕事に同性の若者1人もいないし、たしかにもし健常者だったらこの仕事しないわ!ガハハ!ってまた落ち込んだ)
脱線したけど、結局あんなに社会が許せなかったのに実際に顔が見える人と会った時には、今生きてるみんなが幸せだったらいいなと思ってしまった。
親子を見ても文句を言いたくはならず、障害者やホームレスの様な社会貢献度が低そうな人を見ても、この人も死にたいだろうなーと勝手に決めつけたり、その人を産んだ人を責め立てようとは思えなかった、もし目の前で死のうとしてる人がいたら普通に心配になるとも思う。
結局は他人が許せないんじゃなくて、自分が自分の存在を許せなくて苦しかった。
人に傷つけられても、相手がそうした背景を思うと文句を言えない、その人なりにそうした理由があったと思うと責められない。
だからしばらくして親に会った時も、何も怒れなかったよ。
絶対許さないし、心を傷つけてやる!と思っていたのに、泣いて謝られてたら不思議と笑って許してしまった。
母親が受けた虐待を話されても、ただひたすら酷いね、辛かったねと聴いていた。
こっちの方が泣きたかったけど。
でも自分自身の存在を許したいから、形だけでも親を許す事にした。許さずに傷付ける事を言っても、またスッキリするのは一瞬だろう。
自分が追い詰められて苦しかったのに人を追い詰めるなんて、もっと自分が嫌いになりそうだった。
思えば親にも社会にも認められなかったけど、優しい人だとか真面目だとか褒められた事だけはあった。それがあったからこそ、人に優しく真面目に頑張れば大丈夫!と根拠のない希望を持てていたんだと思う。
自分の中で唯一認められた長所を捨ててまで親や他人を責めても、考え方を変えさせるなんて出来やしない。誰に理解されたって苦しさは消えないし、自分が生まれなかった世界線になんて行けない。
どうせ死ぬ勇気もないなら、せめて人に好かれる行動だけとってた方がお得だと決めた。
たとえ社会に不必要でも、そのマイナスを優しいとか良い人だとかで0.1でも誤魔化せるならそうするしかない。捻くれ障害者なのに最低限のマナーや愛嬌まで捨てたら最悪のまま終わりだ。
自分の為に生きれなくても、現実にいる目の前の人に喜ばれる事があるならやっていこう。
弱者の立場や優しさを都合良く搾取されるかもしれないけど、単に褒められたら気持ちがいいから、人生気持ち悪くならないで済むわ。
シンプルに目の前の人にありがたがられたいよねー!生きる意味あるじゃんって一瞬錯覚できるから!偽善最高ー!
※他責を辞めようという内容では無いです。
自分も苦しかった時はそうしないと生きれなかった。今も気にしない様にした気でいても、具合が悪い時は心の中で他責に逆戻りしているから。人はそう簡単に変わらない。
※産み育てる事に様々な懸念や責任が伴うという意見を訴える事は意味ある事なので、正しく反出生を訴えている方の非難ではありません。
「俺はぜったいに払わない! 国とか俺以外がなんとかしろ!!」
主催自治体がまっさきに負担を逃げて、それを喝采する地域のエゴがむき出しになってて
こいつらに国政はヤバい
となった結果が比例での激減だったのでは
昔はあれプルンプルン動いてたけどな。
はてサの中でもかなり左寄りでアイコン以上にコメントが不快だけど、見るの嫌ならはてな使わなきゃいいんじゃねーの?運営の判断は妥当だわ。見たくない権利なんかないんだから、自分のエゴのために他人の権利を奪おうとするなよカスが。増田には不快な広告もあるんだから嫌なら使わない一択。
ポエムなのでソースはないです。最初にポジションの宣言しておくと、俺はDEIには肯定的というか、まだ何か可能性があるのではないかと信じたい派。
DEIのいいところはDEIのI、Inclution、包括性にあると思う。これは単に性的マイノリティを包括して1つのチームで頑張ろうぜというだけではなく、年齢、人種、国籍による先入観を持たず、その人の個性を尊重して共同作業しよう、生産性を高めていこうというところにあると思う。
この理想像はかつてのアメリカの理想像に重なるところがあると思う。様々なバックグラウンドを持つ人がアメリカという新天地で自分の夢をかなえるアメリカンドリームをより一般的にした概念がDEIだと思う。
表層的にはここが一番大きいと思う。性的マイノリティがDEIを自分のエゴを正当化する大義名分としてしまったため、そのほかのDEIをなんとなく知っている層への押し付けになってしまった。トランス女性トイレ問題や、ゲームなどにこれらの押し付けが出てしまっているので、なんとなくDEIを知っている人がDEIに対して嫌悪感を持ってしまった。
古くは共産主義、極右、民族、最近ではオタクなど、全ての集団は発言権を強化し利益を増やすための階級闘争に挑む。DEIが考慮すべき包括すべきとした性的、人種、国籍におけるマイノリティは実はマイノリティとして理解され協調しながら社会の一員になりたいわけではなかったというところがDEIの失敗の根本原因だと思う。
今のアメリカの分裂も詰まるところ白人、アフロアメリカン、インド既得権益層と、これからアメリカに入ってくるヒスパニック(メキシコ以南)、モンゴロイド(つまり中国人)との階級闘争なのだと思う。DEIの受容の精神は受容する側が好ましく思う限りにおいて受容できるという話に過ぎず、では受容可能な限度とは何かというと、自分の立場が脅かされない程度ということになってしまう。今のアメリカには完全なフロンティアなどすでになく、ゼロサムゲームなのだとしたら新規参戦があることはイコール自分の立場が脅かされることになってしまう。 無限の包括性は不可能であり、DEIは理論上破綻しているのだ。
ではどのようにマイノリティが受容されるべきかとなれば受容する側の受容忍度を変えるほかなく、それは今までの民族開放運動のような形となり、結局のところDEIは従来の開放運動の看板を付け替えたものにならざるを得ない。
わかりません。みんなが笑って暮らせればいいのにね。
五話寺は知ってるんだw
なら、星野桂も藤巻もフジリューもテニプリもぬら孫も世の中的には不要ってこと?今や読者の大半は女性だと言われてても?
ジャンプ作家ってのは紙面上お互いの作品を見て切磋琢磨してるもんだから
どの作品にもファンは付いてる。だからゲーム化されたりするんじゃないの?
それをネジ曲がった頭一つで「俺がランキングしてやる」って考えするのが程度が知れてるんだよ。
編集長ならいざ知らず、ただの一般人が笑える。そう言う根拠の無いエゴの塊を世の中に提示出来る事こそ理解の範疇に無いね。
自分こそ「腐女子は黙れ」的な意味で「腐女子」って単語を使うんだろうが、お前がオタクで漫画でインプレッション稼いでる時点で同じ穴の狢だからな。
知り合いの中学生の息子が支援級なんだけど、同じクラスに実の親からも先生からも同級生からも嫌われている女の子がいるらしい。
あまりにも嫌われすぎてほぼ全員の親から「修学旅行はうちの子と同じ班にしないでください」と言われ唯一言わなかったその知り合いの息子がその役を押し付けられているそうだ。
その女の子はSNSで知らないおじさんと知り合って、しかも土日の夜に会いに行っているようなのだが親にも嫌われているため全く無関心なのだそうだ。
その知り合いはその子を心配して知らない人と会うのをなんとかやめさせたいと思っているみたいなんだけど、それはエゴでしかないと思う。
ただの火遊び感覚でやっているならともかく、親からも見放され友達もおらず誰も味方になってくれない中学生の少女がこの世で唯一味方になってくれる存在
ただの下心だけでは救えない我儘で凶暴でメンヘラで可愛げのない少女でも、異常なストライクゾーンと周りからも相手にされない人間性を持ったおっさんならばこの少女の味方になってあげることができるのである。
ヤンサンだけは、当時欠かさず購読していた俺が書かないと、という義務感から書いた。
異論は受け付ける。順不同。
この作品を世に遺せたことだけでも、ヤングサンデーという雑誌が存在した価値がある。世界規模で暴力と正義を等価値に描いた、怪作にして超名作。マクロな視点のテーマ性や劇的なストーリー展開と、市井の人々のエゴをディテールたっぷりに描いたミクロな視点の描き込みの両立が天才的。「宮本から君へ」はモーニング連載だが、この作者で一作だけ選ぶならこれだと思う。
「のぞき屋」の頃から片鱗が見えてはいたが、変態的なキャラクター造形と淡々とした描写が素晴らしい。そして前作からの画力の進化にも驚く。海外でも評価が高い。この作風はスピリッツ連載の次の怪作「ホムンクルス」へと繋がっていく。
ヤンサンは、山田玲司を育てた雑誌でもある。個人的には『アガペイズ』の方が圧倒的に好きだが(最高傑作だと思う)、知名度や重要作品としてはこっち。オタクがモテ男に変身していくHowToマンガの側面もありつつ、純愛を志向することでバブル期の軽薄な恋愛観へのアンチテーゼになっているメタ的な作品。ちなみに作者はヤンサン廃刊後、「山田玲司のヤングサンデー」という人気のYouTubeチャンネルを運営していて(後から出版社公認に)、マンガ評論がかなり面白い。
共著の「サルまん」を除けば、これが相原コージの最高傑作だと思う。白土三平的な王道忍者マンガと、「勝手にシロクマ」「コージ苑」的な不条理ギャグと、「サルまん」的な実験的アプローチとを高度に融合して、両立どころか鼎立させた奇跡的な作品。
遊人は、青年誌エロマンガにおいて未到達だった性表現の境地を切り拓いたので、漫画史的にも取り上げる必要がある。散漫なストーリーはともかく、今見ても女の子の絵が抜群に上手いし、性的描写のお下劣さが限界突破している。新宿の風俗店にイラストが無許可で使われ続けてて可哀想。
最初はベスト10作品にしようかとも思ったが、逆に絞るのが難しかった。
冬物語、シーソーゲーム、SOMEDAYなど。ヤンサンの看板作家だとは思うが、これといった新規性は感じられない。
どれも安定した名作揃いで、ほぼ外さないのが凄いのだが、逆に言うとヤンサン時代には、まだ突出した作品がない。
他誌で『ブラックジャックによろしく」があるからなー。名作だが、ドラマ化されるまでは割と知られていなかった。
アオイホノオ、おやすみプンプン、Dr.コトー診療所、クロサギ、イキガミ、土竜の唄などの名作・人気作が、廃刊と同時に他誌へと移転している。本当に、こんな良い作品が集まってた雑誌を廃刊にするとか、何考えてんだよ……。
よくある不条理ギャグと思わせつつ、後半からの哲学的なヤバい展開。しりあがり寿の弥次喜多に通じるところがある。
長尾謙一郎の作風は、ヤンサン以降の「ギャラクシー銀座」などで完成されたので入れなかった。
ちなみに作者は、最新作ではギャグを完全封印して、爽やかな青春空手マンガ「三日月のドラゴン」を書いていて、これもめっちゃ面白い。
前身の「少年ビッグコミック」からの移籍だし、代表作は他誌で『あずみ』があるからなー。
ここは、かなり迷ったが、入れなかった。作者で入るとしたら、「へうげもの」「望郷太郎」かな。しかし、とんでもない傑作SFになる可能性を秘めていた度胸星を未完結で打ち切った当時の編集部の罪は重い。
喜国雅彦は独特すぎて扱いづらい……。「月光の囁き」はシリアス路線で作家史的には価値があるが、基本的にギャグ漫画。どうなんだろう。
忘却のサチコでブレイクした阿部潤、帝一の國などで知られる古屋兎丸、さそうあきらなども、漫画家としての初期は、この雑誌で育てられたという印象が強い。