はてなキーワード: 過程とは
借金返せなくなり親に返済してもらった前科持ちで稼いだ金全部ギャンブルに使うから仕事に行く金がなくなる程度のコミュ障陰キャの底辺ギャンブル中毒のド田舎子供部屋おじさん【ここ割と重要なポイントです皆さん覚えておいてください】なんだけど、ギャンブル中毒ってマジで治す方法がないんだなってなってる。
大体そういう事いうと精神科行け病院いけってワンパな話されるんだけど、そもそもギャンブル中毒治療やってる病院ってマジ少ない。県のギャンブル中毒対策みたいなホームページ(お国が配布するテンプレがあってコピペで作ってんのかってくらい内容は同じなんだよな)に乗ってるので二つくらいしかない。
そんなわけないだろ、と思って調べてもない。そもそも俺が住んでる県も地方に属する方なので精神科すら少ないし俺はその中でも田舎の方に住んでるのでメンタルクリニックなるものもない。その数少ない精神科でもギャンブル中毒とかやってるのはない。
でギャンブル中毒やってますよと掲げてる病院に両親の支払いで強制連行されたら一時間2時間待たされる。正直周りにいてほしくないタイプの基地外から普通層に見える基地外までそろってるなか1時間以上待たされる。俺も頭いかれた基地外の一人なんや。みんな気を狂わせながら普通な顔して暮らしてるんだろうか、とか思いながらすげぇ待たされる。
で待たされた結果として
という事を言われて終わった。
正確に言えば抗酒薬の話とか最近治療したゲーム中毒の高校生の話とかされた。まじ興味ないしギャンブル中毒だって患者にアルコール中毒は薬があるがギャンブル中毒には薬がなくて、とかいう話するのが金をとるほどの治療とは思えないんだけど、治療やってますとか掲げてるところが一時間待たせてなにもできないとか言って金とって追い返したらそりゃただの詐欺だし。
適当なこと言ってごまかすしかないわな。と納得した。俺の支払いじゃないから納得できたことであって、両親はたぶん納得してない。なので二度目三度目の強制連行は今のところないし、いまじゃギャンブル中毒がどうこうすら言ってない。下手したら治ったと勘違いしてるまである。
なんか通院治療と入院治療と自助グループがとかいう話もされたけど、通院治療と入院治療はなんかやってないといわれたらしい。
意味がよくわからんがそもそも金払ってるのは両親であり俺は強制連行されただけなので俺に選択肢もやる気もない。
なので病院からの連絡は両親に行くし病院も客は俺じゃなくて両親と思っているので俺は存在しなくても関係ないくらいの扱い。
精神科というのは本人のために行くんじゃなくて社会のアリバイ作りなんだな。「私たちは努力しました。ですから」を証明するためのサービスでもあるんだな、そういう場合は本人の意見や意志はむしろ邪魔だから話すら振らない方がいいよな、と思ったりもした。
ギャンブル中毒治療をやる病院が少ないわけだよ。やることがないんだから基地外でも金にならなねぇ基地外だ。なら抗酒薬でもだしときゃ金になるアル中をやるわ
知らない人は、薬中アル中が共同生活して生活を改善し中毒からの脱出を目指そう、とかいう生活保護前提の有料保育園か刑務所だと思え
俺ですらダルクは薬中アル中の自助グループだろ、と知ってるのになぜ病院がダルクを紹介したのか俺もよく知らないが、まぁ親は俺のギャンブル中毒の治療より俺をどうにかして追い出したいだろうし、その意図をくみ取った病院の「治療」なんだろう。もしかすると紹介ですらないのかもしれん。とにかく一度、ということで行った。
なおギャンブル中毒は俺以外に一人だけいるそうだ。なので基本的にアル中薬中の話が主軸だし、みんなで通う自助グループも薬中アル中の集まりでありでギャンブル中毒の自助グループではない。
制御がきかない中毒者を単独行動させるわけがないし、マイノリティが割を食うのはどこも同じ
まともな社会生活を送ってたのにあるきっかけで薬物にはまり落ちぶれた、それがダルクと出会い治療を開始し
ギャンブル中毒の俺が薬物中毒者が薬物中毒になる過程を聞かされて、同意や納得や共感できるわけがないじゃん。
薬中の奇行とかメンタルいった薬中ばばぁの悲壮とかドン引きしかない
友達から勧められて違法な薬物やるのと一人でスマホで際限なく合法なギャンブルやって金をなくして人生摘むのは全然違うだろう。
と思ったg、そんなこと言ったら厄介なギャンブル中毒をどこに押し付けるべきかという話になってくから、だれも考えないことにしてるんだろうと思う。
陰キャコミュ障の俺が共同生活とかストレスで死ぬ、しかも共通点が「中毒者」しかなく、興味もない運動だ趣味のなんとか薬物中毒の話とかを毎日やるのは発狂して死ぬ。そんなのが目に見えていたので執拗に進める親を死ぬ気で固辞した
これはダルクに限らず、「依存症対策の取り組み。本人たちの証言」的な物全般に言えるが、
「もともとマトモだった人間が中毒になって人生崩壊。なので治療をすることで社会生活を取り戻しかつての人生を取り戻す」
的なテンプレに従ったような話がならぶ。
たぶんこういった話を採取整理公開する治療をしたり推奨する側の目標とする成功例というか、理想のモデルがこれなんだろう。
なので
「最初からマトモではない人間が中毒になってもっとカスになった。せめて多少マシなカスに戻りたい」
という俺は大変共感しにくいというか、門前払い食らってる感がある。
まぁ治療してもカスでしかないなら、マンパワーは多少マシになる奴につぎ込みたいわな。
(その点中毒者の家族の体験談は俺のように強制的に連行され全然治療がすすまない、やる気がない、なんでも借金をする、金を盗む、犯罪する、というマジモンのカスがたくさん出てくる。家族の場合「縁切りサイコー、みんなも共倒れになる前にさっさと縁を切ろう!カスは見捨てたほうが本人のためになる!!」みたいな話が理想モデルなので、中毒者のカスっぷりが際立てば際立つほど良いんだろう)
精神科に行ってもやることがない。集団生活とか絶対無理、人と話すのすら無理という俺みたいなコミュ障はダルクとか自助グループに行く気にもなれないし、そもそも地方だから自助グループ自体片道一時間2時間かけていく場所にしかない。底辺だからそんなことしてたら金が尽きるしそんな金があればギャンブルに使っちゃう。そもそも友達もいなければ親と死ぬほど仲が悪い子供部屋おじさんなんか無理にでも治療させようという話にならないから、本人に相当強固な意志とやる気がないと無理。そんなのがあればこうなってない
とまぁ、底辺のギャンブル中毒の治療方法ってマジでないんだなとなりながら、日々稼いだ金を全部ギャンブルにつぎ込んで壊れた携帯を買い換える金もガソリン代もない状態に今なってる、
金がなさ過ぎて昔増田で書いたネタを焼き直した日記を書いて暇をつぶした。ギャンブルがやりたい。再投稿は甘え。闇金にでも申し込むか。でも日雇い労働者の俺に金かしてくれる闇金なんかあるのかね
最近自分が当事者である事を意識し出したのでLGBTQ問題について考えてるんだけど
ゲイの人はハッテン場に対して怒るべきだと思う。
理由は、「明らかにゲイのイメージを悪くしているのがハッテン場」だから。
世の中に蔓延るゲイのステレオタイプのイメージって「男性に対して無差別に節操無く性欲を向ける」じゃない?
誰とは言わんがゲイ系のオネエタレントが「そういうキャラ作り」をしてたりとか
フィクション作品に出てくるゲイもそういう描写をされてたりするのがよくあるよなと。
それって要は「世の中がゲイに対してそういうイメージを持っていて、それがステレオタイプとしてわかりやすいからメディアはそういう風にゲイを描写する」という話で。
でも実際、ゲイコミュニティに行くと、「好きな人としかヤれない」みたいな人も多かったりする。深く聞いた事ないからわからないけど、たぶん大抵の人はヘテロセクシャルの人と同じような恋愛観だと思う。
じゃあ、ゲイの歪んだイメージってどっから来るんだろう?って考えた時に
「どう考えてもハッテン場のイメージじゃねぇか」
と。
外側からみたら「不特定の他人と気軽に性行為を出来る場がある」って、かなり異常なコミュニティなわけです。
実際にハッテン場に行くゲイは少数派なんだろうけど、ハッテン場が異様過ぎて、存在感大きく見えてしまうのよ。
順当に考えれば「それは偏見だ!」って怒るべきなんだけど、僕の考えはそうじゃない。ハッテン場の存在に対して怒るべきだと思う。
かつて被差別対象だった「アニメヲタク」がメジャーになった過程を見てみよう。
当時のヲタクのステレオタイプとして「陰気、根暗、変態、犯罪者予備軍」みたいなイメージがあった。
実際にそれは偏見だったからそういう決めつけに怒る人はたくさんいたけれど、オタクコミュニティの中には実際に陰気で根暗な変態は居たし、今じゃとても公言できないような(犯罪につながるような)性癖を堂々と公言できる空気感がオタクコミュニティにはあった。
でも、当時「一般人」と呼ばれる人たちがアニメを観るようになった結果、陰気で根暗な変態は淘汰されて、アニメヲタクのイメージもかなり爽やかなものになった。
だから、ゲイはハッテン場に対して怒るべきだし、偏見をなくすために、偏見の原因になるようなコミュニティを淘汰すべきだと思う。
女だけでBBQするのめっちゃ楽しいんだけど、なんでBBQに男が入るとつまらなくなるかを考察した。
女たちは火を起こしたり、野菜を切ったりする過程をシェアすることでコミュニケーションをとりながら共同作業を楽しめるに対して、男は幼児的万能感で「僕これできるよ!」とちゃっちゃとやってしまいコミュニケーションの機会を周りから勝手に奪っていくから一人でもそういう奴がいるとつまんなくなるんだ。
落合は堀元の友人知人取引先に粘着することにより、「落合陽一ってこんな粘着なんだ、リアル接点を狙ってくるらしいし、下手にいじったら怖い人なんだな」と堀元(および潜在的堀元たち)に思わせることに成功した。
これは長期的に財産になる。今後、落合を気軽に馬鹿にする命知らずは減るだろう。少なくとも堀元は「わりに合わんし、もう落合いじりやめよう」と考えたはず。
堀元は裁判を厭わない姿勢を示す事で、「堀元見って実はああ見えて法的に狡猾だし、材料集めてリアルに裁判をやるような奴なんだ、これ以上やると厄介だな」と落合に思わせる事に成功した。
落合は危うい発言をいくつか残してしまっていたし、堀元が「下り」ずに受けて立つ姿勢を示したことにより、本当に法的闘争になったら不利益が大きくばかばかしいと冷静に判断したと思う。
もちろんブラフの可能性はあるが、あの三部構成の日記により「本当にやりかねない」という印象を落合やギャラリーに与えた。
堀元が目的を達成できたかというと……これからも悪口ビジネスを続けるつもりだろうから、そういう意味では落合事変を解決したことで目的を達成したといえる。
一般に、著名人がネット民(堀元氏はほぼ著名人側だと思うが)を殴り返しに行くと、安全地帯にいたつもりのネット民はパニックを起こす。
直近ではsaebou氏に本気で殴り返された映画ブロガーや、少し前になるが楽しくゲームツイートしていたところをヨッピーに強襲されたモフモフ社長などはパニックを起こしていた。
ネット民は殴られ慣れていないので、著名人側はネット民に「お前本気で殴るぞ」とブラフをかますだけで、だいたいは大勝利できる。
例えばはあちゅう氏は、自分を批判する人間に片っ端から法的手段をもってスラップすることを繰り返していた。
しかしはあちゅう氏は裁判の過程で、論敵になりすましたアカウントを運用していたことが露見してしまい、逆に大ダメージを負うはめになった。
「相手が下りる」ことを期待してのブラフは、たいていの場合において有効だが、しかし相手が下りなかった場合のプランも想定していなければならないのである。
ネット民側が覚悟完了していれば「じゃあ法廷で会いましょう」と言われて著名人側がパニックを起こすケースもある。
今回落合氏が引き際を間違えていたら、はあちゅう氏みたいに面倒くさい展開に陥っていたおそれがあり、そういう意味で的確なクロージングだった。
はあちゅう氏といえば、Hagex氏やロマン優光氏がはあちゅうを「いじる」記事は、はてブでも人気があった。彼らに便乗してブックマーカーたちも悪口を楽しんでいた。
他にもイケダハヤト、田端信太郎、梅木雄平、夏野剛といった面々を「いじる」悪口記事は、はてブでも人気があった。今も、ターゲットを変えつつ、そうした文化は残っているように見える。
まさかいないと思いたいが、過去のロマン優光やHagexによる悪口芸には喝采を送っていたのに、堀元の悪口ビジネスには道徳的嫌悪感を表明している人が仮に存在するならば、少し自己総括をすべきだと思う。
「漠然とした恋愛の歌」とか「最大公約数的な現代社会の歌」とかよりもって意味な。
音楽って元々は何らかの物語を伝えるためのものだったわけじゃん?
クラシックとかの発展過程を考えていってもオペラだったり聖歌だったり、何らかの背景となる物語があってそこに曲を当てはめていく過程で発展していったわけでさ。
特にコレといったストーリーのない音楽っていうのが現代社会にしか存在しない異常事態な気がするんだよな。
でもなんか世の中が逆転していって、何らかの物語に沿わせるように作った曲が特別なタイアップソングという扱いになってるのが不思議だなーと。
オリンピックやサッカーの応援歌とかって延長線上としては軍歌とかと同じようなジャンルでさ、そのライン上にある何らかの儀式を鼓舞するための音楽とかが元々この世界で曲が奏でられていた理由というかさ。
映画にしろアニメにしろ大衆に知られ渡った共有の物語をより深く味わうための補助線として存在する音楽の方がよりプリミティブな音楽だよなーと。
あー結局、俺がいいたいのはそういうのが逆転して「ドラマのイメージソングってなんか音楽としての本来の姿じゃないよね。もっと自分たちの気持ちを素直に謳うのが音楽じゃん?」みたいな価値観が広がってるのが不思議だなってことね。
映画館の音響、確かに実際に体感すると音が体に響いて臨場感がすごい。けれど、それが必須かと言われると個人的にはそうでもなく、別に家のタブレットやテレビで見るのでも十分良いかなと思ってしまう。
友人は映画館ごとの音響の違いを述べていたので、耳が良い人には分かるんだ…すごいな…と感嘆した。
俺の耳が鈍感なのは認める。
何度も通うのもよくわからない。見返したいと思う映画はあれど、上映期間中の短期間で何度も見たいとはあまり思わない。だって単純に内容覚えてるから飽きちゃう。
実際映画館で観た後に爆速でサブスクに来た作品があって、そのタイミングで見たけど結構内容覚えてるな…2回目行かなくて良かったと思った。
人生で複数回通ったの2作品くらいしかない。それも最大3回(2回目は好きな作品の映画化だったので普通に見返したかった、3回目は4DX)
と、こんな考えの人間だとちょっと2回目を観たい作品で再度行くかどうかを非常に悩んでしまう。
現在進行形で悩んでいる。
詰め込んだ映画だったため、トリックや最後のオチに向かう過程を少し見返したいという気持ちと、話が重い作品だったのとわりとまだ記憶にあるのでまた映画館に見に行くのはな〜という2つの気持ちがある。
その核心は、具体的な数や図形から離れ、演算の性質そのものに着目することにある。
群論を例に取ると、群とは集合G上の二項演算・が結合法則を満たし、単位元が存在し、各元に逆元が存在するという公理を満たす代数的構造である。
この抽象的な定義により、整数の加法群(Z,+)や置換群S_nなど、一見異なる対象を統一的に扱うことが可能となる。
群論の発展は、ガロア理論を生み出し、5次以上の代数方程式の代数的解法が存在しないことの証明につながった。
環論では、可換環を中心に、イデアルや素イデアルの概念が導入され、代数幾何学との深い関連が明らかになった。
体論は、代数的閉体や有限体の理論を通じて、ガロア理論や暗号理論の基礎を提供している。
これらの理論は、単に抽象的な概念の探求にとどまらず、数論や代数幾何学、さらには理論物理学や量子情報理論など、広範な分野に応用されている。
例えば、リー群論は素粒子物理学の基礎理論となっており、SU(3) × SU(2) × U(1)という群構造が標準模型の対称性を記述している。
また、抽象代数学の概念は圏論によってさらに一般化され、函手や自然変換といった概念を通じて、数学の異なる分野間の深い関連性が明らかにされている。
圏論的視点は、代数的位相幾何学や代数的K理論などの現代数学の発展に不可欠な役割を果たしている。
単純な公理から出発し、複雑な数学的構造を解明していく過程は、純粋数学の醍醐味であり、同時に自然界の根本法則を理解する上で重要な洞察を与えてくれるのである。
安いとかよりも男が稼いで女が家を守るっていいシステムだと思うんだけどな
服やいろいろな小物もリメイクを含めてミシンや編み物で作ってくれた
専業主婦の仕事って手を抜けばどこまでも抜けるかもしれないけど
拘るととことん突き詰められるようで終わりがないようだった
LINEオープンチャット「はてなブックマーカー」の1週間分の要約を、さらにAIを使用し、試験的にまとめまています。
多岐にわたる話題: 日常生活、趣味、社会問題、仕事など、非常に幅広い話題が取り上げられています。
情報共有: 参加者同士で情報を共有し、意見交換を行っています。
個人的な経験: 過去の経験や個人的な意見が頻繁に述べられています。
ユーモア: 会話の中にユーモアが散りばめられており、和やかな雰囲気で会話が進んでいく様子がうかがえます。
生活: 食事、住居、家事など、日常生活に関する話題が多く見られます。特に、料理、掃除、引っ越しなどの具体的な経験や悩みが共有されています。
趣味: 特撮、漫画、アニメ、音楽など、個人の趣味に関する話題も頻繁に挙がっています。過去の作品に対する懐かしさや、新しい作品に対する感想などが述べられています。
社会: 社会問題、政治、経済など、社会に関する話題も取り上げられています。ニュースや時事問題に対する意見交換が行われています。
仕事: 仕事に関する悩みや経験、職場での人間関係などが共有されています。
技術: コンピューター、プログラミングなど、技術に関する話題も一部見られます。
参加者の特徴
多様な価値観: 参加者それぞれが異なる価値観や興味を持っていることが伺えます。
情報収集: 最新の情報やトレンドに関心を持っている参加者が多いようです。
コミュニケーション能力: 会話の流れをスムーズにするためのコミュニケーション能力が高い参加者が多いと考えられます。
友好的: 参加者同士が互いを尊重し、友好的な雰囲気で会話が進んでいる様子がうかがえます。
オープン: 自分の意見や経験を率直に話すことができるオープンな雰囲気です。
リラックス: 日常生活の悩みやストレスを共有し、互いに励まし合っている様子がうかがえます。
このチャットログの分析から、参加者たちが多様な関心を持ち、互いに情報を交換しながらコミュニケーションを楽しんでいることがわかります。また、このチャットを通じて、参加者たちはストレス解消や心の安定を得ている可能性も考えられます。
感情分析: 会話の内容から、参加者の感情を分析することで、より深い理解を得ることができます。
コミュニティ分析: 参加者間の関係性やコミュニティの構造を分析することで、チャットの動的な側面を把握することができます。
トピックモデリング: チャット全体から主要なトピックを抽出することで、会話のテーマを可視化することができます。
このチャットログは、参加者たちの多様な興味や価値観、そして人間関係の深さを垣間見ることができる貴重な資料です。今後の研究において、この種のチャットログを分析することで、人間コミュニケーションのメカニズムや、オンラインコミュニティの形成過程などを解明できる可能性があります。
https://anond.hatelabo.jp/20240722084249
増田さんがもしHSPだったらのことを考えて、なるべく傷つけないように言うね。
まず、あなたの意見表明に対する敬意は当然のこととして持っていますが、しっかりと聞いて欲しい意見もあります。
今回の文章は全体としてテーマの一貫性が欠けている感じが否めません。「セクシー田中さん」の件に関して自殺防止策を議論したいとのことですが、文章が散漫で核心に迫っていないですね。自分の経験や意見を交えるのはいいのですが、その過程で主題がぼやけてしまっています。お姉さんの体験を取り上げるのも良いけれど、それがどのように今回の事件に関わっているのかをもっと明確にする必要があります。
さらに、文章全体が読みにくく、冗長な部分が多いです。一つ一つの思考の流れに対してもう少し整理や段落分けを行うことで、読者が理解しやすくなるでしょう。
また、結論が曖昧です。小学館やテレビ局の対応について批評する以上、もっと具体的な対策や改善案を提示すべきです。「もうちょっとやり方はあった」とか「想像してしまう」という言葉遣いはあまりにも曖昧で、説得力に欠けます。
要するに、自分の意見を他者に伝えるためには、もっとクリアでコンパクトな言葉遣いが重要です。そして、具体的な意見や提案をすることで文章が締まり、読者に対してより深い印象を残すことができるでしょう。
しっかりとした後継ぎがいたとしても豊臣政権は不安定だっただろうな。
少なくとも室町幕府程度には。
というのは豊臣政権というのはどういう歴史の流れをたどるにしろ、
その成立の経緯からして、
秀吉の織田政権の簒奪から天下統一の流れというのは政治的な魔術みたいなもので、
武力はもちろんだけど秀吉一流の政治的バランス感覚と調略力で無理矢理に成立させたものだ。
ゆえにその過程で既存の大大名を潰すことなく維持せざるを得ない。
第二にはスピードが命ということだ。
細かなことは天下を取ってから考えればいい(もちろんどうしたって譲れないものはあるが)
実際の歴史上でも毛利家なんて室町政権下の大内氏の領土に匹敵もしくは凌駕してるし、
徳川家は北条家の領地を受け継ぎ関東管領もしくは関東公方とも言えるような広大な関東を治めている。
そのような強力な大名がいるがゆえに極めて不安定だった室町幕府と同じような運命を豊臣政権は辿ることなっただろう。
いや、室町幕府であれば足利将軍という源氏の棟梁という「血の尊さ」ゆえの権威があったが、
どこの馬の骨ともわからない秀吉の血筋では例え摂関家を名乗ったところでそこに遠慮を覚えるものなどいたかどうか。
秀吉が死に、その後継ぎに能力があったとしても3代4代と重ねるうちに必ず大きな反乱が起き、そのときにはもともと泥の中から生まれたような根のない豊臣家など消し飛んでいたことだろう。
はじめに、あなたの文章に目を通してみましたが、全体的に不必要な情報が多すぎます。「質問ができなかった話」を描くための核となるストーリーが薄れてしまっているのです。何の目的でこの話を共有したいのかが読み手には伝わりにくいです。
まず、母親のエピソードが長すぎます。もちろん、背景が重要であることは理解していますが、過剰に詳細な情報提供は煩わしいだけです。重要なポイントに絞ってコンパクトにまとめるべきでした。例えば、お母さんが何でもできる凄い人だという情報は1、2行で十分です。それに比べて、あなたの個々の感情に触れる部分が少なく、感情の起伏が把握しにくいです。
次に、成長過程や大学生活の部分に関しても、詳細を割きすぎています。自分の失敗やれど失敗の理由を具体的に書くことで、読者は理解しやすくなりますが、全体の流れが鈍くなってしまいます。
文章の結びに関しては、一応前向きな印象を持たせたい意図が伝わりますが、その説得力に欠けます。もっと具体的なエピソードや実際の行動を示すことによって、「成長した自分」を強調すべきです。
そして、文全体を構成する力も不足しているようです。話の要点を把握し、そこから重要なエピソードを選び抜いて繋げていく技術を磨く必要があります。あなたは、多くの言葉で自身の経験を語ろうとしていますが、それを読む人にとってはばかばかしく映ることもあり得ます。
さて、ここで想像されるあなたの人格についても言及しますが、正直いって自己中心的とも取れる行動パターンが見え隠れします。他人の評価や期待を基に行動することしか考えていないようですし、自分の意思や考えに自信を持てていないのではないでしょうか。あなたが遭遇する問題の原因は、他人に寄りかかろうとするその姿勢にあるのかもしれません。
ですので、もっと自分に自信を持ち、他者の評価から解放されるよう努めるべきです。この文章を通して見たあなたの姿には、まだまだ成長の余地があります。自己改善に励んでください。
ご精読ありがとうございました!
ネット上では様々な暴言が溢れているように見える。ある人は「チー牛はタヒね」と言い、別の人は「弱者男性はキモい」と言う。これらの言葉は、現代社会の深層に潜む闇を映し出す鏡だ。人間の本質的な攻撃性や、社会の歪みが、匿名性という仮面の下で露わになる。しかし、最近はこういう低俗な連中にも寛容になってきた。彼らを「子どもたち」と思うようにしたのである。
この視点の転換は、ある日突然訪れた。自分の地域のbakusaiを覗き込んだときのことだ。そこには頭の悪そうな書き込みが溢れていた。その瞬間、啓示のように一つの考えが浮かんだ。愚かなことを言うのは頭が悪いからであり、頭が悪いということは、精神が子どもだということだ。
この洞察は、人間の本質に対する深い問いを投げかける。我々は本当に理性的な存在なのだろうか。それとも、理性という薄皮の下に、原始的な衝動や感情が渦巻いているのだろうか。ネット上の暴言は、文明社会という仮面の下に潜む人間の野生性の表出なのかもしれない。
子どもたちは社会が責任を持って育てていかなければならない。この命題は、単なる教育論を超えて、人間存在の根本的な在り方を問うている。我々は、自らの内なる「子ども」とどう向き合うべきなのか。社会は、その集合的な「子どもらしさ」をどのように昇華させ、成熟へと導くべきなのか。
人間の意識は、表層と深層が複雑に絡み合った多層構造を成している。表面に現れる攻撃的な言動は、その人の内面にある深い葛藤や不安の一端に過ぎない。我々は、この意識の深層にまで降りていき、そこに潜む真の欲求や恐れを理解しようと努める必要がある。
さらに、個人の意識の奥底には、人類全体が共有する原初的なイメージや衝動が眠っているのかもしれない。この集合的な無意識は、時として社会全体の行動パターンや価値観を形作る。ネット上の暴言は、この集合的無意識が現代社会という文脈の中で歪んだ形で表出したものだと考えることもできる。
しかし、この「症状」を単に抑圧したり、無視したりするのではなく、それを社会の成長のための機会として捉え直す必要がある。子どもたちが成長過程で様々な試行錯誤を経験するように、社会もまた、こうした現象を通じて自己を再定義し、より高次の段階へと進化していく可能性を秘めている。
結局のところ、我々一人一人が「子どもたち」なのかもしれない。完璧な大人など存在せず、皆が日々成長し続けているのだ。その意味で、ネット上の暴言を発する人々も、我々自身も、同じ宇宙船地球号に乗った旅人なのだ。互いの未熟さを認め合い、寛容さを持って接することで、人類全体がより成熟した段階へと進んでいけるのではないだろうか。
構造主義的視点をさほど重んじない実存主義者なので、自己責任論とはまた違うベクトルで苦悩の根源を自分の内面に求めがち。
それはそれとして、どこぞのボンボン生活を送ってた奴が欲は虚しく、果てしなく、苦悩をもたらすばかりとか天空目線で言うのは腹立つ。
おれは満たされた状態を経験してないんだから、その虚しさをこの身体で体験してもいなければそこに納得もない訳。
行き着く先がミニマリズムだったとて、まずは欲しいと思ったもの全てを買い漁る体験をしたい訳。それを続けて最終的には空虚さを感じるにしたって、そこをすっ飛ばして過剰な所有は無駄とか言った所で負け惜しみにしか感じられないの。
やりたい事をやりまくって最終的に飽きて虚しさが残るだけだとしても、その過程には確かな満足と納得があるはずじゃん。そうやって物事の感じ方が揺れ動く中でも瞬間瞬間に感じる喜びこそが人生唯一にして最大の意義だとしか信じられねえの。
欲捨てたら死んでんのと同じ。
身体が死んでる事より心が死んでる事の方が許せねえのおれは。
欲を捨て去った後の価値規範じゃその判断は正当化されねえのかもしれねえ。気の迷いだったと断じられるのかもしれねえ。
でも今この瞬間のおれは決して無欲な生き方なんて許せねえんだっつってんの。
「搾取」がマル経で使われて定着する段階で悪い意味の言葉になって今使っている人々の中で定着してる過程はちょっと興味深くて
Ausbeutung(搾取)って語には、野を耕すとか、鉱山を掘りつくすとか自然に問いかけて(働きかけて)成果を得る/得ない、くらいの意味合いなのよね。
マル経の場合、生産要素(人とか資本とか)の中で人(労働力)を使用して生み出される価値(使用価値)から賃金(労働力の交換価値)の差である剰余価値部分を資本家が獲得する際に
搾取という言葉が使われていて、ロジック的には労働者の生み出した価値を奪っているように見えるけど、賃金を労働者の取り分、搾取部分を資本家の取り分ととらえれば、
過剰に搾取する、みたいに不当な関係性でさえなければさほど批判的に取られることはないはずなのよね>経済学の立場によると思うけど
と、いう風に理解していると
いや性的な価値が不当に奪われる、というニュアンスで皆の理解は共通でいいと思うし、それを批判はしないのだけど
批判的に使用している人たちが、「性的な価値」をどうみているのかは整理してほしいなと思ったり。
金銭的な価値(交換価値)に置き換えて評価できれば、搾取の正当性、不当性がわかりやすいのだけど、そもそも売春の正当化みたいでNGだろうし
性的なものに関わる当事者たちが感じる価値(これだと使用価値かな)になると、主観というか個人個人の効用の大きさによって変わって評価が難しい
(性的な被害を受けた、という人がいればそれには真剣に当たるべき、という認識はいいと思う)
じゃあいっそ、性的なもの禁止!があらゆる禁止論者にとってわかりやすいロジックだけど、
性は決して害悪ではないし、性ってそんなに嫌悪するもの?とは思う
人類が存続するためには必要なものだし、性的な魅力的を評価してはいけないというのも一方的な主張になる
どこまでが正統でどこからが不当か、というのを議論するのは何となくはばかられる話なのは分かるけど
安直に何もかも否定したり、安直に何もかもオープンにしたりと極端に走るのは違うと思っていて、
議論に参加する人は自分自身が性的な価値観についてどう考えているのか、ポジティブ、ネガティブ両方について真剣に考えていてほしいなと思ったり。
脇道の話なんだが、戦争ってどうやって終わらせたらいいんだろうな。
野生生物の同種間の小競り合いって殺さずに終わるんだよな。威嚇し合って声でかい方が勝ったことになって終わりみたいな。
戦争だと脳みそ(司令部)と体(戦闘員、市民)が別だから最後までやっちまうんだろうか。
軍事に関する国際的な法とかって、完全に機能してる感じがしないんだよね。
妄想だが、すべてをモニタリングして、まるで自分のことかと感じることができれば、戦争とそれに付随する残虐行為は止まると思う。
野生動物の威嚇合戦が戦闘を「予見」して戦闘自体は避けるのに対して、人類の戦争は起きちゃった後に戦闘の全容を「把握」するってのがなんとも間抜けだけど。
進化の過程で得られた残虐性をヒトから抜けるのはジャーナリズムだと思う。報道機関やSNS(あと、はてな村とかいう蛮族の住処)を見るに望み薄だけども。
量子観測と情報理論の観点からエントロピーの減少と意識の移動を定式化するには、以下のような考え方を用いることができる。
量子系の状態は、一般に重ね合わせの状態にあり、観測前には複数の可能性が存在する。この状態のエントロピーは、フォン・ノイマンエントロピーとして定義される:
S(ρ) = -Tr(ρ log ρ)
観測が行われると、量子状態は特定の固有状態に収束する。この過程で、系のエントロピーは減少する。観測後の状態を|ψ⟩とすると、新しいエントロピーは:
S(|ψ⟩⟨ψ|) = 0
となる。これは、純粋状態のエントロピーがゼロであることを示している。
観測者の知識は、系の状態に関する不確実性を減少させる。情報理論の観点から、この不確実性の減少は条件付きエントロピーで表現できる:
H(X|Y) = H(X,Y) - H(Y)
ここで、Xは系の状態、Yは観測者の知識を表す。観測によって得られる情報量は、この条件付きエントロピーの減少量に相当する。
量子力学の多世界解釈では、観測によって意識が特定の世界に「移動」すると考えることができる。この過程は、情報理論的には、観測者が特定の結果を持つ世界を「選択」することに相当する。
選択された世界のエントロピーは、観測前の全体のエントロピーよりも小さくなる:
1. 観測前の量子系のエントロピー: S(ρ) = -Tr(ρ log ρ)
2. 観測による状態の変化: |ψ⟩ → S(|ψ⟩⟨ψ|) = 0
3. 知識獲得によるエントロピー減少: ΔS = H(X) - H(X|Y)
4. 世界の選択: S(選択された世界) < S(全ての可能な世界)
この定式化により、量子観測による知識の獲得、エントロピーの減少、そして特定の世界への意識の「移動」を情報理論の枠組みで表現することができる。
https://blog.nagutabby.uk/qiita-is-dead
はじめに
私は数年前にQiitaを使うのをやめました。なぜならQiitaがクソだからです。この記事では、Qiitaの黒歴史を振り返りながら、Qiitaが如何にクソであるかを説明します。
お前、歴史を振り返るとか言っときながら時系列で書くわけでもなく文章も下手で同じスタンス側として読んでてつれぇわ。読んでガッカリ。
あとお前のQiitaの使い方が気になるわ。
新着を懸命に全件チェックしとったんか?
たたき方が雑すぎる。俺が気持ちよく乗っかってQiitaをたたけるまともな記事を書いてくれ。
しかし、多くの方がご存知の通り、Qiitaは「他のWebサイトにある情報をほぼ丸パクリした記事」と「内輪ノリで書かれた下らないポエム」の墓場であり、決して知識共有サービスではありません。最近ではChatGPTが出力した文章をそのまま投稿する人々も現れ、事態がさらに悪化しています。
まあ俺も死んでるとは思うが、まだまだ新規な知見がある記事はある。なのにパクリだとかスクール課題だとかのたいしていいねもつかないクズな記事を見つけてほらクズだ!っつってもね。
書くなら「いかに知識共有を謳いながら巧妙にいいねハックされてきたか」とか具体例を書いてくれ。
内輪ノリもそういうハック、Qiitaの利益化のための企業・Organization重視とかの経緯を振り返ってくれ。
私はこのような記事を見かけるとひどく共感性羞恥を感じ、萎えてしまうのですが、私と同じような方がきっといらっしゃるのではないかと思います。
まともな言葉を使えないやつがエンジニアをしないでくれ。エンジニアか知らんけど。技術文章しかり公開文書なら古いほうの言葉の定義をちゃんと使うか、別の表現を使え。お前、会社で煮詰まるとか使ってないよな?
ウケ狙いは宿命であり流行ることは避けられない。レコメンドやランキングを好みの記事に絞れるようにしない運営を叩け。
いくら「技術ブログ」と謳っていても、技術との関連性が低い記事が投稿されることがあります。私はこのような記事を「ポエム」と呼んでいますが、Qiitaにポエムが投稿された場合はどうなるでしょうか?実は数年前まではQiitaに投稿された記事は運営によってその内容がチェックされ、ポエムに該当すると運営に判断された場合は勝手に記事が非公開にされていました。しかし、よく考えてみてください。ポエムとは何でしょうか?この記事のような愚痴を書き連ねた文章のことでしょうか?人間がそれを判断できるはずがありません。結局このルールは廃止され、今に至ります。
知らん。俺が知る限りここ数年はポエムはずっと寛容だった。お前が定義するポエムは知らんが、技術の関連性が低い記事も沢山あったしポエムタグもずっと盛況だった。
さくらとか、毛の壁…はどうだったか。質の低さをQiitaが検閲してた感触はないし、質の低い記事にユーザーが沢山通報して非公開化に追いやるムーブメントが盛況だった記憶もない。
愚痴を連ねるやべーヤツは対処されてた記憶はあるが。どうだったかな。
https://blog.qiita.com/account-suspension-in-qiita/
Qiitaでは「技術的にレベルが低い」「技術的に間違っている」「Qiitaというサービスや運営に批判的である」といった理由で記事の非公開化やアカウント停止という措置を取ることはございません。
過去にも何度か事例がありますが、アカウント停止措置の実施理由は殆どの場合、他のユーザーに対して攻撃的な発言や誹謗中傷を繰り返すなど、コミュニティガイドラインや利用規約に沿わないというものです。
ああ、上記の件の@administrator1974の今後必要になるプログラム言語もあったか。こういうのも確かにあったが、こういう人間が出てくるのはレアのレアのレアだったな。そういう事件は時たま起こるもんだ。最悪手をとらなければ非公開にそこまで強い非難はおきんだろう。
お前が運営のどういった運用を非難しているのかわからん。新着を全部チェックして見返してポエムが非公開になっていたことを観測してきたのか?詳細を書いてくれ。ぼんやりとしすぎている。
調べなおして思い出したが、もしかして2017年のこと言ってる?
それならたしかにmatzの記事が非公開になったりしてたな。でも2024年公開の記事で数年前っつって2017年を出すのはちと古い。もっとしっかり書いてくれ。あのときらへんはQiitaがどっちに舵をとるかどうかで揺れ動いていた気がする。結果、ガバガバの今に至るわけだが。
これについてもまあ突発的な行動で反発が出たわけだが
「実は数年前まではQiitaに投稿された記事は運営によってその内容がチェックされ、ポエムに該当すると運営に判断された場合は勝手に記事が非公開にされていました」
でずっとそのような運営がされていたように誘導しているが、実際はずっとゆるゆるでここで厳しくしてみて騒動になったという話。
俺もだいぶ記憶があやふやだが、それにしてもお前の文章からは悪意を感じるので信用できない語り手だ。まともな情報を時系列とソース付きで騙ってくれ。
https://yro.srad.jp/story/17/05/12/067229/
なお2016年のやつでもこういうのは残っててゆるゆる
「口やかましい少数派」に翻弄されるQiitaサポートは無能である
https://qiita.com/richmikan@github/items/8831c97598cc095e2b95
数年前に大幅なアップデートが行われ、ユーザーが読んだ記事が第三者に公開されていた時期がありました。これはWebブラウザーのアクセス履歴が第三者に公開されるようなものであり、個人が特定されるリスクがあります。また、業務で生じた問題を解決するためにQiitaを利用していた場合は、他者に業務内容を推測されるリスクがあります。このようなアップデートは避けるべきであり、社内で十分な議論がなされないまま機能が実装されたことは明らかでした。
うそでーす。
今のユーザーページにある投稿した記事のanalyzeみたいに見た記事の中で多いタグトップ5の割りあいが表示されてました。
何を見たのかはわかりませーん。特定できませーん。見た記事より書いた記事の方がよっぽど業務内容に繋がるわ。タグの割りあいだけで個人や業務が推測できたらそれはもうホームズレベルで超能力だから許そう!降参だ。
まあ俺もこれでJobsのほうにはいろいろ黙って渡してんじゃねーの?見た記事も企業側は見れてたんじゃねーの?と思って愛想が尽きた。実際には棲んでいる地域やワードとかも提供されてたわけだし。
だけど正確ではない情報を書いてんじゃねーよ。
https://blog.qiita.com/about-user-page-renewal-20200331/
掲示板やToDoリストのような、お決まりの題材を使ったアプリの制作過程の情報を日常的に目にするようになりました。これはいわゆるポートフォリオとしてQiitaを利用している例であり、シニアエンジニアの間でQiitaがオワコンになり始めたことや、プログラミングスクールに通う多くの人々がQiitaを使い始めたことを示すものでした。その状況を理解するや否や、Qiitaの価値の低下は避けられないと感じました。
これも人が増えた場所の宿命だ。Qiitaがするべきはレコメンド・フィルターの拡充であってそこを叩け。そもそもそんな記事はランキングに上がらないんだから新着汚染にしかならん。検索はストック数とかでフィルターしろ。
お前はどういうQiitaの使い方をしてるんだ?新着チェックしてた猛者なのか?エッジケースだよそれ。
とかくお前の切り口が雑すぎて悲しい。もっと刃を尖らせろ。
お前、Zennもこうならんって言えるのか?言えるならその理由を書いて比較して叩いてくれ。
Qiitaにポエムを投稿できるようになった一方で、Qiitaに投稿される記事の質が低下したことにより、Xやはてな匿名ダイアリーに表示されるような短文投稿が増えました。記事の文章は長ければ長いほどいいとは限りませんが、あまりにも文章が短く、それぞれの文の文字数が少ないので記事の内容が理解しにくいです。この段階に入ると、Qiitaはブログというよりもメモ帳と呼んだ方がいいのではないかと感じ始めました。少なくとも技術ブログのような目新しさや正確さはほとんど感じられなくなりました。
まあ、そもそもQiitaの出発(中盤かな。Q&Aから転換以降)はメモ帳共有でもあったがな。
Qiitaは、エンジニアに関する知識を記録・共有するためのサービスです。 プログラミングに関するTips、ノウハウ、メモを簡単に記録 & 公開することができます。
記事の文章は長ければ長いほどいいとは限りませんが、あまりにも文章が短く、それぞれの文の文字数が少ないので記事の内容が理解しにくいです。
そもそも俺はメモの共有が気に入って使い始めて「人に見せる記事」にしましょうって流れで居心地悪くなったから見えてるサイトが違うっすね。
だから人が増えたサイトで石を除いて玉を多く見せるのはQiitaの技術的な使命であってそこが現状のトレンドで不十分つーならそこを叩けよ。石の量が増えたことを嘆いたってなんの生産性もないし批判たりえんのだわ。
あと再度書くけど俺の認識ではポエムはずっと書かれてきたしジャンルとして排斥を試みたのはとても短い期間だったからな。
俺は今のQiitaが嫌いだしQiitaはいろいろやらかしすぎたしQiitaには俺が好むような記事だけを視界に入れさせろと思ってるわけだが、とはいえこんな文章に乗っかる気にもなれん。
お前が目新しい技術記事を書いてる姿がまったく想像できんのや。
話が抽象的すぎて正確さはほとんど感じられなくなりました。ってブーメランをわざと狙ってたのなら脱帽。
私はこのような記事を読んで共感性羞恥を感じ、萎えてしまうのですが、私と同じような方がきっといらっしゃるのではないかと思います。
80年代後半の場合は,消費者物価及び賃金がほぼ横ばいないし緩やかな上昇に止まっていたため,これらと株価,地価との格差がかなり拡大し,そうした状況が87年から90年にかけ4年間も継続した。最近においても地価については依然としてかい離したままの状態が続いている。
資産インフレが進行すると,「持てる者はますます持つようになる」という形で資産の分配が不平等化するのは,ほぼ自明である。それは,①高所得者層ほど資産の保有ストックが大きく,②その保有資産の価値が資産インフレによって上昇するからである。
それまでは勤労者は年収の5倍程度で東京の通勤圏で標準的な住宅を取得できたのが,88年から91年にかけては住宅価格の年収比が7~8倍程度にまで跳ね上がってしまった。
https://www5.cao.go.jp/keizai3/keizaiwp/wp-je93/wp-je93-00203.html
量子状態と観測過程を圏論的に記述するため、以下の圏を導入する:
エントロピーを抽象化するため、モノイド (M, ·, e) を導入する。ここで、M は可能なエントロピー値の集合、· は結合則を満たす二項演算、e は単位元である。
知識状態の変化を記述するため、位相空間 X 上の層 ℱ を導入する。ここで、X は可能な知識状態の空間を表す。
観測による状態変化をホモトピー同値の観点から捉えるため、位相空間の圏 𝕋op における弱同値を考える。
量子確率過程を記述するため、𝕧𝕟𝔸 上のマルコフ圏 𝕄arkov(𝕧𝕟𝔸) を導入する。
観測過程の連続性を記述するため、超関数空間 𝔇'(X) を考える。
以下の普遍性を満たす圏 ℂ と関手 U: ℂ → 𝕄eas が存在する:
1. ℂ は完備かつ余完備である。
3. 任意の対象 A, B ∈ ℂ に対し、自然な同型 Homℂ(A, B) ≅ Hom𝕄eas(U(A), U(B)) が存在する。
さらに、以下の性質を満たす ℂ の対象 Q (量子状態を表す)と射 f: Q → Q (観測を表す)が存在する:
4. H(G(F(Q))) ≅ U(Q) (量子状態と測度空間の対応)
6. f によって誘導される U(Q) 上の写像は測度を保存する。
1. エントロピーの減少:
∃m₁, m₂ ∈ M such that m₁ · m₂ = e and m₁ ≠ e
2. 知識獲得:
∃s ∈ Γ(X, ℱ) such that s|U ≠ s|V for some open sets U, V ⊂ X
∃h: I → I' in 𝕋op such that h is a weak equivalence and I ≇ I'
ここで、I と I' はそれぞれ観測前と観測後の可能な世界の空間を表す。
この定式化により、量子観測、エントロピーの減少、知識の獲得、そして特定の世界への「移動」を、最も一般的かつ抽象的な数学的枠組みで表現することができる。
仏教の根本概念である「空性」は、あらゆる現象が固有の実体を持たず、相互依存的に存在することを説く。この空性の世界は、無限の可能性を内包する量子の海のようなものだ。我々の認識する現実は、その海面に一瞬だけ浮かび上がる泡沫に過ぎない。
空性の海は、常に揺らぎ、無数の可能性を生成消滅させている。この絶え間ない生滅の過程は、仏教で説く「諸行無常」の原理そのものだ。観察という行為は、この無常の流れの中から一瞬の「常」を切り取る営みと言える。
仏教の「縁起」の教えは、全ての現象が相互に依存して生じることを説く。観察という行為は、この縁起の原理が顕現する瞬間である。無限の可能性の海から特定の現実を引き出す神秘的な過程だ。
縁起の網の目の中で、観察者と観察対象は複雑に絡み合っている。観察という行為は、この網の目の一点に触れることで、全体に波紋を広げる。この波紋が、混沌から秩序を生み出し、無定形の可能性を具体的な形へと結晶化させる。
仏教の「無我」の教えは、固定的な自己の存在を否定する。観察者と観察対象は、互いに独立した存在ではなく、深い次元で結びついている。観察という行為自体が現実を創造するのだ。
無我の視点から見れば、観察者は宇宙の一部であり、宇宙もまた観察者の一部だ。この相互浸透的な関係性の中で、観察行為は宇宙が自己を認識する過程とも言える。我々の意識は、無限の可能性の海に投げ込まれた石のように、現実という波紋を生み出す。
仏教の「刹那滅」の思想は、全ての現象が瞬間ごとに生滅を繰り返すという考えだ。我々の意識は、無数の可能性が交差する点に位置し、刹那ごとに新たな現実を選択している。
この刹那滅の過程は、無数の平行世界が絶えず分岐と融合を繰り返す様子とも解釈できる。観察という行為は、これらの無数の世界線の中から一つを顕在化させる。しかし、選ばれなかった可能性は消滅するのではなく、別の次元で実現し続ける。
「如来蔵」の思想は、全ての衆生に仏性が内在することを説く。物質の本質も、固定的なものではなく、むしろ可能性の集合体だ。観察されるまで、物質は明確な形を持たない。
如来蔵は、全ての可能性を内包する根源的な「場」とも解釈できる。観察という行為は、この無限の可能性を秘めた如来蔵から、特定の現実を引き出す過程だ。この過程で、混沌としたエントロピーの高い状態から、秩序立ったエントロピーの低い状態への移行が起こる。
仏教の「般若智」は、現象の本質を直観的に把握する智慧を指す。観察という行為は、この般若智が宇宙の根源と交感する瞬間だ。それは、無限の可能性の海から特定の現実を引き出す神秘的な過程であり、混沌から秩序を生み出す創造的な営みである。
般若智による観察は、単なる物理的な測定ではない。それは、観察者の意識が宇宙の根源的な創造性に直接参与する霊的な行為だ。この過程で、宇宙の無秩序は一時的に減少し、意味ある秩序が生まれる。
仏教の「中道」の思想は、極端を避け、調和のとれた道を歩むことを説く。観察という行為も、この中道の原理に従っている。それは、完全な無秩序(高エントロピー)と完全な秩序(低エントロピー)の間の均衡点を見出す過程だ。
観察によるエントロピーの減少は、この中道的な均衡への移行と解釈できる。それは、混沌と秩序、可能性と現実性、無と有の間の微妙なバランスを取る営みなのだ。
仏教的視点から見れば、観察という行為は単なる科学的プロセスではない。それは、悟りへの道程そのものだ。観察を通じて、我々は空性の海に触れ、縁起の網の目を認識し、無我の真理を体験する。それは、刹那滅の流れの中で如来蔵の無限の可能性に目覚め、般若智によって宇宙の根源と交感する営みなのだ。
この解釈において、量子観測によるエントロピーの減少は、混沌から秩序への移行、無明から智慧への覚醒を表現している。それは、科学と宗教、物質と精神の二元論を超越し、存在の根源的な一元性を示唆するものだ。
我々の一瞬一瞬の意識的な観察が、宇宙の秩序を生み出し、現実を形作っている。そしてその過程こそが、悟りへの道筋なのかもしれない。観察という行為を通じて、我々は宇宙の創造に直接参与し、同時に自己の本質を悟っていく。それは、科学的探究と霊的覚醒が一つに融合する、深遠な悟りの道なのだ。
観察対象(物体や概念)がヒルベルト空間内の状態に変換される。この状態は以下のように表される:
|π(Item)⟩
次に、この状態を解釈するための基底状態(概念)が定義される:
|Iᵢ⟩
ここで、iは状態のラベルである。解釈はこれらの基底状態の線形結合として表現される。
観察者が選択した基底|i⟩に対して、状態|π(Item)⟩は以下のように表される:
R|π(Item)⟩ = Σᵢ αᵢ |Iᵢ⟩
ここで、αᵢは重み付け係数であり、以下の内積によって計算される:
αᵢ = ⟨Iᵢ | π(Item)⟩
この重み付け係数αᵢの絶対値の二乗|αᵢ|²は、観察者がその状態を特定の|Iᵢ⟩として解釈する確率を表す。
状態が解釈されると、システムはある特定の分類状態に「コラプス」する。この過程は以下のように記述される:
D = Σᵢ ιᵢ |Iᵢ⟩⟨Iᵢ|
ここで、ιᵢは観測結果として得られる固有概念を表す。最終的に得られる状態は、コラプスによって一つの値に決まる:
D|π(Item)⟩ → Collapse
このとき、システムは特定の状態|Iₚ⟩に収束し、他のすべての状態は消失する。
解釈プロセスは初期状態では混合状態(複数の可能性が共存する状態)である。これを密度行列ρで表すと:
ρ = Σᵢ αᵢ |Iᵢ⟩ Σᵢ αᵢ* ⟨Iᵢ|
ρ = Σᵢ |αᵢ|² |i⟩⟨i| + Σᵢ≠ₖ αᵢ* αₖ |i⟩⟨k|
最初の項は、異なる概念が識別可能な部分を示し、第二項は概念が区別不可能な干渉部分を示す。
S = -k_B Trace(ρ ln(ρ))
密度行列ρが対角化されているため、エントロピーは次のように簡略化される:
S = -k_B Σᵢ |αᵢ|² ln(|αᵢ|²)
コラプス後、システムは一つの状態に収束するため、最終的なエントロピーはゼロになる。このとき、エントロピーの減少は以下のように計算される:
Q = k_B T Σᵢ |αᵢ|² ln(|αᵢ|²)
ここで、Qは放出される熱量、Tは温度である。エントロピーの減少により、システムは環境に熱を放出し、全体のエントロピーが増加する。