はてなキーワード: オリジナリティとは
それは、つねにおもいがけない可能性に対して開かれた態度であり、慣習的な物事の結びつきを超えてあらゆる未来を否定せず、支配と被支配の天地すらもあいまいに塗りかえる。そうした状態に政治性を求めるのならば、こういいかえてもいい。NTRとは革命である、と。
NTRの宿る瞳は風景を革命する。たとえば、あなたは都会とも田舎ともいいづらい、郊外の住宅地に住んでいて、そこにしゃれたパン屋さんが建っているとする。味はそこそこで、町のなかでさえ注目度は低い。あなたはその店へ日常的に通い、品揃えと定休日を完璧に把握し、なんとなれば五回に一回は店主が声をかけて二言三言挨拶をかわす。ちゅうくらいな好ましさがある。
ある休日、幸福な遅起きをしたあなたはその店に向かう。しかし閉まっている。開店時間は過ぎているし、定休日でもないのに。店の扉に張り紙がしてある。「Aデパート地下街新春スイーツフェア出店のため、誠に勝手ながら、〇日~×日はお休みさせていただきます」。
世界がすうっと冷えて遠のいていく。
そのデパートは毎日百万人が乗り降りするような規模の駅の前にそびえている。
そこに行くと、よく見知ったパンが知らない装いで売られており、おそらくあなたが手をふったとしても、他人のふりで無視されてしまう。三百円の買い物ごとにスタンプを捺してもらっているあなたのカードも、存在しないものとされるだろう。
もうあのひとかみごとに皮が崩れ散るクロワッサンも、あの固くなった餅のような生地のベーコンピタも、もうその手には届かない。あの店は二度ともどってこないではないか。そんな感覚にあなたは襲われる。
開期が終わると、パン屋はもどってくる。以前の顔のまま、あなたのとなりに、なにひとつ変わっていないかのように。
だが、変わってしまったのだ。なにかが決定的に以前とは違うのだ。
営業再開初日の朝一番にあなたはその店を訪れる。柔和な顔立ちの店長が、変わらぬ笑顔で「焼きたてですよ」といいながら、あんパンを棚にならべる。あなたは礼儀正しく待ったあと、ひとつをトングでつかみ、瓶入りの牛乳といっしょにレジに出す。
あなたが知っているかはわからないが、あんパンはパンのなかでもっとも官能的なパンだ。NTRを体現している。それはおはぎと逆の極にある存在だ。おはぎで餅米を包んでいたオラオラ系のあんこが、西洋の象徴であるパンと出会ったとたん、しずしずと包まれるに甘んじている。 あなたはあんことパンを咀嚼しながら、自分が今、寝取っていると同時に寝取られているような、ふしぎな感覚を味わう。それこそがNTRの奥義だ。シナイ山でモーセはふたつの神の名を与えられた。ひとつはYHMH。もうひとつはNTR。発音できないことはそれ自体神聖さの証だった。
能動と受動ーー寝取りも寝取られもNTRというひとつの言葉に封じられている。わたしたちはそうした矛盾を孕んだ言葉を何の違和感ももたずに使っている。どちらでもあり、どちらもない状態こそが自然なのだ。そうした状態を自然にすることで、わたしたちは今ある景色を転覆できる。
NTRという言葉の両義性に想いを馳せるとき、わたしは菅井の顔を思い出す。
九十年代の善き日々に、わたしはフリーランスでいわゆるNTRビデオレターのディレクターをやっていて、彼はそのプロデューサーのようなポジションで助監督的な雑用からポストプロダクションまでを一手に引き受けていた。
あの時代を知らない子どもたちには、NTRビデオレターをヤラセだと思っているものも多いと聞く。たしかにそうした側面があったのは否定できない。特に大手の制作会社がAVのついでに量産しているようなものは、最初から商業的な流通を折り込んで、俳優を雇って制作されていた。
だが、わたしのいた現場はみな本物で真剣だった。寝取るほうには寝取るものの矜持があり、寝取られるほうには寝取られるものの葛藤があり、そしてかれらを撮るわれわれはそうした昏い機微、愛の真理といってもいい、そのさざなみのような感情を、一コマも撮り逃すまいという気概があった。誰もが真剣に傷つけあっていた。
独立系の低予算のチームである。撮ってくれと頼むのも、大手に発注できないような貧乏な若者ばかりだ。ビデオレターを撮って、送りつけたい。その情熱が何よりの対価だった。
菅井もそんな情熱しか財産を持たない若者のひとりだった。彼と出会ったのは大学のあるサークルの飲み会のことだ。三次会だったか四次会だったかを先輩の家に転がり込んでおっぱじめ、みなひとしくへべれけになったノリで、先輩が「おもしろいものがある」とVHSテープを取り出した。
それは当時話題になっていたNTRビデオレターで、メーセッジを収録している最中に寝取られる女性(四十代の主婦という触れ込みだった)が感極まって泣き出し、泣くのはよくあることだったが、その上にすさまじい量のゲロをぶちまけて寝取り役も撮影スタッフも大騒ぎ、という内容だった。要はネタビデオである。皆視聴済みの有名作で、先輩もそのことをわかっていたはずだけれど、みな初めて観る体で盛り上がった。
そして、例のゲロの場面が来ると、みんなで爆笑した。わたしも笑った。下に見る笑いだった。そうした笑いを仲間内で共有することが結束である、と信じていた。
だが、菅井はそうでなかった。
それまで部屋の片隅でちびちびキリンなどをやっていたのがいきなり、「笑うな!」と叫んだときは、おどけた反語的表現なのかなと思っていたが、先輩にくってかかるに及んで本気だとわかった。
押し倒された先輩の顔に浮かんでいたのは暴力を振るわれた怒りではなく、驚きと困惑だった。わたしたちも止めるでもなく、ただひたすら唖然としていた。先輩もわたしたちも、NTRビデオレターに対して真剣になる人間がこの世に存在するなどとは思わなかったのだ。 菅井は酔っ払いすぎだとして家に帰され、後日、酒の席のことと暴行は不問にされた。菅井はサークルで、なんとなくアンタッチャブルな存在になった。
サークルの他の人間たちとは逆に、わたしは菅井に興味を抱いた。
当時のわたしはNTRビデオレターの大半をヤラセだと考えていた。そうした作り物にたいして、あそこまで入れ込める人間がいるというのは不思議というより驚異だった。
菅井はふだんから近づきがたいオーラを発している類いの一匹狼だったが、こちらから話しかけると意外に愛想良く応じてくれた。
彼のNTRビデオレターについて該博な知識を持っていた。その歴史からジャンル、ゲームチェンジャーとなった名作の存在、業界構造まで、事細かに、しかも大変おもしろく教えてくれた。良い教師だった。
あるとき、彼の部屋でふたりだけで宅飲みをしていたとき、わたしは彼に訊ねた。「どうしてNTRビデオレターにそんなに興味を抱いているのか?」
菅井は、酒気に染まった赤ら顔しばらくゆらゆらさせたのち、立ち上がり、押し入れからひとつのVHSテープを取り出した。
部屋の明かりを消し、無言のままビデオデッキにそのテープを挿入する。あまり上等とはいえない画質に、ベッドに座った二人の裸の男女が浮かび上がる。男のほうは下腹が出ていて、若いようにも中年のようにも見える。女のほうは透き通った印象の美人だった。
男のほうがピースをしながら口上を述べる。さしてオリジナリティのない、平坦なセリフだった。菅井はその口上にかぶせるように、ぼつぼつと、VHSテープの来歴を語りはじめた。
ビデオに映っている女のほうは菅井の伯母であるという。知的でやさしくて、幼心に憧れの存在だった。伯母夫婦には子どもこそいなかったものの、傍目から見れば、仲睦まじく、理想の夫婦といった趣に見えた。夫婦で菅井をかわいがってくれ、週末にはよく遊びに連れて行ってもらったそうだ。
その伯母が急な病で若くして亡くなった。菅井が高校生のころだ。意気消沈する伯父を励ますために、菅井は伯父の家をたびたび訪問して話し相手になったやった。
しかし、伯父は一方的に話す菅井に黙って相づちを打つだけだった。菅井が三人で出かけた思い出を語らおうと、アルバムの場所を聞くと、伯父は「焼いた」といった。そこで菅井は初めて、家の中から在りし日の伯母の写真という写真が消失しているのに気づいた。
菅井はそのことを問い詰めようとしたが、伯父の返答は要領を得ず、ついには泣き出してしまった。
菅井は長らく伯母について伯父の前で触れずにいた。だが、大学進学が決まって伯父の家に挨拶へ行った日、めずらしく伯父が上機嫌で出迎えてくれた。自分から菅井にいろいろ話しかけてきた。流れで伯母の話題にもおよび、ひさしぶりに伯母の思い出について深く二人で語り合った。良い時間だった、と菅井はいう。
微笑みながらも目頭を熱くしていた伯父は、ふと思いついたように席を立って、どこかからかVHSテープを持ち出してきた。なにそれは、と菅井が訊ねると、伯母の映っている唯一のビデオだという。
そして、菅井と伯父はそれを観た。ふたりとも、ひとことも喋らなかった。
伯父の訃報を聞いたのは、菅井が大学の下宿へ引っ越した直後だった。自殺だった。
わたしたちの観ているビデオレターは山場にさしかかっていた。VHSと自らの由来を語り終えた、菅井の横顔はブラウン管の青い光にぼうっと照らされ、かそけく浮かび上がっている。画面を凝視している。そこにあるのが歓びなのか、哀しみなのか、あるいはまた別のなにかなのか、推し量ることはできない。
blueboyさん、第三者のふりしてもすぐバレるからやめなよ
今回は「キミ」という言い回しがオリジナリティあふれすぎちゃったね
blueboyを疑われてる別記事には否定ブコメが入ったので、こちらは本物が確定した
でも、リプでこんなことしてるってことは、別の所でもやってる可能性が高いってことだよね?
何より金を払わなくて良いから
金取ったり広告出そうとするなら、切って別の人を見れば良い、数だけは腐るほどあるし、クオリティも担保されてる
それはそれとして、やはり人が書いた絵は誰もいびつで臭そうで性感がダダ漏れだ
…実に素晴らしい、そこに価値がある
金を払ってでも見る価値がある
これが理想の使い方よな
モラルのないAIの使い方、AIの学習のための大量スクレイピングに対策を取らないPixiv運営への不信感がもとに、数多くのイラストレーターがPixivで公開していた作品を非公開にする流れが生まれている。
「pixivのイラストを非公開にしました」 フォロワー数十万の“有名絵師”から発表相次ぐ AI巡る対応に不信感
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2305/08/news068.html
これに対して少しモヤついていた。と思ったら、正しくそのモヤつきを説明できるような記事があった。
画像生成AIはクリエーターの権利を脅かすと規制訴えた団体の理事、禁止の二次創作イラストで批判され謝罪
https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/20230429-00347590
AIに対して批判的な態度を取る団体の理事が、二次創作が禁止されている作品のイラストなどで呼びかけを行い、後謝罪したという記事。
まさしくこれ。
自分は平気で他人の作品の二次創作を行っているにもかかわらず、知財権の侵害だなんだと訴えている人がいるように思えた。
実際、今回の非公開騒動の中では、艦これのTS(性転換)イラストを多数描いている人が、「Pixiv運営への不信感をもとに~」といった文言で作品を非公開にしている者もいた。
会社の温情でクリエイティブと承認欲求を満たせている分際で、クリエイターの人権だのどうだの良く言えたものだと思う。
完全にオリジナルのイラストを制作している人に対しても思うところはある。
AIが自分の絵を学習するのに忌避感を抱く人たち、そういった人たちには、今まで自分の好きなクリエイターの絵柄や色や構図を真似したことがないとは言わせない。
もちろん、真似する側のモラルが問題ということはわかる。画像生成AIに作品を提供しない理由のアンケートで、半数以上は「現状の画像生成AIの悪い利用方法を見て」と答えた。
https://twitter.com/you629/status/1641799881164738567
最もな理由だと思う。ただ、作品を公開する限り、誰かが自分の絵を学習する可能性はあるということは念頭に置いてほしい。AIの学習と人間の学習は原理がほぼ同じというか、AIの学習の構造は人間の学習をモデルにしている。スケールが違うだけで、同じことは今までみんな半ば容認していたということ。
そして問題はここからで、41%の他の奴ら。こいつらは現実を正しく認識できているのか不安だ。
「絵柄などの優位性が失われるから」
トレンドというものは常に存在するし、AIのトレンドが生まれたならそれに埋もれない創意工夫は、クリエイターにとっては半ば義務だと思う。
それを理由にAIからの学習を拒むのは怠惰だと思う。現代の最先端を走る技術に、面と向かって批判を発する資格が無いと思う。
それを言い出したらキリがない。AIにかぎらずあらゆる界隈に通ずるものだ。
最も時代から取り残された理由だと思う。今後一切のテクノロジーを利用しないことを条件にその意見は発してほしい。
長々と話したが、今回の騒動で最も気に入らないのは、単に流行りに乗っかって作品を非公開にしている(ようにしか見えない)層。
なんとなく、自分の絵がAIに学習されるのは嫌だから非公開にする。
なんとなく、みんなが非公開にしてるから非公開にする。
そういった奴ら。過去の絵を見てみたら、一切の個性を感じさせない、判で押したようなテンプレ絵。二次創作。
そんな奴らが良くも、人生をかけてオリジナリティを生み出す一流のクリエイターたちの横で抗議活動なんて行えるな?
ちゃんと、なぜこのままモラルのないAIの利用が増えたらまずいかを考えろ。
ちゃんと、自分の絵が説得力を持っているか考えてから主張しろ。
あと最後に、
この世の大半の消費者は、自分の利用する製品がどのように作られたなんて気にしないと思う。
自分が読んでいる漫画の、どこまでが作者の作画で、どこまでがアシスタントの作画なのか、気にする人は少数だと思う。
機能に不具合がなく、不自然さもなければ、たとえ猿が作ったものでも価値が生まれる。
このままAIが発達して、イラストレーターたちに何らかの不利益が生じるのは確かそうだ。
AIの作ったイラストをスマホの壁紙にする人はいるだろうし、それがどのように著作権を侵害したかなんて気にしないだろう。
この世の大多数を占める消費者に、直接的にしろ間接的にしろ害が生じる、ということを納得させないと、論に力は宿りづらいと思う。
人間に学習されるのが絶対正義とされてる時点で違和感なんですよ。苦労してゼロから構築した絵柄のオリジナリティを脳内にコピーされて流用されるのが気分がいいわけがない。
よくぞ言ってくれた!
オレも絵に多少なり関わるものとして、同じことを思ってた。
確かに他人の絵を模写したりして学習したことは、あるけど、別に胸を張れることじゃない。
反省してるっていうか、自力で自分の絵を確立できるならそれに越したことはない。
逆の立場になれば正直、気分は悪いと思う。
でも、はてブの論調を見ると何を言っても無駄なんだろうなという諦念がある。貴方のような方がごく稀に現れるのが唯一の救いだ。はぁ…
ってよく言われるけど、そもそも人間に学習されるのが絶対正義とされてる時点で違和感なんですよ。苦労してゼロから構築した絵柄のオリジナリティを脳内にコピーされて流用されるのが気分がいいわけがない。まあ、外野に言っても聞かないし意味ないだろーけどさー。
二次創作では一次創作の作者様たちがガイドラインで明確に許可してるから乗らせていただいてるのであって、許可してない相手にフリーライドされる免罪符を配ったりは誰もしてない。女性が夏場水着になるのが好きなのと同じ。別に男にエロい目で見られたいわけじゃない、解放的な気持ちになりたいときに脱ぐというだけ。主体的に自分の意思でコントロールする権利がある。
最後に、努力した分が報われなかったら傷つくのは誰だって同じだと思う、とは言っておくね。プログラマーの仕事は知らないけど努力が評価される仕組みがなくて社会人が費やした時間がコストとして切り捨てられるのが平気なんて奴隷的だなとしか思わない。職業として未熟なんだな、としか。
長くなったので最初に要約する。現状のAIイラストの恩恵を被る絵描きは、次のタイプであると思う。
「長年絵画表現に慣れ親しんできており、基本的なデッサン技術は習得しており一通り何でも描けるが、表現したい内容の個性が強すぎて多くの人に敬遠されがちなタイプのアーティスト。デジタル絵画表現において個性が強すぎて、多くの人にとって見慣れないバランスであるために技術力の割には敬遠されがちだが、どこを標準的なテイストに近づければ「自分の理想とする表現の核を見失わずに人に受け入れられる作風に近づけられるか」という判断が自力ではつかない人」
自分はどちらかというと反AIだと思われている。学習データに児童ポルノを含むことやディープフェイク等、現行の生成AIについて問題はあると考えている側である。
絵と漫画を描く。技術的には資料さえあれば何でも描け、絵を寄せることも可能だが、人物キャラクターにおいて、あまり流行とされるイラストに魅力を感じないので基本的に金銭の絡む場合以外においては資料として流行のイラストを見ながら流行のイラストに寄せて描くことはない。
テストのために自分の絵をi2iに通してみたところ、いくつか発見があった。PCは面倒だったのでモバイルアプリでテストをした。おそらくNovelAIリークだろう。
まず初めに「(表現で)勝った」という感情があった。データセットの関係か、生成AIの画像は自分の絵の方で表現している内容を全く拾えなかった。
自分の絵の方が個性的で、強い感情を表しており、ぐっと人目を引く絵だった。おそらく生成AIが苦手とする類の微妙な感情表現だからだと思った。そもそもデータセットになるべき絵の枚数自体があまりないタイプの絵なので、今後もそういった表現でAIが卓越してくることはないだろう。
そして、生成AIに食われたデータセットについて、無許可で使用された挙句、絵柄の作成者のあずかり知らぬところで、他の絵描きから「勝った/負けた」と比較される土台にされるのは不甲斐ないことだと思った。歌い手と比較されるミクのように、データセット提供者の許諾とそれなりの対価は得るべきだと思う。
さて、自分は表現において「勝った」ことによって、主観的なレベルでのイラスト生成AIへの本質的な畏怖が無くなった。
しかし、ここで疑問が残った。AIに追いつけない表現をしたからAIが追い付けなかっただけであり、それらが得意とするタイプのモチーフならまた変わってくるのではないだろうか?
そう思っていわゆる自分が描いたアニメ系の美少女の一枚絵をいくつかi2iに通した。といっても、特定の絵柄に寄せたものではなく、自分の独自の絵柄で描いた女の子の顔の絵である。
ここでかなり気付きがあった。自分が標準的だと思っていたアニメ系の典型的な美少女の顔は、標準的な美少女の顔から縦横比や骨格のバランスがかなり異なっていたということである。AIによって生成された、骨格が異なる美少女絵は同一人物だと思えなかった。
i2iに女の子の絵をかけるまえの当初は、絵柄を変えた自分のキャラクターが出てくるものだと予想していたが、出てきたのは同じ服飾とポーズのコスプレをした他人だった。そのとき自分が思っていたより自分の絵柄の美少女キャラはオリジナリティがあったこと、だからあまりウケなかったこと、自分の描いたキャラクターの唯一無二性を理解した。
ー自分が思っていたより自分の美少女キャラの絵柄は個性的だった。
ーそして、その強すぎる個性が多くの人を敬遠させる原因となっていたようだ。技術力の問題ではなさそうだ。
ー自分の脳内の人物像を知っているのは自分だけであり、やはり自分にしかその特徴を捉えて表現することは出来なそうだ。
ー左右のパーツのバランスの狂い。パーツの一部だけではあるが、「上手い絵」の生成AIの顔画像と並べて比べることで、絵の狂いに気づくことができた。外連味のある狂いなのか、ただ左右対称に描けずに狂っただけのバランスの狂いなのかが、i2iを通して他人の絵柄に変換されるようになったことで客観的な判断ができるようになった。これは絵描きにとっては非常に有益である。
ー塗りや色見本のサンプル、仕上がりのサンプルとして非常に有用。これは自分だけかもしれないが、絵柄を寄せられるということは、先に仕上がった先の具体的なイメージがより見えるほうが上のクオリティを目指しやすいということがある。最初に完成図(仮)が見えることで、どちらの方向で内容を詰めていけばいいかの案出しのイメージが初期段階でいろいろ検討できるのはとても有用だと思った。先述した通り、もともとの絵においての表現の強度自体はAI生成物は超えられるので、より高みを目指して行けるというか。
ーもともと流行に乗るということがもともと苦手で、10年残る画風を想定に違和感のないバランスを模索しているタイプだった。自分の絵のベースを守りつつ
この場合は絵柄の骨格やパーツの描き方等を維持したまま、より多くの人に受け入れられやすい見栄えの良さとフレッシュさを追求したいと思っていた。そこに、自分の描いた構図と色合いのまま、完全に他人の絵柄に絵を入れ替えるというこのAIは革命を起こしたと思う。自分の絵柄の標準から異なる部分が非常に明瞭化され、自分の確固たる独自的な表現、そして表現されたキャラクターの人物性を如実に表すオリジナリティの部分はどこか、失ってはいけない角の部分がどこかということがより明確に自覚することができた。
守るべき部分、重要な部分がはっきりと可視化されるので、そうでない部分、フレッシュな塗りやディテールの線画の太さ等の表現は標準的な絵に寄せることで今まで敬遠されていた層にも好かれやすい表現を開拓できそうだと思った。
イメージでいえば目指しているのは、ソシャゲのグラブルのイベントの名探偵コナンのようなイメージである。どうみても名探偵コナンだが、塗と雰囲気がグランブルーファンタジーに準拠していたものであり、グラブル世界観やグラブルユーザーにもなじむという絶妙な表現になっていてすごいと思った。
今まであまりリファレンスの画像を見てこなかったのは、端的に言えば、自分と異なる表現テーマを持った魅力的な絵を横に見ながら描くと、自分の意識の方を絵の内容の方に引きずられて自己の表現したい内容の温度感を鮮明に感じられなくなるからというのがあった。
i2iの場合は、同じ構図であるうえに、「i2i先の絵には表現したいもの」が存在していないことがわかるため、端的に言えば作者の存在がないため、欲しい部分、つまり塗りや線の太さだけに着目することができる。これはいつも他の人の作品を見るときに裏に作者の存在を読み取ろうとし、そして作者の存在に配慮しようとしてしまう癖がある自分にとっては「裏に作者の意図と意思のない画風見本」というのはリファレンスとして革命だった。
長々と書いてみたが、要するに「自分の構図で出力される他人の画風の生成物を自分の絵と比べることで、自分の絵の客観視が行いやすくなった」ということである。「自分の絵を客観的に自分で分析、そしてその分析をもとに自己の絵画表現をより深化させるためのたたき台にするためのツールを得られた」という感覚だ。逆に、この一点以外のイラスト生成AIの有用性はないと考えている。
なお、AIの生成画像や一部をそのまま切り抜いて使うという使い方については何がいいのか感覚的には全く理解できない。それはただの手抜きツールであって短期的な利益にはなるかもしれないが、便利なものに頼るとその部分の潜在的な能力は退化するので、そういった手抜きツールを使用したアーティスト個人においての長期的なメリットはなさそうに思う。
映画スラムダンクについて熱く語ることに今更感が出てきた頃なので、そろそろ我慢していたことを問うてみたい。
ディスりたいとか、人とは違う感性アピールではなく、皆が第ゼロ感のどこに魅力を感じているのか知りたいだけであることを信じて欲しい。
作品内で流れたタイミングは良かったと思うが、それは曲の本質的な良さとは関係ない。
ただの言葉遊びにしか思えないタイトル、どこかで聴いたことあるような凡庸なリフ、オリジナリティのないマッドカプセルマーケッツかなにかをトレースしたようなデジロック感、同じメロを繰り返す退屈なサビ、
映画スラムダンクは本当に大好きな作品になった。もっと好きになるためには、第ゼロ感を好きになる必要がある。
なので教えて欲しい。
内容は何十年前のアイデアだよ、と思う様なオタク対弾圧側という、今の俺たちの麻生マインドで自民党大好きオタクが増えた惨状からするとリアリティもオリジナリティも無い題材
キャラクターの造形は女キャラは安いコスプレにしか見えず、男キャラは全員汚らしくて清涼感の欠片もなく、敵に至ってはAAの(´・ω・`)を顔面に貼り付けただけの手抜き
物語の流れはチープを通り越して独り善がりに気取ってるだけの視聴者置き去り展開の連発と、一流クリエイターを気取りたい厨房の作ったオナニーみたいな電波っぽい何かの寄せ集め
因みにソシャゲもあるけどそっちの出来もアニメと同じくらい滑ってて超手抜き感満載の電子ゴミ
すまんけど吐き出させてくれ。昨今のAI学習イラストについて。
ざっと見渡した限りTwitterやpixivにいる絵描きのほとんどがAIが生成したイラストに否定的で、自作のAI学習禁止を主張してるけど、
あれなんで?
今絵を描いている人は全員もれなく他人の絵を無許可で学習し続けてきたんじゃないの?
特定個人の絵柄がはっきり出る、出せるからダメ?それ人間でもダメだからAI関係なくない?
いらすとやに役割を奪われた人もいるよね。便利だもんいらすとや。残念だけど使い勝手の悪いものは淘汰されていく。
だってもうほとんどみんなガラケー使ってないでしょ。あれそこまで使い勝手悪くなかったのに。
別に人間はAIのことなんか気にせずオリジナルなものを生み出せばよくない?ってかそもそも騒いでる絵描きの多くが二次創…
いや、まあ、ごめん言いたいことはわかる。
絵を描くのにはとにかく時間も手間ひまもかかるし、まず描けるようになるまで途方もない時間をかけて練習したり勉強したりする。
それを一切してないくせに、ってことだよね。
…うん。正直何言ってんのとしか思えない。
さっきも書いたけど、今絵を描いている人は事実として全員もれなく他人の絵を無許可で学習し続けてきたんだよね?
AIのやってることと何が違うの?手間ひま以外の違いは何?
人間はAIより劣った存在で学習に時間かかりまくるし完璧にパクるのはまず出来ないからセーフってこと?
それとも人間は何かしらのオリジナリティを作品に加える(はずだ)からセーフ?
そのオリジナリティって何だろうね。構図?絵柄?それ完全にあなたのオリジナルだって言えますか?今まで見てきた何も参考にせずゼロから考えましたって本当に言える?
例えばAI生成であることを明言しないのはフェアじゃないし、他にも実在の人物の肖像を利用・悪用するのは論外だと思う。
内閣府 啓発用ポスター ほかの作品と類似で使用取りやめ | NHK
内閣府によりますと、「若年層の性暴力被害予防月間」の今月、啓発用のポスターや関連動画のイラストが、イラストレーター…さんの作品と似ているという指摘が外部から寄せられました。
これを受けて、事業を請け負った…に確認したところ制作過程で指摘された作品を参考にしておりチェックが不十分だったと報告があったということです。
このため、内閣府は、ポスターや関連動画の使用を取りやめ、すでに配布したものも可能なかぎり回収することを決めました。
内閣府は「極めて遺憾で、事業者に真摯(しんし)な対応を求めていく」とする一方、…関係者や国民に対し「ご迷惑をおかけし、おわび申し上げます」とコメントしています。
(一部引用者により省略)
これについてブックマーカー達は、絵柄が似ているだけ? 著作権侵害にならないのでは? などと批判している。
でも私は、この内閣府判断を支持する。伝えたいメッセージが本当に重要ならラクをするべきではなく、努力してオリジナリティを打ち出すべきだ。イラストに挑戦したことがない人には分からないかもしれないが、オリジナリティをゼロから作り出すのは本当に難しい。ああでもないこうでもないと、人気のないうちから長い時間をかけて磨き上げていく。凡庸さから抜け出せなかった同期たちは次々プロを諦めて一般職に落ちていく。食えてる芸術家はそんな恐怖の中を生き抜いてきたんだよ。確立した画風はイラストレーターにとって自分の一部のようなもの。それを勝手に参考にされて酷似させて奪うのは、パクリ以外の何物でもないでしょ。
あのね。
完全に逆。
思考の順番がまったく逆なのよ。
法律(ルール)の土台には、まずそれを支えるモラルがある。法律違反じゃないからといって何をしても許されるという事にはならない。自分が他人の作品を隣に置いて絵を描いてる様子を想像してほしい。そこにはどこか後ろ暗い気持ちがあるでしょう? 誰もがルール以前に暗黙のモラルに従っている。法律に訴えるのはモラルで事前にガードできなくてクレームも受け入れられずにこじれにこじれたときの最終手段なんですよ。好きにパクリ放題して裁判で負けたときだけアウトにしていたら時間とお金がいくらあっても足りない——少し考えればわかる事だよね。世の中は全か無か人間だけで回ってるわけじゃないの。
その証拠に例えばジブリの絵柄に似たマンガ・アニメ、だって存在しないでしょう。それはクリエイターと観客みんながジブリをリスペクトしているから。ジブリに直接依頼せず許可も得ずに参考だけするなんてあり得ない話。行政が制作し公共の場に置くポスターならばこそ率先して従うべきモラルがある。オリジナリティをゼロから作り上げた側・パクられた側が NO というなら NO なの。法以前の問題。