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2017-11-27

https://anond.hatelabo.jp/20171127002052

まだ死んだことに気づいてないのかよ

早く成仏して

2017-11-21

仏はもっと増えていい

最近知ったけど、南無阿弥陀仏〜🎶とかの阿弥陀仏とお釈迦様って違う人なんだってね。

見た目そっくりなのに。

昔の人はお釈迦様以外の仏を考えるなんて恐れ多かったのかな?

からみんなパンチパーマの小太りなのかな?

いやーその割にお釈迦様をブチギレさせるような仏いっぱいいるよね。

大日如来かいう「ぼくのかんがえたさいきょうのほとけ」作ったり、

崇めてたらなんか仏化させてくれるお手軽サービス提供してくれる阿弥陀仏とかさ。

から単純に想像力がなかったんじゃないかな。

それでね、みんなで色んな仏考えたら最高に面白いと思うんだよね。俺としてはエレクトリックJK仏に抱きつきスパークされて感電しながら成仏したい。

2017-11-09

anond:20171101161439

なるほど。

かに古典的リベラル制度的な圧政から市民の開放を目的誕生したんだろうけど、現代リベラルは「自分自由のために相手自由を奪うこと」を許さない。つまり多様性を認めるということで、「人種やLGBTなどの少数派や弱者などのマイノリティ自分マジョリティだというだけで否定しない、尊重する」という思想のことだと私は理解している。単純な反戦や反権力だけのことをリベラルとは言わない。

翻って日本リベラルサヨク政治的に強い立場の人を悪として、敵として攻撃することだけに執着する。つまりリベラルが生まれとき手法だけを真似て、相手意見を聞いて尊重するということをしない。

特に日本では時代劇的な、物語的な、アニメでよくある勧善懲悪が大好きだ。いじめている人が黄門様に懲らしめられる結末に喝采する。スカッジャパンだ。小池劇場でも都知事選都議選で大勝したのは都議会ドンがいたからだ。しかし、衆院選では安倍首相絶対悪たり得なかった。

現実はそんなに単純ではない。世の中は勧善懲悪にはできていない。絶対悪絶対善など存在しない。特に政治世界ではそうだ。よく効く薬には必ずと言っていいくら副作用がある。今回の衆院選でも安倍一強と煽って、安倍首相民衆の敵のように主張する。国民にそう信じ込ませようとしている。国民馬鹿にして、愚民でいることを求めている。国民もそれくらいは理解している。

安倍首相だって全てにおいて正しいわけではない。ツッコミどころも多い。それも国民はわかっていて、相対的に期待できる政治家が、政党が他にいないことが問題なんだ。野党安倍首相手法憲法違反だと囃し立てるけど、憲法だって絶対的ものではない。むしろ憲法改正取引材料にして、自分たちの目指す政策与党に認めさせる。そんな政治家野党にいてほしい。

しかし、リベラルサヨク絶対悪vs正義の味方対立を煽る。古典的リベラル解放運動のごとく、自分正義を疑わない。それはリベラル思想を受け継いているのではなく、手法だけ真似しているに過ぎない。だから日本リベラルサヨク思想的にリベラルではない。

からリベラル成仏する日」はリベラル思想成仏するのではなく、手法だけ利用しようとする日本的リベラルサヨク成仏して、日本に真にリベラル思想を持った政党が生まれる日なんだ。

2017-11-01

リベラル成仏する日

リベラルっていう用語は今では多義的なっちゃって拡散しているんだけど、源流をたどると「絶対王政などに見られる巨大な権力者に対して個人自由を守り社会を安定させ豊かにしていく思想」があるよね。国の命令で、一般的民間人生命やら財産やらが奪われてはならない。思想発言には自由があるべきだし、職業結婚相手強制されるべきではない。個々人は個々人で自分人生を生きる自由がある。古典的自由主義としてのリベラル

いま日本では、リベラルが退潮とか危機とか言われているけれど、どう考えても歴史もっとリベラルが花開き成果があるのが現代だと思う。古典的自由主義者が目指した自由繁栄の国が、いまの日本だよ。

もちろん、リベラルという語の示す意味合い歴史によって徐々に変わっていった。いま死のうとしているのは、後発の変化した後のリベラルなのだ、という指摘は正しい。

しかし、でもだとするのであれば、その主張方法も変えていくべきだったのね。一番古典的リベラルは上記のように「巨大な権力者恣意的権力乱用から市民市民自由を守る!」というものだったから、その主張手法は「だから権力者日本場合首相とか与党とか政府)を厳しく監視してそれを咎めていかなければならない」であるわけ。日本野党国会で、やたらに与党に噛み付いたり、「安倍政権九条を変更すると即座に戦争を開始してしまう!けしからん、断固打倒!」というのは、たしかに、古典的リベラルの主張としては正しいわけ。なにせ彼らは「巨大な権力者恣意的権力乱用から市民市民自由を守る」が主張なのだから

でも最初に述べたように、古典的リベラルが憂いていた社会問題――たとえば王様個人的鬱憤やら貴族の内輪もめで戦争を開始して農民の命がゴミのように消費されるとか、身分差の下位の側が奴隷としてなんの自由選択権もなく酷使されるとか、餓死するとか――そういうのは、現代日本においてほぼ解決された。こういうことを言うと顔を真赤にして「現代ブラック労働問題が!」とか叫ぶ人はいるけれど、少なくとも法的な側面ではかなりのケアが進み、運用側の問題へと問題は進んでいる(日本生活保護の捕捉率はたしかに大問題だけど、運用問題ではある)。

まり古典的自由主義者は、打倒すべき問題殆どを失ってしまった。日本社会で言えば、1970年代公害訴訟あたりの時期で、社会的使命を一旦果たした。そこで寿命を迎えたと思うのね。

もちろんそこで社会問題がなくなったという話じゃないんだけど、それらを指摘して解決していくためには、リベラル名前を変えるか、名前を変えなかったとしても少なくとも主張方法進歩させるべきだったわけ。なにせ古い主張とその手法は、古い問題最適化されているわけだから。「安倍政権九条を変更すると即座に日本戦火に包まれる」なんて主張を、現代日本国民の誰がどれだけ信じている? 1%もいないとおもう。現代日本人の殆どは「政権監視して非難すれば問題解決する」なんて、もはやファンタジックおとぎ話だと感づいているんじゃないかな。

現代に残る社会問題は、格差にせよ人口減にせよ、少数の絶対悪者が陰謀の結果日本に振りまいた災厄ではなく、すべての日本国民利害関係者として今まで行ってきた選択の結果起きた、避けえない出来事であって、誰か少数者をリンチしてスッキリしたとしても、解決なんて出来はしないって気づいているんじゃないかな。

にも関わらず、いわゆるリベラルと言われる組織政治家が懐古的な「邪悪政府陰謀論」を卒業できないのは、本当に卒業できないわけじゃなく、そういう手法卒業しないことで利益を得ていた既得権集団だっただけなのだ。そういうことがほとほとわかっちゃった。そういうのがこの数年の政治状況じゃないかな。

いま日本リベラルに愛想を尽かしたり、叩いたりしている国民も、一番最初に述べた「国の命令で、一般的民間人生命やら財産やらが奪われてはならない。思想発言には自由があるべきだし、職業結婚相手強制されるべきではない。個々人は個々人で自分人生を生きる自由がある」という意味では、立派なリベラリストなわけね。それらは当たり前にいつでも手に入る無価値な宝物ではなかった。たとえば北朝鮮ではそういう社会が実現されてないもの

からその部分は歴史に対して胸を張っていいとおもうのだ。そして同時に、自分たちがそういう意味ではリベラリストなんだからリベラル必要以上に憎むべきではない。少なくとも歴史のある時期、それらは社会必要で、現代の豊かで平和社会につながる重要な役目を果たしたわけだから

一方で、そういう言う意味では、リベラルという看板は役目を終えたし成仏すべきだと思う。現状、Webやらマスコミで「リベラル最低だ」っていってるのは、かなりの程度死体蹴りだ。「リベラルという少数悪が邪悪だったので社会が悪くなった」というのは、まさに駄目なリベラルがすがりついていた思想のものだよ。すがる側も、嫌悪する側も、もうリベラルから卒業しても良い時期だ。

2017-10-20

誕生日祝う/祝われない問題

https://anond.hatelabo.jp/20171013224250

この増田を読んで「めっちゃわかる〜〜〜〜〜同類いた〜〜〜〜〜」と思って勢いで書いたんだけど、後日追加されたオチが羨ましすぎてこの虚しさのやり場に困ってる当方

ちょっと長いけど、このやり場のない気持ち成仏させると思って投稿させてもらう。

最低月一で遊んでいる高校時代の友人が2人いる(両方女子)。

先日片方が(以下A)誕生日だったので、もう片方(以下B)と相談してちょっといいレストランを予約し、

誕生日プレートを用意した。私は別でプレゼントも用意していった。

Aはたいして誕生日に執着がないのはわかっていたが、プレゼントにもサプライズのプレートにも喜んでくれた。

また、ちょうどBが一人暮らしを始めたので引っ越し祝いをAと一緒にプレゼントした。

Aを祝うつもりできたBは、まさか自分がもらうとは思っていなかったそうで喜んでくれた。


増田誕生日でも引っ越しでも、めでたいことは祝いたいし祝われたい派だ。

当然自分誕生日も何かやってもらえるものだと期待した。

が、AとBは何もしてくれなかった。

サプライズはおろか、お祝いの言葉すらなかった。

幸か不幸か、Bと増田誕生日は1週間違い。

Bの方が早いのだが、ちょうど中間にあたる連休に3人で二泊三日の旅行へ行くことになった。

当然祝ってもらえるものと期待を抱きつつ、Bの誕生日祝いをしないわけにはいかないと思った増田は、Aと画策して一日目の晩にサプライズしかけた。

Bはそりゃもう喜んでくれて、まさにサプライズをするならそんな反応を期待するであろうリアクションをそのままくれた。

やってよかったと心から思った。

2日目、美味しいご飯を食べた。

3日目、美味しいご飯を食べて帰った。

特に何もなく旅行は終わった。


増田誕生日当日はグループLINEは動かず、そのまま2ヶ月がすぎた。

久しぶりに会ったAはプレゼントをくれた。

Bは申し訳なさそうな顔をしながら、何も言わなかった。


ここ半年、ずっとこの「誕生日祝われない問題」について考えている。

しか増田サプライズしかけられてもBのようなリアクションはできない。

しかしたら「増田はきちんと祝える自分が好きなんでしょ」と思われているのかもしれない。

思い出しては落ち込み、いろんな人に相談しては落ち込み、2人に会っては落ち込んでいる。

会うのをやめるか、次の誕生日自己申告するかどちらかにしろアドバイスをもらったが、まだ決めかねている。

もう誰でもいいから次の誕生日は盛大に祝ってくんねーかな!

2017-10-13

棄権

某氏が本当は呼び掛けていないということは置いておいて、棄権というのに異常なアレルギー反応があるのが謎だと思い始めた。

(念のために言っておくと、私は選挙に行くつもりである。)

まとめ

投票率向上のために若者白票出した方がいいというのはわからんでもない

しかそもそも票田のことしか気にしません見たいな政治家がまかり通ることを容認するのか、そういう自称リアリストがこの国を腐らせているのでは。

投票権尊重の在り方は人それぞれだし、選挙へ行くかどうかについてもっと柔軟な価値判断を持ってほしい。少なくとも「そんな奴は投票に参加する権利はない」といった発言は、普選運動への冒涜に他ならない。(税金を納めてないやつは選挙に参加するなの構図とたいして変わらない)

よくありそうな反応

普通選挙獲得闘争への冒涜である/貴重な権利無駄にするな

選挙欲しい人がいるのだから、持っていることはありがたいと思えというのはまあ正しい。しかしそこから導けるのは「選挙権大事にせよ」という命令であり、選挙権大事にする方法は人それぞれだろう。判断する時間が取れず、責任ある投票ができそうにないから、棄権するという態度は選挙権尊重しているからこそできる態度ではないのだろうか。一票に宿る歴史の重みを自覚せずに、責任感なんてなくてよいので適当投票せよ、などというのはそれこそ冒涜ではないのか。

投票できるのに投票しなかったら政治コミットする権利はなくなるよ

そもそも、このようにすぐに自分と異なる行動をするもの主権をはく奪しようという発想自体が、民主主義国民主権の発想と異なるように思える。

投票しなければ政治家の関心を得られないよ

若者向けによく言われる言葉だ。統計上の若者投票率向上自体若者向けの政策モチベーションへとなりうるため、白票でもよいので投じろという考えである。まあこの中ではたしかにまともな意見だと思う。ただそもそも票田となる対象を利するみたいな考えが気に入らない

・400万円

雑すぎ。

利益団体を利するだけ

選挙権行使して利益団体を利することもできるわけだし、利益団体はそれなりの根拠をもって行動している。(私は人々の道徳的感性にある程度信じているので、いくら何でも、自分業界を守るために虐殺やります!みたいな業界団体業界団体内で支持されるとは思えない)と考えれば利益団体による調整機能への信任としての棄権という考えもできる。

選択肢がないなら被選挙権行使せよ

これが実質的不可能なことが本質的問題かもしれない。

なぜ棄権絶対悪空気が醸成されたのか

人間マウントをとりたがる生き物だから

自分のやっている"善行"をやっていない人間を排撃するのはたのしい!という素朴な気持ちを持ちがち

小学校のころから刷り込み

選管がやたらとキャンペーンを張っている。成人式でもわけのわからないDVDが配られていた。子供のころから刷り込まれ価値観はなかなか疑いにくいし、それに反する行動には過剰反応を起こしがちだ。

そもそも投票率向上は良いことなのか

これは純粋な疑問だが、全国民が最適と思う投票行動をとった時、果たして現状より良い結果が出るのか?という疑問がある。

また完全に利己的な高齢者投票率が向上しても(若者の)私は特にうれしくない。

また若者投票率向上には一定意味があるかもしれないとも思う一方で構造的に若者投票率は上がりにくいのではという気持ちもある。この状況下で抽象的な「行こう」キャンペーンは単に選択肢のない人への暴力じみている気がするのだ。

結論

若者投票率向上は意味があるのかもしれない。なので普通に行きたい人は行くべきだが、その考えを他人押し付けないべきだと思う。選挙をやるのは本来世の中をよくするため、世の中を悪くしないためといった目的があるはずなのだが、「選挙に行こう」「選挙に行かないやつは非国民運動には、その大前提が感じられない。「選挙に行きさえすればよい」という意識は「お題目を唱えれば成仏できます」(念のため南無妙法蓮華経とは書かなかった)とたいして変わらない気がしてならない。

2017-10-06

幽霊なんていない

自分幽霊が見えると言っていた痛い痛いタイプ人間だった。

今考えると全部ただの見間違えと幻覚だったと思う。


もし成仏出来なかった魂が幽霊として現れるのなら、この世界幽霊だらけ。生きている人間より幽霊の方が多くなる。


後、個人的に願うのは、いるならいるで科学的に解明されてほしいと思う。

オカルトではなく、「霊能学」というちゃんとした学問にしてもらいたいし、どこかのCEOみたいにマスコミを集めて、

「ご覧下さい。こちらが捕獲した霊体になります

と発表してもらいたい。


現時点でそういったことがないのは、幽霊がこれまでの人の行いの後ろめたさからくる幻覚から


あ、でもホラー映画とか心霊写真は嫌いだよ。怖いからねっ。

2017-09-25

anond:20170925010708

なんだか最近金縛りが酷いと思ったら増田、お前だったのかよ

頼むから成仏してくれ

2017-08-30

https://anond.hatelabo.jp/20170830205846

てくにゃんまだそんなこと言ってるんだ…早く成仏してね

2017-08-02

死人の声をきくがよい 感想

結構グロ多めのホラー超常現象系の作品

近い作品はぬ~べ~かな、稲川淳二理不尽さも併せ持ってる

腫瘍人物は基本死ぬことはないが、サブキャラバンバンぐろい死に方で消えてくなあ

あとがきにあるようにコナン級に身近で人死にまくってるけど大丈夫かこの世界

基本的ネタはなんでもありで描かれてる

宇宙人が人に取り付いてるとか、怪しい新興宗教が神を呼んだり、奇病が流行って人が狂ったり、サイコキラーが出たり

幽霊が出ると大抵人に取り付いてるな、たいていなんとかななってるけど

とりあえずオカ研部長、ダークアイドルがいれば安心感がすごいな

ゴーストチャネリングの子も強キャラ安心主人公やばいことなっても助かる感がすごい

自体オムニバスだしそこまで話進んでいかないな

ヒロインがずっと成仏しないのは主人公のせいってなってるのに進展する気配なし

最終回成仏とかするんだろうな

駄文

2017-07-31

https://anond.hatelabo.jp/20170731182855

しろ逆に、とっくに成仏たかとおもったのに、ちょっとやってみたらハマりすぎてびっくりしてるんだ。

状況証拠だと100%クロという感じで。イヤー怖いね

https://anond.hatelabo.jp/20170731182641

精神を探るための旅wwwwwwwwwwww成仏しろってwwwwwwwww

人間を語るな。

20世紀から出てくるな。

2017-07-26

日蓮宗について

日蓮宗では、本迹一致を立てている。この本迹一致論は、

天台大師が『法華玄義』に説いた「本迹異なりと雖も不思議一なり」との解釈によるもので、

大聖人様の御教示ではないのです。

また、天台の「不思議一」との意味は、

迹門という小さな川も、本門の大海に収まれば同じ海水となるという、

法華経開会の法門を説き示したものであり、

決して身延のような本迹二門を対等に見た上での「一致」を説くものではないのです。

大聖人様は『治病大小権実違目』に、

「本迹の相違は水火・天地の違目なり」と、

また『妙一女御返事』には「迹門は理具の即身成仏

本門は事の即身成仏なり」と法華経の本迹の相違を明確に御教示されています

日蓮宗はその区別がついていない邪宗教です。

法華経本迹二門は、

久遠実成の本仏と始成正覚の迹仏という仏身においても、

その説かれる法体においても勝劣があり、

その相違は水火・天地のごとくであると言えます

しか日蓮宗では、「実相一体」や「本迹未分」という勝手解釈を加え、

「本迹一致」の邪義を主張していますが、

これらは宗祖の御教示にはないものであり、

宗祖の正意に背く謗法の論となることは明らかです。

仏像本尊は、宗祖の本意にあらず」

日蓮宗では、信仰の根幹である本尊について、

未だに宗祖の正意が何であるかが理解出来ず、

本尊に関する御書を集めて候補を選び、

その中から適当形式相談して決めるという、

極めて杜撰見解を発表しています

それを要約すれば、

御書に現れた本尊形式は、

一、首題本尊 

二、釈迦一体仏 

三、大曼荼羅 

四、一尊四士 

五、二尊四士があり、

このうち一、と三、を法本尊

二、四、五、を仏本尊とし、

その中心は三、の大曼荼羅と、

四、の一尊四士であるが、

祖書の教示等に照らし、

一尊四士を日蓮宗本尊と定めるのが至当である

(趣意・大崎学報)というものです。

日蓮宗では、本尊の依文として「観心本尊抄」の、

『此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有(ましま)さず。

末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか』との御文を挙げ、

仏像出現」の語句によって本尊仏像が正意であるとしています

しかし「仏像出現」の御文意味は、

文中の正像の本尊に対する「造り画けども」という語句と、

末法仏像に対する「出現」という表現を対比してみなければなりません。

「此の仏像出現せしむべきか」の意味は、

後の「此の時地涌千界出現して」の御文と同じく、

仏像の造立」という意味ではなく、

あくま現実に現れるということを示されたと拝すのが正しいでしょう。

すなわち、この御文真意は、

末法に地涌千界が出現して「本門の釈尊」を脇士とする

未曾有の本尊を顕わすことを明かされたものです。

また、日蓮宗では同じ『観心本尊抄』の、

「此の時地涌千界出現して、

本門の釈尊を脇士と為す閻浮提第一本尊

此の国に立つべし」との御文について、

「本門の釈尊を脇士と為す」を「本門の釈尊を脇士と為る」と誤読し、

一尊四士が正意であるとしている。

しかし、宗祖が御在世中に一尊四士の仏像を自ら造立された事実はなく、

観心本尊抄』の御文も一尊四士を本尊とせよ、

との御教示ではありません。

それは日蓮大聖人様が佐渡以後、

本尊について御教示された御書に照らして見ればいっそう明らかです。

「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり(草木成仏口決)」

妙法蓮華経の御本尊供養候ひぬ。此の曼荼羅文字は五字七字にて候へども、

三世諸仏の御師(中略)此の曼荼羅仏滅後二千二百二十余年の間、

一閻浮提の内には未だひろまらせ給わず(妙法曼陀羅供養事)」

法華経題目を以て本尊とすべし(乃至)釈迦大日総じて

十方の諸仏は法華経より出生し給えり。故に全く能生を以て本尊とするなり(本尊文答抄)」

これらの御文と『観心本尊抄』の文を合わせて拝する時、

日蓮大聖人様の御真意は一尊四士などの仏像本尊にあるのではなく、

まさしく大聖人様が顕された大曼荼羅こそ、

正像未曾有の観心の御本尊であることは明らかなのです。

【補足】

(一、)首題本尊題目のみを書いたもの

(二、)釈迦一体仏

(三、)大漫荼羅(宗祖日蓮大聖人様が紙幅に御図顕された御本尊様)

(四、)一尊四士(釈迦一体仏と上行菩薩等の四菩薩像)

(五、)二尊四士(釈迦・多宝の二仏像四菩薩像)

※この記事未完成です。続きはいつか。

2017-06-16

無関心になりきれない

どうしようもない妄言誰にも言えないのでここに流す。

  

数年前に別れた元彼が最近結婚した。

  

お互いがほとんど初めての恋人で、高校大学にかけて4年間付き合った。

貯金仕事も車もない学生時代にたくさんの思い出を作ったかけがえのない人だったし、

大学下宿を始めてからはすっかりヒモになって精神的にも経済的にも消耗させられたどうしようもない人だった。

どちらも本当のことで、彼と付き合った事実は「良い思い出」であり「時間お金無駄」だった。

  

彼とは最後の1ヶ月間で急速に(?)連絡がつかなくなり、1度も顔を合わせない日がどんどん増えて、

それでも無理に誘い出して一緒に出かけても露骨につまんなそうで帰りがけに自分趣味の場へ足早に直行され、

前までなら自然に一緒に過ごしていた場面で私のことを避けていると確信した日があり、

別れたいという気持ちを伝える労力すら惜しまれていると悟ったので私から話を切り出したら、

「好きなことをしている時間が長くなって、もうあなたに興味がなくなった」と言われ、別れに至った。

  

私は趣味と同じ秤にかけられて切り捨てられたのか、と悲しくて仕方なかったけど、

引き止めても無駄なことは明白だったので「わかりました」の一言で縁を切った。それきりだった。

  

彼が新しい恋人からプロポーズを受け、入籍を控えていると共通の友人から聞いたときは「なんで?」と思ってしまった。

なんで結婚しようと思えたんだろう?

その恋人のことが心配だった。そいつあなたに対しては一生誠実でいてくれるんですか?いきなり興味を失って離婚を切り出してきませんか?

生活能力皆無だったし、他人の家に入り浸るくせに実家同然の暮らしを求めて憚らなかったけど、一緒に家庭を運営してくれそうなんですか?

たとえば両親の介護必要になったときも、協力して取り組んでくれるんですか?

  

私は幸い、彼と別れてからそう経たないうちに、とても信頼できる相手出会たか結婚したけど、結婚生活は「面白くも素敵でもない時間」との対峙の方が圧倒的に長い。そういう時間を一緒に過ごせるかどうかの方がきっと大切で、「好きなことをしている時間」ばかり優先していたら立ち行かないのだ。

たかだか数年でそんな生活選択できるようになるほど人格が変わるものなのか?

  

無関心になりきれない。

  

だって私は知っているのだ。彼の死ぬほど嫌な部分を。彼にされたことを覚えている。

彼の周囲の人間がどれだけ彼の結婚を祝福し、慕っていようと、私には彼と顔を合わせたら突き刺してやりたい言葉がたくさんある。

彼の妻になる人は今それを知らない。

私にとっての事実過去のもので、彼女がこれから幸せ結婚生活を送れるのならいいけれど、

私の想像どおり彼の根本的な人格が変わっていないのだとしたら、これから知ってしまうことになる。

  

けど私にはもう関係のないことだし、これについて感情を動かす道理だってない。今こうやって言及してるのもすごく嫌だ。

こういう類の感情支配されて実際に相手に連絡を取っちゃったりしてないだけマシだとは思うけど、そもそも考えないようにすればいいのに全然コントロールできていない。

私が彼から見えない場所で「私はお前をクズだと思っている」という事実を取り下げずにいても彼の生活はびくともしないのに、いつまでたっても陰湿攻撃的な気持ちが無くならないし、「私の結婚幸せだがお前の結婚はお前が原因で破綻する、クソ」と無意味に踏みつけ続けている自分がいる。

  

  

から共通の友人を通じて「遅くなったけど結婚おめでとう、僕ももうすぐ結婚します」という伝言があったとき、うっかりその友人に上のようなことをグチグチ言ってしまい、不要に彼の悪口を漏らす形になって最悪だった。

私と彼のどちらかが共通コミュニティを去らないかぎり一生こういう状態が続くのかと思うといやになるし、接点がなくなったとしても彼のことを憎む気持ち自体は当分なくならないんだろうなと思う。

  

この気持ち一言で表すなら「成仏したい」とかそんな感じだ。

  

なんか、ある朝目覚めたら彼の記憶だけきれいさっぱり無くなっていてほしい。

2017-05-19

三一権実諍論(さんいちごんじつ の そうろん)は、平安時代初期の弘仁年(817年)前後から同12年(821年)頃にかけて行われた、法相宗僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄767年 - 822年)との間で行われた仏教宗論である。「一三権実論争」「三乗一乗権実諍論」「法華権実論争」などとも。

目次 [非表示]

1 概要

2 平安初期の仏教

2.1 法相宗と徳一

2.2 天台宗最澄

3 論争の経緯

3.1 論争の発端について

3.2 著作応酬

4 最澄激昂の理由

4.1 最澄孤立

4.2 南都教団への対抗

4.3 中傷者徳一に対する怒り

4.4 蝦夷征討との関係

5 その後

6 注・出典

7 関連項目

8 参考文献

概要[ソース編集]

「三一権実諍論」の「三一」とは、三乗一乗の教えのことであり、「権実」の諍論とは、どちらが「権」(方便真実理解させるための手がかりとなる仮の考え)で、どちらが「実」(真実の考え)であるかを争ったことを言う。一乗三乗の「乗」とは衆生を乗せて仏の悟りに導く乗り物であり、天台宗根本経典である法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く一乗説に立ち、それまでの経典にあった三乗一乗を導くための方便と称した。それに対し法相宗では、小乗声聞乗・縁覚乗)・大乗菩薩乗)の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする三乗説を説く。徳一は法相宗の五性すなわち声聞定性・縁覚定性・菩薩定性・不定性・無性の各別論と結びつけ、『法華経』にただ一乗のみありと説くのは、成仏の可能性のある不定性の二乗を導入するための方便であるとし、定性の二乗仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないのであり、三乗の考えこ真実であると主張した。このように三乗一乗のいずれが真かをめぐり真っ向から対立する意見の衝突が行われた。

ただし、徳一と最澄の論争は三乗一乗の争いのみに留まらず、教判論(数ある経典の中で釈尊の考え方に最も近いものを問う)における法華経正統性を問うたものでもあるから「法華権実論争」と呼ぶべきとの考えもある[1]。この論争の間、最澄は『守護国界章』『法華秀句』など大部の著作執筆しており、これは徳一から批判への反論の書として書かれたものである。一方の徳一側の著書は、真言宗空海774年 - 835年)への論難である真言宗未決文』以外現存していないため、詳細は不明である。しかし、徳一の主張は最澄側の批判書に引用される形で部分的に残存しており、ある程度の復元が可能である

いずれにしろ論争は著作応酬という形式で行われ、実際に両者が顔を合わせて激論を交わしたということではない。

平安初期の仏教界[ソース編集]

奈良時代興隆したのは、法相宗華厳宗律宗などの南都六宗である本来南都六宗教学を論ずる宗派で、飛鳥時代後期から奈良時代にかけて日本に伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。天台宗は後述の如く最澄によって平安時代初期に伝えられたため、日本への伝来順は逆となったわけである

この時代日本における仏教は中国と同様、鎮護国家思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。実際、奈良時代には玄昉(? - 746年)や道鏡(700年 - 772年)など、天皇の側近として政治分野に介入する僧侶も現れていた。桓武天皇737年 - 806年)が平城京から長岡京平安京遷都した背景には、政治への介入著しい南都仏教寺院の影響を避ける目的もあったとされる。新王朝の建設意識していた桓武天皇にとって、新たな鎮護国家宗教として最澄天台宗に注目・支援することで従前の南都仏教牽制する意図もあった。

法相宗と徳一[ソース編集]

日本での法相宗は、南都六宗の一つとして、入唐求法僧により数次にわたって伝えられている。白雉4年(653年)道昭(629年 - 700年)が入唐留学して玄奘三蔵(602年 - 664年)に師事し、帰国飛鳥法興寺でこれを広めた。

徳一は一説には藤原仲麻呂恵美押勝とも。706年 - 764年の子といわれるが疑わしい[2]。はじめ興福寺および東大寺で修円に学び、20歳代の頃に東国へ下った。東国布教に努め、筑波山中禅寺(茨城県つくば市)・会津恵日寺(福島県耶麻郡磐梯町)などを創建したという。

前述のごとく、徳一の著作ほとんど現存していないため、その生涯は不明な点が多い。

天台宗最澄[ソース編集]

天台宗は法華円宗、天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗(538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教の宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部を著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教(仏教理解度の5段階に合わせて記された経典のうち、法華経を到達点とする)の教相判釈(経典成立論)を説く。

最澄ははじめ東大寺で具足戒を受けたが、比叡山に籠もり、12年間山林修業を行った。さらにそれまで日本に招来された大量の仏典を書写し研究する中で、南都六宗の背景にある天台教義の真髄を学ぶ必要を感じ始め、親交のあった和気氏を通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典の招来のための唐へ留学僧の派遣を願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧(短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄は入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃(天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学を学び、円教(天台宗)の菩薩戒を受けて、翌年(806年帰国した。

帰国後、最澄桓武天皇に対し従来の六宗に加え、新たに法華宗を独立した宗派として公認されるよう奏請、天皇没後には年分度者の新しい割当を申請し、南都六宗と並んで天台宗の2名(遮那業・止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷に認められ、天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗のはじまりである最澄さらに同じく入唐した空海師事して、密教への理解を深める一方、六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画を立て、弘仁5年(814年)には九州へ、同8年には東国へ赴くなど精力的に活動する。最澄の悲願は大乗戒壇設立であり、大乗戒を授けた者を天台宗菩薩僧と認め、12年間比叡山に籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真(688年 - 763年)がもたらした小乗戒の戒壇院を独占する南都仏教既得権益との対立を深めていた。

論争の経緯[ソース編集]

論争の発端について[ソース編集]

論争の発端となったのは徳一が著した『仏性抄』であるとされる[3]。この書における一乗批判法華経批判に対して最澄が著したのが『照権実鏡』であり、ここから両者の論争が始まった。

ただし、そもそも徳一が『仏性抄』で論難したのは中央仏教界の最澄ではなく、東国活動していた道忠(生没年不明)とその教団であったとする説がある[4]。道忠は最澄が入唐前の延暦16年以降、あらゆる経典の写経を行った際、東国からはるばる駆けつけて2000巻もの助写をしたほど親交があり、東国における最澄の盟友的存在であった。道忠自身鑑真弟子で、律宗僧侶であったが、戒壇が設けられた下野薬師寺との関連か[5]東国に住し、広く弟子を持つ僧侶であった。最澄東国へ下った際には、すでに道忠は没した後で教団は広智(生没年不明)が率いる状態であったが、後に天台座主となった円澄(771年 - 836年)や円仁794年 - 864年)・安慧(794年 - 868年)らは、もともと道忠の弟子もしくは孫弟子(広智の弟子)であり、道忠との縁から最澄に入門したなど、道忠は初期の天台教団の中で、非常に重要役割果たしていた存在であった[6]。

筑波山を開山し、会津拠点とした徳一が標的としたのは、むしろ地理的東国において布教を行っていた道忠教団であった可能性が高い。徳一の『仏性抄』の存在最澄に知らせたのも道忠教団であったと見られる[7]が、異論もある[8]。

著作応酬[ソース編集]

三一権実諍論に関する著作としては、

≪徳一側著作

『法華肝心』2巻

『法華権文』1巻

『中辺義鏡』20巻

『慧日羽足』3巻

『遮異見章』3巻

『義鏡要略』7巻?

法相了義灯』11巻

『通破四教章』1巻

最澄著作

『照権実鏡』1巻

『依憑天台集』1巻

守護国界章』9巻

『決権実論』1巻

『通六九証破比量文』1巻

『法華秀句』5巻

などが挙げられる[9]。論争の主要な流れとしては、

徳一の『仏性抄』(成立年不詳)に対し、最澄が『照権実鏡』(弘仁8年(817年)成立)で反論

徳一の『中辺義鏡』『慧日羽足』に対し、最澄が『守護国界章』(弘仁9年(818年)成立)で反論

最終的な結論として、最澄が『法華秀句』(弘仁12年(821年)成立)を著す。

となっている。なお諍論の前期において、最澄が『照権実鏡』で徳一の『仏性抄』を批判したのに対し、徳一の『中辺義鏡』では最澄反論に全く答えていない。そのため『中辺義鏡』の批判対象としては、書名のみ残っている最澄の著書『一乗義集』ではないかとする説[10]、もしくは道忠教団によって書かれたと思われる『天台法華義』とでも称すべき書であったとする説がある[11]。続いて『守護国界章』下巻における三一権実論に対する徳一の反論として『遮異見章』『慧日羽足』が書かれたと思われ、それに対して最澄が『決権実論』で反論結論の書として『法華秀句』を撰述したと見られる[12]。

一連の論争の内容は難解で、一乗三乗の権実のみならず、教判論における法華経天台三大部の正当性、天竺・震旦の先哲による教義解釈の是非など広範囲に及ぶ。しかし一方では、最澄の教法に対する価値論に対し徳一は仏法理解先天的素質論を述べており、両者の論争の焦点があまり噛み合っておらず、議論のものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られる(後述)など、すれ違いの印象も与えている。

天台宗側では『法華秀句』の成立をもって論争の終結とする(翌年に最澄は入寂)。論争の歴史を天竺や中国の仏教史まで遡って述べたもので、『法華秀句』の書名は、智顗による天台三大部の『法華文句』を意識したものと思われ、最澄の論争決着への決意が現れている。ただし、これは最澄側の一方的な論争打ち切りであり、徳一側からは決着がついていないとも言える[13]。なお徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗空海に対しても『真言宗未決文』で批判している(なお、これが徳一の著作として現存する唯一の史料である)。

最澄激昂の理由[ソース編集]

下記は、取り立てて、最澄の書き物に怒りは表明されていないが、法相宗派の学者の何人かは、そのようにとらえているようである。その理由をあえて挙げるとすれば、次の事柄をあげられるが、これも、特にここに特記すべきほどのことではない。参考までに、法相宗派側の意見を以下に述べる。 最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を攻撃しており、たとえば『守護国界章』において最澄は、非難の対象である徳一のことを「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車・馬車の轅(ながえ)を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切ない。どちらかといえば秀才肌で生真面目な感のある[14]最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で論争に臨んだ背景として、いくつかの原因が考えられる。

最澄孤立[ソース編集]

最澄は入唐求法から帰国する直前、越州に寄り、密教を龍興寺の順暁(密教の法灯においては傍流に属する。生没年不明)に学び、灌頂を受けている。帰国後も最澄の密教への関心は高く、自身より年少で僧としての地位も低いながら、正統的な密教を学んで帰国した空海師事することになる。

最澄と同じく804年の遣唐使で入唐した空海は、真言八祖の一人恵果(746年 - 806年から正統的な密教を学び、大量の経典・法具を携え、最澄よりやや遅れて大同元年806年)に帰国していた。最澄空海の招来した仏典を借り受けて密教を本格的に学びはじめ、弘仁3年(812年)には弟子の泰範(778年 - ?)らとともに空海高雄山寺において灌頂を受け、正式空海弟子となっている。さらに泰範らを空海の下に派遣して密教の奥義を学ばせようとしていた。

しかし、弘仁4年(813年)最澄が『理趣釈経』(『理趣経』の解釈書)の借用を空海に申し出たところ、空海が密教の真髄は文章修行ではなく実践によってのみ得られるとして拒絶したため、両者の仲は悪化する。さら最愛弟子であった泰範が、最澄の再三の求めにもかかわらず比叡山への帰還を拒み、空海の下での修行を望んだことなどが重なり、両者は義絶するに至った。真言宗側では、これをさかんに吹聴するが、『理趣釈経』は、いわば、後世、淫靡宗教と結びついたものであり、空海がそれを見せたがらなかったのは、故あることであったようである。つまり密輸入書物とも言えるものであり、かえって、見ないほうがよかったのではないかと思われている。

天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、泰範・空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的姿勢に駆り立てられたともいわれる[15]。なお天台宗最澄の死後、本格的に密教化することになる(→台密)。

南都教団への対抗[ソース編集]

最澄が論争相手とした徳一自身は、若年から東国拠点を移して活動していた地方僧であったものの、彼が所属する法相宗自体は、当時の仏教界においては主流である南都六宗の中心であった。後世に天台宗の方が興隆していったため、三一権実諍論全体としては、新興宗派の総帥である最澄が、古い法相宗代表する徳一を退けたという印象が残るが、実際には当時においては法相宗の方が主流派に属していたのであり、最澄はむしろ挑戦者であった[16]。前述のごとく年分度者の割当を勝ち取り、大乗戒壇設立など、天台宗確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗理論である徳一を説き伏せることは、天台宗南都六宗への優位を示すことにも繋がるため、より攻撃的になったと、現代法相宗派の学者は考えている。

中傷者徳一に対する怒り[ソース編集]

徳一の『仏性抄』は最澄にとって看過しがたい法華経批判の書であり、この法敵に猛反論しなければ自宗の存在意義のものが危うくなる。しかしまた徳一にとっても、天台法華宗や密教の擡頭は、彼自身の属する法相宗にとっても、また従前の仏教体制秩序にとっても、異端なのであって、これを徹底的に論破しておく必要があった。徳一は『中辺義鏡』において法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒している[17]。最澄が『守護国界章』で徳一を「麁食者」「北轅者」と呼んだのはこれに呼応するものであり、互いに自宗派の存在意義をかけた真剣な論争であったがゆえに、ともに中傷めいた表現までもが用いられたともいえる。

蝦夷征討との関係[ソース編集]

宮原武夫(1933年-)は最澄と徳一の論争がここまで大きくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったとする説を唱えている。

最澄東国に下った際に活動拠点としていたのは亡き道忠が活動拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野上野両国から陸奥出羽両国に対しては国司から課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた[18]。蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗東国鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた[19]。朝廷から天台宗公認を得たばかりの最澄東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄東国行きに随行した弟子円仁下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる[20]。

これに対して徳一の方は会津地方から越後方面への布教活動を進めており、蝦夷征討への協力や蝦夷がいる会津以北の奥羽への布教を示す史料は残されていない。宮原最澄は『決権実論』の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷<

天台宗(てんだいしゅう)は大乗仏教の宗派のひとつである。諸経の王とされる妙法蓮華経法華経)を根本経典とするため、天台法華宗(てんだいほっけしゅう)とも呼ばれる[1]。天台教学中国に発祥し、入唐した最澄伝教大師)によって平安時代初期(9世紀)に日本に伝えられた。

目次 [非表示]

1 日本天台宗

1.1 天台密教台密

1.2 四宗兼学

1.3 止観行

1.4 所依

1.5 主要寺院寺格

1.5.1 天台宗山門派

1.5.1.1 総本山

1.5.1.2 門跡寺院

1.5.1.3 大本山

1.5.1.4 別格本山

1.5.1.5 その他の寺院

1.5.2 天台寺門宗

1.5.3 天台真盛宗

1.6 その他天台系宗派

1.6.1 天台宗新宗教

1.7 教育機関

1.7.1 大学

1.7.2 天台宗中学校高等学校

1.7.3 養成機関

2 中国天台宗

3 韓国天台宗

4 社会運動

5 脚注・出典

6 関連項目

7 外部リンク

日本天台宗[編集]

正式名称天台法華円宗。法華円宗、天台法華宗、あるいは、単に法華宗などとも称する。但し、最後呼び名日蓮教学法華宗と混乱を招く場合があるために用いないことが多い。

初め、律宗天台宗兼学の僧鑑真和上が来日して天台宗関連の典籍日本に入った。次いで、伝教大師最澄767年-822年)が延暦23年(804年)から翌年(805年)にかけて唐に渡って天台山にのぼり、天台教学を受けた。同年、日本帰国した最澄は天台教学を広め、翌年(806年)1月に天台法華宗として認められたのが日本における天台宗のはじまりである最澄特に飲酒に厳しい態度を取っており、飲酒するものは私の弟子ではなく仏弟子でもないからただちに追放するよう述べている。

この時代、すでに日本には法相宗華厳宗など南都六宗が伝えられていたが、これらは中国では天台宗より新しく成立した宗派であった。最澄日本帰国後、比叡山延暦寺に戻り、後年円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)等多くの僧侶を輩出した。最澄はすべての衆生成仏できるという法華一乗の立場を説き、奈良仏教と論争が起こる。特に法相宗の徳一との三一権実諍論は有名である。また、鑑真和上が招来した小乗戒を授ける戒壇院を独占する奈良仏教に対して、大乗戒壇設立し、大乗戒(円頓戒)を受戒した者を天台宗僧侶と認め、菩薩僧として12年間比叡山に籠山して学問修行を修めるという革新的最澄の構想は、既得権益となっていた奈良仏教と対立を深めた。当時大乗戒は俗人の戒とされ、僧侶の戒律とは考えられておらず(現在でもスリランカ上座部など南方仏教では大乗戒は戒律として認められていないのは当然であるが)、南都の学僧が反論したことは当時朝廷は奈良仏教に飽きており、法相などの旧仏教の束縛を断ち切り、新しい平安の仏教としての新興仏教を求めていたことが底流にあった。論争の末、最澄の没後に大乗戒壇勅許下り名実ともに天台宗が独立した宗派として確立した。清和天皇の貞観8年(866)7月、円仁に「慈覚」、最澄に「伝教」の大師号が贈られた。宗紋は三諦星。

天台密教台密)[編集]

真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教は台密と呼ばれる。

当初、中国天台宗の祖といわれる智顗(天台大師)が、法華経の教義によって仏教全体を体系化した五時八教の教相判釈(略して教判という)を唱えるも、その時代はまだ密教は伝来しておらず、その教判の中には含まれていなかった。したがって中国天台宗は、密教を導入も包含もしていなかった。

しか日本天台宗宗祖最澄伝教大師)が唐に渡った時代になると、当時最新の仏教である中期密教が中国に伝えられていた。最澄は、まだ雑密しかなかった当時の日本では密教が不備であることを憂い、密教を含めた仏教のすべてを体系化しようと考え、順暁から密教の灌頂を受け持ち帰った。しか最澄帰国して一年後に空海弘法大師)が唐から帰国すると、自身が唐で順暁から学んだ密教は傍系のものだと気づき空海に礼を尽くして弟子となり密教を学ぼうとするも、次第に両者の仏教観の違いが顕れ決別した。これにより日本の天台教学における完全な密教の編入はいったんストップした。

はいえ、最澄自身法華経を基盤とした戒律や禅、念仏、そして密教の融合による総合仏教としての教義確立を目指していたのは紛れもない事実で、円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)などの弟子たちは最澄自身意志を引き継ぎ密教を学び直して、最澄の悲願である天台教学を中心にした総合仏教の確立に貢献した。したがって天台密教系譜は、円仁円珍に始まるのではなく、最澄が源流である。また円珍は、空海の「十住心論」を五つの欠点があると指摘し「天台と真言には優劣はない」と反論もしている。

なお真言密教東密)と天台密教台密)の違いは、東密大日如来本尊とする教義を展開しているのに対し、台密あくまで法華一乗の立場を取り、法華経本尊である久遠実成の釈迦如来としていることである

四宗兼学[編集]

また上記の事項から、同じ天台宗といっても、智顗が確立した法華経に依る中国天台宗とは違い、最澄が開いた日本天台宗は、智顗の説を受け継ぎ法華経を中心としつつも、禅や戒、念仏、密教の要素も含み、したがって延暦寺は四宗兼学の道場とも呼ばれている。井沢元彦はわかりやすい比喩として、密教の単科大学であった金剛峯寺に対して、延暦寺は仏教総合大学であったと解説している。

止観行[編集]

天台宗修行法華経の観心に重きをおいた「止観」を重んじる。また、現在日本天台宗修行は朝題目・夕念仏という言葉に集約される。午前中は題目、つまり法華経読誦を中心とした行法(法華懺法という)を行い、午後は阿弥陀仏本尊とする行法(例時作法という)を行う。これは後に発展し、「念仏」という新たな仏教の展開の萌芽となった。また、遮那業として、天台密教台密)などの加持も行い、総合仏教となることによって基盤を固めた。さらに後世には全ての存在仏性が宿るという天台本覚思想確立することになる。長く日本の仏教教育の中心であったため、平安末期から鎌倉時代にかけて融通念仏宗浄土宗浄土真宗臨済宗曹洞宗日蓮宗などの新しい宗旨を唱える学僧を多く輩出することとなる。

所依[編集]

法華経

涅槃経

大品経

大智度論

主要寺院寺格)[編集]

天台宗山門派)[編集]

総本山[編集]

比叡山延暦寺滋賀県大津市

門跡寺院[編集]

滋賀院(大津市

妙法院京都市東山区

魚山三千院京都市左京区

青蓮院京都市東山区

曼殊院京都市左京区

毘沙門堂京都市山科区

大本山[編集]

関山中尊寺岩手県西磐井郡平泉町

日光山輪王寺栃木県日光市

東叡山寛永寺東京都台東区

定額山善光寺大勧進長野県長野市

別格本山[編集]

毛越寺岩手県西磐井郡平泉町

瑞国海岸観音寺宮城県気仙沼市

正覚山蓮前院安楽寺茨城県常総市

星野山中院(埼玉県川越市

狭山山不動寺(埼玉県所沢市

大鱗山雲洞院天龍寺埼玉県飯能市

浮岳山昌楽院深大寺東京都調布市

向山常楽寺長野県上田市

宝積山光前寺(長野県駒ヶ根市

龍谷山水間寺大阪府貝塚市

書写山圓教寺兵庫県姫路市

大山寺鳥取県大山町

山大興善寺(佐賀県基山町

六郷満山両子寺(大分県国東市

その他の寺院[編集]

谷汲観音寺北海道河東郡音更町

青柳山談義堂院龍蔵寺(群馬県前橋市

星野山喜多院(埼玉県川越市

谷汲華厳寺岐阜県揖斐郡揖斐川町

清香寂光院京都市左京区

根本山神峯山寺(大阪府高槻市

三身山太山寺兵庫県神戸市

補陀落山長尾寺香川県さぬき市

清水観世音寺福岡県太宰府市

海山大恩教寺釈迦院(熊本県八代市

阿蘇山西巌殿寺(熊本県阿蘇市) 

王寺熊本県山都町宮司豪族であった中世阿蘇氏の菩提寺である) 

天台寺門宗[編集]

総本山 長等山園城寺三井寺)(滋賀県大津市

天台真盛宗[編集]

総本山 戒光山西教寺(滋賀県大津市

その他天台系宗派[編集]

聖観音宗 

浅草寺東京都台東区

和宗

四天王寺

本山修験宗寺門派系)

聖護院京都市左京区

金峯山修験本宗

金峯山寺奈良県吉野郡吉野町

浄土真宗遣迎院派

遣迎院京都市北区

妙見宗

本瀧寺大阪府豊能郡能勢町

粉河観音宗

粉河寺(和歌山県紀の川市粉河

善峰観音宗

善峰寺京都府京都市西京区

天台宗新宗教[編集]

念法眞教

孝道教団

鞍馬弘教

教育機関[編集]

大学[編集]

大正大学

天台宗中学校高等学校[編集]

比叡山中学校・高等学校

駒込中学校・高等学校

養成機関[編集]

叡山学院

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