はてなキーワード: 売れっ子とは
復刊した時に「私はラノベ業界を捨てたのではなく放逐されたのです」と言ってた時は正直被害者意識つえええと思ったけどあの頃はまだまともだったような
「お嬢さまシリーズ」が終わったのは出版社がラノベ事業撤退したからであって別に森奈津子一人が放逐されたんじゃない
ラノベの復刊をハードカバーかつ絵師微妙だったのも良くなかったなあ
文庫サイズで良かったし、大切な設定である「主人公は縦ロール」を古臭いからと薄毛にする絵師はダメだろ
出版社のせいで不当に打ち切り状態だった代表作が復刊したけど泣かず飛ばず、その状況が森奈津子を変な界隈に行かせてしまった最後の一押しだよ
復刊というなら本文だけでなく絵師も古いけど飯坂友佳子のままでよかったんでない
それか、もっとキャッチーな売れっ子絵師使って文庫サイズにしてほしかった
今調べたら復刊って2008年だったのか、復刊した時期ですらもう遠い昔
せめて狂った活動するなら名義変えて別人としてやってほしいわ
主に(殆ど?)男性対象の女の子がメインのVTuberグループだった
そこでマネージャーをやっていた時、ある事をVTuberらには徹底してもらっていた
それは、「女の子達が楽しくやっている配信のコラボに男性VTuberは出さない」という事
過去にいくらでも例があるが、女の子がメインで多い配信の途中から、コラボで男性VTuberを出すと
まあマネージャーでなくてもほとんどのVTuberはそれを理解してるのだが、
右も左もわからない新人時代、評判のVTuberの担当になって浮かれてた私は、あるVTuberが男性VTuberとコラボする案に賛成してしまった
(視聴者数多いVTuberなのでコラボ相手の男性VTuberは格好良かった)
結果はお察しの通り、荒れに荒れた、
今思えば、女の子同士で楽しくやってる中にいきなりイケメンの男性VTuberを出してハーレム展開にするなんてどうかしてた
「(VTuberが)ビッチだからこういう展開に憧れてたんだろ」っていう掲示板の指摘にはぐうの音も出なかった
水面下ではアニメ化の話も進んでいたが、男性VTuber出して荒れた途端に立ち消えになり、打ち切りになった
後にそのVTuberは結婚して子供を授かったが、当時の自分はどうかしてたと漏らしてた
その後VTuberは、失敗に終わったガワを反省して、メインは全員女の子だけで
最初こそ視聴者数は悪かったが、先述の通り配信力は高かったので、評判も上がりアニメ化もされたりして売れっ子にはなった
主に(殆ど?)男性対象の女の子出てくる漫画がメインの雑誌だった
そこで編集をやっていた時、ある事を漫画家らには徹底してもらっていた
それは、「女の子達が楽しくやっている漫画のテコ入れに男性キャラは出さない」という事
過去にいくらでも例があるが、女の子がメインで多い漫画の途中から、テコ入れでぽっと出の男性キャラを出すと
確実に荒れてその後の売り上げに影響するからだ
まあ編集でなくてもほとんどの漫画家はそれを理解してるのだが、
右も左もわからない新人時代、評判の漫画家の担当になって浮かれてた私は、ある漫画家の男キャラ出す案に賛成してしまった
結果はお察しの通り、荒れに荒れた、
今思えば、女の子同士で楽しくやってる中にいきなりイケメンの男性キャラを出してハーレム展開にするなんてどうかしてた
「(漫画家が)非モテ童貞だからこういう展開に憧れてたんだろ」っていう掲示板の指摘にはぐうの音も出なかった
水面下ではアニメ化の話も進んでいたが、男性キャラ出して荒れた途端に立ち消えになり、打ち切りになった
後にその漫画家は結婚して子供を授かったが、当時の自分はどうかしてたと漏らしてた
その後漫画家は、失敗に終わった作品を反省して、メインは全員女の子だけで
原作は読んだけどまだドラマ見てないからちょっと憶測も入ってるが、「今季の視聴率ナンバーワン」になった背景には、脚本家さんの力量というか、「それ専用の特有のスキル」が効いていた側面もあるかもな、というのは感じる内容だった。
端的にいうと、芦原妃名子さんの作品は「物凄く優しくて誠実すぎる」感じがして、直接届く範囲が限られてしまう感じがする。
一方で、まだ見てないものの、想像するにドラマ版より自分は原作の方が好きだろうなという”直感”はあるが、ある意味そうやって「薄められる」ことで広く届きやすくなった側面はありそう。
でも、なんか、できれば
・「薄められずに」
・「優しい誠実さ」が
・「広い範囲の人に」
世界はそういう方向に向かおうとしているとは思うが、その点において原作漫画の「セクシー田中さん」は、ちょっと「平成時代風」の枠組みを感じるというか、「優しさと誠実さの罠」みたいなものにハマってる部分があるんじゃないかと思って。
まず漫画の内容とかに入る前に今回の事件についてどう考えたいかっていう話をしておきたいんだが、今SNSで「脚本家が原作者を殺した」みたいな話で凄い燃えてるが、なんというか、それはそれでまた余計な悲劇に繋がりかねないから辞めた方がいいと思う。
脚本家の相沢さんは他の原作付き作品でもある程度「自分色」に染めがちなところがあるらしく、元々恨みが溜まってたから余計に燃えてるんだが、脚本家には脚本家の事情があるし、実際色々と「売れっ子」状態になってるってことは少なくとも「テレビドラマという場にフィットさせるスキル」はある人なんだろうと思う。
今回のことで何か問題があるとすれば、「絶対改変しないでくださいね」と原作者が言ってるのに「はいはいわかりましたー」とか言いながら「まあいつも通り流れ次第でどうせ納得してもらえるだろう」みたいな感じに思っていた日テレとか制作者の人たち・・・という部分なのかな。
でもね、なんかじゃあその「日テレのスタッフ」なのか「プロデューサー」なのかわからないが、そういう人が「ちゃんと気をつけて」いれば防げた問題なのか、というとあまりそうとも思えない。
テレビドラマじゃないですけど、増田も昨年テレビ的な場に出演してみたりして思ったことだが、テレビって衰退したとはいえ「視聴率1%=100万人以上が見ている」みたいな世界なので、ほんと「誰もコントロールできてない思惑のぶつかりあい」が常時渦巻いてる感じ。
「書籍のミリオンヒット」ってもうテレビで言う視聴率1%ってのもそう珍しくもない。
で、そういう場では、例えば増田が出たような「討論番組」みたいなものでも、本番の20分前ぐらいにやっと完全な構成が定まって、皆直前まで必死にVTRやらテロップの編集をしている感じなので、事前に「こういう方向でお願いしたいです」みたいな打ち合わせになっていたものも半分ぐらいはドサクサに成り行き次第で着地するしかなくなっちゃってる感じ。
そういう場では、「担当者が誠実かどうか」みたいなレベルでどうこうなるもんでもないというか、そりゃたまにめちゃヒドイ担当者もいるにはいるんでしょうけど、大半は「善良で誠実なスタッフさん」が良かれと思ってアレコレやった結果、でもどうしようもなくって「成り行き次第」になっちゃうという感じなのだと思う。
だから、ある種の勧善懲悪ドラマの中に出てくる「悪徳プロデューサー」みたいな感じで、
「OK出していただけますか!ありがとうございます!はい!必ず原作通りにさせていただきますんで!(へっへっへ、こうやって契約取っちまえばこちらのものだぜ。どーせこいつテレビドラマの作り方なんてわかってねーだろうし、プロの俺たちがちゃんと料理してやっからよー)」
もっと「普通に善良に良いもの作ろうと思っている人たち」が、色んなステークホルダー同士のぶつかり合いの結果わけわからんことになっていった(そしてテレビドラマの視聴率という面ではある程度合理性もあった)というあたりが真相なのではないか。
つまり、「日テレの担当者(や脚本家)が極悪だからこうなった」という話でもないし、元の告発ブログを読んでも芦原妃名子さんもそういう糾弾を求めていたのではないはずだ、ってこと。
だから諦めろって話ではないがもし「原作者の意向を最大限汲んで映像化コンテンツを作るべき」みたいな話をするならば、例えばスラムダンク映画とか、ネトフリ版ワンピースとかみたいにそもそも原作者がガップリ直接噛み込めるような仕組みと予算を用意するとか、鬼滅の刃とか呪術廻戦とかのアニメ作品みたいにテレビ局でなくスタジオが出資するなどしてステークホルダーを減らして、キチンと握ってクオリティコントロールできる体制を整えるとか、そういう
…ことが必要だよね、みたいな話に持っていくべきなのだと思う。
これは、航空機事故があったときに「パイロットの不注意だ、あいつの責任だ」って言って終わるんじゃなくてそういう「不注意が起きないようにする」という発想で仕組みを変えていくことが必要だよね、みたいなのと同じ話。
ただ、そういう「スラダン映画、ネトフリワンピース、鬼滅の刃、呪術廻戦」みたいなのは「本当に一握りの成功例」でしかなく、現状はある程度以上の人数にコンテンツをシェアしていくにはこの「テレビドラマという仕組み」自体を使っていかざるを得ない側面もあると思う。
今、「昨季ナンバーワンドラマ」っていうからどれくらいの視聴率かなって調べたら最終回5.6%とかだったらしく、「今のドラマってほんと見られてないな」と思いますが、それでも人口割を単純に考えると「書籍のリーチ」とは桁がかなり違う大きさの現象ではある。
で、現時点で自分が思うところでは、やはりそこには「脚本家のそれ用のスキル」みたいなのも結構あったんじゃないかと思う。
その「脚本家のスキル」でそのコンテンツが「良くなった」かどうかは別問題としてあって、ある意味で「薄める」行為かもしれないが、「テレビドラマ」という場にフィットさせる事で広い範囲の人に届ける効果はあったと言っていいのではないかと。
とはいえ、自分はどっちかっていうと「原作の世界観を応援したい」とは思ってるんだが
「この原作漫画のあまりにも優しくて誠実な世界観」自体に、そのままでは何百万人単位の人には届けられない宿命というかタガみたいなのがあるんじゃないか?
…みたいに思うところがあって、それをちょっと考えてみたいのが今回の本題。
今回漫画原作読んで凄いいいなと思ったし一気に既刊本読んじゃったんで、「これこの続き永久に書かれることないんだ・・・」ってなった時の喪失感たるや、やるせない気持ちになった。
ただ、読後感として、「優しくて誠実なストーリーすぎる」感じがあったというか、「平成時代の日本コンテンツ」特有の難しさがあるよなあ、みたいなことも思った。
全体的に、主人公も、出てくるキャラクターたちも、めっちゃほぼ全員「凄い良い人」なのね
「普通の意味で言う良い人」というよりも、漫画的にちゃんと「露悪的にエゴイストなところもあるキャラだよ」というように演出してあるんだけど、実体としては「凄い良い人で誠実な人」って感じなんよ。
で、「あらゆる誠実なキャラクターがお互いに誠実に関わり合っていけば、皆幸せになっていくはずだ」みたいな世界観にどうしてもなってしまうが、「この世界観」自体が結構実体的に無理をはらんでいるというか、
「お互いが相手にとって誠実で優しい存在であると証明しあう」事に真剣になりすぎて、「本当に相手のためになる行為かどうか」みたいな判断が危うくなってる
…というような側面も、あるんじゃないか、と言うことを、個人的にはこういう話を読むたびに思っていて、「セクシー田中さん」の原作は結構典型的に「その感じ」がした。
「カイジ」とか「今際の国のアリス」とか「日本コンテンツの王道ジャンル」だった「デスゲームもの」を大胆に再解釈した韓国ドラマ、「イカゲーム」が動画プラットフォーム「ネットフリックス」で世界的にものすごくヒットしているらしい。
ネットフリックスのコンテンツは、たとえば映画の場合の配給収入ランキングとかほど明確な同じデスゲームジャンルを扱った韓国の「イカゲーム」と日本の「今際の国のアリス」の比較として、「イカゲーム」のキャラクターたちは「個人として誠実で正しい存在である」ということに集中しすぎてる感じがする。
一方で「今際の国のアリス」の方は「個人としての行為の正しさ」でなく「(個人の倫理観だけで見るとビミョーな部分があったとしても)結果論的に皆が助かるような行為」を選ぶことが善なのだ、みたいな価値観があって、どっちが良いというわけじゃないけどその「違い」が凄い印象的だなという話があって。
韓国ドラマでも最近はまた色んな新しい流れがあるんですが、少なくとも「セクシー田中さん」は、その「一昔前の韓国ドラマ」的な世界観を感じる。
全体的に「見た感じヒドい奴みたいだけど皆実はいいヤツ」ばっかり出てくるんだけど、突然特異点的に「笙野の父親」みたいな「徹底的に戯画化された”悪でしかない存在”」が出てくるところとか。
なんというか、「無理解を乗り越えて最終的に完全に腹の底まで誠実に接しあう仲間たち」と、その外側にいる「何の留保もない巨悪」がスッパリと二分されてしまうような構造になってしまっている。
こういう「一昔前の韓ドラや平成時代の日本コンテンツ」の傾向は、徐々に以下のように転換してきてるトレンドはある。
・「仲間内」が「腹の底まで完全に善」でなくてもお互いなんとか妥協点を見出して生きていこうとする方向へ
・そして「はじき出してしまった巨悪」に全部をおっかぶせて終わりにしないで、そこにある「だれのせいでもない構造的課題」に皆で立ち向かうようにする
これはさっきの話でいうと、
・「日テレが悪い」「脚本家が悪い」「原作者が悪い」っていう話にするのは、「個人が誠実に真心を込めて対応していればこんなことは起きなかった」という前提に立っているところに無理がある
↓
・「個人に完璧な誠実さや真心を常に最高度に求める」ということ自体が非現実的であり、その先でどうすればこういう不幸が起きないかを「仕組み」として考えていく
…こういう構造変化は徐々に起きてきている。
あと細かい話、最後に主人公クラスのキャラクターが今まで積み上げた人間関係を全部ふっとばして『海外留学!』を究極の選択肢として選んで唐突に終わる感じとかも、「一昔前の韓ドラとか平成時代の日本コンテンツ」感を感じる。(意地悪く言えば、”海外”に行きさえすれば今までの世界観を丸ごとひっくり返せる魔法の扉があるんじゃないかと無邪気に考えられた時代の発想があるというか)
全体としてザツな分析をするとここにはいわゆる「父性の不在」みたいな問題があるのかなと個人的には思っている。
要するに、増田は「ギョーカイによって薄められたコンテンツ」と「元の原作漫画」で言ったら原作漫画の方が好きだと即答する人間だとは思うんだが、ただ「元の原作漫画の世界観」自体にどうしても「狭い」ところがあって、数百万人単位のリーチをしていくには足りない部分があるってことなんじゃないかと思う。
そして「足りない」部分を、「ギョーカイ人」が「薄める」ことで成立させるしかなくなってしまう部分がある。
芦原妃名子さんが「誰かを責めたいわけじゃなかったし、今でもどうしたら本当に良いものができたのか悩んでいる」みたいなことを生前書いていたが
「そこ」
をもっと真剣に掘り下げていくことで、この「原作漫画の世界観」自体がもっと深く広い射程を持ったものになって、「ギョーカイ人が薄めて万人向けにする」みたいなことをしなくても数百万人にリーチできる作品になるんじゃないか。
原作漫画は徐々にそういう方向に向かう萌芽もあったように思うので、かえすがえすも「もう決して続編は書かれない」ことが残念。
●原作者
改変は最低限にとどめ、原作に忠実であってほしい。
本業に影響が出ないようにしたい。
映像化で読者が増えるのは嬉しい。
⇒原作の「ここだけは変えたくない部分」を理解しているとは限らない。
⇒原作者の手間を増やしたくないので代弁者にならざるをえない。
⇒工数上、やりとりをそこまで増やせないので細部まで監修できない。
⇒原作ファンはすでに原作を買っているため、映像化では原作ファン以外に見てほしい。
原作者と編集部と交渉先(この場合テレビ局)の意向の潤滑油でありたい。
前例を何より重視する。
⇒権利交渉の窓口役ではあるが、個々のコンテンツには詳しくない。
⇒渉外役としては、交渉先寄りの意見を持ちやすい。前例、慣例を重視するため。
⇒橋渡し役がボトルネックになるわけにいかないので、時間のかかる交渉はしない。もめごとは現場に投げる。
そのファンの数を最低ラインとして、映像化(映画orドラマorアニメ)で爆発させたい。
⇒原作のファンは忠実でも改変でも「映像化で違うところ」を気にして間違い探しで視聴するので、原作ファンの声は気にしない。
⇒むしろ忠実だとわかると全部知っている原作ファンは離れる確率のほうが高い。
⇒完全新規の視聴者の興味をひくため、ファンが計算できるキャストやスタッフを集める。
⇒集めたCMの本数と額で予算が決まるため、スポンサーを集めやすい仕込みを増やして商品設計を行う。
●監督
与えられた材料(原作、演者、ほか脚本や音響などのスタッフ)を調理して作品に仕上げたい。
現場は生き物なので撮影中にどんどん手を入れて作品のクオリティを高めたい。
⇒何かやるたびにまわりの意向を聞いていたら一生撮影が進まないので現場判断重視。
⇒ドラマやアニメは毎話が勝負。チャンネルを変えられたら終わりなのでメリハリを強烈にし、CMを見せるために引きを作り、エンドロール前にインパクトを作るのが必須。
●脚本
映像化してよかったと思われたい。
⇒マンガや小説は必ず最初から最後まで読まれる前提なので、ベタ起こしだと単体では意味がわからないシーンや設定が増えすぎる。
⇒尺にあわせて削るだけだと成立しないため、10分15分単位で盛り上がるように脚色・構成する。
⇒「ここをおさえておけば原作の大切な部分は守れている」と判断したところ以外は映像向きに最適化するのが役目。
⇒特に最初の3話、または各話冒頭3分にインパクトをもってこないと継続視聴を切られてしまうので極端にしがち。
CMを見てほしい。
⇒見込み客の人数は原作の部数に比例する。つまりすでに大ヒットした作品以外は、原作ファンより新規ファンのほうが多い。
⇒複雑な話、引きが弱い話はCMを観られない。
自分をよく見せたい(=いい役、いい場面がほしい)。
売れっ子のスケジュールは先まで埋まっているので、よほど条件がよくないかぎり受ける必要がない。
●原作者
改変は最低限にとどめ、原作に忠実であってほしい。
本業に影響が出ないようにしたい。
映像化で読者が増えるのは嬉しい。
⇒原作の「ここだけは変えたくない部分」を理解しているとは限らない。
⇒原作者の手間を増やしたくないので代弁者にならざるをえない。
⇒工数上、やりとりをそこまで増やせないので細部まで監修できない。
⇒原作ファンはすでに原作を買っているため、映像化では原作ファン以外に見てほしい。
原作者と編集部と交渉先(この場合テレビ局)の意向の潤滑油でありたい。
前例を何より重視する。
⇒権利交渉の窓口役ではあるが、個々のコンテンツには詳しくない。
⇒渉外役としては、交渉先寄りの意見を持ちやすい。前例、慣例を重視するため。
⇒橋渡し役がボトルネックになるわけにいかないので、時間のかかる交渉はしない。もめごとは現場に投げる。
そのファンの数を最低ラインとして、映像化(映画orドラマorアニメ)で爆発させたい。
⇒原作のファンは忠実でも改変でも「映像化で違うところ」を気にして間違い探しで視聴するので、原作ファンの声は気にしない。
⇒むしろ忠実だとわかると全部知っている原作ファンは離れる確率のほうが高い。
⇒完全新規の視聴者の興味をひくため、ファンが計算できるキャストやスタッフを集める。
⇒集めたCMの本数と額で予算が決まるため、スポンサーを集めやすい仕込みを増やして商品設計を行う。
●監督
与えられた材料(原作、演者、ほか脚本や音響などのスタッフ)を調理して作品に仕上げたい。
現場は生き物なので撮影中にどんどん手を入れて作品のクオリティを高めたい。
⇒何かやるたびにまわりの意向を聞いていたら一生撮影が進まないので現場判断重視。
⇒ドラマやアニメは毎話が勝負。チャンネルを変えられたら終わりなのでメリハリを強烈にし、CMを見せるために引きを作り、エンドロール前にインパクトを作るのが必須。
●脚本
映像化してよかったと思われたい。
⇒マンガや小説は必ず最初から最後まで読まれる前提なので、ベタ起こしだと単体では意味がわからないシーンや設定が増えすぎる。
⇒尺にあわせて削るだけだと成立しないため、10分15分単位で盛り上がるように脚色・構成する。
⇒「ここをおさえておけば原作の大切な部分は守れている」と判断したところ以外は映像向きに最適化するのが役目。
⇒特に最初の3話、または各話冒頭3分にインパクトをもってこないと継続視聴を切られてしまうので極端にしがち。
CMを見てほしい。
⇒見込み客の人数は原作の部数に比例する。つまりすでに大ヒットした作品以外は、原作ファンより新規ファンのほうが多い。
⇒複雑な話、引きが弱い話はCMを観られない。
自分をよく見せたい(=いい役、いい場面がほしい)。
売れっ子のスケジュールは先まで埋まっているので、よほど条件がよくないかぎり受ける必要がない。
「グレート・ギャッツビー」を書いた、20世紀の偉大なアメリカ作家のスコット・フィッツジェラルドでさえ脚本家としては三流だった。
「どうする家康」「リーガルハイ」の古沢良太はもともと漫画家をめざしていたが、挫折し、脚本家として売れっ子になった。
早稲田で映画を専攻し、学生時代に映画と脚本を読みふけっていたという村上春樹は、脚本はどうしても上手く書けなかったそうだ。
自身の作品の映像化の条件について、こんな趣旨のことをエッセイで書いていた。
「私が小説で書いたセリフを、そのまま使わないで欲しい。あれは文章のための表現だからそのまま映像にすると不自然になってしまう」
脚本は書けば書くほど上手くなると言われる。三年間毎週、映画を見て課題を書いていれば、とりあえずプロにはなれるというと言う通説がある。
死者に鞭打つわけではないが、原作者は、映像化について正直漫画的な表現でなんとかできると思っていたのではないだろうか。
その違いに対して普段から意識的である脚本家は、漫画や小説をそのまま映像化しても全く面白くない作品が出来上がることを知っている。
ネットの反応は「自分の大切な原作をいじられてしまったから自殺した」
という見方が大半だが、私はそれが原因だとは思わない。
冷静に考えてほしい。実はその考え方の方がかなりバイアスがかかっていると思う。
むしろ「自分の大切な原作を、自身の脚本で台無しにしてしまった自責の念」
と「その後ブログにて舌禍を起こしてしまったことに対する責任」
の方が強かったのではないかと思う。
自分の大事な作品を楽しみにしてくれるファンに向けて「色々な事情があって上手く表現できなくてごめん」
それを勝手に拡大解釈した実写化憎しの人たちが、騒動を大きくし、この悲劇を生んでしまったといっても過言ではないと思う。
もちろん、本人にしかわからないし、本人にもわからないかもしれないが。
ただ私もクリエイターの端くれとして、
もし自分の子供をいじめられたらなんとしてでも子供の回復をしようと頑張るが、
もし周りを巻き込んだ挙句、自分で自分の子供を傷つけてしまったと考えたら自殺するかもしれない。
そんなふうに思ったからだ。
芦原先生の死去にはじまる様々な報道を目にして、昔の記憶が蘇った。
25年働いて10社くらいを経験したが、今思い返すと出版社で小説編集やってたときが一番「組織としてヤバい」と思った。色々な組織を見てきたから言うけど、出版社/編集部は抜群にヤバい。
小さな出版社/編集部にありがちなことや、そこから生まれる構造的な課題を説明する。
雑誌の編集は担当してないのでそこは語らない。スポンサー見つけたり、締め切りカツカツでたくさんの原稿を本をまとめなきゃいけない苦しみはわからない。
また、メディアミックスを担当したことがないので、そういった経験も語れない。
ほとんどの出版社において「新卒採用」は行っていない。音羽や一ツ橋、KADOKAWAあたりは大手も大手なのでまだまともな部類。「他にも新卒取ってるところもあるよ」って反論が出てくるのは目に見えてるが、そんな会社はまだまともなので安心してほしい。
つまり、「編集者のほとんどは中途採用」であり、中途とは自分から情報をキャッチアップすることが当然の現象となる。そのため、「若手に先輩が何かを教える」という風潮に乏しくなる傾向があると思う。
また、「新卒採用が存在しない」は同時に「同僚に『同期』がいない」ことも意味する。何社も渡り歩いて強く実感したが、同じ日に入社したってだけでも意外と同僚同士の絆は強まる。他の会社だと中途でも同期飲みとか不通にあるんだよ。新人が社内の人間と積極的に交流を持つ為の経路が「制度として」存在しないことは、新人メンバーの孤立を後押しこそすれ緩和はしないだろう。
更に輪をかけて大きな問題は、「お抱え作家がいない場合、編集者同士はライバル」ということだ。大手出版社であれば、「高橋留美子なり尾田栄一郎なりのビッグネームの担当が定期的に変わる」という現象は当たり前に聞くが、中小出版社/編集部においてはそうもいかない。「売れっ子作家の担当」というポジションは、中小出版社/編集部での社内政治においてものすごく重要であり、手放す意味も意義もない。また、そもそも人数が少ないので引き継ぐ相手がいない。
結果、「新人のために作家を引き継ぐ」という経路が細くなるわけである。基本的に他人から担当作家を引き継ぐ機会がないのだ。もちろん0ではないが、引き継ぐ前の編集者がよっぽどの超有能編集者でその人がキャパオーバーとかでないかぎり、既存メンバーが他人に引き継いでいいと思っている作家は大体「自分が手放しても惜しくない作家」である。
それはつまり、「新メンバーは自分で新しい担当作家を発掘する必要がある」ということになる。
まず、編集者同士での情報共有が阻害される。「いまこういう作家さんがすごく好きだから声かけしようと思うんだよねー」みたいな会話がなされづらい。しなくもないけど、虎の子だけはみんな腹の内に隠していることになるだろう。
一般企業と対比させるとわかりやすいかもしれない。通常であれば、取引先相手一覧はチーム内で共有されている筈だし、朝会等で業務の進捗状況を共有しあうだろう。しかし、編集においては「自分が誰と仕事をすすめているか」という情報がチーム内で共有されているかというとかなり怪しい。
結果、何が起きるかというと「編集者が作家・イラストレーター・デザイナーと連絡を取る際、その情報を編集部の誰にも共有しない」という現象が発生するわけだ。具体的には外部とのメールのやりとりをチーム内にCCで共有しない。そもそもCCで飛ばす文化がない。
そこから当然のごとく発生するのは「本を作る為の進行管理が編集者個人に完結する」という現象。原稿が遅延しててもその情報をチーム内に共有しないし、共有しても聞いてもらえない。
ここに多忙が乗っかればもうおしまいだ。高確率で「編集者は作家に嘘をつく」。自分だけでやりとりが完結している相手には、嘘がばれにくい。嘘がばれにくい相手がいれば、構造上嘘をつきやすいのは想像に難くないだろう。
また、共有を怠ったまま業務を進めたことで、「編集長チェックの段階でひっくり返る」という現象も発生する。これが作家の目には「直前までOKって言ってたのにいきなり前提が全部ひっくり返ってやりなおしになった」として目にうつるわけだ。
これらはあくまで「組織構造上、このようなことが起こりやすい」という話をしている。だから、似たような環境でも「それは違う、うちはこうしてる」ということはたくさんあると思う。
だが、ここで一番重要な点は、「不正を塞ぐ手段を組織として準備できていない」という事実である。嘘をついてもバレない環境において人間は嘘をつく。100人いれば1人は嘘をつくに決まっているのだ。
ここで「いやでも仕方ないよ」と思った人がいれば、あらためて考えてほしい。「仕方がない」なら「問題が起きても許容されるべき」とはならないだろう。組織構造上不正を生み出しやすいなら、不正が生まれないような組織構造に作り替えるべき……というのが、一般的な企業における「コンプライアンス」というものである。中小出版社/編集部は、そこがまったく整備されていないし、そこを整備するインセンティブは薄い。なぜなら「チームとして動く」という感覚が(少なくとも自分のいたところのような)雑誌などを作っておらず、メディアミックスを担当することもないような木っ端編集部では存在しないからである。
新卒採用を行っていないような「編集者を育てない出版社」では、中途採用において同期の絆を深めることは少なく、また担当作家も新しく捕まえなければならない。
ライバル同士である編集者間の情報共有は滞り、作家さんとのやりとりはチーム内の他の編集に伝わらない。
結果、記事制作時の過失や遅延を適切なタイミングで適切なメンバーに共有されない(少なくとも、制度設計上共有しないことが最小リスクとなってしまう現状が発生する)。
そういった環境にいるとどうなるか? 編集者は基本的に「嘘」をつくんだよ。編集と作家とのやりとりは二者間で完結してるし、その嘘を編集部の他メンバーが気づくことはない。だって情報共有してないんだもの。ばれない嘘はつき放題、だろ?
「お前のところだけだろ」と思ったあなた:正しいし、一部の出版社はその問題を解決するための方策をちゃんと考えている。たとえば、漫画だったら講談社、小説だったら電撃文庫辺りは1人の作家に2人の担当編集がいると聞く。少なくとも「1人の作家/作品の状況を複数人で管理する」という体制がついてるわけだ。こうすることで作家との揉め事を編集が一人で握りつぶせないということは構造上なくなる。そういう意味で、大きめな出版社/編集部はある程度とマシな気配はする。が、中小出版社で働いていた経験からすると、出版社/編集部の9割はこんな感じなんじゃないかなーと思っている。
普段脚本すら読んだことないであろう人たちが、脚本家を攻撃していて困惑している。
よく言われていることだけど、脚本とは映像のための設計図です。
脚本は何度も何度もプロデューサーに訂正され、さらに現場では監督や役者にセリフも直されます。
例えば何をやっても上手くいかない主人公が、恋人に振られたうえに雨に降られてずぶ濡れになるとします。
漫画では、雨に打たれるシーンはスクリーントーンと線を引けばいいのです。
しかし映像作品では一回雨を降らすのに200万です。雨のシーンが続けばあっという間に予算オーバーです。
自身のオリジナル作品で何度も映画化をしたことがある大物脚本家ですら、雨のシーンが実現されたことはないとボヤいていました。
そういった時に雨を降らさないでも、どうしたら雨が降っているような感情を伝えられるか?
そういったことを考えるのがプロデューサーの意を汲んだ脚本家です。
「ここちょっと予算的に雨降らせられないからなんかないかなぁ」
「じゃぁ、散水している工事現場の水がかかったことにしますか」
よくドラマとかで見るアレです。
これは原作にない脚色かもしれませんが、恋人に振られた主人公が惨めな気分であることを表現できで観客に伝わればいいのです。
さらに帰宅してすぐにあったまろうと風呂に入ったことで、仕事上の大事な電話に出られなかったって繋げればさらに惨めさが際立ちますね。
小説のようにいきなり章を分けたりするとドラマでは不自然さが強調されるからです。
「仁義なき戦い」で有名な東映ヤクザ映画時代からあるコロガシという脚本用語です。
つまり何が言いたいかというと原作と脚本では本当に違う技術が必要とされているのです。
そしてゼロからイチであろうがイチからヒャクであろうが、どちらも技術を磨くという点において努力の賜物なのです。
「グレート・ギャッツビー」を書いた、20世紀の偉大なアメリカ作家のスコット・フィッツジェラルドでさえ脚本家としては三流でした。
「どうする家康」「リーガルハイ」の古沢良太はもともと漫画家をめざしていたが、挫折し、脚本家として売れっ子になりました。
早稲田で映画を専攻し、学生時代に映画と脚本を読みふけっていたという村上春樹は、脚本はどうしても上手く書けなかったそうです。
自身の作品の映像化の条件について、こんな趣旨のことをエッセイで書いていました。
「私が小説で書いたセリフを、そのまま使わないで欲しい。あれは文章のための表現だからそのまま映像にすると不自然になってしまう」
死者に鞭打つわけではないが、原作者も映像化については正直漫画的な表現でなんとかできると思っていたのではないだろうか。
その違いに対して普段から意識的である脚本家は、漫画や小説をそのまま映像化しても全く面白くない作品が出来上がることを知っています。
ネットの反応は「自分の大切な原作をいじられてしまったから自殺した」
という見方が大半だが、私はそれだけだとは思わない。
冷静に考えてほしい。
実はその考え方の方がかなりバイアスがかかっていると思う。
むしろ「自分の大切な原作を、自身の脚本で台無しにしてしまった自責の念」
と「その後ブログにて舌禍を起こしてしまったことに対する責任」
の方が強かったのではないかと思う。
自分の大事な作品を楽しみにしてくれるファンに向けて「色々な事情があって上手く表現できなくてごめん。」
それを勝手に拡大解釈したテレビ局憎しの人たちが、騒動を大きくしこの悲劇を生んでしまったといっても過言ではないと思う。
もちろん、本人にしかわからないし、本人にもわからないかもしれないが。
ただ私もクリエイターの端くれとして、
もし自分の子供をいじめられたらなんとしてでも子供の回復をしようと頑張るが、
もし周りを巻き込んだ挙句自分で自分の子供を傷つけてしまったと考えたら自殺するかもしれない。
そんなふうに思ったからだ。