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はてなキーワード: 好き嫌いとは

2024-07-26

社内ニートの一日

9時 出社

仕事がないのでヒメ日記巡回

12時 飯

13時 仕事がないので好き嫌い.com巡回&書き込み

18時 帰宅

日本アカデミアは本当にどうしようもないところにまで来ている・1

日本には大学教授研究者を適切に評価するシステムが無いため、多くの人は下記のタイプと接する機会が多かった😭

 

 

あと、日本の平均賃金から見たら、大学教授研究者賃金は、べつに低いとは言えない。むしろ上位を占めている。

職業年齢おおよそ
の月収
ボーナス
おおよそ
年収
労働者
航空機操縦士43.1138123 1,779 4,970
医師41.69763 1,227 77,920
(男女合計)管理職業従事50.247522 1,086 6,720
大学教授高専含む)★58.066275 1,067 59,530
法務従事49.968176 992 21,150
大学准教授高専含む)★48.955207 867 39,880
歯科医師40.56042 762 15,090
その他の経営金融保険専門職従事39.346156 708 16,000
大学講師助教高専含む)★41.649108 696 56,890
高等学校教員43.143163 679 69,200
研究者39.842156 660 118,450
輸送機器技術者40.141159 651 191,480
小・中学校教員40.342146 650 31,200
システムコンサルタント設計40.44697 649 78,730
電気電子電気通信技術者通信ネットワーク技術者を除く)41.841154 646 285,830

 

 

そのため、賃金を上げろと言われても、日々の生活や老後のことを考える我々的には、『いや、十分な額でしょ。ナメとんのか?』となってしまい、

ほとんどの人は、大学教授研究者賃金を上げることに賛成しなかった

(つか、上記の状況を見続けて、おけおけ!上げとこ上げとこ👌なんて感情にはまずならんでしょ😒)

 

 

そんでまぁ招いたのが今日日本の状況ですよ

高学報酬による競争で全体の質を担保するのではなく、個人情熱能力と使命感と倫理観だけに全てお任せしてしまった結果、もう本当にどうしようもないことになった

社会の基礎を担う公立の小中学校先生問題と似てるよね。尊敬に値する素晴らしい先生もいれば、残念ながらどーしようもない先生もいるみたいな
でも、そういった感情はグッと飲み込んで、羽振りのいいヘッジファンド並みのお賃金大学教授研究者に払うべきだったんでしょうね。苛烈競争で質を担保するために

 

 

まずはこれ

"民" とか時代劇の殿様かな?っていうスゲー文章だが、2024年東京大学准教授投稿である(成りすましでなければ)

アサシン・クリードシャドウズの問題、いつか鎮静化すれば良いと思っていたが、民が暴徒化しており、お気楽パブリックヒストリアンたちは口を噤んでいるようなので、Xなるものを稼働させることにした。時々呟く。

 

 

そして、これもまさか2024年日本大学教授(わざわざプロフィール所属身分を明かしている)の投稿である、うっへぇ~ありがてぇ~~~

PSA: It's not only "white racists" who are angry about the new Assassin's Creed game. A lot of Japanese internet users are angry too. Why?

Check this image for some examples of Japanese netizens expressing their views about Assassin's Creed Shadows.

(お知らせ:新しいアサシン・クリードゲームに怒っているのは「白人人種差別主義者」だけではありません。多くの日本インターネットユーザーも怒っています。なぜでしょうか?

アサシン・クリードシャドウズについて日本ネットユーザー意見を表明している例をこの画像確認してください。)

               ↓

南京事件慰安婦問題などに対して配慮のない主張を繰り返す属性の人、某氏信者の人の画像を羅列&投稿)

https://x.com/mrjeffu/status/1816040391990468666?s=61

 

悪いけど、ワイは明確に、南京事件慰安婦問題などに対して配慮のない主張を繰り返す属性の人、某氏信者の人では無いです
だけど、アジア人蔑視日本文化軽視のプロモーション表現を重ねてきた UBI の姿勢と アサクリ シャドウズ は非常に不愉快です😠

 

いわゆる "坂上田村麻呂黒人説" や "African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan" (←実話・真実物語とされている) などは、

日本文化に対してさらなる誤解を招く可能性があります

それに便乗する白人至上主義者によるアジア人の透明化と文化の盗用(ホワイトウォッシュしながらアフロセントリズムを押つけ、アジア人を透明化する糞ムーブ)、

上記に類するアクション(『日本人は怒ってない』とSNSお気持ち勝手に代弁するありがてぇ白人様たち)に対して懸念を持っています

 

 

1. まず、"坂上田村麻呂黒人説" について言及しま

これは、司馬遼太郎氏やカジュアル歴史小説家の作品、あるいは娯楽時代劇フィクションを真に受けるのとは、ほんのちょっとだけ毛色が違います

"坂上田村麻呂黒人説" の言い出しっぺは、今から100年以上前カナダ人類学者、Alexander Francis Chamberlain 氏です。

米国非営利団体 Internet Archive で原著確認できると思うんですけど、

氏は『The Contribution of the Negro to Human Civilization』(1911年)という論文の中でこう書いてます

 

484 ALEXANDER FRANCIS CHAMBERLAIN

[...]

And we can cross the whole of Asia and find the Negro again, for, when, in far-off Japan, the ancestors of the modern Japanese were making their way northward against the Ainu, the aborigines of that country.

(そして、我々はアジア全土を横断して再び黒人を見出すことができる。遠く離れた日本では、現代日本人の祖先がその国の先住民であるアイヌに対して北上を進めていた時に。)

 

THE CONTRIBUTION OF THE NEGRO 485

the leader of their armies was Sakanouye Tamuramaro,

a famous general and a Negro.

(彼らの軍隊の指導者は 坂村麻呂 であり、有名な将軍であり、黒人であった。)

 


  Full text of "The Contribution of the Negro to Human Civilization"

   https://archive.org/stream/jstor-29737886/29737886_djvu.txt

 

まぁこんなこんな感じで唐突に 『坂上田村麻呂黒人である』 と論文の中で言い出してるんですね。

そして、この論文記述全米黒人地位向上協会(NAACP) の設立者の一人である W・E・B・デュボイス氏 が、『The Negro』(1915年)にもしたため、

 

As rulers and warriors we remember such Negroes as Queen Nefertari and Amenhotep III among many others in Egypt; Candace and Ergamenes in Ethiopia; Mansa Musa, Sonni Ali, and Mohammed Askai in the Sudan; Diaz in Brazil, Toussaint L'Ouverture in Hayti, Hannivalov in Russia, Sakanouye Tamuramaro in Japan, the elder Dumas in France, Cazembe and Chaka among the Bantu, and Menelik, of Abyssinia; the numberless black leaders of India, and the mulatto strain of Alexander Hamilton.

 

(統治者戦士としては、エジプトの多くの中でもネフェルタリ女王アメンホテプ3世エチオピアカンダケとエルガネススーダンマンサムーサ、ソンニ・アリ、モハメドアスカイ、ブラジルディアスハイチのトゥサン・ルヴェルチュールロシアのハンニバロフ、本の坂村麻呂フランスの父デュマ、バントゥ族のカゼンベとチャカ、アビシニアのメネリク2世などの黒人を思い出します。また、インドの無数の黒人指導者たち、そしてアレクサンダー・ハミルトンの混血の血筋も挙げられます。)


The Negro

https://archive.org/details/negro0000dubo_w7n3

 

さらに後続の米国黒人公民権運動活用されたり、歴史フィクションアイデア元になった歴史があります

そのため、一部の児童向けサイト教師向けサイトでYASUKEと共に今も見掛けることが稀にあります

この界隈では、次のことわざ日本にあるとされています

For a Samurai to be brave, he must have a bit of black blood

"侍が勇敢であるためには、少しの黒人の血を持っていなければならない"

 

日本人ならそんなことわざは無いこと知っていると思うんですけど、ググると色んなところで見掛けます

Why do Afro-centrists claim that the first samurai warrior was a black African? | Quora

https://www.quora.com/Why-do-Afro-centrists-claim-that-the-first-samurai-warrior-was-a-black-African

 

2. そして、弥助ぇぇぇ~ぇえ🎵↑

弥助(YASUKE)は、取得難易度が高い日本語を解する多言語話者黒人の方で、しか剛力で恵体、世が世なら・・・と言うとても優秀な方だったみたいです。

弥助はえらい人の覚えがめでたく、織田信長は彼を大変気に入って、連れて歩いていたようです。彼は道具持ちを任され、わざわざそのことが記録にも残っています

頭が良くて体格もいいとかカッコイイし、本来であれば正当にその実力が報われて欲しかったし、彼がヒーローして描かれるフィクションが作られるのは共感できます

というかフィクションであれば、もっとアフロサムライやキンバリーみたいな肌の色が濃い侍や忍者が増えて欲しいですね。

(最近ゲームでは Rise of the Ronin みたいに、主人公人種自由に設定できるオプションデフォだけど)

 

ただ、史実では、さまざまなことが重なって、弥助は一般的武士(侍)ではありませんでした。そもそも、有力武将宣教師などでは無かった為、ほとんど記録には残っていません。

わずかに残される記録(ネットでも確認できる)からわかることは、下記くらいです。

 

耶蘇会日本年報 第1輯

https://dl.ndl.go.jp/pid/1041119/1/164

 

弥助は、格 (家柄・役割) が無いため、一般的意味武士(侍)では無いことが、極端に歴史をサボっていない日本人なら誰にでもわかるとだと思います
武器を持てば武士(侍)』、最近そのように日本アカデミアの中で定義を変えたのであれば、お知らせして頂きたいところです。
今まで、農民の子孫という自認だった人は、一度でもご先祖様が戦に参加していれば、これから武士(侍)の子孫です。
あるいは、ご先祖様が用心棒として武器を持ったことがあれば、これから武士(侍)の子孫です。

 

 

『ゆうて、一部の歴史オタク が 弥助は武士(侍)って言ってるだけでしょ』『時代劇でもよくフィクション入るじゃん』って思うでしょ?🤔

 

それが、どういうわけか、YASUKE の 英語版Wikipedia 見ると、日本アカデミアのお墨付き貰ってるのとか、参考文献に引っ張ってきてるのよね。それも京都大学とかの

ZINBUN は査読付き学術誌と京大で紹介されてるんですけど、その中でこんな風に書かれてます

Perhaps more extraordinary is that Yasuke’s story does not end here. Retained as an attendant by Nobunaga, he later accompanied him into battle against the rival lord Akechi Mitsuhide (1528? - 1582) who upon defeating Nobunaga at Horyuji, spared the African and subsequently released him.

 

(さらに驚くべきことに、弥助の話はここで終わりません。信長の従者として残された彼は、後に信長と共に、ライバル大名(rival lord)である明智光秀(1528? -1582)との戦いに参加しました。光秀は法隆寺信長を破った際、このアフリカ人の命を助け、その後解放しました。)

 


Excluded Presence : Shoguns, Minstrels, Bodyguards, and Japan's Encounters with the Black Other

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/71097/1/40_15.pdf

 

Horyuji(法隆寺)かぁ。あと、さすが魔王ノッブ、1万を超えたとも言われる大軍勢を前に、自刃することなく弥助と共に立ち向かっちゃうぜ。諦めたらそこで試合終了だもんな(白目)

 

更にこれに加えて、日大教授が、いろんなところで、弥助は日本で最も有名な外国まれ武士(侍)となった、

弥助は本能寺にいて伝令の役割を担った、弥助の最後の使命は首を守ることだったとか、いろいろ言って回ってますから

例えば、大手ニュースメディアCNNとかで

African samurai: The enduring legacy of a black warrior in feudal JapanCNN

https://edition.cnn.com/2019/05/19/asia/black-samurai-yasuke-africa-japan-intl/index.html

そんなわけで、YASUKEの件も、司馬遼太郎氏やカジュアル歴史小説家の作品、あるいは娯楽時代劇フィクションを真に受けるのとは、ほんのちょっとだけ毛色が違います

 

 

文字数制限に引っ掛かったから続く → 日本のアカデミアは本当にどうしようもないところにまで来ている・2

 

 

 

関連増田

2024-07-25

好き嫌いcomに匿名はてなのページがあったら

好き10 嫌い90ぐらいだろなぁ

人付き合いとは鎮魂である

好き嫌いに応じてマイルド状態を保つのである

上司が部下にはっぱをかけるのも鎮魂である

2024-07-24

審美眼なるものを疑う人間は多分一定数いる。おれもそう。

実際年末の某番組みたいに、「お高くとまってる連中が本当に違いの分かる奴らなのか試してやろうぜ!」的な目利きがエンタメとして成立してる。ああいうのがヤラセかどうかなんてのは知る由もないし、大した問題でもない。

あれは違いを確かめ作業で、僅かな違いを識別する能力を示しはする。でも「イイもの」を見分ける能力であったり定義づける妥当性とは特に繫がらない気がする。

区別もつかないのに「こっちの方がいい」なんて言うのもちゃんちゃらおかしいけど、じゃあ違いが分かってる人の好みならある程度の普遍性を伴った基準になんの?って思う。ならないんならそれは単にその人が好きなものってだけで、別にイイものであるという事にはならんよね。「違いの分かる人」からお墨付きにはなるだろうけど。

仮にそういう基準になるんだとしたら、共に違いの分かる二人が

「うん、どっちも美味しいね。それはそれとして高いのはこっちでしょ?」

「美味しさがまるで違う。当然こっちの方が高いに決まっている」

と言ったときに、イイもの定義づけるのはどっちの意見にすればいいの?って話になる。まあどっちも別軸でイイものなんですといえばいいんだけど。安易二項対立は良くない。

もっと言えば、そもそも本当にその感想本心から来てるのか?って所もある。

人の本心なんて分かりはしない。違いが分かるかどうかなら試して答え合わせをすれば分かる事だけど、何が好きで何が嫌いかなんて拷問にかけたって本当の気持ちは確かめようがない。

まあ好き嫌いときでそこまで嘘を貫く道理もなければ、そこまで確かめようとする道理もないんだけど。だからこそ気持ち確認の精度にも疑問が残る。

まあこれは単におれがしょーもない事で嘘つく虚言癖の気があって、他人にもそういう部分があるんじゃないかっていう邪推デカいのかもしれない。

仮に大抵が本心であったとて、単に好きではなくイイもの定義づける感想として扱うにはもう理屈というより共感問題になってくる気がする。

SNS開いてるとたまに「あの名作の論理的分析」的な記事が流れてきたりする。

あの手のやつを読んでみると、作中の具体的な要素を並べてあったり、あまり指摘されていなかった視点提供されていたり、あるいは社会の風潮なんかと結びつけてあったりする。

でも根本的な問題として「じゃあなんでそういう要素がイイの?何の基準を以て?」と言われたら、そこはもう答えようが無いんじゃないかと思う。言われてみたら確かにそこがイイよね、という共感くらいで。そして「別にそこがイイとは思わんな……」と思うのだって不思議なことではない。

仮に辛いものは美味しいという定義存在するのなら、このカレーは辛いので美味しいというのは論理的評価として成立する。

いわゆる目利きでやってるのは、カレーが辛いか否かを判定する作業にあたる。

じゃあ根本的な話として、定義のもの妥当性はどこにあんの?

美味しいものはイイものである、という定言的な前提に対する仮言的な前提として扱えば、まあ正当性は得られる感じはする。

美味しいものがイイという前提を支持する理屈は何ら存在しないけど、まあ直感的に否定する人はあんまりいない気がする。

ただそれにしたって、辛いものと美味しいものとの関連の必然性も詰めていけば結局そこも理屈では解決しなさそうだけど。

個人好き嫌いとは区別して扱われがちなイイもの定義も、共感問題しか帰結し得ないんゃねえか?それって結局好き嫌い同調する内輪の問題しかなくねえか?って思う。

別にそれが良いとか悪いとかは一切思わんけど、なんか好き嫌いと違ってイイもの論理的に語れるし、然るべきリテラシーがあれば「理解」出来るんですよ、的な発言を見るとホンマか?って思うよね。

いや理屈以前の前提部分が共有されてるかどうかが一番肝心なんじゃないの?って。

まあこれの理屈もまたおれの世界観の上でしか成立しないのかも分からんけど。人が何かを考えるのに先んじて人間がイイと思うものなんて存在しなくて、定義問題しかないと思ってるし。

イイものはあると言ったらあるんだ!という宗教めいた本質主義だったり、それか特定物質特定感情をもたらすっていう唯物論めいた世界観なら、それはそれでイイもの定義づけられんかもしれんし、違いだけではなく「良さ」までもを見抜ける審美眼だって存在するかもしれない。

まあそれにしたって、快感をもたらすものがイイものであるという定義必要になるし、であればドラッグだってその範疇に入ってしまって、更に恣意的定義を重ねないといけないかもしれない。

命名会議

子供の名付け会議ってみんなはどんなかんじなの

友人たちと会った時に話したら家庭それぞれで面白かった。

多かったのは会議の日を決めてその日まで候補をそれぞれ準備してプレゼン的なのをして、意見を出し合いすり合わせ、数回のうちに絞っていき、生まれた子の顔を見てから一つ選ぶ、みたいなやり方。

音や字に対して持つイメージやそれらに対する好き嫌いなど、夫婦感性を共有する場になるのが面白いと思った。

オールスター日ハムに入れた奴全員野球ファン辞めろ

お前らは物事俯瞰的に観る能力がない

ただ自分好き嫌いしか物事を観れず、好きな選手投票すれば良いと思っている

数字の読めないおばかさん

あんたら野球観る資格いか野球もう二度と観るな

オールスターとか投票すんな

平本蓮氏・朝倉未来氏の一連の行動は格闘家としてフェアだったのか?

総合格闘技団体RIZIN」の28日にさいたまスーパーアリーナにて予定されている「超RIZIN.3」のメインカードである朝倉未来氏vs平本蓮氏の試合前に予定されていた元NEWS手越祐也氏の国歌独唱を取りやめることをRIZINが22日に発表した。


リングに上がったらすぐに戦いたい、余興のようなものはいらないという朝倉氏の意見はまだ、まあ選手としてはそう思うことは自由だろう、とは思う。

わざわざ公に発信しなくても、運営意見し、話し合うことはできなかったのか?とも思うけれど。


だが、平本氏の一連の行動はさすがにやりすぎではなかっただろうか?

ケラモフ戦の時の深田えいみ氏の名前までわざわざあげて「いらない」という必要はあっただろうか?

手越氏に直々にインスタのDMを送ることもさることながら

(1億歩ゆずって穏便に手越氏側から辞退してもらえないかと裏で動いてしまった、の段階で済ませたならまだしも)

その一連のやり取りを自身のインスタアカウントで煽るように公開する必要はあっただろうか?


RIZIN公式文章にもあった通り、

選手一方的な発信に乗じた人たちから手越さんへ直接、誹謗中傷ヘイトメッセージSNSで送りつけられる事態

が起きているわけで、特に平本氏の行動は、手越氏への誹謗中傷を誘発し、辞退へと追い込んだ、というかなりアンフェアものとは言えないだろうか?


正直にいえば、筆者はRIZINに限らず総合格闘技というもの好き嫌い以前に興味も示したことがなく、どなたの試合も見たことはない。

他方、手越氏ならびに彼のかつて所属していたグループのことも知ってはいるが、特にファンというわけでもない。曲はちょっと知ってるかな〜くらいである。


ただ、格闘技というのはスポーツだと思っていたので、結果的自身ファンから相手方への誹謗中傷を誘発し、自身の望みを通した(ある意味では彼が勝った)今回のやり方は、スポーツマンシップに則ったフェアなやり方と言えるだろうか?と感じている。


それとも、総合格闘技試合に勝ちさえすればその過程での選手の振る舞いにフェアさがなくとも、ヨシとされるものなのでしょうか?


試合当日にこのまま勝てたとして、このようにミソのついた勝利でもご本人もファンも気にされないのでしょうか?


これまでは特に好きも嫌いもなかったけれど、今後はスポーツマンとしての紳士さはない方、もしくは競技、という目で見ることになるだろう。


いや、そもそもスポーツじゃなくてただの公開殴り合い興行という認識でいた方が良いのかもしれないな。

そう思えば、フェアさとか紳士的な振る舞いとか品格とかを期待するなんて愚の骨頂と諦められますし。





追記

ひとまず私より総合格闘技に詳しい&好意的に捉えている身近な人に知見を得ようと思って今回のことを聞いてみたところ、


総合格闘技、中でもRIZIN特に炎上商法ありき

(そうでないとチケットが売れない)

集団であり、あれをスポーツと思ってはいけない。

今回のことも単にいつも通りチケットを売るためにわざと炎上話題性を取っただけ。


と言われてしまったので、なるほど、今回の件でだいぶ界隈の印象が下がった私のような人間は、

こういう炎上商法が今後成り立たずに界隈に廃れて欲しいと思った以上、見ない・触れない・話題にしないというのが1番良いのだな、という学びを得ました。


折を見てそのうちこの記事も消すかもしれません。

2024-07-23

anond:20240722170611

ブクマカ論調小山田圭吾の時と全く違うの笑えんわ

好き嫌いで主張が変わる変わる

個人好き嫌い判断してるだけのただのオタクヘイターの語る正しさに何の価値があるんだろう?

2024-07-22

良い歌詞ってのがよく分からん

好き嫌いじゃなくて良い悪いで歌詞評価するってのが出来ない

どこでそういう技術を身に付けるんですか?

音楽の授業ですか?

anond:20240722012010

好き嫌いとか関係なくない?

しらんけど消耗してる人でしょ?

2024-07-21

anond:20240721022421

人に好き嫌いがあることは中学校までの部活で学ぶべきこと

段階、発達の話

anond:20240721015123

自民党を支持する偉い人の好き嫌いで決まる

新自由主義でも共産主義でもそうなるだけ

ということです

偉い人が今まで支持してきた人から鞍替えして共産主義政党の候補に乗り換えるなんてありえない

人で選ぶんだから

2024-07-19

anond:20240718094506

紅茶なんてそれこそ好き嫌いあるでしょ

もう50年くらい飲んだことな

anond:20240719121523

本当にね

徹頭徹尾好き嫌い不快の表明の増田だと思うし増田自身もやめろとは言わないとはっきり書いてるのに、否定的意見と見るやす規制だ!騒ぎ散らかすな!ってかなり強い言葉で噴き上がったりそんなん言ったら~とかまあエスカレートしないようにね…(してない)とか全然書いてないこと勝手に読みとっていらない心配を押しつけるブクマカが出てくるの、方向性真逆でもそれらの人らと表裏一体というか同根だよな~と思った

anond:20240718172757

こういうのを◯◯すべきではない、◯◯してはいけない、みたいなルールの話にせず、嫌いだと言える増田は偉いよ。

自分好き嫌い社会規範区別がついていない人は多いからね。

anond:20240719015152

人事部は人の気持ち好き嫌いが分からない人に任せてはいけない

人の気持ちが分かる人事部、より人間らしい人が血尿を出すほど思い悩んでいる

これは紛れもない事実

2024-07-18

選挙ポスター支援者デザインしない方が良いのかもしれない

安野たかひろさんのポスター等、選挙活動で使うデザイン担当されたデザイナーメイキングnoteを読んだ。

https://note.com/y_yukkie/n/nee5a7a5409fb

選挙期間中、安野たかひろさんのポスターを初めて見た時に、なんでこんなナード感を際立たせるような色使いや写真の使い方をしているだろうとか、視力判断力が鈍った語彙の薄い高齢者がみたら「あのち◯◯みたいな頭の候補者か」とかいう風になっちゃうじゃん。って思ったので、これらがデザインされた過程思考が見れて、デザインで食っているものとして勝手に学ぶものがあった。

まず、このポスターをはじめとした背景色/テーマカラー暖色系パステルグラデーション(インスタっぽい色)が選ばれていた理由

>過去10年分ほどを振り返って、キーカラーほとんどグラデーションが使われていないことは意外だった。

>他ポスター差別化するためにパステルカラーグラデーション採用するという仮説

という、割とよく使われがちな原色系のカウンターからチャレンジで、安野さんの顔、形や色相の相性、ブーストしたい雰囲気とかを主眼にしているようではない印象を受けた。

顔写真についても、日本ポスターのダサさに不満を抱きつつ、過去事例を研究して顔(写真)の印象の重要性の理解顔写真比率の話をされているが顔写真被写体自体をどう演出して見せていくかという重要な部分にはそこまで触れられていない。

推測だが、近い人(候補応援するボランティア)が手掛けたがゆえに被写体客観視しきれない部分があったんじゃないかと思う。何度も人の顔を見ていると、色んな表情が連結されて自分の受け入れやすいように慣れてしまう。初対面の時に抱いた印象や違和感を忘れてしまいがちで、しか応援している候補者であればなおのこと補正がかかりやすいだろう。

まりデザイナーにとって安野さんの笑顔写真は爽やかな笑顔に映るわけであるが、その印象は安野さんを知らない人が写真を見た時と比べると相当脳内補正が掛かってしまってるか、許容値がバグる状態に陥っている。自分も同じ状況に置かれたら、多分不可避だと思う。許容値がバグって客観視することが難しい前提で、この辺りの役割を割り切って決めておくのが重要だと学んだ。

ちなみにポスターを初めて見たときに、もし安野さんをほぼ知らない自分デザインワーク担当するなら…を妄想してた。(安野さんに限らず、クセで他の候補者でも同様にイメトレしてる。)

(一般的現場では写真素材を撮る前にレイアウトや色方向性ラフが決まっていることは多いが)写真素材が先行してある状況で、撮った素材の中から選んでデザインよろしくみたいなことになったら、まず、あの角度の写真積極的には使わないだろうし、あの角度しかない or 使わなきゃいけない理由があるのであれば、ポスターでは頭を全て出さないようにトリムするレイアウトにする、もしくは頭の色に馴染むような背景色にして、極力ナード感を消すところから入る。その上で彼の清潔感や知性を際立たせるようなキーカラー印刷の出やすから考慮に入れて選ぶ。という妄想をしてたのだけど、ポスターをよく観察していく内に、いやいや、そもそも衣装を含めて限りなくシンメトリーっぽい雰囲気被写体をあえてアシンメトリーっぽく絶妙にズラして使って不気味さを際立たせているとか、背景カラーからあえて頭をはみ出させて、立体的にアレに見えやすいようにしている?す、すべて計算してやってる…のか?という勘ぐりまで至ったが、単純に自分感受性下品なだけな気がしてきた。

ポスター見た後に生安野さんの演説をチラ見する機会があったのだが、長髪の珍しさはあれど、普通に好青年ポスターとのギャップがかなり強かったので、損しているなぁ…と思ったがもちろんこのポスターデザインが良いね!という人もいるので、好き嫌い範疇をでない話だし、いかに目立つかを詰められていたので、意図してないかもしれないがある意味で目を惹くポスターでした。

13,000箇所の一等地掲示する老若男女全方位向けのポスターを手掛けられるのってデザイナーとしては得難い貴重な経験値だなとnoteを読んで改めて感じました。おつかれさまでした。

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