はてなキーワード: 得体とは
重ねておそらくデミロマンティック(強い信頼関係を抱いた相手のみ恋愛感情を抱く恋的指向)である。
性行為がしたい。
自分の肉体にまだかろうじて価値があるうちに他人と性行為をしたい。
快楽を求めるだけなら自己処理で十分事足りるので、恐らく他者と性行為に至れる程の対人関係を築ける『良い大人』になりたいのだと思う。その気持ちを自分が持っている事自体がすっかりコンプレックスになっている。
処女をただ捨てたいならワンナイトすりゃ良いじゃん、と有識者には思われるかもしれない。
ただ、AAAカップの地味体型でもあるのだ。ワンナイトに至る土俵にすら上がれないのである。
他に女の子いっぱい居て敢えて行くか?行かんだろAAAカップには…。
誤解しないで欲しいのは別に体型を嘆いているわけではない。自分が貧乳フェチなので凸凹の無いこの身体は好ましいよ。多数派のニーズに沿わないだけで…。
即時的な性関係に至れない人間だとして、じっくり恋愛して関係性を築く、というのもまた難しいのだ。
仲の良い男友達の事なら過去好きになった事があり、恐らく友情からなら恋愛に至れるデミロマであると仮定している。それでもその友人を好きな間は自分の浮ついた普段と違う心情や行動が得体の知れないもののようで気持ち悪かった。
恋愛に忌避感はあれど性欲だけは存在するものだから、恋愛感情を感じない友好的な異性に出会うと(この人と性的な関係に至れたりしないだろうか)とふと考えてしまって異性を性対象としてしか見ていない自分にまた嫌悪してしまう。一人の人間として大切にしたいのに。
悲しい事に性欲は強い。性的対象はしっかり異性(男性)である。処女について触れておきながら今更申し訳ないけど性癖が倒錯し切っている為多分どちらかというと男性を抱きたい。かなり強く男性を性的な目で見ている。男性向け男性エロとかが大好きです。ごめん急に性癖暴露して。
ひとしきりぶちまけたのでこれまでの話を統合すると、『友人になれる程気の合う男性とあまり恋愛的な事はせずに性的な行為をするに至りたいしあわよくばこちらが抱きたい!』というものになる。最低である。
いっそ性欲さえなければこんな醜い怪物にならずに済んだのに、と思わずにはいられない。
人を人として、ただ清く愛する事が出来たかもしれないのに。
人を傷つける事もしたくないので、性行為へのコンプレックスを抱きながら何も行動しない日々を過ごしているよ。早く楽になりたい。
連休が終わる。
といっても連休らしいことは殆どしなかったのだが、唯一にして最高の体験として、立川の居酒屋「玉河」行った。
着いたのは16時くらいだったのに、もうしっかり混んでいる。ひとり客のおっさんもたくさんいる。ひとりのおっさんであるおれもおっさんの並ぶカウンター席に通される。文庫本を読むおっさんと、すてきな老人カップルに挟まれてメニューをにらむ。絞られた日本酒のセレクトが素晴らしい。
いい気分になって、序盤から日本酒とカツ煮と麻婆茄子を頼んでしまう。めちゃくちゃだ。
しかしこのカツ煮がすごかった。何これすごいうまい。忘れらんない。
麻婆茄子は意外と普通。その塩梅もおれにはちょうどよい具合だった。明日も行きたい。
一気にお気に入りトップテンに上り詰めた玉河だったが、同じくトップテン入りしている所沢の「百味」とよく似ている気がした。
郊外ターミナル駅の駅近で、長らく生活者を支えてきた、そこそこ大箱の店。だから客も店員も世代交代に成功していて活気がある。
おそらく地元の酒屋とのつながりも深いから、飲ませる酒にこだわりがある。一方で食堂としての機能もあって定食も出す。だから座席のバリエーションが広い。
そのあたりは江古田にあった「お志ど里」なんかも似ている。ただ江古田は学生街で、労働者はあまりいない。だから酒場の担い手まで受け継がれることはなかったんかなと思う。
一方で最近注目しているのは、大久保や上野といったアジア系の労働者が多い街に芽生えた「ネオ酒場」とも呼ぶべき個人店だ。
アジア系の店員が日本的なザ・大衆酒場を受け継いだスタイルで、とにかく安くて旨い。そのうえ中華やタイ料理といった彼らの得意料理をアクセントとして加えている。
客層もバラエティに富んでいて、当初はその得体の知れなさを敬遠する向きがあったが、サービスの質自体が圧倒的に高いから、今後はどんどん主流になっていくだろう。
44歳男性。ヒラ医療専門職。それなりに続けているから昇給はしてるけど、それでも安月給。組織の中では上司から疎曲がれているような感じ。評価されてたり、頼られてる実感はない。何かが変わるんじゃないかと思って、30代半ばで修士にも行き、資格もとった。でも、学問の世界の大変さを知ったことでますます自分の矮小さを思い知っただけだった。転職を考えたりもするけど、組織内での人との繋がりも僕にとっては資産の一つに感じてしまっていて、なかなか踏ん切りがつかない。
趣味はゲームだけど、最近は熱中できることが少なくなってきた。世の中には自分よりも熱心にプレイをして発信している人もいる。本当はもっと発信もしていろいろな人と繋がりを持てればいいのに……とも思うが、結局は現実でもオンラインでも引きこもりがち。自分が感じていることの意味、生きていることの意味などを考える機会が増えてきた。
息子は18歳の高三で、今年は受験。現役で受かれば、今よりもさらに手が離れるだろう。妻は優しくて、明るくて、毎日話していると嬉しくなるくらいの人で、それだけが僕の救いだ。
健康のためにランニングを始めた。ランニングをしている時や終わったときの達成感、累積された走行距離を眺めている体験はとてもいいのだけれど、毎日の時間が吸い取られる。
恵まれた悩みなのはわかっているけど、ずっと、ベッタリと頭にまとわりついているような不安に近い、得体の知れない感覚がある。
中学2年生の頃に感じていた「何者にかになりてえ」という感じに近いのかもしれない。
日記はここで終
ようやくコロナ禍の終わりが見え始めた今年、外出制限のない日々。マスクを外した人もちらほら出はじめ、リモートワークだのオンライン飲み会だのと"新しい"と持て囃されたコンテンツたちは再び眠りについた。
私は、緊急事態宣言で街から人が消えた(と言われる)令和2年入社の会社員だ。確か当時は居酒屋に出入りした芸能人が週刊誌に撮られ、医学部生だか研修医だかの飲み会は大バッシングを受けていた。そんなご時世であるから、ごく普通の一般企業である弊社でも当然の如く飲み会が禁止されていた(少なくとも表向きは)。
飲み会をしてはいけない年の新入社員であった私たちは、上司や先輩から口々にこう言われた。
「こんなご時世だから歓迎会は出来ないけど、増田さんたちが来てくれて本当に嬉しいよ」
すごくいい職場だな、と思った。もちろん誰も彼もが、とは言わないが、多くの社員は私たちを歓迎してくれていて、業務に関して幅広くたくさん学ばせようと丁寧に指導をしてくれた。
当時はコロナの影響で繁忙を極めていたが、多くの人に支えられ私たちは先輩になることができた。
そして時は経ち、令和5年。とうとうコロナがおさまった。ウィズコロナ、アフターコロナ。なんだかよく分からないが、マスクを外していいしライブで声を出してもいいらしい。
姿を消したフェイスシールドや「医療機関の逼迫が」というニュースの代わりに、我々の日常に戻ってきたものといえば、飲み会や旅行だと思う。
メディアがコロナが下火になっていることを報じるたび上司や先輩たちは「今年こそ歓迎会ができるかも」と浮き足だった。1年目の頃からすごくお世話になっている上司のAさんには、「増田さんたちとは飲み会に行ったことがないから、どんな感じか分からなかったんだよね」と言われた。
「楽しみだなぁ。」「歓迎会はあった方が嬉しいよね。」
…そうなのかな。
歓迎会なんてなくたってみんなが私たちのことを歓迎してくれていたことは知っているし、送別会なんてなくてもみんな異動したBさんにとても感謝していた。
Aさんに他意がないことはよくわかっているけど、もしかして私はこの3年間ずっと「一度も飲みに行ったことがない何だか得体の知れない部下」だったのだろうか。Bさんは「自分は〇年もここに勤めたのに、誰にも送り出されなかった」と思ったのだろうか。
飲み会なんてやらなくたって、みんなそれなりに穏やかに平和にやってきたじゃないか。始業前や休憩時間なんかのちょっとした時間には、近くのおすすめの飲食店やペットの話なんかで盛り上がったじゃないか。
"お近づきの印"の飲み会がなければ、毎日約8時間の勤務時間中に交わした様々な会話もコミュニケーションも大した意味を持たないのだろうか。
どんなに尊敬していて大好きな上司でも、就業時間が過ぎた後も一緒の時間を過ごしたいと思ったことのない私は冷たい人だったのかと、悲しくなった春だった。
ようやくコロナ禍の終わりが見え始めた今年、外出制限のない日々。マスクを外した人もちらほら出はじめ、リモートワークだのオンライン飲み会だのと"新しい"と持て囃されたコンテンツたちは再び眠りについた。
私は、緊急事態宣言で街から人が消えた(と言われる)令和2年入社の会社員だ。確か当時は居酒屋に出入りした芸能人が週刊誌に撮られ、医学部生だか研修医だかの飲み会は大バッシングを受けていた。そんなご時世であるから、ごく普通の一般企業である弊社でも当然の如く飲み会が禁止されていた(少なくとも表向きは)。
飲み会をしてはいけない年の新入社員であった私たちは、上司や先輩から口々にこう言われた。
「こんなご時世だから歓迎会は出来ないけど、増田さんたちが来てくれて本当に嬉しいよ」
すごくいい職場だな、と思った。もちろん誰も彼もが、とは言わないが、多くの社員は私たちを歓迎してくれていて、業務に関して幅広くたくさん学ばせようと丁寧に指導をしてくれた。
当時はコロナの影響で繁忙を極めていたが、多くの人に支えられ私たちは先輩になることができた。
そして時は経ち、令和5年。とうとうコロナがおさまった。ウィズコロナ、アフターコロナ。なんだかよく分からないが、マスクを外していいしライブで声を出してもいいらしい。
姿を消したフェイスシールドや「医療機関の逼迫が」というニュースの代わりに、我々の日常に戻ってきたものといえば、飲み会や旅行だと思う。
メディアがコロナが下火になっていることを報じるたび上司や先輩たちは「今年こそ歓迎会ができるかも」と浮き足だった。1年目の頃からすごくお世話になっている上司のAさんには、「増田さんたちとは飲み会に行ったことがないから、どんな感じか分からなかったんだよね」と言われた。
「楽しみだなぁ。」「歓迎会はあった方が嬉しいよね。」
…そうなのかな。
歓迎会なんてなくたってみんなが私たちのことを歓迎してくれていたことは知っているし、送別会なんてなくてもみんな異動したBさんにとても感謝していた。
Aさんに他意がないことはよくわかっているけど、もしかして私はこの3年間ずっと「一度も飲みに行ったことがない何だか得体の知れない部下」だったのだろうか。Bさんは「自分は〇年もここに勤めたのに、誰にも送り出されなかった」と思ったのだろうか。
飲み会なんてやらなくたって、みんなそれなりに穏やかに平和にやってきたじゃないか。始業前や休憩時間なんかのちょっとした時間には、近くのおすすめの飲食店やペットの話なんかで盛り上がったじゃないか。
"お近づきの印"の飲み会がなければ、毎日約8時間の勤務時間中に交わした様々な会話もコミュニケーションも大した意味を持たないのだろうか。
どんなに尊敬していて大好きな上司でも、就業時間が過ぎた後も一緒の時間を過ごしたいと思ったことのない私は冷たい人だったのかと、悲しくなった春だった。
友人の話を聞くのが苦痛だ
こんな自分を輪の中に入れてくれる稀有な相手だというのに、その話を聞くのが苦痛で仕方がない
友人が話すことに、まったく共感できない
「あっそ、それで?」と内心思ってしまう
肉体機能でもなく、道具使用でもなく、環境を調整するための大きな武器の一つであるらしい
だから、最後の最後になって私の周りには誰もいなくなってしまう
このままずっと生きていくのかと思うと
我々の精神なんかとは比にならないほど、現実や肉体は強い存在強度を誇る
生かされているのだ、端的に言えば
土台じたばたしても詮方ないことなのだ
認めたくないと何度繰り返したところで、何も変わりはしない
ただただ、今日も気分が悪い
過去の自分の言葉が、予言のように、呪いのように積み重なっていく
隣で相手が笑っているうちにできた事は沢山あったハズだ
失敗したってちょっと恥かけばすんだチャンスを
くだらないプライドを守るために全部消費したんだ
終わってから気が付いた事は「わかってた」事にはならないよ
それができないなら 独りで生きる準備だ
自分自身に、何の価値もないと思っているから、他者にその担保をして欲しいだけに過ぎないんだろう
「結婚は勢いでするものだ」と言うようだけど、私は違うと思っている
恋愛や結婚というのは、共依存的な色彩によって後押しされるものなんじゃないかと
それは、もしかすると性欲よりも強いのかも知れない
生きていくことは正気ではできないから、それぞれが個別の神様や宗教や教義をでっちあげる
「互いを互いの存在意義とする」というのも、そうした思考停止の一つだ
「他人に迷惑をかけたくない」「これ以上不幸な人間を増やしたくない」と、反出生主義を唱えるくらいなら
私は、私の遺伝子を根絶やしにしたい気分になることがある
このクズの遺伝子が、罷り間違って後世に残るようになってしまうこと程、罪深いことはないと思うのだ
私の子供が、この世に“理不尽に産み落とされ”地獄に落とされるのを赦してはならない
私の汚濁のような欲望のために、不幸な人間をこの世に生産してはならない
ポルナレフ 人間は何のために生きるのか考えたことがあるかね?
名声を手に入れたり人を支配したり金儲けをするのも安心するためだ
人の単に役立つだとか愛と平和のためにだとか
荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険 27巻」
全ての女は、宮崎駿にとっては、グランマンマーレと同じなんです。
「全ての女はグランマンマーレと同じように怖く、得体がしれなく、でも、強くて美して、男は敵わない。
だから、一度好きになってしまったら、一生死ぬまで振り回される。それが女である」というのが、宮崎駿がこの映画の中で語っている、「女とは何か?」という考え方なんですよ。
生きることだけが、大事である、ということ。たったこれだけのことが、わかっていない。本当は、分るとか、分らんという問題じゃない。生きるか、死ぬか、二つしか、ありやせぬ。おまけに、死ぬ方は、たゞなくなるだけで、何もないだけのことじゃないか。生きてみせ、やりぬいてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。いつでも、死ねる。そんな、つまらんことをやるな。いつでも出来ることなんか、やるもんじゃないよ。
死ぬ時は、たゞ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。私は、これを、人間の義務とみるのである。生きているだけが、人間で、あとは、たゞ白骨、否、無である。そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生れる。生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も、真理もありはせぬ。あれは、オモチャだ。
然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てる筈が、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。
時間というものを、無限と見ては、いけないのである。そんな大ゲサな、子供の夢みたいなことを、本気に考えてはいけない。時間というものは、自分が生れてから、死ぬまでの間です。
@Gesu_Masuda
なんか国の王様がトチ狂って自城の地下墓所に国の軍勢派遣してお宝探しを始めるも地下墓所が超絶ヤバいトラップにモンスターだらけで軍勢壊滅しちゃって主人公の父親は偉い騎士で生存者を助けに向かうも力尽きて死亡し主人公は遺品として父親の愛剣なお石製でクソ重く切れない実質的に鈍器を拾ってなんやかんやあって国の守護神的な「森の竜」に遭遇したと思ったらクソ重くて使いづらい父親の遺品が超絶軽くて超切れてなんなら光波出せるムーンライトソードに変貌ししかも実は王様が探していたお宝はムーンライトソードと発覚して王様は実はモンスターでムーンライトソードでぶっ殺して主人公が国王に即位しハッピーエンドるもこれって対外的には単なる暗殺乗っ取り事件だよね。
ちなみにゲームバランス的にはラスボス以外の全ての敵がちょっとでもダメージ通ると一瞬怯んで動きを止める仕様だったためMP自動回復する装備具体的にはトリプルファングを手に入れた瞬間に最弱魔法のライトニードルでチクチク敵の動き止めつつ殴るだけのヌルゲーと化すが関係なく即死トラップで死ぬ。
あと人体のことを一切考慮していない歩き揺れっぷりで超絶3D酔いするってかこのゲームの最難関ポイントはこの3D酔いであるが3日で慣れる。
ムーンライトソードが盗まれてやべえよと思ったら実は「森の竜」の仕業でってか森の竜は実は「ギーラ」という悪い奴で放置するとヤバいぜってなって1の主人公の親友な隣の国の王子が純粋に善意でムーンライトソード取り返し&ギーラ討伐に向かって水没死しまくりつつなんとか進んで崖から飛び降りて日本刀拾ったりムーミン狩りまくって最強の刺突剣なお性能的には鈍器を拾ったり聖剣鍛えられるすげえ鍛冶師と出会ってギーラに対抗できる存在の「シース」て奴の力を込めたギーラをぶっ殺せるダークスレイヤーって聖剣を作ってもらってなんやかんやギーラぶっ殺してムーンライトソード回収してハッピーエンド余談だが実はギーラをぶっ殺さなくてもムーンライトソード回収可能だがギーラをぶっ殺さないとエンディングが始まらないためとにかくギーラをぶっ殺す必要がある。
ゲームバランス的にはKFの中で最も良いとされておりダンジョンの構造とトラップから感じられる作り手の殺意が芸術的な領域でかつそこまで長くもないのでRTAもやれたりするしファンの評価は高いがHPとMPの自動回復装備を拾った瞬間にかなりヌルくなるがそれはまあ仕方ないと言えよう。
ちなみに歩き揺れがかなりマイルドになったのとそもそも歩き揺れをオフにできるオプションが設定されたため3D酔いの心配はいらない。
ムーンライトソードがまた盗まれたと思ったら回収できたんだけど何故かムーンライトソード折れててあと1主人公がトチ狂っちゃったもんだから2主人公が命と引き換えに城ごと1主人公を封印してその前にギリ逃げてた1主人公の息子が成長して1主人公をぶっ殺しに行く話なんだけど城の封印を解くために手持ちの剣を成長させたりとか各属性の魔力を得る必要があるとか地味に遠回りさせられてる感は否めないものの崖から飛び降りて日本刀回収したりミーアの死体を見たりしつつ城の封印解除して折れたムーンライトソード回収してなんとなく1ダンジョンでもある地下墓所に行ったら2でぶっ殺したギーラの怨念漂っててムーンライトソードが直ってそれで1主人公をぶっ殺したら実は1主人公はシースに操られていたと発覚しなんだよシースも悪い奴じゃねえかとシースをぶっ殺してやっぱ得体のしれない強い力に頼っちゃならんよねって辻褄合わせてハッピーエンド。
ゲームバランス的にはマップ広がったりアイテム増えたり魔法増えたりした関係でプレイヤー側のやれることが増えて結果だいぶヌルくなったがブロミウス装備揃えて物理ダメージ無効にするとかプレイヤーのアクションスキルに依存しない対策が取れるようになってやってて楽しい。
まるっきり話を覚えてない。PS2でグラフィックキレイになったよなというのと水死しなくなったよなということしか覚えてない。なんかやっててダルかった。ムーンライトソードの光波は過去最高にカッコよく強かったがムーンライトソードのデザインが変わっちゃって端的にダサくなって残念だった。
囲碁は理解できない、どう打ったらいいかわからないというコメントが散見される
そこで自分が囲碁を完全に理解するまでにどのような過程・経緯を辿ったのか、経験を記したいと思う
プロの対局などを見て狙いや見どころがなんとなくわかって楽しめる
という定義とする
自分は田舎ゆえに教室も師匠もなくほぼ独学だけで上達したので、独学で上達したい人には参考になるはずだ
もちろん教えてもらう環境にある人はどんどん教えを請うのもありだ
NHKで対局シーンを見たことはあったが、何をやってるのかわからないし
白と黒を使っててオセロっぽいのにどうやらオセロじゃない、盤面が木の定規みたい、とても奇妙なゲームに思えていた。
このゲームがなんなのか、とても盤面からルールを類推できなくて、自分にとって理解できないものは不愉快だった
オセロっぽいのにオセロじゃないなんか得体の知れない気持ち悪いゲーム
途中、小学生の時にヒカルの碁ブームもあり友達が一人ハマっていたがやはりルールを説明されてもよくわからなかった
囲碁のルールを知ったのはずっと後のことで、15歳の時だった。
自分は囲碁のルールをとても難解なものだと思っていたので入門書の薄さにまずびっくりした。
勝手に囲碁の入門者は六法全書のような難解な厚さだと思っていた
手に取ったのは梅沢由香里・著『よくわかる・すぐ打てる みんなの囲碁入門』
あまりの薄さに興味を惹かれ、よくわかる、すぐ打てる?嘘つけと思い立ち読みしてみると
たしかにルールが少なく簡単ですぐ読めそうだったので、子供の時分からわからなかった囲碁をとうとう知る時が来たと
本を買ってその日のうちに読み終えた。
自分は囲碁というものを勝手に極限にルールが複雑なものと誤解していた。
囲碁のルールの単純さと、その単純で最小限のルールから導かれる二眼の生きや手筋などの美しさや不思議さに感動を覚えて、囲碁についてもっと色々知りたくなった
その日以来、途中ブランクはありつつも20年来の趣味となっている
入門書の次に買ったのは詰碁だったと思う
基本というタイトルに釣られて買ったがよく見ると初段~2級と書いてあった
入門者の自分にできるのかと思ったが意外と解けた
この詰碁をやることで「急所」というのがなんとなくわかるようになった
ウチ欠き、ホウリコミなどの手筋も覚えられた
考えてわからないものはすぐ答えを見ても問題なく、囲碁における変化のパターンを知ることが重要
そこでまずゲームを買うことにした
http://www.success-corp.co.jp/software/sl2000/igo/
COMと9路盤で繰り返し対局することで2線のハネツギのあとは守らないと切られて取られることや
当時のコンピューターは激弱だったのでそこそこ勝てたが、19路になると茫漠としていてどう打っていいのかわからなかった
知識が不足しているらしい
9路盤が打てるようになっても19路となると途端にわからなくなったので棋理や格言などが書いてある本を買った
・実利と厚み
・囲碁十訣
・その他格言や手筋
読む前よりはなんとなく19路の考え方をつかめたがやはりこれだけでも足りなかった
特に囲碁の格言はケースバイケースで字面通り実践しても逆にひどい目に遭い役に立たないことが多かった
ツケにはハネよ
ハネにはノビよ
二目の頭見ずハネよ(見てる暇あるならさっさとハネろ)
ここらへんを鵜呑みにしたら大変なことになった
棋譜もNHK杯のテキストや、秀策など江戸時代の棋譜を買って並べた
見ているうちに自然と頻出する定石や変化、筋が知識と入ってくるようになったり
徐々にいい形や勘所がわかってくるようになった
ダッシュ囲碁(現・東洋囲碁。旧タイゼム)で対局をしたこともあったのだが、いかんせん当時は有料だったので高校生の自分には荷が重かった。
本格的にネット対局をしだしたのはKGSと2ch棋院を知ってからだった
KGSがよかったのは無料であることと、部屋という独立したチャット部屋のあるコミュニティ機能があることだ
当時の2ch棋院は人が多く賑わっていて対局したり色々教えてもらった
当時は他にもiGO棋院など有力な対局サイトが複数あり、そこそこ人も分散していて使い分けていた
VIPでも囲碁スレが立っていたりしてiGo棋院が現役のときはたしかVIP囲碁部の活動はiGo棋院で行われていたと思う
その後とても優秀な棋書と出会い一気に棋理に明るくなった
おそらく19路を打つための指針・棋理で一番上達に役立ったのはこの2つかもしれない
依田ノートで生きている石の近くは小さいことや、序盤の手の価値の大小を知った。
厚みに近づくなというのは前述の『ことわざ・格言で強くなる!! マンガ囲碁必勝法』にも書いてあったことだが
その真の意味するところを知ったのはやはり依田ノートのおかげだろう
その後はしばらく休んだり再開したりを繰り返して今にいたる
再開してしばらくは忘れていて前より弱くなるが、少し慣れてきて新たにいろんな知識を身につけると前より強くなりやすい
復帰した後のほうが確実に前より強いのを実感している
また自分で打たなくてもプロの碁を眺めてるうちにいろんな知識が入ってきて勝手に強くなる
囲碁を覚えるまでにこんな過程をたどった自分だが、自分の経験から今ショートカットをオススメするなら以下のようになる
動画やSNS、アプリを活用することで自分が習得したスピードよりはるかに速く"理解"できることだろう
ソシャゲとかが好きな人は『囲碁であそぼ』(iOS/Android)がいい
https://www.nihonkiin.or.jp/news/release/_1220.html
ただ幼児向けな部分が強く、設問が丁寧すぎるので、要領のいい人には簡単すぎてまだるっこしく感じる
この二人の他の著書もオススメ
など
碁会所などのある都市圏にいる人は実際の教室や指導碁、囲碁イベントなどに行ってみる事もオススメする
実際の碁盤で打つのはパソコンでポチポチしてるより100倍楽しいし仲間ができて交流にもなる
純碁は初心者向けに簡略化されたルールで、オセロのように置いた石の数のみを競う。得点のために石を埋めていく過程で死活も理解できるようになるので入門にはオススメだ。
上の3つで小路盤になれたら『みんなの囲碁』や『JustGo』で19路のスパーリングをするといいだろう
『みんなの囲碁』では9子置かせて始めて徐々に石を減らしていくのが良い
『JustGo』にはパワプロのサクセスモードのようなプロ棋士として出世していく「キャリアモード」という一人プレイモードがあるので、COM対戦が好きな人にはオススメだ。名局観戦や問題集、AI解析なども充実している。実写と見紛う美麗なグラフィックも見どころだ
https://store.steampowered.com/app/1862520/_/
対局した後わからないことがあれば棋譜を晒して増田かTwitterで聞こう、囲碁タグをつけてつぶやけば誰かが教えてくれる
Gokibitzというサイトもあり、そこに棋譜を上げると外国人が勝手に怒涛の添削をしてくれる https://gokibitz.com/kifu
ぶっちゃけ囲碁は観てるだけである程度勝手に棋力は伸びるので観る碁をするのもいいだろう
囲碁は有限
今すぐにはわからなくても頭の片隅に入れておけばいつか、あーそういうことかと合点の行く日が来るはず
> 死活がぜんぜんわからない。生きてる所の盤面が自陣の色に変わったらわかりやすいのかもしれないけど。
あるよ
これはスペイン語の歌なんだけど「yonaguni」っていう日本の与那国島がタイトルになってる
歌手は登録者数は4500万人超えですごく有名な人の有名な歌らしい
日本の登録者数ランキング1位が2000万人くらいらしいから、すごいよね
で、この歌は途中からMVがアニメになって歌詞も日本語になる珍しいタイプの歌
その部分の歌詞は「きょうはセックスしたい、でもあなたとだけ、どこにいますか×2」
何がこんなに気持ち悪いのか?外国人に対して差別してるのか?って自分でも謎で考えてみた
そもそもスペイン語ならこの歌詞も気持ち悪いとは全く思わなかったと思う
でも日本語だから日本の価値観で捉えてしまって気持ち悪いんだと思う
まず日本の歌でそんな直接的なことをこんなバラードな感じで歌うってないと思うんだよ
これを歌ってたのが何人でも、もちろん日本人でも、この歌を歌ってたら気持ち悪い
発音が悪いのはしかたないし、そこについて差別したくないんだけど、「ちたい」っていう舌足らずなのが頭が悪そうというか、何しでかすか分からない、得体の知れない恐怖を感じてしまう
そのあとの歌詞が「どこにいますか」なのも、セックスしたくて与那国島まで追いかけてきたみたいで、より一層怖さを感じてしまったんだと思う
それで本題
今回は歌だったけど、日本語を話したり、日本で暮らす外国人を日本の文化や価値観でジャッジするって、これからいろんな場面でやってしまう気がするんだ
これって差別なのかな
…どう使うのかわからない。酸味を加えるのなら調理の途中に汁だけ垂らせばいいはず。完成後にも加える必要性あるか?酸っぱくなりすぎるだろ。皮も食せば苦味で調味を台無しにした気分になる。
・揚げ物に添えられる生の千切りキャベツ
…口に含むとバサバサ、ガサガサとして不快だし、うっすらと辛く苦い。「揚げ物で脂っこくなった口中をサッパリさせる」といわれるが、そもそもその脂っこさを味わうために揚げ物料理を選んだのに、なぜわざわざそれを打ち消す必要があるのか理解できない。(それは唐揚げにやたらとレモン汁をかけたがる輩にもいえる、レモンかけるんなら唐揚げ喰うな!去れ!!)キャベツは生でなく、煮て食す野菜だとおもう。噛むと甘味に加えてとろける感触がたまらない!生のレタスにも同じような感想を持っている、加熱してスープに入れたりチャーハンの具として炒めたほうが美味しく喰える。
・キノコ類
…年齢を重ねるにつれてうけつけなくなった。得体が知れない存在で、口に入れるのが怖い。出汁として染み込んでしまっているぶんには仕方なく許せる範囲。
…これはホントに幼少期からダメ。口中で嚥下を拒絶する挙動が止められない。とくに加熱してあるともうどうしようもない。もしそれしか食物がなかったとしても泣きながら餓死を選ぶくらい食べられない。ところが魚の血合い部分はむしろ好物で、マグロの血合いだけ鮮魚売場で投げ売りされてるのを買ってきて家族が引いてるのを尻目にほぼ独りでソテーして食べつくしてしまう。サバの塩焼きなど、行儀の悪さを咎められない場所なら血合いだけ先にほじくって食べることすらあるくらい好みの味。(なんでなん)
もう1月も下旬だから、近所のスーパーにはチョコレートのギフトがずらりと並んでいるのだが、今年は例年とその様子が全然違う。というのも、バレンタインのギフトにありがちなブラックや焦げ茶やワインレッドや濃緑などの包装紙で包まれているものがなくて、ピンクや黄色地に小花柄などの可愛い包装紙で包まれているものが目立つのだ。
まあ、去年はバレンタインチョコ当日まで売れ残ってたし、虚礼廃止ってとこなんだろうな。私のバイト先にでもあんまり売れてなかったし、売れても付属のお洒落な紙袋とか要らないっていう人もいたし、他人にあげる用じゃなかったんだろう、しらんけど。
子供達が授業や宿題に使うノートがないというのだが、特殊なものではないのでスーパーで間に合わせる事にした。そしたら、何故か文房具のコーナーから遠く離れた所に鬼滅の刃グッズと一緒にジャポニカ学習帳が隔離されていた。しかもジャポニカ学習帳はすべて88円だった。売れ残り……? よくわからないけど、昔ながらに表紙は生き物の写真だが昆虫と爬虫類は廃除されたらしい、ジャポニカ学習帳。ふつうに考えて文房具コーナーに並んでる100均並クオリティの得体の知れないメーカーの変な表紙のよりも質がいいのに、売れ残りコーナーにずらっと並ぶの何でだろう。
子供達はジャポニカ学習帳が売り切れていない事に喜んでこれにすると言った。下の子に買ってやった連絡帳にはダチョウに関する蘊蓄のページがついていた。