はてなキーワード: インパクトファクターとは
法学の雑誌でインパクトファクター10なんかあるわけないだろ笑
まあ、確かにな。ネタはともかく、チェック装置として駆使されちゃうよな。インパクトファクターハックみたいな使い方をされるよね。反省するよ。
元増田とは違うけどさ、KENZO 【新宿109】ってユーチューバーについて聞きたいのよ。マルチというか出資金詐欺系の人物を告発したいのだけど、彼に行ったら動いてくれるかな?その詐欺師の特徴なんだけど、
いるんだよ。業績の評価基準が論文の数重視でインパクトファクターがああでこうで、、 そればっか。そういうの分野によって違うのにね。
山に登りたいから、と言う理由で上を目指さず、自宅から通えるそこそこの大学に進学して登山三昧。ところが、ある日、偶然(?)山小屋に来ていた准教授に、大学院の山岳教育プログラムなるものを知らされる。
下山後、准教授に誘われて研究室を尋ねると、何故かその場にここなさんが。准教授とここなさんに、一年中山籠もっても誰も怒られないどころか、それを仕事にできると騙されて と聞かされて、学部卒業後、その教授が所属する山岳教育プログラムのある大学院に進学。
さらに気がつくと大キレットを滑落する勢いで転がり落ち、ふと気がつくと先進地であるヨーロッパの大学に留学。
その頃、日本で山岳メディアのライターを始めていたひなたに強制され 頼まれ、現地からコラムとVlogをアップしはじめたところ人気に。それで手に入れた金を丸ごと山狂い山岳文化に関する研究につぎ込み、若手研究者として頭角を現す。
しかし、本人の行動様式はあまり変わっていない。(ただの山馬鹿)。しかしなぜそんな楓が学術界でもやっていけてるのか?その正体は、いつも論文のSecond Author以下に載っているYuuka Sasahara (Holy Hope High school)の名前にヒントがある。
特にこだわりも無く、父親も無いかを強制する事も無かったので、大学は得意な科目があるところに進学すればいいかなーと思っていた。ただ、両親と離れるのもなんとなく嫌で、自宅から通える条件の大学を選んだところ、なにげにかなりのレベルが高い大学に合格。
大学生活も楽しくやっていたが、その頃から父親の仕事に興味を持つように。ライター業、文章と写真だけでは無く映像を撮影しなければならない事も増えた父親のアシスタントとしてついていく。
いつの間にか撮影する側から、撮影される側になっていて大学在学中にライターデビュー。卒業後は、父親が法人化した会社に所属して、山岳と自然、それを切り口に地域などもテーマにした専門ライターとして、日本中、そして世界を歩き回る。
ヨーロッパに留学した楓を尋ねて行くも、楓のあまりにも無頓着な生活に、機材一式をを置いて帰り、ゆうかにチクると言う暴挙を働く。それがきっかけで楓をタレント研究者として父親の会社に所属させ、自分自身と二大看板で活躍している。
高校は、あおい、ひなた、楓とおなじ高校の、奨学金制度を利用して進学する。授業料の免除は受けられたものの、私立高校は授業料以外もお金がかかる。また登山も続けたかったので、アルバイトを始めようとする。
しかし、母親はそれは助かるけれども、せっかく良い学校に入れたのだから、学業に専念して欲しいと言われて反対される。思い詰めたここなは、先生に相談すると、先生から、学校の運営法人が小学生向けにやっているサイエンススクールのアシスタントバイトを紹介される。
そこの講師できていた准教授と仲良くなり、大学の研究室に出入りするようになる。(そこで、楓さんの話をしたところ、准教授は楓さんを捕獲に動く)
3年生になるころには単著論文が論文誌のプレプリントに発表。プレプリントとは言え大学のレポジトリであり、それを学校が宣伝したために一躍時の人に。しかしそれは大学の奨学金を問題なく得るための動きで、それをテコに大学に全面的に奨学金を受けて大学に進学。高校時代に執筆した論文は、当たり前のように査読を通ってインパクトファクターの高い論文誌に掲載。さらに2年時でスキップ申請(修士への進学)して修士号を得て製薬会社の研究所に就職。その研究所では開設以来最年で少採用であった。
普段は、世界中から集められた様々な植物から、薬になりそうな成分を探し、研究しているが、自分で趣味を兼々山々をさんぽ。なんでもない場所から新しい研究成果を見つけてくるので、実は天狗かなにかではないかと噂がある。
みんなの癒やし。
やぁ、辛いね。ところで、人工知能の界隈にもこの手のヤバいやつがいます。僕ちんは男だから数ヶ月たこつぼ部屋エンジニアで済んだけど、加害者の過去のログを読むと、未成年の女の子がレイプにあったりして心が傷んだので、記載しておくね。
やり口は
エンジニアを志す「#駆け出しエンジニアとつながりたい」というハッシュタグを掲げているドリーマーに「サイバ〇エージェントに紹介してあげる」という名目でDM等の連絡を無差別に送れるだけ送る。
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DM に釣られたエンジニア志望の学生を事務所にに連れ込み、弊社はすごい人工知能を作っています、私は海外大学卒です、現役の数学者です、インパクトファクターは XX です、というスライドを用いて「俺を崇高せよ!」と「私」を洗脳しようとする。そのスライドはイラスト屋の画像を散りばめた、安くで仕上げた感のある残念極まりないのであった。
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あまりのゴミ具合に、聞いている途中で帰ろうとしたら「タダ働きしたら、サイバーエ〇ジェントで働けるよ」という嘘で引き寄せられ、その甘言を真に受けた「私」は、数ヶ月もの間にポートフォリオの作成をする。そのポートフォリオはやがて取り上げられ、新たな奴隷の疑似餌(うちに来ると、こんなことできるよ)になることを当時の「私」は知らない。
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そしてときが過ぎ、ある時が来ると、「きみ、来週から〇〇の客先常駐ね。履歴書を書いてきて。」と社長は強要してくる。拒否しようものなら、「俺に恥をかかせるのか!業界に入れなくなるぞ!」と脅す。上級国民だから派遣事業許可がないのに派遣をすることに法律はいらないのである。
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その間に、SNS でナオンを探して「俺のユーチューブに出たら、仕事をあげるよ!」と未成年のアイドルに声をかけまくる。その間、「私」はブラック企業で酷使され、ガッポガッポである。
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ある日、「未成年の女の子に美人局されて、お父さんと示談してきました。ウ~ン、詐欺かな?」などと書きだす。
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いい思いを続けていたが、有名な未成年の地下アイドルに「一緒に温泉行きませんか?」と誘った結果、「ふざけるな!、最低でもウン十満もってこい!」「ベンチャー社長だから相手してやったけど、セコすぎる〇〇クソ野郎!」「もう客だから相手してやったけど、勘違い中小企業の広告の世話なんて二度と無料でしない!」と言われてショックだったらしく、「風俗に堕ちろ!」とシャウトしてブロックだ。
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今度は政治家とか実業家につるみだす。おそらく「日本のAIは遅れている」といういつものネタだろう。そんでもって、ブログに「上級国民と会ってきました」という記事を書く。
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そんなこんなで海外で仕入れた人工知能ネタも賞味期限切れになってきて、国内の有名大学にて真面目に人工知能を習得した学生で溢れてしまい、ナンパがてらに「オレオレAI理論で、社会運動」を酒場で語るしか能のない、社会のゴミがニヤニヤしながら獲物を求めて SNS をみているのでした。
というわけで、ホームページがWordPressのテンプレートを使いまわすとか、古臭くて10年単位でベンチャー企業を名乗っている会社の社長の話は間違っても信じてはいけない。男はたこつぼ部屋、女はレイプ、そんな人工知能の会社をやっている社長があなたにDMを送ってくる日は今日かもよ?ご注意を!
確かに多いと思うよ。
当事者的にも覚えきれないし、ほとんどの当事者は気にもしていないけどね。
当事者として自己確立してしまえば、どんな言葉で自己定義するとかどうでもよくなるから。
どっちか言うと運動家や研究者(必ずしもLGBTではない)が使っていることが多いと思う。
「わからないもの」をわかろうと四苦八苦してるときに新語って量産される傾向があるし、
LGBT自身というよりその周囲の人が理解するための道具って印象。
あと、自己確立する前の、セクシャリティで悩んでいる人(含むメンヘラ)が使っているかな。
増えすぎの原因には、言葉を作った人間が注目を集められるってのももちろんある。
論文で提案した言葉がバズれば、被引用がっぽり稼げてインパクトファクター上がるし。
一時期レインボートイレみたいな当事者が迷惑がって反対するような提案が自治体の施策として取り上げられたりしたり
あんまり質の良くない、LGBTに詳しいと自称するコンサルタントの活動がずいぶん目立ったし。
ただまあ、それだけ言葉がなかったってのも大きいと思う。
性ってのは主観的な目に見えない部分が多いから、どうしても客観的な言葉にしにくい。
『奇跡の人』のサリバン先生も「言葉は心にとって光以上のもの」って言ってるけれど、言葉がないとどうしてもうまく悩めないのよ。
自分自身の心を見つめるにしろ、人に相談するにしろ、言葉不足は足を思い切り引っ張るから。
最悪LGBTってほどじゃないのに、その言葉しかなかったせいで、自分のこと考えるときに言葉に引っ張られてこの道に迷いこんじゃう人も出る。
10代20代の「自分がよくわからない」モヤモヤを抱えた子が自己確立する上では
もしくは、LGBTじゃない人たちがLGBTを理解する上では有益な面もあるから、一概に新語を否定もしたくないかな。
悩みを通り抜けて自己確立してしまえば、もうそんな言葉は不要になるけれど。
(増田の提案は自己確立済ましてることが前提だから、実は当事者にはあんまり意味ない)
まあ、「新しい物事」にはそういう山師みたいなやつ生じるよなー。
けどさ、一点
でも、皆さん、ちょっと考えてみてください。なんで講演会なんてする必要があるのかと。計算機科学の世界で講演会をして資金集めをする、っておかしくありませんか?OSS で有名なコミッタだったり、インパクトファクターのつく雑誌に名前がのるような人材がですよ、この御時世にわざわざ資金集めする必要がありますか?世界中から「金を出させてくれ」といって金がわんさか集まってくるに決まっているじゃないですか。よって、資金集めのための講演会なんかをひらくような残念な人工知能開発者が金を稼ぐことはありません。同様なケースに遭遇したら、出資したら泣き寝入りすることになりますよ。
自分の成果を表に出さないと金集まるわけ無いじゃん。さらに学術系の金なんて細ってる。研究者自身が研究をするため生きていく生活費すらない。
そもそも、日本でOSSで有名なソフトのコミッタや、インパクトファクターがつく雑誌に名前が乗るような研究を人工知能関係でできる研究者がどれだけいるんで?その前でもなにか着想があるがもんもんとしてるやつは腐るほどいるだろうさ。
科学でなにか売れるものを作るというのは「科学としての成果」と「売上としての成果」と2つある。だけど、売上が遠い段階の金は本来は「科学としての成果」として出さないとならないんだけど、それはもう日本は死んでるもの。
なんとか「売上としての成果」としての金じゃないと許さん!ということで、巨神兵の繭を強引に表に出して、急かして「腐ってる。早すぎたんだ!」みたいなのを大量に作る。
正直大言ばっかりうまくなって、うまく行かなくてもシラを切って、詐欺師呼ばわりを乗り越えて、たまたまうまく行くやつがまれにあるよね。そんなのがハイテク起業の世界。
詐欺師も多いだろうけど、苦渋の末詐欺師呼ばわりされつつなんとか自分が良いと思ったのを実現しようとしたやつもいるだろうけどね。そういうのが正しいというのが日本の起業支援とやらだろうね。特にオンラインサロン系。
炎上起こすが笑うような連中。俺は別分野だがくだらないと思って一旦降りたが。
人工知能で詐欺まがいなことしてる香具師に引っかかった、という話をこれからしていく。この記事は「人工知能ば詐欺だ」ということでなく、「詐欺師は人工知能を使いたい」ということを語る。
もう10年ぐらい前になるのだけど、人工知能には色々あるのに「深層学習だけが人工知能」だという無勉強な馬鹿に引っかかったんだよ。本当は人工知能なんて LISP から始まって、色々あって今の AI につながるているのに、その歴史は全く無視してね。Python のライブラリでどうにかできないものは不要とのことなので、「ふーん、そうなんですか」ぐらいで対応してた。なぜなら、自分は人工知能にAPIを叩いてブラウザに表示する部位を担当したからだ。
その会社にはエンジニアがいないので、人工知能とデザインを除いた全てをほぼ自分だけでフロントエンド(当時はFlash)からバックエンド(Django)とデータベース、クラウド部分を設計・開発・運営をやることになった。それは慣れてたから良いのだけど、ひとりでぼちぼちやるのは変な感じだった。ホームページには10名近い社員がいます、とのことなのに。
この理由はなぜなのか理解できたのは、インターンがやってきてからだ。そいつは結果を出せないから有能な人がやってこないのた。それで社員数を水増しするためにインターンを社員としてカウントしていたのである。なんとインターンの無給の学生ばっかり声かけて、ただ働きさせて「成果は自分のもの、ミスは能力のない学生のせい」みたいな畜生の極み、のようなことをして糊口をしのいでいる自称『天才』に俺は捕まってしまったのにここではじめて気がついたのだった。信じられないことに。
それで、ついに API をつないで一つのシステムにしましょうという日が来た。なんとか力量で解決したのだけど、はじめて彼のソースを見せてもらったときの衝撃度ときたらね。驚いたよ、スカスカのコード過ぎてね。おかげで深層学習がライブラリを使えば簡単にできるのも学んだけのだど。
閑話休題。
まぁ、コードを書くのが本業でない人だから良いか、と思ったらなんと、Python 教室を開くというじゃないですか。それで、成果をサイトに掲載するのですよ。自分のコードは絶対に載せないのに、他人のコードを添削して「弊社は実力があります」みたいな事例にしていたのですよ。驚いたことにね。
なぜ、そのような香具師が存在できたのかというと、「人工知能は効果判定をしにくいけど、将来的にはメリットになる可能性が高い」という計算機科学の領域では珍しい特性を持っているのよね。ほら、業界人にとってブラウザやデータベースといったものは、ちょっと触ったら特性が感覚的にわかるじゃないですか。そこが人工知能はちょっと違う。
もちろん人工知能は世の中に必要不可欠なものになるのは間違いないのだけど、というよりも現状でもスパムメール判定やゲームでは活躍していますけど、おそらく個人がどうにかできるものではないのよね。理由はこれ以上はアルゴリズムの向上が困難で、高コストな専用ハードウエアを扱える資本家に対抗する術を個人が持てないという限界と、教師あり学習のような判断基準の元になる資料をどう収集するのかという問題点を解決した人や組織が皆無という状態にあるからなんですよ。特に最後の部分は未だに twitter レベルの組織ですらやらかしているので、まだまだ難しいと思われます。
学習の根拠になったもの自体をどうやってキレイなものにするかということすら、データサイエンスという学問が出てきて苦労しているのですから、ユーザーエンドからしたらこの領域は未だにキャズムを超えていないと判定されるのは仕方がないことなのでしょう。それは、そういうもんだから良いのですよ。将来的には解決される可能性が高いでしょうし。
それでですね、やっと本題に入れるのですけど、問題点は「人工知能は効果判定をしにくいけど、将来的にはメリットになる可能性が高い」という非対称性をこの領域は抱えているのですよ。これはですね、バイオ(健康食品・代替療法)や金融商品(暗号通貨・バイナリーオプション)なんかに出てくる胡散臭い「何しているのかわからない」香具師が介入しやすい環境なのですね。それっぽいことを言って、専門家なら絶対に言えないコミットメント(金融だと「100%絶対に儲かる」とか)を宣言し、私はアメリカの有名大の(別領域の) Ph.D. を持っています(嘘)、日本はゴミです、さあ皆さん『人工知能で夢』を叶えましょう、なんていうクサい台詞を(非技術者向けの)講演会で語るやつがいるのです。残念なことに。
でも、皆さん、ちょっと考えてみてください。なんで(トーシロ限定で)講演会なんてする必要があるのかと。人工知能の世界で講演会をして資金集めをする、っておかしくありませんか?OSS で有名なコミッタだったり、インパクトファクターのつく雑誌に名前がのるような人材がですよ、この御時世にわざわざ資金集めする必要がありますか?世界中から「金を出させてくれ」といって金がわんさか集まってくるに決まっているじゃないですか。逆に、プロを避けるような人物に金を出したいと思いますか? よって、(トーシロ限定で)資金集めのための講演会なんかをひらくような残念な人工知能開発者が金を稼ぐことはありません。同様なケースに遭遇したら、出資したら泣き寝入りすることになりますよ。
※ この記事はアキネーターの下りがクソです。もう少ししたら自分の言葉で書き直します。ただ、この記事を消すことはしないです。これ技術的な話をしているようにみせてますが、わかる人にはしっくりくる符牒のつもりで書いています。
うん、でも、わたし講演会でその人のつくった人工知能が動いているのみたよ、まるでアキネーターみたいな、というのでありましたら「良いものを見ましたね」とこたえますよ。あれは良いものです。実はアキネーターのクローンは今だと学生レベルのスキルで作れます。具体的にのべますと、なにかテーマを固定して、そのテーマに関係する情報を片っ端から集めて、Python のライブラリを使ってデータ処理を行い、機械学習のライブラリを介して5段階の入力に対して適宜返せるような状態に持っていき、Rails/Laravel/Django で HTML を吐き出すようにして、ウェブ・ブラウザで Vue/ReactjQuery に呼応するようにすると計算機科学ができる人だと作れちゃいますし、見た目を重視したければ美大生にでも声かければ、似たようなキャラを描いてくれることでしょう。
この程度だと、二人の学生を無休(給)のインターンにやらせて、詐欺の商売道具をただで作れます。これは、アキネーターは駄目だとは言ってません。説明すると長くなるので省きますが、あなたを騙す道具を作るのにプロは要らないと言っているのです。
それで話を続けさせてもらいますが、哀れな学生は酷使されたうえに、会社のサイトに「インターンの思ひ出(検閲済み)」を実名で掲載されるという、デジタルタトゥーを刻まれるのです。かわいそうに。
※ ここを疑え、というポイントを追加。
これだけでは済みません。詐欺の道具はこれだけでは不足しますからね。本は良い権威の道具になりますよね?そうなんですよ、出版社の知識のない馬鹿共が「学生だけが書いた技術書」(前書きと終わりにだけを本人が書き、しかも自著として講演会で提示するという狂気の書)を出しやがった。これ、マジで有名出版社がやらかしたので驚いたよ。
で、こいつもう一冊も本(これまた共著なのに、自著として講演会で使うイカれた書)を出してるのよね。まぁ、読んでみたらあまりの頭の弱さに感動したのだけど、驚いたことにこの本を出典として Wikipedia に何度も記載しようとチャレンジするキチガイ(本人かは不明)がいたのよ。もちろんリジェクトくらっていたのだけど、ビビるよねー。繰り返すが、人工知能が悪いのじゃないのですよ。人工知能を使って、投資家を騙そうとするのが許せないのであって。
ちなみに、わたくしはそいつにコードの添削されたのですけど、おそらくそいつは FizzBuzz テスト、クリアできませんよ。なぜなら、If/Else がかけないのではなく、四則計算のミスが酷いので。チューリングテストは通るとおもうけど。どうして、大切な投資家向けの資料なのに単純な数値が一致しないのかわからないのですけど、何故か数値の足し算がおかしいことが多すぎるのよ。数値が一致しない、ってヤバすぎるだろ。それ、多分病気だから、哀れに思った(元)奴隷ちゃんたちは、病院へ行くように諭してあげてください。きっと、逆上するでしょうけど(笑)。
えっ、なんでお前はやんないのか?って、そりゃ「めちゃくちゃそいつのこと恨んでいるから」に決まっているじゃない。オレは、そいつを救えるほど、冪等な人間じゃないんだよ。だって、オレは天然知能だからな。
p.s. 多分、この記事で言及している人物の被害にあった方はは多いので、「アイツだろうな」とわかるように書いてあります。「アイツってどんな人?」と聞かれたら、説明するのが辛いでしょうからこのページをさっとみせられるようにこの記事を書きました。私も辛いのです。10年フラッシュバックに悩まされてきました。ただ、これ以上の犠牲者が出ることが耐えられなくなり、今回この記事を書かせていただきました。この記事で言及している人物は専門ではないのに人工知能・情報工学という餌を使って、相変わらずボニーアンドクライド気取りで若者を搾取しています。ソーシャルエンジニアリングを使われると、若者はかんたんに騙されてしまうものです。かつての自分がそうだったように。世の中にしなくて良い苦労はあるのです。
日本微生物生態学会が発行しているMicrobes and Environments誌のインパクトファクター(2019年分)の公表が差し止められたそうだ。
その理由はClarivate Analytics社から自誌引用率が高いと判断されたためだという。
編集長は『リサーチハイライト』という掲載論文を紹介する記事の存在が問題になった、『リサーチハイライト』を除いてインパクトファクターを計算してくれるようにお願いしたけどダメだった的な言い訳をしているけど、受理後に自誌の関連論文リストをつけて自誌論文を引用するように促す編集委員のメールとかにも問題があったと思う。
インパクトファクターが雑誌の格付け指標的に扱われ出してからいろいろ工夫をする編集委員がいるけれど、やりすぎはダメだよね。
その中でも結構有名というか、研究内容を言ったら特定される分野なので詳細は省く。
GPAバトルを制し新進気鋭の研究室に入った俺を待ち受けていたのは、今考えても普通に訴訟もんだろというレベルのブラックな「現場」であった。
同業者の方はご存知と思うが、マテリアルというのは日本がかなり強い分野であり企業の注目度も高く、
なおかつ実用度が非常に高いため「金の成る木」としてバイオと並んで世界との競争が激しい分野でもある(らしい)
比較する先が世界なので、当然世界レベルの努力と実績を要求されることは入って知った。
20時間ぶっ続けでサンプル作った実験結果を当日のゼミで発表すると「もうちょっと綺麗に資料作れないの?」とか平気で言ってくる准教授。
真面目で頑張り屋なのにインパクトファクターを稼げずドクターを6年続けて鬱になった先輩。
めっちゃ上から目線で日本国の公的手続きの手助けを求めてくる外人ポスドク。
当たり前だがすべての研究は無償のボランティアであり、どころか金払って受ける教育なのだが、
求められるのは仕事としてのクオリティ。遊びでやってんじゃないんだよ!
頑張って書いた論文のファーストオーサーはもちろん…教授「俺だよ」
いろいろなことに嫌気がさした俺はアカデミックの道を早々に諦め就活を頑張ることにした。
教授からは「好きでやってる研究だろう。好きなことにすら不真面目な君が社会に出てやっていける訳がない(意訳:研究室で奴隷続けろ)」と全力で人格否定を受けつつ、
少子化の影響もあってか、まあまあ有名といえる程度の大手企業にどうにか滑り込むことができた。
今時小学生でもわかるだろというようなレベルの情報処理の授業、
中学生の国語でやるだろというようなレベルのビジネス作文の授業、
あらゆる授業を仕事として受けることになる。もちろんおちんぎんが発生する。
すべての課題を秒速でクリアし、定時より手前で帰る日々がしばらく続く。
あまりに簡単なので研修よりは同期とのレクリエーションが目的なのだろうと勝手に忖度していた。
ある程度の教育を終えると晴れて部署配属となる。部署はSE部隊。
情報系出身ではない俺だったが、趣味でプログラミングはかじっていたし興味もあった。
入ってすぐの仕事はあるシステム(社員が使っている自作ツール)の改修だった。
新卒に簡単な仕事を与えつつ、プログラミングスキルを伸ばしつつ、自分たちの仕事も効率化できる、という上手い采配である。
プログラミングはかじっていたとはいうものの、ゲームを作ろうとして挫折したり、あとはHelloWorldレベルくらいで、
まともに運用したのは精々MATLABのような特殊なものだけ。所謂プログラミング言語で利用者がいるソフトを触るのは初体験だった。
詰まっては調べを繰り返しながらも趣味の延長のような感じで楽しく取り組むことができ、上司の引いた工程の3分の1で完了した。
俺は平静を装いつつも内心歓喜した。
なにせ不真面目学生である俺は教授から駄目出しをくらったことしかなかったのだ。久々に得られた自己肯定感である。
これはいけると判断したのか、同じく社内ツール改修の仕事をいくつか振られる。
片付けていくうち、俺のPCスキルが先輩社員と比べても高い部類にいることに気付く。
自作ツールを社内LANで動かすとファイヤーウォールに引っかかったりなどするが、先輩社員がそれを対処できないのだ。
どうやらそういう感じで動かなくなり、放置されていた部分を俺が解決しているらしい。
だがWindowsのFWの設定なんてNasneでアニメを撮りためたりFPSの海外鯖に接続するようなヒキニートにとっては半ば常識である。
陽キャパリピっぽい先輩が知らなくても無理はないが、SE部隊で長年社会人やっておいてわからないことには軽く失望する。
プログラミングが派遣の仕事とは言っても使役する側に知識がないのではやはり困ると思う。
ちょうどその時、働き方改革とかいう名目で各職場が独自でやっていたシステムを統合し、
各営業所で独自に動いていた勤休登録システムが全社的に統一されることになった。
新しいシステムはUIもモダンで、前のよりぶっちゃけ使いやすくすぐに慣れた。
だが先輩は勝手がわからないらしく、俺が先輩に質問する回数が減るのと同時に、先輩が俺に質問する回数が増えた。
働き方改革の魔手は勤休にとどまらず、いろいろな社内システムが統合されてゆく。
頼られる頻度は増し、頼ってくる相手も先輩だけではなくなってきた。どこから噂を聞いたのか他部署の人からも質問の内線が来るのである。
上司に聞けや。知っとると思うがワイ新卒やぞ?と思いながら(つーか言いながら)回答する。
まあ新しいものには若い方が強いみたいな感覚は理解できるが同期に聞けよ←残念同期からも同じ内容の質問が飛んでくる‥現実です‥これが現実‥!
このあたりで自己肯定感よりぶっちゃけ不信感を感じることが多くなってくる。
確かに中学生以降は家族でも学校でもパソコンに強いニキではあったが、
まさか面接で選抜されたひとだけで構成されている筈の会社でパソコンに強いニキをやるとは思わなかったのだ。
まあそんな人が一人もいないはずがないので、多分、本当に詳しい人はうちではなく客先に居て、かつ忙しいということだろうと思うが。
さすがに面倒に感じていたある時、PukiWikiを社員が編集して公開できる神システムを見つける。
当然というべきか、数年前に何某が色々編集していた痕跡だけを残し、現在は廃墟と化していた。が、サービスは生きていた。
ゲームの攻略を頑張って書き込んでいた時代を思い出しつつ、新しい社内システムの利用法を懇切丁寧に解説するWikiを作る。
上司からは「その辺の社員100人より貴重」「絶対やめないでくれ」的な評価を賜る。
社内ツールの使い方記述しただけで褒められる異常事態に少しずつ価値観が麻痺してくる。
仕様書がないのはもちろん、そもそも社内環境でビルドできない、なんと.NETではないVBである。
当たり前のように1ファイル50kstepを超えるソースがずらずら並ぶ様は威圧感すら感じさせた。
上司を含めて誰もソケット通信が分からない中、元々チャットツールを作ろうとして失敗した経験のある俺は、
先輩が3人×3時間=9工数かけて解決しなかったあるバグをちょいとググっただけで10分で解決。
というようになんかやたらと活躍し、どうにかプロジェクトが終わるころには上司の評価は天元突破した。
地味に詳しい人は他にもいる(外にいて忙しい)ということもわかり推測は当たっている様だった。
会社に入って以降「君は社会ではやっていけない」と言った教授の言葉の信憑性は下がる一方である。
なにせ主観的にはヒキオタがヒキオタっぽいことをやっているだけで褒められるのだ。
募る違和感の中、経団連の会長室にメールが導入されたニュースと、そのコメントを見て気付いた。
俺は異世界転生したのだと。
そう、俺の就職先は、パソコン強いニキが崇め奉られる異世界だったのだ。
自席で堂々とYouTubeを見てたときには流石に上司に苦言を呈されたのだが
「ゼネラリストには情報収集も必要」と言い訳すると「おお…」「さすが村上君だ…」となって許された。(マジ)
ちなみにマーケット調査の名目で業務中YouTuberを見ることを冗談のつもりで提案したら、真面目に検討された。(マジ)
他の人にはありえないが俺だけ許されるところに落ち着くのではないだろうか。
うける。
正直言って危機感はある。
世界と戦うを標榜していただけあって確かに研究室のレベルは高かったと思う。非情報系でもプログラミングはできて当たり前だったし。
この会社は(最近、一定以上大きければどこもそうじゃないかと思うが)半官半民みたいなもんなので、皆どことなくのんびりと仕事をしているように見える。
その結果、当然ながら競争力が落ちる。落ちはするが、会社組織は存続し続ける。
そして存続し続ける会社の中には「異世界」が広がっているのである。
他の会社もそうだと思うが、各地で頑張ってる派遣プログラマーの方がよほど技術力が高い状態。
まあでも転生した側としては居心地いいのでこの異世界に骨を埋めるのも悪くないと思っている。
はーーーーあ?
基準はそりゃ人によって変わってくるわ
NHKのノーベル賞の子供が見るようなサイトに公共性求められるのも納得いかないわけか。
あの指摘が妥当かともかく、あれは公共性を求められると考えて仕方ない場所だし指摘を投げかける妥当性はあるわ。
そもそもジェンダーイメージへの悪影響から考えられてるんだから、視聴率や注目度高いものはそもそも公共性求められて当然なんだよ。
NHKと言う国営放送の、視聴率が物によっては7割も越えたりするような組織で児童も見るようなサイトなんだからそこを公共と思うのはごく自然だろう。
インパクトファクターどれくらいだと思ってんだよ。
なのにそーーーやってクズみたいな事言ってんの。何が定義から定められてないっだよ
公共性のある場所のゾーニングは求められる、プロレスはその公共性の定義外(今の所一応見なされてる)だ
おかしくねーだろ。
お前こそ何寝ぼけたこと言ってんの? 自分の狭いテーマに関連する先行研究は読める範囲で全部読むでしょ? まあ、「微妙に関連はあるけど、外国の紀要論文でネット公開もしてない」レベルなら諦めるし、「そこそこ関連性はあるけど、スペイン語読めないしなあ……」みたいなやつなら別に読まなくてもいいけど、自分の研究テーマにクリーンヒットしているタイトルのものだったら手を尽くして入手を試みるし(留学してる知り合いにコピー頼んだり)イタリア語だろうがドイツ語だろうが読めるものは全部読むんだよ。当たり前だろ。
(単発の論文じゃなくて「よく知らない外国語で書かれた大量の重要な先行研究が存在する」場合は、その場しのぎじゃなくて本格的にその言語を読めるようにならないといけない。このテーマを扱うなら○○語は読めないとねえ、みたいな言語が分野ごとにある)
読む前に必要性の重み付けはもちろんするけど(他の先行研究でどれだけ扱われているかとか、研究動向を読むとか)、歴史や古典文学と違って現在進行系の事象を扱っている場合は判断材料が少ないから片っ端から読みますわな。習ったことない外国語を四苦八苦しながら読んでたらむっちゃ重要な内容だったとか、そういう経験したことないです? 気楽でいいですねえ。
和文雑誌では基本的にインパクトファクターとか気にしてないですわ。質が高い論文を継続して掲載している雑誌の格が高いのは当然だけど、それをはかる指標はIFじゃない。少なくとも今のところは。雑誌の格付けがないわけないだろと。そりゃ、有名な雑誌は逐一チェックしてるけどそのへんの大学紀要なんざいちいちチェックしないっすわ。
metamix 英語論文なぞいらん日本語で事足りるって話はまあいいけど、理系なら学部生ですらやらされることを文系だと教授クラスでもやらなくていいんだーフーンみたいな感想
お互いの分野で必須タスクが違うだけだろ……英語以外の外国語を読まなくていい理系はずいぶん楽ですね,って言われたらどう思うよ? 私は修論書くにあたって複数のヨーロッパの言語読んだし,東洋史だと修士でも複数の現地語+複数のヨーロッパ言語を読むのが当然みたいな分野もあるけど,理系は英語だけ読んでりゃいいんだっけ? ふーん.
dot 学術言語は一理あるとも思うけど、査読有りが理系のローカルルールという言説には面食らう。記述言語も査読有り無しも最終的には学術論文としての品質をどう担保するのかというところに帰結すると思うんだ。
slimebeth この問題、英語も査読も不要、理系が絶対と思うなみたいな捨て台詞をいろんな人が吐いてくのに「では代わりにどういう制度や方法論で研究の質を担保してるのか」を未だに誰も一言も言わないの底知れぬ闇感すごい…
本当に疑問なんだけど,こういう主張するひとたちって「まあ最近は文系も査読が重要になってきているし,若手は査読つき業績を増やしたがっているけれど,査読がつかないからダメとは限らない,ってだけの話.当たり前だけどダメダメな論文は後発の研究によってちゃんと批判されるか鼻にもかけられず無視される」っていう箇所が読めてないの? 査読つき雑誌はある,査読つきの業績は重要である,しかし査読がないからといってダメであることを意味しない,ってそんなに難しい話かね.
ていうかこういうひとたち,普段は査読通った論文なら無批判に盲信してるんですか? 論文は批判的・懐疑的に読まれ,瑕疵があれば後発の研究によって批判されたり乗り越えられたり無視されたりするものだ……というのは文理を問わぬ学問の常識だと思っていたのだが,「査読がないとどうやって研究の質を担保するの?」などと吐かす一部の理系はどうやら査読を通ってさえいればアッサリと先行研究を信じてしまうらしい.どっちが権威主義なんだか.
reuteri ペレルマンは査読されてないが多くの人から批判的にチェックされるでしょ?そのチェックの有無が科学にとって重要で、「学界の権威が言っているから正しい」という世界は科学ではないのですよ。日本語については同意
藁人形叩かれても困るんですよねぇ.
theta 日本には日本のXX学、米国には米国のXX学、印度には印度ののXX学があって相互に互換性が無いのなら、それは普遍性のある学問なのかなという疑問がある。
こういうレベルの説明から始めなきゃいけないの本当に馬鹿げてると思うんだけど,日本の西欧研究なら西欧諸言語の先行研究は当然追いかけているし,英語圏の日本研究者は日本語の先行研究読んでますよ.ドイツ人のドイツ史研究者と日本人のドイツ史学者は同じ学問に従事していて,同じ問題意識を共有している.ただ,日本の西洋史研究は日本の歴史学という別の文脈の中にも置かれていて,そちらから影響を受けて「日本の西洋史研究」独自の色を出すこともあるし,アメリカでは日本研究者と東南アジア研究者が共同プロジェクトで独自の問題意識を深めているかもしれない.そういう意味で各国の研究には多かれ少なかれその国の事情に根ざした独自性があるわけ.そして,時には「本国」以外での研究潮流が「本国」での研究に影響を及ぼすことだってある(たとえば前世紀末から今世紀初頭にかけてのアメリカのソ連史研究が典型的かな).日本の中国学はフランスや台湾の中国学と微妙に違っているかもしれないけれど,それでも同じ中国学なんだ.
kingate だとして。最先端は何処よ?学術・研究論文で最先端に批評貰う必要があるんじゃねぇの?ローカル内容でも批評貰わんと正否は出ないでしょ、総論として。で、あの学者モドキはその総論に後ろ足で砂掛けたの。
分野によるとしか言いようがないし,別に最先端は複数あってもいいんじゃないかと思わなくもないが.たとえば私が研究対象にしている地域については間違いなく英語でのショボい研究蓄積なんかよりも現地語での研究が最先端だけど,私は現地での最先端の研究をフォローしているし,現地人の使っていない資料とかも使って彼らと勝負しているつもりでいるよ(現地人だからこそ盲点になってる資料みたいなのがあるんだよなぁ).
iyochoo 国内のアカデミアを重視するか、世界のアカデミアを重視するか。両方の言語で書いてくれると助かる人が多いです。
「世界のアカデミア」なんて幻想で,各国別のアカデミアが併存してるんだよなぁ.もちろんそれらの間に橋を架ける必要はあるけれど.
(……)恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。(……)
ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.
そもそも,査読はあるし重要だが,査読がなくても良い論文であれば評価の対象たりうる,という話を少なくとも私はしていたわけで,それを「査読文化がない」と要約されても困惑するわけですが,まあ全ての論文が査読を受けているわけではないという状況を「査読文化がない」と書いているのだろうと好意的に解釈するとして.
当たり前ですが文系でも「レベルの高い査読誌」「査読はないがレベルの高い雑誌」「レベルの低い査読誌」「無査読紀要」ではチェックの優先順位や論文の重みは違います.当たり前ですね? 査読はしていないけれど,その分野では定評がありよく読まれる雑誌,というものが存在し,たとえばそのへんの査読をつけた院生向け紀要とかよりも圧倒的に読まれる,というような状況がある中で,査読がないからといって無価値扱いするのは不当だ,という話を私はしていたわけです.
なので,ニッチだけど優れた研究をしている人は,よく読まれる媒体に論文を投稿すればよろしい.というか人文系の研究対象って,研究水準の深化に伴ってどんどんニッチになっていく傾向があったりしますしー.
そもそも人文系の多くでは被引用数を重視する文化はあまりありませーん.理由のひとつとして「正確な被引用数を測定するのが困難」というのが挙げられます.著書も業績になり得る上に各国が自国語で研究する世界において,外国語も含めた紙の本での被引用数なんて管理しきれないのでー.私も自分の論文の被引用数なんて知りません.外国語で書いたやつは3ヶ国語くらいで引用されて,日本語のやつも紙の本に1回引用されたかな? でも他にも引用されてるかもしれないので,これは最低限の数字っすね.周りで被引用数なんて気にしてる人見たことないなぁ(私に指摘されて初めて自分の論文が他人の著書に引用されてることに気づいた先輩とかいたっけ).そもそも,引用されてむっちゃdisられてても1回引用とカウントするわけですよね? それ本当に論文の質の指標になるんですか?
(……)一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。(……)
それはアメリカの社会学者が自国語で論文を書いているだけでは……?
というか,日本語圏の社会学者でも英文学術誌に投稿してる人はいますし,英文学術誌に投稿してる非英語圏の学者でも,それとは別に母国語の論文書いてたりしますし.英語以外の言語での論文が載ってる社会学の学術誌,探すとあちこちにありましたよー.
韓国語> http://www.ksa21.or.kr/kjs/
中国語(簡体字)> http://sociology.cssn.cn/xskw/shxyj/
中国語(繁体字)> http://tsa.sinica.edu.tw/publish_01-1.php
ロシア語> http://www.isras.ru/Sociologicalmagazine.html
フランス語> https://journals.openedition.org/sociologie/index.html
ポーランド語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=240
リトアニア語> https://www.ceeol.com/search/journal-detail?id=1027
カタルーニャ語> https://www.raco.cat/index.php/RevistaSociologia/index
ところで日本社会学会は和文雑誌の『社会学評論』以外にもちゃんと英文の学術誌持ってるんですよねー> https://onlinelibrary.wiley.com/journal/14756781
いやほんと,テキトーな知識でよその学問分野に軽々しく口を出して,正しいこと言ってるならともかくめっちゃ的外れとか,生きてて恥ずかしくないんですかね?
death6coin “ぶっぶー.ぜーんぜん違います.ろくな知識もないひとがテキトーに想像しても頓珍漢な答えに辿り着くだけなんですよねぇ.”攻撃的ですねぇ
理系の研究事情や査読制度を知りもせず「理系の研究は権威主義だ! 定説にとらわれて思考が硬直している!」とかわめく連中に,これまで理系のひとはどんな目線を向けてきたっけ? 冷ややかな目線を向けて嘲笑ってきたよね.もちろんそれはまったくもって正しいよ.理系の事情を知りもしないのに思い込みで的外れな批判をするのは愚かな行為であり嘲笑に値する.文系に向けて似たようなことをわめく連中にも同様の態度を取らせてもらうというだけ.
これは本当にそう.最近だと三元社なんかが琉球諸語・日本語対訳の出版物を出していたりするけど,言語復興運動家の著書とか学術誌のコラム止まりで,琉球諸語で書かれた学術論文は残念ながら見たことがない.琉球諸語は最近書記法の整備とか色々進んでいるから,今後はそういう方向に期待したいよね.もちろん琉球諸語で書かれた論文を査読できるひとはそう多くないと思うけれど,査読なしで論文を発表することも許されているという文系の事情を積極的に活用して中身のしっかりした琉球諸語論文を発表していくひとが出てきたらいいなと思う.
それに対しては2つの論点から応答したい.1点目に,「日本語は過去の豊かな蓄積を持ち,現在も多くの学術論文を生産し続けている言語である」という前提条件を忘れてもらっては困るということ.日本について研究している学者は日本語で論文を書くわけで,この点が方言とは違う(大阪弁を研究する者のほぼ全てが標準語で論文を書いているし,山形弁で書かれたヨーロッパ史の高度な研究は現段階では存在しない).
第2に.もちろん書いていいです.少数民族が独自の民族として生き残っていこうとするには何らかの形で文章語を持つことが(必要ではないが)望ましく,実際にヨーロッパでは人口数万人の少数民族でも自分たちの言語で書かれた学術誌を持っている場合もある(もちろんその場合,当該言語や当該言語で書かれた文学,当該民族の歴史といった限られたテーマについての論文を書くので精一杯だったりするのだが.ちなみにそういう少数民族の学術誌に少数言語で論文を載せてる日本人研究者もいる).それに,言語と方言とのあいだに本質的な違いはなく,たまたま政治権力を持ち規範が整備された言語変種が「言語」とされ,「言語」と見做されなかった地域的変種が「方言」と見做されているだけ,というのが社会言語学の常識であり,実際に気仙沼方言は方言ではなく独自の「ケセン語」だと主張して聖書を翻訳したお医者さんなんかもいる.上で書いたように,宮古語と日本語のバイリンガルのコラムを載せている学術誌もある(コラム止まりで,論文ではないけど).なのでたとえば,鹿児島大学で薩摩弁を公用語にした紀要が出版されてもよいと思うし,もしその紀要に優れた論文が次々に掲載されたとしたら先行研究を読むために薩摩弁を学ぶひとも出てくるかもしれない.そしてそれは,悪いことでは決してない.
きゃーお恥ずかしい.ご指摘ありがとうございます.訂正しました.
言語だけで問題視はしないが、批判されている社会学については英語で論文を書いて、世界から査読を受けるべきと思うと、工学系で研究をしている人間として言っておきたい。日本語でだって研究は出来るとかいうのは、批判の本質に対しては無意味な論点ずらしでしかないんですよ。
http://dlit.hatenablog.com/entry/2018/10/09/081143
とは言っても、人文系でも査読される事が重要になってきている様だし、「査読は理系だけのローカルルール」とのたまっていたのは馬鹿な繰り言だと分かってホッとはしました。千田先生が学んだ社会学も批判を機に変わって貰いたいですね。学者と呼べるのか?と感じる人間が排除される様な変化を期待したい。
唐突ではあるが、皆さんは、工学系研究者が年間に何本程度の論文を読むと思われるだろうか?ここで言う、読むという行為は再検証実験が自分で出来るレベルに落とし込めるという前提でです。時間がある博士課程の学生で、なおかつかなり優秀と言われる人で150も読んでいれば相当なものです。不慣れなものが論文から何をどう作ればいいのか?を理解するのに要する時間は一月にも及ぶかもしれません。斜め読みまで含めれば、修士の学生でも、最低50本程度は読んでいるでしょうが、逆を言えばそんなものです。斜め読みで済ませることが出来るのは、論文の質が担保されているからですね。
一方で、自分の専門領域についての論文は、毎年、大量に発表されます。もしも査読がなく、国際学術誌や国際会議にランク付けがなされていなければ、玉石混交のクズ山の中から、自分の研究が引用すべき論文について、その妥当性を再検証するだけで膨大な時間を必要としてしまいますね。査読と学術誌の採択難易度によって、論文の質が担保されている事が如何に重要か?お分かり頂けるでしょう。レベルの低い会議の採択論文や、査読なし論文などは、僅かな例外を除いて通常は再検証されることなく消えていきます。高いレベルの査読を通って採択されている事は、再検証する手間をかける価値の証明になります。
論文の評価には被参照数という軸があります。いい研究であれば、数百の論文から参照されます。参照されるという事は同業者による再検証が行われているということを示しているので、手法の妥当性が分かるのです。恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。非効率すぎて耐え難いという気分に、個人的にはなります。
査読と被参照数の話をしました。これによって完全とは言えないまでも論文の質が担保されるのは、世界中の同様の背景を持った研究者たちによって、その仕組みが共有されているからです。査読を受ける者も、査読する者も、何度も何度も査読に関わって来たという実績を持っていて、厳しい目で評価を行いあっている事が前提にある。私が社会学は英語で査読を受けるべきと言う理由はここにあるのですね。
社会学者が、査読なしの招待論文 > 査読された論文 という認識であることは、幾人かの社会学者が言っている事です。実際に社会学者の履歴をみても査読付き論文が殆どない事も指摘されていますね。そういう学者たちの査読に何か価値はあるのだろうか?と思う訳です。一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。故に、査読されない研究者同士ではなく、査読が当たり前になっている世界の評価を評価を受けるべきだと考えます。工学系では国内学術誌は相当に軽視されますが、英語か日本語かは大きな問題であるとは思いません。査読が当たり前ではない世界から、査読が当たり前の世界に出て評価を受け、実力を証明せよという事です。その為には、英語を使うのが妥当なのでは?
という風に思いますね。
日本語かどうか?は本来は(日本語のみの会議のレベルが低いとしても)重要な問題ではないけど、日本語で閉じている限りは社会学は学問と呼べるだけの再検証性を備えていないのではないか?と言う疑問を改めて提示しておきたい。私は、少なくともジェンダー論を学問とは思えなくなっています。
泥臭い実応用研究は認めないわけではないが、大きな評価にはならないという立場です。
以下長文で失礼します。
まずはじめに、産学の役割分担はきちんとなされるべきだと考えている。
大学はあくまで学術機関であり、本来は「学問」をする場であって、
「工学部が実応用を軽視している」って言われてもそれは学問かという問題もあるし、
役に立つ技術を企業のために用意してあげる下請け機関ではないので。
研究活動では、新しい方式や理論を研究し、学問として確立するところまでが大学の役割で、
泥臭い実応用の問題を解決して社会に製品やサービスとして世の中に還元するのは企業の役目。
ここを曖昧にすると、企業でやるべきことが大学でできてしまうなど、公私混同の問題が発生する。
例えば、表向きは泥臭い応用研究をやりますよと言って公的な研究費をもらえるのであれば、
実際は特定の企業が自腹でやるべき課題を大学にやらせるとかそういうことが公にできてしまう。
「泥臭い」部分にもきちんと学術的な新規性や独自性があるならともかく、
税金が使われているんだから、特定の企業の作業の下請けみたいなものを許さないためにも
ここはきちんと線引きしておくべき。
ただし、冒頭で「泥臭い研究は認めないわけではない」と言ったのは、
その研究自体に価値があるのではなく、そういうことをやる過程で新しい問題に気づき、
大学でやるべき独自性のある課題に発展したりすることもあるから。
(なんでもかんでもダメだと言いすぎると研究の範囲が限られすぎるので)
正当化するために言っているのだとしたらちょっとそれは問題だと思う。
論文(研究成果)は、大学以外にも企業や一般の人も読める人類の共有財産だが、
対象読者としては産学分離の観点からも同じ学術界(学術で研究を行う人)に向けて書かれている。
論文を最もよく読むのは本職の研究者だし、論文を査読・評価するのも研究者。
研究者というものは常にいい研究とは何か、どういう研究テーマを選ぶか、
また行き詰まった時に次どうするか、そういうことをずっと考えてるわけで、
論文というのはまさにそういう時の研究者のアイデアの源泉としての役割が強い。
「当たり前のことを当たり前に努力して当たり前のものができました」
という論文があったとして、進んで読みたいと思うだろうか。
このように考えると、学術界への貢献とは何かが見えてくる。
「研究者の考え方や研究方針にどれだけ影響を与えたか」に重点を置いているように、
論文の読み手に大きな影響を与えることが、学術界に対する貢献とされている。
学術界の誰もが読みたくない(影響を受けない)論文の評価がどうしても低くなるのは仕方がない。
もちろん、たまたまその技術を実用化しようとしていた会社がいれば
この論文の研究結果はそのまま使えるってなるのかもしれないが、
それは学術界に対する貢献として評価できないし、産業界に対して中立とも言えない。
また、全ての分野ではないかもしれないが、
学会で知り合ったその会社の社員は発表されている論文を全てチェックしていて、
製品化できないか検討を進め、(おそらく泥臭い部分を解決して)
これに関しては良い役割分担だと感じている。
企業というものは、儲かるとなれば少々泥臭くても大変でもやるもので、
大学生個人が卒検の1〜2年でできる範囲の泥臭いことぐらい、儲かるとなればどこでもやってるからね。
大学が実応用を考えていないから世の中に還元されていないというのは勘違いに近いと思う。
(逆にいうと、別に就職しても、会社を選べば企業の立場から研究みたいなことができるということ)
また逆輸入で、研究界で生まれた研究の泥臭い部分をある企業が解決してサービス化し、
今度は研究室でそのサービスを契約してさらに発展した問題に取り組むみたいなことはよくあるけどね。
>「企業でも出来る実応用のステップは企業に任せるべき」という点については必ずしもそうであるとは思いません。もしそのような姿勢を取り続けると、「営利価値がある」と企業が判断したものしか一般人はアクセスできなくなってしまいます。
そもそも「営利価値がない」と判断されるものは世の中に還元する必要がない役に立たない研究では?
(あるいは、ニッチすぎてお客さんが集まらず採算が取れない、であるとか)
言い換えると、企業は価値のあるものはきちんと取り組んでいる訳で、
それ以外のものを大学で研究してるとすれば、わざわざ税金を使って価値の低いことに取り組んでることになる。
(もちろん「すぐに役に立たない」研究もあるが、その場合は独自性や新規性のある学術的問題があるはず)
やるとなったら自社のお金で取り組み、失敗した場合は自分で責任をとるわけだけども、
好き勝手に研究テーマを設定できる大学みたいな公的な機関で自分の好みでテーマを設定し、
企業も見ていないような技術の実応用に取り組んでいるとすれば、その方が税金の無駄と思わないですかね。
>実応用のための泥臭い部分を投げっぱなしにしているから、世間一般から「大学は好き勝手やって金を無駄にしている」みたいなことを言われてしまうのだと思う。
ノーベル賞受賞者の研究や Nature や Science みたいな
実応用で新規性の少ない「泥臭い」ことで評価されてる論文がどれだけあるでしょう。
そう考えたとき、私には「大学は好き勝手やって金を無駄にしている」っていうのは
むしろ実応用とか泥臭いことをやってる人のことを言ってるように聞こえてます。
ただでさえ今は研究費もポストも削られ、学生数まで減ってるんだから。
>眠っている研究成果を一般に届けるための「研究」に力を入れたほうがよほど産業界にも有意義
上にあげた理由で、企業がやるより大学でやる方が「有意義」という部分が疑問。
(大学でやれば「無料」という発想をしてたりしてないですかね)
大学では「社会に役に立つことをやっていれば何をやってもいい」というのも間違い。
どのように貢献しているかをうまく説明できれば良いと言うことであって
それを一言で表すのが「新規性」とか「独自性」っていうことかと思う。
(=研究にお金がかかっている)という側面を考慮することかなぁ。
補足として、案外企業から増田さんがやりたいようなことをやってる企業も
割と多いと思うので、そういう道を模索すると適職が見つかるかもです。