はてなキーワード: 浮浪者とは
家の周りに畑があった。生計の足しになってんだか、税金対策や趣味のレベルなのか、微妙に分からんレベルの規模のやつが。
繁華街にほど近い都心部で生まれ育った連中からは田舎と言われそうな、トーキョーといえば全部大都会だと思ってるような田舎者からは全然文明のある方だろと言われそうな東京西部の郊外だ。
道路を挟んでウチのマンションの目の前にその畑の直売所があった。ガキの頃よくお遣いで行かされて、毎度オマケを持たされた。おれが通い始めた時はウコンとかよう分からんものを貰ってきて、姉におまけの豪華さでマウントを取られ大変不快な思いをした。曰く、自分が行けばトマトとかもらえるのにお前はウコンなんぞもろてきてどう食うねんと。
それでも通っていくうちにインゲンとか枝豆とか、トマトさえも貰えるようになってきた。ある日目当てのものがなくて手ぶらで帰ろうとしたところ、タダで数種の野菜を袋に詰めて持たされたのを割とよく覚えている。
そんな光景も中学になれば無くなってきた。直売所が閉じたからか、おれが自我を持ち反抗期を迎えたからかは忘れた。
今やその手の地域のヌクモリティ的なものも煩わしいなと思う。事あるごとに「昔は素直で優しかったのにねえ」と言う母にイラッとして、人間は変わるもんなんです〜〜〜変化を否定すれば成長をも拒んでしまうんです〜〜〜いつまでも自我がなくて可愛かった子供の記憶に縋りついててウザいです〜〜〜と反抗期のおれは心の中でそう思っていた。今でも全然思う。それでもやっぱり他人の親切に素直にあやかっていた時期もあったんだよなとも思う。
お遣いには行かなくなっても畑は以前在る訳で、家の周りの光景として、原風景の一つとして心に刻まれてる。好きから嫌いかはともかく。
中学高校の頃、さっさと家を出たいという気持ちが常に頭の半分以上を支配していた時によく夢を見た。家の庭のフェンスによじ登って、夢特有のフワフワとした跳躍で畑を超えて行く夢だ。
逃げた先に何があったかは覚えてない。何もなかったかもしれない。少なくとも天国ではなかった。でも逃げる事に意味があった。
夢なんて大体理不尽で不条理で謎の存在に謎に追っかけ回されるばっかりだし、脳のウンコでしかない。示唆的なものがあるとかユングの類は全部まやかしだと思ってる。それでも家の裏の畑ばっかりは固有のモチーフとして何度も何度も出てきた。ウンコでも健康状態を知るのには役に立つのかもしれない。予知夢とかは全部嘘か偶然か思い込みだと思う。
夢に限らず、100mほどの畑沿いの道を歩くのは好きだった。夜中にひっそりと家を抜け出して、音楽聴きながら畑越しに見える団地や電波塔、送電塔みたいなデカ建造物をボーッと見てるとナイトホークスでも鑑賞してるような気持ちになれた。都会のダイナーには行けないけれど、郊外には郊外なりのものがある。
住宅街には住宅街の良さがあるとか言う人いるけど、おれは人の生活の息づきとかには何の魅力も感じない。人様の生活に勝手に思いを馳せて勝手に感動するステーションバーめいた行為をおれは下品とすら思う。だから住宅街の静かな畑の特に静まり返った夜中が好きだった。公園も悪くないけど、浮浪者とかおれの同類みたいな陰気ティーンや騒いでる学生風の集団がいたりしておちおち黄昏ぶってられない。
そんな畑もおれが高校卒業する手前辺りで、なんぼかを残しつつ潰されて家の建設が始まった。噂じゃ畑の持ち主はマンションを持ってて不動産収入があるらしい。やっぱり畑は本格的な仕事ではなかったんだろうか。
大学入って暫く経ってから一人暮らしを始めて、都心へよく行くようになった。今までは交通費も覚束なくて両手で数えられる程度しか行けなかった都心に。バイト先もわざわざ遠くの都心を選んだ。人の金で行けるのだから美味しい話だ。駅から駅の間を歩いても途切れる事なく繁華街が続く光景には心踊るものがある。夜中でなくとも歩いてて楽しい。夜中だと尚更楽しい。
それでも人のいない静かな場所で過ごすのは変わらず好きだった。聖蹟のゆうひの丘までよく1時間かけて歩いて行った。カップルが多かったりしてちょっと落ち着かないけれど、高台から見下ろす夜景は畑越しに見える景色と通ずるものがあった。終電で行く冬の鵠沼海岸も夏の芋洗い状態が嘘みたいに人がいなくて趣深かった。多摩川もいい。場所さえ選べば人がいなくて、トランペット担いで行って一応ミュートつけて練習してみたりたした。「河原でトランペットを吹く青年」を自分がやっている状況に興奮を覚えた。夜釣りと称して魚がいるかも分からん場所で竿を振り回したりもした。ボウズのまま迎えた朝陽はマジで綺麗だったし、なんか何かを急かされてるような気もした。この頃にはもう家の裏の畑を飛ぶ夢は見なくなっていた。
大学で色々あって最近また実家に戻ってきた。近所の景色もマイナーチェンジはありつつ、まあたかだか数年の事なのですぐ目に馴染んだ。
畑の跡地の住宅地は、おれが出ていく前はほとんど更地だったのが割と家の形になっていた。家の骨格越しに電波塔が点滅する景色はなんだかディストピアめいた味があって、これはこれでちょっと好きだった。
施工は日々進んでいって、人気のない家の殻が出来上がって来る頃にはもう遠くの景色は遮られて見えなくなってくる。新しい住宅地の中には公園と称した小さなスペースも出来ていた。空き家に囲まれたそこで夜にタバコ吸いに行くのがなんとなくルーティンになっていた。
カーテンも張られていないガラス戸からは工事用?の照明が付けっぱなしなのか、ほんのりと照らされるもぬけの空の部屋が見える。それを見ているとガラスをブチ割って土足で座り込んでタバコでも吸ってトレインスポッティングを気取ってみたい気分になってくる。廃墟どころか新居だし、そもそもそんな度胸はないので妄想止まりだけれど。
つい最近からその住宅街にも一挙に人が棲み着き始めて、夜中に歩いていても家々から放たれる息づきからなんだか圧迫感のようなものを感じる。
件の公園も日中はすっかりガキの遊び場になっているのを目にする内、なんとなく足が遠のいた。自分だけの場所が地域の(幼い子供を持つ家庭の)共有物となってしまったような気分だ。元々おれの場所などではないのだけど。
それでも時々ベンチにストロング系のロング缶が置いてあったりして、なんとなく捨て主にエンパシーを感じたりする。
平成狸合戦ぽんぽこで描かれたような再開発へのメッセージとはまるで別種だろうし、開発といってもごくごく小規模なものだけど、おれはおれなりのイヤさを感じているのかもしれない。
おれは地域のヌクモリティがさァ!文化資本がさァ!とかそういう話がマジで嫌いだ。ネットでその手の話題が露悪的に語られがちなのもあるけれど、土地がどうあろうが各々の生き方次第だろって思うから。おれは構造主義より実存主義が好きだ。
https://middle-edge.jp/articles/H5pzT
”1981年日本公開。
一時期の流行語にもなった「キッチンセックス」なる言葉を生み出した作品。
ジャックニコルソンとジェシカラングの絡みがとにかく激しかったです。
でもこの映画は単なる愛憎劇ではなく、計画~実行~犯行後と殺人事件の一連の流れの中でのスリル、人物描写が実に見事で、主演の2人の熱演が光る見ごたえある作品になっています。”
https://www.eigarape.com/foreign-films/thriller/the-postman-always-rings-twice/
洋画レイプシーン:郵便配達は二度ベルを鳴らす/The Postman Always Rings Twice
”浮浪者のフランク・チェンバース(ジャック・ニコルソン)は道路ぞいのカフェ兼ガンリン・スタンドに足を踏み入れた。その店では店主とその妻コーラ(ジェシカ・ラング)が働いていた。コーラのの官能的な肢体は、明らかに彼女の今の生活とは不つりあいに見えた。店での下働きを引き受けることになったフランクは、数日後、パパダキスが出かけた隙に調理場にいたコーラを襲う。初めは抵抗していたコーラも、フランクの強引さに抑えられていた欲情が爆発し、自らキッチン・テーブルの上にあお向けになりフランクに身をまかせた・・・
どうですか、この名作っぷり。・・・有名な着衣のままのファックシーン、もうゾクゾクしますな。ちなみにニコルソンは郵便配達ではありませんぞ”
そりゃ、いかんでしょう。
そもそも日本で大麻を合法化するのならまずは他国の大麻事情も捉えた上で導入しなければならん。カナダとかアメリカ(特にサンフランシスコ)の都心部では大麻の臭い匂いとぶっ倒れてる浮浪者が大勢いる。要は治安が悪化しているって話だ。ただでさえ東横キッズが増えて治安が悪くなっている日本に導入すれば、確実に社会が悪くなる。
それに個人的な体感だと、まず大麻をやった状態で車なんて運転出来ない。俺の場合だと短期記憶が完全に無くなるから、ほんのついさっきの出来事でも直ぐに忘れてしまう。幻覚も幻聴も出てくる。個人差があるからなんとも言えないけど、百人いたら大麻をやって百人まともに運転出来る訳じゃない。
それに日本で大麻を合法化したい人たちは要は大麻がやりたいだけなのか、他に意義があるのか、その目的を明確に表明して欲しい。
医療用に於いてはまぁ、ケアに役立つのなら仕方ないよねとなるが、それが必要ない人にとってはまさに無用の物だからだ。
ただ法律を変えれば良いってものじゃなくて、ただ大麻への認識を変えるだけじゃなくて、広く社会的な効用も含めて考えないと後々後悔するだろうし、そうなったら大麻賛成派に対して風当たりも強くなる。そうしたことまで考えて物を言っているのか、解らんなぁ
スタンド・バイ・ミーやイージーライダーが青春映画だと言われて今は納得出来る。中学高校の頃にそう言われてもピンとはこなかったと思う。へえ。青春とは死体を探して線路の上を歩くことなんですか。しょーもな。って。
例えば土曜の部活をサボって多摩川をチャリで下った思い出がある。
車のディーラーやファミレスがセーブポイントのように点在するばかりの幹線道路。歩いていてここは自分の居場所じゃないと思ってしまうような他所の住宅街。近くをウロウロしていても楽しくはない。Googleマップで面白そうな場所を探しても、近しい範囲に目ぼしいスポットはない。晩飯の時間もあるしそう遠くは行けない。
フラフラとチャリを漕いでいたらデカい川に辿り着く。見飽きた退屈な通りに比べたらなんだか妙に魅力的に見える。今日は半ドンで時間もあるし海でも目指してやろうって思う。
最初は楽しいけれど、すぐに川の流れも見飽きてくる。陸側の景色も「無」のような国道を挟みつつ、マンションか物流の倉庫か謎の事務所かの繰り返し。全部やたらと横にデカい。大きめの駅があるらしい、高い建物の密集する地帯が時々近付いては遠ざかっていく。
途中休んで水切りでもしてやろうかと思うけど、良さげなスポットは釣り人や浮浪者や遊び回るガキがいて近寄り難い。陰気な高校生が一人で水遊びするのもなんだか気恥ずかしい。
段々海を見ようと息巻いた気持ちも静まってくる。楽しさもなくなってただチャリを漕いでいると、段々漠然とした焦燥感のようなものが湧き上がってくる。「こんな事してる場合か?」って気持ちになる。先駆的覚悟だとか自己実現だとか、そんなような根源的な焦りや不安。大人になったら人から借りたそういう陳腐な言葉で片付けてしまうようなもの。常日頃感じつつ蓋をして押さえつけていたものが暴れだす。
焦燥感に駆られてペダルを漕ぐまま、結局晩飯の時間を考えて世田谷辺りで折り返した。海というゴールを迎えてればまた少し違う思い出になってたかもしれない。
後日友達にチャリで多摩川を20km下ったんだよと言って、バカでえと笑われた。その時はその程度の出来事だった。
後になってスタンド・バイ・ミーという映画を観て、それが青春作品に分類される事を知った。死体も拳銃も劇的な出来事も無かったけれど、華やかなものではなかったけれど、あれは紛れもない青春だったのではないかと思った。
川沿いを走るでもなく死体を探すんでなくても、別な形で同じ様な青春を過ごした人は沢山いるのかもしれない。抽象的な焦りではなく、進路考えないとだとかもっと具体的だったり切迫した悩みだったかもしれない。あの時の思い出はおれだけの宝物だと思っているけれど、誰でも似たようなことを経験するからこそ青春という言葉があって、スタンド・バイ・ミーも青春作品として支持されているのかもしれない。
先週大学をサボって多摩川をほっつき歩いてみた。あの頃感じた焦燥感が薄かった。
今は門限もなければ外食代くらい訳ないし、電車に乗れば海へ行くのも造作ない。自己実現が僅かにでも進んでいるから焦りが減ったのかもしれない。諦めたか、妥協を受け入れてしまったか、忘れ去ってどうでもよくなってしまったのかもしれない。
ナイーブな悩みにあまりしがみつきすぎない方が良いと思える程度のバランス感覚は手にしたような気がするし、それをすっかり捨てたら人間として終わってしまうような気もしている。
茜色の夕日を見て、短い夏が終わったのに子供の頃の寂しさがないことを少し思い出した志村正彦も似たような気持ちだったんだろうか。
青春と銘打って鮮やかに彩色してしまいがちだけれど、当時抱いた決して明くはないあの気持ちは忘れずにとっておきたい。それを忘れてしまったら、あの頃忌み嫌っていた、お前は子供エアプなのかよと思うような大人になってしまいそうな気がする。
明るい結末に終わらないアメリカンニューシネマも後味が悪い所はあるけど、その居心地の悪さは当時体験した青春への誠実さだと思うのでおれは好き。
[キングス・カレッジ・ロンドンから発行されたMicrosoft 365アカウントに対する不正アクセスの試行に係るお知らせ](https://note.com/hidetoshi_h_/n/n6aa7f763a93d)
2023年9月から10月に掛けて、当方が私的に使用している電子メールアドレスに宛てて『King's College London アカウントの電子メール確認コード』と題する複数の電子メールが届きました。
通学していないのにアカウントを使っているほうがホラーですわ。あと、授業が始まっても全く使っていないんですね。
ロンドンブリッジ、ベーカー街を1日で撮影したとすると、驚くのが写真の質。SONY α7R Vを使っている感がまるでしない。
https://note.com/hidetoshi_h_/n/n5e73408f83ad
特にこれ。へたくそでもAIならタワーにピントを合わせて背景をぼかすくらいはやる。全くできていない。これSonyアルファじゃなくてスマホでしょ。
百歩譲ってSonyを使ってそうなのはベーカー街だけで、あとの橋はスマホじゃないかな。
最大の特徴は被写体と思われるところにピントを合わせるというところ。人がいればその数だけピントを合わせる。
よって百歩譲ってベーカー街でSonyを使ったとしても、あとはスマホでとっている。
スマホは全体にピントを合わせるからどうしても全体的にぼけた感じになる。上級機種は多少できるけど、それでもアルファではこんなバカなことはしない。
ま、間違っていても名誉感情とかふざけたことは言うな。お前の腕が悪すぎるんよ、全く使いこなせていないんだから。
カメラの機種を出している以上、確実に嘘をついていますね。彼はイギリスにはいない。アルファで撮影した写真とスマホの写真の区別すらつかない。つまり撮影していないし現地も知らないわけ。終わってるわ。
機種は黙っていたほうがよかったと思いますね。たとえ使っていても恥ずかしい写真でしかない。
ロンドン橋に足を運び、タワー・ブリッジとテムズ川の写真を撮ってきました。よく間違われる2つの橋ですね。
RFAプロテウスは人ではないので、今回はだれもいませんでしたって、文章がおかしいですね。
さらに、RFA Proteusって書いたほうがいっそましですね。
多分プロテウスの綴りを知らないから仕方ないんだけど。英語できないんだなあ。
きょうも夕食をラムチョップにしました。付け合わせはブロッコリーとマッシュルーム。
あと豚肉を見るのが日本より稀なのはおかしい。じゃあなんでステーキはがつがつ食っているんだよ
さらに言うとカツカレーはチキンカツカレーかフィレカツカレーのほうが良い。でないと油が強いからね。
「『灰色の脳細胞』の探偵は誰だっけ?」と思ったら、アガサ・クリスティの作品に登場するエルキュール・ポアロでした。🥸
最近は「敗色濃厚単細胞」の(自称)安楽椅子探偵もいますね。🤓
なんとノンフィクション。
まずポワロはフランス出身なので堀口英利が本当に読んでいるなら、ここは確実にポワロにすると思うんですよね。そしてポワロは実在しないのでフィクションです。「なんとノンフィクション」の使いどころがおかしいので、頭が悪い文章です。適当にキメゼリフを並べればあおりになるというのがダメ。
そして致命的なのは、ポワロは安楽椅子探偵ではないということ。これは全く読んでいませんね。映画もあるのに。さらに暇空も安楽椅子探偵ではない。
ベイカー・ストリートにあるシャーロック・ホームズ博物館。
来場客は様々ながら、未だに「探偵ごっこ」を止められない哀れな中年男性の姿はありませんでした。
彼らはマイクロフト・ホームズと同じく(でも彼ほどのお金や能力はない)「安楽椅子探偵」ですからね。きちんと行動するのは大事です。
あの…マイクロフトはシャーロックホームズの兄ですが、探偵はほぼやっていないですよ。安楽椅子探偵でもない。
つまり、彼は「サー」・アーサー・C・ドイルの作品を一切読んでいないわけです。
これがKCLの大学生な訳ないでしょ。さすが無職で嘘つきな高卒だな。
シャーロック・ホームズとベイカー街遊撃隊を気取った「少年(のときから精神性が何ら成長していない)探偵(ごっごを止められない哀れな中年男性の集)団」に付き纏われるようになってから数ヶ月。
ちなみにシャーロックホームズの全作品でベイカー街遊撃隊は1回、しかもちょっとしか登場していない。