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はてなキーワード: 工芸とは

2024-07-26

anond:20240726103032

ここ20年くらいでアニメを作ることが社会的に認められてきたために、参入してくる制作者たちが基本的に「クリエイター」ではなくなってしまった結果です。どういうことかと言うと、キャラクターをきれいに作るだけなら、普通の人が技術習得すれば、それなりにできるようになります。でも、そこに魂を入れられるかどうかが、クリエイターかそうでないかの違いなのです。クリエイターというのは、もともとそういう資質を持った人が、自己修練してクリエティティを高めてくことによってなるもので、大学専門学校養成できるような甘っちょろいものではありません。

わかりやすい例を挙げると、京都のお土産の中には、とても高度な技術で作られている民芸品がたくさんありますよね? でも、それらは「作品」ではなく「工芸品」と言われることが多い。技術だけで作ると、いくられいに作ってもそうなってしまうんです。一方、ゴッホの絵は一般的意味できれいじゃないから「工芸品」にはならないけれど、数億円という評価額がついたりする。

それはなぜか? そこにアートとしての作品性があるからです。アート工芸品のレベルを超えます。つまり今のアニメ業界制作者たちは、工芸品を作っている技術者でしかないのに、アーティストクリエイターだと嘘をついているんです。他のジャンルもそうですけどね。

だけど、僕は「魂が入っている」という言い方は個人的に嫌いです。なぜかと言うと、「魂」という言葉は誤解を生みやすいからです。「魂を入れれば作品になる」という説明がなされた瞬間に、「全身全霊をかけて一週間不眠不休で作ったから、魂が入った」とか言い出す輩が現れる。「作品」かどうかの判定基準は、そんなに生やさしいものではありません。

https://char-blog.hatenadiary.org/entry/20100811/1281549867

2024-07-05

anond:20240705193129

ハイブランド中国人が作ってる、国内産のもの最低賃金ギリギリ貧乏職人が作ってる。そういう工芸品を買って「自分はいもの買ってる」つって悦に入ってる人って人間性疑う。

 

ハイブランドとか一生モノって言われる製品ってサスティナブルとは真逆だよね

2024-06-27

中年の半端な車好き、半端な成金の車選び

多少の成金になって実感するのは年収5000万円程度は金持ちヒエラルキーの中で下の中程度ということ。

それを感じるのはいろんなところであるけど自分場合は車選び。

小僧のころにあこがれた国産スポーツカーはもはや絶版車で、じゃあせっかく金持ちになったからと高い車を選びだすと途端に現実が見えてくる。

1億円~の車はモロモロを切り詰めれば買えないこともないけど、あれはそういう買い方をする車じゃない。

根本的に住む世界が違う人が購入するイメージ


じゃあ半端な車好き小金持ちは何を選べばいいのか。

フェラーリのような工芸品を維持する情熱はない。ドイツ御三家レクサスなんかも1500万円程度では成金根性を満たせない。

ポルシェスノッブ接客も大嫌いだ。

関係ないがマカンの素グレードに乗ってるやつら、全員リセールの事しか考えてねえだろ)


で、ずーっとここんところ考えてた。

原点に返るために、見栄を張りたい成金根性をいったん脱ぎ捨ててみた。

じっと自分の中の車好きの少年心を探ってみた。

そうすると出てきたのが”普通に見えるけど中身はすごい”。「羊の皮を纏った狼」。

発想が古い。と自分でも思う。

でも考えるとそう。

金持ちに対するルサンチマン自分アイデンティティに深く結びついちゃってるからわかりやす金持ち車はなんかイヤだ。ダセェ。

でも金持ちになったんだから単なる大衆車は嫌だ。あとスポーツカーっぽい奴がいい。SUVは嫌いだ。


そのあたりの落としどころとして次に乗りたい車は・・・・・・



Golf R


どうでしょうか。

大衆車の中のいっちゃんええやつ。

コンパクトホットハッチでもポルシェに肉薄しちゃうよ的な。

ずっと下から上を僻んで生きてきた人間にはちょうどいいんじゃないかな。

2024-06-21

anond:20240621222034

アルチザンってのは職人とか技芸師のことっすね。熟練した技術や手工芸作品を作る人間のことを指すっす。

一方、パルチザンってのは抵抗運動とかゲリラ戦闘員のことっすね。反乱軍の一員とか、ときには政治的な反対勢力として活動する人たちっす。

手塚が言った「アーティストになるな!アルチザンになれ!」ってのは、創作に対してもっと実践的で職人的な姿勢を持てってことっすね。

自分作品に対する責任技術の磨きを重視する姿勢を大切にしろって意味っす。

要するに、アルチザン技術精通したクリエイターパルチザン戦闘抵抗に関わる活動家。全然違うっす。

2024-06-03

anond:20240603054740

お座敷遊びゆうたか所詮旦那衆の気晴らしに過ぎないやんか。あんなん文化いうんか?w

歌舞伎役者所詮大衆芸能スターやさかい、今でゆうたらロックスター程度のもんやろ。 

ハイブラウ文化の話ならせめて能とか持ち出さな

他にもいろいろあるやろ。絵画工芸和食やあれやこれや。西洋音楽も盛んや。

2024-05-13

実家の近所に住むじいさんを車に乗せて買い物に連れて行った三日後

そのじいさんが亡くなった。

昨年に父が亡くなり、私の実家は車を処分したので、実家帰省するときレンタカーを予約する。この連休もそうした。

安いので、地元自動車修理工場フランチャイズでやっているインディーズレンタカーにしてみたら、受付してくれた事務の親切な女性は、レンタカー約款を読み上げる間中修理工場から爆音で流れてくる演歌のUSENに向かって突然「ああうるさいっ!」とブチぎれ、「あなたもうるさいと思うでしょう!?」と私に同意を求め、同僚に修理工場につながるドアを閉めさせると、「最後に乗っていたのは平成15年式のbB(みんなの地元DQNがよく乗ってたやつ)です。令和になってもまだ乗ってました」というある意味SDGsでは? みたいなことを平気で言う私に、令和2年式フィットハイブリッドという、まさに隔世の感というほかない車の操作方法をとても丁寧におしえてくれた。

そんな調子で車を借りて帰ったところ、母に、「同じ町内会のじいさんと私を、車に乗せて買い物に連れて行ってほしい」と頼まれた。

正直、ちょっと嫌だった。母はよく知っている人に違いないだろうが、私はそのじいさんをほとんど知らない。まさにあいさつ程度のイチゲンじいさんであり、むこうも私を同じように思っているだろう。そのイチゲンじいさんを車に乗せて買い物に行く…気が重い。万一大事故になったらどうしよう、面倒だなあとか、そもそも知らない人が苦手…などと種々のことが頭をよぎったが仕方がない。年齢的にも立場的にもそんな子どもじみたことは言ってられないので、私は母の申し出を受け入れ、じいさんと母を買い物に連れて行った。母には一瞬「ええ…」みたいな顔をしてしまったが、じいさんの前では全力の快諾顔を心がけた。

実家所属する町内会は、会の中でまた数ブロックにわかれているらしいが、母らのブロックだけ会費が余りがちのため、いちど寄合(=飲み会)でぱっと使おうということになったそうだ。じいさんはブロック会計掛で、だから買い出しにゆくとのこと。90代のじいさんが町内会の財布のひもを握る、これが種々の法律目的条文に言うところの「少子高齢化の進展」ってやつだなと思った。なお、飲み会の予定は明日とのこと。何もかも急だ。

母とじいさんは、かごいっぱいに酒やつまみを入れた後になって、急に予算に収まるか心配しだし、その場で減らそうとするので、「レジ通して予算越えた時点で減らしてもらったらいいですよ」と私は横から口を出した。買い物は予算ぎりぎりにおさまっており、母は、じいさんのことを「さすが!」と謎にほめ、じいさんもまんざらでもなさそうだった。

じいさんは先述の通り90代、母は70代なので、畢竟ひとり30代の私が荷をせかせかとトランクに積み、これで一安心と思いきや、ついでに寿司の予約にも連れて行ってほしいというリクエストが出た。一瞬「マジか…」と思ったが、乗り掛かった舟というかもうすでに乗っている船なので、ニコニコ笑って「いきましょう!」とうけおい、ナビに寿司屋の住所を設定して寿司屋に向かう、その道々、寄合公民館ではなくじいさんの自宅でやることになっているという話になった。

じいさんは、「もう暑いから、たくさん人が入るとエアコンを入れないといけないかもしれない」と言い、私は「電気代とショバ代として、今日買った酒の数本くらいご自身晩酌にされても罰は当たらないと思いますよ。余っても最後みんなで分けちゃうんでしょうから今日先に飲まれたらいかがです? あ、私は絶対誰にも言いません」と真顔ですすめ、それをきいた母は助手席で、じいさんは後部座席で笑っていた。

寿司の予約がすんで車にもどったところで、私はじいさんに「ほかに寄りたいところはないですか?」ときいた。じいさんが大丈夫というので、家まで送っていき、大量の酒を玄関通り越して冷蔵庫の中までわっせわっせと運び込み、私はようやくそこでお役御免となった。

じいさんの家の下駄箱の上には「努力」と彫られた大きな飾り駒があった。それは木工をしていたじいさんが昔手ずから彫った工芸品だそうで、「努力」と書いた将棋の駒というまんがみたいな一品を掘れる人がこんなに近くにいることに、私はいたく感じ入ってしまった。マクロ組めるより努力って掘れるほうがぜんぜんいいな。

そしてその三日後、飲み会から数えれば二日後に、じいさんは亡くなった。布団の中で亡くなっていた。連絡がとれないことを案じた親戚がすぐにかけつけ、発見ははやかった。

その日にはもう私は実家から婚家に戻っていた。母から送られてきたLINEでじいさんの突然の訃報に接し、文字通りの突然の訃報ぶりにひどく衝撃を受けたが、母はLINEに「まあ~おとしにふそくはないでしょう」(原文ママ)とも書いて寄越し、その意外なドライっぷりにはちょっと笑ってしまった。

そうして私は、じいさんを買い物につれていくことを快諾し、道中ずっとにこにこして、精一杯ふたりを手伝ったことを、本当によかった…と思った。じいさんのために、というか、自分精神衛生のために、よかった。すげなくした直後に死なれたら、すげなくしたという自己責任良心の呵責と言い換えてもいいかも)を背負いきれない程度にはショックだったと思う。

それに、連休のよく晴れた日に、ちょっと妙な三人組ででかけたその買い物、なんだか私には結局楽しく思われたから。

死ぬということが、生きるということから決して遠くはなれてはいないように、死んでしまった人たちもまたそうである、と私は思う。つかずはなれず、なんとなく私の歩様にあわせて、今も隣を歩んでいるように思う。

最初に私をかわいがってくれた人を亡くしたのはまだ私が赤ちゃんの頃、母の親友のお母さん。とても愉快な人で、父との結婚を迷っていた母に、「母(はは)ちゃん、馬には乗ってみよ、人にはそうてみよ、よ」とはげました。そのうちこの世にやってきた私は、母以外の人に抱っこされると、せっかくやってきたこの世の終わりのように泣き叫ぶタイプの赤子だったのに、その母の親友のお母さんにだけはごく機嫌よく抱かれていた。そういう写真が残っている。私は、物心もつかないうちに、おしゃべりもできないうちにお別れした、母に伝えきいただけで自分では何にも覚えていない彼女のことを、いつもお守りみたいに心の中に持っている。赤ちゃんだった私に向けられたその無償の厚意を、つらいときの糧にしているようなところが今もある。

最初友達を亡くしたのは小学一年のころ、友達は前歯が抜けていて、永久歯が生えてくる前にいってしまった。その子のお母さんは今になっても私に会うと、生きてたらあの子もこんなふうだったのかと思うという。私の節目、節目に、そう思うという。そのとき友達わたしの隣にいないという人はきっといない。

父親は私のことが大好きだった。父と母と私の三人で、あるいは父と二人で、父の運転する車でいろいろなところに出かけた。ときには父にさそわれて、その仕事についても行き、こんなに大きな娘さんがいるのと客先に驚かれ、父はにこにこしていた。

父は死ぬ間際までほそぼそと仕事を続け、わたしは彼が亡くなる直前にアポをとっていた客先の数件に、父が亡くなったことを知らせる電話をかけた。はじめて話をした先方は、私が電話をかけてきたことによほど驚き、父が亡くなったとの知らせにしばし絶句した後、あなたのことを先生はいつも自慢そうにしていたと言い、最後には先生がいなくなったら誰を頼みにしたらいいか、本当にお世話になりました、と泣き出した。私は、涙する相手に、○○さんのおかげでほんとうに最後最後まで誰かの役に立たせてもらって、惜しんでまでもらえて、父はとても誇らしく、ありがたく思っていると思います、と言うしかなかった。でも父は、実のところ、そんなに殊勝な人間でもない上、けっこう変わってるよなというレベルでこだわりの少ない人でもあった。

父が亡くなる直前までLINEをやりとりしていた人たちに、そのままLINEで父の逝去を伝えようとしたのだが、父はLINEトークをある程度の期間が経つとかならず全削除するという、こだわりのなさを通り越して、ややサイコパスのような一面をもっていた。

亡くなるひと月ほど前、父は、免許を返納することにしたというLINEわたしに送ってきた。車というもの私たちの思い出の多くを占めており、驚いた私が父に電話をかけると、「薄暮時間帯に信号の見落としをした。今まで一回もそんなことはなかったんだから、もう潮時だと思った」と淡々と父は言った。あれだけ運転が大得意で、大好きで、アイデンティティの大部分をしめていたように見えたのに、引き際を悟ればもうしがみつない。その、ものに拘らない姿勢に私はいたく胸を打たれたし、これができない老人が多い以上、今もって、父の最も尊敬すべき美点の一つだとおもう。

ただ、電話を切ったあと、今までいろいろなところに連れて行ってくれて、たくさんの送り迎えをしてくれて本当にありがとう、と万感の思いをこめて送ったLINEも、父が、入院後(退院してくることはなかった)母とかわしあった感謝の思いを伝え合うLINEも、亡くなった時には父はすべて消しており、それを見て、私も母もあまりの父らしさに爆笑した。

(ついでに、父が亡くなる前々日まで、もはや執念のトークの削除を行っていたので、トークルームのどのあたりの人たちにまで逝去を伝えるトークを送るべきか見当もつかず、非常に頭を悩ませることになった)

そんな感じの人だったので、この世に未練というものがあったとは到底思えない。退院の手筈を整え始めていた日の深夜の3時過ぎという、家族がやや油断している上に一番身動きしづらい、マジでどうしようもない時間にいきなり息を引き取ったため、父の死に目にあえなかった母。父の逝去からしばらくして、急に「お父さん、最後に私に言いたかたことなかったんやろか」としんみり言い出したので、私は反射的にげらげら笑って「あるわけないやん」と言ってしまった。死ぬ間際まで律義にLINE全削除を続けた男にそんな情緒があるとはちょっと思えなかったのだ。母もすぐにげらげら笑いだし「そうやね」と言った。

こんなふうに父のことを思い出しているとき、私はやっぱり父がすぐ側にいるように思う、フロアシフトを挟んだスカイラインの、運転席と助手席くらいの距離のところに。

まれから今日にいたるまで、誰かの死はいつでもそばにありつづけた。だから死んでしまった人たちも、同じようにいつでもそばにいるように思う。

生きてとなりにいる人のように声をかければ答えるわけではない、電話をかければ出てくれるわけでもない。そうだったとしても、生きている人とはほんの少しちがう居方で、それでもわたしのとなりにいてくれているのではないか、と、わたしはいつも信じる。

じいさんは、私が買い物に連れて行った翌日の飲み会の日、つまり亡くなる三日前、近所に住むばあさんに、私のことを「車に乗せて買い物に連れて行ってくれた。あの子はとてもいい子だ」と言ったそうだ。

それを近所のばあさんから母は伝えきき、今度はわたしにそれを教えてくれた。じいさんがそう言ってくれたから、近所のばあさんは私に「会ってみたい」と言っているらしい。

ありがとうじいさん。よくわかんないけどばあさんも、私に会いたいと思ってくれてありがとう。会おう。

私は今、私に会いたいと思ってくれる人がいるなら、その人にとても会いたい。だから、次の帰省ときには、私は近所のばあさんに顔を見せに行くつもりでいる。

私の目にうつり、私が今生きている世界は、そのときには隣に、近所のじいさんがどうしたっていてくれる、そういう世界だ。

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6/22

朝はてぶ見たらこ記事があって、とても驚きました。

父の死は、私にとってとても大きな出来事で、父のことを書きたいと1年間思い続けているけど、整理がつかずになかなかかけずにいます。一部ですが少し吐出せて、それを読んでもらえてうれしいです。

私が書いた別の読みたいというブコメをみかけたので、かなり以前に書いた増田ですが、お年寄り話題・肉親の死が出てくるものを2つほど貼っておきます

※ビービーの車名直しました。廃車するとき泣きながら見送ったのに間違えてしまった、ご指摘ありがとうございました。

https://anond.hatelabo.jp/20200731173343

https://anond.hatelabo.jp/20200109011834

2024-05-02

anond:20240502045317

画集が家にいくらあっても芸術を語れる友が周囲にいなければ文化的とは言えない

かつて、地方の中核都市にも武士資本家コミュニティがあって、伝統文化工芸にもお金が回っていたころには、地方にも確かに文化があった

いまの地方を仕切っているのは、中学時代上下関係仕事を回し合う互助会とその親玉地方政治家

そうした人々に受けるのは文化ではなく娯楽

2024-04-20

純金茶碗窃盗事件で明らかになった日本の闇

・純金としての価値は480万円しかないのに美術工芸品として1000万円の値をつけたデパート側のボッタクリ

・その純金茶碗を純金としての価値よりずっと低い180万円で買い取り本来の480万円で売却した貴金属買取店の詐欺商法

2024-04-17

anond:20240415172824

金って200万以上の買取税務署書類を提出する必要があるんじゃなかったっけ。なので、あえてそれより下の値段に抑えて回避するのでは……と思って調べてみたんだけど、支払調書の義務があるのは地金とか金貨で、工芸品は対象外っぽい?

2024-04-12

生成AIによるイラストには魂がない

ここ20年くらいでアニメを作ることが社会的に認められてきたために、参入してくる制作者たちが基本的に「クリエイター」ではなくなってしまった結果です。どういうことかと言うと、キャラクターをきれいに作るだけなら、普通の人が技術習得すれば、それなりにできるようになります。でも、そこに魂を入れられるかどうかが、クリエイターかそうでないかの違いなのです。クリエイターというのは、もともとそういう資質を持った人が、自己修練してクリエティティを高めてくことによってなるもので、大学専門学校養成できるような甘っちょろいものではありません。

わかりやすい例を挙げると、京都のお土産の中には、とても高度な技術で作られている民芸品がたくさんありますよね? でも、それらは「作品」ではなく「工芸品」と言われることが多い。技術だけで作ると、いくられいに作ってもそうなってしまうんです。一方、ゴッホの絵は一般的意味できれいじゃないから「工芸品」にはならないけれど、数億円という評価額がついたりする。

それはなぜか? そこにアートとしての作品性があるからです。アート工芸品のレベルを超えます。つまり今のアニメ業界制作者たちは、工芸品を作っている技術者でしかないのに、アーティストクリエイターだと嘘をついているんです。他のジャンルもそうですけどね。

だけど、僕は「魂が入っている」という言い方は個人的に嫌いです。なぜかと言うと、「魂」という言葉は誤解を生みやすいからです。「魂を入れれば作品になる」という説明がなされた瞬間に、「全身全霊をかけて一週間不眠不休で作ったから、魂が入った」とか言い出す輩が現れる。「作品」かどうかの判定基準は、そんなに生やさしいものではありません。

https://char-blog.hatenadiary.org/entry/20100811/1281549867

AIに限られた話ではない

2024-02-16

anond:20240216124331

これについてるコメントが賢ぶりたいだけの馬鹿ばっかりで嫌になってしまった。増田の言ってることはわたしにはよく分かるし、たぶんそんなに間違っていない。

数学経験から完全に自由になることはできないんだよね。

結局のところ数学普遍の真理ではなく、人間の作った複雑な工芸品みたいなものであって、ア・プリオリに正しいわけではない。

言ってしまえば「数学の秩序はア・プリオリである」という我々の「態度」が数学普遍的で厳密なものに見せている。言い換えれば、普遍であることは数学というゲームに対する我々の要請なんだな。厳密でないところが見つかったら「それは数学ではなかった」ことになるわけだ。

ブーヴレス規則の力: ウィトゲンシュタイン必然性発明』を読んでみて欲しい。

2024-02-14

マッチングアプリ意味が広すぎて何も言っていないのと同じのプロフTOP100

  1. 食べる事が好きです。
  2. 音楽聴くことが好きです。
  3. カフェ巡りが好きです。
  4. 散歩が好きです。
  5. 旅行趣味です。
  6. パソコン趣味です。
  7. 映画鑑賞が好きです。
  8. 本を読むのが好きです。
  9. アウトドアが好きです。
  10. インドアで過ごすのが好きです。
  11. 新しいことに挑戦するのが好きです。
  12. 美術館を巡るのが好きです。
  13. 写真を撮ることが趣味です。
  14. ヨガをしています
  15. フィットネスに通っています
  16. 料理をするのが好きです。
  17. スポーツを観るのが好きです。
  18. ペットと遊ぶのが好きです。
  19. ガーデニング趣味です。
  20. 手芸に興味があります
  21. ボードゲームが好きです。
  22. 星を見るのが好きです。
  23. 海が好きです。
  24. 山が好きです。
  25. 自然を楽しむのが好きです。
  26. コンサートに行くのが好きです。
  27. バーでくつろぐのが好きです。
  28. ワインを楽しむのが好きです。
  29. コーヒーが好きです。
  30. お茶を楽しむのが好きです。
  31. アニメを観るのが好きです。
  32. ゲームをするのが好きです。
  33. パズルを解くのが好きです。
  34. 言葉を学ぶのが好きです。
  35. 歴史に興味があります
  36. 文化交流に興味があります
  37. 人と話すのが好きです。
  38. 独り時間を大切にしています
  39. ファッションに興味があります
  40. 音楽演奏するのが好きです。
  41. 歌うのが好きです。
  42. ダンス趣味です。
  43. 映画制作に興味があります
  44. 写真集を集めるのが好きです。
  45. ビンテージ品を集めるのが好きです。
  46. 手紙を書くのが好きです。
  47. 日記をつけています
  48. ブログを書いています
  49. SNSをよく使います
  50. テクノロジーに興味があります
  51. 新しいガジェットが好きです。
  52. インテリアデザインに興味があります
  53. 芸術創造するのが好きです。
  54. 工芸品を作るのが好きです。
  55. ジグソーパズルをするのが好きです。
  56. マジック趣味です。
  57. 占星術に興味があります
  58. 心理学を学んでいます
  59. 哲学的な話をするのが好きです。
  60. 社会問題に関心があります
  61. 環境保護に取り組んでいます
  62. ボランティア活動をしています
  63. 政治に興味があります
  64. 経済に興味があります
  65. 投資をしています
  66. 株式市場に関心があります
  67. 起業家精神があります
  68. リーダーシップを学んでいます
  69. チームスポーツが好きです。
  70. 個人スポーツを楽しんでいます
  71. 海外ドラマを観るのが好きです。
  72. ドキュメンタリーを観るのが好きです。
  73. 謎解きが好きです。
  74. 探偵小説を読むのが好きです。
  75. ファンタジー小説が好きです。
  76. SF小説を読むのが好きです。
  77. 歴史小説を読むのが好きです。
  78. 詩を書くのが好きです。
  79. 短編小説を書いています
  80. エッセイを書くのが好きです。
  81. 漫画を描くのが好きです。
  82. イラストを描くのが好きです。
  83. デザインをするのが好きです。
  84. 建築に興味があります
  85. 古典音楽聴くのが好きです。
  86. ジャズを楽しむのが好きです。
  87. ロック音楽が好きです。
  88. ポップ音楽をよく聴きます
  89. 電子音楽を楽しむのが好きです。
  90. レゲエ聴くのが好きです。
  91. ラップ音楽を楽しむのが好きです。
  92. ワールドミュージックに興味があります
  93. 楽器を集めるのが好きです。
  94. 音楽イベント企画しています
  95. フェスティバルに行くのが好きです。
  96. 自然歩道を歩くのが好きです。

2024-01-26

anond:20240126183838

マジか

私の周りは美術工芸系の作家とか、自営業の人が多いから、特殊タイプが固まってるのかも

自分所属するコミュニティに『正しい家族しか存在しなかったら、そりゃ不安になるわな

2024-01-25

「僕も卒業生なんだよ」学園祭女子学生を狙ってつきまとう「さびしんぼウザ絡みおじさん」の恐ろしさ

フリマブースはズラーッと並んでいて、それを順に見ていると、近くにいる客たちも私の後ろや前で、同じタイミングで同じブースを見ている、ということがありました。水族館とかで「あ、さっきヒトデコーナーにいたカップルアザラシのところでまた会った」とか「深海魚からペンギンのところまでこの家族づれとずっと一緒だったな」みたいになることありますよね。ああいう感じです。

 私の横にいた1人の男性が、フリマを出店している女子学生作品を見て「君は、工芸デザイン科でしょ?」と話しかけました。女子学生は「そうですー」と答えると、男性は「僕はここの視覚伝達デザイン科を卒業してるから分かる」と言いました。「そうなんですかー」と女子学生が返し、なにか会話していました。

 私は横目で「なんでわざわざ自分武蔵美だって言うんだろう」と思いつつ、作品を夢中で見ていました。

 するとその男性は次のお店も次のお店も、売り子の女の子に「僕は武蔵美出身」ということをいちいち告げて話しかけています

 意識的その男性を見てみると、男子学生飛ばし女子学生にだけ話しかけていました。

■「これはマズい」男性を見張りはじめた

 私や子どもたち、他の大勢の客は夢中になって背中を曲げてテーブルの上の作品を見てるのに、その男作品はチラ見するだけで女子ばかり見て自己紹介しているのも妙でした。

 女性が並んで着席していて男性が順番に回ってくる婚活パーティーってありますけど、その男性1人だけ婚活パーティーをしているかのようでした。フリマなのに。

 私は素敵な作品を買い逃したくないから買い物に集中したくて、この男性のことを忘れようと努めました。

 だけど、横に整列しているテーブルの上に作品を並べているフリマブース最後まで来ると、広場テントが張ってあって、その中がお店になっているブースがありました。作品が並ぶ棚が手前にあり、奥に1人だけ売り子さんが立って会計をしていました。

 勝手婚活パーティー状態になっている男性は、作品を見ることなく売り子さんの隣にツカツカと直進していき、早速話しかけました。

 会計テーブルの中に入って女子学生の隣にガッツリ立って話しています女子学生は出口をふさがれている状態なので「これはマズいのでは」と思って見張ることにしました。

2024-01-17

能登お里自慢そろそろ不愉快になってきたな

最初地震被災者だし結構同情してたんだけど、能登に残ってる人の能登ホルホルみてたら普通に気持ち悪くて嫌悪感が上回っちゃったよ

穴水輪島港あたりなら俺も行ったことあるから多少わかるけど、確かに自然は綺麗だけど段違いではないし日本海沿岸に行けばだいたい似たような景色は見られる。

工芸品も日本全国各地で近いものは作ってるしそれぞれ特徴はあれど、輪島塗や加賀友禅が特段優れてるわけではない。

それなのに、あたか能登がすごい場所のように持ち上げて、ホルホルしてるツイートが多くて気持ち悪い。今のインターネット日本ホルホル番組に乗っ取られた感じだよね

能登ダメ場所ではないけど「普通に良いところ」くらいの場所だよ

2023-10-16

anond:20231016034503

物作りはいいよね。それって工芸の類かな。おれは金属ガラスを使った工芸面白そうだなと思ってる。あと芸術系というか彫刻系もあるかな。今だと所謂フィギュアという領域もあるか。

anond:20231016141445

物作り系は良さそうだよね。電子工作をやってる人はちょくちょく見かける。最近マイクロプロセッサが安くなって使いやすくなって応用範囲が広がってるから人気が出てるみたいだけど、木工とか金属工作とかガラス工芸とかも別の楽しさがありそうだな。

2023-09-26

(ほとんど)すべてについて間違っている――デヴィッド・グレーバー&デヴィッド・ウェングロー著『万物黎明書評

万物黎明』の中心的なアイデアは挑戦的だ。人間とは政治的冒険的で実験的なものであり、自由平等呪縛の後に、変化を起こすために抑圧を選ぶ傾向があると言われるほどである歴史は、ある極端なものと次の極端なものの間を揺れ動く、リズミカルな形をとっている。しかし近年、私たちは皆、ひとつ体制から抜け出せなくなっており、その理由理解しようと努めなければならない。

これらすべては新しく新鮮ではあるが、信用できるものではない。私は、私たち人間性を規定する政治的本能社会的感情は、平等主義という条件の下で形成されたという人類学的な標準的見解の方を好む。今日に至るまで、私たちは皆、対等な仲間の中で笑ったり、遊んだり、社交したりできるときに最もリラックスし、幸福を感じる。しかし、グレーバーとウェングロー(以下、G&W)は、このような私たちに馴染み深い経験を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先平等主義者であったという考え方全体に反対している。彼らの見解では、彼らは抑圧されることを選択した可能性が高い。

彼らの言葉を借りれば、「われわれの人間性の本質が、われわれが自意識的な政治的行為者であり、したがって幅広い社会的取り決めを受け入れることができるという事実から成り立っているとすれば、人類歴史の大部分にわたって、実際に幅広い社会的取り決めを探求してきたはずだということにならないだろうか」。これらの可能性の中には、著者たちが容易に認めているように(86-7頁)、チンパンジーのような虐待的な支配階層も含まれている。G&Wは、もし我々の祖先がそれほど冒険好きであったなら、きっと平等主義だけでなく、攻撃的でいじめっ子のオスによる嫌がらせ虐待支配実験しただろうと主張しているようだ。

G&Wは、私たち革命過程社会的道徳的人間になったという考えに対する一貫した攻撃の中で、これらの点を指摘している。私はずっと、人間言語意識親族関係道徳は漸進的な進化過程進化し、それが巨大な社会的政治的革命で頂点に達したという考えを探求してきた。私の動機は常に、人間本来利己的で競争的だから社会主義不可能であり、「革命でさえ人間の本性を変えることはできない」という一般的偏見に挑戦することであった。

はいつもこう答えていた。そう、私たち類人猿一種である。そう、私たち霊長類のいとこたちのように、競争的で利己的、攻撃的でしばしば暴力的本能を持っている。しかし、それが私たち成功の原因ではない。優秀な母親父親になる能力自分の子供だけでなく互いの子供を思いやる能力道徳的ルール確立する能力他人自分を見ているように自分も見ている能力音楽ダンス言語を使って夢を共有する能力など、私たちの本性にまつわる人間的な特徴すべてが、まさに歴史上最も偉大な革命産物であり、成功した革命なのだ

クリストファーボーム人間革命

この「人間革命」の複雑さを詳述した私自身の著書(Knight 1991)が出版されてからほぼ10年後、人類学者のクリストファーボーム(Christopher Boehm)は、その洞察にもかかわらず、最も重要な要素であるセックスジェンダー力学についての言及を一切省くことで、政治的観点から安全策を講じた理論バージョンを発表した(1999)。G&Wが人間革命理論の信用を失墜させるために明示的に言及するのに十分安全だと考えているのは、この抽象的でユニセックスバージョンなのである

ボームは、私たちの最も古い祖先は、一方的な協力者でも一方的競争者でもなかったと指摘する。それどころか、他者支配する一方で、支配されることに抵抗するために同盟を結ぶという心理的傾向があった。このような下から集団的抵抗は、最終的には、リーダーになろうとする者が集団支配するのを阻止するために、全員が一丸となることで頂点に達した。私たち祖先チンパンジー的な支配は、今や逆転し、「逆支配」、つまり平等主義的な倫理観コミットした道徳意識の高い共同体による支配へと結実したのである

G&Wは、人類は「......何をすべきか指示されることを自意識的に嫌うようになった」(p.133)という考えに賛同している。この文脈では、現存する狩猟採集民が「嘲笑羞恥、遠ざけ......他の霊長類類似するものはない」(p.86)、「自惚れ屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために集団採用される戦術の数々」を示していることに同意している。彼らがまったく関心を示さないのは、そうした戦術進化過程人間の本性を形成する上で重要役割を果たしたという考えである

ボーム説明に対する反論をまとめると、狩猟採集民が一貫して平等主義を好んでいたという示唆は、「何万年もの間、何も起こらなかった」という「奇妙な主張」であるという。狩猟採集民の祖先が一貫して平等主義的であったとすれば、彼らの政治的生活は何らかの形で凍結され、時間が止まってしまったに違いない。G&Wは次の言葉で締めくくっている:約12,000年前以前、人類基本的平等主義者であったとボームは主張する。ボームによれば、約20万年間、[これらの]政治的動物はみな、ただ一つの生き方を選んだのである」。(p. 87)

唯一の問題は、これはボームが書いたことではないということだ。彼の実際の言葉引用に値する:

ひとたびどこかのバンド平等主義的な秩序を発明すれば、この社会的なやり方の根本的な変化は近隣のバンドにも目につくようになる。特に、非常に攻撃的ないじめっ子を擁するバンドでは、部下が支配されることに対して両義的であれば、どこでもその利点は明らかだっただろう......。魅力的な平等主義の伝統が、地元では専制的な伝統に取って代わり、徐々に文化的拡散が起こると予想される。やがて、より長い距離を移動する移動パターンによって、この政治的発明がかなり急速に大陸から大陸へと広まっていったと考えられる。(Boehm 1999: 195)

これが成功した革命のやり方だ。ボームの主張は単純に、1万2千年前まで『人類基本的平等主義者だった』というものではない。そうではなく、初期の人類はさまざまな政治システムを発展させながら、平等主義というひとつ特に成功したモデルに徐々に収斂していったというのである

万物ティータイム

かなり不当なことに、『万物黎明』は現代進化論を社会進化論混同している。社会進化論とは、「未開」から「野蛮」を経て「文明」へと進歩する段階のはしごを描いた19世紀物語であるダーウィニズム科学である私たちは語り聞かされるが、実際は純粋神話である。G&Wはそのように空想的に、進化論を全く認めない人類起源に関する視点を、読者が真剣検討することを期待している。

この著者たちが認める唯一の科学は「考古学科学」であり、その考古学がさほど遡らない場合のみである。彼らは、政治社会生活については、古代人類の「頭蓋の遺骨と、時折出てくる火打石のかけら」(p.81)からは何も読み取れないという理由で、「万物黎明」をわずか3万年前とすることを正当化している。

このような言い訳は、私たちの種の最もユニークな特徴である芸術象徴文化が、以前考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという最近証拠に照らすと、もはや通用しない。この証拠は、骨や石に限らず、ビーズ幾何学的な彫刻、墓用品を伴う埋葬、砥石や絵の具壺などの工芸品で構成されている。G&Wは、これらの発見のうちの1つか2つに気づいてはいるが(83-4頁)、ほとんど関心を示していない。最先端ダーウィン理論を黄土の記録に適用すれば、社会力学儀式の実行パターン性別による同盟関係についての予測を生み出す可能性が非常に現実的になるにもかかわらず、である。(Power 2019; Power et al.

残念ながら、これらの著者たちは、どのような形であれ、ダーウィニズムには近づこうとしない。彼らは、彼らが「フェミニスト」と呼ぶ人物(実際には霊長類とヒトの社会生物学の創始者として高く評価されているサラ・ハーディ)が、人間本能心理形成における集団的育児重要役割について「物語」を考え出したことを認めている。「神話は悪いものではない」とコメントしながら、彼らはこの特別神話を「重要もの」と表現している。そして、「エデンの園存在せず、一人のイヴ存在しなかったのだから、このような洞察部分的ものしかなりえない」(p.82)と口にして、すぐさまこの神話疑念を投げかける。この種のトリック--この場合は、ハーディ画期的研究が、私たち共通ミトコンドリアDNA祖先年代測定より200万年ほど前のホモ属の出現に焦点を当てているという事実無視すること--は、明らかに人類起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。

石器時代新石器時代考古学に興味のある読者なら、本書には興味をそそられる推測がたくさん書かれているだろう。しかし、私たちがどのようにして人間になったのか、つまり、異常に明瞭な目、並外れて大きな脳、独特の社会的感情、笑い、音楽言語に対する生得能力などがどのようにして発達したのかに興味がある人には、まったく何も見つからないだろう!

タイトルは深刻な誤解を招く。『万物黎明』? 『万物ティータイム』の方が正確だろう。物語は、氷河期フランススペインに描かれた壮大な洞窟壁画で知られるヨーロッパの後期旧石器時代から始まる。著者によれば、その段階でようやく考古学面白くなってくる。初めて、社会の複雑さ、階層、豪華な埋葬などの証拠が見え始めるのだ。

さな狩猟採集民のバンド

G&Wにとって、狩猟採集民の祖先アフリカもっと早くから平等主義的なライフスタイル確立していたという事実は、さしたる関心事ではない。彼らは、タンザニアのハザ族のような現存する狩猟採集民が資源を共有していることは認めるが、それを賞賛する代わりに、蓄積への抵抗が「社会的複雑性」の出現を妨げていると不満を述べている。著者たちは社会階級という概念を嫌っているようだ。

まり狩猟採集民は富の蓄積に抵抗することで、複雑性を妨害する、つまり階級社会の発生を阻止するのである。G&Wはここで狩猟採集民の専門家であるジェームズ・ウッドバーンの権威を持ち出している。彼らは彼の研究から、「真に平等主義的な社会を維持する唯一の方法は、あらゆる種類の余剰を蓄積する可能性をまったく排除することである」(p.128)と結論づけている。このことは、社会の複雑さを排除し、人間文化的知的生活の豊かさを排除することになると彼らは主張する。

ウッドバーン(1982、2005)は確かに、蓄積に対する意図的抵抗狩猟採集民の平等主義を支えており、意識的になされた政治的選択を表していると主張している。彼は、このような平等主義は非蓄積型狩猟採集民だけの特徴であると観察し、「即時回帰」こそが人類経済の原型である結論づけた。しかしウッドバーンは、そのような平等主義に複雑性が欠けているとは主張しなかった。実際、彼は「単純な」社会形態と「複雑な」社会形態との二項対立有害で誤解を招くものとみなしていた。ウッドバーンにとって、平等主義を維持することはこの上なく洗練された達成であり、単に不平等が生じるのを許容するよりもはるかに高いレベル政治的知性と複雑性が要求されたのである。ハザ族には、必要以上の富を蓄積させることがいか危険かを理解する知性があると彼は説明した。

富の不平等は許されない

しかしG&Wによれば、富の不平等問題ではない。彼らの立場を支持するために、彼らは17世紀ヨーロッパの「文明」を批判したファーストアメリカンカンディアロンクを引き合いに出している。やや説得力に欠けるが、彼らは、カンディアロンクと彼の最初アメリカ人共同思想家たちは、「富の差が権力の体系的不平等に変換されうることを想像することさえ困難であった」(p.130)と断言している。

G&Wは、即時回帰型の狩猟採集民が富の不平等が生じるのを拒んだことを認めている。しかし驚くべきことに、彼らはこの状況全体を期待外れとみなしている:

こう言うと、何か希望に満ちた楽観的な話に聞こえるかもしれない。実はそうではない。この言葉示唆するのは、やはり、最も単純な採集者以外には、その名に値する平等本質的に不可能だということだ。それでは、私たちにはどんな未来が待っているのだろうか?

どんな未来アフリカ狩猟採集からインスピレーションを得ている活動家たちは、現代都市生活者を、不運なハッザ族のように、小さな遊牧民集団の中で繰り返される単純な生活に「はまり込む」よう招いている、と彼らは示唆する。

はっきり言っておくが、私は原始主義者ではない。私は技術的、社会的政治的発展に賛成である。ハザ族は、必要に応じて富を共有し、笑い、歌い、遊びの中で「時間を浪費」し、誰かに支配されることに抵抗し、他のすべての心配事よりも互いの子供の世話を優先することが、充実した楽しいことであることを示している。開発に関して言えば、この政治的に洗練された弓矢ハンターたちは、私たちに多くのことを教えてくれるだろう。

(続く……)

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