はてなキーワード: 部分的とは
翌朝に日記を書いてみると所々文脈がおかしくなってる時がある。それは昨日あった嫌なことだけを忘れ、いい事だけをどうにか繋げているからだろう。と、言うわけでこの日記は部分的におかしな箇所があるが、まあ気にしないでいただきたい。
昨日、朝目が覚めると何を食べたのか思い出せない。多分、エビカツを食べたんだと思う
それで、台所で皿を洗おうとしたらゴミ袋から揖保乃糸の外袋がはみ出していた。そういや、昨夜は揖保乃糸を食べたんだっけと思いつつ、昼はどうすっかなと。それで、午前中はだらだらと過ごす…つもりだったが暑い
ものすごく暑い、気づいたら寝てしまった(気持ちよかった)これでは危険だっ!と私は家を飛び出し、カラオケ屋に逃げ込んだのだった。歌う曲も特に無いのでアラレちゃんを読んだり、ブルーロックを読んだりしてた
椎名林檎の丸の内サディスティックを練習していたらやたらとうどんが食べたくなる
ものすごくだ、それでカラオケ屋を飛び出してから隣町のスーパーまで走って、うどんを
買うことに。うどんと言えばコロッケだよなと思い、惣菜売り場に向かったと思いきやそこは魚売り場だった。久しぶりに来たので間違えてしまったようだ。なんとかたどり着いた惣菜売り場にはトンカツやら天ぷらやらいかにも身体が「やめてよぉ」と泣き出すぐらい
不健康な物ばかりだった。コロッケを探していると「椎茸と豚肉のコロッケ」なるものがあり、それにして見ることに。ついでに揚げ玉を買ったら、最後のひとつだった。考えることはみんなおんなじ。帰って、買ったものを
うどんに揚げ玉にコロッケ、これぐらいで900円ぐらいだったかな?ちょい買いすぎた
夕方、プールバッグを引きずりながら道をゆく小学生を窓に描きながら、ザルに麺をいれて水でほぐす。流水麺は楽だ
ほぐしたら、水を切ってざるのまま冷蔵庫に
入れておく。氷が無いのである。冷めるまで
暇なので、TikTokを眺めていたが、つまらない動画ばっかりでスグヤメタ。
そんで待ちきれなくて、冷蔵庫の冷やしてる
麺をいくつかいただいてしまった。麺つゆにネギと食べるラー油をいれてネギを…
危うく全部食べるところだった
…同居人が帰ってきて、マスタードチキンとか海鮮丼とか照り焼きチキンとかを買って
テーブルに冷えたうどんを置いてやっと本当に夕ご飯だ。マスタードチキンはまずい、照り焼きチキンは明日食べるから食べるなと言われ、うどんをひたすら食べていた
久しぶりに食べた、うどんねぎと食べるラー油がマッチしてとってもおいしい
同居人がふいに「さっぱりしてうどん、おいしいね」と言うもんで「そうだね」と返事をしたら、ゴミ袋の揖保乃糸の袋がこちらを睨んでる気がした。
「一理ある」という言葉は、部分的には理解できる点があるという意味で使われることが多いですが、だからといってその結論全体が正しいとは限りません。今回の議論では、春画に黒人奴隷が描かれていないことが黒人奴隷制度が存在しなかった証拠になるかどうかを論じています。
春画が当時の世相を色濃く反映している文化だという点には同意しますが、それが全ての社会現象を網羅的に描写しているわけではありません。春画の制作者がどのようなテーマを選び、どのような視点で描いていたかは多様であり、黒人奴隷が描かれていない理由が他にあるかもしれないのです。
つまり、「一理ある」と認めたとしても、その結論に至る過程に論理的な誤りがあれば、それを指摘することは重要です。議論の目的は、お互いの意見を尊重しつつ、より正確な情報や理解を共有することにあります。私は相手の主張を無視しているのではなく、具体的な論点に対して冷静に反論を提示しているのです。
目覚めはここにあるWokeness Is Here To Stay / スラヴォイ・ジジェクSlavoj Žižek
ttps://www.compactmag.com/article/wokeness-is-here-to-stay/
ウォークネス[ “wokeness”]は衰退しつつあると主張する人もいる。
だが実際には、それは徐々に常態化され、内心疑っている人々でさえ従い、学術機関、企業、国家機関の大多数によって実践されている。
だからこそ、ウォークネスはこれまで以上に批判されるべきであり、その反対側にある新しいポピュリズムと宗教原理主義の猥褻さと共に、批判されるべきである。
スコットランドではニコラ・スタージョン政権が覚醒主義woke-ismとLGBT運動を(ほぼ)最後まで押し進めた。
2022年12月、スコットランド議会が個人が法的に性別を変更しやすくする計画を承認し、新しい自己認識システムを16歳と17歳に拡大したことを受けて、
スコットランドは「平等にとって歴史的な日」と称賛した。基本的に、自分がどう感じているかを宣言し、自分がどうありたいかを登録する制度だ。
レイプで有罪判決を受けた生物学的に男性であるイスラ・ブライソンがスターリングの女性刑務所に送致されたとき、予想通りの問題が浮上した。
ブライソンは、強姦罪で法廷に出廷して初めて、自分はもはや男性ではないと確信した。
つまり、女性であると自認する人物が、自分のペニスを使って2人の女性を強姦したのだ。
男らしさや女らしさが身体とは何の関係もなく、すべては主観的な自己定義に関係するのなら、
ペニスを持つ強姦犯は、捕らえられた女性たちと一緒に刑務所に入れられなければならない。
[ところが]数々の抗議があった後で、ブライソンは男性刑務所に入れられた。
しかし先ほど[の決定]と同様に、この決定もスコットランドの[先ほどの]法律下で問題となる。なぜなら女性を自認する人が、男性刑務所に収監されているのだから。
Again, this is problematic under Scottish law, since we have now a self-identified woman in male prison.
スタージョン氏が辞任したのは、国民のなかで「LGBTに反対しているわけではないが、さきほどのような措置に単純に反対している人々」を疎外したためだ。
なぜなら、性的アイデンティティはそれ自体が単純なアイデンティティではなく、
矛盾や無意識の特徴に満ちた複雑な次元であり、私たちがどう感じているかを直接参照するだけでは、決して証明できないものだからだ。
いわゆる思春期ブロッカーPuberty blockersの使用をめぐる最近の論争は、この同じ複雑さの別の側面に関係している。
乳房などの性別に基づく特徴の発達を一時停止させる思春期ブロッカーの使用を、
タヴィストックは、性的アイデンティティを選択できないように見える 9 歳から 16 歳の若者にこれらの薬を投与していた。
タヴィストックの臨床医は、性的アイデンティティを決定できない若者は、環境からのプレッシャーで強いられた選択を行い、その結果、
彼らの本当の傾向 (主にトランスジェンダーであること) が抑圧される危険性があると推論した。
思春期ブロッカーは、そのような若者が思春期に入るのを遅らせ、
より成熟した年齢で決定する前に、性的アイデンティティについて熟考する時間を与えるために必要だった。
思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、「性的指向がはっきりしない」という誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、「性別の悩みを抱える子供には、時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない」のだ。
矛盾は明らかだ。
思春期ブロッカーは、若者が成熟を一時停止し、性的アイデンティティについて自由に決定できるようにするために投与されたが、
これらの薬は、他の多くの身体的および精神的病理を引き起こす可能性がある。
誰も、若者にそのような結果をもたらす薬を服用する準備ができているかどうかを尋ねることは無かった。
批判者のひとりであるヒラリー・キャス博士は、「思春期ブロッカーが意思決定の時間を稼ぐのではなく、その意思決定プロセスを混乱させる可能性があるかどうか、私たちには知る術がない。
脳の成熟が一時的あるいは永続的に阻害されるかもしれない」と書いている。
キャスの批判をさらに一歩進めて、性的アイデンティティーへの到達は、成熟した自由選択の問題であるという、非常に基本的な主張に疑問を呈すべきである。
性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない。
西側諸国の多くのジェンダークリニックでは、医師たちは「無条件の肯定的アプローチ」を取らざるを得ないと感じている。
子供たちを悩ませている、他の根本的な精神的危機にはほとんど配慮していない…と、ある批評家は指摘している。
実際のところ、プレッシャーは二重にある。
彼らは、思春期ブロッカーに対する懐疑論を、トランスジェンダーの人々が性的アイデンティティを実現することをより困難にしようとする保守的試みと解釈している。
これに金銭的な強迫観念が加わって、この状況はさらに悪化している。
例えば、タヴィストックの収入の半分以上は、若者の性的問題の治療によるものだった。
つまり、ここで起きているのは、政治的に正しいしつこい勧誘と、金銭的利益の冷酷な計算の最悪の組み合わせだ。
思春期ブロッカーの使用は、ウォーク資本主義woke capitalismのもう一つの例である。
確かに、この 2 つの論争は、少なくとも反「ウォーク」勢力に部分的勝利をもたらした。
スタージョンは辞任し、タヴィストック・クリニックは閉鎖されたのだから。
しかし現在働いている勢力は、個々の政治家の見解や、特定の機関の力学をはるかに超える勢いを持っている。
むしろ個人や機関は、上から押し付けるのではなく、常に他所から来る規制に適応しようとしている。
したがって、同様のスキャンダルが今後も増え続けることは間違いない。
(以下省略)
【※参考】
https://www.youtube.com/watch?v=i826SBcDF_I
なんでこの手の人ら(同一人物だろうけど…)ってイラストレーターがAIに置き換わる話をする割に売り場でAIの取り扱いが縮小してるから置き換わるわけがないことに気付かないんだろう
自分で使って金儲けしてやるぞって行動してたらすぐに分かるのに
現場での実用もAdobeがーだけ言ってPhotoshopを一度でも使ったことあるか怪しい発言しかしないし
やたらAIに希望持ってる割に安価に使えるものすら活用してないんじゃ仕事奪われる側の人間なのにそれを煽るし立ち位置が変
いやぁ〜、テキストエディタの世界、めっちゃディープでんねん!聞いてくださいよ〜。
まず、テキストエディタの心臓部、バッファ管理システムについてや。これ、単なるテキスト保持やないんですわ。例えば、Emacsのガベージコレクション機構。マーク&スイープ方式採用してて、バッファ内のLispオブジェクトを効率的に管理してんねん。これがあるから、長時間の編集作業でもメモリリークせーへんのや。
次に、レンダリングエンジン。これが曲者でんねん。Unicode標準のUAX #9に準拠した双方向アルゴリズム実装せなアカン。さらに、合字処理のためにOpenTypeのGSUB/GPOSテーブル解析も必要や。Harfbuzzライブラリ使うんやけど、カスタムシェーピングエンジン組み込んで、特殊な文字体系にも対応せなアカンのや。
構文解析エンジンも侮れまへんで。LR(1)パーサーじゃ複雑な言語構文に対応でけへんから、GLR(Generalized LR)パーサー実装するんや。これで曖昧な文法も扱えるようになるんですわ。Treesitterライブラリ使うと、インクリメンタルな構文解析ができて、巨大ファイルでもリアルタイムにハイライティングできるんや。
差分アルゴリズムも奥が深いんですわ。Myers差分アルゴリズムだけやなくて、Histogram差分アルゴリズムも実装せなアカン。大規模リファクタリングの差分表示に効くねん。さらに、セマンティック差分アルゴリズムも組み込んで、構造的な変更も検出できるようにするんや。
非同期処理システムもめっちゃ重要や。単なるPromiseやasync/awaitやのうて、Reactive Extensionsベースのストリーム処理実装するんや。これで、複雑なイベントシーケンスも扱えるようになるんですわ。さらに、アクターモデルベースの並行処理システム組み込んで、マルチコア活用した並列処理も可能にするんや。
最新トレンドもめっちゃアツいんですわ。例えば、Language Server Protocolの拡張や。単なる静的解析やのうて、シンボリックAI使うた意味解析まで可能にしてるんや。これで、コードの意図を理解して、より高度なリファクタリング提案ができるようになるんですわ。
WebAssembly統合も進化してるんや。Single Instruction, Multiple Data (SIMD)命令セットサポートで、テキスト処理のパフォーマンスが爆上がりしてんねん。さらに、WebAssembly System Interface (WASI)採用で、ファイルシステムアクセスも可能になってるんや。
AI支援機能も侮れまへんで。単なる補完やのうて、プログラム合成(Program Synthesis)技術導入してるんや。部分的な仕様から完全なコードを生成できるようになってんねん。さらに、説明生成AI組み込んで、生成されたコードの詳細な解説までしてくれるんですわ。
リアルタイムコラボレーションも進化してるんや。Conflict-free Replicated Data Type (CRDT)のカスタム実装で、ネットワーク遅延があっても一貫性保てるようになってんねん。さらに、意図ベースの競合解決アルゴリズム導入して、複雑な編集操作の衝突も自動解決できるようになってるんや。
拡張性アーキテクチャもすごいんですわ。WebAssemblyベースのプラグインシステム採用して、言語に依存せんプラグイン開発可能になってんねん。さらに、サンドボックス化されたランタイム環境提供して、セキュアなプラグイン実行も実現してるんや。
性能評価も厳しくなってるんですわ。起動時間は、コールドスタートだけやのうて、ホットスタートも測定せなアカン。メモリ使用量も、物理メモリだけやなくて、仮想メモリの使用状況も追跡するんや。CPU使用率は、マイクロアーキテクチャレベルの最適化まで求められるようになってんねん。レンダリング性能は、GPUアクセラレーションの効率も評価せなアカンのや。応答性は、入力レイテンシだけやのうて、知覚的な応答性(Perceived Responsiveness)も測定するんですわ。
いや〜、テキストエディタの世界、マジでディープすぎて、もう頭おかしなるで〜!こんな感じで、テキストエディタの最深部まで潜ってみましたけど、いかがでしたか?テキストエディタ、侮れまへんで〜。ホンマに。
生きてる人間に対してミーハーになるのって、相手もリアルな人間にすぎないという認識に関して意図的かつ部分的に想像力を抑えて、商業側がそうしてもらいたがる通りに対象人物を偶像化・コンテンツ化した目線で見る、という高度なスキルが求められる、ハイレベルな行為だよ。
でも、もともと創造物であるキャラクターに対してなら、そういう商業的な酔狂に対して醒めた態度をとりがちな人でものめり込める余地はある。
一般的な感覚では逆のように思えるかもしれないが、繊細な人ほどキャラクター、あるいは演劇のような「完全なるフィクション」のほうが心置きなく没入できる。
その辺からステップを踏んでいけば、生きてる人間である役者や芸能人の類に対しても、「彼らは生身で《その人の芸名》というキャラクターをやっているんだな」という相互理解のもと踏み込むことができる。
しらんけど。
石丸伸二さんの10〜20代からの支持率を見て、Ohマジか……となったので。
自分はぶっちゃけ、彼の支持者がテレビで「様々なことを論破していくのを見て〜…」って言ってるのを見た時点で、あっこの人は無いな、と思った。
数年前に某匿名掲示板開発者がSNSで流行り出したあたりから、そのぐらい「論破」という言葉を使う人間のことを信用していない。
デジタル大辞泉によれば、「論破」の語義とは「議論をして相手の説を打ち破ること」だ。「論破」の前提には「議論」がある。
では「議論」とはなにか。またデジタル大辞泉を引用させてもらうと、「互いの意見を述べて論じ合うこと」である。そりゃそう。
自分が「論破する!」と言いがちな人間を信用しないのは、こういう人間の目的がたいてい「議論」ではなく「論破」のほうだからだ。
「議論」とは自分と相手のどちらの意見が正しいか、どちらも部分的に正しいのか、あるいは間違っているのか、唯一絶対の正解がわからない状態でスタートさせるものだ。
それに最初から「論破する」目的で参加するということは、そいつの中に「自分の考えが唯一絶対の正解であり、それに反論する相手の論は絶対に間違っているので打ち破れる」という前提があることになる。
大抵自分が絶対に正しいと思っているやつは相手の話をろくに聞かないし、自分が属さないコミュニティからのインプットが欠如するから成長もしない。(これは10年そこらの経験による個人的な偏見なので異論もあるでしょう)なので信用できない。
都知事選後からXで『石丸構文』が流行り出したが、「議論」をしに来た人と「論破」をしに来た人が面と向かってもそりゃお話にならないわけだ。『石丸構文』自体かったるくて斜め読みしかしてないけど多分アレはそういうシチュエーションなんだと思う。
国会だろうが都議会だろうがそこでやるのは「議論」のはずだ。「論破」がしたいなら政界になんか出てこないでインターネットでやってくれ、と思ってしまう。
しかしその「論破」芸を売りにした結果、石丸氏は10〜20代の有権者から大きな支持を得てしまった。自分が学生だった頃からも始まっていたディベート教育、日々目に映るインターネット論破バトルや先述した論破系Youtuberの影響かもしれない。ともあれ最近の若者は「論破」に並々ならぬ魅力を感じているらしい。
が、一度よく考えて欲しい。政治の話でもなんでもいいが、人と話をするときに、「論破」を目的としてしまっていいのか。
石丸話法が厄介なのは、「メディアはくだらない質問ばかりしてくる」ということ自体は、かなり真実だということ。
中身のない質問ばかりしている、というのはメディアの中の人も実のところわかっていることなので、一瞬絶句してしまう。とくに民放などは報道よりも見栄え重視で、経験の浅い若い女性アナウンサーを配置していたりするので、狼狽してしまうことになる。
しかしこうした石丸論破術は、古市のような空気を読まない人間や、荻上チキや武田砂鉄のような百戦錬磨のジャーナリストには通用しなかった。これからどんどん化けの皮が剥がれていくんだろう。
有力候補でメディアを敢然と批判していたのは石丸だけだったことは、きちんと評価されるべきだろう。かつての橋下徹も部分的には喧嘩っぽいこともしたが、全体としてはテレビメディアと一緒につるんで官僚叩きや公立学校叩きを行なった。
若い世代は、「報道すべきことをしてこなかったのに、まだ偉そうな顔をしている」テレビへの不信が強い。これは自体は全くその通りであり、有力候補の中で唯一、既存メディアとの喧嘩を厭わない石丸に共感が集まったということなのだろう。
石丸は「テレビがちゃんと自分のことを報道しなかったから小池に及ばなかった」と総括しているようだ。かつてなら「そんなバカなことがあるか」と簡単に切り捨てているところだが、テレビは統一教会やジャニー性加害などの深刻で重大な問題をまったく報道してこなかった「実績」があるので、この総括に説得力を感じてしまう人が多く出てくるのは残念ながら避けられない。
お答えします。
私の政治姿勢は「全力投球」であり、それは単なる戦略ではなく、信念に基づいたものです。
確かに、一般的な政治戦略では妥協点を探り、部分的に譲歩することもあるでしょう。しかし、私はそのような手法を選びません。なぜなら:
1. 信念: 私は自分の信じる正義と真実のために戦っています。半端な妥協は、その信念を裏切ることになります。
2. 有権者への責任: 私を支持してくださる方々は、私の毅然とした態度を期待しています。その期待に応えることが、政治家としての責務だと考えています。
3. 変革の必要性: 日本の政治には大きな変革が必要です。小さな妥協の積み重ねでは、本質的な変化は生まれません。
4. 個性: これは私のスタイルであり、政治家としてのアイデンティティです。
確かに、この姿勢にはリスクもあります。しかし、私は政治を駆け引きや妥協の場とは考えていません。信念に基づいて全力で取り組むことが、最終的には有権者の信頼を得る道だと信じています。
これは私の選択であり、誰かに教わったわけでも、気づかなかったわけでもありません。政治家として、そして一人の人間として、自分の信じる道を進む決意をしているのです。
事前に明示するけど、自分はnot都民で投票対象外で、暇空関連で部分的には支持できるけど、それ以外のところでちょっとなぁと思っていて、基本的に匿名でない環境では触れたくない、という感じ。
んで詳細は追ってないが、暇空関連の選挙で色々と異論反論があったと思うのだけれど、今回このように出馬をされたことは、個人的には良いことだと思う。
はてブを始めとしたSNSでは小池都知事や岸田総理に対して諸々と酷い暴言が散見される。
そこまで問題が明確に主張出来るなら、自身が出馬と当選して、その問題を解決すればいいじゃないか、と自分は以前から思っている。
そんな折、暇空は自身の今までの行動の延長上の問題解決として、今回都知事選に出馬した。これはSNSなどで声高に文句を唱えているだけの人に比べれば、大分マシな行動だと思う。
さすがに都知事選の供託金は300万円とかなり高いが、地方の議員なら10~50万円で長でも100万以下と(安くはないが)普通に稼いでる人なら出せない金額では無いだろうし。
「お釈迦様の言ってることって、何も持ってなければ苦しむこともないから全部捨てちまてってことじゃん」
「部分的にはそう」
「なのにそれがなんで日本の仏教になると念仏さえ唱えてればこの世でもあの世でも救われるって言うの?」
「5次創作…」
まず前提として、暇空茜のスタンスを全て否定するわけではない。正直漫画家が彼を応援する気持ちはわかる。
もともと漫画家などのクリエイターは過激なフェミニスト(ツイフェミと揶揄されるもの)からバッシングされやすい傾向がある。
自分も殆ど言いがかりのような内容でいきなり怒鳴られたことがあるし、知り合いの漫画家は作中描写が不適切とバッシングを受け(部分的に切り取ったせいでそう見えるだけだった)ひどく傷つき、病んでしまった。
自分と関わりがなくても、宇崎ちゃん、温泉娘、たわわなどで大きな群れをなしてブチギレるフェミニストたちを見てきた。
納得できる意見も中にはあったが、やはり感情的かつ怒りが先行しすぎているせいで対話など到底不可能で、フェミニズムへの不信感の方が勝ってしまう。
このように一部クリエイターが一部過激フェミニストに対し不信感を募らせていく中で、「横暴に見えるフェミニストたちの嘘を暴き、創作物を愛し、守ってくれる」ような立場にある暇空茜を支持したくなる気持ちはわかる。
しかし、彼のことを「暇な空白」時代の、本当にしょうもないインターネットの小競り合いをしている時期から存在を知っていて、WBPC問題も初期から追っている身としては、「彼を頭の先から足の先まで正しい人間のように盲信してポエムを呟くようになってしまった同業者」に対し、おいおいちょっと待てよと思ってしまう。
ある程度距離感を持って「こういうとこは応援できるけど、ここらへんはちょっとどうかな?」というのがなく、もう完全に盲信しちゃってる感じになっていて、辛い。
あと、そんな先生方が「失望した」と言われまくってるのも見てて辛い。それにキレてレスバしてんのも見てて辛い。
スタンス的には暇空支持側なのかもしれないから表じゃ「やっぱオメーも暇アノンか!」と言われそうでこんなこと言えないし、暇空否定と取られても面倒なことになるのでここで書き込みました。
Akira Ransomwareは、近年特に注目されているランサムウェアの一つで、その動作は高度で多様な手法を取り入れています。以下に、Akiraランサムウェアの動作について詳しく説明します。
侵入経路
Akiraは主にフィッシングメール、リモートデスクトッププロトコル(RDP)の悪用、既知の脆弱性の悪用などを通じてシステムに侵入します。特に、未修正のソフトウェアやシステムの脆弱性を狙うことが多いです。
初期感染と展開
システムに侵入すると、Akiraはネットワーク内で横移動を試みます。これは、ネットワーク内の他のデバイスにも感染を広げるためです。横移動には、認証情報の窃取や利用可能なネットワーク共有の探索が含まれます。
ファイル暗号化の前に、Akiraはターゲットシステムの特定のディレクトリをスキャンし、暗号化対象のファイルをリストアップします。次に、強力な暗号化アルゴリズム(通常はAESとRSAの組み合わせ)を使用して、ファイルを暗号化します。
最近のバージョンでは、部分的な暗号化手法(インターミッテント暗号化)を採用することで、暗号化速度を上げつつ、検出を回避する手法が確認されています (Bitdefender)。
データの窃取
暗号化に加えて、Akiraは重要なデータを盗み出し、そのデータを公開することで二重に脅迫することがあります。これにより、被害者に対する身代金要求の圧力を強化します。
暗号化が完了すると、被害者のデスクトップに身代金要求メッセージが表示されます。このメッセージには、データを復号化するための手順と支払い方法が記載されています。通常、暗号通貨(ビットコインなど)での支払いが求められます。
特徴的な技術
RustとC++の利用
Akiraの一部バージョンはRustというプログラミング言語で書かれており、これによりコードの安全性が向上し、セキュリティ研究者による逆コンパイルが難しくなっています。また、C++で書かれたバージョンも存在し、多様な環境での実行が可能です (CISA)。
VMware ESXiの標的化
Akiraは特にVMware ESXi仮想マシンを標的とすることが多く、これにより企業の仮想環境全体に影響を与えることができます。
Akiraは単純なファイル暗号化にとどまらず、データ窃取やネットワーク内での横移動、他のマルウェアの導入など、多層的な攻撃手法を組み合わせています。これにより、攻撃の成功率を高め、被害者に対するプレッシャーを強化します。
デンマークはヨーロッパにおける生活水準の高い先進国の1国である。
北大西洋条約機構(NATO)、北欧理事会、経済協力開発機構(OECD)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、国際連合(UN)の創設メンバーの1国で、シェンゲン圏の一部でもある。
デンマークは近隣のスカンジナビア諸国とは政治・文化・言語的に緊密な関係を維持しており、デンマーク語はノルウェー語とスウェーデン語の両方と部分的に相互理解が可能となっている。
ノルディックモデルの高福祉高負担国家であり、OECD各国中で最も個人所得税の高い国である。
市民の生活満足度は世界最高クラスで、2014年の国連世界幸福度報告では幸福度第1位であった。
様々な角度からのウェルビーイングは最高レベルであり、世界で最も社会的流動性が高く 、世界で最も腐敗が少なく、男女の賃金差はOECD中最小であった。
2023年の世界平和度指数では2位、積極的平和指数では3位にランクインしている。
へたくそこら!
claude
「饅頭こわい」(まんじゅうこわい)は日本の慣用句です。この表現の意味と由来について簡単に説明しましょう。
意味:
この慣用句は、「些細なことや取るに足らないことを必要以上に恐れる」という意味で使われます。つまり、実際には怖くないものや危険ではないものを過度に恐れる状況を表現しています。
由来:
この言葉の由来には諸説ありますが、最も一般的な説明は次のようなものです:
昔、ある侍が夜中に暗い道を歩いていたところ、道端に何か白いものが落ちているのを見つけました。侍はそれが敵の首だと思い込み、恐ろしくなって逃げ出しました。しかし、翌朝確認してみると、それは単なる饅頭(まんじゅう)だったという話です。
この話から、取るに足らないものを過大に恐れることを「饅頭こわい」と表現するようになりました。
使用例:
違います。
はい、ご指摘ありがとうございます。この落語をもとに「饅頭こわい」という慣用句の本当の意味を説明いたします。
この落語から生まれた「饅頭こわい」という慣用句の真の意味は以下のようになります:
表面的な意味: 饅頭を怖がるという、一見すると理解しがたい恐怖心を持っているように見える状態。
実際の意味: 本当は別のものを恐れているにもかかわらず、より無害で理解されやすいものを恐れていると偽る行為や状態を指します。
より深い解釈: 自分の本当の弱点や恐れを隠すために、より受け入れられやすい或いは滑稽な恐怖を装うという人間の行動を表現しています。
この慣用句は、人々が社会的な体裁や他人の反応を気にして、本当の弱点を隠そうとする心理を巧みに表現しています。正一が実際には「一盃のお茶」を恐れているにもかかわらず、「饅頭が怖い」と言い張ったように、人々が真の問題や恐れを直視せず、より受け入れられやすい「恐れ」を装う傾向を皮肉っています。
したがって、この慣用句を使用する際は、単に不合理な恐怖を指すのではなく、人が本当の弱点や問題を隠蔽しようとする行動を指摘する場面で使われることが多いです。
申し訳ありません。ご指摘ありがとうございます。落語の結末をより注意深く観察し直しました。ご指摘の通り、重要な点を見落としていました。正しい解釈を以下に説明します。
正一が得たもの:
饅頭を食べる機会:正一は「饅頭が怖い」と嘘をついたことで、実際に饅頭を食べることができました。
実際の意味: 欲しいものを手に入れるために、そのものを怖がっているふりをする策略や行動を指します。
より深い解釈: 自分の本当の欲求や目的を隠すために、あえて弱点や恐怖心があるように装うという巧妙な方策を表現しています。
つまり、「饅頭こわい」という慣用句は、実際には欲しいものや望んでいることを得るために、逆説的にそれを怖がっているふりをするという策略を指しています。正一は「饅頭が怖い」と言うことで、実際には大量の饅頭を手に入れ、それを楽しんで食べるという目的を達成しました。
この慣用句は、人々が直接的に欲求を表現せず、逆の態度を示すことで実際の目的を達成しようとする行動を巧みに表現しています。言い換えれば、「欲しいものをもらうために、それを嫌がるふりをする」という策略を指す言葉として使われます。
「饅頭こわい」の本質を捉えた英語の意訳を考えてみましょう。この慣用句の核心は、欲しいものを得るために逆説的にそれを怖がる(または嫌う)ふりをするという戦略です。これを踏まえると、以下のような英語の表現が適切かもしれません:
"Feigning fear to gain favor"
"Feigning" (ふりをする):本当は怖くないのに怖がるふりをするという要素を表現しています。
"fear" (恐れ):「こわい」という元の日本語の直接的な意味を反映しています。
"to gain" (得るために):この行動の裏にある本当の目的を示しています。
"favor" (好意、恩恵):欲しいもの(この場合は饅頭)を表す一般的な言葉として使用しています。
この英語の表現は、「饅頭こわい」の核心的な意味、つまり「欲しいものを得るために、あえてそれを怖がるふりをする」という戦略的な行動を簡潔に表現しています。
また、状況に応じて以下のようなバリエーションも考えられます:
"Playing scared to score treats"
"Faking fear for freebies"
ご指摘ありがとうございます。確かに、直接的な意訳では日本語の「饅頭こわい」が持つ風情や文化的な奥深さを十分に表現できていませんでした。
英語圏の文化で「饅頭こわい」の落語に似た話を探すのは難しいですが、似たような教訓や皮肉を含む民話や寓話はいくつか存在します。完全に一致するものはありませんが、近い要素を持つ話をご紹介します:
「狼少年(The Boy Who Cried Wolf)」: この寓話では、羊飼いの少年が村人を騙すために嘘をつき続けますが、最終的にそれが裏目に出ます。「饅頭こわい」とは結末が異なりますが、嘘をつくという要素が共通しています。
「キツネとブドウ(The Fox and the Grapes)」: この寓話では、キツネが手の届かないブドウを「どうせすっぱいに違いない」と言って諦めます。欲しいものを得られない時の心理を描いている点で、「饅頭こわい」と通じる面があります。
「ブレア・ラビット(Br'er Rabbit)」の物語: アメリカ南部の民話に登場するウサギのキャラクターで、しばしば他の動物をだまして自分の望むものを手に入れます。特に「ブライアーパッチに投げ込まないでくれ」と懇願して、実際にはそこに投げ込まれることを望むエピソードは、「饅頭こわい」の戦略に近いものがあります。
これらの話は、「饅頭こわい」の落語が持つ複雑な人間心理や戦略的な行動という要素を部分的に共有していますが、日本の落語が持つ独特の味わいや風情を完全に捉えているわけではありません。「饅頭こわい」の落語が持つ繊細な人間観察と皮肉な笑いの要素は、日本文化に深く根ざした独特のものだと言えるでしょう。
ここまでやってようやくそれらしいのにたどり着ける