はてなキーワード: 舞台とは
ブルーロック?の舞台の動画がちょっと小馬鹿にされた感じでTLに流れてて
まあ弱虫ペダルとかテニスの王子様みたいな感じで笑われてたんだけど
それに対しての引用リツで
「舞台演劇ってのは舞台上の限られた道具と演技から状況を補完できる教養のある人のためのもの」
みたいな擁護が入り
定番の
「まあ、バカには理解できないよね」で鎮火を図ってる感じなんだけど
『ペイン・アンド・グローリー』 『私が、生きる肌』 ペドロ・アルモドバル監督の作品はどれも気に入ると思う
『アレクサンドリア 』2009 スペイン製作だが舞台はスペインではないけど好き アレハンドロ・アメナーバル監督
『宮廷画家ゴヤは見た』 スペイン・アメリカ合作 2006年 好き
『スパニッシュ・アパートメント』スペイン・フランス合作 2002年 未見だが
高校の時、男三人で幼児向けの劇を見る機会があってさ、その劇で女が痛い 苦しい!ってなる
シーンで横を見たら勃起してたんだよ一人が
その様子を見てたら俺もなんか興奮してきちゃって体操着だったから膨らみが誰が見ても分かるぐらい勃起しちゃってさ
恥ずかしいなと思って隣に話しかけたら
自宅に画集を置く「距離」を問われると、外にあるから外注できると回答する
地方からも美術館に行けると問われると、東京ならすぐ美術館にいけると「距離」を盾にする
家にピアノが置けないという選択肢の「量」の少なさを問われると、キーボードなら持てると「質」で回答する
自宅に絵が飾れる(絵に触れる機会の多さ)という「質」を問われると、また外注に戻り「量」で回答する
ペットショップや猫カフェがあれば「ペットの外注」ができるかもしれないけど、実際に猫を飼わないと得られないものがある
この実際に「自分の手元における」という豊かさは、1つのモノに対する造詣を深めるからね
美術館の数を話題の中心に持ってくるのも「深さ」の話を「量」や「距離」に置き換えてるんだよね
行った回数や頻度という「深さ」なら地方でも同じ舞台に上がれるのに、美術館の数の問題にすり替えることで地方民をすべて足切りできてしまうからね
まとめると「資本」にはいろいろ種類があるはずなんだけど、それを「量」「深さ」「距離」と使い分けることで
自分が見える範囲、人類の仕事のかなりは、ホントに意味あるんかな?っていうものに見える。
合意形成のために、あんなに時間を使って意味があるんだろうか。
今に始まったわけじゃなく、ずっと昔、今大河の舞台になってる平安時代の頃だって、今より不便だったのに、祈祷やら占いやら呪いやらで大忙し、侍ること、気の利いたことを言うこと、それが特級の仕事だった。
全く生産性がない仕事に思えるけれど、今だってかわりゃしない。占いや祈祷で合意形成ができたように、選挙や議論でみんなの合意が得られるから、そのために時間とお金が使われる。
全くもって不毛だ。
「はるかぜに告ぐ」は、日本の作家、辻村深月による小説です。2016年に講談社から刊行されました。
この小説は、高校の放送部を舞台に、部員たちが「ラジオドラマ」の制作を通して成長していく青春ストーリーです。主人公の春風は、放送部の部長として、個性豊かな部員たちと共に、脚本の執筆、声優のキャスティング、音響効果の作成など、ラジオドラマ制作のさまざまな課題に奮闘します。
「はるかぜに告ぐ」は、青春の甘酸っぱい恋や友情、夢を追う情熱、家族との絆など、多彩な要素が織り交ぜられた物語です。ラジオドラマの制作過程や、部員たちそれぞれの悩みや葛藤、成長が描かれ、温かみのある作品となっています。
この小説は、2017年に「第15回本屋大賞」で5位に入賞し、多くの読者から支持されました。また、2024年には映画化されることも決定しており、注目を集めています。
芸人知らないんだけどさ
で、変なやつが少ない。安定した収入が無いと生活を維持できないから。
そして東京に限らないが、職業差別をして徹底的に成金を排除する文化が維持されていて
きちんと上流階級の作法、仕草を身に着けていないと仲間に入れない。
成金を排除する理由は、家と地域コミュニティのことを考えているから。
その親兄弟、子どもがまともじゃない可能性が高いから目先の利益に飛びつかないし慎重に判断する。
団地も多いけど、身なり、歩き方、顔つき、話し方、そういう雰囲気でで人間を判断する能力が高いから
まずもってそういう危ない人間に近づかない。
結局、そういう出稼ぎの半グレ集団が標的にするのは同じく出稼ぎの田舎者。
東京を舞台に、田舎者同士で騙し合っているだけ。ショバ代は東京がいただく。
〇〇ちゃんと遊んじゃいけません!ということに忌避感を感じる人もいると思うし、俺も言われたことはないが
結局、言われなくたって聡い子は危ない子どもと付き合わないから、言っていることは正しい。
ストロー現象を防ぐため地方も地方同士で縄張り争いしているのを見るが、
結局は産業だ。人がいて安心して暮らせて文化的なのであれば人は集まるし、戻って来る。
https://i.imgur.com/VEwq3PB.jpeg
>女性の晴れ舞台イコール結婚ってなるの、おかしいだろ。ああ日本だなと思った。日本社会はJKにいつか結婚式を挙げて=夫の苗字になり家事育児介護要員になって欲しくて、
なおかつ才能とかもバリバリ発揮して欲しくて、若くて幼くいて欲しくて、男性でもできないことを四方八方から押し付けられてんな〜って思った。
昨日見終わった。感想を一言で言うならNetflix版「三体」に並ぶ出来。
CGや絵作り、役者の演技に手抜き無し。映画を超える手間暇を掛けてる感じ。映画のCGをTVで流すと安っぽく感じる所が出たりするがそれも無い。
話も充分没入出来た。主要登場人物は皆、心に傷を持ち主人公のスヨンの過去は特に重たい。寄生生物が人間の感情を理解していく表現も生存戦略として人を理解する表現にして軽さは感じなかった。
あとずっと主人公の寄生獣が右手じゃ無いのが気になっていたのだがそれは韓国を舞台にしたシーズン1から登場人物日本人が増えるシーズン2への布石らしい。そう来るか、という締め。シーズン2が待ち遠しい。
未見の人は是非。
けっこう前に見に行った舞台に出ていたへっぼこ役者の愚痴が今さらふつふつと再沸騰したので吐き出し。
推しが「ハンサム落語」というシリーズ企画の舞台に出たので見に行った。事前発表のビジュアル写真も衣装も素敵で、落語を俳優二人組の掛け合いで演じるというコンセプトも気になった。
舞台当日は推しのいろいろな側面や、様々な役を演じ分ける演技力の高さや、好みのビシュをバッチリ堪能した。その舞台ならではの企画もあり、舞台そのものはとても楽しめたし行って良かった。演出と音楽と美術もすべてが最高だった。
ただ、共演者に何人かへっぼこ役者がいたことだけがずっともやもやしている。悪ふざけが過ぎる連中だった。その場のノリで悪ふざけをして姑息に場を引っ掻き回せば「ウケる」と思っている連中だった。
彼らの演目は酷かった。舞台のコンセプトとして落語を演じる以上は、その元ネタに敬意を払って欲しかった。
古典芸能には「守破離」があり、習熟度に応じて型を守る、型を破る、型から離れる、という段階がある。その舞台シリーズに何度も出演経験があるらしいへっぼこたちは、「今さら真面目に演じてもサムいだけ」とでも考えていたのだろうか。それとも生来の悪ふざけ好きなのだろうか。
とにかく落語の登場人物を茶化し、その型を破ることに腐心していた。
そしてその悪ふざけはあまりにもサムかった。古典芸能は、洗練されているがゆえに古典となっている。長い年月を経ても消えなかった落語たちを、小手先で姑息にイジって面白くなるわけがない。そのイジり方で面白くなるのであれば、先人たちがすでにそうしている。それでは面白くないからこそ、今の型で伝承されてきているのだ。
古典という根のしっかり生えた樹齢数百年の大木を相手に、枝葉を追って笑いを誘うような真似はあまりにも無様であり、気分が悪かった。
リハーサルと異なる演技をしたり、女性役をオッサン風に演じてみたり、悪ふざけのすべてが「出オチ」でしかなく、出オチで一瞬の笑いを取った後はひたすらに寒かった。
私の推しは初心者らしくしっかりと型を守って演技をしていて、生真面目なその役者としての在り方を見てまずす好きになった。
そしてさすがは落語、見よう見まねでも初心者でも、きちんとやればそれなりに面白くなる。役者さんが演じるから演技はうまい。しかも企画が素晴らしく、掛け合いを二人組で演じるところがミソで、初心者の役者でもちゃんと落語として見られる仕上がりになる。
真面目に演じればそれだけできちんと面白いものになる舞台だ。しかも落語にはさまざまな登場人物が出る。推しが一舞台でいくつもの役を演じ分ける様を見られたのは大満足だった。
へっぼこたちはそんな推しを巻き込んでくだらない悪ふざけをした。そしてへっぼこたちの演目は余りにもつまらなかった。
だから推しの活躍には満足しつつ、ずっとがっかり感を抱えている。推しが良かったんだからいいじゃないか、と思う一方で、古典落語を粗末に扱うへっぼこ役者を目の当たりにしたのが残念だった。
舞台のコンセプト、企画、演出、脚本、美術、音楽、衣装もグッズもなにもかも素晴らしかった。和洋折衷の色っぽい衣装も、演目を切り替えるときの演出も、お洒落な照明も、客入れの案内からグッズ販売のスタッフまで感じが良かった。
だからこそ、悲しい。
へっぼこ役者たちはこの舞台の常連らしい。つまりあれだけの舞台を作り上げられる企画グループが、あのへっぼこ役者たちの悪ふざけを良しとして、繰り返しオファーしているのだ。
私は「あのへっぼこ役者さえいなければ素晴らしかったのに」と思っているが、へっぼこ役者たちの悪ふざけが企画者の本意ならば、この舞台に関しては私の方こそ「お門違い」なのだ。
あの素敵な舞台から「お前はうちの客じゃない」と言われた気がした。好きになったから、悲しかった。
どんな漫画もドラマも小説も舞台も、自分が楽しめなければ悪いのは自分だと思っている。ただ、Not for meなだけだ。作品に「私好みじゃなかったんですけど!」と言っても意味はない。ただ去るのみだ。
多分もう見に行かないと思う。すくなくともあのへっぼこ役者が出ている回は。
今日たまたま配信で見た舞台作品に、一番へっぼこに悪ふざけが過ぎた役者が出ていた。やっぱり悪ふざけしていて、そのくせ声量がなくてダサくてやっぱり寒かった。第一印象が悪すぎてもうよく見えることはなさそうだ。
高校出て都内のゲーム会社で2年働いた後、フリーランスとして独立した。今年24歳になる。
主に小説のイラスト担当したり、Vの仕立て担当したりしている。あと水面下で進行してるのがいくつかある。
絵描きを目指す人から質問マロがよく来ていて、大体同じ内容なので、ここにまとめておく。
絵描きのV化についてよく聞かれる。なんでやってるんですかとか、やったほうがいいんですか、とか。
副収入とか節税とか作家のブランディングとか、色々あるけど、シンプルに作業記録を第三者検証できるよう保存する目的が強い。訴訟対策。
あと作業記録は後から見直すと、課題や解決策が見つかることが多い。アスリートも競技を録画して見直すって聞くし、定期的な振り返りのためにもやったほうが良いと思う。
でも自分の声を何度も聞き直す事になるから、滑舌と声色は鍛えた方が良い。私は自分の声嫌い。かわいい声うらやましいよな・・・
正直給料は良くない。フリーの絵描きは平均年齢30代あたりで、年収400万未満が最も多い、らしい。諸々の税金相談をしている弁護士はそう言ってる。
私は彼氏と同居しているが、彼に養ってもらってると言って良い。駆け出しの絵描きってフリーターに毛が生えた程度の収入と信用しか無くて、とても20代の女一人では生きて行けない。
親か彼氏に生活援助してもらってなんとか生計を立ててる人が大多数だ。あとはルームシェアかな。とにかく自立した生活は遠い。兼業人口も多い。
絵描きになるだけなら簡単だけど、レッドオーシャンを素足で闊歩する器量は高卒じゃ身につかなかったので、社会経験って意外と重要かも、と私は思ってる。
「絵描きとしてまとまった収入を得るには?」は、「勉強しろ」、がこたえだと思う。
トレパクがよく話題になるが、ぶっちゃけクライアントの指示でこれに似せろ、と言われる事が多い。作家名指定で。
あくまで参考例として言及されるだけだけども、仕事を取ろうとすると、どうしてもアレっぽいやつのが良い、と言われることがよくある。
で、似せると見てる人は気づく。じゃあきづかれないよう独自装飾を入れると、これじゃないと言われる。悪循環。
恣意的なトレパクは意外と少ないことを知っておいてほしい。私はトレパク拒否ったらD社出禁になった。本当に納得できない。潰れろ。
BLが市場飽和してるという説が昔あったけど、体感的には全然飽和に遠い。BL小説の挿絵を描いてほしいという依頼はめっちゃある。
小説→コミカライズ→アニメ化→舞台化・映画化というステップが一般的で、規模感もそれにつれて大きくなっていくのが多いが、BLはアニメ化しづらいってだけ。
ついでに言うと、女性向けは映像作品より小説や漫画の消費量が多く、妄想に飢えた界隈だ。BLが飽和するってことは無いので、安心してほしい。
ただし性癖の方向性の違いで仲違いするイラストレーターや作家は多い。性癖の盗用がしばしば問題になる。気難しい業界なので、怒らない、が世渡りとして重要。
権利上の問題はめっちゃあるけど、背景とか絵描きの独自性が関係ない箇所とかは、AIが置き換わっていくと思う。
顕著なのはテクスチャで、衣類の毛羽立った感じとか、建造物の表皮表現とかは、AIが取って代わって問題ない箇所だと思うし、そういうパーツの開拓は進んでいくはず。
絵を描く時間の大多数ってそういう属人性の少ない箇所だから、手書きしてる人は淘汰対象だと思う。
現代の日本を舞台に、主人公である若き女性・藤崎瞳(ひとみ)は、大手企業の社長令嬢として育てられた。彼女は贅沢な生活と名誉を享受しながらも、内なる孤独や欲求不満に苦しんでいた。
ある日、瞳は父親の経営する会社で働くことになり、そこで2人の侍女と出会う。侍女たちは瞳の世話をするために雇われていたが、彼女たちの美しさと艶やかな魅力に瞳は惹かれていく。
侍女たちとの接近によって、瞳は内なる欲望や禁断の快楽を知ることになる。彼女は侍女たちとの関係を深め、日々の生活の中で新たな刺激と愛を見出していく。
物語は、瞳と侍女たちの三角関係や愛の模索、そして社会の偏見や抑圧に直面しながら、彼女たちが自らの本当の幸福を見つけるための旅路を描く。瞳は自らの欲望や愛を追求し、侍女たちとの情熱的な関係の中で成長していく。
2人の侍女との交流を通じて、瞳は社会の枠を超えて本当の自由と幸福を見つけ、自らの運命を切り開いていく。彼女たちとの情熱的な愛と禁断の関係が、瞳の人生に新たな輝きを与えることになる。
を见に描き切っフィクショっあゑゐカれ?!
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SNS、インフルエンサー、Vtuberといったジャンルのフィクションが年々増えていると思う
ジャンルとしてでじゃなくとも、現代社会を舞台にした物語には欠かせない要素となっているだろう
登場人物がスマホにうつるタイムラインを見て「うぎゃー」と声をあげるようなシーンは実際ありふれたものである
一方で、インターネットの混沌とした側面やワールドワイドな影響力、そこに潜む多様な人々の心理・行動・日常、あるいは事件の数々
そういったものをリアルに、深く掘り下げて説得力を持ってに描かれたフィクションってのは存在するんだろうかね
個人的には、きわめて希少だと思うのよね
きっとネット社会のダイナミズムを物語に落とし込むこと自体が一つの技術的な課題で、多くの作者にとっての高い壁になってる気がする
フィクションにおいてインターネットが普遍的に存在する世界をどのように捉えどのように表現するかは、作者の感性だったり洞察だったりによって大きく変わるんだけど
なので大抵は特定のコミュニティで起こる小さな出来事にフォーカスを当てることになる
これらは往々にしてある種の非日常性を含んでいて、それがフィクションの核を形成する
例えばあるSNSが炎上して人生が一変する物語とか、VTuberがデビューして現実で言う宝鐘マリン並みに一躍売れっ子になる過程を描いた成功譚とか
きちんとしたノンフィクションが描かれないことには説得力のあるフィクションも成り立たないような気がする
要はインターネット社会に対する描写だけが大事なのではないよねということ
○ご飯
朝:なし。昼:ポテチ。夜:ラーメン。チャーハン。キムチ。生中。瓶ビール。間食:アイス。豆菓子。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、おやすみなりー。
○ANGEL WHISPER
1999年のゲームを2023年にフルリメイクしたあノベルゲーム。
フリーのゲームプランナー由島博昭が翌年のノストラダモスの予言を元にしたゲームの開発を依頼されるところから始まる。
色々な諸事情があって短い開発期間限られた人員でのゲーム作成になるが、仲間たちに恵まれ奮闘していく。
そんなお仕事ものっぽい導入だが、これは本当に導入に過ぎず物語がドンドンと転がっていき、壮大な世界設定と共に大河的なストーリーが展開される。
更に、この作品自体を内包するメタ展開、そして2023年にリメイクしたことすらも踏まえたメタ・メタ展開と、最初の印象はどこへやらの大きなストーリーになっていく。
ただ、良くも悪くも、良く言えば啓蒙的、悪く言えば説教臭い、そんな展開になっていく。
勿論、そのようなストーリーが悪いわけではないのだけど、地に足を付いた基盤の描写が薄く、そこの部分の空中戦が続くのはちょっと辟易してしまった。
好みの問題なのはそうなのだけど、1999年と2023年を比較すれば明らかに人類は終末に近づいていると急に断言されても言葉に詰まってしまう。(否定したいわけでも肯定したいわけでもないが)
キャラクタ同士の交流や、市井の人々の有り様を示してこそ、人類の未来みたいな大きな問いが生きてくるのであって、そこを一気に飛ばしてしまうのはちょっと。
ゲームの中で作っているゲームについても、もう少し掘り下げが欲しかった。
それと、割とゲームシステムにはおおらかな方だと思っているが、流石に今作は基本的な部分がイマイチだった。
これは僕の環境問題かもだが、ノベルゲームで処理落ちするのもキツいし、なによりゲームがエラーで強制終了でタイトルに戻されることが短いプレイ時間の中で二回あったのは残念すぎる。
ちょっとシステムでイライラさせられたせいで、ストーリーを正常に評価できていないかもだけど、流石に強制終了は勘弁して欲しかった。
システムセーブすらされていなかったらしく、復旧作業に相当の時間を使わされた。
しかも、このゲームがメタフィクションを扱ってるせいで、そういうトリックなのかと真面目に考えてしまったのも腹立たしい。(スチル絵が表示される良い場面だったし)
日本のゲームスタジオが、このレベルのオープンワールドを作りあげたことに感動している。
もちろん、スパイダーマンやアサシンクリード、サイバーパンク2077といった一線級のオープンワールド作品に比べると、まだまだ物足りないことは否めない。
だが、それらの背中が見えるところまで来ている、食らいつけているという印象を持った。
ゲーム自体はわかりやすく『Ghost of Tsushima』の影響を受けている。
海外のゲームスタジオが日本史を題材にしてあれほどのものを作ったのだから、コーエーがそれ以上のものを作らねばどうするんだ、というアンサーだとも言える。
実際、オープンワールドとしてはやや作りが古かったツシマに対し、『Rise of the Ronin』は最新のスタンダードを取り入れてブラッシュアップに成功している。
オープンワールドで最も重要なファクターである「移動の自由度」は高い。
幕末の横浜・京都・江戸を舞台に、その街並みを縦横無尽に駆け巡ることができる。
手が届く段差は基本的に登れるようになっていて、慣れれば建物の上をぴょんぴょんと軽快に移動できるだろう。
敵の手薄なところからステルスで侵入してもいいし、屋根にのぼって遠距離攻撃してもいいし、上空からいきなり敵のリーダーを狙ってもいい。
オープンワールドならではの立体的で自由度の高い攻略を楽しめるようになっている。
ストーリーに関しては、かなり荒唐無稽な描写を交えつつも、黒船来航から江戸開城までの歴史を追っていく手際はさすがコーエーである。
登場するキャラクターは、ほとんど幕末オールスターと言ってよく、それぞれに個別のサブクエストがあり、いくつかのifも織り込んでいてなかなか面白い。
1. 鈎縄はどこでも使えるべき
移動の自由度は高いと書いたが、鈎縄が特定ポイントでしか使えないのは重大な瑕疵である。
この点で言えばスパイダーマンどころか隻狼以下だ。
アクション面の不満はこれに尽きると言っていい。
この手のゲームでは敵の視界が異常に狭いのが常ではあるが、それにしても本作はかなり違和感がある。
相当な遠距離からいきなり攻撃されることもあれば、すぐ近くでどたばたと戦っているのに他の敵はそれに気付かず棒立ちしていることも多い。
プレイヤーがエリアの境界から一歩でも出ると、追いかけてきていた敵が急に戻っていくのも、さすがに作りが雑すぎると感じた。
ある人物を殺さない選択をしたのに結局殺されてしまうとか、幕府側につく選択をしたと思ったらいつのまにか長州側についているとか、そういうのは本当によくない。
坂本龍馬をパートナーにすることで、最初は攘夷志士として行動して、次に勝海舟と出会って幕府のもとで行動して、という流れは上手いと思ったのだが。
京都の最初で佐幕ルートか倒幕ルートかを決定したら、そこからは完全に専用シナリオになる、というかたちが良かったのではないか。
やはりサイパンなどとの決定的な差はシナリオの質・量なのだろう。
サブクエストなども楽しめはしたが、史実そのものの面白さを借りているところが大きいとも感じた。
ただ、そうした点を考慮しても『Rise of the Ronin』は十分によく出来たオープンワールドゲームである。
1話のタイトルである「ぼくたちは、恋していく」が作品自体のタイトルであるかのように表紙にも目次にも書かれ、北海道を舞台とした普通の学園ラブコメのように始まる
前作の「いいひと」が心温まる路線だったので、本作もそのようになると思わせた
しかし1話の最後の方で突然空爆が始まり血まみれになって倒れる人々
おっとりしていた彼女が機械の翼を生やした姿で表れ「ごめんね。あたし、こんな体になっちゃった」と主人公に呼びかける
そこで見開きで「最終兵器彼女」とはじめてタイトルが明かされる
ネットも広まっていない時代を舞台に、情報統制により道民たちは知らなかっただけで
呪術廻戦やチェンソーマンはガラケーの時代を舞台にしている。20年前ではないが10年以上昔のことだ。この程度なら微妙にノスタルジーを感じる程度の時間的ギャップ。
ちびまる子ちゃんやサザエさんは日常をテーマにして延々と続いて長寿アニメと化したので、微妙なノスタルジーから明確なノスタルジーへと変化し、今では半ば時代劇の様相を呈している。
敗戦後の日本の経済成長期はハードウェアの発展がめざましく、日常空間、生活様式が目まぐるしく変化した。言い換えれば、10年ひと昔がぱっと見でわかる時代だった。
今はソフトウェアの発展は目覚ましいがハードウェアの発展はそうでもない。だから、日常空間や生活様式はぱっと見ではあまり変化が無いように思える。
どんなファンタジーも無茶苦茶も「だってその方が性癖が刺激されるじゃん」で作者と読者が同意すればオッケーになる。
男向け漫画の場合はそれがエロ漫画の世界に限定されていて、エロ漫画の世界になると突然なんでもありでIQが低くなる。
男は辻褄が合う合わないに対してやたらこだわってしまう部分があって、だからこそエロ漫画は荒唐無稽を極めることで「これは辻褄が合わなくてもいいんですよ」というお題目を示しそれによって話の不合理に対してつじつまを合わせようとさえしているわけだ。
そんな自分を男は合理的だと思っているが、実際には「この世界は理屈どおりに動いている。たとえ物語の中でも」というファンタジーの中に生きているわけだ。
対して女向けの場合は一般向けのどんな漫画であっても無茶なファンタジーを平気でねじ込んでくる。
その癖してエロ漫画で意味不明にIQが下がることもそこまではない(たまにアナルで生け花したりはする)。
これは結局のところ女の方がよっぽど合理的で「どうせ作り話なんだから屁理屈とかいらなくないか?面白ければどうでもいいだろ。つーかはよイケメン出せ」と考えているわけだ。
だから男の作った漫画みたいにわやくちゃになって見せることで「この漫画はカオス!ナンセンス!なんでもありだよ!」とアピールする必要性もないわけだな。
この違いが分かってない男女が「ジャンプの漫画は読みにくい」「ちゃおの漫画は意味が分からない」みたいなことを言い出すわけだよ。
漫画なんぞに対していちいち小理屈を並べて筋が通っているかのように見せかけたがるのが男漫画で、イケメンやスカっとジャパンをするための舞台装置でしかないと割り切って整合性をしょっちゅう度外視にするのが女漫画なわけだな。
漫画を読む時は今目の前にあるのがどっちなのかを把握しておく必要がある。
最初に大きな嘘を一発かました後はおおむね理屈が通っているわけだからただ淡々と読めば良い。
女漫画の方はエモが優先なので、話としての筋が通ってない部分がチラホラとあることに対して意識をそらす技術が必要になってくるが、慣れている人間でも漫画のジャンルを間違えて読み始めるとコレに失敗する。