はてなキーワード: 直視とは
はてぶコメで、はてサのお歴々が一生懸命「自分を」擁護してるけどさ
Ⅱ-2.夫婦の出生力
https://www.ipss.go.jp/ps-doukou/j/doukou15/gaiyou15html/NFS15G_html07.html
によれば、2015年でも1.94なんだよね。
2021でも1.9あるわけよ
んじゃなんで激烈に少子化進んでんの?って言えば
晩婚化も進んでるが、未婚化も進んでる
そういうことを直視できなくて
はてサは「子供を生むことを優遇すれば子供は増える」って思ってる
んなわけ無いじゃん
なんで楽しい自分の人生で子育てなんて「面倒臭い」ことをしなきゃならんのか、という価値観になってるんだよ
社会を切り捨てて、核家族になり、好きなことをして生きるという麻薬にどっぷり浸かってる
そういう人間の子供が欲しいってのは、犬猫を飼いたい、っていうようなもの
だから、夜泣きで起こされちゃう、みたいなことをトンデモナイ重労働みたいに言い始めて
マジクソ
「ファクトフルネス」は、ハンス・ロスリング氏による著書で、データに基づいて世界を正しく理解するための方法を提唱しています¹²³。その中で、以下のような主張があります。
1. 収入を対数変換していることについて: ロスリング氏は、世界を「低所得」「中所得」「高所得」の3つに分けるのではなく、1日あたりの所得ごとにレベル分けすることを提唱しています²。これにより、所得の分布をより正確に捉えることができます。対数変換は、所得のような指標が広範囲にわたる場合によく用いられます。しかし、この方法が全ての状況に適しているわけではなく、特定の文脈や目的によっては無理があると感じることもあります。
2. 人口増加と文明発展が環境問題を悪化させているという事実に直視していない: ロスリング氏は、世界人口が増え、エネルギーの使用が増えた場合に世界がどうなるのかについて、具体的なデータを用いて説明しています¹。彼は、「エネルギーのほとんどは先進国の一握りの人間が消費している」ことを指摘し、省エネ技術を含む経済発展こそが問題解決の鍵であると主張しています¹。
3. ビル・ゲイツの押し売り: ビル・ゲイツ氏は「ファクトフルネス」を高く評価しており²、その影響力を使って本を推奨しています。しかし、それが「押し売り」と感じるかどうかは、個々の読者の主観によるところが大きいでしょう。
以上の点を考慮すると、「ファクトフルネス」は、データに基づいた視点から世界を理解するための一つの方法を提供していますが、その解釈や適用には注意が必要であると言えます。また、批判的な視点を持つことは、情報をより深く理解する上で重要です。⁴
(1) 『FACTFULNESS』著者に聞く 世界を正しく見る習慣 | NIKKEIリスキリング. https://reskill.nikkei.com/article/DGXMZO40385070T20C19A1000000/.
(2) 『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』の要約と解説 | 経済ノート. https://keizainote.com/1017/.
(3) 「可能主義者」の希望あふれる遺言『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』 | 本がすき。. https://honsuki.jp/review/14629/index.html.
(4) 書評:『ファクトフルネス』を読んだ感想 | 筋トレ&ダイエット以外. https://liftingdiet.firebird.jp/2019/03/14/%e6%9b%b8%e8%a9%95%ef%bc%9a%e3%80%8e%e3%83%95%e3%82%a1%e3%82%af%e3%83%88%e3%83%95%e3%83%ab%e3%83%8d%e3%82%b9%e3%80%8f%e3%82%92%e8%aa%ad%e3%82%93%e3%81%a0%e6%84%9f%e6%83%b3/.
(5) 「FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣」ハンス・ロスリング:本ナビ. https://1book.biz/2019/12/10/factfulness.html.
金が無限にあるなら試してみればいいけど
なので、お金を支出することはやればいいと思うんだ。子育てのためとなれば人はむっちゃお金使うから経済回る。
だけど、それで満足説に第二第三の手を打たないとだめ。別枠でね。
参考記事
https://note.com/rmogimogi/n/ncc819af9d93c
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4d86cfc3a20bd7dbbd9dd7bf2eeb36f064d8d526
多産の家庭は大学を無償化、と言うアイデアが「少子化対策」として出てきたが、
https://digital.asahi.com/articles/ASRD67KLKRD6UTFL011.html
これは
といえるので、最低でももう少し工夫をしてくれという話をする。
簡単に言えば、少子化の主因を捉えていないから、少子化対策にならない。
これは繰り返し言われてきたが、少子化の主要因は、非婚化と言われている(注1)
詳しくは注記に文献を上げておくので見てほしいが、簡単に言うと
と言う状況があるためだ。
結婚した夫婦がもうける子どもの数は微減状態にはあるが、そこに合計特殊出生率の変化のグラフと、婚姻率のグラフを重ねてみてほしい。そうすれば一目瞭然で「結婚した夫婦も減ってるじゃ無いか」という抗弁は枝葉であり、全くマトを得てない事が分かると思う。
結婚しない人を結婚させるより、3人目を諦める人を支援した方が良いと言う事実はない事も既に研究で明らかになっている。確かに理想の人数の子の数を諦めた理由という調査では、その理由に経済を上げる人が多いが、統計で分析すると
要するにまともに取り組むなら晩婚化の対策が必要だと言うことになるが、政治的にタブーでありこの路線はほぼ無理だと思われる。
もちろん、ミクロで金銭的理由を子どもをもうけない理由に挙げている人がいるかぎり、それをフォローする事は重要ではある。また経済対策として子育て支援は効率が良い施策なのでやるべきではあるのだが、これを有効な少子化対策として捉えられてしまっても困る。
子育て支援は少子化対策としては有効ではないと言うことをとにかく認識してほしい。
よく「子育て支援・少子化対策」と並べる人がいるが、この二つは似て非なるものである。少子化対策とは別に考えるべきだ。
まず、前提の事実を並べる
最新の統計はコロナ禍の影響があるとは言え、再配分が間に合っていない状況である。
その中で、最近は所得制限なしに給付を行うのがはやり始めている。高所得者層にはそれほど大きな金額ではいのかもしれないが、負担率という形でみると低所得者層ほどインパクトが大きいので、所得制限無しの上に、低所得者層に給付対象者が少ない助成金などをやったりすると、一気に格差が広がる。
つまり、言い方はあるにせよ
と言う事で、現在の状況をより補強し、子育て支援は本質的に少子化対策としては問題が多い。
特定の部分をターゲットにして単純に補助金を作ると、産業が補助金に対して最適化するので、全体として金額が上がって非効率になる。例えば、ネットで買うと5000円、地元で買うと8000円だが、1/2補助の地域振興券がつくので地元で買う、と言うような現象だ。この構造から、一見すると消費者に対する補助の様に見えるが、実際には店側の方への補助金としての性質が強い。
また、最近問題になっているのが、出産一時金である。出産一時金をはじめとして、出産に関する各種の補助は強化されて金額が増えているが、結果どうなったかと言うと、病院がそれに合わせて、出産費用を値上げをした。出産に関わる費用が上昇しているのである。
妊娠出産は自由診療であり、病院は自由に価格設定ができるためだ。結局、出産する人たちへの負担軽減には効果が限定的であるというばかりか、効果の怪しい代替治療のような者まで出ている。これを受けて政府は、出産を保険診療のように、標準報酬のようなものを定めようとしている。
これらから、何も考えずに補助を作ると、大学にも同じ現象が発生する。授業料分は補助が出るだろうが、全体としては助成金を充てにして値上げが行われるだろう。結果、補助の大部分は大学への補助として作用し、実際に支援したい子育て世帯への恩恵はわずかになる。
ではどうするかというと、補助をする対象を個人では無く、大学に支払うようにするべきだということだ。何故かと言うと、個人に給付するときに個人に条件を付けるのは難しいが、大学に条件を付けることは容易だからである。
例えば、便乗値上げをしない事、上限金額を決めた上で「追加で対象の学生から授業料を徴収しないこと」といったはどめをかけて、条件に合致する大学にだけ対応させるといった処置である。
再掲するが、せめて
が必要だ。
ばらまきはある程度民主主義のコストであるので、人気取りで分かりやすい施策をやろうとするのは、まぁ仕方が無いと思う。
ただ、それで「やった感」だけを醸し出して、あるいは、有限の予算の中で優先度を間違えて支出された予算になってしまって、本質的な対策が行われないがまずい。
政治的に
みたいなことを堂々といったら炎上するだけで難しいのはわかる。例えば、子育て支援は所得制限無し無制限が支持される一方で、自治体が頑張って結婚相談所を作っても参加補助どころか無料も無理で、実費請求されるところがほとんどだ。これは有権者の支持が得られないというところであろう。
が、もうこれを上手くオブラートに包んで実行していくほかにないのでは無いと思われる。
子育て支援をするなと行っているのでは無い。子育て支援はやるべきだ。しかし、子育て支援は少子化対策にならないのを直視して、少子化対策は別枠でちゃんとやってくれと言う事である。
※この記事は、2023年12月3日に行われたFlowBack 10th Anniversary Live「FlowBack」の感想であり、ネタバレを含みます。
また、MC等の彼らの言葉はうろ覚えのため、細部は異なることをご了承ください。
正しく記憶してる方がいらっしゃいましたら、訂正しますので、コメント等で教えていただけると嬉しいです。
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ひょんなきっかけでFlowBack というアーティストの10周年ライブに行ってきた。
このアーティストは10周年にして、このライブにて活動を休止するという。
そもそもなぜこのライブに行くことになったかというと、友達に誘われたからである。
私は若い三次元の男性(特にイケメン)がやや苦手なので、こういう類のアーティストに興味をもつことはなかった。
友達からメンバーの写真を見せてもらった初見の感想は「左から2番目の人、NANAの蓮みたい」だった。
信頼する友達が良いと言っているし誘ってくれたからまあ行ってみるか、そんな軽い気持ちで参加した。
せっかくなのでライブ前にベストアルバム「Y」をiTunesで聞く。
ただ、作業中に聞いたので、しっかり聞き込むような予習はしていない。
洗練された乗りやすい曲が続く。最初はどう乗ったらいいのか分からないのもあり、その世界観を全身で堪能することに集中した。
それぞれの曲に合うように作られた照明も相まってそのパフォーマンスに引き込まれていく。
ふと隣を見ると、グスグスと泣いているファン。
きっと長年彼らを応援してきたのだろう。
その姿もグッときた。
席は上手の後方。
このくらいの距離なら、若くて今どきの男性であっても、苦手意識を持たず見ることができる。
曲やMCを経る毎にFlowBackというグループ、そしてメンバーの解像度がぐんぐんと上がっていく。
あ、あのメンバーはお調子者キャラなんだ。トーク回すの上手だな。歌声が力強い。
あのメンバーは身振り手振りが大きくてお客さんを煽るのも上手。圧巻のパフォーマンスだ!等々…。
初めは名前もうろ覚えだったが、メンバー同士がよく名前を呼び合うので、次第に覚える。
それに、MARKというメンバーがいたことや、2年前に独立したこともMCで知ることができた。
こんな風に、初めてライブに来る人にもさりげない配慮が散りばめられているように感じた。
二人ずつのMCはそれぞれのペアで全然違うトークを繰り広げており、とてもおもしろかった。
衣装替えも交代にすることでお客さんを退屈させない工夫がされているのだ。
そう、このライブは細部に至るまでこのような配慮が行き届いていた。
メンバーと裏方の方々が、丁寧に、大切に、このライブを創り上げていったのが伝わってきた。
メンバーが私のすぐ近くにくる。
確かに彼らは私の苦手な「若くて格好いい男性」であるが、あくまでアーティストであり、私と同じ土俵にはいない。
その言葉は上辺だけの薄っぺらのものではなく、心からのものであることが理解できた。
きっと辛いことも辞めたいと思ったことも何度もあったことだろう。
それでも彼らがここまできたのは、彼らの思いと覚悟、そしてFBF(ファン)の存在だろう。
中でもSwan.Jの言葉が強く響いた。
彼は、FlowBackの活動が正解だったのかまだわからないという。グループを始めたときに夢見た大きな会場でライブができたわけでもないし、何を残したかと言われたらわからない、でも、今日のライブでFBFのキラキラした笑顔を間近で見て、こんな素敵な人たちに応援してもらえていたんだと思ったら、ここまでの道のりは間違っていなかったんだと思ったと。
Swan.Jは続ける。
「もしも夢を持っている人がいたら諦めないでほしい。辛い道であるけれど、その姿を見てくれている人がちゃんといるから。その証がここにあります。」
私もまた夢を持つ者であり、その途上にいる。
その道が険しいことは明らかだけれども、自分の好きなことを仕事にすると覚悟を決めたのだ。
ライブ中にSwan.Jは言う。
「俺たちはここに思い出を作りに来てるんじゃない、お前たち一人一人のの記憶に残りたいんだ」
彼らの思いと音楽はあの会場にいた全員、そして会場に来れなかったFBFに届いている。
そうして心に残り続ける。
否、正確には私はそう願っている。
だって、初めてライブに来る私にまでこんなに強く強く届いているんだから。
約3時間半、あっという間だった。
はじめは不動だった私も、最後には一緒にフリをして、隣の人と肩を組んでいた。
ライブ後はMCで沖縄料理についてのトークがあったので、友達と近くの沖縄料理屋に入った。
こんなアーティストに出会えたこと、そして、こんな素晴らしいライブに参加できたこと、とても嬉しく思います。
FlowBackという船に乗る船団全員に幸あれ、そう強く思う。
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(余談。このテキストでは、Swan.Jの言葉をよく書きましたが、私が最も惹かれたのはREIJIです。あのパフォーマンスと笑顔、キャラクター、最後の最後の言葉「それも僕らしいかもね」、すべてが素敵でした。輝いていました。)
この手のヤツはどんなモバイルゲーでもガチャがあればソシャゲと呼んでくだらないと決めつけてくるんよな
まだゲームは何でもファミコンと呼ぶ親の方が悪意がない分マシやぞ
買い切り至上主義者は今のゲーム市場の5割がモバイル、8割がライブサービス型なのを直視してないんよな
そんだけホットな領域だから一口にガチャ有りと言っても全体の課金形態やゲーム性との結びつき方も急速に良くなってるの想像できんのかな?
ガチャと言っても拝金主義みたいなえげつないしょーもないガチャ仕様のやつはもう売れないんだよ
上位のやつなんかトータル700億円以上かけて作ってるのもあるし、据え置きの大作超えるくらいスゲー作り込みで
欧米企業が主催する主要なアワードでもガチャ有りゲーが評価されノミネートされてる例がいくつもある
つまりガチャ機能があるからと言って、ガチャが楽しさの大半を占めてる「ガチャゲー」みたいに捉える印象はもうズレてきてるし
昔のソシャゲばりの射幸性は薄まって、ガチャもどきのワクワク感だけ残して健全化されつつあんの
むしろ買い切りやDLC販売方式よりも、ユーザーのモチベを維持しつつ中身で勝負する世界になってるから進歩的
ユーザーが今でも自嘲的にガチャゲーとか言うかもしれないが、それを真に受けてたら老害まっしぐらよ
中身は昔と比べ物にならんほどゲームになってんだよ
バトルパスが流行しだした初期はまだゲーム設計とミスマッチなモバイルゲーが多かったが
今はバトルパスや月額課金という任意サブスクのリソース課金をベースにした育成レベルデザインになってる
そうしたサブスク課金の副産物で回すガチャでキャラプールは「着実に」充実する作りになってんのよ
こうした課金スキームの微妙な変化によって、昔のようにガチャ課金が主体で一部の廃課金者によって買い支えられる
胡散臭いエセゲームビジネスを脱却できる道筋が立ち、ロールモデルとなるタイトルも出てきたのが最近のモバイルゲームの質が向上した要因
まあそれに引っ張られて開発費もやべーくらい高騰してるわけだがそれは置いといて
これによってモバグリレベルのソシャゲどころか、パズドラ白猫時代みたいなインフレ前提のゲーム設計も新作においては珍しくなった
まあ日本市場は特殊で古臭い設計のやつも上位にしぶとく残ってるんだけど、それは日本人がソシャゲ的常識に過剰適応してるせい
特殊市場の日本では未だにガチャの確率を緩くする事を好み、つまりランダム性・射幸性を高めてバラマキする(必要があるほどインフレと課金煽りがキツい)作品をユーザーが歓迎してしまう部分があるけど
グローバルで成功してるガチャありゲームは真逆で、確率は極めて低くして、ほぼ確定の排出ポイントでしか出ないようにするかわりに
ガチャ機能に費やした石が無駄にならないような、実質的な配布システムが好まれるから、バトルパスと合わせたコツコツプレイが報われるゲーマー好みの設計になる
古臭いガチャゲーだと無課金や微課金じゃ数ヶ月かけて溜め込まないと天井にはまるで届かないくらい高い天井だったせいで
運による格差が致命的になるし、引くタイミングが「人権キャラ」みたいなインフレ加速の環境チェンジャーを皆が狙うから、手持ちや戦略がみんな同じになるしでゲー無感が強かった
そういうゲーム面でみたときのしょーもなさに対しても進歩してて改善が働いてるし、そういう作りに反発するプレイヤーからの圧力も高くなった
このへんの微妙な変化は長年モバイルを含むマルチプラットフォームF2Pタイトルを追ってる人じゃないと凄さが分からんだろうが
「周回してガチャ引くだけのゲーム」という揶揄はものすごく局所的に見ればそう解釈できる部分があるとはいえ
全体としてはコンシューマよりコンシューマらしいゲーム体験の上にそれが乗っかってる場合すらあり、馬鹿にできん
だいたいそういう穿った目で見れば買い切りやコンシューマだってやってることは反復作業と言い張れる
だいたい、まあ一部のプラットフォームなら試用や返金が充実してるとはいえ、中身が分からんもんに先に金を払うというシステムが
通用する時代じゃなくなってることは誰でも分かるだろうし10年前の増田ですら未来のあらゆるコンテンツは基本無料が主体ってことは予見してた
モダンにアップデートされたガチャ機能を含むF2Pモデルこそが万人にとって柔軟に付き合える優れたゲームを生む土壌になるんだよ
ガチャありゲーを作ってる中にも、いや中にこそ、本物の素晴らしいクリエイター魂が宿ってるってことをいつか理解らせてやるぜ
カニだと思ってたものがカニカマになってて、カニカマだと思ってたのがカニになってた事にあとから気づいても発狂するなよ頼むから
しらんけどな
研究によれば、
知能の低いマイノリティ(女性)は、家父長制や男尊女卑に迎合しているらしい。
私のせいではない、社会はこういうものだから仕方ない、と自分以外のせいにして諦めることで自尊心を保っているらしい。自分が辛いのは誰かのせい、低い自尊心にとってはその方が都合がいいからだ。
特に反発することもなく、無気力。もし顔や体型が良ければ専業主婦になったり男に媚びたりして生きているらしい。
たしかに、知能と自尊心の低い人が不都合な現状を直視して自分1人ではなく女性たちみんなの権利を勝ち取るために立ち上がるなど、なかなかできない気がする。
よくアンチフェミが「女はイージー」「まんこついてるだけで世渡りできる」「専業主婦」「モテないババアのひがみ」などとフェミニストに向かって呪詛を吐いているが、
つまりあれは完全に間違っている。
本当にまんこで世渡りして専業主婦になって男に乗っかってイージーな生き方をしている女性や、
知能が低く容姿も悪く気力もなく性格が奇抜で男性から相手にされない女性は、
フェミニズムに興味のない、アンチフェミやネトウヨからすれば理想的な、従順な女性ということになる。
フェミニストは、いい大学を出ていて、優秀で、知能が高く、賢く、賢いということは愛嬌があり性格がよく自分を魅力的に見せるセンスがあり会話が面白いので大抵の場合男ウケも良い、
そういった能力の高い女性層の義憤を想定して、声をかけねばならないのだ。
彼女たちの周囲の世界では女であることによって人生がイージーになるような人はおらず、女であることによって優秀さを買い叩かれ、家父長制に理不尽な差別をされてきた経験しかない。
マジョリティとマイノリティでは、高知能の人間と低知能の人間の振る舞いが逆になることが知られており、
知能の高い男性(マジョリティ)は、自尊心はすでに満たされており、不公正な社会をよく思わないので、リベラルで女性の権利向上に積極的でフェミニストであることが多い。
知能の低い男性(マジョリティ)は、反差別に反発する。自尊心のよりどころが男とか日本人とかが褒められてる瞬間くらいしかないため、それ以外に自尊心を満たせるものがなく、自分が辛いのは誰かのせいというメンタルの結果、よくネトウヨやアンチフェミになっている。
賢く自尊心の高いマイノリティは、自身の高い自尊心に見合わないマイノリティの立場に強く反発し、他集団と対等に引き上げようとする。
現体制を客観視して批判する行為自体、賢くないと難しいと言われるとわかるような気もする。
体感とも一致すると思う。
大学教授や議員や海外大研究者などの多くはフェミニストだし。賢ければ賢いほどフェミニストの割合は増える。
知能の低い女性はどこにいったのか?
そこがずっと気になっていたので、この研究を見て、納得した。
ハライチ岩井をキモいって言ってる人、煽りとかではなく本当に嫉妬ではないのか?
自分がマジで理解できない感情なので気になる。マクロンがどうこうとか関係なく本当に好きにすればいいと思ってるので
嫉妬だとしたら、加齢とともに日々劣化していく若さという自分の美的価値の劣化を直視できずに、若さという基準で選んだ男の方を叩くってロジックなのか?
だとしたら日本で美的価値の評価が相対的に高い女性特有の感情なのか?
どうにもグルーミングとか言ってる人が感情の後付けで理論をくっつけてるようにしか見えんわ
少なくとも今岩井でツイート検索して出てくるようなキモいって言ってる毒吐き垢とかはグルーミングとかソーシャルジャスティスを考えてるようには思えない
映画好きだけど怖いの嫌だからホラーは頑なに避けてきた。でもインターネットミーハーだから話題性に屈してヘレディタリーとか呪詛を観た。超怖かった。
ママがスパイダーマンしてるシーンとかがギャグだとか言ってる人おるけど怖えよ普通に。ヒネてるのかホラー耐性がつき過ぎてんのか知らんけど。
ミッドサマーは純愛の映画だとかセラピーの映画だとか言うノリもあったけど、あれもすみっコぐらしはFateだみたいな誇張こじつけノリに近いものを感じて寒いなあって思った。まあどれほど本気かは知らんけどアリアスター自身もそういうコメントはしてたらしいし、その手の視点が的外れという事もないんだろうけど。
とにかく初手で異常に怖いやつを観てハードルが壊れたんじゃね?と思って今まで避けてきたホラーの名作も着手してみようと思った。まずはエクソシストとかエルム街辺りから。
全然怖くはなかった。観たあとでも全然一人でトイレ行ける。ストーリー上の怖さは屁でもない。もはやミーム化してしまっているという所もあるかもしれない。チェンソーマンで悪魔が親しまれると弱体化するみたいなのもそういう事なんかなって思った。
でもスプラッターというかゴア描写?はやっぱり苦手。耐性がつかない。その点ヘルレイザーは怖いと言えた気がする。メロドラマはかったるいけど、おじさんが受肉するシーンとか光るものがあって普通にかっこいいなとも思った。
銃でパンパン撃たれたりザクッと斬られたりするのは別になんでもないんだけど、引き裂かれたり擦り下ろされたりする所をねっとり映されると直視できない。死刑に至る病の冒頭のアレも観てらんなかった。
エブエブの紙をシュッてやるのとかアウトレイジの拷問とかは、苦手なんだけど怖いともまたちょっと違う気がする。身近な痛みを想起させられて手に力が入らなくなってくなような感じ。
ボコスコ殴られてるのは特に何も感じない。スタント感を感じてしまうのかもしれない。マトリックスで殴られた壁や柱が発泡スチロールみたいに粉々になるのを観て、すごいパンチだなと思うよりはヤワなセットなんだなと思ってしまうような、そんな感じ。
ホラーに限らず決定的な外傷というか不可逆的な欠損を負うのも苦手なんだけど、それはなんというかストーリー的な嫌さであって怖さとはまた別口な感じがする。キャラクターに対する部分的な喪失感とでも言うような。
映画は避けてたけど、おれはホラーは不条理なものであって欲しかった。モヤッとはするんだけど、伏線が散りばめられたような理詰めの怖さってなんか陳腐な感じがするから。アリアスター作品と呪詛を観てその考えは少し変わったんだけど、この間ヒッチコックの鳥を観て徹底した謎ってやっぱりいいよなって思った。理解した瞬間の怖さってなんか大喜利とかの親戚辺りにいる様な感じがするし、理解できないが故の恐怖の方がなんか世界の不思議に期待出来るような感じがする。
ご多聞に漏れず就職氷河期の中でどこにも就職できず就職活動も半ば惰性になってしまい、親も厳しく当たってきたわけじゃないが心配しつつやっぱり何か言いたそうだったし、それを察して申し訳なくてそそくさと部屋に戻ってはずっとネットをしてるような状態だった。
社会経験のまるでない、そのくせ疲れ切った根性なしの無職だった。
出会い系のエロメールに引っかかったオッサンの話なんかを「バカだバカだ」と思いながら読んでいた。
『自宅で月50万円も夢じゃない!』みたいな情報商材の文字が飛び込んできた。そんなに稼げるわけないだろと思いつつ、それでもふっと「何かの足しにはなるかもしれない」とよぎってしまった。バカだ。今の自分がそこにいたら、その目の前の四角い板でなぜきちんと調べないんだと肩を掴んで罵倒したと思う。
でも当時は、仕事はまだまだ見つかりそうにない。無聊をかこつ穀潰しでいるのはいたたまれない。何も言わずにいてくれる親にも申し訳ない。
そういう気持ちでぎりぎりだった。
申し込んで届いたのはWeb上のメールアドレス収集ツールだった。クッション封筒に入ったCD-ROM。
当時はティーカップなどの個人BBSがWebにはあふれていて、それらをクロールしてアドレスを集めてくるのである。
そして集めたアドレスに提携先の健康食品だの英会話教材だの紹介するスパムメールを送り付ける。一日に1000も2000も。
紹介する商品も割ときわどいのがあって、これさえ飲めばガンが治るとか、そういうのはさすがに良心が咎めたから手を出さなかった。
文面は俺が考える。それで購入者がいたらインセンティブが入る。
こうして読むとバカバカしいだろ? 儲けなんて出るわけがない。
文章を考えるのは結構好きだったが、好きとかそういう次元でできる作業じゃない。
それでも何とか作業をこなして報告メールを上げると「増田さんすごい!がんばってますね!」と白々しいメールが来る。
金だけ巻き上げられたんだと気づくというか直視せざるを得なくなるまで時間はかからなかった。
CD-ROM一枚に50万円だ。
そんな金、社会経験もなく就職もできないペーペーが一括で払えるわけがない。当然向こうのセッティングでローンを組まされた。
よくわからない中部地方の会社の名前が入ったカードが送られてきて、月々2万円の2年間だ。
月々2万は大した額じゃないが、あのころは自分のバカさを呪うしかなくてただただ重くて憂鬱だった。
そのキットを立ち上げることも全くなくなった。
途方に暮れて就職活動の傍らバイトを始め、家に申し訳程度の金を入れつつローンも返してたが最後の方で精神的にダウンして返済が滞ってしまい、ついに親にバレた。
めちゃくちゃ怒られた。当たり前だ。50万円をドブに捨てて挙句に自業自得で病んだ不肖にもほどがある息子である。
今は超低空飛行の零細に勤めてなんとか食っていってるけれど、恐らくあの時のローン延滞のせいでいまだにクレカ審査に通らない。
今時の人は学校で情報なんて科目もあるしあのころの俺より何千倍もリテラシー高いと思うけど、弱ってる時に変なもん掴んじゃうと一生響くから気を付けてな。バカからの伝言だ。
大学の学部選んだ時に漠然とあった好奇心はもう全部使い切っているのに、未だに分からないことだらけで目眩がしてくる。
会社のやってることもなんだか他所と色々違うみたいだから転職してリセットした所で良くなるとは思えん。
ただただ金と時間を交換しているだけなのに、どんどん責任は重くなっていく。
テレビゲームのボムみたいな感じで「とにかく助けてください!」でどうにか出来る年齢じゃなくなってきた。
というか自分がそれをやられる側だ。
頼んできた側の勘違いで実際には簡単なことだった時、物凄いホッとする。
いざ自分がやられる川になったら、俺の時間を奪いやがってなんて気持ちが湧き上がるんじゃないかと思っていたけどそんなことはない。
もうとにかく一番怖いのはチーム全体で死にものぐるいで戦わないといけない怪物の発見報告がやってくることなんだ。
昔は後ろの方でビクビクしながら最前線のサポートだけしてればよかったのが、自分が突っ込んでてよく分からんまま口に手を突っ込んで一か八かでトドメをさせないかとアレコレやらされる。
もう嫌だ。
趣味も完全に上手く行ってない。
もう全然楽しくねえ。
膝悪くしてからはスポーツは怖いだけで全然楽しめなくなって、足に負担賭けないようにビクビクしながら筋トレだけやってる。
ゲームも全体的に飽きてきて、大作のとにかく先が見えない感じはもうかったるいし、かといってインディーズのアイディア勝負もちょっと齧った所で昔やった何かと比べてすぐに飽きてしまう。
昔は存在価値の分からなかった「何だか良く分からないものに触ってあっという間に終わってしまうゲーム」の価値が分かるようになってきた。
とにかくアイディアだけサクっと味わえたらもうそれでいいんだって状態なんだ。
映画やドラマも展開は一通り見飽きてるせいで集中力が落ちて話が追えない。
ていうか自分が自分の思ったよりも頭が悪いらしくて難しい話をちゃんと分かろうと思ったら画面に齧りつかなきゃいけないってことを直視できない。
画面の中のテレビショーをちゃんと理解するために必死に画面に食い入ってそれだけやるって人生の使い方がなんだか凄く惨めでやりたくない。
映画館に行って集中して見てたはずでも話が分かってないことが多い。
見終わってから他人の感想を読んで自分が全然話を勘違いしてたことに気づいたりする。
なんだか惨めだ。
私生活も荒れてきて、たまに掃除や睡眠をしっかりやろうと思いつくことがあるけど、そのブームがいつの間にか去って気づくと汚い部屋で夜更かししていることが年の半分ぐらい。
体は膝以外もボロボロで、歯医者で歯石取ってもらってるのにいつも口の中がネバネバしてるような感じとか、ふとしたときに嗅いだ服の匂いの加齢臭みたいなのとか、そういうのもう全部辛くなってきた。
バイキングじゃ全然食べられないのに何でもない日にたくさん食べまくってしまい次の日は夜まで何も食べられずに過ごしたりするような、体のコントロールの効かなさがいろんな所に起きてる。
結婚式や葬式以外でしか合わない従兄弟が今何やってるのか時折気になって、そういやアイツらはこっちよりも大分器用に生きてた気がするなと嫌になる。
人間関係の健全なあり方みたいなのを身に着けられずに来たからとにかく人間と関わりたくない。
いい感じに見下しあえたら友達になれて、一方的にこっちが見下してたら関わりたくない相手、逆に相手から強烈に見下されていると感じたらそのときも逃げていく。
人間が他人と自分を比べるっていうのは当たり前なんだけど、そこにおいて尊重しあうっていうことが道徳的な正しさの上にしか存在してないような感覚がある。
もうなんか人生全部が辛い。
末期がんの患者がモルヒネがいい感じに効いてる時の穏やかな気持ちの中で「じゃあ自分の人生にどういう結論をつけていくか、頭の中だけでも整理してから終わらせたいなあ」と考えているような状態の中をもうずっとずっといつまでも生きてきた気がする。
そこから突然、なにかが変わって人生が好転しだす可能性を信じてた。
世の中じゃこういうのを「人生が始まってることに気づいてない」みたいに言うらしいな。
いつの間にか始まっていた人生がいつの間にか終わっているただそれだけなんだってことを納得しておけばいいっぽいのは分かってる。
生まれた家とか時代とかDNAとか子供時代の過ごし方とか就職先の選び方とか人間関係とかそういうのにたらればを持ち出すのは無意味だってことも分かってる。
少なくとも生まれてきた瞬間に決まるものについてタラレバを考えるのは無駄だ。
「魂の実在を信じているのか?異世界転生するライトノベルみたいに?」って話だ。
科学を進行しているので魂や輪廻転生は信じてませんって考えてるくせに、どこかで「もしかしたらこうだったかも知れない自分」を空想しているのが本当に無駄なんだ。
「生まれ変わったら今度はこういう風に生きよう」みたいなこと館上げるのは、タイムマシンで意識だけを過去に飛ばせる実験がどこかで成功したのを聞いてからにすればいい。
今の時代に生まれた自分たちの意識において、過去に飛ぶとかやりなおすとかは無関係なことなんだ。
空想の中でそれをやって、空想の中で満足するだけならまだしも、そうやって作戦を練ることで人生が好転する可能性を信じているならそれは科学を進行している人間として実に奇妙な状態になる。
なんたらの賭けの亜種として、もしもそんなことが起きる可能性があったならちょっとぐらいは準備しておくのもアリかもって範囲ならまあいんだろうが。
でもなんか自分含めて皆があーだこーだ考えすぎている気がしてならん。
今の自分じゃなかった可能性の今の自分を考慮して何の意味があるんだろう。
「もしも3月31日生まれじゃなくて4月2日生まれだったら学年一位だって取れたかも知れない」みたいに考える時、そもそもその2日違いの生まれの間に意識は全く別物へと変容していて、今の自分とは別の魂で動く別の人間だったはずなのに。
肉体より先に魂がこの世界にあると信じるならそれでもいいが、それならもういっそ割り切って「ハズレを引いたなりになんとかやっていくループ」として今の人生を生きればいいのに。
前世の記憶が引き継げたりしないルールっぽいのは明白じゃないか。
異世界に行った時に備えて現代知識の勉強をするために現代社会を生きるのは完全に無駄だ。
魂の実在を過剰に信じてたらればに執着して生きるってのはそういう生き方だ。
って頭で分かっているのにそういうのに縋ろうとしている自分に毎日出会う。
どうしようもなくなった人生に逆転のワンチャンスを与えてくれるなにかを信じて。
こうやって自分を説得しまくってもまだまだ魂の実在を信じて脳がタラレバを考える。
だってもうこんなどうしようもない人生を今から立て直そうとするのはしんどすぎるから。
本当にしんどいんだ。
特に大事にもされてなくて廊下の人形用の小さい椅子に座らされて埃をかぶったままになってた。
子供の頃の俺はそのフランス人形が怖くて、絶対に目を見ちゃいけないと思ってたし、その姿を見ることすら怖がってた。
ばあちゃんの家に泊まった日は、トイレに行くためにその人形の前を通らなくちゃいけなくて心の底から嫌だった。
それから数年たち、ばあちゃんが亡くなって、遺品の整理を手伝いに久しぶりにばあちゃんの家に行った。
片付けを手伝っている最中、例のフランス人形が廃棄ゾーンに突っ込まれているのを見つけた。
その時はさすがに怖さを感じるような年では無かったのでふーんって感じだったけど、夜に自分が泊まる部屋にいるとだんだんムラムラしてきて、ふとあのフランス人形のことを思い出した。
呼吸が荒くなっているしなぜか痛いほど勃起している。
あの怖くて直視すらできなかった人形が、今は無力に俺の手の中に収まっている。
恐怖で俺の心臓を握り潰そうとしていた相手を、完全に征服したかのような、強烈な快感で俺は目覚めてしまった。
ギンギンに怒張して熱を持ったそれを人形のスカートの下に差し込むと、やってはいけないことをしている興奮が背筋を貫く。
あんなに恐ろしかった存在なのに、あられもないポーズにしたり、亀頭を顔に擦りつけ、がまん汁を長い髪でふき取っても相手は何も出来ない。
愚息に人形を跨らせるように乗せ少し上下させるだけで果ててしまった。
行為が終わった後、フランス人形が少し恨めしそうな目をしているような気がしてさらに興奮した。
完全に空っぽになるまで満足した後、諸々の証拠を隠滅し、人形をゴミ山の深くに隠した。
これまでの人生で一番興奮した一夜だった。この日から俺の性癖にははっきりとした輪郭が与えられた。
呪いの人形(っぽい不気味な人形)をめちゃくちゃに犯すこと、それが俺の性欲を支配している。
その後、ヤフオクや最近はメルカリを漁っては古ぼけたちょっと不気味なフランス人形を探している。
最初はそのまま楽しんでいたけど、ある時からさらなる興奮を求めて、最初にある儀式をするようになった。
そう「ひとりかくれんぼ」だ。
詳しくはググってほしいけど人形を使った一種の降霊術のような遊びでインターネットでは結構有名な都市伝説だ。
検索すればいろいろと怖い話を見つけることができるが、俺はこれまで実際に怪奇現象が起きたことはない。
儀式はいろいろな手順があるんだけど、最後に使用したぬいぐるみを燃やして終わらせるらしい。
俺はもちろん燃やさない。
フランス人形というのはざっくりした言い方で、実際には頭身の高いファッションドールや子供が遊ぶための頭身の低いもの、胴体までビスク(陶器)で出来たものから顔手足だけビスクのものなど色々ある。
おすすめなのは頭身が低く、顔手足だけがビスクで腕や胴体は布地に詰め物が詰まっている物。
なんでかっていうと、股から布を裂いて、胴体の詰め物を適当に掻き出し、代わりにオナホを詰めるのに適しているから。
怨念の籠っていそうな人形をオナホに改造しているとき、一体あたり平均2~3回絶頂に達する。
もし人形に魂があったら俺を絶対に許さないだろう、そう確信できるだけの凌辱を尽くしている。
休みの日は全裸になって人形をパンパンに膨張したペニスに装着することで、ペニスケースにして生活している。
ベルトで軽く固定すると動きやすく、より人形の存在感を肌で感じられるので良い。
むしろ人形を探したり改造したりするのは楽しいし、性欲も完全に満たされていて肌ツヤも良い(と思う)。
別に呪われたいわけじゃないけど、あくまで呪いの人形らしさに興奮している身としてはその緊張感が失われつつあるのを、最近は少し残念に思っている。
最終的には釘の刺さった藁人形に興奮するようになってるかもしれない。